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雨夜詞

田中貢太郎




 給仕女のお菊さんは今にもぶらりとやつて来さうに思はれる客の来るのを待つてゐた。電燈の青白く燃えだしたばかりの店には、二人の学生が来てそれが入口の右側になつたテーブルに着いて、並んで背後の板壁に背を凭せるやうにしてビールを飲んでゐた。其所にはお菊さんの朋輩のお幸ちやんがゐて、赤い帯を花のやうに見せながら対手をしてゐた。

 お菊さんは勝手の出入口の前のテーブルにつけた椅子に腰をかけてゐた。出入口には二筋の白い暖簾がさがつて、それが藍色の着物を着たお菊さんの背景になつてゐた。それは長く降り続いてゐた雨の空が午過ぎから俄に晴れて微熱の加はつて来た、何所からともなしに青葉の香のやうな匂のして来る晩であつた。お菊さんは青いカーテンの垂れさがつてゐる入口の方を見てゐた。見ると云ふよりは聞いてゐた。それはのそりのそりと歩く重だるいやうな足音であつた。

······何を考へてるの、ゐらつしやいよ、」

 お幸ちやんの顔が此方を向いたので、お菊さんは自分が北村さんを待つてゐてうつかりしてゐたことが判つて来た。

「行くわよ、」

「何をそんなに考へ込んでるの、昨夜のあの方のこと、」

 それは近くの自動車屋の運転手のことで、お菊さんにはすぐそれと判つた。買つたのか貰つたのか、二三本葉巻を持つて来て、それにあべこべに火を点けながら、俺はこれが好きでね、と云つて喫んだので、二人は店がしまつた後で大笑に笑つたのであつた。

「さうよ、俺は葉巻が好きでね、」

 お菊さんは男の声色を強ひながら、右の指を口の縁へ持つて行つて、煙草を喫むやうな真似をした。

「さうよ、さうよ、」

 と云つてお幸ちやんが笑ひだした。

「なんだい、なんだい、へんなことを云つてるぢやないか、なんのことだい、」

 お幸ちやんと並んでゐた学生の一人がコツプを口にやりながら云つた。

「面白いことよ、これよ、俺はこれが好きでね、何時もあべこべに喫むんだよ、」

 お幸ちやんは笑ひながら右の指を二本、口の縁に持つて行つて煙草を喫む真似をした。

「なんだい、その真似は、何人がそんなことをするんだ、云つてごらんよ、何人だね、」

「運転手のハイカラさんよ、」

「運転手つて、自動車か、」

「さうよ、」

「それがどうしたんだ、」

「面白いのよ、昨夜······、」

 お幸ちやんはそれから声を一段と小さくして話しだした。お菊さんはまた入口の方に眼をやつて北村さんのことを考へだした。お菊さんの眼の前には、肥つた色の青白い、丸顔の線の軟らかなふわりとした顔が浮かんでゐた。この月になつて雨が降りだした頃から来はじめた客は、魚のフライを注文して淋しさうにビールを飲んだ。

「此所は面白い家だね、これからやつて来るよ、」

 と客が心持好ささうに云ふので、

「どうぞ、奥さんに好くお願ひして、ゐらつしやつてくださいまし、」

 と笑ふと、

「私には、その奥さんが無いんだ、可愛さうぢやないか、」

 客は金の指環の見える手でビールのコツプを持ちながら笑つた。

「御冗談ばつかし、」

「冗談ぢやないよ、本当だよ、先月亡くなつたんだよ、だからかうして飲みに来るんぢやないか、」

 その云ひ方が何方かしんみりして嘘のやうでないから、涙ぐましい気持になつた。

「本当、」

「本当とも、だから可愛がつてくれないといけないよ、」

「お気の毒ですわ、ね、え、」

「お気の毒でございますとも、」

 客は淋しさうに笑つて飲んでしまつたコツプをくれた。

「一杯ささう、おなじみになる標だ、」

「さう、では、ちよと戴きます、」

「ちよつとは駄目だよ、多く飲まないと忘れて標にならないよ、」

 客はビール壜を持つてなみなみと酌をしてくれた。

「では、どつさり戴きます、」

 その客は北村さんと云ふ客であつた。

「すぐこの近所でございますの、」

「すぐ其所だよ、先月越して来たばかしなんだ、深川の方にゐてね、」

「大変遠方からいらつしやいましたね、」

「さうだ、深川の方で工場をやつてたが、厭になつたからね、家に使つてる奴に譲つてしまつたんだよ、」

 もしかすると奥さんが亡くなつたので、それで何をするのも厭になつて、この山の手に引つ込んだのぢやないかと思つた。

「人を使つてやる仕事は煩さいもんでね、金にはかかはらないよ、」

「さうでございませうね、」

 なんの工場であつたか知りたかつたので、

「なんの工場でございます、」

「つまらん工場さ、針工場だよ、」

 針工場の意味が判らなかつた。

「針工場つて、どんなことをする工場······、」

「メリヤスを織る針だよ、」

 他に何人も客がなくて、それでお幸ちやんが出前を持つて行つたことがあつた。北村さんの右の手は此方の左の手首に絡つてゐた。

「お前さんは何所だね、」

「私、愛知県よ、」

「では、名古屋かね、」

「名古屋の在ですよ、」

「兄弟があるかね、」

「えゝ、兄が二人と、妹が一人あるんですよ、お百姓よ、」

「お前さん、何処かへお嫁にでも行く約束があるの、」

「そんな所ありませんわ、」

「ないことはなからう、お前さんのやうな好い女を、そのままにはしておかないよ、」

「行く所がなくつても、好い人はあるだらう、」

 北村さんはあつさりと云つたが、此方の手首に絡んでゐた北村さんの手はほてつてゐた。

「私のやうな者は見向いてくれる方もないんですよ、」

「あるよ、あつたらどうする、······あつたら困るだらう、」

「あつたら有難いんですわ、」

「本当、」

 北村さんの眼は此方の眼をまともに見詰めた。······

「をかしいよ、お菊さんはまた考へ込んだよ、あ、あれだよ、お菊さんは······、」

 お幸ちやんの声がするので、お菊さんは夢から覚めたやうにしてその方を見た。お幸ちやんは学生に首づたへ手をやられたなりに、学生と並んで板壁に凭れて笑つてゐた。

「お幸ちやんぢやあるまいし、あたいにや、若旦那は無いんだよ、」

「あるわよ、針工場さんがあるわよ、」

「馬鹿、」

 お菊さんは云ひ当てられたので、ちよつと気まりが悪るかつた。

「好いわよ、そんなに気まりを悪るがらないだつて、」

 お幸ちやんの首つたまを抱いてゐる学生が口を挟んだ。

「針工場つて、何人だい、あの肥つた親爺かい、好く祝儀をくれる、」

「さうよ、針工場の旦那よ、親爺なんて云ふとお菊さんが怒つてよ、」

 も一人の学生がそれを聞くとお菊さんの方を見て云つた。

「針工場夫人、此所へお出でよ、お祝に一杯あげやう、」

 お菊さんはてれかくしに、

「さう、くださるの、」

 と云つて腰をあげて、そのテーブルの方へ歩いて行きかけたところで、痩せた手でカーテンの端を捲つて入つて来た者があつた。背のひよろ長い黒い著物を着た、頬のすつこけた老婆であつた。それは一眼見て料理を注文に来た客であると云ふことが判つた。

「ゐらつしやいまし、」

 お菊さんがそのまゝ老婆の前へ行つて立つた。

「出前を頼みたいが、」

 お菊さんは見知らないはじめての客であるから、先づ所を聞いた。

「何方様でございませう、」

「はじめてですがね、この先の赤いポストの所を入つて、突きあたつてから、左へ曲つて行くと、寺がありますね、その寺について右に曲つて行くと、もう寺の塀が無くならうとする所に、右に入つて行く露次があるがね、その露次の突きあたりだよ、北村つて云ひます、」

 お菊さんはもしかするとあの北村さんの家ではないかと思つた。

「北村さん、宜しうございます、お料理は何に致しませう、」

「魚のフライと、他に一ツなんでも好いから見つくろつておくれよ、家の旦那は時々此方へ来るさうだ、」

 果して北村さんであつた。お菊さんはちよつと気まりが悪るかつた。お菊さんはその晩は出前の番であつた。

「魚のフライに、お見つくろいが二品、あはして三品でございますね、」

「さうだよ、早く持つて来ておくれよ、旦那が、今晩は外へ出るのもおつくうだから、家であがるつて待つてるからね、」

 老婆はそのまゝひよろひよろとするやうに出て行つた。お菊さんは勝手の方へ行かうとしたが、学生やお幸ちやんに顔を見られるやうな気がした。

「お目出たう、針工場さん、」

 お幸ちやんに手をかけてゐた学生が笑つた。


 お菊さんは耳門を入ると、右の手に持つてゐた岡持を左の手に持ちかへて、玄関の方を注意した。青醒めたやうな光が坂の下に見る火のやうに下に見えてゐた。入つて来た露次の工合から平坦な土地のやうに感じてゐたその感じを裏切られてしまつた。其所にはたらたらとおりて行く坂路のやうな路があつた。お菊さんは不思議な家だと思ひながら足許に注意しい/\歩いた。

 萠黄色に見える火の光とも、また見やうによつては蓴菜の茎のやうにも見える物が眼の前に一めんに立つてゐるやうに思はれて来た。そしてその萠黄色の茎は身だけよりも一層長く上に延びてゐて、それに手がかゝつたり頬が触つたりするやうに思はれた、お菊さんは立ち止つた、萠黄色の茎はゆうらりゆうらりと動いてゐるやうに見えた。お菊さんは驚いて眼を上の方にやつた。上の方は薄月がさしたやうにぼうと明るくなつてゐて、其所には蓴菜の葉のやうに円い物が一めんに浮んだやうになつてゐた。

 お菊さんは不思議な家へ来たものだと思つた。そして早く玄関へ行つて、北村さんに逢ひたいと思つた。お菊さんは玄関の火に注意した。青醒めたやうな光は遠くの方に見えてゐた。お菊さんは萠黄色の茎に眼をふさいで歩き出した。

「来たのか、来たのか、」

 お菊さんは吃驚して立ち止つた。黒い背のひよろ長い物が前に来て立つてゐた。それは先き店へ来た老婆の様であつた。

「遅くなつてすみません、」

「旨い物はさう手取早く出来るもんではないよ、へ、へ、へ、さあ此方へお出でよ、」

 老婆は萠黄の茎を分けるやうにしてひよろひよろと歩いて行つた。お菊さんはその後から歩いた其所はもう傾斜はなくなつてゐたが、雲の上にゐるやうで足に踏堪へがなかつた。

「此所だよ、此所からお這入りよ、」

 お菊さんはもう玄関のやうな青醒た光の中に立つてゐた。

「旦那、旦那、やつと来ましたよ、」

 老婆の声がしたかと思ふと太つた青膨れた北村さんの顔が眼の前に見えて来た。お菊さんはほつとした。その拍子にお菊さんの呼吸があぶくのやうになつて口からぶくぶくと出た。

 お菊さんは北村へ出前を持つて行つたきり帰らなかつた。バーでは手分けをして捜索したが、だいいち北村と云ふ家もなければ、何所へ行つたのかさつぱり判らなかつた。しかし客には失踪したとも云へないので、聞く者があると、

「芝の親類へお嫁に行つたんですよ、」

 と云つてゐた。ところが或る雨の降る静な晩、時たま店へ来る童顔の頬髯の生えた老人がやつて来た。老人は何所で飲んだのかぐてぐてに酔つて顔を赭くしてゐた。

「おい、一人の女はどうしたんだ、」

 と老人が云ふので、お幸ちやんは例によつて、

「芝の親類へお嫁に行つたんですよ、」

 と云つた。老人はそれを聞くと、テーブルへ片肱をついてそれで頬を支へながら、こくりこくりとやりだしたが、急に眼を開けて云つた。

「あの女が芝なんかにゐるもんかい、あれや雨で大河からあがつて来た奴に連れて行かれたんだよ、彼奴を何んと思ふんだ、頭から顔からつるつるとしてゐたんだらう、」

 老人はかう云つてから、またこくりこくりとやりだした。






底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社

   2003(平成15)年10月22日初版発行

底本の親本:「黒雨集」大阪毎日新聞社

   1923(大正12)年10月25日

入力:川山隆

校正:門田裕志

2009年8月12日作成

2012年5月24日修正

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