ガルシンを語る人はかならずその印象ぶかい目のことをいう。それはまつげのながい、ぱっちりした、茶色のよく澄んだ目で、幼少のころから善良さと温順さと、そして一種の哀愁の色をたたえていたといわれる。それは彼が四歳のときある将軍から、「洗礼者ヨハネを思い出させる」とたたえられた目であり、また晩年には画家レーピンの名作『イヴァン雷帝とその皇子』において、父帝の手に倒れた皇子のまさに息たえんとする痛ましい眼光の、モデルになった目でもあった。彼の芸術を語ることは、やがてこの目の閲歴を語ることにほかならない。それは前世紀末のあんたんたる一時代に生きたロシア・インテリゲンツィアの良心の営みを、そのままに照り返している目だったのである。
フセヴォーロド・ミハイロヴィチ・ガルシン Vsevolod Mikhajlovich Garshin は、一八五五年二月、南露エカテリノスラーフ県なる母方の領地で生まれた。父方の家系は古くキプチャク汗国時代に発祥すると伝えられる小地主貴族である。胸甲騎兵の将校であった父親とともに南ロシアで過ごされた彼の幼年時代は、あたかもあの
一八六三年彼はペテルブルグに移り、やがて同地の中学校に入学したが、卒業の直前十七歳のとき最初の狂疾の発作に襲われて、しばらく精神病院に収容されなければならなかった。この精神の疾患は母方の遺伝に根ざすものといわれているが、より直接の素因が彼の幼時からの過敏な感性と外界印象との、激しい摩擦にあることは疑いをいれない。
やがてようやく中学をおえた彼は、医科大学志望を学制上の支障によって断念して、鉱業専門学校に入学した。このころの彼は、しきりに若い画家の一団と交じわって、彼らに励まされながら文芸上の試作にふけった。彼が有名な画家ヴェレシチャーギンの生々しい戦争画から、強烈な印象を受けたのもこの時代のことである。画家たちとの交遊の形見として、彼には生涯を通じて数篇の美術批評がある。
一八七六年バルカンが大いに乱れた。彼は従軍を願い出たが、適齢未満のゆえをもって許されなかった。しかし翌年の四月いよいよトルコに対する宣戦が布告されると、彼は進級試験をなげうって一兵卒を志願し、直ちにブルガリヤの戦線へ向けての辛労多い行軍に加わることができた。従軍の動機はただただ、人々と苦難をともにせずにはおられない殉教的な衝動であった。戦場で彼は勇敢な兵士だった。前後二回の戦闘に参加したが、一八七七年八月アヤスラルの激戦で左脚に負傷して、同月ハリコフの家に後送された。彼はこの療養中に、すでに野戦病院で書き始められていた作品を脱稿した。それが『四日間』Chetyre dnje で、同年十月、当時
『四日間』は同じ隊の一兵卒の身におこった恐るべき出来事に取材している。彼はそれを戦場で死体埋葬の勤務についていた際に親しく目撃したのである。彼自身の戦地における体験を直接に物語った作品としては、『一兵卒イヴァーノフの回想より』(八三年発表)及び『戦争情景』(七七年発表)がある。総じて彼の「戦争物」の特色は、普通人の目には決してうつらぬ壮大な戦争絵巻を強いて描こうとはしないことである。彼は純粋に一兵卒の目をもって、
作家としての道の開けたのを見て、彼はその年の末ペテルブルグに帰って、創作に没頭した。この二三年間は彼が心身ともに健康にめぐまれて
しかし一八八〇年の二月、彼は再びはげしい狂疾の発作に襲われた。このときの常軌を逸した行動の一例として、夜中の三時に突然、時の大官ロリス=メーリコフを訪問したという話がある。この人物はまず穏健な政策によって政治犯の鎮圧に当たっていた独裁官であるが、彼はその面前にひざまずいて号泣しながら、メーリコフ襲撃のかどによって捕えられて、極刑に処せられようとしていた一青年の命ごいをしたのである。そしてようやくなだめられて辞去したのちも、絶望のあまり終夜、

『夢がたり』は、『アッタレーア』などと並んで、動植物の世界に仮託された童話の形式を持っている。ガルシンがこうした童話形式に寄せた愛好は、つとにウスペンスキイも指摘しているように、この作者独特の生活印象への異常な敏感さによって説明しうるであろう。すなわち彼の病める神経は、生活事象を逐一精細に記述する重荷にたえられず、それら印象の圧迫からの急速な解放を、比喩の世界に求めたものであろう。たとえば『夢がたり』のごとき、文字どおり
一八八三年、彼はナヂェージダ・ゾロチーロヴァという女医学生を妻にむかえた。これは心身ともに病みつかれた彼の後半生にとって、母とも姉とも、また
『あかい花』はハリコフの精神病院における作者自身の痛ましい体験を布地として、これに『悪』との戦いに身を滅ぼす一インテリ青年の悲劇を縫いとったものであり、ガルシンの全作を通じて最も調子の高い、彼の正義感の力づよく流露した作品として評されている。またこれを精神病理の側から見ても、当時の精神病医シッコルスキイらも指摘したように、
なおこのころ彼は、ピョートル大帝の時代に取材する歴史小説をもくろんで、しきりに材料の
『信号』Signal(八七年発表)は明らかに、当時相ついで発表されていたトルストイの民話の刺戟によって書かれたものである。とはいえ彼がトルストイに学んだのは民話の特質をなす素朴で通俗的な表現精神であり、その根柢に横たわる教義に至っては、ガルシンのまったく認容しがたいものがあったのである。『信号』には、あらゆる悪条件の累積にもかかわらず、なお人間の犠牲の力への燃えるような信念を捨てえぬガルシンの心情が、最後の歌をひびかせている。
一八八八年三月、痼疾のようやく重るのを感じた彼は、ついにコーカサスへの転地療養を決心したが、その出発の朝、迫まりくる発狂の恐怖におびやかされて発作的に階段の上から飛び降り自殺を図った。そして脚部に致命傷を負って、五日にわたる苦悶ののちに息を引きとった。臨終の床を見舞った友人の「痛むか」という問いに、彼は心臓を指さしながら、「ここの苦しみに比べれば、こんな痛みは何でもない」と答えたと伝えられる。
ガルシンの生涯と芸術が、「異常にとぎすまされた道徳的敏感さ」によって貫かれていたことは、以上の
花は散りうせ火は燃えつきた
底しれぬ夜が墓穴のように暗い······
底しれぬ夜が墓穴のように暗い······
と歌われたあんたんたる日々であった。ガルシンの作家的生涯は、この幻滅と破産の一時代のうちにあわただしく開花しまた閉じたのであって、この意味から彼を、もっとも純粋な八〇年代作家と呼ぶことができるであろう。
その三十三年の短い生涯を通じて完成された作品は二十篇に満たず、業績は決して大きくはないのであるが、しかも彼が長く愛慕されるゆえんは、その病弱の身をもってあの窒息せんばかりの空気のなかに、一点の弱々しくはあるが曇りない良心の灯をよく守り通したところにある。このささやかな灯はやがて、コロレンコの
一九三七年夏
訳者
付記
今回の改版に当たり、一九五五年国立出版所発行の「ガルシン著作集」を参照して、旧版に訳し落とされたと思われる個所を数ヵ所訳し加えた。(一九五九年七月 池田健太郎)