一九〇六年一月二十五日、ライネル・マリア・リルケはロダン夫妻と同行して、シャアトルの

クララ リルケに
シャアトルにて。木曜日零時半

クララ リルケに
ムウドン・ヴァル・フルウリィ・ヴィラ・デ・ブリランにて。金曜日、早朝。
しかしそれが殆どすべてだつた。そして先生は、いまだにそれ等のすべてのものが來り、そして語るところの、唯一(恐らく)の人間なのだ。(若しそれ等のものが先生以外の者にも、まだいくらかなりと語るとしたら、どうしてそれを聞かずに居られたらう? それを聞き洩らすやうなことをしたらう?)先生は、あたかもノオトル・ダァムにでも居るかのやうに、もの靜かに、落ち着いて、それ等のものを深く理解し、受け入れてゐられた。そして先生は、見るところことごとくその眼に入つてくるゴチックの大いなる原則によつて、御自身の藝術を確證せられてゐた、それに就いて何か低聲にひとりごちながら。それは非常に素晴らしかつた。九時半頃、私達は驛から本寺へ向つたのだつた。太陽は隱れてしまつてゐた。そして空は灰色になり寒かつた。が、ずつと風はなかつた。けれど私達が本寺の前に到着するや、思ひがけなくも、一陣の風が、竝はづれた巨人のやうに、天使の一角を曲つて來ながら、私達の間を、無慈悲に、鋭く、身を切るやうに、吹き過ぎて行つた。「おお」と私は言つた、「これは嵐になりさうですね。」「君は知らないのだね、」と先生はその時仰言つた、「大きなカテドラアルのまはりには、いつも風が、さう、こんな風が、あるんだ。それはいつも、自分の偉大さに惱まされてゐる、騷がしい、惡い風に取り卷かれてゐるのだ。空氣が支柱を滑り落ちてくるのだ、あの高處から落ちて來ながら教會のまはりをうろついてゐるのだ。······」先生は、かう云つたやうなことを仰言られた。勿論、もつと簡潔な、もつと充實した、そしてまたもつとゴチック式な言ひ方だつた。が、先生の仰言らうとした意味は、大體、さう云ふことだつたらう。そして、そのうろついてゐる風の中に、私達は、天使の前に立たされた亡者共のやうに、突つ立つてゐた。そしてその天使は、いかにも、愉しさうに、その日時計の文字板を太陽の方へとさし向けてゐるのだつた。いつもそれが太陽に見えるやうにと······

その頃、リルケはロダンの祕書となつて、そのアトリエのあるムウドンの家に寄寓してゐたのである。
リルケが始めて大彫刻家の許を訪れたのは、それから約四年前、一九〇二年の八月の末であつた。一書肆の囑によつて彼に關する小論文を書くため、ロダンに會ふべく、北獨逸の一寒村ヴォルプスヴェデから、はるばる巴里まで出かけて來たのであつた。リルケはロダンに近づいて、ますますその人物と藝術とに心醉し、最初は短い滯在の豫定であつたが、とうとう一年以上も巴里に居ついた。(その癖、彼は巴里がひどく嫌ひだつたらしい。が、その最初の滯在中の不安な異常の經驗が、後年、「マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲの手記」を生んだのであつた。)それからリルケは、遂に巴里を離れ、伊太利に赴き、ヴィアレッジオに二箇月近く滯在してから、漸くにして、妻や友人のゐるヴォルプスヴェデに歸つた。それから今度は妻のクララを伴つて、再び伊太利に行き、羅馬に半年許り滯在してゐたが、それから又一人になつて、丁抹、瑞典、北獨逸等に轉々とした後、ロダンの招聘によつて三年ぶりで再び巴里に出て來た。ロダンは或日リルケと散歩してゐる時、「少し私の手傳ひをして呉れぬか。そんなに時間はとらせぬ積りだ。まあ、毎朝二時間許りのことだ。」と申出た。リルケの方でも、最近は病氣がちで、ひどく疲れてゐるやうなこの老藝術家が、身邊の雜用などに心を勞してゐるのを見かねてゐたところだつたので、躊躇することなく、その申出に應じた。そしてリルケは早速、ロダンの家の美しい庭に面してゐる小さな部屋に同居することになつたのである。それは一九〇五年の秋だつた。
翌年一月、シャアトル行の事があつた。その頃まで、ロダンとリルケの間は極めて圓滿に進んでゐたと云つても好い。リルケがロダンのために費さねばならなかつた時間は、約束のやうに、午前の二時間だけではなく、殆ど一日中の大部分であつたけれど、最初のうちは、リルケはそれを不滿にも思はず、ロダンのために働いてゐた。||が、リルケにも、彼を待つてゐる仕事があつた。羅馬滯在中から計畫してゐる「マルテの手記」も、いまだに全然手を着けてゐなかつた。自分の仕事をするためには、一人きりにならなければならぬ。と云つて、いますぐロダンを見棄てるわけにも行かない。さう云つた焦躁が、少しづつリルケの上に襲ひ出してゐたやうに見える。······
かう云ふ兩者の状態を考慮に入れて、シャアトル行のリルケの手紙を讀むと、その大いなる廢墟を前にした二藝術家の姿は、殊にそのカテドラアルの前に到着するや、急に險惡になつてきた空模樣の方をリルケが氣にしてゐるのを、ロダンが「カテドラアルの周りにはいつもこんな風が吹いてゐるのだ」とかなり烈しい語氣で語るあたりは、何とも云ふに云はれぬ小説的な效果を帶びて來るのである。||さう云ふ情景を冒頭に置いて、その後の二人の氣持が漸次離反して行く悲劇的な經過を、短篇小説にしてちよつと書いて見たいやうな誘惑をすら私は感ずる程である。
リルケが、些細なことからロダンの激怒を買つて、「盜みをした下僕のやうに」そのムウドンの家から追ひ出されたのは、それから約四ヶ月後の、五月の或日のことだつた。リルケは、一先づ、カセット街の或小さなホテルの一室を借りて、暫く其處に腰を据ゑることにした。さうして妻のクララには、唯、ロダンが病氣になつて田舍に靜養に行くことになつたので、自分だけはかうして巴里に止まる、やつと一人になつたのでこれからは大いに仕事をする積りだ、と言つてやつた切りである。それから又、二三日してから、クララに宛てて、「私の部屋は小さいけれど、小さ過ぎるといふ程ぢやない。あんまり風通しのいい方でもないが、息苦しいやうなことはない。使ひ古した道具で一杯だが、これといつて思ひ出が私をうるさがらせるやうなものもない。眞向ひには、修道院の樹木が、高々と空中に聳えてゐる。下方には古い塀が見える。まあ、何んとそれは雜色の、汚い廣告で一杯になつてゐることか! が、その上方には、古い、穹窿状の、よく日に焦げた、塀の屋根があり、更にその上方には、古い、大きな栗の木がある。それから又、そのもつと上方の、稍左よりには、教會の本堂の一角が、空の中に沈んでゐる、丁度海の中の難破船のやうに。そしてその上方にも、背後にも、右にも、左にも、||巴里が見える。明るい、絹のやうな、そしてその空や水のみならず、その花々の心臟の中まで、強烈な太陽によつて永久に蒼褪めてしまつてゐるやうな、巴里が見える。私は、若し彼がその大きな不安の時期を切り拔けられたならば、これ等すべてのものを私のやうに愛したであらう、マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲのことを考へてゐる······」と書いてゐる。
當時、リルケは三十一になつてゐた。これは西洋流の數へ方であるから、丁度、現在の私とは同年のわけである。