一
「残念ながら、今となっては手遅れだ。もう、どうにも手のつけようが無い」
私は、肌脱ぎにさせた男の右の肩に出来た、小児の頭ほどの悪性
「それはもう覚悟の上です」と、
傍に立って居た妻君の眼から、涙がぽたぽたと診察室のリノリウムの上に落ちた。真夏の午後のなまぬるい空気が、鳴きしきる蝉の声と共に明け放った窓から流れこんで来た。私は男の背後に立って、褐色の皮膚に
患者は私の方を振り向こうともせず、俯向きになって言葉を続けた。
「それについて先生、どうか私の一生の御願いをきいて下さいませんか」
「どんな願いかね? 僕で出来ることなら何でもしてあげよう」と、答えて、私は患者の前の椅子に腰を下した。
患者の呼吸は急にせわしくなった。
「きいて下さいますか。有難いです」と、御辞儀をして「お願いというのは他ではありません、このできものを取って頂きたいのです」こういって彼は初めて顔をあげた。
私はこの意外な言葉をきいて、思わず彼の顔を凝視した。
まだ三十を越したばかりの
「だって······」
「いえ、御不審は
患者は手を合せて私を拝んだ。辛うじて動かすことの出来た右の手は、左の手の半分ほどに痩せ細って居た。私は患者の衰弱しきった身体を見て、手術どころか、麻酔にも堪え得ないだろうと思った。で、私は思い切って言った。
「かねて話したとおりに、これは
患者は暫らく眼をつぶって考えて居たが、やがて細君の方を見て言った。
「お豊、お前も覚悟しとるだろう。たとい手術中に死んでも、この畜生が切り離されたところをお前が見てくれりゃ、俺は本望だ。なあ、お前からも先生によく御願いしてくれ」
細君は
「よろしい。望みどおり手術をしてあげよう」
と、私ははっきりした声で言い放った。
二
「気がついたかね? よかった、よかった。手術は無事に済んだよ。安心したまえ」
翌日の午前に行われた手術の後、患者が麻酔から醒めたときいて、
「有難う御座いました」
と、患者は、まだかすかにクロロホルムのにおいをさせ
「静にして居たまえ」
看護婦に必要な注意を与えた後、こういって私が立ち去ろうとすると、
「先生!」
と患者が呼んだ。この声には力がこもって居て、今、麻酔から覚めたばかりの人の声とは思えなかった。私はその場にたたずんだ。
「御願いですから、できものを見せて下さい」
私はびっくりした。患者の元気に驚くよりも、患者の執念に驚いたのである。
「あとで、ゆっくり見せてあげるよ。今はじっとして居なくてはいけない」
「どうか、今すぐ見せて下さい」こういって彼はその頭をむくりと上げた。私は両手を伸して制しながら、
「動いてはいかん。急に動くと気絶する」
「ですから、気絶せぬ先に見せて下さい」といって彼は再び頭を枕につけた。
私は一種の圧迫を感じた。
やがて、看護婦は、ガーゼで覆われた、長径二
「おいお豊、起してくれ」
と言った。
「いけない。いけない」
私は大声で制したけれども、彼は駄々をこねる小児のように、どうしても起してくれと言ってきかなかった。起きることはたしかに危険である。危険であると知りながらも、私は彼の言葉に従わざるを得なかった。で、私は、
私は看護婦に彼の身を支えて居るよう命じ、それから、患者の両脚を蔽った白布の上に、琺瑯鉄器製の盆をそっと載せ、ガーゼの覆いを取り除けた。五本の指、
「先生!」と彼は声を
「え?」と私はびっくりした。
「どうするの?」と細君も、心配そうに彼の顔をのぞき込んでたずねた。
「どうしてもいいんだ。先生、早く!」
私は機械的に彼の命令に従った。二分の後私は、手術室から取って来た銀色のメスを盆の上に置いた。
すると彼は、つと、その左手をのばして、肉腫を鷲づかみにした。彼の眼は鷲のように輝いた。
「うむ、冷たい。死んでるな!」
こういい放って彼は細君の方を向いた。
「お豊? この繃帯を取って、俺の右の手を出してくれ!」
この思いもよらぬ言葉に私はぎょっとした。はげしい戦慄が全身の神経を揺ぶった。
「まあ、お前さん······」と、細君。
それから怖ろしい沈黙の十秒間! その十秒間に患者は、自分の右手が切り離されて眼の前にあることをはっきり意識したらしかった。
「ウフ、ウフ······」
うめきとも笑いとも
そうして、五秒の後、断末魔の痙攣が起った時には、その右手も共に白布の上で躍って、あたり一面に血の斑点を振りまいた。