文楽の人形が来て、今年はとりわけ、大評判をとつた事は、私どもの肩身をひろげてくれた様な気がする。私どもより、もつと小さな時分から、もつと度々見た人で、今東京に住んでゐる方々も多い事であらう。さう言ふ向きに対しては、気のひけることだが、何だか書いて見たい気がおさへられない。さうしただんまりの満足者の代表人として、ほんの私らが言ふ事も、喜んで貰へさうに思ふ。私さへさうである。二十五年来、鴈治郎が来、曾我廼家が来、曾呂利や、枝雀が来して、次第々々に大阪風の芸事が、東京の人々に認められて来た都度、受け/\して来た印象を、新しく蘇らせる事が出来る。其ほど正直な喜びを重ねて来て、やつと上方のいき方すべてに対する自信を得たのであつた。
四の替りには、太功記もかゝつた。妙心寺などでも、「口」から出つかひしてゐるのには驚いた。人形つかひを認めさせる為には、よい事に違ひない。が、何だか独り寂しい気がした。人は、よくまああゝした人たちの動きが、人形の邪魔にならぬ事だとほめた。私には、うるさく/\為様がなかつたのに。旅興行だからよいとして、此が大阪でも本式になつたら困ると思うた。
稲荷の「
私の家は、一里の余もあつた。坐摩の前を走り、順慶町へ折れて、新町橋の詰を真南へ西横堀の続くだけ馳けた。某の邸を対岸に見て、深里のすていしよん前から難波に這入つて、其からまだ東へ十町あまりも行かねばならなかつた。私の父は末に生れた私のゆく末を思うて、馳り使ひに馴れさせる様に、下女や雇ひ人の代りに逐ひ使うた。十に足らぬ頃から、一里に近い路を新町橋まで、茶を買ひにやられた。卅年前の金だから、使ひ賃は二銭位であつた。其後、五銭まで貰うた事を覚えてゐる。数へ年十三の春、中学へ入学する前には、もう茶屋から北へ十町行つて、御霊の文楽の人形を見ることを知つてゐた。
遊芸事の嫌ひであつた父は、茶買ひにやるほまちが、まさかさうした役に立つてゐたとは思はなかつた。併し其がある時、近所の人に見つけられてから、出来なくなつた。
この間に、芝居だけは、父には内証で母たちがやつてくれてゐた。············
でも、其芝居にも離れねばならぬ時が来た。稲丸が東京へ帰つて、稲升は、中村玉七の預り弟子として暫らく居る中に、三河屋の荒二郎について横浜へ行つて了うた為であつた。此が中学二三年の頃である。其前から私は、大阪俄を見る様になつてゐた。
当時まだ、大阪には、大芝居・浜芝居・乞食芝居と三通りの区別があつた。阪東簑助が、千日前に新しく建つた小屋へ呼ばれて来たこともあつて璃


