これからする話を小説に書いてくれないかね、と玉本寿太郎がいった。
玉本は開戦初期の比島戦でトムプソン銃にやられて左脚を四分の三ほど短くされたが、終戦後は、じぶんからなんとか局の通訳を買って出て、毎日いそがしそうにしている。
「まあ、やめておく」と私がいうと彼は、「みょうなやつだな、終いまで聞きもしないで。君はいつか『日本人としても立派な日本人は、アメリカ人になっても立派なアメリカ人になるだろう』といったことがあるな。その実例を話そうというのだ。事実だぞ面白い話だぜ」
といいながら、私の顔にウイスキーくさい息をふっかけた。それが本場物らしいすっきりとしたいい匂いだったので私はいっそう気を悪くした。
「ひとりで本物のウイスキーを飲んで、ひとに匂いだけ嗅がせるやつも相当気むずかしいやつだ」
玉本は、やあと頭を掻いた。
「ああ、そうか。
義足をひきずりながら奥から一逸を持ちだしてきて、それを煖炉棚のよく見えるところへ置いた。
以下、玉本の話をするままに書く。
第二世の日系米人には、袖に
おれがはじめてモオリーに逢ったのは、アラスカのクエンスローにあるベーリング会社の
ところがそれがえらいみかけ倒しなんで、じつは途方もない業つくばりだった。が、そのときはそんなことは知らない。なにしろ万白船中黄二点、全船の
そうはいかない。クエンスローというのはどんなところだと思うのか。
四月のはじめといえばまだいたるところに流氷が漂っている。濃霧と暗礁で有名なウニマク水道と氷山の間をすりぬけ、まる三週間ベーリングの怒濤に翻弄されながら命からがらクエンスローへ到着するという段取りだ。
こういえばザッとしたもんだが、けっして生やさしいものだと思うなよ。こういうギャランテー・ボートが無事にアラスカへ着くのは、だいたい十対四ということになっているのだ。
それはまあいいとしても、クエンスローにはアラスカ蚊と寂寥と饑餓という三つの化物がついている。それに
いや、そうでもない。沙港の
なにしろ、そのギャランテー・ボートに乗りこんでいるてあいは、
捨ててはおけないような気持になったので、そばへ行って、
「いよう、ケチカンへ
と声をかけると、ワットオの絵はいくらか巻舌の英語で、
「I beg yer puddin’, you said something, sir?」
失礼でございますが、なにかおっしゃいましたのでしょうか、という丁重なご挨拶だ。それでおれも丁重に、
「どうつかまつりまして、あなたさまはケチカンのあたりへご散歩にでもお出かけのところかとお伺いもうしあげました次第で」
するとワットオの絵は、また一段とへりくだって、I am sorry. My Emperor of China と流暢にはじめた。
「I have never been the honour of visit to the orient.」
失礼ながら支那の皇帝よ、小生はいまだ東洋を訪問するの光栄を有しませんでした、というのは、つまりは日本人はきらいですという意味なのだろうが、こうなるとおれもだまっているわけにはいかなくなった。めんどうだから細かいやりとりは略すが、おれもだんだん滅茶苦茶になって、最後に、
「いくら国籍法が属地主義でもやはり皮膚の色まで変えられないものとみえる」
と、ひどいことをいうと、ワットオの絵はたちまちピカソの絵のようなひん曲った顔になって Damn とおれに組みついてきたてえから、これはよほど向う見ずなやつにちがいない。それでおれはそいつの襟がみを掴んで突きとばしてやると、
なにしろ四月といえばアリューシャンの
霧は
しかし、おれは吐かない。嘔吐など吐くと日本人の体面にかかわるというむずかしい抑制がかかっているので吐こうにも吐けない。こういう
ところが、見ているとワットオの絵も嘔吐を吐かない。まるで down and out というぐあいに痩せ細りながら、それでもぎゅっと眼をつぶって頑張っている。健気だといいたいところだがおれはそうは思わない。憎らしくなって、今日吐くか明日は吐くかと楽しみにして待っていたが、とうとう
「いようだいぶ
とひやかしてやると、ワットオの絵は波止場の繋船柱に縋りつきながら、
「O not much just my size.」
はあ、いえ、ちょうどいい加減に、などと減らず口を叩いた。
そこから会社のタグ・ボートでユーコン河を百浬ほどのぼり、ここがクエンスローだと追いおろされたところは、
風景はこの話に関係ないから略すが、キャナリーへ着くと、モオリーは雑木林の向うのアメリカ組の
人間というものは、こういう茫漠たる大自然の中へとりこめられてしまうと、むやみに心細くなるものだとみえ、雪ほおじろが人も恐れずに沼のほとりでピョンピョンはねているのを見ても O my friend と呼びかけたいような気がしたりする。いやなやつだと思っても仲よくするか喧嘩するか、どちらかの形式で友情を持続せずにはいられないのである。
二人がめったに逢わないのは、向うが逢うまいとしているから逢わないので、モオリーの態度はおれとても面白くなく思ったが、それはそれとして、いつもおれの心について離れないのは、モオリーのごとき絵のような She-boy が、なんのためにこんなアラスカのどんづまりへやって来なければならなかったかということであった。これはあとでわかったのだが、それにはそれだけの理由があったのである。
モオリーの父親はモオリーを愛するあまり、モオリーがいつでも日本へ帰れるように、モオリーのために日本の国籍を保留しておいたが、これがモオリーを悩ませる種になったのである。徴兵適齢に近くなると、日本を選ぶかアメリカを選ぶか、いよいよどちらかにきめなくてはならぬというむずかしいところへ追いこまれた。
当事者にとっては、それを
しかし、コカインの中に問題を解決する鍵があるわけではないから、コカイン常習の悪癖を身につけただけで、問題は依然としてそのままに残された。最初、ドーソン号のダンセラーでおれの眼をおどろかせたあの異常なまでのなよなよやすばらしい手の美しさは、要するにコカイン常習者の
面白いのはこれからだ。それでそのモオリーが、どういう動機で踏ン切りをつけたか、そこまではきけなかったが、ともかく、いよいよアメリカ人になると決心し、領事館に国籍離脱の届出をすると同時にクエンスローのシイズンの契約をした。二千六百
そういうあわれなモオリーが、「親父の幽霊」の
それからしばらくしてから、くだらないことでモオリーと喧嘩をした。それはこういうわけである。
その前に、ちょっと
冗談ではない、ほんとうの話だ。それは、以前、刻印をつけてこの河へ放流した、水産局の幼魚が成長し、天性たる帰趨性にしたがってもとの古巣へ帰ってきたまでのことで、そうとわかればなあんだと思うが、胴腹に合衆国の略語をつけた大きな
むかし南部藩に相馬大作というえらい鼻曲りの
これは余談だが、四月の終りごろになるとそろそろ鮭が上りはじめ、
おれは
モオリーがそれほど深刻におれを忌避していようとは知らないし、ちょうど退屈している折だったので、一席、
「Yep’, he’s look like it.」
やあ、よく似てる、といっておれの顔をみた。それでおれは、じゃ、お前はなんだよときいてやると、モオリーはすました顔で、おれはアメリカ市民だから、もちろん
「そうではあるまい。お前なんか、要するに
とやりつけてやった。モオリーは
「Looking at you!」
ご健康を祝すといって、持っていた
「The same to you!」
お返しだよ、といいながら、鮭でモオリーの横っ面を力まかせに
六月になると、いよいよ
ここでちょっと鮭罐の工程を説明しておくが、河岸の
血や臓腑の残りをきれいに洗われたやつは、回転庖丁のついた箱を通って幅二
ここで仕上げをして
罐叩きは、そいつを仕上台の鉄板に叩きつけて肉を罐の中へ安定させ、隙間のあるものは小間片を挿し込み、魚皮がよじれているのは手際よくなおして罐の中へおしこんでやる。これだけのことを三秒以内でやらなければ一人前の罐叩きとはいわれない。
鉄板に罐を叩きつけるといっても、これにはなかなかコツがあって、下手に叩きつけると、中味が罐から飛びだして手に負えないことになる。罐の底がいつでも平らに鉄板にあたるようにし、それがまた弱くても強くてもいけないのである。
おれはケチカンやジュノオでさんざんやっているので、
「おい、モオリー、お前はやはり
Take it from me 悪いことはいわないぜ、と忠告すると、モオリーは例によって、むやみにこめかみのあたりをひきつらせながら、
「You don’t know me yet.」
あなたは私というモノを知らないのである。日本人がやれることを、どうしてアメリカ人がなし
おれは敗亡して、結構、ではやってみるがよかろうといって放りっぱなしておくと、果せるかな、叩きつけそこなって鮭をばらまく、そいつを大汗で掻き集めて罐へおしこむ、それをまたばらまくというえらい騒ぎになった。そのうちにいよいよ手に負えなくなって、むやみに
おれはべつに気の毒だとは感じない。心中、これは面白いと思っているものだから、どうするつもりだろうと興味をもって眺めていると、モオリーはどこかへ行って
モオリーはどれほど夢中になって鮭罐と取り組んだか、それを仔細に物語ると、モオリーという人間の剛情さがわかって面白いのだが、ここでは深く触れずにおこう。
モオリーは暇があれば屑肉と空罐で熱心に罐叩きの練習をしていた。罐叩きの音でうるさくて眠られないと近所のキャンプから苦情がでると、河岸に繋留してある
モオリーの執念はなんとかしておれのレコードを破って鼻を明かせたいというのだったろうが、おれのレコードを破る前にモオリーのほうが先にまいってしまった。
まいったといっても死んだのではない。たいして丈夫でもないくせに、あまり無理な頑張りをつづけたので、過労が重なってぶっ倒れてしまったのである。
無理といえば、モオリーの身体でアラスカなどへやってきたことがそもそも無理なので、結局のところ、モオリーがやっていることはなにひとつ無理でないものはないのだから、それやこれやでひどい貧血症をおこし、
モオリーは雑木林のはずれの
仕事を切りあげて夜食をすませると、たいてい夜半すぎになるが、いつ行って見てもモオリーは窓のほうへ顔を向け、
おれが入って行くと、モオリーはいかにも冷淡な口調で、
「What’s the matter?」
どうしたんですか、などと剛強に弱みを見せなかった。そのくせ、帰ってくれともいわない。おれはモオリーの枕元に坐って、勝手にしゃべりたいことをしゃべる。モオリーは一と言も口をきかないのである。
親切が仇というのは、おれとモオリーのような場合をいうのではないかね。おれが親切をつくせばつくすほど、モオリーがいっそう苦しむと知ったら、おれはモオリーのところへなぞ出かけて行くはずもなかったが、その時おれはまだなにも知らなかったのである。
モオリーはなおりもせず、悪くもならないという状態で八月の中頃まで寝ていた。おれも根気よく通った。アラスカにも夏が来て、沼の岸にきんぽうげや釣鐘草が咲く。それを摘んで持って行ってやると、モオリーはそのたびに当惑したような
「どうもありがとう」
「これだって、いくらか飾りになるぜ」
「アラスカまで稼ぎにくる人間に、花なんか無意味ですよ」
などといった。
ある日、モオリーはめずらしく顔に血の気を見せて、日本の草花のことをたずねていたが、そのうちに、じぶんの父親は盛岡の近くの相馬という村から移住したというような話をしかけたが急に気まずそうな顔をして黙りこんでしまった。
講談はおれのもっとも好むところだから、たちまち連想が働いて、
「お前の
とたずねると、モオリーは渋ったようで、いつか父がそんなことをいったことがあるとこたえた。
おれは面白くなって、
「へえ、そうか。するとお前の鼻曲りは血筋のせいなんだな」
といった。モオリーはそれはなんのことかときくから、南部藩士下斗米秀之進、後の相馬大作が、南部藩の領地を私収した津軽藩主を三代までたおし、とうとう本懐をとげた次第から、矢立嶺の張抜筒と佐田の渡しの引き込みを一席やって、「南部の鮭で鼻曲り」というのはこの相馬大作から出たことだと話してやると、モオリーは黙って最後まで聞き終ってから、
「He arrived ······ but my soul never get anywhere ······ what am I living to ······」
と低い声でつぶやいた。彼は行きついた、しかし、おれの魂はどこへも達しない、おれはなんのために生くるのか······直訳すればまあこうだが、あまり調子がへんなので、それはなんのことだと聞きかえすと、モオリーは、
「I just ······」
と、なにかいいかけて、そのままふっと口をつぐんでしまった。
それから三日ほど後の夕方、ジョウというエスキモーが、モオリーが小屋から出て行ったきり帰ってこないといいに来た。
小屋へ行ってみると、なるほど寝台が空になっている。どこへ行ったのだろうと思ってそのへんを探し廻っていると、
下手に踏みこむと命もとられかねない悪い泥沼なので、これはいやなことになったと思いながら足跡について沼の岸まで行くと、果してモオリーが、胸まで沼にはまりこんだままじっとこっちを見ていた。観念して死を待っているような凄味のある落着きかたで、
「おい、どうした」
と声をかけたが返事もなかった。
おれはキャナリーへ人を呼びに帰ろうとしたが、見るとモオリーは一寸一寸と微妙に泥の中へ沈んでいる。
これは非常に危険な方法だが、モオリーがおれの
それで、おれはかまわず踏みこんで行くと、三歩と歩かないうちにいきなりズブズブと腰のへんまでぬかった。それでもどうにかモオリーのそばまで行きついたので、モオリーの腋の下へ手を入れて引きあげようとすると、そのはずみにおれのほうがモオリーよりも深く沈んでしまった。
助からないというのはこのことだったが、愚図愚図してはいられないので、お前は足を動かせるのかとたずねると、右足だけならどうにか動かせるとこたえた。それでおれは、
「おれはこうして立っているから、お前はおれの腰骨でも腹でもどこでもいいからどんどん
というと、モオリーは眼を伏せたまま返事をしない。おれはイライラしてきて、
「おい、どうしたんだ」
というと、モオリーは、
「私にはあなたを
とつまらないことをいいだした。おれは腹をたてて、
「くだらないことをいうな。まごまごしているとおれまで死んでしまう、早くしろ」
と怒鳴りつけた。なにかもぞもぞしたものがおれの脇腹のあたりをくすぐりだした。なんだと思ったら、おれの手をさがしているモオリーの手だった。
東京の市中をジープが走りはじめると、おれはまたモオリーのことを思いだした。
それはどうしたって思いださぬわけはないのである。モオリーのむずかしい加減の悩みは、要するに日本というものをあまり気にしすぎたためだったのだが、オオミヤクの泥沼で思い切っておれを
おれが猛烈にモオリーのことを思いだしたのは、けっしてこんどがはじめてではない。開戦後まもなく、フィリッピンに上陸したときは、一分一秒といえども、モオリーのことを考えない瞬間はなかったといってもいい。
七年前、
「私とアメリカの
といった。あの鼻曲りはアメリカの敵と戦うために真っ先に飛びだしたにちがいないし、来るとすればまずフィリッピンだから、かならずここでモオリーに逢うだろうという確信のようなものが、いつもおれの心にあった。
あの小さな
たとえば狭い地隙の曲り角のようなところで、だしぬけにひょいと二人が顔を見合したとしたら、いったいどちらが先に射ちだすだろう。いや、どちらかがいきなり射ちだすのはいい。ニヤニヤしながら顔を見合せているような時間が三十分もつづき、
「ハロオ、ジュタロ」
「ハロオ、モオリー」
「とうとう逢ったな、元気だったかね」
「とうとう逢った。うまくやってるか」
などと挨拶をかわし、それからあらためて銃をあげて狙い合うようなことになるのだとしたら、この世にこれ以上残酷な瞬間はありえなかろう。
ともかく、それだけは助からないから、そういう場合、おれとわからないですむようにむやみに
フィリッピンではとうとうモオリーに出逢わなかった。おれの左脚を四分の三ほど短くしたのはモオリーでないべつのアメリカ人だった。
戦争がすみ、アメリカ人が
お前は小説家らしくもないことをきく。逢わなかったらこの話のまとまりがつかんじゃないか。逢ったとも、もちろん逢った。それも真っ昼間、神宮外苑の芝生の上で逢った。
美術館に向って右側の欅の樹の下で、足を投げだして煙草を喫っているのはどう見てもたしかにモオリーなので、おい、なにをしてるんだ、と声をかけると、モオリーは振り返りもせずに、
「None of your business!」
大きなお世話だ、と
「おお、ジュタロ、お前は戦争の間、こんなところに隠れていたんだな」
といっていきなりおれに抱きついてきた。おれがだまって
「ああ、これはまずい。おれならもっとうまくやってやったのに」
といかにも残念そうな顔をした。
モオリーは休暇に盛岡の相馬村へ行って、相馬大作の墓を見て帰ってきたばかりのところだといった。
「ダイサクの
と、うれしそうな顔をした。おれはむっとして、
「くだらない、お前はアメリカ人じゃなかったのか」
と毒づいてやると、モオリーは、
「イエス、アメリカ人はアメリカ人だが、お前が知っているところのモオリーとは訳がちがう。ちょっと見せようか」
というと、おれの顎に猛烈なストレート・レフトを食わせておいてグランド・レスで身動きができないようにおれを芝生へおさえつけた。おれは口が渇くほど腹が立ってきて、
「アメリカが勝ったと思っていい気になるな」
と怒鳴りながら、懸命にはねかえしにかかったが、口惜しいが義足ではあがきがつかない。観念してぐったりすると、モオリーが、
「お前は右足がきくんだろう。なぜ
と忠告した。おれはそうだと思って、力まかせにモオリーの腰を
「ジュタロ、これで借りはないぜ」
といってヘラヘラ笑いだした。