第一話
四谷の
豆店というのは、菱屋横町の裏手の空地にまばらに建てられた三棟の長屋の総称で、夏になると、雑草のなかで近所の
が、なんといっても変り種の一番は差配の源右衛門であったろう。源右衛門は一番奥の長屋の左の端の家にひとり住いをしていたが、まだ四十を過ぎて間もないのに、ちょっと楽隠居といったかたちだったというのは、源右衛門の本家は、塩町の大通りに間口も相当ある店を出している田中屋という米屋で、源右衛門もつい去年まで、自分が帳場に坐ってすっかり采配を振っていたのだが、早い時にもった息子が、相当の
その源右衛門がこのごろすこし
そこで源右衛門は、あちこち手をまわして口をかけて、借りたいというものの出てくるのを待っていたが、ただの借家でも家主があまり近いといやがる人が多いのに、となりにやかましやの源右衛門という差配が頑張っているので、おいそれと借り手があらわれなかった。一日空かしておけばそれだけ家が寝るわけだから、源右衛門が気ちがいのように借家人を探していると、ある日の夕方、
女がその家を見たいというので、源右衛門は世辞たらたらで、表の戸を開けた。なかは六畳に四畳半の住み荒らした部屋で、ちょっと誰でも二の足をふむほどのきたなさだったが、女はろくに見もせずにすぐに借りることにして、その翌朝どこからともなしに、風呂敷包みを二つ三つぶらさげたままで、子供をつれて移って来た。
あんまり手軽な引越しなので、源右衛門もちょつと不安な気がしたが、女はさっそく隣近所に
「源右衛門さん、お隣りへ素晴らしいのが来ましたね。危ねえもんだ。」
などと近所の人に言われると、源右衛門はいかにも危なそうににやにやして、いい気に顎をなでたりしていた。
まず女の正体が長屋じゅうの問題になった。なにしろ
じっさい女はよく働いた。が、それは家のなかの掃除だけで、
すると、ある日のこと源右衛門が、表の本家の米屋の店に腰をかけて、息子や番頭を相手に楽隠居らしい馬鹿話をつづけていると、息子の源七が、ふと何か、思い出したように、うしろを向いて小僧へ言った。
「定吉や、ちょうどお父つぁんが来ていなさるから、あれを持って来てみな。」
何だい? と源右衛門が怪訝な顔をしているところへ、源七は小僧の持って来たものをうしろ手に受け取って、きらりと親父の前へ投げ出した。ちゃりんと音のするのを見ると、思いがけなく、眼を射るような吹きたての小判だった。
「すばらしい物じゃないか。どっから手に入れた?」
源右衛門がこう言って訊くと、源七はにこりともせずに小判を見つめながら、
「
と怖そうに声を低めた。
源右衛門はその顔を見つめて、
「なに? ほんものには相違あるまい。なぜそんな妙なことを言うのだ? 誰から受け取ったのだ?」
すると源七は、それでも疑い深そうに、小判を指さきへのせて弾いてみながら、
「まあ、本物でよござんしたがね||。」
と、つぎのようなことを語りだした。
今朝がた、
源右衛門の隣りの家の女の児が、風呂敷包みを下げてお米を少し小買いに来たのだったが、その時、女の児が米代としておいて行ったのがこの小判だった。豆店の新参ものの女からこんな見事な小判で買物に来たのだから、店のほうでも一応は不審を抱いて、子供を待たしておいて源七が裏から小判を持って出て、そっと近所の役人に
家の前を通りがけにちらとなかを覗くと、女は風呂にでも行ったらしく留守だった。小判がほん物であるいじょう、たとえ誰が持って来ても、疑う筋合いはないようなものの、無一文に破産をしたという隣の女とあの吹きたての小判とを結びつけて考えることは、源右衛門にはどうしてもできなかった。
その晩のことである。
真夜中過ぎていたが、そんなことや何かが気になって源右衛門の眠りは浅かったとみえる。ふと金のかち合うような音を耳にしたと思って、源右衛門は眼を覚ました。たしかに隣の家で、金物の細工でもしているらしい音が、忍びやかに聞えてくる。源右衛門は、そっと立ち上って壁に耳をつけた。まぎれもなく金属を細かくたたく音や、
夜中に起きて細工をするとは何だろう?||と
翌る朝早く、前の井戸で源右衛門が顔を洗っていると、隣の女の子が風呂敷を下げて使いに出て来た。
「お早よう、
「お使いかね?」
女の子はうんと頷いて行き過ぎようとしたが、何ごころなくその手を見た源右衛門はびっくりした。子供が、眼のさめるような小判を握っているのである。
源右衛門は何も言わずに子供のうしろ姿を見送っていたが、やがて額に皺を寄せて考え込んでしまった。
そんなことが毎晩のようにつづいた。
源右衛門が気をつけていると、女はかならず夜中に例の金物の細工のような音をたてて、その翌る朝はきまって小さな妹が新しい小判をもって買物に出て行く。どの店へでも行ったらしいが、田中屋へもよくそのまあたらしい小判をもって来た。あんまりたび重なるので、源右衛門が自分でそれを集めて持って行って役人に検べてもらった。するとやはりまぎれもない天下の通宝だという。源右衛門は狐につままれたような心持ちで、ある日こっそり隣の女の子に訊いてみた。
「姉さんはよく光ったお金を持ってるね。どこからもって来るの?」
すると女の子が答えた。
「持って来るんじゃないよ。あれ、姉ちゃんが造るんだよ。」
源右衛門はぎょっとして首をちぢめてあたりを見廻すと、そのまま家へ帰ってすぐつくづく考えた。
隣の女はにせ金を造っている。それはいいが、どこへ持って行っても、お役人に見せてさえ、天下のおたからとして折紙をつけられるのがへんではないか。さてはよほど上手なにせ金つくりとみえる。
と、ひとり呟いているところへ、案内もなくあわただしく隣の女がはいって来た。そっと戸を閉めて源右衛門を見た女の顔は、血の気をなくしていた。
「まあ! いま妹が帰って来て聞いたんですけれど、あなたにとんだことを申し上げたそうで、どうも、お聞き流しを願います。これが知れましては私は大罪人、お情をもって御他言なさらないように||。」
「お前さん顔に似合わねえ凄いことをしなさるなあ。いや、人には話さないから安心しなさい。」
こう言って源右衛門が大きく胸を叩いて見せると、女はそれから打ちしおれて、るるとして自分の素性なるものを物語った。
それによると女は、日本橋のさる老舗の娘などと言ったのは嘘の皮で、じつはこうやって方々の貸家を移り歩いてはにせの小判を造っている女悪党だとのことだった。これにはさすがの源右衛門も
「あい。それがあたしの
これで源右衛門は二度びっくりして、
「道具がなくてひと晩に一枚しきゃできない? すると道具が揃えばひと晩にもっとたくさんできるのかい?」
女はすましていた。
「そうたくさんもできないけれど、まあ、十枚や十五枚はねえ。」
「そりゃ
と思わず源右衛門が大声を出すと、女が手を振った。
「いやですよ、この人は。人に聞えたら私が困るじゃないか。」
源右衛門は頭を掻きながら膝を進めて、
「そ、その話はほんとかね?」
「だれが嘘を言うもんか、あたしの暗いところじゃないの。」
「で、その
「道具じゃない、機械だよ。」
と、女は答えて、源右衛門の出す紙と
役人がきわめをつけたいじょう、この女の作る小判はにせではなくてほん物なのだ!
源右衛門はとっさに考えた。それではこの女に資本を下ろしてやって機械を作らせ、どんどん小判をこしらえさせれば、たちまちにして
「で、その機械をこしらえる費用は?」
「そうねえ。まず三百両あったらちょいと間に合うかねえ。」
そこで源右衛門は平蜘蛛のようになってこの福の女神を拝んだのだった。
第二話
そのころ駒形に
もう
おもてを行く人の白い息を格子のあいだから眺めながら、ちょっと客も
「いらっしゃいまし。」
と、二人が言った時は、商家の大旦那風の
何か心配ごとでもあるらしく、突き詰めた顔で、
「これは兼久さんですか。いや私は尋ね人があって江戸じゅうの質屋を廻っているものだが、じつはね、こういう女があなたのところへ来ませんでしたか。いま、人相書をお目にかけますが||。」
言いながらごそごそ懐中を探って、男は四つにたたんだ古い
「尋ね人と言ったって、何も別にお上の筋じゃあないから、ひとつ包まず隠さず話してもらいたいんだが、この女ですがね||年は二十そこそこ、なかなかの美人だ。が、眼にすこし険がある。ちょいとうけ口だね。背は高からず、低からず、中肉で色は
そう言われて久兵衛と番頭は、もう一度絵の顔を見直して思い出そうとつとめてみたが、考えるまでもなく、そんな女は兼久へは来なかった。で、きっぱりとそのむねを答えると、男はひどく落胆したようすだったが、
「そうですか。やっぱりお店へも来ませんでしたか。しようがねえなあ。」
と、しばらくひとりでこぼしていたが、やがて思いきったように向き直って、次のようなことを話しだした。
この男は、甲府の町のある家主で、三月ほど前、自分の
それから今日まで二タ月ほどのあいだ心当りを探ってみると、それらしい娘が江戸にいて、何を商売にしているものか、渡り者みたいに落ちぶれて次からつぎと質をおいてまわっていることがわかった。そこで甲府の家主が、片っ端から江戸じゅうの質屋を歩いてみると、寄ったところもあるし、寄らないところもある。ところが、ここにもう一つ不思議なことは、その女が立ち寄っておいたという質草が、いつもきまって同じ物だった||蝶々の彫りをした
どういう
「それで、ちょっと来てみたんですがね、私も国に用があるし、そういつまでも探し廻っているわけにもゆかない。早く探しだして金を渡しちまわなくちゃあ、死んだ婆さんへ気がすまなくてしようがない。金は宿に持って来てあります。でね、この人相書の黒子の女がいまお話しした金かんざしを質におきに来たら、ちょいと押さえておいて、私まで知らせてくれませんか。宿ですか、
こう言って帰って行った家主のうしろ姿へ、三人は感心して首を振った。
何という堅い
ところが、女は来ない。
そのうちに年の暮れの忙しさにまぎれて、忘れるともなく忘れて年が改まった。そうしてやがて冬も残りすくなになり、吹く風にも春の呼吸が感ぜられるころ、ある朝、ごめん下さいとはいって来たのを見ると、これこそ去年甲府の家主のはなしに聞いた黒子の女だったから、小僧は奥へすっ飛んで知らせる。出て来た主人へ女が質草として差し出したのが、脚に蝶々の彫りのある平打ちの金かんざしだったので、番頭と主人が右左から甲府の大家の話を伝えると、女はきょとんとした顔になって、
「いいえ。私は甲府の者ではありません、父も母もあって本所のほうに住んでおります。第一、このかんざしを質におきますのは、今日がはじめてでございます。その甲府のお話は、お人違いでございましょう。」
こう言われて兼久も番頭ものけ
主人と番頭がなおも
この時だった! 堅人で通っていた質屋久兵衛の頭へ、万破れることのない
黒子といい、かんざしと言い、これほど似た人間がまたとあろうか。ことに話によれば、あの甲府の家主も女を
家主が来て見ると、なるほど、話に聞いたお婆さんの娘に相違ない。黒子、金かんざし、いちいち証拠が揃っているし、それに家主が来るまえに万事久兵衛に吹っ込まれていた女は、母親と喧嘩して甲府の家を出てから諸国を流浪して歩いて、江戸でもあちこちこのかんざし一つを質におき廻って来たことなどぴったりと話が合うから、家主は飛び立つほど喜んで、もとよりすこしも疑わなかった。甲府の母が死んだと聞いて、娘は涙さえ見せたくらいである。これには久兵衛も番頭も内心ひそかに感心しているうちに、家主は宿の者にかつがせて来た二百両の小判を、そっくりそのまま女へ渡して、もう用が済んだいじょうは一刻も早く帰りを急ぐといって、早々に引き取って行った。あとで女と久兵衛と番頭が、顔を見合わせて笑った。がすぐに女が言い出したことには、山分けにして百両の小判を貰って行っても、裏長屋では使うこともできないから、小さいのに崩してくれとの頼みだった。もっともだというので、さっそく店じゅうの小銭を集めて、それだけ持たして女を送り出したのだったが||この甲府の大家の置いて行った小判というのが、巧妙なにせ金だったから、兼久は女に細かくしてやっただけ百両の損をして、そのうえ二百両のにせ金を
ところが、そもそも甲府の家主と名乗る男が兼久へその話を持って来たということを聞き込んだ時から、早くも怪しいと睨んでいた早耳三次が、絶えず馬喰町の相模に張り込んで、この日もそっとあとを
あの時の子役は借りものだったという。