一
「ちぇっ、朝っぱらから勘弁ならねえ。」
読みさしの
「御覧なせえ、親分。勘弁ならねえ
「
町火消の頭、に組の常吉を相手に、先刻から
「あの身体で、」と藤吉は勘次を顧みる。「よくもまあ武家屋敷が勤まるこったのう。いずれ明石町か
が、真黒な細い脚を
「ああまで
雨足の白い軒下をじいっと
「合点がいかねえか知らねえが、」と、盤の向う側から頭の常吉が口を出した。「先刻から親分の番でがす。あっしはここんとこへ銀は千鳥としゃれやしたよ。」
「うん。」藤吉はわれに返ったように、「下手の考え休みに到る、か。」と、ぱちりと置く
降りみ降らずみの
「親分。」
盲目縞をしっとり濡らした葬式彦が、いつの間にか猫のように
「彦か||やに早く里心がついたのう。」
と藤吉は事もなげに
「手前、何だな、何か拾って来やがったな。」
「あい、聞込みでがす。」
がばと起き上った勘次の眼がぎらりと光った。
「違えねえ」と藤吉は笑った。「さもなくて空籠で巣帰りする彦じゃねえからのう、はっはっは。」
「親分。」
「なんでえ?」
「お耳を。」
「大仰な。」
「いえ、ちょっくら耳打ちでがす。」
腰の
「常さん、ま、御免なせえよ。」と、将棋の相手の方へ気軽に手を振った藤吉は、「こうっ、雨の降る日にゃあ、こちとら気が短えんだ。彦、さっさと吐き出しねえ。」
右手を屏風にして囲った
と、藤吉が突然大声を出した。
「繩張りゃあ誰だ?」
「提灯屋でげす。」
彦兵衛も口を離した。
「提灯屋なら
と訳も知らずにはしゃぎ始める勘次の差出口を、
「野郎、すっ込んでろい!」と一喝しておいて、藤吉は片膝立てて彦兵衛へ向き直った。
「土地から言やあ提灯屋の持場だ。旦那衆のお声もねえのに渡りをつけずにゃ飛び込めめえ。」
「ところが親分。」と彦兵衛はごくりと一つ唾を飲み込んで、「その亥之公の
「来たってえのか?」
「あい。」
「仏は?」
「
「うん。現場は?」
「提灯屋の手付きで固めてごぜえます。」
「よし。」と釘抜藤吉が立ち上った。五尺そこそこの身体に土佐犬のような
「常さん、お聞きのとおり、この雨降りに引っ張り出しに来やがったよ。ま、勝負はお預けとしときやしょう||やい、奴」と軽く足許の勘次を蹴って、「一っ走りして長屋から傘を持ってこい。」
二
「
神田の伯母からふんだくった一枚看板と、この
乾すつもりで拡げてある家並裏の蛇の目に、絹糸のような春小雨の煙るともなく注いでいるのを、
芝へ入って宇田川町、昨夜の八つ半ごろから降り続けた小雨も上りかけて、正午近い陽の目が千切れ雲の隙間を洩れる。と、この時、急足に背後から来て藤吉彦兵衛の傍を駈け抜けて行った折助一人||手に小さな風呂敷包みを持っている。
「勘。」
藤吉が呼んだ。
「なんですい?」
振り向く勘次、その折助とぴったり顔が会った。それを、男は逃げるように掻い潜って行く。
「見たか?」と藤吉。
「見やしたよ。」と勘次は眉を
すると、藤吉が静かに言った。
「面をよく
「あの野郎は何かの係合いですけえ?」
彦兵衛が訊いた。
「何さ。為体の知れねえ
久し振りに
手頃の
そこに、夜来の雨に濡れて、女の屍骸が仰向けに倒れていた。が、彦兵衛は眉一つ動かさなかった。溝の傍に
咽喉を
二十歳代を半ば過ぎた女盛りのむっちりした身体を、黒襟かけた三
空地に一人据わっているこの見すぼらしい男の姿を、通行人の二人三人が気味悪そうに立って眺め出すころ、煮豆屋から急を聞いた提灯屋の亥之吉は、若い者を一人つれて息せき切って駈けつけて来た。番太郎小屋の六尺棒、月番の町役人もそれぞれ報知によって出張したが、亥之吉始め一同の意見は、要するに葬式彦兵衛の観察範囲を出なかった。何よりも、殺された女の身元不明という点で立会人たちは第一に見込みの立て方に迷ったのである。
詰めかけ始めた弥次馬連を草原内へ入れまいと、
三
狭い道路を埋めた群集がざわめき渡った。
勘弁勘次と彦兵衛を引具して尻端折った釘抜藤吉は、小股に人浪を分けて現場へ進んだ。
「お立会いの衆、御苦労様でごぜえます。」
こう言って挨拶した時、彼の短い身体はすでに二つに折れて屍骸の上へ屈んでいた。致命傷ともいうべき咽喉の刀痕へ人差指を突き込んでみて、その血の粘りを草の葉で拭うと、今度は指を開いて傷口の具合いを計った。次に、石のように堅い死人の両の拳を勘次に開かせて何の手がかりも握っていないことを確めた。そして、最後に、ちょっと女の下半身を捲って犯されていないらしいと見届けた藤吉は、
「ふうん。」
と唸って腰を延した。眼を閉じて腕組みしている。
「遠い所をお願え申しまして、なんともはや||。」提灯屋が口を入れた。が、藤吉は返事どころか
「
と言いかけたが、大声で背後の若者へ、
「なあ、おい、それに違えねえなあ。」
「俺あちょっと前を通っただけだが、どうもあの姐さんにそっくりだ。」
若者は
「色恋沙汰ってところがまず動かねえ目安でげしょう?」
と提灯屋が再び沈黙を破った。
「||||」
「心中の片割れじゃごわせんか。」
「||||」
「物盗りじゃありますめえの?」
「||||」
口をへの字に結んで、藤吉は眼を開こうともしない。提灯屋も黙り込んで終った。と、うっとりと眼を開けた藤吉は、忘れ物をした子供のように屍体の周りを見廻していたが、
「履物は? 仏の履物は?」
「へえ、ここにごぜえます。」
町役人手付の一人がうろたえて取り出して見せる黒塗の
「雨あ夜中の八つ半から降りやしたのう?」
「へえ。」誰かが応ずる。
「勘。」と、藤吉がどなった。「手を貸せ。」
勘次が屍骸を動かすのを待ちかねたように、女の背中と腰の真下へ手を差し入れて土を撫でた藤吉は、すぐその手で足許の大地を擦って湿りを較べているらしかったが、つと顔を上げた時には、すでに、八方睨みといわれたその眼に持って生れた
「小物は小物だが匕首じゃねえぞ。」誰にともなく彼は呻いた。
「出刃でもねえ。菜切りだ、菜切庖丁だ。人を殺すに菜葉切りのほかに刃物のねえような、こう彦、手前に訊くが、精進場はどこだ、え、こう?」
「へへへ。」彦兵衛は笑った。「寺さあね。」
「図星だ。」
藤吉も微笑んだ。一同は驚いた。そして、次の瞬間には、申し合せたように石垣を越えて随全寺の瓦屋根へ視線を送った。烏の群が空低く鳶に追われているその下に、石垣の端近く、羽毛のような葉をした
説明を求めるように人々がぐるりと彼の身辺に輪を画いた後までも、藤吉の眼は凍りついたようにその黄色い花から離れなかった。と、やがて、低い独語が、
「いやさ||寺でもねえ。」
と藤吉の唇を衝いて出たが、にわかに
「のう、彦、大の男がこの界隈から一時あまりで
「急いでけえ?」
「うん。」
「丑寅の方角なら
「てえと、亀島町は||。」
「眼と鼻の間。」
「やい、彦、手前亀島町の近江屋まで走って||。」
と何やら吹込んだ藤吉の魂胆。
「委細合点承知之助。」
ぶらりと歩き出す。
「屑っ籠は置いてけよ。」
茶化し半分に追いかけてどなる勘次を、
「勘、無駄口叩かずと尾いて来いっ。」
と、藤吉は飛鳥のごとくやにわに随全寺の崩れ石垣を
「親分、親分の前だが、寺内のお手入れだけは見合せて下せえ。寺社奉行の支配へ町方が||。」
町役人の
「花を見る分にゃあ寺内だろうとどこだろうといっこう差支えごぜえますめえ。」
とすまし込んだ藤吉は、木の下へ立って黄色い花を
勘次も提灯崖も、ただ猿真似のようにその黄色い花の咲いている木の廻りを見渡した。二尺近くも延びている草の間から、青竹の切れを探し当てた藤吉は、暫時それで地面の小枝を
と、何事か思い出したように藤吉が勘次へ囁いた。勘次はびっくりして聞き返した。藤吉の眼が嶮しく光った。勘次はそそくさと寺を出外れると、そのまま屋敷町の角へ消えて行った。
四
「
薄暗い庫裏の土間へはいると、突然、釘抜藤吉は
「寺社奉行の係合いを
海の底のように
「親分||。」
「まあ、こちとらの
「不浄仏たあ言い条||おうっ、無縁寺ですかい? どなたもおいでにならねえんですかい?」
「はい、はい。」
と、この時、力なく答えて奥の間から出て来たのはまだ年若い所化、法衣の裾を踏んで端近く小膝をつく。
「はい、仏間深く
「御住持は?」
「森元町の方に通夜に参って、昨夜五つ時から不在でござりまする。」
「五つ?」
「はい。」
「御住持のお姓名は?」
「下田
「あっしゃあ御覧のとおりのやくざ者、ものの言い方を知らねえのは御免なせえよ。」と藤吉もぐっと砕けて出て、「つかねえことを訊くようですが、こいつあいってえどなたんですい?」
囲炉裏の傍に乾してある紺足袋を手に取ると、若僧の前へぽいと無造作に抛り出しながら、藤吉はこう言って相手の表情を読もうとした。
「はて異なお
と眺めていたが、ふと顔を上げて、
「この足袋に何か御不審の筋でもあって||?」
「
藤吉は鼻の先で笑った。
「なるほど、右のが一つ脱れております。」
「ここにある。」袂を探って、彦兵衛の拾った小さい金物を手の平へ載せると、そのまま
「これでがしょう、他のといっち
「どうしてそれがあなたの手に?」
「ついこのむこうの空地に落ちてやしたよ。」
「空地? と申せば石垣下の||?」
「おうさ、死骸の傍に。」
と聞いて思わずきっとなった提灯屋は、一歩前へ詰め寄った。が、出家は
「屍骸||とは何の死骸?」
「へえ、お新さんの屍骸で||。」
「えっ! あの、お新!」
「のう、誰の足袋だか聞かせて下せえやし。」
「はい、足袋はたしかに寺男佐平の
「佐平どんはどこに?」
「あれ、今し方までそこらに||佐平や、これ、佐平や。」
炭俵なぞの積んである一隅に、がさがさという人の気配がした。
「お!」
藤吉は素早く眼くばせする。心得た提灯屋が、飛んで行ったと思う間もなく、猫の仔みたいにひきずり出して来た小柄の老爺、言うまでもなく随全寺の寺男佐平であった。
「野郎逃がしてなるか。」
「こう、提灯屋、ここは寺内だ。滅多な手出しをしてどじ踏むなよ。」
とにやにやしながら、また藤吉は僧へ向き直って、
「この人が佐平どんで足袋の主、さ、それはそれとしてもう一つ伺いてえのは、お新と呼捨てにするからにゃあ、彼の姐御とこの寺との間柄||。」
「はい。」と若い僧侶は顔色も
「はい、もうこうなりますれば、何事も包まず隠さず申し上げますが。」
「うん、好い
「実は、面目次第もござりませぬが、親分さま、実のところ||。」
と打ち開けた彼の話によると、若い身空で朝夕仏に仕える寂しさから、いつしか彼は笠森稲荷の茶屋女お新と人眼を忍ぶ仲となり、破戒の罪に
元来お新という女は江戸の産れでなく、大宮在から出て来て間もないとのことだったが、田舎者にしてはちょっと渋皮の
昨夜も昨夜とて和尚の留守を幸い、寺男佐平の手引きで忍んで来る手筈になっていたが||。
「それがまあ、こんなことになろうとは||。」
僧は眼に涙を浮べて手の数珠を
「お葬えはお手のもんだ。まあ、せいぜい
提灯屋に小突かれて、佐平は黙って頷首いた。声も出ないとみえる。
「盗人がはいったのけえ?」
佐平は首を縦に振った。
「締りを忘れたな?」
佐平は頭を下げた。
「盗られた物を当てて見しょうか||菜切りだろう、え、おう、菜葉庖丁だろう。」
「へえ。」
と佐平が答えた時、山王旅所へ近い亀島町の薬種問屋近江屋へ使いに行った葬式彦が、跫音もなく帰って来た。
「現場で聞いたら親分はこの寺にいなさるってんで、親分、奴あ近江屋へ行ったに相違ねえぜ。」
「うん、
「あい、牛蒡の
「
「そこで、佐平どん、お前に訊くが、今朝、墓場の向うの木の下でお新さんの屍骸を見つけ、この坊さんや引いては自身が、
佐平は
「へえ、森元町から
「お新!」若い
「屍骸は原っぱだ。」
顫える足に下駄を突っかけて、若僧はべそを掻いて、駈け出そうとした。提灯屋が押えた。
「殺された女の情夫ってえのを、あんたは見たことがありますかえ?」
「見たことはありません、見たことはありません。」
「提灯屋、放してやれってことよ。」藤吉が嘯いた。「犯人なら先刻引き揚げてあるんだ。」
と、その言葉の終らないうちに、
「親分。」
裏口に大声がして、五尺八寸の勘弁勘次の姿が浮彫のようにぬうっと現れた。
「勘か? 首尾は?」
「上々吉でさあ。」と弥造を振り立てて、「二つ三つ溜りを当るうちに、三軒家町の真中でぱったり出遇った。」
「今朝の
「あいさ。」
「うん。」
「あん畜生、あんな面になりゃがったもんだから、秋月佐渡様のお部屋からずらかってくるところを、勘弁ならねえと掴めえて町内組へ預けて来やした。」
「風呂敷包みを抱えてたろう?」
「へえ、牛蒡の||。」
「
と彦兵衛が後を引き取る。眼をぱちくりさせて勘次は黙った。
「ちったあ噛んだか。」と藤吉が訊く。
「なあに。」
手の甲の傷を舐めて勘次は笑った。
「番屋じゃあ引っ叩いて来たか。」
「へえ、あっさりとね。だが、親分、
「でかした。」
と一言いった藤吉は、さっさと戸外へ歩き出しながら、「昨夜、寺の門の傍でお新を待伏せ、坊さんとの手切れ話を持ち出したがお新がうんと言わねえので、坊さんをつれ出しに庫裏へはいりこんだものの、
「へえ、そのとおりで。それから||。」
「それから先は見たきり雀よ。なあ、墓でお新に引導渡し||。」
「ええっ!」
提灯屋始め、佐平も彦兵衛も愕然として藤吉の
「その癩病人てえのがお新女郎の情夫よ||森元町の他に
火消しの一人があたふたとそこへ飛んで来た。
「た、大変だ! 若え坊さんが裏の井戸へ||。」
「はっはっは、言わねえこっちゃねえ。提灯屋、ま、
五
「よくも親分、ああ早くから当りがつきやしたのう。」
「まあ、呑め、一杯呑め。」新網町の小料理屋おかめの二階へどっかりと
「小枝はうんとこしょ落ちてたが、あの竹の棒がいったい親分何の足しに||?」
「佐平の爺め、あれで死骸に被せてあった小枝を払いやがったのよ。勘、汝もちったあ頭を働かせ、大飯ばかり食いやがって。」
「だが、親分、何のために竹づっぽで?」
「知ってる者あ知ってらあな。爺だって婆あだって、癩病人にゃなりたかねえからよ。」
「ふうん。」彦兵衛が唸った。
「やい、彦、俺の真似をするねえ。」
「真似じゃねえが、」と葬式彦兵衛は眼をしょぼしょぼさせて、「野郎が八丁堀を通って近江屋へ買いに行ったあの牛蒡と生姜はなんですい?」
「妙薬よ。」
「天刑病のでございますかい?」
「誰が天刑病だ?」
「犯人。」
「はっはっは、間抜め。」酒をこぼしながら、膝を揺がせて藤吉は笑った。「朝からどうもあの折助の面つきが、眼の底から抜けねえような按配だったが、ありゃあお前、
「へえ||い?」
「へえでもねえ。」
「まあ、親分、冗談は抜きにして||。」
「冗談じゃねえよ、漆かぶれだ。」
「え?」
「うるし。」
「うるし?」
「そうよ、う、る、し、てんだ。はっはっは、解ったか。」
「じゃ、あの木||は。」
「漆の木よ。あの花を見て、こちとらあなるほどと感ずったんだ。奴め、
「まあ、親分さん、もの言う花でござんすか。ほほほほ。」
と小粋な女中がさらり境いの襖を開けて、
「はい、お待遠おさま。」
「拙は
と気取って勘弁勘次は据わり直す。女中が明けて行った廻り縁の障子。降り飽きた雨はとっくに晴れて、銀色に
「さあ、呑め、もう一杯だけ呑め。」
「梅雨に咲く花や彼岸の真帆片帆。」