源氏物語の「
若く美しい女のもう冷たくなつた亡骸を描いて、そのかき亂れた髮の毛だけがまだ生きてゐるときと同じやうに匂ふところを書き添へたのは實に效果的である。これほど簡潔で深い印象を與へる死の場面はさう他處にあるものではない。私達の遠い祖先は既にかういふ效果を知つてゐたのかと思つた。
そこにはもう圓熟した物語作者がゐる。人間の死に對してもあまり

この頃私は萬葉集を屡

秋山に黄葉 あはれとうらぶれて入りにし妹は待てど來まさぬ
とか、又、
秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道 知らずも
などといふ考へ方でもつて死者に對してゐる。これは歌といふものの性質上、わぎとさういふ原始的な素朴な死の觀念を借りて、山に葬られた自分の妻を、恰も彼女自身が秋山の黄葉のあまりの美しさに憑かれたやうにして自ら分け入つてしまつたきり道に迷つてもう再びと歸つて來ないやうに自分も信じてをるがごとくに歎いて、以つて死者に對する一篇のレクヰエムとしたのかも知れない。
萬葉の頃の悼亡の歌には、直接に自分の歎きを痛切に吐露したものよりも、さうやつて死者の葬られた山を對象とし、或は空しくなつた家の日ごとに荒廢してゆく有樣や、故人の遺物である木や花や鳥などを對象としたものが多いやうである。肉體が死んでも魂は分離して亡びないことを信じてゐた古人は、深い山の中をさすらつてゐる死者の魂を鎭めるためにその山そのものの美しさを讚へ、又、死後彼等の居處や木々を拂はずに其處に漂つてゐる魂の落ちつくまで荒れるがままにさせ、ときをりその荒廢した有樣を手にとるやうにさながらその死者の魂に向つていふやうにいふ、||そんな事を私は萬葉の挽歌作者をよみながら考へる。萬葉人たちが實際の信仰としてさういふ考へ方をしてゐたか。或は、もつと古代の人たちの信仰の名殘りから、その中にある生活感情を再現しようとしたところに彼等の文學があつたのであらうか。
山吹の立ちよそひたる山清水 汲みにゆかめど道の知らなく
これも挽歌の一つである。萬葉學者の一人が此歌の第一句から第三句までが「黄泉」の和譯であることを發見した。周圍に山吹の黄いろい花の咲いてゐる泉は即ち黄泉だといふことに氣がついたのである。さうなのかも知れない。さう云はれないでゐると、これでも悼亡詩なのかと思ふ位の、明るい感じをさへ此歌は誰にでも與へるだらう。しかし死んだ貴女のために、山の中にはひつて行かれた彼女の魂を鎭めるための祈りとしての合唱のやうな種類のものだとしたら、かういふ歌もそれが挽歌としてはつきり分かつてくる。そして死から來るじめじめとした感じのない、清冽な後味を跡に殘つた人達の上に與へることが出來るのである。
萬葉人としても死後の人體の醜惡を知らないでゐたわけではなかつたらうが、否、それを後代よりもよく知り、それに對する恐怖の一層はげしかつたあまりに、彼等の死者を哭する歌はいよいよ切なく美しくならなければならなかつたのであらう。

奈良へは、二年前の若葉の頃、神西清と一しよに往つた。
誰でもさうするやうに、秋篠寺、唐招提寺、藥師寺、法隆寺などを

萬葉びとがこれらの村や山々に彼等の謂はば前宗教的(pre-religious)な生活を托しながら小さな喜びや悲しみを歌ひ續けてゐた間に、一方では既に、今日もなほ殘つてゐるかういふ大きな寺が建立され、大きな佛たちが製作せられてゐたのだといふことは不思議な心もちがしてならなかつた。それほどその二つのもの||無智にちかい土俗的な信仰の中に隱れてゐる萬葉びとと、佛を製作しつつあつた本當の信仰に目覺めた人たちとの間には互に共通しあつたものが殆ど無かつたやうだからである。前者が後者のために遂に大和や山城から逐はれて、遠い國々を彼等の歌を携へたまま流浪し出す日はそのとき既に近づいてゐたのである。
私は毎日のやうに古い寺々を歩き、古い佛たちを拜しながら、殆ど萬葉の歌を口に上らせなかつた。新藥師寺へ行く途中の、くづれた
だが、大和の村々を歩き疲れて宿に着き、夜ふけていつまでも目を覺まして晝間見てきたさまざまな事物を思ひ浮べてゐるやうなときなどには、どうかすると熱心に見てきた古い佛たちの顏よりも、木深い山の奧にいまだに奇蹟的にその儘埋まつたきりでゐるかも知れない死んだ古代人のひとり取り殘された淋しさうな姿などが、いまにも目に見えて來さうになつたりした事もないではなかつた。

神西が都合で先きに歸京し、私はそれから三四日ひとりで奈良に止まることになつたとき、私はもう古い寺々は訪れず、ただぼんやりとそこいらの村々を歩いて暮らすことにした。
私は
奈良を去る前日、私は「大和雜記」といふ本を讀んでゐたら、奈良山の一部に人麻呂歌集などにも出てゐる
さうやつて少し歩いて見てゐたが、てんで見當がつかず、こんな工合では黒髮山を搜すことは先づ斷念した方がいいと思ひ、せめて歌姫の方へ出る舊道でも見つけようとして後戻りをしてみたりしてゐたが、どれがさつき通つて來た道かなんぞも分からなくなり、すこし困つた事になつてきたなと思つた。この儘、この山中に迷つていつまでも自分がさまよひ續けてゐるやうな事にでもなれば、私は萬葉びとに考へられてゐたやうな、山に葬られた死者の死後の姿そつくりではないか。ただあたりは若葉の明るい山で、私の上に一めんに
漸く私は自分の行く手に大きな池の一部らしいものを認め、そつちへ近づいて行つて見ると、それが聖武天皇陵の近くの池であるらしい事を地圖で知り、自分の目標から大ぶ外れて來た事を認めたが、そこからはもう
結局、實際に存在してゐるのだかゐないのだか分からないやうな黒髮山は見當さへつかず、只そのまはりをうろうろと歩いてゐただけだつた。それでも、その山歩きは私には決して無駄ではなかつた。私はその小一時間ちかく「萬葉的に」自分が死んでゐたと云へば云へるやうな、子供らしく微笑ましい想像から、その奈良に於ける最後の日をいまだに忘れがたく思つてゐる。