いやもう、いまから考えると途方もないようだが、元治元年といえば御維新の四年前で、
これは江戸花川戸の岡っ引、早耳三次が手がけた事件の一つ。
そのころ本芝四丁目
「いらっしゃい||。」
と見ると、女は凄いほどの
「この酒ですか。一合ですね。」
こういって小僧が
あとでその小僧がこんなことをいった。
「長どん、雨が降っているとみえるね。」
「何をいってるんだよ。」長どんと呼ばれたもう一人の小僧は即座に打ち消した。「寝呆けなさんな。お星さまが出ていらあ。」
まったくそれは晴れ渡った夕方だった。未だどこかに陽の光が残っていて明日の好天気を思わせる美しい宵闇だった。
「そうかな。変だなあ。」
と初めの小僧は長どんの言葉を疑って、不審そうに首を捻っていたが、やがて自分で戸口へ行って戸外をのぞいた。
「どうでえ、たいした
うしろから長どんがひやかした。小僧は何にもいわずに二、三歩おもてへ出て、雨を感ずるように
「ははは、いくら見たって、この
で、松どんも仕方なしに
「しかし、妙だなあ!」と眼を円くして、「いま来た女の人ね、あの白い着物を着た||ずぶ濡れだったよ。」
が、長どんは相手にしない。
「ふふふ、雨も降っていねえのに濡れて来るやつがあるもんか。お前はどうかしてるよ。」
「だって、ほんとに濡れてたんだもの、頭の先から足の先までびしょ濡れだった。」
「ばかな! またかりに雨なら雨でそのために傘って物があらあ。しっかりしろ。」
松どんくやしがって泣き声だ。
「いくらおいらがしっかりしたって、濡れてたものは仕方がねえ。」
「だからお前は
「白い着物からぽたぽた
「なにいってやんで! 手前の眼から落ちそうだい。」
とうとう喧嘩になった。そこで番頭が仲裁に入って、ともかく松どんがそういうものだから、まだ女が去って間もないことだし、もし濡れていたものなちその跡でもあるかもしれないと、女が立っていた酒樽の土間を調べてみると、なるほどそこの土だけが水を吸ってしっとりとしていた。まず松どんが勝ったわけで、店の者は不思議に思いながらも、その晩はそれですんでしまった。
すると、あくる日の夕方、蓮乗寺の鐘を合図のように、また同じ女が来た。今度はゆうべの松どんの話があるから、みんなも気をつけて見たが、まったくその着ている
実際、暮れ六つというと、毎日必ず下げ髪から
主人の耳にも入って、なにしろ店の者の評判が大きいから、聞いたいじょう捨ててもおけない。ある日女が来たところを掴まえて、番頭にいわしてみた。
「毎度どうも御ひいきにあずかりましてありがとうございます。わざわざお運びを願うのもなんですから、
が、女はじろりと番頭の顔を見たきり、返事もせずに出て行ってしまった。
毎日全身ぬれてくるのはどういう仔細だ?
ぬれてくるわの
||というので、あんまり気になるから、ある夕方、よせばいいのに主人自身がこっそり女の跡をつけてみた。
女はすたすた藁草履を踏んで、浜のほうへ歩いて行く。この辺はもう人家もない。右手に薩州お蔵屋敷の森がこんもりと
風が磯の香を運んで来る。行手に、もと船大工の仕事場だった大きな一棟が、荒れはてたお城のように黒ぐろと横たわっている。このさき、建物といってはこれ一つしかないのだ。
はて心得ぬ! あんなところへはいるのかしら?
と思いながら、なおも気どられないように間隔を置いて、和泉屋が尾行してゆくと、女はすうっとその船大工場の横を通り過ぎた。
突き当りは海。
どぶうり、どぶり||浪の音がしている。急いで追っかけて砂浜へ出ると白衣の女は潮風に吹かれて波打ちぎわに立っている。
おや!
声をかけようか。
しかし、酒徳利と心中というのもおかしいぞ。
もうすこし待ってようすを見てやれ。
こう考えているうちに、和泉屋はすっかり
着衣のまんま、女が海へはいりだしたのだ。片手に酒の入っている徳利、片手を軽くぶらぶらさせて、着物の裾を引き上げるでもなく、まるで往来をあるくと同じように、女は沖へ向って進みつつある。
遠浅の内海だから寄せる浪は低いがそれでも岸近く
磯松の根っこからひそかにこれを窺っている和泉屋こそ、薄っ気味も悪いが気が気でない。この場合、自分の家へ帰るような態度で海の中へ踏み込んで往くこの女の後姿には、実になんともいえない
一段二段三段||と浪の線を後にして、女はしばらく水上に頭を見せていたが、やがてのことにそれもすっぽり没し去って、完全に海へめいり込んでしまった。が、姿は見えなくなっても、やはりその海底を、本芝の通りをあるいている時と同じように徳利を持って沖を指してすたこら急いでいるのだろう||と思われる。
あとにはただ、寄せては返す潮騒が黒ぐろと鳴り渡って、遠くに松平肥後守様のお陣屋の灯が、
白痴のようにぼんやり帰宅した和泉屋は、その夜の実見については何も語らなかった。
つぎの夕方も女は来た。和泉屋はまたあとをつけた。そうして前夜と同じに女が海へ入るところを見届けた。翌る日も、その次ぎの宵も||和泉屋は自分だけ知ってる秘密を
世の中には変なこともあるものだなあ。
人間すべきものは長生だ。
あの女は海から来て海へ帰るらしい。
さてこそいつも濡れているわけだて。
和泉屋は何もかも忘れてただこの白装束の女への不気味な興味ではちきれそうだった。
で、つけだしてから五日めの晩、例によって海岸の松のかげから女を見ていると、何を思ったか、女は浪打際でくるりと踵を廻らして、つかつかとその松の木の下へはいって来た。
透かすようにして和泉屋を見つめている。
おやじはあわてた。逃げようにも足が動かない。まごまごしていると、女が銀鈴のような声を出した。
「酒屋の
おそろしく時代なせりふだが、とにかくそんなような意味のことをいったのだろう。
「へへっ。」
和泉屋、だらしなく砂へ両手を突いた。女が訊いている。
「何と思いやるのう?」
「へえ||。」
「へえではわからぬ||わしは人間ではないのじゃ。」
なるほど海の女の声は人間離れがしている。
「え?」
とおやじは思わず顔を上げた。水を背にした女の肩に、夜の空あかりが落ちている。さらさらと砂の崩れる音がしたのは、女が一足近づいたからだ。
「人間ではない。わしは竜神の
「あの、竜、竜神さまの||。」
「さようじゃ。竜神の使女が君の召す御酒を
「へへっ。それは大変な。まことにありがとうござります。そういうお方とも存じませずお後を
和泉屋の
なんでもかの女の主君、すなわち竜神様は大分口が奢っているとみえ、海の底でどうしてお
と聞いて、今度は和泉屋が嬉しがった。どうかいつでもお越を願います。と女に頼んでみると、善は急げというからしからば明晩がよかろう。竜神のほうは大丈夫わたしが仲に立って
さて、何しろ今夜こそはお
昼のうちから用意した竜神の好きそうな物をそれへ並べて、酒の燗もできている。退屈だし
と、刻限。表の戸が細目にあいて、いつもの白衣の女がはいって来た。背後を向いてさし招いている。
さてはいよいよ竜神のお
おそるおそる頭をもたげた主人、一眼見るよりあっと叫んだというが無理もない。
赤くなった黒木綿の紋付にがんどう頭巾、お約束の浪人姿が、どきどきするような長い
「お爺さん、びっくりさせてすまないねえ。じたばたすると危ないよ。わたしの竜神はちっとばかり気が短いんだから、ほほほ。」
という挨拶で、あとは
いやはや涼しい真似をしやあがる||なんかと、とかく、よくないことには感心するやつが現れてくる。どうもえらい評判だ。これを聞きこんだのが花川戸の親分と呼ばれていた御用聞きの早耳三次で、
「
蜒女上りの
ふてえあまだ||というんで、内々三次が嗅ぎ廻っていると、江戸は口が多い。間もなく、江の島で蜒女をしてたことがあるという女を深川の古石場で押えた。侍のほうは逃げてしまったが、女はべつに悪あがきもせずにお繩を頂戴した。