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黒い蝶

田中貢太郎





 義直は坂路をおりながらまた叔父のことを考へた。それは女と一緒にゐた時にも電車の中でも考へたことであつたが、しかしそれは、叔父が自分の帰りの遅いのを怒つて待つてゐるだらうと云ふことであつたが、あの時のはその叔父が自分の家へ来て坐つてゐるやうな感じが加はつてゐた。義直は困つたなと思つた。

(行つて来ましたが、和尚さんが留守でしたから、念のために明日の朝早くも一度行くことにして来ました、)

 行つたけれども留守であつたと云ふことにして、明日の朝行かうと考へてゐる弁解の言葉が、役立たないやうに思はれだした。彼は歩いて来た路が行き詰つたやうな気になつて歩くことを止めた。

(どう云つたものだらう、)

 暗いひつそりした坂路が自分の体を支へてゐた。義直は向ふの崖の上に眼をやつた。暗い屋根の並んだ上に不思議な形をした建物が聳えてゐた。建物の上には三ツの星があつた。それは石燈籠の上に祠をのつけたやうに見える塔であつた。彼は不思議な物を見付けたと云ふやうな眼付をしてそれを見詰めた。それは裁判官あがりの地主が建築したもので、二三年この方見慣れてゐる物であつた。

||谷の怪塔、)

 青いぎらぎらした光がその塔の中から出て、それが蛇の畝るやうに光つた。塔の四方には一つづつの小さな窓があつて時とするとその窓から灯の見えることは義直の記憶にあつた。彼は今晩はその窓へ探照燈のやうな仕掛けでもして遊んでゐるのではないかと思つたが、もう何も見えなくなつて、塔の輪廓がまた薄くぼんやりと見えて来た。

(眼の具合であつたかな、今晩は別に灯も見えてゐるやうでない、)

 義直は時間のことを思ひだした。

(もう十時だらうか、)

 彼は女と別れて帰つて来た時のことを考へた。女は二人で飲んだ氷のコツプを盆へ載せておろして行つたが、あがつて来ると笑顔になつて了つた。

(もう十分過ぎてますよ。ついでに十一時まで好いでせう、十一時までいらつしやい、)

 朝の内に行けなかつたので、二時頃から郊外の寺へと出かけて行つたところが、電車の乗替へで女と出くはして無理に連れて行かれた。養父の一周忌のことであるからどうしても行かなくてはならないと思ひながら、ひつ張られて夕方になり、夕方がまた十時になり、その十時ももう十分過ぎてゐた。

(叔父が煩いから、帰らなくちやならない、もう、屹と一度や二度は女中をよこしてゐる、)

 それでも何かしらしてゐる内に、五分ぐらいは過ぎてゐたらうから、電車が三十分としても、もう十一時にはなつてゐる。仮令自分が来て待つてゐないまでも、屹と女中をよこして帰り次第家へ来るやうに云つて来さしてあるに違ひないと思つた。と、渋紙色の顔をして朝晩に何かをたくらんでゐるやうな、すこしも人に腹の奥底を見せない老人の顔が眼前に浮んで来た。

(あの旦那のためには、随分泣かされた人があると云ひますからね、ほんとにあの旦那は、恐ろしい方ですよ、それに、あなたとは、本当の叔父甥ぢや無いでしよ、)

 乳母が云つた言葉が浮んで来た。父の従弟にあたる信平は、体一つで東京へ出て来て、彼方此方と渡り歩いてゐる内に藤村と云ふ金貸をしてゐる家へ出入りするやうになつて、到頭其所の番頭のやうな者になつたが、主人が亡くなつて、その家が商売を止めることになると、ちよとした金を貰つて、主人の姪で寡婦になつてゐた者と結婚して家を持つたのであつた。

(信平のことぢや、何をしてをつたか判つたことぢやない、もうそれまでに、自分でうんと拵へてをつたに違ひないよ、)

(貰つたと云つても、それやたいしたものぢやないよ、自分で拵へてをつたからさ、どうしてあの男は、子供の時から、一筋縄では行かない奴だつたよ、)

 小さな時父親や知合の者がしてゐた叔父の噂を覚えてゐた。

(当節は、親子でも、兄弟でも、気が許されないのに、親類と云ふくらゐで、気を許しては駄目ですよ、)

 義直には乳母の云ふ言葉の意味が好く判つてゐた。

(家の旦那がこんなになつたのも、理由がありますよ、ほんとに恐ろしいことですよ、)

 養父は気が狂つて離屋の座敷牢の中にゐた。

(私はちやんと知つてますよ、それや、旦那のお父様も狂人で、皆が血統だと云ひますが、そんなことはありませんよ、私は、赤ちやんの時からお育てしましたが、お利巧な、落ついた方でしたよ、血統なんかぢやありませんよ、)

 宮原の家は藤村の遠縁に当る家であつた、信平は其所の一人者の若主人の後見するやうになつたので、自分の兄の子供を連れて来てそれと結婚さした。ところで、その女は事情も判らずに家出して行方が判らなくなり、それと一緒に男は発狂したのであつた。

(血統があつたにしても、ただでは狂人になりませんよ、狂人になるには、なるだけの訳がありますよ、あんなに可愛がつてゐらした奥さんを、あんなことにせられたもんですもの、何人だつて狂人になりますわ、皆悪い者にかどわかされたとか、身投げしたとか云つて、警察へ頼んだり、人を出して捜したりしましたが、そんなことで判るもんですか、川口に身投げの婦人があつたとか、永代橋の下に死人があつたとか云つて、皆で見に行つたりしましたが、そんな馬鹿なことをしてはゐませんよ、私は、警察なんて云ふものは馬鹿々々しいものだと思つてますよ、)

 義直は黒い毒々しい物の手が自分の頭の上におつかぶさつてゐるやうに思つた。彼はふと狂ふてゐた養父の言葉を思ひだした。それは白い陽が庭にあつて何所から来るともなしに小さな花弁が胡蝶のやうに飛んでゐる日であつた。彼は右の手に箒とはたきとを持ち、庭下駄を履いて離屋へと行つた。飛んでゐる小さな花弁が頬にちらちらと触れた。

 離屋の室は障子のかはりに格子戸を入れてあつた。義直は神の前にでも出るやうに謹厳な態度で縁側をあがつて、格子の隙間からちよと中を覗いた。其所には黄ろな顔をした頬のすつこけた男が腕組をして此方向きに坐つてゐた。それが養父の登であつた。義直はそれを見ると手に持つてゐる物を傍へ置いて、縁側に坐つて両手を突いた。

(お掃除を致しませう、)

 これは其所の養子として来て以来やつてゐる日課であつた。食事や寝起の世話は乳母がやつてゐた。養父は狂つた顔で何か考へ込んでゐるやうなふうで、見向きもしなかつた。で、初めよりすこし声を大きくして云つた。

(お掃除を致しませう、)

 養父の眼が動いた。

(お前は何人だ、)

 養父はうさんくささうに云つて眼を光らした。

(私は義直でございます、)

(義直とは何人だ、)

(此方でお世話になつてをります者でございます、)

(お世話つて、何人が、お世話になつてゐるんだ、)

 紫色になつた薄い下唇には、白い唾がからまつてゐた。

(私でございます、)

(私とは何人だ、)

(この義直でございます、)

(君は何しに此所へ来たんだね、なんの用事があつて此所へ来たんだ、)

 養父の声は尖りを帯びて来た。

(お掃除にあがりました、)

(嘘を吐け、そんな嘘を吐いたつて、俺はちやんと知つてるんだぞ、貴様は俺を殺しに来たんだらう、信平に頼まれて、俺を殺しに来たんだらう、)

 相手になつてはいけないので何も云はずに黙つてゐた。

(女房も殺した上に、俺までも殺して、俺の財産を取らうとしてゐるんだな、悪党、そんなことで貴様なんかに騙される俺ぢやないぞ、馬鹿野郎、)

 養父は飛びあがるやうに起ちあがつて、握つた右の手を突き出した。

(貴様なんかに殺されてたまるか、這入つてみろ俺が殺してやる、)

 それは朝から雨の降つてゐる冷え冷えとして気持の好い日であつた。養父は起つて室の中を歩いてゐた。

(お掃除を致しませう、)

 養父はちらと此方を見た後に、黙つて右の方の隅へ歩いて行つて立つた。で、袂から小さな鍵を出して、格子戸へかけてある海老錠を開けて、傍へ置いてあつた箒や塵取を持つて中へ這入つたが、病人に出られないやうにと好く後を締め、それからはたきで格子戸から鴨居へかけてはたきはじめた。

(おい、おい、)

 用事がありさうに呼ぶ声がするのではたきの手を止めて振り返つた。養父が痩せた骨張つた右の掌を見せて招いてゐる。

(ちよつと来て見たまへ、ちよつと来て見たまへ、)

 何事であらうかと寄つて行つた。

(はい、)

(君だけに話してやることがある、秘密の話だよ、決して人に云つてはならんぞ、)

(はい、決して口外致しません、)

(決して云つてはいけないぞ、大変な秘密なんだから、)

(はい、)

(もすこし寄つて来い、)

 なんだか気味が悪るかつたが、寄らない訳にも行かないので養父の顔の傍へ自分の顔を寄せて行つた。

(お前は、わしの家内のゐる所を知つてゐるのか、知らないだらう、それは、わし以外、何人も知らないことなんだ、決して云つてはならんぞ、これを人に云ふと、世間が大騒ぎになつて、警視総監は免職になるんだ、好いか、)

(はい、)

(大変な秘密なんだが、お前にだけ云つてやる、わしの家内は、この傍にゐるんだ、あれは死にもかどわかされもしてゐないぞ、すぐこの傍にゐるんだ、この||谷には、あかずの家と云ふ家があるんだ、お前達には判らないが、わしの眼にはちやんと見える、それは昔、切支丹屋敷にゐた伴天連が、封じて開かないやうにして、その上に人の眼に見えないやうにした屋敷なんだぞ、わしの家内は其所にゐるんだ、)

(はい、)

(あの悪党が、わしの家の財産を横領するために、わしを狂人にしやうと思つて、家内に悪い男をくつつけたんだ、家内も可愛さうだ、家内はわしに隠れて悪いことをしてゐる内に、ある晩、やはり男と密会に行く途で、その屋敷へ迷ひ込んで、そのまま出ることが出来ずにゐるんだ、その屋敷は、這入つて行くことは出来ても、一度這入つたなら、どうしても出られない所なんだ、)······

 義直の頭には奇怪な養父の言葉と共に、その時の光景が浮んで来た。彼は養家の財産を考へてみた。地所、公債、家作などを一緒にすると十万に近いものがあつた。

(この財産に叔父が眼を注けないこともない、)

 もしこれに眼を注けてゐるとしたら自分をどうするであらう、と義直は考へてみた。

「今晩は、」

 下からあがつて来た雪駄履きの者が声をかけた。義直は吃驚したが、その声は耳に慣れてゐる声であつた。彼れは擦れ違はうとする相手の顔を見た。それは白い木綿のふはふはした襦袢を着てゐる男で、坂のおり口の右角にある散髪屋の亭主であつた。

「ああ、散髪屋さんですか、」

「今晩は涼しいではございませんか、何所かのお帰りでございますか、」

「ああ、中野の方へ行つてまして、ね、······散歩ですか、」

「ひと廻りして来やうと思ひまして、ね、」

「ぢや、さよなら、」



 義直は坂路をおりた。路の左側の高い板塀をした家の門燈が光つてゐた。円い電蓋の傍には青い楓の葉が見えてゐた。義直はその前へ行つたところで、また叔父のことを思ひだした。

(なんか云つて来てゐる、自分が来ないまでも、女中になんか云つて来さしてゐる、)

 義直は自分の頭の上におつかぶさつてゐる物の中から何か見付けやうとでもするやうにした。彼は見るともなしに向ふの崖の上に眼をやつた。崖の上になつた寄宿舎の屋根の上に、彼の塔は低く沈んで祠の所だけを見せてゐた。と、その塔の窓と思はれる所からさつきのやうに青いぎらぎらする光が見えた。

(おや、また光つたぞ、屹と彼の窓で何か悪戯をしてゐると見えるな、)

 黒い小さな動物がその光にでも乗つたやうに、すぐ眼の前でひらひらとした。それは黒い蝶か蝙蝠かと思はれるやうな羽の大きな物であつた。

(蝙蝠かな、)

 山の手の谷合の町には蝶も沢山ゐたが、夜飛ぶのは不思議なやうな気がした。小さな動物の姿は左側に見えてゐる門燈の光の中へ這入つて、その中でひらひらと飛んだ。やはり大きな蝶であつた。

(蝶だな、)

 叔父のことがまた浮んで来た。自分で来てゐないにしても、帰つて来たならすぐに来るやうに云つてよこしてあるに違ひないから、帰つたなら行かなければならない。そして行つたなら、和尚さんが留守であつたから、念のために明日の朝行つて来ると云はふ、もし云つて来てないなら、朝早く寺へ行つて来てからにしやう、行つて来た上なら叔父に逢つても気の強いところがあると思つた。またさうしないと明後日の費用を立て替へて貰ふにしても云ひ出しにくいのだと思つた。

(借してくれないことはないだらう、)

 春の頃から定まつてゐる小遣銭では足りないやうになつたから、十円二十円と云ふやうに借りてそれが百五六十円にもなつてゐるが、明後日のは内所の金でないし、従来の関係から云つても都合をつけてくれなくてはならない金である。

(それを二百円借りるなら、二三十円は残るだらうから、着物を買つてやらう、)

 ······二階の窓の先には小さな公園があつて、それをおほふた青葉が微風に動いてゐた。二人は寝そべつて話してゐた。

(何所かへ一晩泊りでゐらつしやらない、)

(行つても好いんです、)

 養父の一周忌も済まない際であるから贅沢な旅行などは出来なかつた。

(何所が好いでせう、木の青々する山があつたり、川があつたり、それで海のある所はないでせうか、)

(伊豆山か熱海なら好いでせう、温泉もあるんですよ、)

(さう、では、どつちかへまゐりませうか、)

(あなたは、病院の方は好いんですか、)

(構ひませんの、どうせ今来月の内に、二週間の休暇が貰へますから、)

(さうですか、ぢや、行つても好いんですね、)

(まゐりませう、······あなたは、)

 日返りに朝行つて晩に帰つて来るくらゐならどうにでもなるが、一泊するとなると何か口実が入ると思つたがちよと考へ出せなかつた。

(養父の一周忌がまだ済んでゐないから、威張つては行けないですが、都合して行つても好いんです、)

(でも、そんなことがあるなら、わるいでせう、一周忌が済んでからにしようぢやありませんか、私もそんなに行きたくはないんですもの、)

 何所か弱い蔭地に咲く花のやうな感じのする女は、たいていの場合に自分の言葉を通さうとはしなかつた。それが物足りなくもあれば可愛くもあつた。

(何か口実をこしらへるなら、行つても好いんですよ、)

(わるいわ、そんなことをしては、一周忌が済んでから、連れてつてくださいよ、私も来月ならゆつくり出来ますわ、)

(さう、では、来月にして、何か買つてあげやう、何が好いんです、)

 かはりになにか買つてでもやらないと済まないやうな気がした。

[#「(」は底本では「「」]さうね、私は、着替の単物が一枚欲しいと思つてるんですが······、)

(単物、買つてあげよう、)

 買つてやると云つても五円の小遣にも困つてゐるからすぐは買へないが、月末になれば十円や二十円はどうにでもなると思つた。それに一周忌も近いからその時になれば、二三十円の金は都合がつくやうな気がしてゐた。

(二十一二日頃まで待つてお出で、買つてあげるから、)

 二十日が一周忌に当つてゐた。

(さう、有難いわね、でも、無理に買つていただかなくても好いんですよ、)

(なに大丈夫だよ、まだ叔父が干渉して、金のことなんか勝手にはならないけど、それくらゐのことはどうにでもなるんです、)

(奥様をお持ちになるまで、叔父さんが後見なさるでせう、何時お持ちになります、)

 女は笑顔を見せた。その右の眼頭は赤く充血してゐた。······

 蚊の声が右の耳元で聞えたので、義直は片手をやつて払ふやうにした。もう坂路をおりてしまつて散髪屋の角を曲らうとしてゐた。それは坂のおり口で逢ふた散髪屋の家であつた。義直は其所へ眼をやつた。ガラス戸の内に白いカーテンがおりて薄暗い灯が射してゐた。四辺に濃い闇がしつとりと拡がつて、両側を流れてゐる泥溝の水がびちびちと鳴つてゐた。

 大雨の時には地上水が溢れる通りであつた。その通りにすぐ門口を喰付けたり、奥深く引込んだりした人家が、ぼつぼつ門燈を見せて歯の抜けたやうに並んでゐたが、もう多く寝てゐると見えて人声もしなかつた。その内で左側に唯一つ門口に一面に灯が射して明るい家があつた。それは義直の家の隣になつた氷屋であつた。

(氷屋で聞けば、叔父の来たか来ないかが判るな、)

 氷屋の老婆と娘とが自分のために叔父の見張をしてくれてゐるやうな感じがした。彼の脚は自然と早くなつた。

 若い男の笑ふ声が聞えて来た。氷屋に来てゐる学生であらう。それは屈託のない澄んだ声であつた。

||学校の学生だらう、)

 店の入口の右側に並べた水菓子の紅や黄ろが白いカーテンの間から見えて来た。若い男の笑声が止んで高い声で話すのが聞えた。

「おや、今晩は、今、お帰りでございますか、」

 入口のカーテンの下に面長な女の顔が見えた。それは氷屋の娘であつた。

「二時頃から中野の方へ行つてましてね、帰りに道寄りしてましたから、遅くなりました、」

 義直は脚を止めてゐた。

「おや、中野へ、それは大変でございましたね、お暑かつたでございませう、」

「暑いですな、それでも今晩は涼しいぢやありませんか、」

 店の中で年老つた女の声がした。娘がそれに返事をした。

「宮原の若さんですよ、」

 娘はまた義直の方に黒い眼を見せた。

「今日は、割合にお涼しうでございますね、まあ、ちとおかけくださいまし、」

「有難う、······叔父が夕方になつて見えなかつたでせうか、」

「山本の旦那さまでございますか、お見えにならなかつたやうでございます、が、」

 娘の顔は斜に内の方へと向いた。

「お母さん、今日、夕方、山本の旦那さまが、宮原さんへゐらしたか知らないこと、」

 老婆の声がかすれたやうに聞えて来た。

······山本の旦那さま、お見えにならないやうだよ、お女中さんは、夕方ゐらしたのか、帰るところをちらと見かけたが······、」

「さう、」

 娘はまた此方を向いた。

「お女中さんだけは、お見かけしたさうでございますが、」

 それではやはり女中を呼びによこしたもんだと義直は思つた。

「さうでしたかね、明後日が一周忌だもんですから、中野のお寺へ行つてたんですよ、」

「さうでございますか、もう一周忌、お早いものでございますね、」

「早いもんですよ、今日、お寺へ行つて、夕方に帰つて来るのを、道寄してましたから、叔父が待ち遠しがつて、来たんぢやないかと思ひましてね、ぢや、自分に来ずに女中をよこしたもんでせう、」

 帰つたならすぐ来るやうにと云つて来てゐるだらうと思つた。彼は早く家へ帰つてみやうと思つた。娘が驚いたやうに云つた。

「蝶だよ、まあ、大きな蝶だよ、」

 娘は体をがたがたと動かした。

「なんだ、吃驚さするぢやないか、」

 若い男が笑ひながら云つた。

「真黒い奴だな、あの博物の教師に持つててやらうか、」

 それは違つた若い男の声であつた。

「薄気味の悪い、杉浦さん、どうかしてくださいよ、あれ、あんなに、なにか考へでもあるやうに電燈のまはりを飛ぶんぢやありませんか、」

 娘はさも気味悪いと云ふやうな声で云つた。

(黒い蝶、さつきにも黒い蝶がゐたな、)

 義直はふと蝶のことを考へた。

「殺しちや駄目よ、粉が落ちるんですから、殺さずに追つてくださいよ、」

「こん畜生、出て行かないのか、こらッ、こらッ、こらッ[#「こらッ、こらッ、こらッ」はママ]

「おやゐなくなつたよ、ゐなくなつたぢやありませんか、何処へ行つたんでせう、不思議ぢやありませんか、」

 ······乳母が昼飯の膳を飯鉢の上に乗せて、廊下伝ひに行くを見ながら、隣から遊びに来てゐる女の子を縁先へ立たして、その顔をスケッチ[#「スケッチ」はママ]してゐた。暑い風の無い日で、油蝉の声が裏の崖の方から炙りつくやうに聞えてゐた。

(まだ書けないの、)

 女の子は待ち遠しさうに聞いた。

(もうすこしだ、もうすこしだよ、)

 ふたかは眼になつた特徴のある子供の顔を遺憾なしに写さうと思つて、一心になつて鉛筆を動かしてゐた。

(さあ、もうすこしだ、もうちよつとさうしてゐらつしやい、)

 離屋の方で乳母の周章てたやうな声が聞えた。

······駄目ですよ、何をなさるんですよ、)

 養父が何をはじめたであらうかと思つて、鉛筆を控へて内庭越しに離屋の方を見た。母屋から鍵の手のやうに折れ曲つた所に小さな軒を喰付けた離屋は、端板一つで母屋と繋がつてゐた。

(旦那様、そんなことをなすつては、御病気にさはります、)

 乳母の声は何か仕やうとする主人をやつと支へてゐるやうな声であつた。

(駄目ですよ、あれ、駄目ですよ、あれ、何人か、早く、)

 格子戸の口ががたがたと開いたかと思ふと、中から養父が出て来て縁側に立つた。と続いて乳母が出て来た。

(しまつた、)

 左の手にスケツチブツクを掴み、右の手に鉛筆を持つたなりに起ちあがつた。

(旦那様、そんなことをなすつては困りますよ、)

 乳母は、怒るやうに云つて養父の手を掴まふとした。養父はその手を片手で払ひ除けながら、一方の手を庭の方へやつて、その指先のあたりを睨むやうにして何か云つた。

(中へ入れなくちやいけない、)

 スケツチブツクと鉛筆を投げるやうに置いて、廊下伝ひに行きながらも、なるだけ足音をしないやうにと足を爪立てて注意しいしい歩いた。

(見えるか、見ろ、見ろ、あれを見ろ、)

 養父は大きな声をするのも恐ろしいと云ふやうにして云つた。

(何がお見えになります、何も見えないぢやありませんか、)

 乳母は狂はない主人を強ひて掴まへることも出来ないと云ふやうにして困つた顔をしてゐた。

(見えない、あれ、あれが見えないのか、)

 養父は人さし指の先を顫はしてゐた。

(何も見えは致しませんよ、それはお気の勢でございますよ、早く室へお帰りになつて、御飯をおあがりなさいまし、何もゐはしませんよ、)

(ゐないことがあるか、あれを、あの黒い蝶がみえないのか、あの蝶が、)

(蝶なんか見えませんよ、それは旦那様の気の勢でございますよ、)

(見えないことがあるか、あの黒い蝶が、あの蝶を、お前はなんと思つてるんだ、あれや、大変な奴だぞ、)

 養父はさう云つて四辺を白い凄い眼で見廻はしてゐたが、いきなり庭へ飛びおりた。

(あれ、旦那様、)

 乳母が驚いて庭におりたので、続いて飛びおりたところで、養父はぎらぎらする陽の光を潜つて板塀の傍へちよこちよこと小走りに走つて行つて、其所の花壇の朝顔に立てた女竹の一本を抜いたその女竹に絡んで咲いてゐた朝顔の萎れた紫の花が、一二枚の葉の付いた蔓と一緒になつて飛んだ。

(旦那様、旦那様、)

 乳母はその方へと追つて行つた。養父は乳母の方を睨みつけた。

(邪魔をするな、邪魔をすると承知しないぞ、これをそのままにして置いて、どうするつもりなんだ、馬鹿、)

 乳母は近くへ寄ることが出来なかつた。乳母の後へ行つた自分もどうすることも出来ないのではらはらして立つてゐた。

 養父は凄い眼をもう空間にやつて、怪しい物の影を覘ふやうにしてゐたが、やがてその覘がついたのか、手にしてゐた竹を振りあげてなぐりつけた。

(こら、)

 怪しい物の影はそれで飛んで行つたのか、養父はまた竹を振りあげながら空間を覘つた。

(こら、)

 怪しい物の影はまたそれたものと見える。

(しまつた、畜生、)

 養父はまた一足二足歩いて行つて、また空間をなぐりつけた。

(今度こそどうだ、)

 養父はなぐりつけた跡をちよつと見たが口惜しさうな顔をした。

(また逃げやがつた、畜生、逃がすものか、)

 竹はまた閃いた。

(これでもか、これでもか、こら、これでもか、)

 養父はもう見界なしに、そのあたりをなぐつて歩いた。

(こら、これでもか、これでもか、畜生、これでもか、)

 養父の叫び声が物凄く聞えた。

(若旦那、仕方がありません、無理にでも室へおあげしませう、)

 乳母が此方を向いて決心したやうに云つた。

(さうだね、仕方がない、押へつけやう、)

 自分も、さうするより他に仕やうがないと思つた。

(畜生、逃がすものか、逃がしてたまるか、この魔物、)

 養父は狂乱してゐた。

(私が掴まへますから、あなたも手を借してくださいまし、)

 乳母はいきなり走つて行つて、狂つてゐる養父の後から抱きすくめるやうに押へつけた。

(何をする、何をする、放せ、邪魔をするな、彼奴は俺の命を取りに来てる奴だぞ、馬鹿、俺の命を取られてかまはないのか、)

 養父は振り放さうともがいたが、病気で体が衰へてゐるので、一生懸命に押へつける乳母の手を振り放すことが出来なかつた。

(若旦那、早く、早く、)

 傍へまで行つてまごまごしてゐた自分は、その声に刺戟せられて、夢中になつて養父の両足を横から抱いた。その養父の口元に血が光つてゐた。

(放せ、何をする、彼奴をそのままにしておいて、俺を殺さすつもりか、)

 殻のやうに痩せた病人の体は、軽軽と離屋の方へと持ち運ばれた。

(放せ、貴様達は俺を殺すつもりか、あの黒い蝶をそのままにしてどうするつもりだ、)············

 養父はそれから十日ばかりして死んでしまつた。義直はそれを考へて厭な気がした。

 泥溝に架けた石橋を渡ると、門燈のぽつかり点いた格子門があつた。義直はその門の扉を無意識に開けて這入つた。高野槙や青木の植はつた狭い暗い庭があつて、虫の声が細々と聞えてゐた。住居の玄関口はその奥にあつた。義直はその暗い所を通つて玄関の格子を開けた。

「若旦那でございますか、」

 待ちかねてゐたやうな女の声がした。

「僕だよ、もう何時だね、」

「お帰りなさいまし、ちようど十一時でございます、」

 小柄な頭の毛の薄い女が玄関へ出て来た。

「さうかね、ちよと友達の所へ寄つてたら、遅くなつた、叔父さんとこから、何か云つて来た、」

 義直は玄関の縁側を一足あがつたところであつた。

「お女中さんが夕方にゐらして、明後日の支度は好いかつて、おつしやいましたよ、お暑かつたでせう、」

「今日はそれほど暑くなかつたね、お寺へ行つたけれど、和尚さんが留守だつたから、また明日の朝行くことにして来たが、何時かお墓参りに行つた時に云つてあるし、行かなくつても好いが、叔父が喧しいから、ちよツと行つてこやう、叔父とこからはそれだけか、」

「それだけでございました。それぢや明日も一度お寺へゐらつしやいますの、それが宜しうございますね、やはり和尚さんに、ぢきぢきお逢ひになつておきますと、手違ひがなくて宜しうございますね、」

「さうだ、明日の朝、行つてこやう、それから、あれ、魚吉の亭主はどうした、」

 義直は路路心配してゐた程叔父が自分の帰りを待つてゐないらしいので安心した。

「夕方になつて一度、夜になつてもまたまゐりましたが、お帰りがないもんですから、朝また来ると行つて帰りました。人数も若旦那がおつしやつたやうに申して置きましたから、朝でも結構でございますよ、」

「さうかね、十八と云つたかね、」

「さうでございますよ、」

「折りのことも云つたかね、」

「申しました、」

「幾等ぐらゐと云つたかね、」

「一切で六円ぐらゐとおつしやつたでせう、これくらゐにおつしやつてらしたと申しておきましたよ、」

「さうか、それで好い、」

 義直は金のこともあるから、すぐ叔父の所へ行つてこやうと思ひだした。

「叔父さんのところへ行つてこやうか、」

「お疲れでございませうが、ちよつと行つてゐらつしやるが宜しうございませう、」

「さうだね、やつぱり行つてこやう、喧しいからな、」

「それが宜しうございますよ、では、お浴衣を出しませうか、」

「好い、このままで行つて来る、」

「さうでございますか、では、ちよつと行つてゐらつしやいまし、」

「行つてこやう、」

 義直は手にしてゐた麦藁帽子を女中の手に渡し、それから羽織を脱いでそれも渡した。

「まだ起きてるだらうな、」

「旦那様なら、まだお起きになつてをりますよ、」



 義直は叔父の家の玄関のスリガラス戸の口へ立つて、右側の柱にあるベルのボタンをそつと押した。それはベルの大きな音のするのが恐ろしいやうに思はれたからであつた。彼はさうしてベルの音の微に響くのを呼吸をつめて聞いてゐた。

 玄関口に足音がして、それが間をおいて下駄の音をさした。ガラス戸には五寸四方くらゐの穴を開けてあつた。義直は女中が客の顔を確める必要のないやうにと、其所へ顔を持つて行つた。

「私です、遅くなつてすみませんね、」

 ちらと見えた背のすツきりした姿は太つた女中とは違つてゐた、義直は叔母ではないかと思つた。

「義直さんかね、遅いぢやないか、」

 それは叔母の声であつた。

「すみません、」

 同時にガラス戸ががらりと開いた。

「遅くなつてすみません、叔父さんは、もうお休みですか、」

「起きてますよ、」

「さうですか、遅くなつたもんですから、」

 義直が内へ這入ると叔母は後を締めた。

「叔父さんは、どちらです、」

「お座敷の縁側にゐらつしやるんですよ、」

「さうですか、」

 義直は玄関へあがつて左の廊下へ出た。客室はその行き詰めの右側にあつた。其所は内庭に面した所で、雨戸を締めてない客室の前の廊下に、新らしい籐椅子を此方向きに置いて、白い浴衣を着た叔父が仰向きになつてよつかかつて、団扇を膝のあたりに置いてゐた。

「叔父さん、今晩は、」

 義直は呼吸が詰るやうに苦しかつた。

「義直か、」

「遅くあがつてすみません、」

「寺から何時帰つた、」

「五時頃に帰りましたが、途で友人に逢つたもんですから、其所へ寄つて、つい話し込んでゐる内に遅くなりました、」

 叔父はそれには返事をしないでごそりと体を起して、其所に蹲むやうにしてゐる義直を見おろした。と、其所へ叔母が麻の蒲団を持つて客室の中から来た。叔母は藍微塵の浴衣を着てゐた。

「此所へでもお坐りなさい、もう女中が寝ますから、お茶もあげませんよ、」

「もう結構です、遅いんですから、」

 義直はさう云ひ云ひその蒲団を貰つて坐つた。

「お前は明日の準備は好いのか、」

 叔父の冷たい石のやうな声が聞えた。

「あらかた出来ましたが、今日は和尚さんが留守でしたから、明日の朝、念のために、も一度行つてまゐります、」

「何時頃に行つた、」

「三時過ぎでしたよ、」

「三時過ぎと云ふと、三時半頃か、それとも過ぎてゐたのか、」

「さうですね、三時半になるかならんかでした、」

 義直は何度も頭の中でころがして本当のやうになつてゐることを云つた。

「さうか、お寺の方は、それで好いとして、料理の方はどうだ、」

「それもあらかた定まつてをります、」

「呼ぶ人の通知の方も好いんだね、」

「十八にしておきました。」

「さうか、準備の方はそれで好いとして、金はどうだ、料理から、お寺への布施から、それもいつさい好いのか、」

「その金ですが、誠にすみませんが、それをお願ひしたいと思つてをりますが、」

「その金つて、明後日の費用か、」

「さうです、」

「十円か二十円なら、手許にあるが、そんな沢山な金は無いね、ぜんたい幾等入るんだ、」

「二百円ぐらゐはかからうと思ひますが、」

「その二百円を俺に出せと云ふのか、」

「それをお願いしたいと思つてるんですが······

「駄目だよ、そんな金は無いよ、お前には、もう百四五十円も行つてる筈だが、金をたゞ湧くものゝやうに思つてもらつちや困るな、宮原の財産がすこしあるとしたところで、そんなに見界なしに金を使つちや困るぢやないか、今度の金は一周忌の金なんだから、言い訳は立つやうなものゝ、なんでもなしに思つてゐちや困る、だいち、俺の身寄の者を養子にしておいて、それが無駄費ひをするのを黙つて見てゝは、藤村の方へ対してもすまないし、世間に対しても申訳がないぢやないか、」

 義直は何も云へなかつた。

「お前は近頃増長してゐるんだ、すこしは自分の身分も考へてみるが好い、お前はなんと思つてるんだ、ひとつお前に聞くことがあるが、お前は今日、三時半頃に中野のお寺へ行つて、五時頃に帰つて来て、友達に逢つて、友達の家へ寄つたと云ふが、その友達は何んと云ふんだ、」

 義直は吃驚してそつと叔父の顔を見た。義直は友人の名を出まかせに云ふより他に仕方がなかつた。

「小原君です、巣鴨の宮仲にゐる、一緒に早稲田に行つてた友人です、」

 叔父の手にしてゐた団扇がぱたぱたと音を立てた。

「ぢや行く時に、何人か連があつたのか、」

「ありません、」

「いけないよ、そんな嘘を云つたつて、駄目だよ、今日お前が、||公園のベンチで、変な女と凭れ合つて眠つてゐたところを、見て来た者があるんだ、馬鹿、何と云ふ醜態だ、女なんかに引つかゝつて、本を買ふとか、油絵の道具を買ふとか俺を騙してゐたんだらう、馬鹿、することにことを欠いで、昼間、女なんかと凭れ合つて、恥晒をして眠つてゐると云ふことがあるか、貴様の醜態を見て来た者が、黒い大きな蝶が来て、貴様の着てゐる帽子の上にとまつてたことまで、見てゐるんだぞ、馬鹿、なんと云ふ恥晒しだ、」

 惑乱してゐる義直の耳に蝶と云ふ言葉がはつきりと聞えた。

「貴様のやうな奴は、俺がなんと思つたつて駄目だ。家へ帰つて百姓でもしろ、馬鹿、蝶が来てとまつても判らないやうに眠つてゐると云ふことがあるか、馬鹿、田舎へ帰つて爺仁に話してみろ、貴様のやうな奴は、これからいつさい知らないから、さう思つてろ、馬鹿、」

 義直はふらふらと起ちあがつて、足にまかせて歩き出した。



 義直は暗い坂路をあがつてゐる自分に気が注いた。其所には月の光があるでもなければ、また電燈の光もないのに、うつすらとした紗に包まれた灯のやうな光があつて四辺がぼうと明るかつた。義直は此所は何所であらうかと思つて、ちよと注意した。右側は黒板塀になり、左側は樫か何かの斑らな生垣へ丸竹を立て添へて、それで垣根を結うてあつたが、その垣根の上にも塀の上にも何の木か木の枝が垂れてゐた。

 ふと足許にやつた眼に、土の中から出てゐる自然石の面が見えた。それは土の中に埋つてゐて雨のたびに叩き出された物である。石はまだその向ふにも見えた。気が注いてみると自分の駒下駄の下にもその石の面があるらしく思はれた。義直は俺は彼の坂をあがつてゐるのだなと思つた。

 ······おでん屋の店には六七人の客がゐた。入口の右側になつた菓子台の背後を障子で支切つて、二枚の畳を敷いてある所には、その附近で先生で通つてゐる頬髯の生えた酔つぱらひの老人が、二人の学生を連れて来て酒を飲んでゐた。土間では左側の棚の方を背にして、真中に据ゑた台に向つて四人の者がゐた。それは近くの寄宿舎にゐる学生達であつた。

「もう好いの、此方は出来たんですよ、」

 入口の左側になつたおでん台の前にゐた面長な女の顔が、小さな暖簾の間から見附けの室の方を覗いた。

「此方も出来てるんだよ、」

 室のあがり口の長火鉢の傍に、此方へ肥つた顔だけ見せてゐる老婆と向合つて、滝縞になつた銘仙の羽織の背を見せてゐた女がちよと片頬を見せた。それは其所の姉娘であつた。

「ぢや行きませうね、ぐず/″\しないで、」

「ぐず/″\は此方ぢやないわよ、」

「此方でもないわよ、」

 おでん台に近い方にゐた学生の一人が横槍を入れた。

「両方だよ······

 店の中は笑声で満たされた。その笑顔の中へおでん台の前にゐた妹が岡持を持つて出て来た。

「ぐず/″\しつこなしよ、」

「さうよ、ぐず/″\しつこなしよ、」

 火鉢の前にゐた姉が正宗の二合罎の湯気の絡まつてゐるのを持つておりて来た。

「熱燗附の出前ですね、こいつは好い、家にゐて持つて来て貰ふ方が好いな、もつとも駄賃が高くなりますからね、」

 先生は妹の方を見て笑つた。

「そんなことはありませんよ、おんなじですよ、」

「ぢや、いよ/\、家にゐて、持つて来て貰ふが好いな、かうなると独身者が羨ましい、」

「独身者が何故羨しいんですの。」

「美人に酒肴持参で来て貰へますからね、」

「さう、ね、」

「私もこれから何所かの二階間を借りますよ、そして、夜、好い時間を見て、註文に来ますからね、」

「では、お借りなさいましよ、私が持つてあがりますわ、」

「好いなあ、正宗の二合罎が一本とおでんが一皿で、美人が手に入りますからね、」

「安いぢやありませんか、」と妹は茶かしたやうに云つてから、岡持を右の手に持ち変へて、「では、ごゆつくり············行つてまゐります、」

 妹が出ると姉が後から跟いて行つた。一枚開けてあるガラス戸の外には、赤い提燈が釣してあつて、その光が妹の横顔を薄赤くつら/\と染めて見たが、すぐ二人の姿は見えなくなつた。

「二合罎が一本に、おでんが一皿······

 学生の一人がかう云つて先生の方を見て笑つた。

「どうです、老人は旨いことを考へませう、」

「旨いんですね、」

 老婆の声が聞えた。

「先生、そんなことを若い人に教へては困りますね、」

「さうですね、若い人には教へられないところでしたね、」

 先生はちよと右の方に振返つて、火鉢の前に顔を出してゐる老婆を見た。

「さうですとも、困りますよ、」

 先生は一緒に来てゐる学生の盃に酒の無いことに気付いたので、銚子を持つて注いでやつた。

「大いにやりたまへ、すこしも酔はないぢやないか、」

 土間に腰をかけてゐる学生と老婆との間に、また笑ひ話がはじまつた。

 先生は傍にゐる二人の学生を相手にして、何か云ひ/\これも笑つてゐた。

 入口のどぶ板をそゝくさと踏む下駄の音がして何人かが入つて来た。それは妹が妙な顔をして、右の手で左の手先をきうと握り締めながら入つて来たところであつた。

「どうしたんです、」

 妹はちよと冷たい眼を向けたまゝで、何も云はずにずん/\土間を見附の方へと歩いて来た。

「や、もうお帰り、」

 先生は顔をあげたが、妹はそれにも何も云はないでずん/\と見附の小縁をあがつた。先生は呆気に取られてゐた。

「どうしたんだね、」

 老婆が不審さうに聞く声がした。

「ああ、」

「どうしたんだね、お前、」

「掌をすこし切つたんですよ、あの坂で······

「倒れたんだね、」

「さうよ、」

「なんで切つたんだらう、」

「倒れる拍子に、石の出つぱてる上へ手を突いたもんですからね、······これから岡崎先生へ行つて来ますよ、」

 妹はさう云ひ/\右側の障子の蔭に隠れて行つて、箱か何かをかた/\と云はしてゐたが、やがて握り締めてゐた手を白いハンケチのやうな物で結はいておりて来た。

「切つたんですか、」

 妹は今度は幾等か余裕があると見えて、ちよと淋しい笑声をした。

「ちよとね、」

「それはいけませんね、」

「ちよと岡崎先生へ行てまゐります、どうぞゆつくり、」

 妹は出て行きかけた。

「そいつは、いかんな、」

 先生はその場合冗談も云へないと云ふやうな顔をして、独言とも女に云ふとも判らないことを云つた。

「すぐ帰ります、」

 妹はそのまゝ出て行つた。

「お婆さん、何所で切つたんです、ねえさんは、」

 先生は振返つて老婆の顔を見た。

「彼の寄宿舎の坂ですよ、彼所はいけない所ですからね、」

 老婆は何か深い意味でもあるやうに云つた。

「どんな所です、」

「どんなつて、彼所は、昔からいろんなことを云ひますよ、」

「いろんなつて、どんなことです、」

「彼所は、遠藤さんね、彼の大きな構への、彼所の屋敷内でしたよ、路が出来たのは、私が子供の時でしたから、五十年位のもんですか、彼所は遠藤の旦那が、自分の云ふことを聞かないと云つて、女中を手打ちにした所だと云つて、遠藤の家内が死んだとか、馬が倒れたとか、いろんなことを云ふんですよ、娘などに云ふと、おつかながるから、黙つてるんですが、へんな所ですよ、」

「さうですか、なあ、」

「雨の降らない時でも、彼所の下を通ると、雨がばらばらと落ちて来たり、風の無い時でも、どうかすると、風が吹くんですよ······

 義直はある刹那の光景を眼の前に描きながら、ふと頭の上に垂れた木の枝に眼をやつた。木の枝葉はぢつと垂れてゐて何の音もなかつた。

 路は右に折れ曲つてゐた。義直は其所此所に出てゐる石の面を数へるやうに踏んで行つた。しかし、彼は何のために其所を歩いてゐるのか何方へ行かうとしてゐるのか、それは自分でも判らなかつた。ちやうど眼に見えない物に支配せられて、永劫に前へ前へと行つてゐる両足の感じがあると云ふ有様であつた。

 坂路が尽きてちよと広い通路へ来た。それと同時に右側の黒板塀は無くなつて、やはり左側のやうに生垣に竹を添へて結はいた垣根になつた。その通路には門燈がぼつぼつあつた。若い一人の女の背後姿がすぐ眼の前にあつた。水色の地に紺の碁盤目のある袖の長い著物を着て、鼠色の光沢のある帯を締めてゐた。

 女は立ちどまるやうにして背後を振返つた。白い面長な顔には黒い澄んだ眼があつた。薄紅い唇は此方へ向つて親しみを送つてゐるやうに思はれた。義直はそれが浸みるやうに頭へ入つて来た。

 義直はきまり悪い思ひもせずに女に近寄らうと考へることが出来た。女は前向きになつて歩きだした。義直はそれに追ひ付かうと思つて歩きだしたが、割合に女の足が早いので一呼吸には追ひ付けなかつた。義直は気をあせらしたが、走ることは気が咎めるし、また走つて女を恐れさしてもいけないと思つたので、静かに歩くやうな容をしながら足を小刻みにして急いだ。

 女の足はまた止まつて白い顔を此方に見せた。黒い眼はぢつと此方を見詰め、口許には笑ひともなんとも云へない色を湛へてゐた。義直は今度こそ追ひ付いてやらうと思つた。

 二間ばかりの距離になつて女はまた歩きだした。女は沢山ある髪をエス巻のやうにして、その下の方を包むやうに茶色のリボンをかけてゐた。

 其所からは強い刺戟性を帯びた香料の匂が匂うて来た。義直の鼻にはその匂が溢れるほどに浸みた。

 女の後姿が何人かに似てゐるやうに思はれだした。義直は何人であつたらうと思つたが、それ以上は考へだせなかつた。彼女の顔がまた此方を振返つて、此方の行くのを待つてゐるやうに見えた。確にその薄紅い口元には笑ひがあつた。

 義直はつかつかと歩いた。その距離が一間ぐらゐになつた。と、女は歩きだしてみるみる二間三間と距離が出来て来た。義直はまた汗を出すくらゐに気を詰めて歩いた。

 女の体は右の生垣の角に隠れて行つた。其所には小さな路があつた。セメントで固めた狭い路は、もうセメントが剥げてどろどろとしてゐた。

 女との距離が縮まつてまた一間ぐらゐになつた。義直は思ひ切つて声をかけた。

「もし、もし、」

 女は振返つて口元の笑ひを見せた。義直は寄つて行つた。と、女の姿が見えなくなつた。義直は不思議に思うた。しかしそれはその路の出はづれであつて、女が右に曲つたからだと云ふことが判つた。義直もそれを右に曲つて行つた。

 女の白い顔が此方を見て、自分の追ひ付くのを待つてゐるやうな容を見せてゐた、義直も笑つて見せた。

「もし、もし、」

 女はそれが聞えないやうに歩きだした。義直は今度こそは女に追ひ付かうと思つて小走りに歩いた。しかし女の足は早くてやはり追つかなかつた。

 女はまた右側に見える人家の角を右に折れて行つた。それは何所か奥まつた家の入口のやうな所で、右側が広場になつて草が一めんに生えてゐた。右側には家の壁があつた。義直はそれに追ひ付かうとした。

 五階になつた塔が朦朧として右側に見えた。義直は胸がつかへるやうに思つた。女の姿はその塔の壁に添うて立つてゐた。義直は何か自分の胸のあたりを支へる者があるやうな気がして歩けなかつた。

 黒い小さな影のやうな物が、女の横手の壁の方からちよこちよこと出て来て、それがいきなり女に飛びかかつた。義直は不良少年であらうと思つたので、走つて行つて引き放さうと思つた。

 人間の叫びとも獣の叫びとも判らない声がした。と、女に飛びかかつて行つた黒い影のやうな者は、猿か猫かの逃げるやうにつるつると壁に駈けあがつて、二階の屋根に登り、其所からまた上へと駈けあがつたが、すぐ見えなくなつてしまつた。

 義直は驚いて女の方を見た。五層楼の窓からぎら/\した光が落ちて来た。その光の下に女の姿は消えてしまつて、其所に一ツの黒い蝶がゐて、それがひら/\と飛んで行つた。

 義直の頭はぼうとなつてしまつた。



 義直は夢中になつて歩いた。暗い坂路をおりたり、片側街になつた狭い所を通つたり、自動車のけたたましく往来してゐる所を通つたりしたが、場所と方角とを意識することは出来なかつた。

 軒に垂れた黄ろなカーテンに、内から灯の射したバーのやうな家が路の右側に見えた。義直はその時非常に咽喉が乾いてゐたので、曹達水でも飲まうと思ひだした。彼は足を止めてちよと中を覗いてみた。四枚入つてゐるガラス戸を左右に開けて、真中へ鏡のやうにてら/\光る衝立を立てゝあつたが、その右の端から見附の棚の下に立つてゐる女の洋服のやうな水色の着物が見えてゐた。左の壁の方を見ると若い男が壁の方を背にしてコツプを手にしてゐた。

 義直は右の方の戸の傍から入つた。右の壁の方へ寄つて黒い円いテーブルを二つ置いて、その向ふのテーブルには、鼻の高い支那人の著るやうな青い服を著た男が此方を向いて腰をかけてゐた。その青い服の右側には、其所の二階へあがる石のやうな白い階段が見えてゐた。

 左の方の壁際には長方形のテーブルを三つ据ゑてあつたが、その中のテーブルには、外から見た若い男と、それと向き合つて横顔の赤い日本人らしくない髪の毛を延ばした洋服を著た男が腰をかけてゐた。

「ゐらつしやいまし、」

 見付の棚の下には二人の女がゐた。一人は外から見てゐた水色の洋服を著た女で、一人は島田に結うて白いエプロンをかけた十六七にしか見えない女であつた。義直は何所へ坐つたもんであらうかとちよと考へたが、右の入口のテーブルが好いやうな気がするので、鼻の高い男を斜に見るやうにして階段の方へ向いて腰をかけた。

 それを見ると水色の洋服を著た女がやつて来た。その半靴を履いてゐる足音はすこしもしなかつた。

「ゐらつしやいまし、何に致しませう、」

 義直は曹達水よりも生ビールを飲んでみたいと思ひだした。

「生があるかね、」

「ございます、」

「では、生を一杯貰はふか、」

「はい、」

 洋服の女はそのまゝ引ツ返して左の壁の方に寄つた窓の口へ行つて、覗き込むやうにして、

「生を一杯、」

 と云ふと、中から洞穴の中からでも響いて来るやうなしめつぽい声で返辞をした。

 義直はをかしな声だなと思つてゐると、洋服の女はやがてビールを入れた琥珀色に透きとほつて見えるコツプを持つて来た。

「お待ちどほさま、」

「有難う、」

 義直はすぐコツプを取つて口にやつたが、冷々として如何にも心地が好いので、始んど飲み乾すぐらゐに一息に飲んで下へ置きながら、前にゐる客の方を見た。鼻の高い男は手を膝に置いてゐるやうにきちんとしてゐたが、睡つてゐるのかその眼はつむれてゐた。彼はふともう遅いから睡つてゐるだらうと思つた。

「もう幾時だらう、」

 義直はふと時計のことを考へた。そして自分はどうして此所へ来たらうと考へたが思ひだせなかつた。

「ぜんたい此所は何所だ、」

 義直はまた考へてみたがそれも判らなかつた。彼はいら/\した気になつて、片手の拳で頭をコツコツと叩いた。

「生を持つてまゐりませうか、」

 洋服の女が来て立つてゐた。

「さうだね、も一つ貰はうか、」

 義直はその後で無意識に前のコツプを持つて、僅かに残つたビールを飲みながら左のテーブルの方を見た。赤い横顔を見せた髪の毛の長い男は、はじめのやうにテーブルに前屈みによつかゝり、向ふ側の若い男もはじめのやうにコツプを口のふちへやつたなりでゐた。彼は不思議に思うて若い男の顔に眼をやつた。それは黒い眼を見せてゐたが人形の眼のやうに動かなかつた。

「お持ちどほさま、」

 洋服の女がコツプを持つて来た。義直は女がコツプを置くと若い男の方へちよと指さした。

「姉さん、彼のお客さんは睡つてゐるのか、さつきから、コツプを持つたまゝぢやないか、」

 女は振り返つて、

「さうですわ、ねえ、」

 と云つてから棚の下に腰をかけて動かずにゐる島田の女の方を見た。と島田の女の眼がぱつちり開いてそれに笑が湧いた。

「姉さん、ぜんたい此所は何所だ、」

 洋服の女は此方に顔を向けた。

「お判りになりませんか、」

「判らないね、」

「すぐお判りになりさうなもんですが、」

「判らないね、場所も判らなければ、時間も判らないね、」

「どうかなされていらつしやるんですね、」

「どうかしてゐるか、それも判らないんだ、」

「ぜんたいどうなすつたんです、」

「それが判らないね、云つておくれ、場所と時間を早く云つておくれ、それが判れば、思ひだせるだらう、」

「そんなつまらないことが判らなくつたつて、好いぢやありませんか、」

「つまらないことぢやない、大事のことなんだ、早く場所と時間とを知らしてくれ、ぜんたい此所は何所なんだ、そして幾時なんだ、」

 島田の女が起きあがつた。

「蝶がきてよ、」

 義直は顔をあげて天井の方を見た。天井に黄ろに燃えてゐる瓦斯燈が三つばかりあつた。

「あなた、」

 後の方で聴き覚えのある女の声がした。義直はそれを聴くと急いで振り返つた。それは水色の地に紺の碁盤目の著物を白い肌につけた彼の女であつた。

「あゝ、あなたか、」

「何時、此所へいらしたんです、」

「今のさき来たばかりなんだ、ぜんたい、今、幾時です、」

「さあ、幾時ですか、まあ、そんなことは好いぢやありませんか、」

「時間と場所を聞かないと、何が何やらさつぱり判らなくなつてゐるんです、云つて下さい、」

「そんなことは好いぢやありませんか、私は、睡れないから曹達水でも戴かうと思つてまゐりましたよ。」

 女はかう云ひ義直の傍の椅子に腰をかけた。

「今晩はゆつくりぢやございませんか、曹達水を持つてまゐりませうか、」

 傍に立つてゐた洋服の女が親切さうな口を利いた。

「あゝ、レモンにして持つて来てください、」

 洋服の女が向ふの方へ行くと、女は義直の顔を見た。

「あなたも、曹達水をおあがりになつては如何です、」

 義直は女がそんなことを云ふのがもどかしかつた。

「ビールを飲んだから好い、そんなことより、此所は何所です、どうしても僕には判らないんです、云つてください、場所と時間が判らないと、僕の頭は何にも思ひだせないです、」

「そんなつまらないことは好いぢやありませんか、」

 女は笑つた。曹達水のコツプを持つた洋服の女が傍へ来てゐた。

「この方は、さつきから、あんなことを云つてらつしやるんですよ、つまらないことぢやありませんか、」

 曹達水のコツプは女の前に行つた。

「さうですよ、本当につまらないことですよ、」

 義直は困つてしまつた。

「つまらないことぢやないです、僕にとつては大事のことなんです、云つてください、」

「私が云はないたつて、今に知れますよ、ぢつとしてゐらつしやい、」

「駄目ですよ、何故あなたは、私がこんなに頼むのに云つてくれないのです、」

 女は曹達水を飲んでゐた。

「そんな無理を云ふものぢやありませんよ、あまり無理を云ふと、私は行つちまひますよ、」

「ぢや、どうしても云つてくださらないですか、」

「それが無理ですよ、ぢつとしてゐらつしやい、」

 義直はもう泣き出しさうな声になつてゐた。

「何故云つてくれないです、僕はあなただけが判つてゐて、他のことが何も判らないです、」

「では、三階へゐらつしやい、判るやうにしてあげますから、」

 義直は嬉しかつた。

「では、すぐ三階へ行きませう、」

「まゐりませう、」

 義直と一緒に女も腰をあげた。義直は青い服を着た男のゐるテーブルの前を通つて、其所に見えてゐる寒水石の階段をあがつて行つた。その階段は螺旋形になつてゐた。義直は自分の後からあがつて来る女の髪に眼を落した。それはエス巻のやうにしてその下に蝙蝠か何かの羽をひろげたやうにリボンをかけてゐた。

 二階の室には其所に円いテーブルを控へてあつたが、何人も人は見えなかつた。義直はその室を見流しながら三階へ通じた階段をあがつて行つた。

 三階の室は薄黄ろな広い室であつた。室の中には其所此所にテーブルを置いて、男とも女とも判らない人の影が、其所にぽつり此所にぽつりと云ふやうに見えてゐた。義直は何所へ行つて腰をかけたものであらうかとちよと躊躇した。

「此方へゐらつしやい、」

 正面のテーブルにゐた者が手をあげて招いた。義直は何人か知つた人だらうかと思ひながら一足二足行つて覗いた。二十三四に見える小柄な綺麗な女であつた。

「ゐらつしやいよ、これから友達になるんぢやありませんか、」

 義直は何所か見たやうなことのある女だと思つたが、何人であるのか思ひ出せなかつた。

「もう判つたでせう、私よ、」

 女は笑つたが義直には判らなかつた。

「義直さん、私が判らない、写真で見てやしない、」

 義直の頭にちら/\と閃いたものがある。

「私、叔母よ、」

 それは亡くなつた養父がこのあたりの不思議の家にゐると云つた養母であつた。義直は吃驚して階段をかけおり下駄も履かずに門口へ出やうとした。と、今まで開いてゐたガラス戸が急に両方から締つて来てぴつしやりと合つてしまつた。義直は周章てゝそれを開けやうとしたが開かなかつた。彼は四枚あるガラス戸を彼方此方と動かして見たが、一枚板のやうにびつちりと喰付いてしまつて動きもしなかつた。


 義直はその夜から蹤跡が判らなくなつてしまつた。






底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社

   2003(平成15)年10月22日初版発行

底本の親本:「黒雨集」大阪毎日新聞社

   1923(大正12)年10月25日

入力:川山隆

校正:門田裕志

2009年8月12日作成

2012年5月24日修正

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