「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」はリルケの小時の作(一八九九年)である。
詩人は若いころ自分が「森の七つの城のなかで三つの枝の花咲いた」由緒のある貴族の後裔であるといふ追憶を愛してゐた。彼はさういふ古い種族の「最後の人」であるとみづから考へ、彼の存在の根をふかく過去のなかに求めんとしてゐたのである。さうしてドレスデンの國有文庫に殘つてゐた自家に關する古文書の中に旗手クリストフ・リルケの小さな記録を發見すると、彼はいまだ騎士道の衰へなかつた頃のその若い祖先と一體にならんとした。(そのランゲナウ莊園の主であつた若い祖先は、男爵ピロヴァノ中隊所屬の旗手として、一六六三年ハンガリイにおいてトルコ軍と戰ひ、僅か十八歳で戰死したのだつた。)
このささやかな敍事詩がライプチヒのインゼル書肆から上梓されたのは、それから七年後の一九〇六年のことである。それが一たび上梓されるや、忽ち一世を風靡した。アンドレ・ジィドもこの作品をフランス語に飜譯しようとしたことがある。その折には、リルケも大いに喜んで一書を寄せた。||「······いつだつたかの晩、その伊太利譯を讀んだ時、私はこれらの頁を書いたあの夢のやうな晩のことを思ひ出し、まだ子供らしい頬をほてらせながら、死を、死の
リルケが晩年、ラアガツのホテルで、この小時の作品の思ひ出をトゥルン・ウント・タクジス公爵夫人に語つた一夜のことが、夫人の囘想記には興深く敍せられてゐる。
「或る夜、ライネル・マリア・リルケは若いころ||たしか十九か二十のころ||書いた『旗手』の話を私にしてくれました。彼はなんでも或る山番の家で一夜を過ごしたことがありました、そのとき彼は眠ることが出來ませんでした。『ごらんなさい、公爵夫人』とライネル・マリア・リルケは、開いた窓のはうへ私と一しよに近づきながら、言ひつづけました。『丁度、こんな晩でした。月のいい晩でした。ややつよい微風が吹いてゐて、細ながい黒雲を追ひ散らしてゐました、まるで光つてゐる圓盤の上をたえず横ぎる狹いリボンのやうに。私は窓のところに立つて、大へん迅く次ぎから次ぎへといつまでも過ぎてゆく雲を見つめてゐました。そのうち、それらの雲が急速なリズムで何やら言葉をつぶやいてゐるのが聞えて來るやうな氣がしだして、私は無意識的な夢のなかでのやうに小聲で、それがどうなつて往くかは少しも知らずに、その言葉を繰り返して見てゐました。「Reiten, reiten, immer reiten······」(騎りつつ、騎りつつ、騎りつつ······)と。それから私は、ずうつと夢のなかでのやうに、書きはじめました。さうして一晩ぢゆう書いてゐました。朝になると、クリストフ・リルケの歌は出來上がつてゐました。······』
そしてそのとき、とライネル・マリア・リルケは、彼の顏ぢゆうを明るくさせる子供らしい微笑をうかべながら、言ひをへました。そのとき、私は孔雀のやうに幸福で誇らしげに、この『騎手』はきつと自分の未來の名譽をきづいてくれるだらう、と考へました。(それはやはり間違つてはゐませんでしたけれど······)唯、それも當然のことですが、彼は出版者を見つけることが出來ませんでした。こんな全く無名の青年の書いたばかばかしい物語などを、誰が眞面目になつて取り上げてくれたでせう。ところが、突然、ありうべからざる事が起りました。それを讀んで、すつかり感動した彼の幼友達が、この『旗手』を印刷させたのでした。しかし、それは五十部と賣れませんでした。
私はライネル・マリア・リルケが、この微妙な作品を何遍も朗讀するのを聞きました。それはいつも私が懇望したのでした。この非常に單純なリズムのある散文を、彼はごく輕い抑揚をつけただけで、いつも殆ど夢のなかでのやうに、朗讀しました。(人びとがそれを常に朗讀するのとは正反對に······)この作品が芝居じみた誇張と過度な抑揚をつけて朗讀されるのを聞くくらゐ、腹の立つことはありません。」············
私もまた、戰爭中にこの作品の飜譯を試み、それを五十部ぐらゐでもいいから小册子に印刷したいと思つたが、それは果せなかつた。が、いまの私には、さういふやうなことも一つの思ひ出になつたので、未定稿のままであるが、それをこの私記のうちに收めておくことにした。

「······一六六三年十一月二十四日、リンダのランゲナウ、グレニツ及びチィグラの領主、オットオ・フォン・リルケは、匈牙利にて戰死せし弟クリストフの遺せるリンダに於ける所領地を讓渡せられたり。但し、その弟クリストフ(提出せられし死亡證書によれば墺太利帝國ハイステル騎兵聯隊ピロヴァノ男爵部隊の旗手として戰死せり)萬一生還せる場合は、その相續の無效たるべき證文を作成せしめられたり。······」
騎りつつ、騎りつつ、騎りつつ······
さうして意氣はいよいよ衰へ、ふるさとはいよいよ戀しい。山はもうまつたく見えぬ。木立ももうほとんど無い。立ち上らうとするもの、なにひとつ無い。異樣な小屋が、泥沼と化した泉のほとりに、
ランゲナウ
彼の隣りにゐる、品のいい、うら若い佛蘭西人は、最初の三日ほどは、
けれども、ランゲナウ
さうすると、そのうら若い佛蘭西人は、再び元氣づき、自分の襟の埃を拂つて、蘇つたかのやうになつた。
誰かが自分の母の話をしだした。獨逸人にちがひなかつた。彼は高い聲で、ゆつくりと、
そこに寄り集つてゐる人びとは、佛蘭西や、ブルグンドや、ニイデルランドや、ケルンテンの谷や、ボヘミアの山や、レオポルト皇帝のもとから來た人びとだつた。さうやつて、そのうちの一人が語りだすと、誰もかもがそれをそつくりその儘に感じた。あたかもただ一人の母しかゐないやうに。
そんな風に、馬に
それから彼は歌ひだした。それは、彼の古里で、秋の收穫がをはらうとするとき、少女たちが野づらで歌ふ、古い、悲しい歌だつた。
うら若い侯爵が言つた。「あなたも隨分お若いのでせう?」
さうすると、ランゲナウ
しばらくしてから、佛蘭西人が問うた。「あなたにもお國には花嫁がおありですか?」
「あなたは?」ランゲナウ
「私の花嫁は丁度あなたのやうな金髮をしてゐます。」
それからまた二人は默つた。ややあつて、獨逸人が叫んだ。「そんな方がゐられるのに、一體、何んだつてあなたはかうやつて、土耳古のやつらを
侯爵は笑つた。「再び歸るために。」
さうすると、ランゲナウ
「どうして||自分はあんなだつたらう?」と若うどは考へた。||さうして彼らはいま遠く離れてゐるのだ。
とある朝、一人の騎兵があらはれた。それから第二の、第四の、第十の騎兵があらはれた。いづれもいかめしく鎧を着こんでゐた。やがて、その背後には、千騎あまり||騎兵の一隊が見え出した。
別れなければならなかつた。
「
「マリア樣があなたをお
しかし二人は別れることが出來なかつた。さうして急に、親友のやうな、兄弟のやうな氣もちになつた。お互にもつともつと打ち明けて言ひたいことがあるやうに思つた。既にこれほどまでよく相手のことを知り合つた以上は。二人は別れを惜しんでゐた。そのまはりでは、すべてが

「これがあなたをお護りするでせう。さらば。||」ランゲナウ
輜重隊に伍して旅する日のこと。呪詛、色彩、哄笑。||そのために村ぢゆうが盲ひさうなほど。色まだらな
遂にシュポルクの前に。白馬のかたはらに、伯は身を
ランゲナウ
「旗手。」
なんとそれは大したことだらう。
中隊はラープの
彼は夢みだした。
しかし、何かが彼のはうへ叫んでゐる。
何かが叫んでいる。叫んでいる。
彼は夢を破られた。
梟なんぞではないらしい。おお、何んと! そこに一本立つてゐる樹が、
彼のはうへ叫んでゐるのだ。
人だ!
そこで彼は目を
血まみれになつた、裸身の、若い女だ。
その女がだしぬけに聲をかけた。「私をほどいて下さい。」
そこで彼は馬から、黒い草のなかへ、跳び下りて、
その熱くなつてゐる繩を斷ち切つた。
彼はそのときその女の燃えるやうな目ざしと、
食ひしばつてゐる白い齒とを見た。
その女は笑つてゐるのかしら?
彼は身顫ひがした。
彼は忽ち馬に跳び乘つて、
闇のなかへ駈け入つた。血まみれになつた手綱をしつかり
ランゲナウ
「母上樣、
お誇りになつて下さい、私は旗手になりました。
もうお案じなさいますな、私は旗手になりました。
私をお愛しになつて下さい、私は旗手になりました。||」
それから彼はその手紙を、軍衣のなかにしまつた、その一番祕密な場所に、薔薇の花びらのそばに。さうして考へた、「この手紙はぢきに薔薇の匂がしだすだらう。」それからまた考へた、「いつか誰かがこれを見つけるだらう······」それからまた考へた······なぜかといふに、敵はもう近いのだ。お誇りになつて下さい、私は旗手になりました。
もうお案じなさいますな、私は旗手になりました。
私をお愛しになつて下さい、私は旗手になりました。||」
彼等は一人の殺された農夫の上を馬で跨いで通つた。彼は兩眼を大きく見ひらいてゐた。その眼のなかには何かが映つてゐたが、青空らしいものはなかつた。やがて犬が吠え出した。やうやくと、村が近づいたのだ。さうして民家の上方に、一郭の城が
はじめは晩餐だつた。そのうち、いつか殆ど知らぬまに、
ほの暗い葡萄酒と、千の薔薇から、時はきらめきながら夜の夢のなかへと流れてゆく。
さうして、かういふきらびやかさに目を
白絹の衣をまとつた、若うどの一人は、自分は決して目を覺ますことは出來ないと氣がついた。なぜかといふに、自分は目覺めてゐて、現實がこんぐらかつてゐるだけなのだから。そこで、彼は不安さうに夢のなかに逃れようとし、園のなかに、まつ暗な園のなかに、一人きりで立つてゐた。酒宴は遠のいた。しかし灯は目をあざむいてゐた。さうしていつ夜が彼のすぐそばに來たのだらう、急に冷えびえして來た。彼は自分のはうに身をかしげてゐる一人の女を認めた。
「あなたは夜ですか?」
彼女は笑つた。
彼はなんだか自分の白衣が羞かしくなつた。
さうして自分がずつと遠くに、一人きりでゐて、武裝してゐるのだとよいのに、と思つた。すつかり武裝してゐるのだと······
「あなたは、けふ一日、わたくしのお小姓だといふことをお忘れになつたの? あなたはわたくしをもうお見棄て? 何處へあなたはお往きなさいますの? あなたの白衣はわたくしにすつかりあなたの權利をお預けになつてゐるのに······」
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「あなたはあの毛の粗い服を戀しがつていらつしやるの?」
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「あなたは震へていらつしやるのね? ||お國が戀しくていらつしやるの?」
伯爵夫人は微笑んだ。
否。それはただ幼さが彼の肩から落ちてしまつたからだつた。あの柔らかな、暗いいろの衣が! それを奪ひとつてしまつたのは誰? 「あなたですか?」彼は自分でもこれまで聞いたことのないやうな聲で問うた。||「あなたなのですね!」
いま、彼は身に纏つてゐるものがなんにもなかつた。さうして彼は聖者のやうに眞裸かだつた。明るく、痩せこけて。
城は次第に
「神よ、おんみの
寢臺の上での祈りは、ずつと短かつた。しかし、ずつと心からの祈りだつた。
塔の部屋は暗かつた。
しかし二人の顏は微笑で明るかつた。彼らは
彼は訊ねなかつた。「あなたの御主人は?」
彼女は訊ねなかつた。「あなたの御名は?」
彼らは、二人でもつて或る新しい血にならうとして、其處にゐたのだから。
彼らは、たがひに相手を澤山の新しい名でもつて呼びあひ、それからまた、耳環でもはづすやうに、そつとそれを引き込めるのだつた。
控への間の、肱掛椅子の上には、ランゲナウ
どこの窓がひらいたのだらう? 嵐が家のなかへはひつて來たのだらうか? 誰れが扉を鳴らしたのだらう? 部屋々々を通り拔けていつたのは誰れだらう? ||その儘にしてゐよう。誰れだつていい。この塔の部屋のなかは、そいつは
朝になつたのだらうか? なんといふ太陽が昇つたのだらう! なんとその太陽は大きいのだらう! あれは小鳥だらうか? いたるところで小鳥らの囀りがする。
なにもかも明るい、だが晝ではない。
なにもかも
光つてゐるのは、
さうして引きさかれた眠りを顏に浮べながら、誰もかも半ば
さうして中庭で、息のつまつたやうな角笛が、しきりに吃つてゐた。「集れ、集れ!」
さうして震へるやうな太鼓の音。
しかし、そこには旗が見えない。
誰か叫んでゐる。「旗手!」
狂ひたつ馬、祈り、
誰か罵つてゐる。「旗手!」
武器のふれあふ音、命令と合圖。
誰ももう叫ばぬ。「旗手!」
それからもう一度、「旗手!」
それから荒れ狂ふ馬に跨つて、城外へ。
·············································
しかし、そこには旗が見えない。
彼は、燃え擴がつてゆく廊下と
しかし、その旗はみるみる光りはじめ、躍り上がり、大きくなり、眞赤になりだした······
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いましも、彼等の旗は敵の眞只中で燃えだしてゐるのだ。そこで、彼等はそれを追ひ駈けていつた。
ランゲナウ
ゆつくりと、殆ど考へ深さうに、彼は自分のまはりを見まはした。彼の前には、けばけばしい雜色の衣をきた、夷狄どもが多勢ゐた。庭園だ、||さう考へて、彼は微笑んだ。しかし、そのとき彼は自分の方に一せいに注がれてゐる目ざしに氣がついた。さうして彼はそれが人間どもであり、しかも異教徒の犬どもであるのを認めた。そこで、彼はその眞只中へ自分の馬を躍り入らせた。
しかし、すべてのものが忽ち彼の背後に寄り重なつてきたとき、それはやはり庭園だつた。さうして彼の上に、一閃また一閃、襲ひかかつてくる、十六本の圓い蠻刀は、さながら祝祭だつた。
笑ひさざめく噴水だつた。
軍衣は城のなかで燒けた。それから手紙も、或る知らない婦人の薔薇の花びらも。||
翌年の春(その春はもの悲しく、冷えびえと來た)、ピロヴァノ男爵の軍使がしづかにランゲナウに入つていつた。さうしてそこに彼は見た、ひとりの老婦人の泣くのを。······