大星由良助について、我々の持つてゐる知識に、ほんの少し訂正しなければならぬ点がないか知らん。まあ書いて見るが、書く程のことはないやうな気もする。一体、忠臣蔵系統の戯曲は、大体世界が三つ位におちつくやうである。曾我物語・太平記、それから言うてよければ、小栗判官の世界である。勿論「仮名手本忠臣蔵」自身、並びにその直系の親浄瑠璃と言ふべき、近松氏の「兼好法師物見車」、それから其補遺「碁盤太平記」は、皆それ/″\太平記物である。これは近松氏若書きと言ふのに、疑ひを持つ人も多いが、ともかく「つれ/″\草」の書き替へから出てゐるから、此側の筋立ては、近松案によるものと考へられてゐる。又其でよいだらう。ところが、赤穂事件を曾我の世界に飜案したものは、それより四年前、赤穂浪士切腹、一件落著後十日位で、江戸芝居にかゝつたと言ふのが、其角の手紙によると言ふ「古今いろは評林」の説である。尤も此興行は三日きりで差し止めにあつてゐる。曾我夜討を
それと、まう一つ小栗の世界に書いたもの、これも誰も知つてゐることである。近松氏の「物見車」の出た宝永三年から七年目に出来た紀海音の「
赤穂事件の発頭人内蔵助が、仇討した時は四十四。(その翌年、切腹したのである。)此年、浄瑠璃・歌舞妓作者近松氏は、ちようど五十になつてゐたが、それから四年後の五十四歳に続けさまに「物見車」と「碁盤太平記」を書いてゐる。人生に成熟しきつた五十一の近松氏が、自分より六歳若い大石の行跡を、感じ深くしみ/″\と見送つてゐたに違ひない。此浄瑠璃を書いた前年あたりに、おそらく大阪定住の心をきめ、浄瑠璃専門の作者になる覚悟を定めたらしい近松氏である。彼の作物にまだ現れて来ない由良助が、一期の為事を終へて、従容として死んで行つたのは、彼がその劃期的な作物「曾根崎心中」に、著手したかしないかの頃であつた。
伝へる如く、郷士の家に生れ、
さて宝永三年五月、「兼好法師物見車」が竹本座にかゝり、翌六月「兼好法師物見車跡追碁盤太平記」が興行せられてゐる。物見車の方の正本に「右の正本近々出来仕候。兼好法師跡おひ、一段物にて御座候故、後より出し申候」とある。だから少くとも、「物見車」が手摺りにかゝつてゐる最中、いやそれよりも前に、近松氏は既にそれを増補して、碁盤太平記を書く計画を立ててゐたことは疑ひがない。単に、近松氏だけではなく、竹本座の新しい座元竹田氏も知つてゐたと思つてよいだらう。見物は予めそんなことを知る訣がない。併し六月になつて碁盤太平記が手摺りにかゝつたのを見て、一度にはつと諒解したことであらう。併し近松氏等興行関係筋の人々の、同時に予期してかゝつてゐた一部観察者の目は、前月書かれた平凡な時代物の増補だから、前同様の目的しか持つてゐないと言ふ風に||当然心づいてゐる筈のことを、さうでないやうに思ひ緩めて、寛大な心になつて看過したであらう。いや寛大といふより、それが、通例検察者の心理でもある。そこに近松氏らの相当な経験から来た、世智辛い智慧が光つてゐる。
跡追ひの方にうつると、俄にがんどう頭巾をかなぐり捨てるやうに、名すら改めてゐる。「これは承り及ぶ塩冶殿浪人。初めの名は八幡六郎今は大星由良之介殿と申す御方の御宿はこれか」と言ふ風に唯の歴史物の人物が、急に大星由良之介であり、又大石内蔵助の仮名なることを暴露した。内蔵助は寮官の名だから、「内蔵助」と書くのは正しいが、言つて見れば由良助などいふ場合は、由良之介としても問題はない。
先月以来の見物は驚いて、互の顔をふり返つて見合つたであらう。先月中はたゞの八幡六郎であつたものが、今月は完全に、赤穂一件の発頭人の二重の隠し名であつたことを知つたのである。
ところが、まう一つ不思議なことは、「物見車」と「跡追」との間には、連絡がついてゐる筈だのに、同人である八幡六郎と由良之介の年が合はないといふ、変なことが出て来る。物見車兼好草庵の場「

作者・座元・太夫の間に諒解がなくて、こんな無法な物を手摺りにかけて興行し、正本として板行する訣はないのである。さうすれば、この不思議な台本は、何か別の理由があつて書かれ、節づけせられたものに違ひない。
其は大体、前に言つた検察当局の諒解を得る為だといふことは察せられるが、其にしても、かう言ふ辻褄のあはぬものにしあげ、結局「物見車」も「碁盤太平記」も、独立性のないものにしてしまつたのである。其にはどういふ底意があるのか。私どもには思案に能はぬ所と言ふ外はない。だがほのかに考へられることは、「物見車」は其跡追ひ碁盤太平記の為に置かれた捨て石である。捨て石は捨て石でも放して見れば、相当に見られると言ふ程度に、其本限りでは筋の通るものにして前月興行にかけた訣であらうが、其にしても、如何にかゝりの少い時代でも、興行としては、大胆不敵な行き方である。其で以前の書き物「つれ/″\草」の書き直しを出して跡追で筋をついで行く。さういふつもりで、大体の筋立ては調べてあつたのであらう。「つれ/″\草」の出たのは、赤穂事件は元よりけぶりも立たなかつた延宝九年のことなのだ。「物見車」には師直に殺されて首になつて、親里へ戻つて来る侍従といふ公家女房が、此では非常な悪方になつて居り、之に兼好と兼好に恋する
忠臣蔵山科の段の手本になつた、師直館の案内の問答のあたり、其調子に乗つた行き方を見ると、近松氏の表現力が、深く内的に唆られて出て来る様子が手にとるやうに訣るだらう。単に文章の末と低く見るべきものではない。不自然な題材を扱ひながら、如何に人情に生き、現実に叶うた方面へ||と、形を伸べて行つたか。さう言ふことが、近松氏の文章の示す不思議である。彼の内に燃えるものは、まづ文章を、時代を超えて人間的なものにした。此力は、もつと彼自身の心の奥をも揺り動かさずにゐなかつた。近松氏の持つ人間的なもの、現実的なものは、此力の衝き動かしたものである。端的に、それの全面的な力を示してゐるのが、その文章である。
かう言つても、われ/\は、「兼好法師物見車」を推奨しようとしてゐるものと思はれてはいやである。こんな捨て石からでも、優れた境地のひらけて来ることが言ひたかつただけである。肯て碁盤太平記までも軽蔑しようとはしないけれども、それよりももつと/\、近松氏の傑作が、平凡な古浄瑠璃などから生れ変つて来た経路が、これにはつきり示されてゐる、その点に興味を持つたのである。