真夏の天地は、昼も夜も、まことに澄みきつた寂しさである。日の光りの照り極まつた真昼の街衢に、電信柱のおとす影。どうかすると、月の夜を思はせる静けさの極みである。夜は又夜で、白昼の如く澄みきつた道の上のわづかな陰が、道をしへでも飛び立ちさうな錯覚を誘ふ気を起させる。世の中が昔のまゝだつたら、都会も田舎も今はかう言ふしみ/″\した寂しさの感じられる夏の最中である。かう言ふ季節の、身に沁みた印象が、はなやかな舞台を廻り道具にして夏の芝居にひそかな、どうかすれば幽暗な世界を出現させようとするものなんだらうか||。夏の歌舞妓の舞台出入りの単純にして、ものゝさびしさ。かうした心の奥に待ち迎へるものがあつて、単純にして爽快に、幽暗であつて寂寥な夏狂言を呼び起したのだ、と言ふのだつたら、必しもその心理的根拠は、否むわけにはいかない。だが、これに限らず、さうした心の底の印象だけでは、人事は動いては居なかつた。
其に今一つ、もつと素朴にものを訣つてゐる人たちがある。「鯉つかみ」のやうな水芸に近い狂言、「山帰り」のやうな身軽な季節の所作事の一団があるのだから、「四谷怪談」だの「累物語」だの「小幡小平次」「皿屋敷」だの、「笠森おせん」なり、新しい所では「敷島譚」なり「乳房榎」なり「牡丹燈籠」なり、皆身軽で、経費が尠くて、水のふんだんに使はれる場面もあるのだもの。何もかも脱ぎ棄てたいと言ふ苦しい気持ちを救ふ為に、怪談物が行はれるのも不思議はない。五月興行から盆狂言へと飛ぶ、小屋のあそんでゐる間に、廉価の芝居を打つたのが起りだと言ふのである。聞いて見れば別に、其をかれこれ言ふ程の問題でもない。だが其は結果であつて、夏芝居に怪談物の出る理由にはならないやうだ。
怪談物の題材としては、小幡小平次や累などは、江戸狂言に古くからとり上げられて来たものだが、今あるその流れの作物に皆順送りに書き直した同類の物の遥か末の作品である。一々年表にとつても見ないから、あなた方の無条件賛成を得るほど、明快なことは言へないが||、夏芝居が怪談物をとりあげる様になつたのは、そんなに近代に初りがある訣ではなさゝうだ。まして松緑松助や梅寿菊五郎あたりの近代の役者に、その初めを求めるのは、間違ひというてもよいやうである。
歌舞妓の標準語||芝居通言に、地狂言と言はれる種類のものがあり、また農山海、それ/″\の地方でも、其土地根生ひの演劇と言ふ誇りを籠めて言ふ語として使はれてゐた。其ほど何処へ行つても、あちこちの僻地の村々に演劇団を抱擁してゐるのが尠くはなかつた。その中には相応、腕利きの素人或は半くろうとの役者もゐたものだつた。時としては||今はそんな心ひくやうな噂もきかなくなつたが、||東京・京阪の芝居では、全然見られない狂言の珍しい演出法を伝へて居た。ゆくりない旅の一日、さう言ふ芝居を見て、何といふことなく、胸のふくれあがる心持ちなどを経験したものである。言ふまでもなく、農閑期の行事である。農休み・刈り上げの後などの芝居興行は、田舎普通のことになつてゐた。ところが余程古風の残つてゐる処では、盂蘭盆にも行つたものである。場処によつては、盆芝居こそほんたうの地狂言の行はれる時期でないか知らと言ふ気のするほど、其地々々の人情や、季節の風情に適うた地狂言を催す地方があつたものである。
其狂言の舞台は、大凡、以前庚申堂や観音堂又は十王堂などであつた建て物を使ふことになつてゐたことが、益深くさうした心持ちを起させたのである。その外に、恰好な建て物がなかつたからだなどゝ言ふだけの理由ではなく、現になければないで、稲田や畑の中にだつて、小屋掛けをしてゐるものは幾らでもあつたので、何も殊更狭くて陰惨な感じの伴ひ易い辻堂などを使はずともよいと思はれる。藪入りの慰安や慶祝の為に村芝居が行はれはじめたと思ふのが抑、話の違ひで、段々くり返してゐる中に、さうした目的が考へ出されるやうにもなつて来たのだが、ほんたうの原因は、も一つ前にあつたのである。
歌舞妓踊りと言はれたものゝ固定して、歌舞妓狂言が出来たその筋道は、今でも出雲のお国が伝へた其故郷の念仏踊りから出たと信じられてゐるから、其を話のひつかゝりとして話して行つて見よう。実はもつと複雑に他の「舞太夫」なども関係してゐるのだが、さう言ふ径路の上に、実は歌舞妓の初期は、もつと/\複雑であつた。第一念仏踊りなどより種姓正しく、歴史の古い幸若の「舞太夫」などが多く関係してゐた。佐渡島・出来島・幾島などいふ女太夫が其である。
村々の念仏宗旨の門徒たちが、之を発起して催したことに、後は次第になつて行つたやうだが、以前は多くは半ば職業に、半ば宗旨布教の為の念仏聖の団体が、盂蘭盆前後に頼まれてあるき、又頼まれることを予期して、檀那場になつてゐる村々を廻つたものである。又頼まれなくとも、彼らの宗旨の面から、沢山の横死者などの成仏せぬ多くの魂の集つて居る場所||戦国近い世で言へば、敵身方大勢人死にのあつたつはものどもの夢のあとなどは、彼等が見過されぬ所であつた。
おかへりあるか。名古屋さま。送り申さうよ。木幡まで。木幡山路に行きくれて、二人伏見のくさ枕。八千夜添ふとも、名古屋さま。なごりをしきは限なし。
とうたひ、踊りをさめる。盂蘭盆の踊り狂言らしい、この世あの世へ別れ/\になつて行く、送り盆のあはれを見せてゐる。お国の愛人と伝へられた名古屋山三郎が、流行期の歌舞妓踊りの中に、迎へ盆の聖霊のやうに出て来る訣はないのだから、作州津山で朋輩の為に殺されたと言ふ山三は、昔の人であつたに違ひない。其がまざ/\舞台の上に謡ひつ踊りつするものだから、当時の目撃者も、錯覚や誤解を重ねて、其を更に後代の人々に語りつぎ、書きつぎしたものだから、山三郎の実在が信じられ、お国に早歌を教へたの、舞台へも出たことがあるのと言ふことになつて伝つたのである。現に「歌舞妓草子」で見ても、高砂屋梅玉蔵書であつた分には、お国の男装と同じいでたちの山三が、おなじ舞台に出て居て、何か不思議な感じを唆らうとしてゐる。此などは舞台における幻想を描いたものと見るべきであつた。
恐らく、此名古屋氏なる歌舞妓衆||当時の用語例で言へば、近代的無頼漢と言ふほどの義||が横死して、その近辺なる中国山間地方の田や人畜に祟るものと思ひあたる様なことがあつたのであらう。流行性の害虫や疫病は一つ原因から出るものと昔の人は見る癖があつた。蒲生氏郷の寵童が成長して名古屋山三郎になり、お国歌舞妓団の一員であつたとまで伝説は伸びて居たが、どの伝へを見ても焦点がぼやけて居る。やはり山陰山陽にかけて、ある時期さう言ふ浪人に託して伝へた疫癘の恐怖が行はれてゐたのではないか。其が、お国の持ち廻つた念仏踊りのれぱあとりいの中に入りこんだものと見える。その山三を褒めそやして、たやすく怨念退散をはかつて居たのだと言ふことが出来よう。あまりに名高い歌舞妓踊り狂言なるからに、事情を呑みこまぬ都や鄙の見物衆には、歌舞妓優人の曾ての情人であり、又一度はおなじ舞台に立つた人のやうに考へられるであらう。さうした名古屋が、念仏踊りの行く先々の村里の祖先聖霊とは、何の関係もないことは言ふまでもない。だが村里の祖霊が、名古屋山三である訣もなし、又昔の英雄雅人でもないのに、其等が皆一括げに名も実も異なる他の高名な亡霊として、物々しい筋や、所作に演ぜられる主人公であると無理往生見たやうな風に、おしつけられたのである。元々言はれて見れば、無名の亡霊にとつては、浮名まうけであるが迷惑といふほどでもない。第一、一々の村里の昔の聖霊の持つ特殊な経歴と言ふこともある筈はなし、そこで名高い昔の亡者の閲歴を村聖霊におしかぶせて、村の亡者自身が、さうして見れば、おれは昔の英雄雅人であつたかといふ気に捲き込まれると言つた方法が、わが国の古い宗教にはあつたのである。田舎に後世まで残つた芸能が、元々その土地根生ひのものでなく、諸国巡游する人々の播いて廻つた種だとすれば、さうした筋道を通つて、土地々々の村聖霊と即かず離れずの気持ちで、名は他国の昔びと、実は村里の祖先亡霊への回向が、そのまゝ障りなく受け入れられたのである。死者も成仏するし、村々の孝子孝孫もさう思つて安心したものである。
津山で死んだ山三の霊が、中国の村々の聖霊に通用し、更に都までおし出して来た訣である。さすがに都まで来るともう其きゝめはなくなり、さう言ふ念仏聖の団体の来ぬ世になつて、村びと自身が、祖先代々葬り送つて来た村の墓山から村への行列を練り、新盆の家に立ち入つて、庭ぼめ・家ぼめ・厩ぼめなどの祝言を述べる。又村に由緒ある仏堂に練り込んで、「行道」や「新盆の家」などではせなかつた仏事や芸能までもそこで演じた。其が閻魔大王を中心に三途川の脱衣婆までも祀つた十王堂や、六道能化の地蔵堂などだと、妥当感が最深かつたのである。さう言ふ事の為に、籠り堂として立てられたのがあり、又あるに任せて、観音堂・庚申堂・薬師堂その他を利用した処もあつたであらう。
その堂での念仏は、念仏狂言と言ふべきものが中心に演じられたものと見てよい。聖霊たちの過去の生活や、今冥途で受けてゐる苦患の様などを演じたとすれば、其が発達して、芸能となり芸術となつた頃には、どう言ふ筋立てを持つて来るか凡想像はつく。
こんな念仏狂言のまだ成立しきらぬ古い時代では、能楽に「修羅物」と言つた一類があり、亡霊の前生と、今の修羅道の苦しみとを前後のしてが役として演じることになつて居た。かう言ふ精神が、念仏をとほして出て来たのが、念仏狂言だつたのである。
ちぎれ/\の雲見れば、ゆうべ寝ぬ身のとけしなや。雨もつ空の泣きたくば、こゝに来て寝よ。ともなはむ。もとの雫となる人に、一粒そへてやる涙、残らずとゞけ三瀬川。この世からさへ流れの身······
河東節「水調子」のうたひ出しの文句である。古い小唄や、短歌をとり入れて、一見美しう見える文句であるが、筋のとほらぬもので、こゝらはまだ訣る方である。吉原仲の町の盂蘭盆にかけ列ねた玉菊燈籠に絡んだ歌であつた。末の露・本の雫と言ふやうにはかなく消えた人の為に、皆の衆の涙を一粒づゝ添へて手向けに送つてやる。其が亡き人のゐる三途の川の冥途まで残りなくとゞいてくれ。思へば、死んだ人も、この世の我々も同じく遊女で、生きる現世からして既に流れの身の上である。||まあかう言ふ意味らしいが、先ほど段々訣らなくなる。享保十一年三月死んだ玉菊の為に、三回忌に当る享保十三年七月披露したものと伝へて、古板の正本も残つて居る。新吉原角町中万字屋抱への玉菊の死を悼んで、盆燈籠を仲の町の茶屋に懸け列ねた。其が玉菊燈籠と言はれて廓の年中行事になつて居た。だが、中万字屋では、この水調子を弾くと玉菊の亡霊が姿を顕すと言ひ伝へてゐた。伝へははかなくなまめかしいものであるが、果してさう言ふ幸福な傾城だつたかと思はれるふしが、玉菊にはある。水調子を弾くことを避ける風など、玉菊の死に暗い翳のあることが察せられる。如何に全盛でも、傾城が二十五歳になつて、まだ勤めて居り、更に酒で仆れたと言ふのも、此遊女の生活を寂しがらせる。名高い「竹婦人」の作つたと伝へる詞章も、意味のとほらぬ所から思へば、享保十三年のは、十寸見蘭洲等の改調であらう。実はも一つ古い文句があつたのではないか。吉原挙つて燈籠を吊つたと言ふのは、唯事ではない。非業の死を遂げた傾城の怨念を弔ふ為だと思ふ方が正しいのではないか。吉原や太夫に絡んだ伝へは、色町を黄金世界のやうに渇仰した人の夢ばかりが語られてゐるので、多く正面からは受けとれないものだ。
水調子から意味の通じる所を拾つて見ると、逆事の手向けをする父親の歎き、なじみの人を無理にせいた悋気妻のあつたこと、其から最後の文句は後世までも鑑として残る。「鏡の裏の梛の葉として残る。」かう言ふ風にうけとれる。竹柏は熊野山の名木で、熊野行者や熊野比丘尼などの持つて歩いたものである。どうも、さう言ふところから見れば、歌比丘尼の謡うた歌念仏などから出たものではないか。何にしても、此も盆の行事に関聯してゐるのである。盆前から行はれるのに虫送りと言ふ行事がある。其には、送られる虫の代表者と言はうか、虫と人間の仲介者と言はうか、人間生活に障りする者をひき括め、之が跳梁跋扈を圧へて、悪あがきをさせぬ者があると考へてゐた。これさへ人間の身方にひき込んでおけば安心が出来るのである。其為には非運に死んで霊気盛んで、どうかすれば此世に祟らうと言ふ感情の強い亡者があるものとしてゐた。其をかたらうてさへおけば、群小の悪霊はびり/\動きもさせないでくれるものと信じた。地方によつて死に際の一念の長く禍するものとして恐れられた人が、なか/\多かつたものだ。古くはさのみ世を怨んだと思はれぬ斎藤実盛が、やはり其であつた。近代に名高いのは、佐倉宗五郎であるが、此は芝居にとりあげられるまでには、大分時を経た。世に語り伝へられ、変化し誇張せられた期間が長かつた。宗五郎と裏表を行く程似た伝へで、極めて遅く書かれたのが、宇和島騒動の
曾我狂言は、毎年春の二の替り興行から、之を出し物にしてゐるが、五月まで段々増減して来て、こゝで一段落のついたものである。
だが、曾我は語られはじめてからあまり長くたつてゐる。盆の念仏狂言と起りを一つにして居るにしても、簡単に同位において説いては、時代錯誤になり易い。
真夏に芝居が興行せられるとすれば、やはり農村的な何かの意義が含まれてゐるはずである。都会と言つても、近代のやうに全然田舎の生活からきり放されたものではなかつた昔である。作物の害虫に縁のある怨霊の事は、やはり念仏関係の詞章や演劇類似のものに多く伝へられたのであつた。さすれば、どうしても、夏の舞台は陰惨や残虐な気味あひを多く持つて来るに違ひない。其が更にひき続いた初秋の盆狂言||聖霊にかゝりあつた||といふことになると、どうしても幽霊や怨霊、妖怪変化を題材にとるやうになつて行くのは当然である。
一体近代では夏芝居から盆興行に持ち越すことが多く、夏の盛りと盂蘭盆とはひき続いてゐるのだから、誰しも其ほど気分は変らない。盆狂言に怪談物の多い理由は明らかだが、其が元々夏芝居にもあつたことの理由なのである。
それと今一つ、つけ加へて置かねばならぬのは、人形芝居の
誰もが知つた手近い例は、「夏祭浪花鑑」である。歌舞妓に流用せられて夏狂言の重いものになつてゐるが、言ふまでもなく人形芝居の為に書きおろされた浄瑠璃である。「道具屋の場」から、「三婦内」「長町裏」「団七内」と、人形が夏装束の帷子を著て出る。而も長町裏の殺し場では、本泥・本水で人形を濡す。吉田文三郎が考案したと伝へる所である。今も芝居の団七の茶の弁慶縞、徳兵衛の藍の碁盤縞は、此人が著せはじめたものである。手足のぎごちない人形に帷子を著せたところに、人形遣ひの自信があつたのである。其等の事を何でもなく実現する事の出来る人間の役者が、之を舞台にうつして、又喝采を得たのも妙な関係である。「住吉鳥居前」「三婦内の場」「長町裏」と出るのが普通になつた。此頃は「田島町団七内の場」も稀にしか見られない。「内本町道具屋の場」に至つては、少年の頃道頓堀で見たばかりである。
「······侍が、ずはと引き抜き切りかくる。······顔見れば、我が舅三河屋義平次······舅も俄かに力みを止め······水浅黄の帷子を汗に浸して尻ごみす。······」
この家の主人孫右衛門は、骨董の大あきうどである。田舎侍にばけて入りこんだ舅の手口をあばいた出入りの肴屋団七のはたらきで、一安堵した後は夜に入る。「おれは今日の紛乱で、きつう気がのぼつたやら。戸棚の鍵の置き所をとんと忘れた。······宵から此が気にかゝつて、むしやくしやと寝られなんだに||、お中(娘の名)も寝冷えせぬやう、よく著て寝よ。」
江戸狂言と違つて、わりに季節感に乏しい大阪戯曲に此程はつきり、其が出て来るのは珍しい。次の五つ目は、娘お中と手代清七||玉島磯之丞の変名||との道行である。悪手代伝八はじめ、出入りの人たちが、迷子探しに出る。「どう因果な娘にかゝつて、土用の中に馳け歩き、からだは斑枝花。かううち揃うて歩いても、祭りの俄狂言と違ひ、所望がなうて寂しいな······」
此場は、私も見た記憶がない。「祭りの俄狂言」は、宵宮本祭りの間は「流し俄」と言ふのが氏子の町内を練り歩く。「所望々々」と声をかけると、軒先へ這入つて来て出来るだけ短い口上茶番に似たものを演じて通る。だから、大勢連れで道を行つても誰も相手にしないのを、時節がら俄狂言にかけてかこつた訣である。六つ目三婦の家は高津祭りの宵宮の日である。「女房は料理ごしらへ。火鉢にかけし焼き物をあふぐ」とあるが、鯵の塩焼きにきまつてゐた。大阪の夏祭りは鯵を焼き物に据ゑたからである。ところへ、炎天の町通りを歩いて来る二十六七の「ところ目馴れぬ傘のうち」と日傘をさして来る女房、備中玉島から夫を迎へに上つた一寸徳兵衛の妻である。今では江戸風に、透綾に白地の後帯などして、ちよつと親類廻りと謂つた風をして来るのが普通になつた。若い頃上方でさん/″\苦労をして来た先代沢村源之助などは典型的なお辰を見せた。せりふも正確だつたし、第一めりはりがよかつた。湯呑茶碗をのせた盆をとつて、顔をうつしてのきまりなど、思ひ出しても、「目の正月」をさせてくれたことに感謝せずに居られない。今は大阪役者でも、お辰をする者がなくなつた。居つてもやはり、江戸風で出て来ることだらう。浅黄の綿帽子をつけ、桔梗の帷子に前帯に黒繻子をしめると言ふ、いきでかうとで、ひき緊つた姿である。「浄瑠璃譜」に「ほかを著れば、おたつのやうに見えぬも不思議」とあるやうに、団七同様、此も初演の人形をつかうた吉田文三郎の工夫なのであつた。如何にも、旅の女の夏姿の凛々しさが、文三郎の幻影をとほして、長く歌舞妓舞台に残つたのであつた。延享二年竹本座の盆興行に、浪花鑑は初めて
今は、豊満に過ぎた延若の肉体も衰へたであらう。彼ほどかうした上方の市井無頼の徒を表現するのに、適当なすべての素質の備つた役者は、こゝ五十年の間に見ることが出来なかつた。彼を惜しむ。彼が、若し歌舞妓の舞台から影を没するやうな時が来たら、もう永遠に完全な宿無団七は見られなくなるのである。現実の九郎兵衛が現れたとしても、われ/\が見る実川延若の団七九郎兵衛の完成した一つの人間性に驚くだらう。
おなじ帷子を著てする芝居、やはり上方出来のもので言へば「
夏芝居の出し物に、再演以来季節の関係を忘れたことも、右のやうに随分あるらしい。極新しい処に例をとつて見れば、清元の「身替りお俊」(延若・左団次・松蔦等)や「かさね|




夏芝居の中でも夏の物らしい気のする「四谷怪談」は、正に文政八年の盆興行の為の書き卸しであつた。其を人形芝居にうつしたのも、天保二年の七月である。だが脚本を見ても、別に夏と言ふところに狙ひをする気で居るとも見えない。
唯、初演以来の約束は民谷伊右衛門浪宅・お岩産室の場は、蚊帳を吊ることになつてゐる。前場には質屋の番頭が来て持つて帰らうとする。後場になつて、外から戻つた伊右衛門が質ぐさの為に之をはづして持つて行く段どりになる。
お岩 これ。伊右衛門殿。その蚊帳ばかりは。(ト思ヒイレ。アタリヲ見テ)そんならもう行かしやんしたか。······病みほうけても、子が可愛さ。放さじものと取り縋り、手荒いはづみに、指先の爪は離れて此やうに(ト思ヒイレ。指先残ラズ血ノツキタル思ヒイレニテ)かほど邪見なこなさんの胤とは言へど、いとゞ不便に(ト思ヒ入レ。赤子泣ク。オ岩ヨロ/\トシテ、アタリヲ尋ネ、泥火鉢ヲ出シ、蚊遣リヲシカケル思ヒ入レ。コノ中捨テ鐘ノ合ヒ方。)
此等のト書きの指定は、大体今も守られてゐる。後はもう大して夏の生活を活して居ない。盂蘭盆でありさうな「隠亡堀」も「蛇山庵室」も別にさう言ふ風には見えぬ。近代は大体さう言ふ季節感を持つて演出してゐるやうに思はれるのだが、其には日数が立ち過ぎてゐるのである。隠亡堀で伊藤の妻お弓を欺く直助権兵衛の言ひ状を見ても伊右衛門が死んで四十九日だといふ。伊藤親子を殺し、お岩を戸板に打つて流した時から勘定しても、もうとくに秋に入つてゐる筈なのだ。其故、作者だけは、夏や盂蘭盆の出来事を、其後の構成に入れることが出来なかつた訣である。蛇山庵室夢の場は七夕祭りと言ふことになつてゐる。此場も今の東京歌舞妓では見られぬことになつてしまつたが、所作ずきの市川斎入が幾度も出したので、まだ印象が消えない。その夢がさめると、門に高燈籠がはりに白張り提灯が吊つてあつて、盂蘭盆の庵室なのである。ところが南北の書いた台本で見ると大違ひ。外はすつかり雪の日になつてゐる。さうして伊右衛門の討たれも雪、大詰が雪の高屋敷討ち入りと言ふことになるのであつた。七夕に蛍・飾り燈籠などのほのめく舞台が、急に冬の寂しさになるところに作者の趣向があつて、盆の見物を涼しがらせたのだらう。本水はつかはぬが砂村隠亡堀の場は、男女一対の死骸の動く戸板覆し、伊藤乳母の水死、直助権兵衛の鰻掻き、樋の口をあけて出る与茂七など、水辺の風情はなごりなくとり入れてゐる。水を見せないで、何処までも水で終始するのは、「皿屋敷」である。其も「新皿屋敷」「番町皿屋敷」と段々水の縁がきれて来た。一つの掘り井戸が有効に使はれて、最後にお菊が斬りこまれ、二度目には幽霊になつて出る。而も、その井戸は栄螺の殻に火をとぼす忍びの者の通路になつて居るのである。敵役浅山鉄山や、お菊の夫船瀬三平が出たりする。皿屋敷以前にも幾度か書き替へられて居たのであらう。あちこちに残つてゐる伝説の皿屋敷は、皆皿を粗忽した女の殺された跡を伝へてゐるが、その伝説自身が既に遠い昔の信仰から出発してゐた。水界の女が久しく住んだ人間の家を棄てゝ、故郷へ遁れ去る通ひ路が、泉井戸だつたのである。芝居では水に縁のない信太妻や、三十三間堂と謂つた姿になつてしまつてゐる。却て遠い北欧の近代劇に其が明らかに出てゐるのも不思議だ。いぶせんの「海の夫人」にとつた主題は、どうしても皿屋敷の一つ前の型から出てゐるのである。
近代の作者になると、どうしても伝説の上の昔の筋を何処までも守つて延して行かうとはせない。その作者の其作から初めて新しく出発すると言ふ形を採る。ある伝説が使はれても、其に絡んだ幾つかの要素が皆活きて働くといふ事がなくなつて来てゐる。
円朝口演の咄の種本は、皆さうである。なまじつかの文学を持つてゐる為に、過去と絶縁してしまふのである。
「怪談乳房榎」は創作だとも言へず、飜案だとも言へぬものだが、喜多院の天井を描く絵師の亡霊と、その朴実なる下部と無頼漢と、此三人を早替りで見せるのである。十二社大滝の場などは、其けれんの見せ場で、兼ねて夏芝居らしい舞台風情を十分発揮するのである。怪談物は、曲芸・早替りと謂つた要素を十分持つてゐるものだ。
元々、初めから新しく出発した芝居などゝいふものは、昔の日本にはない。必、何か村々町々にあつた季節芸能の基礎の上に、いろ/\の趣向が積み重つたのである。基礎となるものは信仰或は伝説である。そこまでつき止めてゆけば、夏芝居に通じてゐる要素の意味はわかるのである。又、水がなくとも、唯怪談であることが、夏・盆狂言の根本約束に這入つて行つてる訣も知れるであらう。
而も尚一つあるのは、六月十五日の水神祭にも関聯してゐることである。恐らく水神・河の神の祭りに芝居を興行したなど言ふのはよくせき狂言気違ひの揃うた村でなくてはならないことだらうが、夏の興行に水神祭りの近さの為に其影響が、濃厚に来たといふやうなことはありさうに思ふ。でなくては、江戸の町の作者などが、水にこんなに深い由緒ある伝説を題材にとつて行くこともなかつたらう。暑いから涼しい汗の消えるやうな水の狂言を愛しようとするのだなどゝ言ふのは、成り立つた風習から、推した想像である。怪談物は尾上家の伝説の芸目の重要な物であり、けれんに属する筈の怪談物を芸術的にある点まで叩きあげた五代目菊五郎までの伝襲が、厳重な歌舞妓種目からも、之を除外させなかつたものと言へよう。
だが、水芸・早替りを重要な目安においてゐる多くの狂言は、亡びようとしてゐる。斎入一人死んだゞけで、事実けれん物は、芝居芸術から消え去つた様に見える。こゝで今の実川延若に若しもの事があると、又相当にその系統のものゝ損失が演劇遺財の上に現れるのである。
あゝ芸術を論じることなどは放擲して、滝窓志賀之助のやうに軽装して、水のほとりに出よう。鯉つかみの幻想にでも耽りたい夏である。
高砂屋本の書き入れ、おくにと三さは註の入れ損ひである。笠をかぶつたのが、山三の亡魂、歌舞妓男の姿が、おくにの扮する所である。さう解釈せねば理会出来ぬ図様である。