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雑木林の中

田中貢太郎




 明治十七八年頃のことであつた。改進党の壮士藤原登は、芝の愛宕下の下宿から早稲田の奥に住んでゐる党の領袖の所へ金の無心に行つてゐた。まだその頃の早稲田は、雑木林があり、草原があり、竹藪があり、水田があり、畑地があつて、人煙の蕭条とした郊外であつた。

 それは夏の午後のことで、その日は南風気の風の無い日であつた。白く燃える陽の下に、草の葉も稲の葉も茗荷の葉も皆葉先を捲いて、みやうに四辺がしんとなつて見える中で、きりぎりすのみが生のある者のやうに彼方此方で鳴いてゐた。登は稲田と雑木林との間にある小さな路を歩いてゐたが、ところどころ路が濡れてゐて、ちびた駒下駄に泥があがつて歩けないので、林の中に歩く所はないかと思つて眼をやつた。其所には雑草に交つて野茨の花が白く咲いてゐたが、その雑草の中に斜に左の方へと行つてゐる小さな草路があつた。登はその草路の方へと歩いて行つた。

 鍔の広い麦藁帽は、雑木の葉先に当つて落ちさうになる所があつた。登はそれを落さないやうにと帽子の縁に右の手をかけてゐた。彼はその時先輩に対して金の無心を云ひだす機会を考へてゐた。彼は何人か二三人来客があつてゐてくれるなら好いがと思つた。それはもう途中で二度も三度も考へたことであつた。

 ······(今日は何しに来たんだ)

 と云ふのを待つて、

(すみませんが······、)

 と云ふやうに頭を掻いてみせると、

(また金か、この間、くれてやつたのが、もう無くなつたのか、幾等入るんだ、)

 と、豪放な口の利方をするのを待つてゐて、

(すみませんが、五円ぐらゐ······、)

 とやると、

(しやうの無い奴だ、)

 と云つて、傍の手文庫の中から出してくれたが、何人も傍にゐない時には一銭も出さない。······

 彼は今日あたりは幹事の島田あたりが屹と来てゐるだらう、内閣の割込み運動のやうな秘密な会合だとその席へは通れないが、普通の打ち合せで、それから晩餐でも一緒にやると云ふやうなことであつたら、通さないこともないだらう、さうなると金が貰へた上に、酒にもありつけると思つた彼は好い気持になつて来た。

 眼の前に若い子供子供した女の顔が浮かんで来た。彼の心はその方にと引かれて行つた。

(小桜、)

 あれは確に小桜と云つたなと思つた。それはその前夜吉原の小格子で知つた女の名であつた。

(今晩もずつと出かけて行かう、)

 登はふと足のくたびれを感じた。彼は愛宕下から休まずにてく/\歩いて来たことを考へだした。額には湯のやうな汗があつた。彼は右の手を腰にやつた。白い浴衣の兵児帯には手拭を挟んであつた。彼は手さぐりにその手拭を取り、左の手で帽子を脱いで、汗を拭ひだした。

 一軒の茶店のやうな家が眼の前にあつた。其所は路の幅も広くなつてゐた。一間くらゐの入口には、納涼台でも置いたやうな黒い汚い縁側があつて、十七八の小柄な女が裁縫をしてゐた。それは子供子供した一度も二度も見たやうな何所かに見覚のある綺麗な顔であつた。視線が合ふと女の口許に微笑が浮んだ。

 登の足は自然と止まつてしまつた。彼はこの女は何所かで見たことがある、何所で見た女だらうと考へてみたが思ひだせなかつた。彼はまた女に眼をやつた。と、女と視線がまた合つた。女の口許には初めのやうな微笑が浮かんだ。彼はそのまゝ入口の方へと行つた。

「すみませんが、すこし休ましてくれませんか、愛宕下から歩いて来たもんだから、暑くつて仕方がないんです、」

「どうぞ、」

 女はちよと俯向くやうにした。登は縁側に腰をかけて帽子を置き、外の方を見ながら無意識に額から首のまはりに手拭をやつた。

「このあたりに、茶店はないでせうか、」

「近頃迄、私の家で茶店をやつてましたが、お父さんとお母さんとが、本郷のお屋敷へ手伝ひにあがるやうになりましたから、止めました、」

「さうですか、」

「渋茶でよろしければ、差しあげませうか、」

「それはすみませんね、一杯戴きませうか、」

「おあげしませう、なんなら上へおあがりになつて、お休みになつたら如何でございます、奥の室が涼しうございますよ、」

 登は女の云ふなりに奥の室へ行きたいと思つたが、気まりが悪いのですぐはあがれなかつた。

「さうですか、此方は木があるんですから涼しいでせう、」

「涼しうございますよ、おあがりなさいまし、芝からいらしたなら、お暑かつたでせう、」

「今日は馬鹿に暑かつたですよ、僕はこの先の、山木さんの所へ行くもんですがね、」

「あ、お屋敷でございますか、」

「さうです、党のことでときどきやつて来ますがね、この路を通るのははじめてですよ、」

「さうでございませう、此所はちよと這入つてますから、それでもお屋敷へゐらつしやる書生さんが、よくお通りになりますよ、店をやつてます時は、お酒を飲んで行く書生さんがありましたよ、」

 登はふとこの家は茶店を止めてゐても、酒ぐらいは置いてあつて、知合の書生などには酒を飲ましてゐるらしいなと思つた。彼はすぐ自分の懐のことを考へてみた。懐にはまだ昨夜の使ひ残りがすこしは有つた。

「さうですか、ぢやすこし休まして戴きませうか、」

「さあ、どうぞ、」

 女が立ちあがつた。登も手拭で足をはたきながらあがつたが、帽子のことを思ひだしたので蹲んで持つた。

「汚いんですけれど、」

 女は歩いて行つて見付の障子を開けた。左側に小さな小縁が見えて其処に六畳ぐらゐの室があつた。右側は台所になつて、その口の所に一枚の障子があつた。

「此所ですよ、」

「すみませんね、」

 登は女の後から行つてその縁側へ出、障子を開け放してある室へと行つた。庭の先は青々とした木の枝が重つてゐて、それに夕陽が明るく射してゐた。

「今お茶を持つてあがります。」

 女は小縁を伝うて引ツ返して行つた。登は庭の方を向いて坐りながら、その女と昨夜知つた女の顔とが一緒になつたやうに思つた。

(さうだ、昨夜の女に似てゐる、だから、見たやうに思つたんだ、)

 女が茶碗を盆に乗せて持つて来てゐた。

「そんなにかしこまらないで、横におなりなさいましよ、何人も来る人はありませんから、」

 女は物慣れたものごしで云ひ/\、茶碗の盆を登の前へと置いて坐つた。

「すみませんね、」

 登はわざと女を見ないやうに茶碗を取つて、麦湯のような薄濁りのした冷たい物を口にした。

「横におなりなさいましよ、私一人ですから遠慮する者はありませんよ、」

 登はかしこまつて坐つてゐるのが苦しかつた。

「さうですか、ぢや、失敬します、」

 彼は胡座をかいて女の顔を見た。

「ほんとに横におなりなさいましよ、好いぢやありませんか、」

 登はふと酒のことを思ひだした。

「もう店をお止めになつたから、お酒なんかは無いでせうね、」

「えゝ、普通のお酒は無いんですけど、本郷のお屋敷から戴いた、西洋のお酒がありますが、なんなら差しあげませうか、」[#「、」」は底本では「」、」]

「いや、それは、それはなんですから、日本酒があるなら戴いても好いんですが、なに好いんですよ、」

「御遠慮なさらなくても、家の者は、何人も戴きませんから、よろしければ、差しあげませう、すこしゝかありませんけど、」

「さうですか、すこし戴きませうか、御面倒ぢやありませんか、」

「そんなことはありませんよ、では、差しあげませう、」

 女は起つて出て行つた、登は出て行く女の紫色の単衣の絡つた白い素足に眼をやりながら、昨夜の女の足の感じをそれと一緒にしてゐた。彼はうツとりとなつて考へ込んでゐた。

「こんな酒ですよ、召しあがれますかどうだか、」

 登は夢から覚めたやうな気持で眼をやつた。女が小さなコツプに半分ぐらゐ入れた薄赤い液体を盆に乗せて持つて来てゐた。女は膝を流して坐つてゐた。

「や、これはすみません、」

「なんだか辛いお酒だつて云ふんですよ、」

「さうですか、戴きませう、」

 登は茶の盆をすこし左の方に押しやつてから、コツプの乗つた盆を引き寄せ、それを持つてすこし舌の先に乗せてみた。それは麝香のやうな香のある強烈な酒であつた。

「なるほど、きつい酒ですな、しかし、旨いんです、」

 登はかう云つて一口飲んだ。彼の眼には黒い女の眼が見えてゐた。やがて登は、月の光のやうな薄暗い灯の点いた室で女と寝そべつて話してゐる自分に気が注いた。彼の手には女の手が絡まつてゐた。彼はまた酒のことを思ひだした。

「もう先ツきの酒はないんですね、」

「お酒、すこしならあるんですよ、まだおあがりになつて、」

 女の白い顔が覗くやうにした。

「すこし酒が醒たやうだ、あるならもうすこし飲みたいですな、」

「持つて来ませうか、」

「持つて来てください、」

 女は登の手にやつてゐた自分の手を除けて静かに起きながら、コツプの盆を持つて出て行つた。登はそれを見送りながらぢつとしてゐたが、女と離れてゐるのが物たりなくなつて来たので、起きるともなしに起きて、縁側に出て台所の方へと歩いて行つた。

 其所には障子の開いた台所の口があつて、内から青白い灯が射して物の気配がしてゐた。登は女が其所で何かしてゐると思つたので覗いてみた。台所の流槽の傍に女が向ふ斜に立つて、高くあげた右の手に黒い長い物をだらりとさげてゐた。登はなんであらふと思つて注意した。それは黒い鱗のぎらぎらとしてゐる大きな蛇で、頭を切り放したらしいその端の切口から赤い血が滴つて、それが流槽の上に置いたコツプの中へ溜つてゐた。登は頭が赫となつて足にまかせて逃げ走つた。


 夢中になつて逃げてゐた登は、運好く山木邸の前へ行きかゝつたので、その晩は其処の書生部屋に一泊さして貰ひ、翌日、その怪異の跡をたしかめるつもりで、山木邸にゐる四五人の食客と一緒にその場所を捜して歩いた。

 その内にちよとした雑木林の中で自分の着てゐた麦藁帽子が見付かつたので、そのあたりの草の中を捜してゐると、畳一枚ぐらゐの所に草のよれよれになつた所があつて、其所に埴輪とも玩具の人形とも判らない七寸ぐらゐの古い古い土の人形があつて、その傍に一疋の小さな黒蛇が死んでゐた。






底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社

   2003(平成15)年10月22日初版発行

底本の親本:「黒雨集」大阪毎日新聞社

   1923(大正12)年10月25日

入力:川山隆

校正:門田裕志

2009年8月12日作成

2012年5月24日修正

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