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蟇の血

田中貢太郎





 三島譲は先輩の家を出た。まだ雨が残つてゐるやうな雨雲が空いちめんに流れてゐる晩で、暗い上に雨水を含んだ地べたがジクジクしてゐて、はねがあがるやうで早くは歩けなかつた。その上、山の手の場末の町であるから十時を打つて間もないのに、両側の人家はもう寝てしまつてひつそりとしてゐるので、非常に路が遠いやうに思はれて来る。で、車があるなら電車まで乗りたいと思ひ出したが、夕方来る時車のあるやうな所もなかつたのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩に相談してゐた女のことが意識に登つて来た。······(もすこし女の身元や素状を調べる必要があるね、)と云つた先輩の言葉が浮んで来た。······法科出身の藤原君としては、素状も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思ふのはもつともなことだが、過去はどうでも好いだらう。此の国の海岸の町に生れて三つの年に医者をしてゐた父親に死なれ、母親が再縁した漁業会社の社長をしてゐる人の所で大きくなり、三年前に母が亡くなつた頃から家庭が冷たくなつて来たので、昨年になつて家を逃げ出したと云ふのが本当だらう。血統のことなんかは判らないが。大したこともないだらう······

 ······(一体女がそんな手もなく出来るもんかね、)と云つて笑つた先輩の言葉がふとまた浮んで来る。······なるほど考へて見ると彼の女を得たのはむしろ不思議と思ふくらゐに偶然な機会からであつた。しかし世間一般の例から云つてみるとありふれた珍しくもないことである。自分は今度の高等文官試験の本準備にかかる前に五六日海岸の空気を吸ふてみるためであつたが、一口に云へば一人の若い男が海岸へ遊びに行つてゐて、偶然に若い女と知合になりその晩の内に離れられないものとなつてしまつたと云ふ、毎日新聞の社会記事の中にある簡単な事件で、別に不思議でもなんでもない。

 女と交渉を持つた日の情景がぼうとなつて浮んで来る。······黄いろな夕陽の光が松原の外にあつたが春の日のやうに空気が湿つてゐて、顔や手先の皮膚がとろとろとして眠いやうな日であつた。彼は松原に沿うた櫟林の中を縫ふてゐる小路を抜けて行つた。それはその海岸へ来てから朝晩に歩いてゐる路であつた。櫟の葉はもう緑が褪せて風がある日にはかさかさと云ふ音をさしてゐた。

 その櫟林の先はちよつと広い耕地になつてゐて黄いろに染まつた稲があつたり大根や葱の青い畑があつた。其処には、櫟林に平行して里川が流れてゐて柳が飛び飛びに生えてゐる土手に、五六人の者がちらばつて釣を垂れてゐた。人の数こそ違つてゐるがそれは彼が毎日見かける趣であつた。その魚釣の中には海岸へ遊びに来てゐる人も一人や二人は屹と交つてゐた。そんな人は宿の大きなバケツを魚籃の代りに持つてゐて、覗いてみると時たま小さな鮒を一二尾釣つてゐたり、四五寸ある沙魚を持つてゐたりする。

 彼が歩いて来た道がその里川に支へられた所には、上に土を置いた板橋がかかつてゐた。その橋の右の袂にも釣竿を持つた男が立つてゐた。それは鼻の下に靴ばけのやうな髭を生やした頬骨の出た男で、黒のモスの兵児帯を尻高に締めてゐた。小学校の教師か巡査かとでも云ふ物腰であつた。彼はその足元に置いてある魚籃を覗いて見た。其所には五六尾の沙魚が這入つてゐた。

(沙魚が釣れましたね、)

 と彼が挨拶のかはりに云ふと、

(今日は天気の具合が好いから、もすこし釣れさうなもんですが、釣れません、)[#「釣れません、)」は底本では「釣れません、」」]

(やつぱり天気によりますか、なあ、)

(あんまり、明るい、水の底まで見える日は、いけないですよ、今日も、もすこし曇ると、なほ好いんですが、)

(さうですか、なあ、)

 彼はちよつと空の方を見た。薄い雲が流れてそれが網の目のやうになつてゐた。彼はその雲を見た後に川の土手の方と行かうと思つて、板橋の上に眼をやつたところで橋の向ふ側に立つて此方の方を見てゐる若い女を見付けた。紫の目立つ銘仙かなにかの派手な模様のついた着物で小柄なその体を包んでゐた。ちよつと小間使か女学生かと云ふふうであつた。色の白い長手な顔に黒い眼があつた。彼は何所かこのあたりの別荘へ来てゐる者だらうと思つたきりで、それ以上別に好奇心も起らないので、女のことは意識の外に逸してその土手を上手の方へと歩いて行つた。

 二丁ばかりも行くともう左側に耕地がなくなつて松原の赤土の台地が来た。其所にも川の向ふへ渡る二本の丸太を並べて架けた丸木橋があつたが、彼はそれを渡らずに台地の方へと、爪先きあがりの赤土を踏んであがつて行つた。

 其所には古い大きな黒松があつてその浮き根が其所此所に土蜘蛛が足を張つたやうになつてゐた彼は昨日も一昨日もその一つの松の浮き根に腰をかけて雑誌を読んでゐたので、その日もまた昨日腰をかけて親しみを持つてゐた根へ行つて、腰をかけながら川下の方を見た。薄い鈍い陽の光の中に釣人達は絵に画いた人のやうに黙黙として立つてゐた。彼は先つきの女のことをちよつと思ひ出したので、見直してみたがもうそれらしい姿は見えなかつた。

 彼は何時の間にか懐に入れてゐた雑誌を取り出して読みはじめた。読んでゐる内に面白くなつて来たので、もう他のことは一切忘れてしまつて、夢中になつて読み耽つてゐた。それは軍備縮少の徹底的主張とか、生存権の脅威から来る社会的罪悪の諸相観とか、華盛頓会議と軍備縮限とかさう云ふやうな見出しを置いた評論文であつた。そして、実生活の煩労から哲学と宗教の世界へと云ふやうな、思想家として有名な某文士の評論を読みかけたところで、頭を押し付けられるやうな陰鬱な感じがするので、読むことを止めて眼をあげると[#「眼をあげると」は底本では「眠をあげると」]、もう陽が入つたのか四辺が灰色になつてゐた。旅館で飯の仕度をして待つてゐるだらうと思つたので、帰らうと思つて雑誌を懐に入れながらふと見ると、右側のちよつと離れた草の生へた所に女が一人低まつた方に足を投げ出し、両手で膝を抱くやうにして何か考へるのか首を垂れてゐる。それは着物の色彩の具合が先つき板橋の向ふで見た女のやうであつた。

 彼は不審に思ふた。先つきの女が何故今までこんな所にゐるのだらう、それとも自分と同じやうに一人で退屈してゐるから散歩に来て遊んでゐるのだらうか、しかし、あんなに垂れて考へ込んでゐるところを見ると何か事情があるかも判らない、傍へ寄つて行つたら気味を悪がるかも判らないが一つ聞いてやらうと思つた。で、腰をあげて歩きかけたが、そつと行くのは何か野心があつてねらひ寄るやうで疚しいので、軽い咳を一二度しながら威張つたやうに歩いて行つた。

 女は咳と足音に気がついて此方を見た。それは確に先つきの女であつた。女は別に驚きもしないふうですぐ顔を向ふの方へ向けてしまつた。彼は茱萸の枝に着物の裾を引つかけながらすぐ傍へと行つた。女は綺麗な顔をまた此方に向けた。

(あなたは、何方にゐらつしやるんです、)

(私、先つき此方へ参りましたんですよ、)

 女が淋しさうに云つた。

(それぢや、宿にはまだお這入りにならないんですね、)

(ええ、ちよつと、なんですから、)

彼はふと女は誰か待合はす者でもあるかも判らないと思ひ出した。

(こんな遅くなつて、一人かうしてゐらつしやるから、ちつとお尋ねしたんです、)

(有難うございます、あなたはこのあたりの旅館にいらつしやるの、)

(五六日前から、すぐ其所の鶏鳴館と云ふのに来てゐるんです。もしお宿の都合で、他がいけないやうならお出なさい、私は三島と云ふんです、)

(有難うございます、もしかすると、お願ひいたします、三島さんとおつしやいますね、)

(さうです、三島譲と云ひます、ぢや、失敬します、御都合でお出でなさい、)

 彼は女と別れて歩いたが弱弱しい女の態度が気になつて、もしかするとよく新聞で見る自殺者の一人ではないだらうかと思ひ出した。彼は歩くのを止めて松の幹の立ち並んだ蔭からそつと女の方を覗いた。

 女は顔に両手の掌を当ててゐた。それは確かに泣いてゐるらしかつた。彼はもう夕飯のことも忘れてぢつとして女の方を見てゐた······

 譲はふと道の曲り角に来たことに気がついた。で、左に折れ曲らうとして見ると、其所に一軒の門口が見えて、出口に一本の欅があり、その欅の後にあつた板塀の内の柱に門燈が光つてゐたが、それは針金の網に包んだ円い笠に被れたもので、その柱に添うて女竹のやうな竹が二三本立ち小さなその葉がぢつと立つてゐた。ふと見るとその電燈の笠の内側に黒い斑点が見えた。それは壁虎であつた。壁虎は餌を見付けたのか首を出したがその首が五寸ぐらゐも延びて見えた。彼はやつと思つて足を止めた。電燈の笠が地球儀の舞ふやうにくるくると舞ひ出した。彼は厭なものを見たのだと思つて路の悪いことも忘れて小走りに左の方へと曲つて行つた。



 譲は奇怪な思ひに悩まされながら歩いてゐたがその内に頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんな馬鹿気たことのある筈がない、神経の具合であんなに見えたものであらうと思ひ出した。しかしそれが神経の具合だとすると、自分は今晩どうかしてゐるかも判らない、もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思ひ出した。さう思ふと憂鬱な気持になつて来た。

 譲はその憂鬱な気持の中で、偶然な機会から女を得たことも本当でなくて、矢張り奇怪な神経作用から来た幻覚ではないだらうかと思つた。

 何時の間にか彼は今までよりは広い明るい通へ出てゐた。と、彼の気持は軽くなつて来た。彼は女が自分の帰りを待ちかねてゐるだらうと思ひ出した。軽い淡白な気持を持つてゐる小鳥のやうな女が、片肱を突いて机の横に寄りかかつてぢつと耳を傾け、玄関の硝子戸の開く音を聞きながら、自分の帰るのを待つてゐる容が浮んで来た。浮んで来るとともに、今晩先輩に相談した、女と素人屋の二階を借りて同棲しようとしてゐることが思はれて来た。

 ······(君もどうせ細君を持たなくちやならないから、好い女なら結婚しても好いだらうが、それにしてもあまり疾風迅雷的ぢやないか、)と云つて笑つた先輩の言葉が好い感じをともなふて来た。

 職業的な女なら知らないこともないがさうした素人の処女と交渉を持つた経験のない彼は、女の方に特種な事情があつたにしても手もなく女を得たと云ふことが、お伽話を読んでゐるやうな気持がしてならなかつた。

「僕も不思議ですよ、なんだかお伽話を読んでるやうな気がするんです、」と云つた自分の言葉も思ひ出された。彼は藤原君がそんなことを云ふのももつともだと思つた。

······女は真暗になつた林の中をふらふらと歩き出した。そして彼の傍を通つて海岸の方へ行きかけたが、泣きじやくりをしてゐた。彼は確に女は自殺するつもりだらうと思つたので助けるつもりになつた。それにしても女を驚かしてはいけないと思つたので女を二三間やり過してから歩いて行つた。

(もしもし、もしもし、)

 女はちよつと白い顔を見せたがすぐ急ぎ足で歩き出した。(僕は先つきの男です、決して怪しいもんぢやありません、あなたがお困りのやうだから、お訊ねするんです、待つてください、)

 女はまた白い顔をすこし見せたやうであつたが足は止めなかつた。

(もしもし、待つてください、あなたは非常にお困りのやうだ、)

 彼は到頭女に近寄つてその帯際に手をかけた。

(僕は先つきお眼にかかつた三島と云ふ男です、あなたは非常にお困りのやうだ、)

 女はすなほに立ち止つたがそれと一緒に両手を顔に当てて泣き出した。

(何かあなたは、御事情があるやうだ、云つてください、御相談に乗りませう、)

 女は泣くのみであつた。

(こんな所で、話すのは変ですから、私の宿へ参りませう、宿へ行つて、ゆつくりお話を聞きませう、)

 彼は到頭女の手を握つた。······

 路はまた狭い暗い通りへと曲つた。譲は早く帰つて、下宿の二階で自分の帰りを待ちかねてゐる女に安心さしてやりたいと思つたので、爪先さがりになつた傾斜のある路をとつとと歩き出した。彼の眼の前には無邪気なおつとりした女の顔が見えるやうであつた。

 ······(私は死ぬるより他に、この体を置くところがありません、)家を逃げ出して東京へ出てから一二軒女中奉公をしてゐる内にある私立学校の教師をしてゐる女と知合になつて、最近それの世話で某富豪の小間使に行つてみると、それは小間使以外に意味のある奉公で、行つた翌晩主人から意外の素振りを見せられたので、その晩の内に其所を逃げ出してふらふらと海岸へやつて来たと云つて泣いた女の泣き声がよみがえつて来た。

 譲は自分の右側を歩いてゐる人の姿に眼を着けた。路の右側は崖になつてその上にただ一つの門燈が光つてゐた。右側を歩いてゐる人は此方を振り返るやうにした。

「失礼ですが、電車の方へは、かう行つたらよろしうございませうか、」

 それは若い女の声であつた。譲には紅いその口元が見えたやうな気がした。彼はちよつと足を止めて、

「さうです、此所を行つて、突きあたりを左へ折れて行きますと、すぐ、右に曲る所がありますから、其所を曲つて何所までも真直に行けば、電車の終点です、私も電車へ乗るつもりです、」

「どうも有難うございます、この先に私の親類もありますが、この道は、一度も通つたことがありませんから、なんだか変に思ひまして······、では、其所まで御一緒にお願ひ致します、」

 譲は足の遅い女と道連れになつては困ると思つたがことはることも出来なかつた。

「行きませう、お出でなさい、」

「すみませんね、」

 譲はもう歩き出したがはじめのやうにとつととは歩けない。彼は仕方なしに足を遅くして歩いた。

「道がお悪うございますね、」

 女は譲の後に引き添ふて歩きながら何所かしつかりしたところのある言葉で云つた。

「さうですね、悪い道ですね、あなたはどちらからゐらいらしたんです[#「ゐらいらしたんです」はママ]、」

「山の手線の電車で、この先へまでまゐりましたが、市内の電車の方が近いと云ふことでしたから此方へまゐりました。市内の電車では、時々親類へまゐりましたが、この道ははじめてですから、」

「さうですか、なにしろ、場末の方は、早く寝るもんですから、」

 譲はかう云つてからふと電燈の笠のことを思ひ出して、あんなことがあつたらこの女はどうするだらうと思つた。

「本当にお淋しうございますのね、」

「さうですよ、僕達もなんだか厭ですから、あなた方は、なほさらさうでせう、」

「ええ、さうですよ、本当に一人でどうしやうかと思つてゐたんですよ、非常に止められましたけれど、病人で取込んでゐる家ですから、それに、泊るなら親類へ行つて泊らうと思ひまして、無理に出て来たんですが、そのあたりは、まだ沢山起きてた家がありましたが、此所へ来ると、急に世界が変つたやうになりました、」

 傾斜のある狭い暗い路が尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びてゐた。譲はそれを左に折れながらちよつと女の方を振り返つた。綺麗に化粧をした細面の顔があつた。

「こつちですよ、いくらか明るいぢやありませんか、」

「お蔭様で、助かりました、」

「もう、これから先は、そんなに暗くはありませんよ、」

「はあ、これから先は、私もよく存じてをります、」

「さうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね、」

「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます、」

「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは、」

「私は柏木の方ですよ、」

「それは大変ですね、」

「はあ、だから、この先の親類へ泊まらうか、どうしやうかと思つてゐるんですよ、」

 譲はこの女は厳格な家庭の者ではないと思つた。香のあるやうな女の呼吸使ひがすぐ近くにあつた。彼はちよつとした誘惑を感じたが自分の室で机に肱をもたせて、自分の帰りを待つてゐる女の顔がすぐその誘惑を掻き乱した。

「さうですな、もう遅いから親類でお泊りになるが好いでせう、其所まで私が送つてあげませう、」

「どうもすみません、」

「好いです、送つてあげませう、」

「では、すみませんが、」

「その家はあなたが御存じでせう、」

 女は譲の左側に並んで歩いてゐた。

「知つてます、」

 右へと曲る角にバーがあつて入口に立てた衝立の横から浅黄の洋服の胴体が一つ見えてゐたがひつそりとして声はしなかつた。

「こつちへ行くんですか、」

 譲は曲つた方へ指をやつた。

「この次の横町を曲つて、ちよつと行つたところです、すみません、」

「なに好いんですよ、行きませう、」

 路の上が急に暗くなつて来た。何人かがこのあたりに見張つてゐて故意に門燈のスヰッチをひねつてゐるやうであつた。

「すこし、此方は、暗いんですよ、」

 女の声には霧がかかつたやうになつた。

「さうですね、」

 女はもう何も云はなかつた。



「此所ですよ、」

 蒸し蒸しするやうな物の底に押し込められてゐるやうな気持になつてゐた譲は女の声に気がついて足を止めた。其所にはインキの滲んだやうな門燈の点いてゐる昔風な屋敷門があつた。

「此所ですか、では、失礼します、」

 譲は下宿の女が気になつて来た。彼は急いで女と別れやうとした。

「失礼ですが、内まで、もうすこしお願ひ致したうございますが、」

 女の顔は笑つてゐた。

「さうですか、好いですとも、行きませう、」

 左側に耳門があつた。女はその方へ歩いて行つて門の扉に手をやると扉は音もなしに開いた。女はさうして扉を開けかけてから振り返つて、男の来るのを待つやうにした。

 譲は這入つて行つた。女は扉を支へるやうにして身を片寄せた。譲は女の体と擦れ合ふやうにして内へ這入つた、と女は後から従いて来た。扉は女の後でまた音もなく締つた。

「失礼しました、」

 薄月が射したやうになつてゐた。譲は眼が覚めたやうに四辺を見まはした。庭には天鵞絨を敷いたやうな青々した草が生えて、玄関口と思はれる障子に灯の点いた方には、陵苔の花のやうな金茶色の花が一めんに垂れさがつた木が一本立つてゐた。その花の香であらう、甘い毒々しい香が鼻に滲みた。

「此所は姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないんですよ、」

 譲は上へあげられたりしては困ると思つた。

「僕は此所にをりますから、お這入りなさい、あなたがお這入りになつたら、すぐ帰りますから、」

「まあ、ちよつと姉に会つてください、お手間は取らせませんから、」

「すこし、僕は用事がありますから、」

「でも、ちよつとなら好いでせう、」

 女はさう云つてから玄関の方へ歩いて行つて花の下つてをる木の傍をよけるやうにして行つた。譲は困つて立つてゐた。

 家の内へ向けて何か云ふ女の声が聞えて来た。譲はその声を聞きながら秋になつても草の青々としてゐる庭の様に心をやつてゐた。

 艶かしい女の声が聞えて来た。譲は女の姉さんといふ人であらうかと思つて顔をあげた。内玄関と思はれる方の格子が開いて銀色の火の光が明るく見え、その光を背にして上り口に立つた脊の高い女と、格子戸の所に立つてゐる彼の女とを近々と見せてゐた。

 譲はあんなに玄関が遠くの方に見えてゐたのは、眼の勢であつたらうかと思つた。彼はまた電燈の笠のくるくる廻つたことを思ひ出して、今晩はどうかしてると思ひながら、花の垂れさがつた木の方に眼をやると、廻転機の廻るやうにその花がくるくると廻つて見えた。

「姉があんなに申しますから、ちよつとおあがりくださいまし、」

 女が前へ来て立つてゐた、譲はふさがつてゐた咽喉がやつと開いたやうな気持になつて女の顔を見たが、頭はぼうとなつてゐて、なにを考へる余裕もないので、吸ひ寄せられるやうに火のある方へと歩いて行つた。歩きながら怖は/\花の木の方に眼をやつて見ると木は金茶色の花を一めんにつけて静に立つてゐた。

「さあ、どうぞおあがりくださいまし、妹が大変御厄介になりましたさうで、さあ、どうぞ、」

 譲は何時の間にか土間へ立つてゐた。背の高い蝋細工の人形のやうな顔をした、黒い沢山ある髪を束髪にした凄いやうに綺麗な女が障子の引手に凭れるやうにして立つてゐた。

「有難うございます、が、今晩はすこし急ぎますから、此所で失礼致します、」

「まあ、さうおつしやらずに、ちよつとおあがりくださいまし、お茶だけ差しあげますから、」

「有難うございます、が、すこし急ぎますから、」

「待つてゐらつしやる方がおありでせうが、ほんのちよつとでよろしうございますから、」

 女は潤ひのある眼を見せた。譲も笑つた。

「ちよつとおあがりくださいましよ、何人も遠慮のある者はゐないんですから、」

 後に立つてゐた女が云つた。

「さうですか、では、ちよつと失礼しませうか、」

 譲は仕方なしに左の手に持つてゐる帽子を右の手に持ち替へてあがる構へをした。

「さあ、どうぞ、」

 女は障子の傍を離れて向ふの方へと歩いた。譲は靴脱ぎへあがつて、それから上へとあがつた。障子の蔭に小間使のやうな十七八の島田に結ふた女中が立つてゐて譲の帽子を取りに来た。譲はそれを無意識に渡しながら女の後からふらふらと従いて行つた。



 長方形の印度更紗をかけた卓があつてそれに支那風の朱塗の大きな椅子を五六脚置いた室があつた。先に入つてゐた女は派手な金紗縮緬の羽織の背を見せながらその椅子の一つに手をやつた。

「どうかおかけくださいまし、」

 譲は椅子の傍へ寄つて行つた。と、女はその左側にある椅子を引き寄せて、譲と斜に向き合ふやうにして腰をかけたので、譲も仕方なしに椅子を左斜にして腰をかけた。

「はじめまして、僕は三島譲といふもんですが、」

 譲が云ひはじめると女は手をあげて打ち消した。

「もう、そんな堅くるしいことは、お互いによしませう、私はかうした一人者のお婆さんですから、お嫌でなけれやこれからお友達になりませう、」

「僕こそ、以後よろしくお願致します、」

 譲の帽子を受け取つた女中が、櫛形の盆に小さな二つのコツプと竹筒のやうな上の一方に口が着き一方に取手の着いた壺を乗せて持つて来た。

「此所へ持つてお出で、」

 女がさしづをすると女中は二人の間の卓の端にその盆を置いてから引き退らうとした。

「お嬢さんはどうしたの、」

 女中は振り返つて云つた。

「お嬢さんは、なんだかお気持が悪いから、もすこしして、お伺ひすると申してをります。」

「気持が悪いなら、私がお相手をするんだから、よくなつたらいらつしやいつて、」

 女中はお辞儀をしてから扉を開けて出て行つた。

「お茶のかはりに、つまらん物を差しあげませう、」

 女は壺の取手に手を持つて行つた。

「もうどうぞ、すぐ失礼しますから、」

「まあ、好いぢやありませんか、何人も遠慮する者がありませんから、ゆつくりなすつてくださいまし、このお婆さんでよろしければ、何時までもお相手致しますから、」

 女は壺の液体を二つのコツプに入れて一つを譲の前へ置いた。それは牛乳のやうな色をした物であつた。

「さあ、おあがりくださいまし、私も戴きますから、」

 譲はさつさと一杯御馳走になつてから帰らうと思つた。

「では、これだけ戴きます、」

 譲は手に取つて一口飲んでみた。それは甘味のあるちよつとアブサンのやうな味のする酒であつた。

「私も戴きます、召しあがつてくださいまし、」

 女もそのコツプを手にして誉めるやうにして見せた。

「折角のなんですけれど、僕は、すこし、今晩都合があつて急いでゐますから、これを一杯だけ戴いてから、失礼します、」

「まあ、そんなことをおつしやらないで、こんな夜更けに何の御用がおありになりますの、たまには遅く行つて、じらしてやるがよろしうございますよ、」

 女はコツプを持つたなりに下顎を突き出すやうにして笑つた。譲も仕方なしに笑つた。

「さあもすこしおあがりなさいましよ[#「おあがりなさいましよ」は底本では「あおがりなさいましよ」]、」

 譲は後の酒を一口飲んでしまつて、コツプを置くと腰をすかすやうにして、

「折角ですけれど、本当に急ぎますから、これで失礼します、」

 女はコツプを投げるやうに置いて、立つて来て譲の肩に両手を軽くかけて押へるやうにした。

「もう妹も伺ひますから、もうすこしゐらしてくださいまし、」

 譲の肉体は芳烈にして暖かな呼吸のつまるやうな厭迫を感じて動くことが出来なかつた。女の体に塗つた香料は男の魂を縹渺の界へ連れて行つた。

「何人だね、今は御用がないから、彼方へ行つてお出で、」

 女の声で譲は意識がまはつて来た。その譲の頭に自分を待つてゐる女のことがちらと浮んだ。譲は起ちあがつた。女はもとの椅子に腰をかけてゐた。

「まあ、まあ、そんなに、お婆さんを嫌ふもんぢやありませんよ、」

 女の艶めかしい笑顔があつた。譲は今一思ひに出ないとまた暫く出られないと思つた。

「これで失礼します、」

 譲は扉のある所へ走るやうに行つて急いで扉を開けて出た。

 廊下には丸髷に結つた年増の女が立つてゐて譲を抱き止めるやうにした。

「何人です、放してください、僕は急いでゐるんです、」

 譲は振り放さうとしたが放れなかつた。

「まあ、ちよつと待つてくださいましよ、お話したいことがあるんですから、」

 譲は仕方なしに立つた。そして彼の女が追つて出て来やしないかと思ひながら注意したがそんなふうはなかつた。

「すこし、お話したいことがありますから、ちよつと此方へゐらしてくださいよ、ちよつとで好いんですから、」

 年増女は手を緩めたがそれでも前から退かなかつた。

「どんなことです、僕は非常に急いでゐるんですから、此方の奥さんの止めるのも聞かずに、逃げて帰るところですから、なんですか早く云つてください、どんなことです、」

「此所ではお話が出来ませんから、ちよつとこの次の室へゐらしてください、ちよつとで好いんですから、」

 譲は争つてゐるよりも、ちよつとで済むことなら、聞いてみやうと思つた。

「では、ちよつとなら聞いても好いんです、」

「ちよつとで好いんですよ、来てください、」

 年増の女が歩いて行くので従いて行くとすぐ次の室の扉を開けて這入つた。

 中には手前の壁に寄せかけて安楽椅子をはじめ五六脚の形の違つた椅子を置きその向ふには青い帷を引いてあつた。其所は寝室らしかつた。

「さあ、ちよつと此所へかけてくださいよ、」

 年増の女が入口に近い椅子に指をさすので譲は急いで腰をかけた。

「なんですか、」

 年増の女はその前に近く立つたなりで笑つた。

「そんなに邪見になさるもんぢやありませんよ、」

「なんですか、」

「まあ、そんなにおつしやるもんぢやありませんよ、あなたは、家の奥さんの心がお判りになつたんでせう、」

「なんですか、僕にはどうも判らないですが、」

「そんな邪見なことをおつしやらずに、奥さんは、お一人で淋しがつてゐらつしやいますから、今晩、お伽をしてやつてくださいましよ、かうしてお金が唸るほどある方ですから、あなたの御都合で、どんなことでも出来るんですよ、」

「駄目ですよ、僕はすこし都合があるんですから、」

「洋行でもなんでも、あなたの好きなことが出来るんぢやありませんか、私の云ふことを聞いてくださいよ、」

「それは駄目ですよ、」

「あんたは慾を知らない方ね、」

「どうしても、僕はそんなことは出来ないんです、」

「御容色だつて、あんな綺麗な方は滅多にありやしませんよ、好いぢやありませんか、私の云ふことを聞いてくださいよ、」

「そいつはどうしても駄目ですよ、」

 年増の女の片手は譲の片手にかかつた。

「まあ、そんなことをおつしやらずに、彼方へ参りませう。私のことを聞いてくださいよ、悪いことはありませんから、」

 譲は動かなかつた。

「駄目です、僕はそんなことは厭だ、」

「好いぢやありませんか、年寄の云ふことを聞くもんですよ、」

 譲はもういらいらして来た。

「駄目ですよ、」

 叱りつけるやうに掴まへられた手を振り放した。

「あんたは邪見ねえ、」

 扉が開いて小さな婆さんがちよこちよこと這入つて来た。頭髪の真白な魚のやうな光沢のない眼をしてゐた。

「どうなつたの、お前さん、」

「駄目だよ、何んと云つても承知しないよ、」

「やれやれ、これもまた手数を食ふな、」

「野狐がついてゐるから、やつぱり駄目だよ、」

 年増の女は嘲るやうに云つたが譲の耳にはそんなことは聞えなかつた。彼はその女を突きのけるやうにして外へと飛び出した。室の中で老婆のひいひいと云ふ笑ひ声が聞えた。



 譲は日本室のやうになつた畳を敷き障子を締めてあつた玄関のある方へ行くつもりで、廊下を左の方へと走るやうに歩いた。電燈なれば被を着せたやうなぼんやりした光が廊下に流れてゐた。そのぼんやりした光の中には気味の悪い毒々しい物の影が射してゐた。

 譲は底の知れない不安に駆られながら歩いてゐた。廊下が室の壁に行き当つてそれが左右に別れてゐた。譲はちよつと迷ふたが、左の方から来たやうに思つたので、左の方へ折れて行つた、と、急に四方が暗くなつてしまつた。彼は、此所は玄関の方へ行く所ではないと思つて、後帰りをしようとすると、其所には冷たい壁があつて帰れなかつた。譲はびつくりして足を止めた。歩いて来た廊下が分らなくなつて一所明取りのやうな窓から黄いろな火が光つてゐた。それは長さが一尺四五寸縦が七八寸ばかりの小さな光があつた。譲は仕方なしにその窓の方へと歩いて行つた。

 窓は譲の首のあたりにあつた。譲は窓の硝子窓に顔をぴつたり付けて向ふを見た。その譲の眼は其所で奇怪な光景を見出した。黄いろに見える土間のやうな所に学生のやうな少年が椅子に腰をかけさせられて、その上から青い紐でぐるぐると縛られてゐたが、その傍には道伴になつて来た主婦の妹と云ふ若い女と先つきの小間使いのやうな女中とが立つてゐた。二人の女は、何か代る代るその少年を攻めたててゐるやうであつた。少年は眼をつむつてぐつたりとなつてゐた。

 譲は釘づけにされたやうになつてそれを見詰めた。女中の方の声が聞えて来た。

「しぶとい人つたらありはしないよ。何故はいと云はないの、いくらお前さんが、強情張つたつて駄目ぢやないの、早くはいと云ひなさいよ、いくら厭だと云つたつて駄目だから、痛い思ひをしない内に、はいと云つて、奥様に可愛がられたら好いぢやないの、はいと云ひなさいよ、」

 譲は少年の顔に注意した。少年はぐつたりとしたなりで唇も動かさなければ眼も開けやうともしなかつた。妹の方の声がやがて聞えて来た。

「強情張つてゐたら、返してくれると思つてるだらう、馬鹿な方だね、家の姉さんが見込んだ限りは、なんとしたつて、この家から帰つて行かれはしないよ、お前さんは馬鹿だよ、私達がこんなに心切に云つてやつても判らないんだね、」

「強情張つたなら、帰れると思うてるから、可笑しいんですよ、本当に馬鹿ですよ、また私達にいびられて、餌にでもなりたいのでせうよ、」

 女中は気味の悪い笑ひ方をして妹の顔を見た。

「さうなると、私達は好いんだけれど、この人が可愛さうだね、何故こんなに強情を張るだらう、お前、もう一度よつく云つてごらんよ、それでまだ強情を張るやうなら、お婆さんを呼んでお出で、お婆さんに薬を飲ませて貰ふから、」

 女中の少年に向つて云ふ声がまた聞えて来た。

「お前さんも、もう私達の云ふことは別つてゐるだらうから、くどいことは云はないが、いくらお前さんが強情張つたつて、奥様にかうと思はれたら、この家は出られないから、それよりか、はいと云つて、奥様のお言葉に従ふが好いんだよ、奥様のお言葉に従へば、この大きなお屋敷で、殿様のやうにして暮せるぢやないかね、なんでもしたいことが出来て、好いぢやないか、悪いことは云はないから、はいとお云ひなさいよ、好いでせう、はいとお云ひなさい、」

 少年は矢張り返事もしなければ顔も動かさなかつた。

「駄目だよ、お婆さんを呼んでお出で、とても駄目だよ、」

 妹の声がすると女中はそのまま室を出て行つた。

 妹はその後をじつと見送つてゐたが女中の姿が見えなくなると少年の後へ廻つて、両手をその肩に軽くかけ何か小さな声で云ひ出したが譲には聞えなかつた。

 女は少年の左の頬の所へ白い顔を持つて行つたがやがて紅い唇を差し出してそれにつけた。少年は死んだ人のやうに眼も開けなかつた。

 二人の人影が見えて来た。それは今の女中と魚の眼をした老婆とであつた。それを見ると少年の頬に唇をつけてゐた妹は、すばしこく少年から離れて元の所へ立つてゐた。

「また手数をかけるさうでございますね、顔には似合はない強つくばかりですね、」

 老婆は右の手に生きた疣だらけの蟇の両足を掴んでぶらさげてゐた。

「どうも強情つ張りよ、」

 妹が老婆を見て云つた。

「なに、この薬を飲ますなら、訳はありません、どれ一つやりませうかね、」

 老婆が蟇の両足を左右の手に別別に持つと女中が前へやつて来た。その手にはコツプがあつた。女はそのコツプを老婆の持つた蟇の下へ持つて行つた。

 老婆は一声唸るやうな声を出して蟇の足を左右に引いた。蟇の尻尾の所が二つに裂けて、その血が口を伝ふてコツプの中へ滴り落ちたが、それが底へ薄赤く生生しく溜つた。

「お婆さん、もう好いんでしよ、平生くらゐ出来たんですよ、」

 コツプを持つた女中はコツプの血を透すやうにして云つた。老婆も上からそれを覗き込んだ。

「どれどれ、ああ、さうだね、それくらゐあれや好いだらう、」

 老婆は蟇を足元に投げ捨ててコツプを受け取つた。

「この薬を飲んで利かなけれや、もう仕方がない、皆でいびつてから、餌にしませうよ、ひつ、ひつ、ひつ、」

 老婆は歯の抜けた歯茎を見せながらコツプを持つて少年の傍へ行つて、片手の指先をその口の中へ差し入れ、軽々と口をすこし開かしてコツプの血を注ぎ込んだ。少年は大きな吐息をした。

 譲は奇怪な奥底の知れない恐怖にたへられなかつた。彼はどうかして逃げ出さうと思つて窓を離れて暗い中を反対の方へと歩いた。其所には依然として冷たい壁があつた。しかし戸も開けずに廊下から続いてゐた室であるから、出口のないことはないと思つた。彼は壁を探り探り左の方へと歩いて行つた。と、壁が切れて穴のやうな所があつた。譲は今通つて来た所だと思つて其所を出た。

 ぼんやりした薄白い光が射して、その先に広い庭が見えた。譲は喜んだ。玄関口でなくとも外へさへ出れば、帰られないことはないと思つた。其所には庭へをりる二三段になつた階段が付いてゐた。譲はその階段へと足をかけた。

 譲が廊下で抱き縮めた女と同じぐらゐな年格好をした年増の女が、両手に大きなバケツを持つて左の方からやつて来た。譲は見付けられてはいけないと思つたので、そつと後戻りをして出口の柱の蔭に立つてゐた。

 太つた女はちようど譲の前の方へ来てバケツを置き、庭先の方へ向いて犬なんかを呼ぶやうに口笛を吹いた。庭の方には天鵞絨のやうな草が青青と生へてゐた。太つた女の口笛が止むと、その草が一めんに動き出して、その中から小蛇の頭が沢山見え出した。それは青い色のものもあれば黒い色のもあつた。その蛇がによろによろと這ひ出して来て女の前へ集まつて来た。

 女はそれを見るとバケツの中へ手を入れて中の物を掴み出して投げた。それはなんの肉とも判らない血みどろになつた生生しい肉の片であつた。蛇は毛糸をもつらしたやうに長い体を仲間にもつらし合つてうようよとして見えた。

 譲は眼前が暗むやうな気がして内へと逃げ這入つた。その譲の体は軟かな手で又抱き縮められた。

「どんなにか探したか判らないんですよ、何所にゐらしたんです、」

 譲は顫へながら相手を見た。それは彼の年増の女であつた。



「あなたは、ほんとにだだつ子ね、そんなにだだをこねられちや、私が困るぢやありませんか、此方へゐらつしやいよ、」

 年増は譲の両手を握つて引張つた。譲はどうしても逃げて帰りたかつた。

「僕を帰してください、僕は大変な用事がある、ゐることは出来ないから、帰してください、」

 譲は女の手を振り払はうとしたが離れなかつた。

「そんな無理なことを云ふもんぢやありませんよ、あなたの御用つて、下宿に女の方が待つてるだけのことでせう、」

「そんなことぢやないんです、」

「さうですよ、私にはちやんと判つてるんですよ、その女よりか、いくら家の奥さんが好いか判らないぢやありませんか、ほんとうにあなたは、慾を知らない方ね、此方へゐらつしやいよ、いくら逃げやうとしたつて、今度は放しませんよ、ゐらつしやいよ、」

 女はぐんぐんとその手を引張り出した。譲の体は崩れるやうになつて引張られて行つた。

「放してください、」

「駄目よ、男らしくないことを云ふもんぢやありませんよ、」

 譲は室の中へ引張り込まれた。其所は青い帷を張つたはじめの室であつた。

「奥様がどんなに待つてゐらつしやるか判りませんよ、此方へゐらつしやいよ、」

 年増は片手を離してそれで帷を捲くやうにして無理やりに譲の体をその中へ引込んだ。

 其所には真中に寝台があつてその寝台の縁に綺麗な主婦が腰をかけて、ぢつと眼を据ゑて這入つて来る譲の顔を見てゐた。その室の三方には屏風とも衝立とも判らないものを立てまはして、それに色彩の濃い奇怪な絵を画いてあつた。

「ほんとにだだつ子で、やつと掴まへてまゐりました、」

 年増は譲を主婦の傍へ引張つて行つて、主婦の向ふ側の寝台の縁へ腰をかけさせやうとした。

「放してください、僕は駄目です、僕は用事があるんです、僕は厭です、」

 譲は年増の女を振り放して逃げやうとしたが放れなかつた。

「駄目ですよ、もうなんと云つても放しませんよ、そんな馬鹿なことをせずに、ぢつとしてゐらつしやいよ、本当にあなたは馬鹿ね、え、」

 主婦の眼は譲の顔から離れなかつた。

「おとなしくだだをこねずに、奥さんのお相手をなさいよ、」

 年増は押へ付けるやうにして、譲を寝台の縁へかけさした。譲は仕方なしに腰をかけながら、ただ逃げ出さうとしても逃げられないから、油断をさしておいて隙を見て逃げやうと思つたが、頭が混乱してゐて落ちついてはゐられなかつた。

「そんなに急がなくつたつて、ゆつくりなされたら好いぢやありませんか、」

 主婦は年増の放した譲の手に軽く自分の手をかけて、心持ち譲を引き寄せるやうにした。

「失礼します、」

 譲はその手を振り払ふとともに起ちあがつて、年増の傍を擦り抜けて逃げ走つた。

「この馬鹿、なにをする、」

 年増の声がするとともに譲は後から掴まへられてしまつた。それでも彼はどうかして逃げやうと思つてもがいたが、振り放すことは出来なかつた。

「奥様、どういたしませう、この馬鹿者は仕やうがありませんよ、」

 年増が云ふと主婦の返事が聞えた。

「此所へ連れて来て縛つておしまひ、野狐がついてるから、その男はとても駄目だ、」

 妹と若い女中とが這入つて来たが女中の手には少年を縛つてあつたやうな青い長い紐があつた。

「縛るんですか、」

 女中が云つた。

「奥様のお室へ縛るんですよ、」

 年増はかう云ひ云ひひどい力で譲を後へ引張つた。譲はよたよたと後へ引きずられた。

「その馬鹿者をぐるぐる縛つて、寝台の上へ乗つけてお置き、一つ見せるものがあるから、見ておいで、私がいびつてやる、」

 主婦は室の中に立つてゐた。同時に青い紐はぐるぐると譲の体に捲きついた。

「私が寝台の上へ乗つけやう、その代り、奥様の後で、私がいびるんですよ、」

 年増はふうふうふうと云ふやうに笑ひながら、譲の体を軽軽と抱きあげて寝台の上へ持つて行つた。譲はもがいて体を振つたがその甲斐がなかつた。

「あの野狐を連れてお出で、野狐から先きつまんでやる、」

 主婦はさう云ひながら寝台の縁へまた腰をかけた。譲の眼前は暗くなつてなにも見ることが出来なかつた。譲は仰向けに寝かされてゐたのであつた。

 女達の何か云つて笑ふ声が耳元に響いてゐた。そして一時間たつたのか二時間たつたのか、怪しい時間がたつたところで譲は顔を一方にねぢ向けられるやうにせられた。

「この馬鹿者、よく見るんだよ、お前さんの好きな野狐を見せてやる、」

 それは主婦の声であつた。譲の眼はぱつちりと開いた。年増が若い女の首筋を掴んで立つてゐた。それは下宿屋に置いてあつた彼の女であつた。譲ははね起きやうとしたが動けなかつた。譲は激しく体を動かした。

「その野狐をひねつて見せておやりよ、その野狐がだいち悪い、」

 主婦が云ふと年増は女の首に両手をかけて強く締めつけた。と、女の姿はみるみる赤茶けた色の獣となつた。

「色女が死ぬるんだよ、悲しくはないかね、」

 譲の眼前には永久の闇が来た。女達の笑ふ声がまた一しきり聞えた。

 譲の口元から頬にかけて気味悪い暖な舌がべろべろとやつて来た。


 三島譲と云ふ高等文官の受験生が、数日海岸の方へ旅行すると云つて、下宿を出たつきりゐなくなつたので、その友人達が詮議をしてゐると、早稲田のある空家の中に原因の分らない死方をして死んでゐたと云ふ記事が、ある日の新聞に短く乗つてゐた。






底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社

   2003(平成15)年10月22日初版発行

初出:「黒雨集」

   1923(大正12)年10月25日

※底本の「ス井ッチ」を、「スヰッチ」と入力しました。

入力:川山隆

校正:門田裕志

2009年8月12日作成

2012年5月24日修正

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