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ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke

堀辰雄訳




※(ローマ数字1、1-13-21)


バルコンの上だとか、

窓枠のなかに、

一人の女がためらつてさへゐれば好い······

目のあたりに見ながらそれを失はなければならぬ

失意の人間に私達がさせられるには。


が、その女が髮を結はうとして、その腕を

やさしい花瓶のやうに、もち上げでもしたら、

どんなにか、それを目に入れただけでも、

私達の失意は一瞬にして力づけられ、

私達の不幸はかがやくことだらう!


※(ローマ数字2、1-13-22)


お前は、不思議な窓よ、私に待つてゐてくれと合圖してゐる、

既にもうお前の鼠色の窓掛けは動きかけてゐる。

おお窓よ、私はお前の招待に應じなければならないだらうか?

それとも拒絶すべきだらうか、窓よ? 私の待つてゐるのは誰だ?


私はもう無縁ではないのではないか、この耳をそば立ててゐる生命に對して?

この戀を失つた女の充溢した心に對して?

私にはなほ行くべき道があるのに、かうして私を此處に引き止めながら、

私に夢みさせてゐる、かの女の心の過剩を、窓よ、お前は私に與へることが出來るのだらうか?


※(ローマ数字3、1-13-23)


お前はわれわれの幾何學ではないのか?

窓よ、われわれの大きな人生を

雜作もなく區限くぎつてゐる

いとも簡單な圖形。


お前の額縁のなかに、われわれの戀人が

姿を現はすのを見るときくらゐ、

かの女の美しく思はれることはない。おお窓よ、

お前はかの女の姿を殆ど永遠のものにする。


此處にはどんな偶然も入り込めない。

戀人は自分の戀の眞只中にゐる。

自分のものになり切つた

ささやかな空間に取り圍まれながら。


※(ローマ数字4、1-13-24)


窓よ、お前は期待の計量器だ。

一つの生命が他の生命の方へ

氣短かに自分を注がうとして

何遍それを一ぱいにさせたことか!


まるで移り氣な海のやうに

引き離したり、引き寄せたりするお前、||

かと思ふと、お前はその硝子に映る私達の姿を

その向う側に見えるものと混んぐらかせたりする。


運命の存在と妥協する

或種の自由の標本。

お前に調節されて、外部の過剩も、

われわれの内部では平衡する。


※(ローマ数字5、1-13-25)


窓よ、お前は、どんなものでも

何んと儀式めかしてしまふのだらう!

お前の窓枠の中では、人は直立不動になつて

何かを待つたり、物思ひにふけつたりする。


そんな風に、放心者うつけものだの、怠け者だのを、

お前はよくお小姓のやうに立たせてゐる。

彼はいつも同じやうな姿勢をしてゐる。

彼は自分の肖像畫みたいになつてゐる。


漠とした倦怠にうち沈みながら、

少年が窓にもたれて、ぼんやりしてゐることがある。

少年は夢みてゐる。さうして彼の上衣を汚してゐるのは、

少年自身ではなくて、それは過ぎゆく時間なのだ。


又、戀する少女たちが、窓に倚つてゐることもある。

身じろがずに、いかにも脆さうに、

あたかもその翅の美しいために、

貼りつけられてゐる蝶のやうに。


※(ローマ数字6、1-13-26)


部屋の奧、寢臺のあたりには、そこはかとない薄明しか漂はせてゐなかつた

星形の窓は、いまや貪婪な窓と交代して、

飽くことなく日光を求めてゐる。

ああ、誰れか窓に走り寄り、それに凭れかかつて、ぢつとしてゐる。

夜の去つた跡で、こんどはその神聖なみづみづしい若さの番が來たのだ!


その戀する少女の眺めてゐる朝の空には、

青空そのもの||あの大いなる模範、

深さと高さと||それ以外にはなんにもない。

その空の一部を圓舞臺にして、

ゆるやかな曲線を描いて飛び交ひながら

愛の復歸を告げ知らせてゐる鳩たちを除いては。

(朝の空)


※(ローマ数字7、1-13-27)


私達の區限くぎられた部屋に、

闇が絶えず増大させる

未知の擴がりを與へるやうにと、

屡々工夫せられた窓。


昔、その傍らにいつも坐つて、

一人の婦人が、俯向いたまま、

身じろぎもせず、物靜かな様子で、

縫ひ物をしつづけてゐた窓。


明るい壜の中に嚥みこまれたまま、

そのなかで或すがたの芽ばえてゐる窓。

われわれの廣漠たる眼界の

帶を結んでゐる環。


※(ローマ数字8、1-13-28)


かの女は窓にもたれたまま、

何もかも任せ切つたやうな氣もちで、

うつとりと、心を張りつめて、

夢中で何時間も過すのだ。


獵犬たちが横はるとき

その前肢まへあしを揃へるやうに、

かの女の夢の本能が

不意と襲つて、そのしなやかな手を、


氣もちのいい具合に竝べてくれる。

その餘のものはそれにならつて落着くのだ。

さうしてしまふと、その腕も、胸も、肩も、

かの女自身も言はない、「もういた」と。


※(ローマ数字9、1-13-29)


忍び泣いてゐる、ああ、忍び泣いてゐる、

あの誰も凭れてゐない窓!

慰みやうもなく、涙にむせんでゐる、

あの被覆おほひをせられたもの!


遲過ぎてからか、それとも早過ぎないと、

お前の姿ははつきりと掴めない。

いまは全くその姿を包んでゐるお前の窓掛け、

おお、空虚の衣!


※(ローマ数字10、1-13-30)


最後の日の窓に身を傾けてゐた

お前の姿を目のあたりに見ながらだつた、

私がわが身の深淵を隈なく知つて、

それをはじめてわが物となしたのは。


お前はその腕を闇の方へ向けて

私にそれを振つて見せながら、

私がお前から切り離して自分と一しよに持つて來たものを

私から更に切り離して、逃げて行つてしまはせた······


お前のその別離の手振りは、

永い別離の印なのではなかつただらうか?

遂には私が風に變身せしめられ、

水となつて川に注がれてしまふ日までの······






底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房

   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行

初出:「晩夏」甲鳥書林

   1941(昭和16)年9月20日

入力:tatsuki

校正:染川隆俊

2010年11月15日作成

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