法律の前には罪を犯さなくても、神の前に罪を犯さぬ者はありません。
「牧師様、いちばん重い罪でなくてはいけないものでしょうか? 二番目に重い罪では?」
「いちばん重い罪でなくては神を偽ることになります。今日から新生涯にはいろうとなさる貴方が、新生涯にはいる第一歩に神を偽るなんて途方もないことです」
「神様はほんとうにどんな罪でも懺悔をすれば許して下さるでしょうか?」
「神を疑うことは、神をためすことになります。貴方は神を信じなくてはなりません。どんな罪でも、たとい人殺しの罪でも心から懺悔すれば神様はゆるして下さいます」
「それでは申し上げましょう」
青年は十字をきって語りだした。
「私は一人の見知らぬ男からひどい侮辱を受けました。主イエスは人もし汝の右の頬を打たば左の頬も打たせよと
「三年前のことです。そのころ私は西国のある淋しい田舎町にすんでおりました。ある冬のこと、私はひどい流行感冒にかかって町の病院へはいっていました。私にはそのころ一人の恋人がありました。ごめん下さい、私は何しろまだ二十二だったものですから、その女は十七でした。二人は口に出してこそ言いませんでしたが、互いの眼と眼、心と心とで、かたく未来をちかっていたのでした。民子は||ごめん下さい、その女は民子といったのでした||毎日二度ずつかかさず病院へ見舞いに来てくれました。ある時は私の好きな水仙の鉢をもってきて私の枕元においてくれました。ある時は私のたのんだ小説を買ってきて、二時間も私によんできかしてくれました。医師は読書を禁じていましたが、私が無理にせがんだのです。彼女は声が室外に漏れないように気を配って、私の耳のすぐそばへ口をもってきて読んでくれました。私は彼女の
「だけど牧師様、世の中はままならぬものであります。私たちの、こうした美しい幸福な愛の世界も長くはつづきませんでした。ある日民子は悲しそうな様子をして私の病室へはいってきました。彼女は何か胸にたえられぬ心配がある様子で、何か言いたそうにしては口籠もっていましたが、とうとう、はずかしそうに懐から写真を一枚とりだして私の枕元におきながら、しばらく東京へ行くことになったから、とうぶん会えないが
「それから先、明けては暮れてゆく病院の月日がどんなに私にさびしかったか、牧師様お察し下さい。ただ一枚の写真だけが私の生命の
「しかし病気はなおっても、恋人を失ったためにできた心の
「この三年の間に、私は絶望して死のうと思ったことが何度あったかもしれません。がその間の詳しいことは申し上げますまい。ただこの数ヶ月間、私は職を失って、物質的にもとりわけひどく困っていました。私の身のまわりには、金にかえることのできるものはすっかりなくなってしまいました。最後までとっておいた愛読書||それは彼女が病院で私に読んできかしてくれた思い出多い書物です||を売って八十銭の金を手にしたのが
「人間というものはどんなことがあっても餓死するものではない。窮すれば何とか道がつくものだということを兼ねがね私はきいておりました。けれども、今度という今度は、私には何ともあてがつきませんでした。金を借りようにも、身を寄せようにも、私にはそんなことを言い出すことのできる知人は一人もありませんでした。職業紹介所へは、今朝で四十六日通いつづけましたが、いつもいつもきわどいところで話がだめになってしまうのです。私はもうつくづく悲観してしまいました。自分の能力を疑いはじめてきました。世間の人は、みな例外なく、どんな人でも食ってだけはいるのに、私だけは
「とうとう恋しい民子にもあわずに、生存の戦いに敗れて自滅してゆくのだと思うともう世の中が急に真っ暗になったような気がするのです。私は今日の午過ぎ紹介所からの帰りにポケットの中で、二枚の白銅をにぎりしめながらあてもなく町を歩いていました。どこだったかよくおぼえてはいませんが、何でも忙しそうに人の
「私はづかづかっと中へはいりました。店のお
「私は弾丸の替わりを請求しました。お内儀さんはまた五発入りの盆を私の前においてくれました。また私は上の二つを
「私の精神状態はこれだけのことでがらりと一変しました。何だかひどい金持ちになったような、宇宙間のものが何もかも自分の意志のとおりになるような気がするのです。どこをどう歩いたものかおぼえませんが、いつのまにか私は四谷見付のところへ来ておりました。冷たい空っ風が吹いて、外套も着ていない私には寒さがしみじみと身にしみました。ふと橋の袂を見ると、親子らしい二人の女乞食が、地べたにつくばって、あわれっぽい声を出して通行人に施しを乞うているのです。私ははっと胸が迫りました。うれしいような、悲しいような、半ば夢中の精神状態で、私はづかづかと二人の乞食のそばへ走りよって、射的場で貰ってきた金を残らず、この親子づれの乞食にくれてやりました。別にこの二人に同情してどうのというのじゃありません。全く無意識に、ほとんど本能的にそうしたのでした。私は何となく嬉しくてたまらないような気持ちになってきました。これから先どうしようなんてことは
「この突然の有頂天の瞬間に、有り得べからざる事件が起こってきたのでした。彼女に私はあったのです。が、牧師様、彼女は、私より百倍も不幸でした。三年前に平和な町から、私の病床から、あの可憐な少女を奪い去った男は、世にも憎むべき破廉恥漢だったのでした。色魔だったのでした。牧師様、私は彼女から涙ながらの物語をきくと即座にその男に対する復讐をちかったのであります。けれどもこの復讐と同時に私たちは新生涯にはいりたいと思うのであります。今お宅の前まで不幸な彼女は一しょに私についてきているのです。牧師様、どうぞ、あのかわいそうな女に一目あってやって下さい。そして神のめぐみをさずけてやって下さい。そして神のめぐみをさずけてやって下さい。もうクリスマスの集まりの方々も見えるでしょうから、それまでに是非······」
牧師がまだ返事もせぬうちに二人のいた部屋の
「お前は······」と牧師が怒気のために息づまりながら何か言い出そうとすると、男はしずかに口を開いて牧師を
「いま私が申し上げた、不幸な私の恋人です。平和な私の町へ伝道に来て、神の名によりて道を説きながら、清らかな少女を毒牙にかけた憎むべき牧師の第一の犠牲者です」
牧師は棒立ちになったまま口がきけなかった。
「後ろにおられるのは、同じ手段でその色魔の手にかかった第二の犠牲者です。よく顔を上げて見なさい。どうです。まともに二人の顔を見ることができんのですか?」
この時、隣室でばたんと物の倒れるような音がした。牧師はぎくりとして思わず音のした方を見た。男はおもむろに起ち上がってその方へ進んで行った。扉をあけると一人の女が床の上にうつぶしになってすすりないていた。
「
「すっかり、ここで承りました、何もかもわかりました。
「犠牲者はこの三人だけではありません。この非倫な牧師は信者に懺悔をしいて秘密を告白させては、相手の弱点をにぎり、それをたねに脅迫して、獣欲を
今夜のクリスマスの集まりは、あなた方お三人で司令なさい。これから集まってくる方々のうちにも、この男の悪辣なわなにかかって苦しんでおられる方が少なくないに相違ありません。それらの人たちの面前で、この男は、自分で