一高の頃のことを考へると、いまでもときをり逢ふことのある友達のことよりか、もうお逢ひできさうもない先生方のことがひとしほなつかしく思ひ出される。······

私になつかしい先生の一人は石川光春先生である。あのうすぐらい階段教室ではじめて先生の講義をきいたときは、植物學といふものが實に高尚な學問のやうにおもはれ、急に自分までが大人になつたやうな氣がした。いま考へてみると、それはむしろ私の子供じみた驚きのためだつたのだらう。それは例へば植物學といひながら聞き慣れた植物の名などひとつも出て來ず、細胞の圖などが獨逸語などで説明され、そんななかに突然ゲエテの「
もう一人は岩元禎先生である。岩元先生にはじめて教はつたのは三年のときで、アダルベルト・シュティフテルの「ホッホワルド」の講讀をうけた。今でこそシュティフテルも一部の人々に人氣のある獨逸の作家の一人になつてゐるやうだが、その頃はまだ殆ど誰にも知られてゐないやうな不遇な作家だつた。さういふ半ば埋れてゐたやうな作家のものを岩元先生は好んで取り上げられ、一年間、文學にあまり關心をもたない理科の私達に熱心に譯讀して下すつた。先生が深みのあるしはがれた聲で徐かに一人で譯讀せられてゆくのを私達はただ茫然として聽いてゐた。ときどき先生の聲がとだえると、私達は急に緊張して、一層小さくなつてゐた。さういふときはいつも先生が次の言葉の譯し方を考へあぐねながら、私達の上にその烱々たる眼光を、そそがれてゐるのを知つてゐたからである。先生の譯語はいつも嚴格をきはめてゐて「Fichte」は「フィヒテ」といふ木であつて「蝦夷松」とは異る木の名であり、「Tanne」は「タンネ」といふ木であつて「樅」などと譯すとまちがひとせられた。萬事がその調子であつた。「ホッホワルド」は何處から何處まで深い森の中の物語であり、すべての人々や出來事が森の靜寂のなかに溶けこみ、ひとり先生のしはがれた聲のみがその靜寂を破つて、流れ來り流れ去る溪流の音と入りまじりながら、森の主めいて聞えてきてならないこともあつた。そしてその物語の最後の夏がきて「一人の老人がそれからなほしばしば影のやうにその森の中を過ぎるのが見られた。しかし彼がいつごろまでゐたか、いつごろからもうゐなくなつたか、誰ひとりさだかには知らぬのである」と終る。その最後を譯し終へられると共に、岩元先生は最後に私達をぎろりと見渡されてから、さすがに深く疲れたやうな樣子をなすつて教室を出てゆかれたが、そのときの先生のすこし猫背のうしろ姿はいつまでも私のうちに殘つてゐた······

これは一高の先生ではないが、こなひだ亡くなられた萩原朔太郎さんは、その頃の私にはもつともなつかしい詩人であつた。その頃私ははじめて詩といふものの存在を知り、そして何よりも驚異をもつて讀んだのが萩原朔太郎の詩なのである。丁度萩原さんのユニイクな詩集「青猫」が出た折で、私は何處へ行くのにでもその黄いろいクロオスの本を持ち歩いてゐた。一と頃はその一卷さへあれば他の本などはいらないほどだつた。その詩集の中で、その詩人は、私にとつては或時は哲學者にも見え、音樂家ともなり、また幻想的畫家ともなつた。それほどその詩集一卷は、どんな哲學的著作よりもしめやかな思想の情緒で私をみたしてくれ、あるときはバッハのやうに單調で莊重な樂句で私を高め、あるときはショパンのやうに憂鬱な氣分で私の胸をしめつけ、又、どんな四圍のありふれた風物のうちにも時としては無限の憂愁の美に充ちたペルスペクティフを見出させてくれた。
今、表紙の汚れた「青猫」を書架からとり出して見ると、この本のなかからさういふ少年の自分の姿が詩といつしよになつて蘇つてくるのを覺える。その頃の私は一番何になりたがつてゐたかといふと、さういふ萩原朔太郎の詩のもつてゐるものを散文の領域に發展させた、哲學的な内容といふよりもむしろそのやうな情緒をたぶんに持つたエッセイの書ける、いままで日本には一人もゐなかつたやうな poet-philosopher になることだつた。(後年、萩原さん自身がさうなられた······)
それで、その一と頃といふもの、萩原朔太郎の詩以外に私の讀んでゐたものは、僅かにショオベンハウエルの[#「ショオベンハウエルの」はママ]一二册とニイチェ全集だけだつたことがあつた。といつても、いくらニイチェの著作などを熱心に讀んでをつても、彼の孤高な思想が理解でき、それに共鳴してゐたのでは少しもなかつた。ただ何んとなく一人でいい氣分になつて讀んでゐただけである。「ツアラツストラ」はどうしても讀めなかつた。その代りに、この孤獨な哲學者がヴェニスの日かげを散歩しては、ショパンの音樂を愛しながら書いてゐたといはれる「

「哲學の本は、君||」芥川龍之介さんらしい人が私に向つていつた「夜汽車のなかで讀むものだよ。」
いかにも唐突な言葉だつた。それは夢の中であつた。目を覺してからも、その芥川さんらしい人の言つた言葉ははつきりと耳に殘つてゐた、||夜汽車のなかで、人々は深いねむりに落ちてゐる。何處へか、誰も知らず、まつ暗な野原の眞ん中をひた走りに走つてゐる夜汽車のなかに、一人目覺めて、哲學の本を讀んでゐる、或者の姿! ······
夢の中で、いかにも萩原さんでも云ひさうなアフォリズムめいたことを私に云つたのは、しかし、芥川さんらしい人だつた。いつか私が一生のうちに一册でもいいから哲學的な著作を殘して死にたいと思つてゐたその一高時代のことをうちあけた私に向つて、半ば同情されるやうに微笑されながら「それは、君、誰でも一高生の頃はカントよりも哲學的になるものだからね······」と警句で受けとられた芥川さんだつた。
そんな夢を見たのは、私がもう大學にはひつて一高の頃のそんな風變りな夢想などはそろそろと忘れ出してゐた時分のことである。