寛政八年五月四日、伊勢古市の油屋で、山田の医師、孫福斎と言ふ者が、九人斬りをしたと言ふ騒動があつたと伝へられる。これを近松徳叟が三日間で脚色し、同年七月二十五日、大阪の角の芝居にかけたものだと言ふ。所が古市側の記録では、騒動のあつたと言ふ同じ日を初日として、古市の芝居にこれがかゝつてゐる。いかに手廻しがよくても、夜の出来事を其昼に予め舞台にかけると言ふ事はあり得ないから、これはどちらかゞ間違ひであらう。事実譚と言ふものは、想像が多く這入つてゐるもので、事件に即き過ぎた説明が、事実の外廓を廻つて附いてゐるものが多い。此騒動にしても、作物と事実とが一致し過ぎてゐる点が、却てどこまで信じてよいか、訣らなくしてゐる。徳叟が三日で脚色したと言ふのは、別に珍しい事でもないが、五月から七月まで、二月の余も経つてゐるのに、特別にそんな事を言ひ出したのも、狐につまゝれた様な話である。
江戸に此芝居を持つて来たのは、三代目坂東彦三郎だと伝へてゐるが、此後、彦三郎(四代)の方と、菊五郎(三代)の方とで、練りに練り上げ、特に五代目菊五郎に到つて、四度まで出して、貢の演出法が定型に達してゐる。今の菊五郎は油屋だけでは、少しひけ目を感じる所があつたらしく、当然出す筈のものを長く出さなかつた。其だけ、今度の面白さが期待せられる。
此芝居は、相の山のお杉・お玉の場にしても、二見浦の日の出にしても、油屋の伊勢音頭にしても、とりわけ伊勢参宮の楽しい聯想が伴つて、其点道中遊山ずきの江戸びとの好奇心を唆つた訣である。
其上主人公の貢と言ふ役は、江戸の所謂「ぴんとこな」||語原は訣らぬ。
此騒動のもでるになつたと言はれる事件は少し変つてゐて、相手の遊女は斬らず、外の者ばかりを斬つた。つまり恋の遺恨の殺人ではないので、其点が面白い。其上此脚本は、もでるを生かし過ぎる程生かしてゐて、医師を土地柄
此脚本の特徴は、ある種の探偵小説風に、解決の要点を初めに出してゐる。事の輪廓を早く知らしてしまつて、それから次第に掘り下げて行つてゐる。其点が大分、変つてゐる。青江下坂の刀がしつこい程、出たり這入つたりして、更にそれに鑑定書の折紙が交互に紛失したり発見せられたりし、此二品が貢の手に集つた時に、呪はれた刀の為に、貢が人を斬つてしまふ、と言ふ様に深入りして行く。九人斬りの事実の方は、そのまゝでは芝居にならないので、ありふれた遊女の愛想づかしを中心にしたまでゞある。
たゞ、徳島岩次と藍玉屋喜多六とが、入れ替つてゐると言ふ、とりつくがあるが、これは少しも生きて使はれてない。町人と侍と入れ替へた考へは面白いが、発展しないでしまつてゐる。恐らく今度なども、見てゐて訣る演出ではないだらう。
正直正太夫は、いやな奴だが、し様によつては、いくらでも大きく演じられる。又代々の優人がさうして来た。此を菊五郎がするのには、大いに期待が持てる。或は貢よりもよいかも知れないが、それは決して菊五郎にとつて、恥ではない。思ふに今此役を満足に演ずることの出来る人は、この人だけであらう。
正太夫を除いては立敵のゐない芝居で、其代り万野と言ふ女が、立敵の様な地位に来る。愛想づかしの場は、此万野のゆき方一つで、面白くもなり、つまらなくもなる。
まう一人、お紺の朋輩のお鹿が、変つた性格に書けてゐる。若い頃、大阪の尾上卯三郎のするのを見て驚いた。しみ/″\とお鹿の悲哀を感じさせたものである。演劇は、一人だけいゝ性格を発見しても、其儘演じては、芝居全体が壊れてしまふ。作者自身も自信がなかつたと見えて、お紺の手紙で、万野と共謀したものとして、ありふれた芝居常識に堕した役にした。