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俳人蕪村

正岡子規





 芭蕉ばしょう新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間づるところの俳人少からず。あるいは芭蕉を祖述し、あるいは檀林だんりんを主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉にづるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。いわく、いな

 芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきものたること論をたず。この点において何人なんぴとかよくこれに凌駕りょうがせん。芭蕉の俳句は変化多きところにおいて、雄渾ゆうこんなるところにおいて、高雅なるところにおいて、俳句界中第一流の人たるを得。この俳句はその創業の功より得たる名誉を加えて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。誦するにもえぬ芭蕉の俳句を註釈して勿体もったいつける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚ととなえこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾がいだたまを成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫がれきとともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村ぶそんとす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとにれり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。その放縦不羈ほうしょうふき世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。しかして世はこれをれざるなり。

 蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村歿後ぼつごに出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪めいせつ氏いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念せつなるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。はたしてこの戯言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余らまたこれを借りて大いに発明するところありたり。死馬の骨を五百金に買いたるたとえも思い出されておかしかりき。これ実に数年前(明治二十六年か)のことなり。しかしてこの談一たび世に伝わるや、俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派ともくせらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。

 かくして百年以後にはじめて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるをもってその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故なにゆえに尊ぶべきかを知らず、いわんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者ほとんどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶゆえんを解するに苦しむなり。余はここにおいて卑見を述べ、蕪村が芭蕉に匹敵するところのはたしていずくにあるかを弁ぜんと欲す。



 美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健けいけん、艶麗、活溌かっぱつ、奇警なるものをいい、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいう。概して言えば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代をもって言えば国の東西を問わず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。(ただし壮大雄渾なるものに至りてはかえって上世に多きを見る)されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って後世芭蕉派と称する者また多くこれにならう。そのさびといい、雅といい、幽玄といい、細みといい、もって美の極となすもの、ことごとく消極的ならざるはなし。(ただし壮大雄渾の句は芭蕉これあれども後世に至りては絶えてなし)ゆえに俳句を学ぶ者消極的美を唯一の美としてこれをとうとび、艶麗なるもの、活溌なるもの、奇警なるものを見ればすなわちもって邪道となし卑俗となす。あたかも東洋の美術に心酔する者が西洋の美術をもってことごとく野卑なりとしてへんするがごとし。艶麗、活溌、奇警なるものの野卑に陥りやすきはもとよりしかり。しかれども野卑に陥りやすきをもって野卑ならざるものをもつるはその弁別の明なきがゆえなり。しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味いやみを生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐おうとを催さしむるに至るを見るに、かの艶麗ならんとして卑俗に陥りたるものに比してごうまさるところあらざるなり。

 積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんことは到底出来得べきにあらず。されども両者ともに美の要素なることは論をたず。その分量よりして言わば消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美をもって美の全体と思惟しいせるはむしろ見聞の狭きより生ずる誤謬ごびゅうならんのみ。日本の文学は源平以後地にちてまた振わず、ほとんど消滅し尽せる際に当って芭蕉が俳句において美を発揮し、消極的の半面を開きたるは彼が非凡の才識あるを証するに足る。しかもその非凡の才識も積極的美の半面はこれを開くに及ばずしてきぬ。けだし天は俳諧の名誉を芭蕉の専有に帰せしめずしてさらに他の偉人を待ちしにやあらん。去来きょらい丈草じょうそうもその人にあらざりき。其角きかく嵐雪らんせつもその人にあらざりき。五色墨ごしきずみの徒もとよりこれを知らず。新虚栗しんみなしぐりの時何者をかつかまんとして得るところあらず。芭蕉死後百年になんなんとしてはじめて蕪村は現われたり。彼は天命を負うて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼また名利に走らず、聞達を求めず、積極的美において自得したりといえども、ただその徒とこれを楽しむにとどまれり。

 一年四季のうち春夏は積極にして秋冬は消極なり。蕪村最も夏を好み、夏の句最も多し。その佳句もまた春夏の二季に多し。これすでに人に異なるを見る。今試みに蕪村の句をもって芭蕉の句と対照してもって蕪村がいかに積極的なるかを見ん。

 四季のうち夏季は最も積極なり。ゆえに夏季の題目には積極的なるもの多し。牡丹ぼたんは花の最も艶麗なるものなり。芭蕉集中牡丹を詠ずるもの一、二句に過ぎず。その句また

  尾張より東武に下る時

牡丹しべ深くわけいづはち名残なごりかな  芭蕉

  桃隣新宅自画自讃

寒からぬ露や牡丹の花のみつ  同

等のごとき、前者はただ季の景物として牡丹を用い、後者は牡丹を詠じてきわめてつたなきものなり。蕪村の牡丹を詠ずるはあながち力を用いるにあらず、しかも手にしたがって佳句を成す。句数も二十首の多きに及ぶ。そのうち数首を挙ぐれば

牡丹散って打重なりぬ二三ぺん

牡丹って気の衰へしゆふべかな

地車のとゞろとひゞく牡丹かな

日光の土にもれる牡丹かな

不動ゑが琢磨たくまが庭の牡丹かな

ほう百里雨雲よせぬ牡丹かな

金屏きんびゃうのかくやくとして牡丹かな

  蟻垤

蟻王宮ぎわうきゅう朱門を開く牡丹かな

  波翻舌本吐紅蓮

閻王えんわうの口や牡丹を吐かんとす

 その句またまさに牡丹と艶麗を争わんとす。

 若葉もまた積極的の題目なり。芭蕉のこれを詠ずるもの一、二句にして

  招提寺

若葉して御目のしづくぬぐはゞや  芭蕉

  日光

あらたふと青葉若葉の日の光  同

のごとき、皆季の景物として応用したるに過ぎず。蕪村には直ちに若葉を詠じたるもの十余句あり。皆若葉の趣味を発揮せり。例、

山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな

蚊帳かやを出て奈良を立ち行く若葉かな

不尽ふじ一つ埋み残して若葉かな

窓のこずゑに上る若葉かな

絶頂の城たのもしき若葉かな

って渡る谷間の若葉かな

をちこちに滝の音聞く若葉かな

 くもみねの句を比較せんに

ひら/\とあぐる扇や雲の峰  芭蕉

雲の峰いくつくづれて月の山  同

  游力亭

湖や暑さををしむ雲の峰  同

 月山がっさんの句やや力強けれど、なお蕪村のに比すべくもあらず。蕪村の句多からずといえども、

楊州の津も見えそめて雲の峰

雲の峰四沢したくの水のれてより

  旅意

二十日路はつかぢの背中に立つや雲の峰

のごとき皆十分の力あるを覚ゆ。五月雨さみだれは芭蕉にも

五月雨の雲吹き落せ大井川  芭蕉

五月雨をあつめて早し最上川もがみがは  同

のごとき雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。

五月雨の大井越えたるかしこさよ

五月雨や大河たいがを前に家二軒

五月雨の堀たのもしきとりでかな

 夕立の句は芭蕉になし。蕪村にも二、三句あるのみなれども、雄壮当るべからざるの勢いあり。

夕立や門脇殿かどわきどのの人だまり

夕立や草葉をつかむむらすずめ

  双林寺独吟千句

夕立や筆もかわかず一千言

 時鳥ほととぎすの句は芭蕉に多かれど、雄壮なるは

時鳥声よこたふや水の上  芭蕉

の一句あるのみ。蕪村の句のうちには

時鳥ひつぎをつかむ雲間より

時鳥平安城をすぢかひに

さやばしる友切丸ともきりまるや時鳥

など極端にものしたるものあり。

 桜の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも桜のうつくしき趣をみ出でたるは

四方しはうより花吹き入れてにほの海  芭蕉

のもとに汁もなますも桜かな  同

しばらくは花の上なる月夜かな  同

奈良七重ななへ七堂伽藍しちだうがらん八重桜  同

のごときに過ぎず。蕪村に至りては

阿古久曽あこくそのさしぬき振ふ落花かな

花に舞はで帰るさ憎し白拍子しらびゃうし

花の幕兼好けんかうのぞく女あり

のごとき妖艶ようえんを極めたるものあり。そのほか春月、春水、暮春などいえる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。たとえば

伽羅きゃらくさき人の仮寝や朧月おぼろづき

をんなして内裏拝まん朧月

薬盗む女やはある朧月

河内路かはちぢ東風こち吹き送るみこそで

片町にさらさそむるや春の風

春水や四条五条の橋の下

梅散るや螺鈿らでんこぼるゝ卓の上

玉人ぎょくじんの座右に開く椿つばきかな

なしの花月にふみ読む女あり

閉帳の錦垂れたり春の夕

折釘をれくぎ烏帽子ゑぼし掛けたり春の宿

  ある人に句を乞はれて

返歌なき青女房よ春の暮

  琴心挑美人

いもが垣根三味線草さみせんぐさの花咲きぬ

 いずれの題目といえども芭蕉または芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集をひもとく者誰かこれを知らざらん。一々ここにぜいせず。



 積極的美と消極的美と相対あいたいするがごとく、客観的美と主観的美ともまた相対して美の要素をなす。これを文学史の上に照すに、上世には主観的美を発揮したる文学多く、後世に下るに従い一時代は一時代より客観的美に入ること深きを見る。古人が客観に動かされたる自己の感情を直叙するは、自己を慰むるために、はた当時の文学に幼稚なる世人をして知らしむるために必要なりしならん。これ主観的美の行われたるゆえんなり。かつその客観を写すところきわめて麁鹵そろにして精細ならず。例えば絵画の輪郭ばかりを描きて全部はる者の想像に任すがごとし。全体を現わさんとして一部を描くは作者の主観にづ。一部を描いて全体を想像せしむるは観る者の主観に訴うるなり。後世の文学も客観に動かされたる自己の感情を写すところにおいて毫も上世に異ならずといえども、結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること、あたかも実際の客観が人を動かすがごとくならしむ。これ後世の文学が面目を新たにしたるゆえんなり。要するに主観的美は客観を描き尽さずして観る者の想像に任すにあり。

 客観的、主観的両者いずれが美なるかは到底判し得べきにあらず。積極的、消極的両美の並立へいりつすべきがごとく、これもまた並立して各自の長所を現わすを要す。主観を叙して可なるものあり、叙して不可なるものあり。客観を写して可なるものあり、写して不可なるものあり。可なるものはこれを現わし不可なるものはこれを現わさず。しかして後に両者おのおの見るべし。

 芭蕉の俳句は古来の和歌に比して客観的美を現わすこと多し。しかもなお蕪村の客観的なるには及ばず。極度の客観的美は絵画と同じ。蕪村の句は直ちにもって絵画となし得べきもの少からず。芭蕉集中全く客観的なるものを挙ぐれば四、五十句に過ぎざるべく、中につきて絵画となし得べきものをえらみなば

うぐひすや柳のうしろやぶの前  芭蕉

梅が香にのっと日の出る山路かな  同

古寺の桃に米む男かな  同

時鳥大竹藪を漏る月夜  同

さゝれがに足はひ上る清水かな  同

荒海や佐渡さどよこたふ天の川  同

ゐのししも共に吹かるゝ野分のわきかな  同

鞍壺くらつぼに小坊主乗るや大根引だいこひき  同

塩鯛の歯茎も寒しうをたな  同

等二十句を出でざらん。宇陀うだの法師に芭蕉の説なりとて掲げたるを見るに

春風や麦の中行く水の音  木導

師説に云う、景気の句世間容易にするもってのほかのことなり。大事の物なり。連歌に景曲と云いいにしえの宗匠深くつつしみ一代一両句には過ぎず。景気の句初心まねよきゆえ深くいましめり。俳諧は連歌ほどはいわず。総別景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成りがたきゆえつよくいましめおきたるなり。木導が春風景曲第一の句なり。後代手本たるべしとて褒美ほうびに「かげろふいさむ花の糸口」というわきして送られたり。平句同前なり。歌に景曲は見様けんよう体に属すと定家卿もの給うなり。寂蓮じゃくれんの急雨定頼さだより卿の宇治の網代木あじろぎこれ見様体の歌なり。

とあり。景気といい景曲といい見様体という、皆わがうところの客観的なり。もって芭蕉が客観的叙述をかたしとしたること見るべし。木導の句悪句にはあらねどこの一句を第一とする芭蕉の見識はきわめて低くきわめて幼し。芭蕉の門弟は芭蕉よりも客観的の句を作る者多しといえども、皆客観を写すこと不完全なれば直ちにこれを画とせんにはなお足らざるものあり。

 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば

木瓜ぼけの陰に顔たくひすむきぎすかな

釣鐘にとまりて眠る胡蝶こてふかな

やぶいり鉄漿かねもらひ来るかさの下

小原女をはらめの五人揃ふてあはせかな

照射ともししてさゝやく近江八幡あふみやはたかな

葉うら/\火串ほぐしに白き花見ゆる

卓上のすしに眼寒し観魚亭

夕風や水青鷺あをさぎはぎを打つ

四五人に月落ちかゝるをどりかな

日はななめ関屋のやり蜻蛉とんぼかな

柳散り清水れ石ところ/″\

かひがねや穂蓼ほたでの上を塩車

げてよどの小橋を雪の人

てら/\と石に日の照る枯野かれのかな

むさゝびの小鳥る枯野かな

水鳥や舟に菜を洗ふ女あり

のごとし。一事一物を画き添えざるも絵となるべき点において、蕪村の句は蕪村以前の句よりもさらに客観的なり。



 天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なるものにつきて美を求むるはやすく、複雑なるものはかたし。沈黙せるものを写すは易く、活動せるものは難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的によく天然を写し得たるは易きよりりたる者なるべし。俳句の初めより天然美を発揮したるも偶然にあらず。しかれども複雑なるものも活動せるものも少しくこれを研究せんか、これを描くことあながち難きにあらず。ただ俳句十七字の小天地に今までは辛うじて一山一水一草一木を写しだししものを、同じ区劃くかくのうちに変化極まりなく活動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたるもの少きゆえんなり。芭蕉、去来はむしろ天然に重きを置き、其角、嵐雪は人事を写さんとしてはしなく佶屈※(「敖/耳」、第4水準2-85-13)きっくつごうがに陥り、あるいは人をしてこれを解するに苦しましむるに至る。かくのごとく人は皆これを難しとするところに向って、ひとり蕪村は何の苦もなく進み思うままに濶歩かっぽ横行せり。今人こんじんはこれを見てかえってその容易なるを認めしならん。しかも蕪村以後においてすらこれを学びし者を見ず。

 芭蕉の句は人事をみたるもの多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり

鞍壺くらつぼに小坊主のるや大根引だいこひき

のごとく自己以外にありて半ば人事美を加えたるすらきわめて少し。

 蕪村の句は

行く春や選者を恨む歌の主

命婦みゃうぶより牡丹餅ぼたもちたばす彼岸かな

短夜みじかよや同心衆の川手水かはてうづ

少年の矢数やかず問ひよる念者ぶり

水の粉やあるじかしこき後家ごけの君

虫干やをひの僧ふ東大寺

祇園会ぎをんゑや僧の訪ひよるかぢがもと

味噌汁をくはぬ娘の夏書げがきかな

すしつけてやがてにたる魚屋うをやかな

ふんどし団扇うちはさしたる亭主かな

青梅にまゆあつめたる美人かな

旅芝居穂麦がもとの鏡立て

身にむや亡妻なきつまくしねや

門前の老婆子らうばし薪貪る野分かな

栗そなふ恵心ゑしんの作の弥陀仏みだぼとけ

書記典主てんず故園に遊ぶ冬至とうじかな

沙弥しゃみ律師ころり/\とふすまかな

さゝめこと頭巾づきんにかつく羽折はをりかな

孝行な子供等に蒲団一つづゝ

のごとき数え尽さず、これらのじゅう必ずしも力を用いしものにあらずといえども、皆よく蕪村の特色を現わして一句だに他人の作とまごうべくもあらず。天稟てんぴんとは言いながら老熟の致すところならん。

 天然美に空間的のもの多きはことに俳句においてしかり。けだし俳句は短くして時間をるるあたわざるなり。ゆえに人事を詠ぜんとする場合にも、なお人事の特色とすべき時間を写さずして空間を写すは俳句の性質のしからしむるにる。たまたま時間を写すものありとも、そは現在と一様なる事情の過去または未来に継続するに過ぎず。ここに例外とすべき蕪村の句二首あり。

御手討おてうちの夫婦なりしを更衣ころもがへ

打ちはたす梵論ぼろつれだちて夏野かな

 前者は過去のある人事を叙し、後者は未来のある人事を叙す。一句の主眼が一は過去の人事にあり、一は未来の人事にあるは二句同一なり、その主眼なる人事が人事中の複雑なるものなることも二句同一なり。かくのごときものは古往今来こおうこんらい他にその例を見ず。



 俳句の美あるいは分って実験的、理想的の二種となすべし。実験的と理想的との区別は俳句の性質においてすでにしかるものあり。この種の理想は人間の到底経験すべからざること、あるいは実際あり得べからざることを詠みたるものこれなり。また実験的と理想的との区別俳句の性質にあらずして作者の境遇にあるものあり。この種の理想は今人にして古代の事物を詠み、いまだ行かざる地の景色風俗を写し、かつて見ざるある社会の情状を描き出すものこれなり。ここに理想的というは実験的に対していうものにして両者を包含す。

 文学の実験にらざるべからざるはなお絵画の写生に依らざるべからざるがごとし。しかれども絵画の写生にのみ依るべからざるがごとく、文学もまた実験にのみ依るべからず。写生にのみ依らんか、絵画はついに微妙の趣味を現わす能わざらん、実験にのみ依らんか、尋常一様の経歴ある作者の文学は到底陳套ちんとうを脱する能わざるべし。文学は伝記にあらず、記実にあらず、文学者の頭脳は四畳半の古机にもたれながらその理想は天地八荒のうちに逍遙しょうようして無碍自在むげじざいに美趣を求む。羽なくして空にかけるべし、ひれなくして海に潜むべし。音なくして音をくべく、色なくして色を観るべし。かくのごとくして得来たるもの、必ず斬新ざんしん奇警人を驚かすに足るものあり。俳句界においてこの人を求むるに蕪村一人あり。ひるがえって芭蕉はいかんと見ればその俳句平易高雅、奇をげんせず、新を求めず、ことごとく自己が境涯の実歴ならざるはなし。二人は実に両極端を行きて毫も相似たるものあらず、これまた蕪村の特色として見ざるべけんや。

 芭蕉も初めは

菖蒲しゃうぶり軒のいわし髑髏されかうべ

のごとき理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せるすべての事物より句を探りだすにあらず、記実の中にてもただ自己を離れたる純客観の事物は全くこれを抛擲ほうてきし、ただ自己を本としてこれに関連する事物の実際を詠ずるに止まれり。今日より見ればその見識のひくきこと実に笑うに堪えたり。けだし芭蕉は感情的に全く理想美を解せざりしにはあらずして、理窟りくつに考えて理想は美にあらずと断定せしやひっせり。一世に知られずして始終逆境に立ちながら、竪固なる意思に制せられて謹厳に身をおさめたる彼が境遇は、かりそめにもうそをつかじとて文学にも理想を排したるなるべく、はた彼が愛読したりという杜詩としに記実的の作多きを見ては、俳句もかくすべきものなりとおのずから感化せられたるにもあらん。芭蕉の門人多しといえども、芭蕉のごとく記実的なるは一人もなく、また芭蕉は記実的ならずとてそを悪く言いたる例も聞かず。芭蕉は連句において宇宙を網羅し古今を翻弄ほんろうせんとしたるにも似ず、俳句にはきわめて卑怯ひきょうなりしなり。

 蕪村の理想をとうとぶはその句を見て知るべしといえども、彼がかつて召波しょうはに教えたりという彼の自記はよく蕪村を写しだせるを見る。曰く

(略)其角を尋ね嵐雪を訪い素堂を倡い鬼貫に伴う、日々この四老に会してわずかに市城名利の域を離れ林園に遊び山水にうたげし酒をみて談笑し句を得ることはもっぱら不用意を貴ぶ、かくのごとくすること日々ある日また四老に会す、幽賞雅懐はじめのごとし、眼を閉じて苦吟し句を得て眼を開く、たちまち四老の所在を失す、しらずいずれのところに仙化して去るや、こうとして一人みずからたたずむ時に花香風に和し月光水に浮ぶ、これが俳諧の郷なり(略)

 蕪村はいかにして理想美を探り出だすべきかを召波に示したるなり。筆にも口にも説き尽すべからざる理想の妙趣は、輪扁りんぺんの木をるがごとくついに他に教うべからずといえども、一棒の下に頓悟とんごせしむるの工夫なきにしもあらず。蕪村はこの理想的のことをなお理想的に説明せり。かつその説明的なると文学的なるとを問わず、かくのごとき理想を述べたる文字に至りては上下二千載我に見ざるところなり。奇文なるかな。

 蕪村の句の理想とおぼしきものを挙ぐれば

河童の恋する宿や夏の月

湖へ富士をもどすや五月雨さつきあめ

名月やうさぎのわたる諏訪すはうみ

指南車を胡地こちに引き去るかすみかな

滝口にを呼ぶ声や春の雨

白梅や墨かんばしき鴻臚館こうろくゎん

宗鑑そうかん葛水くずみづたまふ大臣おとどかな

実方さねかた長櫃ながびつ通る夏野かな

朝比奈が曽我を訪ふ日や初鰹はつがつを

雪信ゆきのぶはへ打ち払ふすずりかな

孑孑ぼうふりの水や長沙ちゃうさの裏長屋

追剥おひはぎを弟子に剃りけり秋の旅

鬼貫おにつらや新酒の中の貧に処す

鳥羽殿とばどのへ五六騎いそぐ野分かな

新右衛門蛇足をさそふ冬至かな

寒月や衆徒しゅとの群議の過ぎてのち

  高野

隠れ住んで花に真田さなだうたひかな

 歴史を借りて古人を十七字中に現わし得たるもの、もって彼が技倆ぎりょうを見るに足らん。



 思想簡単なる時代には美術文学に対する嗜好しこうも簡単を尚ぶは自然の趨勢すうせいなり。わがくに千余年間の和歌のいかに簡単なるかを見ば、人の思想の長く発達せざりし有様も見え透く心地す。この間に立ちて形式の簡単なる俳句はかえって和歌よりも複雑なる意匠を現わさんとして漢語を借り来たり佶屈きっくつなる直訳的句法をさえ用いたりしも、そは一時の現象たるにとどまり、古池の句はついに俳句の本尊として崇拝せらるるに至れり。古池の句は足引あしびきの山鳥の尾のという歌の簡単なるに比すべくもあらざれど、なお俳句中の最も簡単なるものに属す。芭蕉はこれをもってみずから得たりとし、終身複雑なる句を作らず。門人は必ずしも芭蕉の簡単を学ばざりしも、複雑の極点に達するにはなお遠かりき。

 芭蕉は「発句ほっくは頭よりすらすらと言い下し来たるを上品とす」と言い、門人洒堂しゃどうに教えて「発句は汝がごとく物二、三取り集むる物にあらず、こがねを打ちのべたるごとくあるべし」と言えり。洒堂の句の物二、三取り集むるというは

鳩吹くや渋柿原の蕎麦そば

刈株や水田の上の秋の雲

の類なるべく、洒堂また常に好んでこの句法を用いたりとおぼし。しかれども洒堂のこれらの句は元禄の俳句中に一種の異彩を放つのみならず、その品格よりいうも鳩吹、刈株の句のごときは決して芭蕉の下にあらず。芭蕉がこの特異のところを賞揚せずして、かえってこれを排斥せんとしたるを見れば、彼はその複雑的美を解せざりし者に似たり。

 芭蕉は一定の真理を言わずして時に随い人により思い思いの教訓をなすを常とす。その洒堂をおしえたるもこれらの佳作をしりぞけたるにはあらで、むしろその濫用をいましめたるにやあらん。許六が「発句は取合せものなり」というに対して芭蕉が「これほど仕よきことあるを人は知らずや」といえるを見ても、あながち取合せを排斥するにはあらざるべし。されどここに言える取合せとは二種の取合せをいうものにして、洒堂のごとく三種の取合せをいうにあらざるは、芭蕉の句、許六の句を見て明らかなり。芭蕉また凡兆に対して「俳諧もさすがに和歌の一体なり、一句にしおりあるように作すべし」といえるもこの間の消息を解すべきものあり。凡兆の句複雑というほどにはあらねど、また洒堂らと一般、句々材料充実して、かの虚字をもって斡旋あっせんする芭蕉流とはいたく異なり。芭蕉これに対して今少し和歌の臭味を加えよという、けだし芭蕉は俳句は簡単ならざるべからずと断定してみずから美の区域を狭くかぎりたる者なり。芭蕉すでにかくのごとし。芭蕉以後言うに足らざるなり。

 蕪村は立てり。和歌のやさしみ言い古し聞き古して紛々ふんぷんたる臭気はその腐敗の極に達せり。和歌に代りて起りたる俳句幾分の和歌臭味を加えて元禄時代に勃興ぼっこうしたるも、支麦しばく以後ようやく腐敗してまたすくうに道なからんとす。ここにおいて蕪村は複雑的美を捉え来たりて俳句に新生命を与えたり。彼は和歌の簡単をしりぞけて唐詩の複雑を借り来たれり。国語の柔軟なる、冗長なるに飽きはてて簡勁かんけいなる、豪壮なる漢語もてわが不足を補いたり。先に其角一派が苦辛して失敗に終りし事業は蕪村によって容易に成就せられたり。衆人の攻撃もおもんぱかるところにあらず、美は簡単なりという古来の標準もてて顧みず、卓然として複雑的美を成したる蕪村の功は没すべからず。

 芭蕉の句はことごとく簡単なり。いてその複雑なるものを求めんか、

鶯や柳のうしろやぶの前

つゝじけて其陰に干鱈ひだらさく女

隠れや月と菊とに田三反

等の数句に過ぎざるべし。蕪村の句の複雑なるはその全体を通じてしかり。中につきて数句を挙ぐれば

草霞み水に声なき日暮かな

つばめいて夜蛇を打つ小家かな

梨の花月にふみ読む女あり

雨後の月そや夜ぶりのはぎ白き

すしをおす我れ酒かもす隣あり

五月雨や水に銭む渡し舟

草いきれ人しにをると札の立つ

秋風や酒肆しゅしに詩うたふ漁者ぎょしゃ樵者せうしゃ

鹿ながら山影さんえい門にいるかな

しぎ遠くくはすゝぐ水のうねりかな

柳散り清水れ石ところ/″\

水かれ/″\たでかあらぬか蕎麦そばか否か

我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

 一句五字または七字のうちなお「草霞み」「雨後の月」「夜蛇を打つ」「水に銭蹈む」と曲折せしめたる妙は到底「頭よりすらすらと言い下し来たる」者の解し得ざるところ、しかも洒堂、凡兆らもまた夢寐むびにだも見ざりしところなり。客観的の句は複雑なりやすし。主観的の句の複雑なる

うき我にきぬた打て今は又やみね

のごときに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば惘然自失もうぜんじしつ言うところを知らざるべし。



 外に広きものこれを複雑とい、内につまびらかなるものこれを精細と謂う。精細の妙は印象を明瞭めいりょうならしむるにあり。芭蕉の叙事形容に粗にして風韻に勝ちたるは、芭蕉の好んでなしたるところなりといえども、一は精細的美を知らざりしにる。芭蕉集中精細なるものを求むるに

ちまきゆふ片手にはさむ額髪

五月雨や色紙へぎたる壁の跡

のごとき比較的にしか思わるるあるのみ。蕪村集中にその例を求むれば

鶯の鳴くやちひさき口あけて

あぢきなや椿落ちうづむ庭たつみ

痩臑やせずねの毛に微風あり衣がへ

月に対す君に投網とあみの水煙

夏川をこすうれしさよ手に草履ざうり

あゆくれてよらで過ぎ行く夜半よはかど

夕風や水青鷺あをさぎはぎを打つ

点滴に打たれてこもる蝸牛かたつむり

蚊の声す忍冬にんどうの花散るたびに

青梅に眉あつめたる美人かな

牡丹ちって打ち重りぬ二三片

唐草に牡丹めでたき蒲団かな

引きかふて耳をあはれむ頭巾づきんかな

緑子みどりごの頭巾眉深まぶかきいとほしみ

真結まむすびの足袋はしたなき給仕かな

歯あらはに筆の氷を噛む夜かな

茶の花や石をめぐりて道を取る

等いと多かり。

 庭たつみに椿の落ちたるは誰も考えつくべし。埋むとは言い得ぬなり。もし埋むに力入れたらんには俗句と成りおわらん。落ち埋むと字余りにして埋むを軽く用いたるは蕪村の力量なり。よき句にはあらねど、埋むとまで形容して俗ならしめざるところ、精細的美を解したるに因る。精細なる句の俗了しやすきは蕪村のつとに感ぜしところにやあらん、後世の俳家いたずらに精細ならんとしてますます俗につる者、けだし精細的美を解せざるがためなり。妙人の妙はその平凡なるところ、つたなきところにおいて見るべし。唐詩選を見て唐詩を評し、展覧会を見て画家を評するはあやうし。蕪村の佳句ばかりを見る者は蕪村を見る者にあらざるなり。

「手に草履」ということももし拙く言いのばしなば殺風景となりなん。短くも言い得べきを「嬉しさよ」と長く言いて、長くも言い得べきを「手に草履」と短く言いしもの、良工苦心のところならんか。

「鮎くれて」の句、かくのごとき意匠は古来なきところ、よしありたりとも「よらで過ぎ行く」とは言い得ざりしなり。常人をして言わしめば鮎くれしを主にして言うべし。そは平凡なり。よらで過ぎ行くところ、景を写し情を写し時を写し多少の雅趣を添う。

 顔しかめたりとも額にしわよせたりともかく印象を明瞭ならしめじ、ことは同じけれど「眉あつめたる」の一語、美人髣髴ほうふつとして前にあり。

 蒲団引きおうて夜伽よとぎの寒さをしのぎたる句などこそ古人も言えれ、蒲団その物を一句に形容したる、蕪村より始まる。

「頭巾眉深まぶかき」ただ七字、あやせば笑う声聞ゆ。

 足袋の真結まむすび、これをも俳句の材料にせんとは誰か思わん。我この句を見ること熟せり、しかもいかにしてこのことを捉え得たるかは今に怪しまざるを得ず。

「歯あらはに」歯にしみ入るつめたさ想いやるべし。



 蕪村の俳句における意匠の美はすでにこれを言えり。意匠の美は文学の根本にして人を感動せしむるの力また多くここにあり。しかれども用語、句法の美これに伴わざらんには、あたら意匠の美を活動せしめざるのみならず、かえってその意匠に一種いとうべき俗気を帯びたるがごとく感ぜしむることあり。蕪村の用語と句法とはその意匠を現わすに最も適せるものにして、しかも自己の創体に属するもの多し。その用語の概略を言わんに

(一)漢語 は蕪村の喜んで用いたるものにして、あるいは漢語多きをもって蕪村の唯一の特色と誤認せらるるに至る。この一事がいかに人の注意をきしかを知るべし。蕪村が漢語を用いたるは種々の便利ありしに因るべけれど、第一に漢語が国語より簡短なりしに因らずんばあらず、複雑なる意匠を十七、八字の中に含めんには簡短なる漢語の必要あり。また簡短なる語を用うれば叙事形容を精細になし得べき利あり。

指南車胡地引き去るかすみかな

に坐して遠きかはづを聞く夜かな

祇や鑑やひげに落花をひねりけり

鮓桶すしをけをこれへと樹下床几しゃうぎかな

三井寺や日はに逼る若楓わかかへで

の花や善き酒蔵すへいの内

耳目肺腸こゝに玉巻く芭蕉庵

採蓴をうたふ彦根の※(「にんべん+倉」、第4水準2-1-77)かな

鬼貫おにつらや新酒の中の貧に処す

天心貧しき町を通りけり

秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者

雁鳴くや舟に魚焼く琵琶湖上

のごときこの例なり。されども漢語の必要ありとのみにてみだりに漢語を用い、ために一句の調和を欠かば佳句とは言われじ。「胡地」の語のごときあまり耳遠く普通に用いるべきにはあらざるを、「指南車」の語上にあり、「引き去る」という漢文直訳風の語下にあるために一句の調和を得たるなり。「落花」の語は「祇や鑑や」に対して響きよく、「芭蕉庵」という語なくんば「耳目肺腸」とは置くあたわず。「採蓴さいじゅん」は漢語にあらざれば言うべからず、さりとてこの語ばかりにては国語と調和せず。ゆえにことさらに「※(「にんべん+倉」、第4水準2-1-77)さうふ」とは受けたり。

 第二は国語にて言い得ざるにはあらねど、漢語を用いる方よくその意匠を現わすべき場合なり。漢語を用いて勢いを強くしたる句、

五月雨や大河を前に家二軒

夕立や筆も乾かず一千言

時鳥平安城をすぢかひに

絶頂の城たのもしき若葉かな

方百里雨雲よせぬ牡丹かな

「おおかわ」と言えば水勢ぬるく「たいか」と言えば水勢急に感ぜられ、「いただき」と言えば山けわしからず、「ぜっちょう」と言えば山嶮しく感ぜらる。

 漢語を用いていかめしくしたる句

蚊遣かやりしてまゐらす僧の座右かな

売卜先生下闇したやみの訪はれ顔

「座右」の語は僧に対する多少の尊敬を表わし、「売卜先生ばいぼくせんせい」と言えば「卜屋算うらやさん」と言いしよりも鹿爪しかつめらしく聞えてよく「訪はれ顔」に響けり。

として客の絶間の牡丹かな

蕭条として石に日の入る枯野かな

のごときは「しんとして」「淋しさは」など置きたると大差なけれど、なお漢語の方適切なるべし。

 第三は支那の成語を用うるものにして、こは成語を用いたるがために興あるもの、または成語をそのままならでは用いるべからざるものあり。支那の人名地名を用い、支那の古事風景等を詠ずる場合はもちろん、わが国のことをいう引合いに出されたるも少からず。その句、

行き/\てこゝに行き行く夏野かな

朝霧やくひせ打つ音丁々たり

帛を裂く琵琶びはの流れや秋の声

釣り上げしすずき巨口玉や吐く

三径の十歩に尽きてたでの花

冬籠ふゆごも燈下に書すと書かれたり

侘禅師わびぜんじから鮭に白頭の吟

秋風呉人は知らじふぐと汁

 右三種類のほかに

春水しゅんすゐや四条五条の橋の下

の句は「春の水」ともあるべきを「橋の下」と同調になりて耳ざわりなれば「春水」とは置いたるならん。ただし四条五条という漢音の語なくば「春水」とは言わざりけん。

蚊帳かや釣りて翠微つくらん家の内

 特に翠微すいびというは翠の字を蚊帳の色にかけたるしゃれなり。

薫風やともしたてかねつ厳島いつくしま

「風薫る」とは俳句の普通に用いるところなれどしか言いては「薫る」の意強くなりて句を成しがたし。ただ夏の風というくらいの意に用いるものなれば「薫風」とつづけて一種の風の名となすにしかず。けだし蕪村の烱眼けいがんは早くこれに注意したるものなるべし。

(二)古語 もまた蕪村の好んで用いたるものなり。漢語は延宝えんぽう天和てんなの間其角一派が濫用してついにその調和を得ず、其角すらこれより後、また用いざりしもの、蕪村に至りてはじめて成功を得たり。古語は元禄時代にありて芭蕉一派が常語との調和を試み十分に成功したるもの、今は蕪村に因ってさらに一歩を進められぬ。

およぐ時よるべなきさまの蛙かな

命婦より牡丹餅たばす彼岸かな

更衣ころもがへなん藤原氏なりけり

真しらけのよね一升や鮓のめし

おろしおくおひなゐふる夏野かな

夕顔や黄に咲いたるもあるべかり

夜を寒み小冠者臥したり北枕

高燈籠たかどうろ消えなんとするあまたゝび

渡り鳥雲のはたての錦かな

大高に君しろしめせ今年米

 蕪村の用いたる古語には藤原時代のもあらん、北条足利時代のもあらん、あるいは漢書の訳読に用いられたるすなわち漢語化せられたる古語も多からん。いずれにもせよ、今まで俳句界に入らざりし古語を手に従って拈出ねんしゅつしたるは蕪村の力なり。ただ漢語を用い、いたずらに佶屈の句を作り、もって蕪村の真髄を得たりとなすもの、いまだ他の半面を解せざるべし。

(三)俗語 の最俗なるものを用い初めたるもまた蕪村なり。元禄時代に雅語、俗語相半ばせし俳句も、享保以後無学無識の徒に翫弄がんろうせらるるに至って雅語ようやく消滅し俗語ますます用いられ、意匠の野卑と相待って純然たる俗俳句となりおわれり、されどその俗語も必ずしも好んで俗語を用いしにあらで、雅語を解せざるがため知らず知らず卑近に流れたるもの、ゆえに彼らが用いる俗語は俗語中のなるべくいにしえに近きをえらみたりとおぼしく、俗中の俗なる日常の話語に至りてはもとより用いざりしのみならず、彼らなおこれを俗として排斥したり。檀林派の作者といえどもその意匠句法の滑稽突梯とっていなるにかかわらず、またこの俗語中の俗語を用いたるものを見ず。蕉門も檀林も其嵐派きらんはも支麦派も用いるにかたんじたる極端の俗語を取って平気に俳句中に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入したる蕪村の技倆ぎりょうは実に測るべからざるものあり。しかもその俗語の俗ならずしてかえって活動する、腐草ほたると化し淤泥おでいはちすを生ずるの趣あるを見ては誰かその奇術に驚かざらん。

出るくひを打たうとしたりや柳かな

酒を煮る家の女房ちょとほれた

絵団扇ゑうちはそれも清十郎せいじふろにお夏かな

蚊帳の内に螢放してアヽ楽や

杜若かきつばたべたりとびたれてける

くすりくひ隣の亭主箸持参

化さうな傘かす寺の時雨しぐれかな

 後世一茶いっさの俗語を用いたる、あるいはこれらの句より胚胎はいたいし来たれるにはあらざるか。薬喰の句は蕪村集中の最俗なるもの、一読に堪えずといえども、一茶はことにこの辺より悟入したるかの感なきにあらず。けだし一茶の作ときに名句なきにはあらざるも、全体を通じて言えば句法において蕪村の「酒を煮る」「絵団扇」のごときしまりなく、意匠において「杜若」「時雨」のごとき趣味を欠きたり。蕪村は漢語をも古語をも極端に用いたり。佶屈なりやすき漢語も佶屈ならしめざりき。冗漫なりやすき古語も冗漫ならしめざりき。野卑なりやすき俗語も野卑ならしめざりき。俗語を用いたる一茶のほかは漢語にも古語にも彼は匹敵者を有せざりき。用語の一点においても蕪村は俳句界独歩の人なり。



 句法は言語の接続をいう。俳句の句法は貞享じょうきょう、元禄に定まりて享保、宝暦を経て少しも動かず。むしろ元禄に変化したるだけの変化さえ失い、「何や」「何かな」一天張りのきわめて単調なるものとなり了りて、ただ時に檀林一派及び鬼貫らの奇をろうするあるのみ。この際に当りて蕪村は句法の上に種々工夫を試み、あるいは漢詩的に、あるいは古文的に、古人のいまだかつて作らざりしものを数多あまた造り出せり。

春雨やいざよふ月の海なかば

春風や堤長うして家遠し

きじ打て帰る家路の日は高し

玉川に高野かうやの花や流れ去る

祇や鑑や髭に落花をひねりけり

桜狩美人の腹や減却す

いづべくとして出ずなりぬ梅の宿

菜の花や月は東に日は西に

裏門の寺に逢著ほうちゃくよもぎかな

山彦の南はいづち春の暮

月に対す君に投網とあみの水煙

掛香かけかうおしの娘の人となり

鮓をす石上に詩を題すべく

夏山や京尽し飛ぶさぎ一つ

浅川の西し東す若葉かな

ふもとなる我蕎麦存す野分かな

らんゆふべ狐のくれし奇楠きゃら※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)たか

漁家寒し酒にかしらの雪を焼く

頭巾二つ一つは人に参らせん

我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)

のごときは漢文より来たりし句法なり。蕪村最も多くこの種の句法をなす。

しのゝめやをのがれたる魚浅し

鮓桶を洗へば浅き遊魚かな

古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し

 魚浅し、音暗しなどいえる警語を用いたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。

陽炎かげろふや名も知らぬ虫の白き飛ぶ

橋なくて日暮れんとする春の水

罌粟けしの花まがきすべくもあらぬかな

のごときは古文より来たるもの、

春の水背戸せどに田つくらんとぞ思ふ

白蓮びゃくれんらんとぞ思ふ僧のさま

 この「とぞ思ふ」というは和歌より取り来たりしものなり。そのほか

衣がへ野路の人はつかに白し

蚊の声す忍冬にんどうの花散るたびに

水かれ/″\たでかあらぬか蕎麦か否か

のごときあり。

 元禄以来形容語はきわめて必要なるもののほか俳句には用いられざりき。いたずらに場所ふさぎをなすのみにて、ありてもなくても意義に大差なしとの意なりしならん。しかれども形容語は句を活動せしめ印象を明瞭ならしむるにはこれを用いて効多し。蕪村は巧みにこれを用い、ことに中七音のうちに簡単なる形容を用うることに長じたり。

水の粉やあるじかしこき後家の君

尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜

の花やざうす塀の内

手燭てしょくして善き蒲団出す夜寒かな

緑子の頭巾眉深きいとほしみ

真結びの足袋はしたなき給仕かな

宿かへて火燵こたつ嬉しき在処ありどころ

 後の形容詞を用いる者、多くは句勢にたるみを生じてかえって一句の病となる。蕪村の簡勁かんけいと適切とに及ばざる遠し。

 蕪村の句は堅くしまりてうごかぬがその特色なり。ゆえに無形の語少く有形の語多し。簡勁の語多く冗漫の語少し。しかるに彼に一つのへきありてある形容詞に限り長きを厭わず、しばしばこれを句尾に置く。

つゝじさいて石うつしたる嬉しさよ

更衣ころもがへ八瀬やせの里人ゆかしさよ

顔白き子のうれしさよ枕蚊帳まくらがや

五月雨さつきあめ大井越えたるかしこさよ

夏川を越す嬉しさよ手に草履

小鳥来る音嬉しさよ板庇いたびさし

のこぎりの音貧しさよ夜半の冬

のごときこれなり。普通に嬉しと思う時嬉しと言わば俳句は無味になり了らん、まして嬉しさよと長く言わんはなおさらのことなり。嬉しさよといわねば感情を現わすあたわざる時にのみ用いたる蕪村の句は、もとよりこの語を無造作に置きたるにあらず。さらに驚くべきは蕪村が一句の結尾に「に」という手爾葉てにはを用いたることなり。例えば

帰るかり田毎たごとの月の曇る夜に

菜の花や月は東に日は西に

春の夜やよひあけぼのの其中に

畑打や鳥さへ鳴かぬ山陰に

時鳥ほととぎす平安城をすぢかひに

蚊の声す忍冬の花散るたびに

広庭の牡丹や天の一方に

いほの月あるじを問へば芋掘りに

狐火や髑髏どくろに雨のたまる夜に

 常人をしてこの句法にならわしめば必ずや失敗に終らん、手爾葉の結尾をもって一句を操るもの、蕪村の蕪村たるゆえんなり。

 蕪村は下五文字に何ぶり、何がち、何顔、何心のごとき語をうることを好めり。

三椀の雑煮ざふにかふるや長者ぶり

少年の矢数問ひよる念者ぶり

鶯のあちこちとするや小家こいへがち

小豆あづき売る小家の梅のつぼみがち

耕すや五石のあはのあるじ顔

つばくらや水田の風に吹かれ顔

川狩や楼上の人の見知り顔

売卜先生木の下闇の訪はれ顔

行く春やおもたき琵琶びはの抱き心

夕顔の花噛む猫やよそ心

寂寞せきばくと昼間をすしれ加減

 またこの類の語の中七字に用いられたるもあり。後世の俗俳家何心、何ぶりなどと詠ずる者多くは卑俗厭うべし。

なれすぎた鮓をあるじの遺恨かな

牡丹ある寺行き過ぎしうらみかな

くずを得て清水に遠き恨かな

「恨かな」というも漢詩より来たりしものならん。



 蕪村以前の俳句は五七五の句切くぎれにて意味も切れたるが多し。たまたま変例と見るべきものもなお

ゆく春や鳥うをの目は涙  芭蕉

松風の落葉か水の音涼し  同

松杉をほめてや風の薫る音  同

のごときものにして多くは「や」「か」等の切字きれじを含み、しからざるも七音の句必ず四三または三四と切れたるを見る。蕪村の句には

夕風や水青鷺の脛を打つ

鮓を圧す我れ酒かもす隣あり

宮城野みやぎのの萩更科さらしなの蕎麦にいづれ

のごとく二五と切れたるあり、

若葉して水白く麦黄ばみたり

柳散り清水れ石ところ/″\

春雨や人住みて煙壁を漏る

のごとく五二または五三と切れたるもあり。これ恐らくは蕪村のはじめたるもの、暁台ぎょうたい闌更らんこうによりて盛んに用いられたるにやあらん。

 句調は五七五調のほかに時に長句をなし、時に異調をなす、六七五調は五七五調に次ぎて多く用いられたり。

花を蹈みし草履も見えて朝寐あさねかな

妹が垣根三味線草の花咲きぬ

卯月うづき八日死んで生るゝ子は仏

閑古鳥かんこどりかいさゝか白き鳥飛びぬ

虫のためにそこなはれ落つ柿の花

恋さま/″\願の糸も白きより

月天心貧しき町を通りけり

羽蟻はあり飛ぶや富士の裾野の小家より

七七五調、八七五調、九七五調の句

独鈷どくこ鎌首水かけ論の蛙かな

売卜先生木の下闇の訪はれ顔

花散り月落ちて文こゝにあら有難や

立ち去る事一里眉毛びまうに秋の峰寒し

門前の老婆子たきぎむさぼる野分かな

夜桃林を出でゝ暁嵯峨さがの桜人

五八五調、五九五調、五十五調の句

およぐ時よるべなきさまの蛙かな

おもかげもかはらけ/\年の市

秋雨や水底の草を蹈みわた

茯苓ぶくりゃうは伏かくれ松露しょうろはあらはれぬ

侘禅師乾鮭からざけに白頭の吟をゑる

五七六調、五八六調、六七六調、六八六調等にて終六言を

夕立や筆も乾かず一千言

ほうたんやしろかねの猫こかねの蝶

心太ところてんさかしまに銀河三千尺

炭団たどん法師火桶の穴よりうかがひけり

のごとく置きたるは古来例に乏しからず。終六言を三三調に用いたるは蕪村の創意にやあらん。その例、

嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮れし

一行のかりや端山に月を印す

朝顔や手拭の端の藍をかこつ

水かれ/″\たでかあらぬか蕎麦か否か

柳散り清水れ石ところ/″\

我をいとふ隣家寒夜に鍋をならす

霜百里舟中に我月を領す

 そのほか調子のいたく異なりたるものあり。

遠近をちこち南すべく北すべく

閑古鳥寺見ゆ麦林寺ばくりんじとやいふ

山人は人なり閑古鳥は鳥なりけり

更衣母なん藤原氏なりけり

 最も奇なるは

をちこちをちこちと打つきぬたかな

の句の字は十六にして調子は五七五調に吟じ得べきがごとき。



 漢語、俗語、雅語のことは前にも言えり。その他動詞、助動詞、形容詞にも蕪村ならでは用いざる語あり。

すしを圧す石上に詩を題すべ

緑子の頭巾眉深まぶかきいとほし

大矢数おほやかず弓師親子も参りた

時鳥歌よむ遊女聞ゆな

麻刈れと夕日此頃このごろ斜な

「たり」「なり」と言わずして「たる」「なる」と言うがごとき、「べし」と言わずして「べく」と言うがごとき、「いとほし」と言わずして「いとほしみ」と言うがごとき、蕪村の故意に用いたるものとおぼし。前人の句またこの語を用いたるものなきにあらねど、そは終止言として用いたるが多きように見ゆ。蕪村のはことさらに終止言ならぬ語を用いて余意を永くしたるなるべし。

をさな子の寺なつかしむ銀杏いてふかな

「なつかしむ」という動詞を用いたる例ありや否や知らず。あるいは思う、「なつかし」という形容詞を転じて蕪村の創造したる動詞にはあらざるか。はたしてしかりとすれば蕪村は傍若無人の振舞いをなしたる者と謂うべし。しかれども百年後の今日に至りこの語を襲用するもの続々として出でんか、蕪村の造語はついに字彙じい中の一隅を占むるの時あらんも測りがたし。英雄の事業時にかくのごときものあり。

 蕪村は古文法など知らざりけん、よし知りたりともそれにかかわらざりけん、文法にたがいたる句

更衣母なん藤原氏なりけり

のごときあり。

我宿にいかに引くべき清水かな

のごとく「いかに」「何」等の係りを「かな」と結びたるは蕪村以外にも多し。

大文字だいもんじ近江あふみの空もたゞならね

の「ね」のごとき例も他になきにあらず、蕪村は終止言としてこれを用いたるか、あるいは前に挙げたる「たる」「なる」のごとく特に言い残したる語なるか。たとい後者なりとも文法学者をして言わしめば文法に違いたりとせん、はたして文法に違えりや、はた韻文の文法も散文のごとくならざるべからざるか、そは大いに研究を要すべき問題なり。余は文法論につきてなお幾多の疑いを存する者なれども、これらの俳句をことごとく文法に違えりとて排斥する説には反対する者なり。まして普通の場合に「ならめ」等の結語を用いる例は万葉にもあるをや。

二本ふたもとの梅に遅速を愛すかな

麓なる我蕎麦存す野分かな

の「愛すかな」「存す野分」の連続のごとき

夏山や京尽し飛ぶ鷺一つ

の「京尽し飛ぶ」の連続のごとき

らんゆふべ狐のくれし奇楠きゃら※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)たか

の「蘭夕」の連続のごとき漢文より来たりしものは従来の国語になき句法を用いたり。これらはもとより故意にこの新句法を造りしもの、しかして明治の俳句界に一生面を開きしものまた多くこの辺よりづ。



 蕪村は狐狸こり怪をなすことを信じたるか、たとい信ぜざるもこの種の談を聞くことを好みしか、彼の自筆の草稿新花摘しんはなつみは怪談を載すること多く、かつ彼の句にも狐狸を詠じたるもの少からず。

公達きんだちきつねばけたり宵の春

飯盗む狐追ふ声や麦の秋

狐火やいづこ河内かはちの麦畠

麦秋むぎあきや狐ののかぬ小百姓

秋の暮仏にばけたぬきかな

戸をたたく狸と秋を惜みけり

石を打狐る夜の砧かな

蘭夕狐のくれし奇楠きゃら※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)たか

小狐の何にむせけん小萩原

小狐の隠れ顔なる野菊かな

狐火の燃えつくばかり枯尾花

草枯れて狐の飛脚ひきゃく通りけり

水仙に狐遊ぶや宵月夜

 怪異を詠みたるもの、

ばけさうなかさかす寺の時雨しぐれかな

西の京にばけものすみて久しくあれはてたる家ありけり今は其さたなくて

春雨や人住みて煙壁を

 狐狸にはあらで幾何いくばくか怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの、

をその住む水も田に引く早苗かな

獺を打し翁も誘ふ田植かな

河童の恋する宿や夏の月

くちばみいびき合歓ねむの葉陰かな

麦秋やいたちくなるをさがもと

黄昏たそがれや萩にいたちの高台寺

むさゝびの小鳥る枯野かな

 このほか犬鼠などの句多し。そは怪異というにあらねどかくのごとき動物を好んで材料に用いたるもその特色の一なり。

 州名国名など広き地名を多く用いたり。些細ささいなることなれど蕪村以前にはこの例少かりしにや。

河内路かはちぢ東風こち吹き送る巫女が袖

きぎす鳴くや草の武蔵むさしの八平氏

三河なる八橋も近き田植かな

楊州の津も見えそめて雲の峰

夏山や通ひなれたる若狭人わかさびと

狐火やいづこ河内の麦畠

しのゝめや露を近江あふみの麻畠

初汐はつしほや朝日の中に伊豆いづ相模さがみ

大文字だいもじや近江の空もたゞならね

稲妻の一網打つや伊勢の海

紀路きのぢにも下りず夜を行く雁一つ

虫鳴くや河内通ひの小提灯こぢゃうちん

 糞、尿、屁など多く用いたるは其角なり。其角の句はやや奇を求めてことさらにものせしがごとく思わる。蕪村はこれを巧みに用い、これら不浄の物をして殺風景ならしめざるのみならず、幾多の荒寒凄涼なる趣味を含ましむるを得たり。

だいとこの糞ひりおはす枯野かな

いばりせし蒲団干したり須磨の里

糞一つ鼠のこぼすふすまかな

杜若かきつばたべたりととびのたれてける

 蕪村はこれら糞尿のごとき材料を取ると同時にまた上流社会のやさしく美しき様をも巧みに詠み出でたり。

春の夜に尊き御所をもる身かな

春惜む座主ざすの連歌に召されけり

命婦より牡丹餅ぼたもちたばす彼岸かな

滝口に灯を呼ぶ声や春の雨

よき人を宿す小家や朧月

小冠者こくゎじゃ出て花見る人をとがめけり

短夜やいとま賜はる白拍子

葛水や入江の御所に詣づれば

稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥

時鳥琥珀こはくの玉を鳴らし行く

狩衣かりぎぬの袖の裏ほたるかな

袖笠に毛虫をしのぶ古御達ふるごたち

名月や秋月どのゝふなよそひ

 蕪村の句新奇ならざるものなければ新奇をもって論ずれば蕪村句集全部を見るの完全なるにしかず。かつ初めより諸種の例に引きたる句多く新奇なるをもって特にここに拳ぐるの要なしといえども、前に挙げざりし句の中に新奇なる材料を用いし句を少し記しおくべし。

野袴の法師が旅や春の風

陽炎かげろふあじかに土をめつる人

奈良道や当帰畠たうきばたけの花一木ひとき

畑打や法三章の札のもと

巫女町によき衣すます卯月かな

更衣印籠いんろう買ひに所化しょけ二人

ゆか涼みかさ連歌の戻りかな

秋立つや白湯さゆかんばしき施薬院

秋立つや何に驚く陰陽師おんやうじ

甲賀衆かふがしゅのしのびのかけや夜半の秋

いでさらば投壺とうこ参らせん菊の花

易水に根深ねぶか流るゝ寒さかな

飛騨山ひだやまの質屋とざしぬ夜半の冬

乾鮭からざけ帯刀殿たてわきどのの台所

 これらの材料は蕪村以前の句に少きのみならず、蕪村以後もまた用いる能わざりき。



 蕪村が縁語その他文字上の遊戯を主としたる俳句をつくりしは怪しむべきようなれど、その句の巧妙にして斧鑿ふさくあとを留めず、かつ和歌もしくは檀林、支麦のごとき没趣味の作をなさざるところ、またもってその技倆をうかがうに足る。縁語を用いたる句、

春雨や身にふる頭巾づきんたりけり

つかみ取て心の闇の螢かな

半日の閑をえのきせみの声

出代でかはりや春さめ/″\と古葛籠ふるつづら

近道へ出てうれし野のつゝじかな

愚痴無智のあま酒つくる松が岡

蝸牛ででむしその角文字つのもじのにじり書

橘のかはたれ時や古館ふるやかた

橘のかごとがましきあはせかな

一八いちはつやしゃが父に似てしゃがの花

夏山や神の名はいさしらにぎて

藻の花やかたわれからの月もすむ

忘るなよ程は雲助時鳥

角文字つのもじのいざ月もよし牛祭

うそを月夜にかま時雨しぐれかな

くずの葉のうらみ顔なる細雨かな

頭巾著て声こもりくの初瀬法師

  晋子三十三回忌辰

擂盆すりぼんのみそみめぐりや寺の霜

 または

  題白川

黒谷の隣は白し蕎麦の花

のごとき固有名詞をもじりたるもあり。または

短夜や八声の鳥は八ツに啼く

茯苓ぶくりゃうは伏しかくれ松露しょうろあらはれぬ

  思古人移竹

去来去り移竹移りぬ幾秋ぞ

のごとく文字を重ねかけたるもあり。

 俳句に譬喩ひゆを用いるもの、俗人の好むところにしてその句多く理窟にち趣味を没す。蕪村の句時に譬喩を用いるものありといえども、譬喩奇抜にして多少の雅致をそなう。また支麦輩の夢寐むびにも知らざるところなり。

独鈷どくこ鎌首水かけ論の蛙かな

苗代の色紙に遊ぶ蛙かな

心太ところてんさかしまに銀河三千尺

夕顔のそれは髑髏どくろ鉢叩はちたたき

蝸牛の住はてし宿やうつせ貝

  金扇に卯花画

白かねの卯花もさくや井出の里

鴛鴦をしどりや国師のくつも錦革

あたまから蒲団かぶれば海鼠なまこかな

水仙やもずの草茎花咲きぬ

  ある隠士のもとにて

古庭に茶筌花ちゃせんばな咲く椿かな

  雁宕久しく音づれせざりければ

有と見えて扇の裏絵覚束おぼつか

  波翻舌本吐紅蓮

閻王えんわうの口や牡丹を吐かんとす

  蟻垤

蟻王宮ぎわうきゅう朱門を開く牡丹かな

浪花の旧国主して諸国の俳士を集めて円山に会筵しける時

うきくさを吹き集めてや花筵はなむしろ

  傚素堂

乾鮭や琴にをのうつ響あり



 蕪村は享保元年に生まれて天明三年に歿す。六十八の長寿を保ちしかばその間種々の経歴もありしなるべけれど、大体の上よりれば文学美術の衰えんとする時代に生まれてその盛んならんとする時代に歿せしなり。俳句は享保に至りて芭蕉門の英俊多くは死し、支考、乙由おつゆうらが残喘ざんぜんを保ちてますます俗につるあるのみ。明和以後枯楊※(「薛/子」、第3水準1-47-55)こようげつを生じてようやく春風に吹かれたる俳句は天明に至りてその盛をきわむ。俳句界二百年間元禄と天明とを最盛の時期とす。元禄の盛運は芭蕉を中心として成りしもの、蕪村の天明におけるは芭蕉の元禄におけるがごとくならざりしといえども、天明の隆盛を来たせしものその力最も多きにおる。天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰え、文政以後また痕迹こんせきを留めず。

 和歌は万葉以来、新古今以来、一時代をるごとに一段の堕落をなしたるもの、真淵まぶち出でわずかにこれを挽回したり。真淵歿せしは蕪村五十四歳の時、ほぼその時を同じゅうしたれば、和歌にして取るべくは蕪村はこれを取るに躊躇ちゅうちょせざりしならん。されど蕪村の句その影響を受けしとも見えざるは、音調になずみて清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。

 当時の和文なるものは多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古ということはあるいは蕪村をして古語を用い古代の有様を詠ぜしめたる原因となりしかも知らず。しかして蕪村はこの材料を古物語等より取りしと覚ゆ。

 蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢学ことに漢詩なりき。かつ漢学は蕪村が少年の時にむしろ隆盛を極め、徂徠そらい一派は勃興したるなり。蕪村は十分に徂徠の説を利用し、もって腐敗せる俳句に新生命を与えたるを見る。蕪村は徂徠ら修辞派の主張する、文は漢以上、詩は唐以上と言えるがごとき僻説へきせつには同意するものにあらざるべけれど、唐以上の詩をもって粋の粋となしたること疑いあらじ。蕪村が書ける春泥集しゅんでいしゅうの序の中に曰く、

(略)彼も知らず、我も知らず、自然に化して俗を離るるの捷径しょうけいありや、こたえて曰く、詩を語るべし、子もとより詩をくす、他に求むべからず、疑ってえて問う、それ詩と俳諧といささかそのを異にす、さるを俳諧を捨てて詩を語れと云う迂遠うえんなるにあらずや、答えて曰く(略)画の俗を去るだにも筆を投じて書を読ましむ、いわんや詩と俳諧と何の遠しとすることあらんや(略)

(略)詩に李杜りとを貴ぶに論なし、なお元白げんぱくを捨てざるがごとくせよ(略)

 これを読まば蕪村が漢詩の趣味を俳句にうつししことも、李杜を貴び元白をいやしみしことも明瞭ならん。漢書は蕪村の愛読せしところ、その詩を解すること深く、芭蕉がきわめておぼろに杜甫の詩想を認めしとは異なりしなるべし。

 絵画の上よりいうも蕪村は衰運の極に生まれて盛んならんとして歿せしなり。蕪村はみずから画を造りしこと多く、南宗の画家として大雅と並称せらる。天明以後絵画にわかに勃興して美術史に一紀元を与えたることにつきて、蕪村もまた多少の原因をなさざりしにはあらざるも、その影響はきわめて微弱にして、彼が俳句界における関係と同日に論ずべきにあらず。

 天明は狂歌盛んに行われ、黄表紙ようやく勢いを得たる時なり。されど俳句とは直接に関係するところなし。ただこの時代が文学美術全般の勃興を成したるは文運の隆盛を促すべき大勢に駆られたるものにして、その大勢なるものはかえって各種の文学美術が相互に影響したる結果も多かりけん。

 蕪村の交わりし俳人は太祇たいぎ蓼太りょうた暁台ぎょうたいらにしてそのうち暁台は蕪村に擬したりとおぼしく、蓼太は時々ひそかに蕪村調を学びしこともあるべしといえども、太祇に至りては蕪村を導きしか、蕪村に導かれしか、今これを判するを得ず。とにかくに蕪村が幾分か太祇に導かれし部分もあり得べきを信ずるなり。しかれども彼が師巴人はじんに受くるところ多からざりしは、成功の晩年にありしを見て知るべし。



 蕪村は摂津浪花なにわに近き毛馬塘けまづつみの片ほとりに幼時を送りしことその春風馬堤曲しゅんぷうばていきょくに見ゆ。彼は某に与うる書中にこの曲のことを記して

馬堤は毛馬塘なり、すなわち余が故園なり

といえり。やや長じて東都に遊び、巴人の門に入りて俳諧を学ぶ。夜半亭やはんていは師の名を継げるなり。宝暦のころなりけん、京に帰りて俳諧ようやく神に入る。蕪村もと名利をいとい聞達を求めず、しかれども俳人として彼が名誉は次第に四方雅客の間に伝称せらるるに至りたり。天明三年十二月二十四日夜歿し、亡骸なきがら洛東らくとう金福寺に葬る。享年六十八。

 蕪村は総常両毛奥羽など遊歴せしかども紀行なるものを作らず。またその地に関する俳句も多からず。西帰の後丹後におること三年、因って谷口氏を改めて与謝よさとす。彼は讃州に遊びしこともありけん、句集に見えたり。また厳島いつくしまの句あるを見るにこの地の風情ふぜい写し得て最も妙なり、空想の及ぶべきにあらず。蕪村あるいはここにも遊べるか。蕪村は読書を好み和漢の書何くれとなくあさりしも字句の間には眼もとめず、ただ大体の趣味を翫味がんみして満足したりしがごとし。俳句に古語古事を用いること、蕪村集のごとく多きは他にその例を見ず。

 彼が字句にかかわらざりしは古文法を守らず、仮名遣いに注意せざりしことにもしるけれど、なおその他にしか思わるるところ多し。一例を挙ぐれば彼が自筆の新花摘に

射干して※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやく近江やわたかな

とあり。射干しゃかんは「ひおうぎ」「からすおうぎ」などいえる花草にして、ここは「照射ともしして」の誤なるべし。蕪村が照射と射干との区別を知らざるはずはなけれど、かかることに無頓着のさがとて気のつかざりしものならん。近江も大身と書くべきにや。秀吉が奥州を「大しゅ」と書きしことさえ思い出されてなつかし、蕪村の磊落らいらくにして法度に拘泥せざりしことこの類なり。彼は俳人が家集を出版することをさえ厭えり。彼の心性高潔にしての俗気なきこともって見るべし。しかれども余は磊落高潔なる蕪村を尊敬すると同時に、小心ならざりし、あまり名誉心を抑え過ぎたる蕪村を惜しまずんばあらず。蕪村をして名を文学に揚げ誉を百代に残さんとの些の野心あらしめば、彼の事業はここに止まらざりしや必せり。彼は恐らくは一俳人に満足せざりしならん。春風馬堤曲に溢れたる詩思の富贍ふせんにして情緒の纏綿てんめんせるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。彼はその余勢をもって絵事を試みしかども大成するに至らざりき。もし彼をして力を俳画に伸ばさしめば日本画の上に一生面を開き得たるべく、応挙輩をして名をほしいままにせしめざりしものを、彼はそれをも得なさざりき。余は日本の美術文学のために惜しむ。

 春風馬堤曲とは俳句やら漢詩やら何やらぜこぜにものしたる蕪村の長篇にして、蕪村を見るにはこよなく便となるものなり。俳句以外に蕪村の文学として見るべきものもこれのみ。蕪村の熱情を現わしたるものもこれのみ。春風馬堤曲とは支那の曲名を真似たるものにて、そのかく名づけしゆえんは蕪村の書簡につまびらかなり。書簡に曰く

一春風馬堤曲(馬堤は毛馬塘なり[#改行]すなわち余が故園なり)

余幼童之時春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候水には上下の船あり堤には往来の客ありその中には田舎娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧にならい髪かたちも妓家の風情をまなび○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ故郷の兄弟を恥じいやしむ者ありされどもさすが故園情こえんのじょうに堪えずたまたま親里に帰省するあだ者なるべし浪花を出てより親里までの道行にて引道具の狂言座元夜半亭と御笑い下さるべく候実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候

代女述意じょにかわってこころをのぶと称する春風馬堤曲十八首に曰く

やぶ入や浪花なにはを出て長柄川ながらがは

春風や堤長うして家遠し

堤下摘芳草ていかはうさうをつむ  荊与棘塞路けいときょくとみちをふさぐ

荊棘何無情けいきょくなんぞつれなきや  裂裙且傷股くんをさきかつこをきずつく

渓流石点々けいりういしてんてん  蹈石撮香芹いしをふんでかうきんをとる

多謝水上石たしゃすすゐじゃうのいし  教儂不沾裙われにくんをうるほさざるををしふるを

一軒の茶店の柳おいにけり

茶店の老婆子われを見て慇懃いんぎん無恙むやうを賀し且春衣しゅんい

店中有二客てんちうにかくあり  能解江南語よくかうなんのごをかいす

酒銭擲三緡しゅせんさんびんをなげうち  迎我譲榻去われをむかへたふをゆづりてさる

古駅三両家猫児べうじ妻をよぶ妻来らず

呼雛籬外※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)ひなをよぶりぐゎいのとり  籬外草満地りぐゎいくさちにみつ

雛飛欲越籬ひなとびてりをこえんとほっす  籬高随三四りたかうしてしたがふさんし

春草路三叉さんさ中に捷径あり我を迎ふ

たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得きとくす去年此路よりす

憐しる蒲公たんぽぽ茎短して乳を※(「さんずい+邑」、第3水準1-86-72)うるほす

むかし/\しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐抱くゎいはう別に春あり

春あり成長して浪花なにはにあり 梅は白し浪花橋らうくゎけう辺財主の家 春情まなび得たり浪花なには風流ふり

郷を辞し弟にそむいて身三春さんしゅん 本をわすれ末をとる接木つぎきの梅

故郷春深し行々ゆきゆきて又行々ゆきゆく 楊柳やうりう長堤ちゃうていやうやくくれたり

矯首はじめて見る故園の家黄昏くゎうこん戸にる白髪の人弟を抱き我をまつ春又春

不見みずや古人太祇が句

藪入やぶいりるやひとりの親のそば

 なおこのほかに澱河歌よどがわのうた三首あり。これらは紀行的韻文とも見るべく、諸体混淆こんこうせる叙情詩とも見るべし。惜しいかな、蕪村はこれを一篇の長歌となして新体詩の源を開く能わざりき。俳人として第一流に位する蕪村の事業も、これを広く文学界の産物として見れば誠に規模の小なるに驚かずんばあらず。

 蕪村は鬼貫句選のばつにて其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫を五子ごしと称し、春泥集の序にて其角、嵐雪、素堂、鬼貫を四老しろうと称す。中にも蕪村は其角を推したらんと覚ゆ、「其角は俳中の李青蓮と呼ばれたるものなり」といい「読むたびにあかず覚ゆ、これ角がまされるところなり」ともいえり。しかもその欠点を挙げて「その集をけみするに大かた解しがたき句のみにてよきと思う句はまれまれなり」といい「百千の句のうちにてめでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ」と評せり。自己が唯一の俳人とあがめたる其角の句を評して佳什かじゅう二十首に上らずという、見るべし蕪村の眼中に古人なきを。その五子と称し四老と称す、もとより比較的の讃辞にして、芭蕉の俳句といえどもその一笑を博するに過ぎざりしならん。蕪村の眼高きことかくのごとく、手腕またこれにう。而して後に俳壇の革命は成れり。

 ある人咸陽宮かんようきゅうの釘かくしなりとて持てるを蕪村はそしりて「なかなかに咸陽宮の釘隠しと云わずばめでたきものなるを無念のことにおぼゆ」といえり。蕪村の俗人ならぬこと知るべし。蕪村かつて大高源吾より伝わる高麗こうらいの茶碗というをもらいたるを、それも咸陽宮の釘隠しの類なりとて人にやりしことあり。またある時松島にて重さ十斤ばかりの埋木の板をもらいて、辛うじて白石の駅に持ち出でしが、長途のつかれ堪うべくもあらずと、旅舎に置きて帰りたりとぞ。これらの話を取りあつめて考うれば、蕪村の人物はおのずから描き出されて目の前に見る心地す。

 蕪村とは天王寺かぶらの村ということならん、和臭を帯びたる号なれども、字面じづらはさすがに雅致ありて漢語として見られぬにはあらず。俳諧には蕪村または夜半亭の雅名を用うれど、画にはいん、春星、長庚ちょうこう、三菓、宰鳥、碧雲洞へきうんどう、紫狐庵等種々の異名ありきとぞ。かの謝蕪村、謝寅、謝長庚、謝春星など言える、門弟にも高几董こうきとう阮道立げんどうりつなどある、この一事にても彼らが徂徠派の影響を受けしこと明らかなり。二字の苗字を一字に縮めたるは言うまでもなく、その字面より見るも修辞派の臭味を帯びたり。

 蕪村の絵画は余かつて見ず、ゆえにこれを品評することかたしといえども、その意匠につきては多少これを聞くを得たり。(筆力等の技術はその書及び俳画を見て想像するに足る)蕪村は南宗より入りて南宗を脱せんと工夫せしがごとし。南宗を学びしはその雅致多きを愛せしならん。南宗を脱せんとせしは南宗の粗鬆そしょうなる筆法、狭隘きょうあいなる規模がよく自己の美想を現わすを得ざりしがためならん。彼は俳句に得たると同じ趣味を絵画に現わしたり、もとより古人の粉本ふんぽんし意匠を剽竊ひょうせつすることをなさざりき。あるいは田舎の風光、山村の景色等自己の実見せしもの(かつ古人の画題に入らざりしもの)を捉え来たりて、支那的空想にふけりたる絵画界に一生面を開かんと企てたり。あるいは時間を写さんとし、あるいは一種の色彩を施さんとして苦心したり。(色彩に関する例を挙ぐれば春の木の芽の色を樹によって染め分けたるがごとき、夜間燈火の映じたる樹を写したるがごとき)絵画における彼の眼光はきわめて高く、到底応挙、呉春らの及ぶところにあらず。しかれども蕪村は成功する能わずして歿し、かえって豎子じゅしをして名を成さしめたり。

 蕪村の画を称する者多く俳画をいう。俳画は蕪村の書きはじめしものにして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字のごときもののみ、ついに画にあらず、画を知らざるものこれをもって画となす、取らざるなり。蕪村の字支那の書風より出でてやや和習あり。縦横自在にして法度にかかわらず、しかも俗気なきこと俳画に同じ。

 蕪村の文章流暢りゅうちょうにして姿致しちあり。水の低きにくがごとく停滞するところなし。恨むらくは彼は一篇の文章だも純粋の美文として見るべきものを作らざりき。

 蕪村の俳句は今に残りしもの一千四百余首あり、千首の俳句を残したる俳人は四、五人を出でざるべし。蕪村は比較的多作の方なり。しかれども一生に十七字千句は文学者として珍とするに足らず。放翁は古体今体を混じて千以上の詩篇を作りしにあらずや。ただ驚くべきは蕪村の作が千句ことごとく佳句なることなり。想うに蕪村は誤字違法などは顧みざりしも、俳句を練る上においては小心翼々として一字いやしくもせざりしがごとし、古来文学者のなすところを見るに、多くは玉石混淆こんこうせり、なすところ多ければ巧拙ふたつながらいよいよ多きを見る。杜工部とこうぶ集のごときこれなり。蕪村の規模は杜甫とほのごとく大ならざりしも、とにかく千首の俳句ことごとく巧みなるに至りては他に例を見ざるところなり。蕪村の天材は咳唾がいだことごとくたまを成したるか、蕪村は一種の潔癖ありていやしくも心に満たざる句はこれを口にせざりしか、そもそも悪句は埋没して佳句のみ残りたるか。余は三者皆原因の一部を分有したりと思う。俳句における蕪村の技倆は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉、其角の及ぶところにあらず。連句もまた蕪村は蕪村流を応用して面目を新たにせり。しかれども蕪村は芭蕉が連句に力を用いしだけ熱心には力をここに伸ばさざりき。

 蕪村の俳諧を学びし者月居、月渓、召波、几圭きけい維駒いく等皆師の調を学びしかども、ひとりその堂に上りし者を几董きとうとす、几董は師号を継ぎ三世夜半亭をとなう。惜しむべし、彼れ蕪村歿後数年ならずしてまた歿し、蕪村派の俳諧ここに全く絶ゆ。

明治二十九年草稿

明治三十二年訂正






底本:「日本の文学 15」中央公論社

   1967(昭和42)年6月5日初版発行

   1973(昭和48)年7月30日10版発行

入力:蒋龍

校正:米田

2010年12月28日作成

青空文庫作成ファイル:

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