一 この自叙伝は、最初沼波瓊音 氏の「俳味」に連載されしが、同誌の廃止後、織田枯山楼氏の「俳諧文学」にその「俳味」に載りしものと共に終結までを連載された所のもので、今般それを一冊子として岡村書店より発行せらるることとなったのである。
二 誌の毎号の発行に当り、余は記憶に捜って話しつつ筆記してもらい、それをいささか修正したるものに過ぎぬから、遺漏も多く記憶違いも少なかるまい。しかし大概は余が七十六歳までの経歴の要項を叙し得たと信ずる。
三 文中に現今七十四歳とあるは、談話もしくは修正の当時における年齢である。
四 意義に害なき誤字は発行を急ぎし故そのままにしたるものも少なくない。
五 附録の句集は松浦為王氏の選択に任かせたものである。
大正十一年三月
鳴雪識るす
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自叙伝
内藤鳴雪
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私の生れたのは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進
大名の屋敷はその頃上屋敷中屋敷下屋敷と三ヶ所に分って構えたもので、私の君侯の上屋敷は芝
私の幼時の記憶の最も古いのは、何でも二つか三つ頃に
私の三つの時の七月に母は
私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の
そこで藩にも差置けぬというので幕府の
一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。
重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日
五歳の冬に私は
私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
この冬、十二月二十四日愛宕の
ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『
さて私のうちも継母が来てからは
私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの
私は絵を見て楽しむ外に、またその画を摸写することが好きだった。小学校で図画を教える今時と違って、当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の形も描き得なかった。それに子供の私がいろいろな物を描くので人が珍らしがり、自分も自慢半分に盛んに描いたのはやはり武者絵が多かった。
私は武者で好きだったのは始めは八幡太郎であったが、少し年を経てから木曾義仲が大変に
祖父は、私が少し大きくなってからはとんともう錦絵をくれぬようになった。私はこれをひどく淋しく思っていたが、祖父は在番が終って藩地へ帰る時に、特に買ってくれたのが右の保元平治物語の十冊揃いである。
それから私は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、盛衰記や保元平治物語を拾い読みした。これは八つ九つの頃であった。日本の歴史を知った端緒は実にこの二書であった。
しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて
継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の
三田一丁目の屋敷から猿若まで二里もある。女子供はなかなかたやすくは行かれぬ。
私は暗いうちに起されて船に乗ったまでは覚えていたが、それから寝てしまって、目の醒めたのは、抱かれて河原崎座の中に這入る時であった。まだ灯がカヤカヤと
そのうち敦盛は馬で花道から出て来た。熊谷が扇で招きかえす。太刀打になる。それは私も古戦記や錦絵などでよく知っている事であったからよく解って、興を催して見ていると、暫くすると敦盛は甲冑を解いて、手を合せて坐った。はてなと思っていると、熊谷が後ろにまわって悲しんだ末、首を打った。盛衰記とは筋が違うので変なことだと思った。それからあの平山ノ武者所が花道のうしろから大きな声で何か怒鳴った時、私は不意を打たれて喫驚した。
三段目になって、藤ノ方が笛を吹いていると障子にぼうっと、敦盛の影がうつッたのをよく覚えている。障子をあけたのを見るとそれは甲冑の影であったのだ。熊谷が首桶を携えて出ようとするおり、奥から義経の声がして、やがて出て来る。すると藤ノ方と相模とが驚いて左右に倒れたような姿になった時、いかにも事々しい心持がした。甲冑をぬぐと熊谷が黒い衣の坊主になっていたのも変に思った。
勧進帳になったが、これも盛衰記にあるのと筋が違っているので、十分にはわからず、ただ延年の舞ぐらいが、少々目さきに残っている。安達原では、八幡太郎の殿様姿や、貞任の束帯姿が、いつもの甲冑と違っているのに不審をした。宗任の書く『我が国の梅の花とは······』は、
その頃芝居の弁当といえば幕の内といって、押抜きの飯と
十一歳で家族一同松山へ帰ることになったが、その間に私の家族が大芝居を見たというのは、唯この
かくの如く十年間に唯一回の大芝居見物でも、家族は非常に満足し、またこれだけの事が父の大奮発であったので、まことに大芝居を見るという事は容易な事ではなかった、小芝居になると、祖母などもその後時々行って、その都度私も伴われた。
その頃は大芝居と小芝居とは劃然とした区別があったもので、大芝居の役者は決して小芝居には出なかった。小芝居は江戸に沢山あった。私どもの屋敷から行ける所では、まず
私の八歳の時に、継母は男の子を生んだ。大之丞と名づけられた。そこで私は始めて弟というものを持ったのである。年は七つも違っていたが、それでも弟が少し生い立って来ると、随分喧嘩もした。大之丞が私の絵本などを汚すと、いつも私は腹を立てた。
私はもう芝居も知り草双紙にも親しんだが、かの間室から貰った草双紙の綴じたのの中に、
茶の花はたてゝもにても手向かな
軒端もや扇たるきと御影堂
角二つあるのをいかに蝸牛
元日や何にたとへむ朝ぼらけ
というもあった。これらを読んで面白そうなものだと思ったが、それが三十幾年の後に『俳人』などと呼ばれる因縁であったといわばいえる。軒端もや扇たるきと御影堂
角二つあるのをいかに蝸牛
元日や何にたとへむ朝ぼらけ
この草双紙の筋は、忠知が或る料理屋で酒を飲んでいると、他の席にいた侍のなかまが面会したいといって来た。忠知はそれを面倒に思って、家来に自分の名を
こんな複雑な筋のものも段々読み得るようになったので、いよいよ草双紙が好きになった。私が八つ九つの頃に見たのは三冊五、六冊ぐらいの読切り物で、京伝種彦あたりの作が多かった。それから或る家で
私は九歳の時君侯へ初めて
私のお目見えをした君侯は勝善公といって、その後間もなく亡くなられたので、私も上屋敷へ行って葬儀を見送った。葬儀の場合にはたとえ君侯といえども柩は表門から出すことは出来ず通用門から出すのである。表門から死人を出すという事は、幕府から賜わった屋敷ゆえ憚るのである。士以下の葬儀は別に無常門というがあってそこから出した。この葬送の時目についたのは、君側の小姓の上席二人の者が髷を切って、髪を垂らしていたことである。これは徳川の初め頃であれば
私どもの内では料理屋へ行くということも甚だ稀であった。或る年向島の花見に祖母はじめの女連れに連れられて行った。その帰り途に、浅草雷門前の
この山本は、こういう戯言を吐くほど磊落な武人でよく絵を描いて、殆ど本物に出来た。私も時々この人の絵の真似をした。この人は、その頃はまだ多くの人の食わなかった獣肉をよく食べたもので、私の家でも時々は猪豚などを煮て、山本にも食べさせ、父や私も食べた。祖母などは見向もしなかった。
この肉は、江戸中でも、売る店が多くはなかった。私の藩邸近くでは、飯倉の四辻の店で買った。今の三星という牛屋がそれである。この頃は、肉類に限って、古傘の紙をめくったのを諸方から集めて置いてこれに包んだものである。
或る時、父の弟の浅井半之助という者に、鰻屋へ連れて行ってもらったことがあった。また知合いの中堀藤九郎という人が、シャモ鍋の店へ連れて行ってくれた事があった。大塚という内の子供とよく遊んだものだが、その家来が子供を連れて行くのに誘われて、永坂の更科蕎麦へ行ったこともあった。これらは人込みの騒がしい所で食べることであり、中堀や大塚の家来が酒を飲んで酔っ払うまで居たので、それが子供心に厭わしく感じ、早く帰りたくなって、食べる物も旨く思わなかった。
父とは、料理屋は勿論、一緒に外出するということはなかった。この頃は男子は婦人と共に邸内は勿論邸外に同行する事は余りなかった。殊に父は藩の枢要の役をしていたから、なお厳重であった。私の知る所では、祖母や母なども、父と共に同行した事は一回も無かった。また男の子と女の子と一緒に遊ぶという事も出来なかったもので、ずっと小さい頃には私も山本の内へ遊びに行って、そこの女の子と時々遊ぶこともあったが、七、八歳の頃からはそれも出来なくなった。
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子供の頃に最も楽しかったのは正月であった。元日には君侯が登城をする。その時に限り上下でなく
正月には
正月の遊戯で盛に行われたのは凧揚げであった。男の子は大概凧を買ってもらい、またよそから贈られもした。
からまし合いは、とても子供では出来ないので、大きい人に貸して、戦に勝つと敵の凧はその勝凧の持主なる子供のものになるので、自分の凧が殖えるので喜んだ。もっとも大概からまし合った凧は折れ破れて揚げることなど出来ぬものであったが、分取品を得た誇りがあったのである。あまり大きい凧は不利益であった。まず西の内紙二枚半というのが戦に適当で、四枚六枚八枚のは唯揚げて楽しんだ。戦には風の向きでよほど得失があったが、巧な者は手繰ることが早いから風の向きのみで勝敗が決するという事もなかった。凧の糸には多く小さな刃が附けてあって、それで敵凧の糸を切るのであった。
藩邸の凧揚げは右の通りの有様であったが、なお町家でも凧揚げをした。これは往還でも揚げたが、多くは屋根にある洗濯物の干し場で揚げた。町家同志ではからまし合いはなかった。また藩邸のが町家のとからまし合いをするという事は決してなく、そういう事をすると恥辱としてあった。
凧の種類をいえば、今もある長方形のものの外に奴凧があった。これは主として小さな子の揚げたのだが、奴凧でもかなり大きいのもあった。障子骨というのは縦に三本骨がある凧で、からますには丈夫であるが、それだけ手繰るには不便であった。縦一本の方が工合が宜かった。凧の面には多くは『龍』とか『寶』とか『魚』とかいう文字が書いてあった。絵凧には達磨、金時、義家、義経などが描いてあって、なお障子骨になると、『二人立ち』『三人立ち』といって、二、三人の武者が描いてあった。これは価も高かったので、こういうのを持っている事は誇りになった。凧糸は凧の大小に従って太さに等差があったが、からます時には凧の大きさよりは一、二等ずつ上の太い糸を用いたものである。
正月の中旬になると、甲冑のお鏡開きがあった。武門では年始に甲冑を祭り鏡餅を供えたので、それをお鏡開きの時に割って汁粉にして食べるのだ。君侯の館でもこの事をして、おもなる藩士に振舞われた。めいめいの家でもやった。もう鏡餅は堅くなってるので斧を以て勇ましく打割ったもので、汁粉の膳には浅漬を唯一つ大きく切ってつけた。『ひときれ』という武門の縁起で、斧を以って割るという事も陣中のかたみである。
『ひときれ』といえば、その頃江戸では『辻斬』が実に頻繁に行われた。これは多く田舎出の侍が
或る時、私の内の藩から渡った米俵に鼠が附くというので、家来が葭簀で巻いたことがあった。私はそれを見て、辻斬のように見えるから厭だ、といって取らせたことがあった。
その頃は、今の芝の公園と愛宕の山との
芝の増上寺の境内は、今の公園の総てがそれで、その頃は幕府の御菩提所というので威張っていた。私の中屋敷から愛宕下の上屋敷へ行くのには、飯倉の通りから、この切通しを回ったが、赤羽から増上寺の中を抜けて行くと大変近いのである。私どもの君侯は上屋敷に居られ、中屋敷には若殿が居られたので、この間の藩士の往来は頻繁であった。これらが増上寺の境内を通るので、その抜ける事は許されていたが、もし弁当を携えているとやかましかった。大抵藩士は身分により、一人二、三人の家来を連れており、
私も家族に連れられて増上寺境内は度々通った。怖い心持がいつもした。あの赤羽から這入ると左側に閻魔堂がある。あれも怖かった。長じて後もその習慣で、あの閻魔堂の前は快く通ることは出来ない。その隣に
東照宮の祭の日にはいつも参詣をした。今の表門はその頃台徳院廟の方へ向いており、外には塀があり、中は石が敷いてあった。この表門から中は履物をつけることを禁じてあったので皆
増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の時の外は、道が遠いから行くことはなかった。この二つの寺へ将軍が参詣される、いわゆる『
藩邸内に住んでいる者の外出について話してみれば、まず私どもの如く家族を携えて住んでる者は毎日出ても
その頃盛んな山王神田の祭などは、人が雑沓するから、もし事変に出合って藩の名が出るといかぬというので、特に外出を禁ぜられていた。そこでこの祭を見ようと思う時には、病人があるから医者へ行くと称して、門を出たものである。藩の医者は、邸外に住んでいる方が、町家の者を診ることも出来て収入が多いので、よく外に住んだ。この事は藩でも許していた。それで医者へ行くということを外出の口実にすることが出来た。だから祭の日などは
いつであったか琉球人が登城するというので、それを見物に行ったことがあった。その頃は支那人でなくても、琉球人でも皆『唐人』と呼んでいた。私は家族に連れられて、いずれも例の病人になって朝早くから、芝の露月町の知合いの薬屋へ行き、そこの二階で『唐人』の行列を待った。大変寒い日であったが、そこで蒸饅頭のホカホカ湯気の立つのを食べた旨さを今もよく覚えている。また錦画の帖を見せてもらった。それには役者の似顔絵が多かった。似顔絵というものをこの時始めて見た。この日何か事故があって、肝心の『唐人』の登城は中止になったので、大いに失望して帰った。
花見は大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内には無いので、皆必ず弁当を携えて行き、毛氈を敷いて、酒など飲むことであった。茶と酒の燗などは茶店に頼んだ。上野へ行くと、多くの女が鬼ごっこをしてる様を珍しく見た。何でも私が八歳頃のことであったが、屋敷から上野までの往復とも歩いて大変人に賞められた。私は祖母育ちゆえ、誠に意気地が無く、外へ出る時は必ず人におぶさって行ったが、或る時途中で、私より少し年上の女の子が負ぶさって行くのを見て、甚だ見苦しい姿だとつくづく思い、自分の負ぶさった形も、人から見たらあんなに見苦しいのだろうと思って、もう再び人の脊に依るまいと決心したので、それで上野の往復にも、人々が負んぶしようしようといったのを肯ぜず、我慢して歩き通して驚かしたのであった。今日でも私はまず年の割合によく歩き得る方である。
浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった。或る時は屋根舟で花見したことがあった。舟の中から堤を通る知人を見て、私の連れの人が徳利を示して『一杯やろう』といって戯れたことがあったのをおぼえている。一体私は舟を好かない方で、その日も遂には気分が悪いといって寝てしまった。
人の通行に駕籠に乗るという事は、余儀無き急用の際か、あるいは吉原などへ行く時の外に無かった。遊里へ行く者はケチと思われまいとして乗りもしたが、駕籠賃は大変高かったので、普通の場合には大抵乗らなかった。
私の藩邸から近い縁日では、有馬邸の水天宮が盛んで、その頃江戸一番という群集であった。毎月五日であったが、子供や女連だけでは迚も水天宮の門の中へ這入ることはむずかしいので腕力のある家来を連れて行って、それの後から辛うじて這入った。履物が脱げても拾うことは出来なかった。興行物や露店なども盛んであった。以前は私の頃よりも一層盛んであったそうだが幕府の姫が有馬家に嫁せられて、
その次に縁日の盛んなのは、十日の虎ノ門の金毘羅であった。これは京極の邸に在った。その邸の門を出入することも水天宮の如く甚だ困難であった。次には廿四日の愛宕の縁日で、よくこの日は私は肩車に乗って男坂を上ったものだ。
常府の者の家族の外出は比較的自由であったが、勤番者は、田舎侍が都会の悪風に染まぬよう、また少い手当であるから
勤番中にも度々江戸に来た者や、或る事情で一年でなく二年以上勤続した者は、古参といって、新参の勤番者に対して権力を持ち、江戸の事情を教えて注意を加えもした。新参は江戸へ来ると間もなく古参に連れられて市中を見物した。その頃の赤
その頃侍は私用の外出の時は雪駄を穿いた。表向きの供のおりや礼服を着したおりは藁草履を穿いた。下駄は雨の時に限った。女はその頃も表附の駒下駄を穿いた。男女とも雨天には合羽というのを着た。今も歌舞伎芝居にはその形が残っている。そして大小の濡れるのを防ぐために
門限は厳重ではあったが、一面には遅刻する者をかばうために、
これは少し古い話しだが或る時新参の勤番者が、二人連れ立って向島へ出掛けた。あちこち歩いているうち、或る立派な庭園の前に来掛った。二人は中を見ても宜かろうと思って、這入って方々見まわって、とある座敷の前へ来たのでそこへ腰をかけた。すると一人の女が出て来たので、『酒が飲めるか』と聞いて見た。女は『かしこまりました』といって奥へ行き、やがて酒肴を出した。十分に飲食してさて勘定をというと、女は『御勘定には及びませぬ』といった。うまい所もあったものと思いながら、二人は帰って、得々としてこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだがといったが、間もなくそれはその頃即ち十一代将軍の
勤番者はよく失策をしたもので、かの蕎麦屋で
異人について騒ぎ出したのは嘉永六年から安政元年にかけての事で、私の七つから八つの年へかけてであった。八つの年には、今度こそきっと
私の藩は今の鈴ヶ森あたりから、大井村、
異人即ち米国人と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、黒船が観音崎を這入る時には、黒雲を起してそれに隠れて、湾内に入ったという評判であった。蒸気の煙をそう見たのであろう。その時の提督はペルリとアダムスという二人であったが、談判の折、幕府の役人の画心のある者が、二人の顔を窃かに写生した。その画がひろく伝写されたのも見た。ペルリは
こんな物を見て珍しがりもしたが、軍がいつ始まるかわからぬという心配は皆抱いていた。軍が始まったら、三田邸は海岸に近い故、直ぐ立退きをせねばならぬ。まず君侯の母にあたる後室と、奥方と、姫君と、若殿の奥方と、それに属する大勢の奥女中が立退くと、その後から邸内の女子供が皆立退くということに定まり、立退の合図としては邸内を太鼓と鐘を打って回るという触れが出た。いつこの鐘太鼓が鳴るかとビクビクしていた。或る夜などは、今夜はきっと鳴るという噂で、夜中に飯を炊いた。弁当は飯に梅干と沢庵を添えて面桶に入れ、これを網袋に入れて腰に附けるのだ。私の弁当は祖母と一緒というのであった。まず行先きは君侯の親類の田安の下屋敷で、軍の模様でそれ以上どこまで行くかわからぬとの取沙汰であった。
しかし戦端も開かれず、警戒も解かれ、黒船は一旦帰ることになり、もとの太平に立戻った。全く太平になった訳では無論なく、唯ちょっと猶予することになって、いよいよ和戦いずれにか決せねばならぬという国家の一大事になっていたのであるが、太平に馴れた江戸の士民は、全く太平になったと思い込んでいた。けれども幕府や藩々の枢要の人達は油断なく戦備を整えるのであった。
どうも日本の武器のみでは駄目である。西洋式の大砲を仕入れなくてはならぬ、また軍隊も西洋式の訓練をしなくてはならぬとの意見が方々に起った。私の藩は先々代が彼の海防に留意された桑名楽翁公の甥であったので、大分開けていた。『うえぼうそう』の如きも楽翁公が奨励されたので、私の藩邸でも早くよりこれを行い、私も四、五歳の時にした。この頃亡くなられた君侯は薩州から養子に来た人で、薩州では有名な
それで私の藩邸には、琉球から薩州にも及んで盛んに飼われていた豚を買い入れて沢山飼っていた。これは食用にはしなかった。何でも豚というものは汚物を食うので屋敷内を清潔にしてくれる、それから火事の時には火に向って強い息を吹掛けるから火除けになるという事を聞いていた。子供等はよく『豚狩り』と称してこれを追い回した。残酷にしてはならぬとよく叱られたものである。
軍隊洋式調練の必要が唱えらるるや、我が藩は直ちに採用して、
私の父は西洋嫌いであった。しかるに君侯は盛んに洋式調練を奨励されたので、一時我が藩の銃隊は出色のものになった。服装は、尻割羽織を着、大小を差したままで筒を持った。身分ある者は指揮方を稽古した。筒持つ者は足軽であった。この事は藩地にも及んでそこでも和蘭式の銃隊を編成せんとした。こういう勢になって来たので、これまで門閥によって高い地位を占めてる者は、銃隊に熟した若い者に権力を奪われそうになった。その不平や、
私の父は、後には藩中でむしろ新知識のある方であったけれども、その頃には全く旧套を守る主義であったので、激しい衝突をした結果、当時目付から側用達という重い役になっていたのを忽ち免ぜられてしまい、側役の礼式という身分で家族を引連れて藩地松山に帰るべき運命になった。これは私の十一歳の時であった。
父は別に学者ではなかったが、一通り漢籍を読み得た。私は八歳の時から素読をはじめ、論語孟子などを父に授かった。素読のみならず意味を教えてもらった。私はこの漢学に大変興味を持ったので、進みもよく、人に賞められた。或る時父が厠へ上ぼっているのを待ち兼ね、文字を問うためその戸を開けたので、お目玉を喰った事もある。いたずらをする時は『もう本を読まさぬぞ』といって懲戒された事もある。この藩邸内には漢学を授ける所もあったが、私は父のみに学んだ。私はよく『子供らしくもない、学者くさい。』という評を受けた。
私は豚狩や喧嘩をするよりは読書が好きだった。一つは臆病者であったので外へ出るより内で本を読む方が好きになったのかも知れぬ。その頃の子供の遊びでは、『ねッ木』といって、薪の先を削ったのを土に打込み、次の者がそれへ打当てて土にさし、前のを倒し、倒した木は分捕るという事が
寄席へも私はたまに行った。産土神の春日の社の境内に、一つ寄席があった。維新後は薩摩ッ原に移って春日亭といった。あそこで蝶之助という独楽まわしを感心して見たことがあった。義太夫は飯倉の土器坂へ一度聞きに行った。文句はよくわからなかったが、千両
子供の時の記憶で最も驚いたのは、安政の大地震であった。それは夜の四ツ時で、私はもう眠っていた。私は人に抱かれて外に出た。そして今大地震があったという事を聞いた。それは十月のことで、寝巻のままでは風邪を引くから、一度内に這入って着物を着て、更に外に出た。見ると屋敷から東北は一面の大火事で、空が真赤であった。幸に私の住んでた中屋敷の方は、地盤が堅固なので、唯長家の端が少し倒れたのみで、それも怪我人は出さなかった。上屋敷の方は地盤が悪いので、その辺に倒れた屋敷が沢山あったが、前にもいった如く、嘉永元年に焼けて後極めて堅固に再築したので、そんな地盤の上に在りながら、この上屋敷だけは破損はしなかった。
我が藩邸と違って他の藩邸は多く潰れた。そして火事となったので死人も多く出た。翌日私の藩邸に親類のある他藩の者は続々避難に来た。皆着のみ着のままで、親を失い、子を失い、実に気の毒な様であった。或る人は、兄が梁などに敷かれている様子で姿が見えぬので、『兄さん兄さん』と呼ぶと、潰れ家の下から返事をした。やれ嬉しやと、『早く出て下さい』というと、『うむ、今出る、今出る。』といったが、いつまでも出て来ない、助け出すことも出来ぬ。そのうち火がまわって、『今出る、今出る。』という声が段々小さくなって絶えてしまったという話しも聞いた。
大地震のあとはいつもそうであるが、当分のうちは夜となく昼となく地震がある。それで家に落着いては居られぬので、その夜から門前に戸板を囲い畳を地に敷き、屏風を立てまわし、上に油紙など置いて、そこに居た。父は宅に居た。曾祖母もそんな仮小屋は厭だといって宅に居た。祖母継母私下女などは皆この小屋住居をした。
大地震の夜はその止むか止まぬに、諸大名は直ちに幕府へ御機嫌伺いに登城したが、将軍家は紅葉山に御立退になっていて、私の君侯は自ら提灯をさげて行って親しく御機嫌を伺われたという事を聞いた。幕府からは奏者番や御使番が藩々の屋敷を見舞った。君臣ともに礼儀を尽したものである。
その翌々年八月に大風があって、地震ほどではなかったが、江戸中大災害を蒙った。この時も私の藩邸はさしたる損害も無かった。
それからコロリ(
異人、地震、大風、コロリ、これらが私が江戸に居る間に脅かされたおもなる事件であった。
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いよいよ一家国許へ帰ることになったが、私の一家は皆江戸住をあまり好まず、始終『お国へ帰りたい帰りたい』といっていた。しかし父は段々抜擢されて藩政上にいよいよ深く関係するようになったので帰れなかったのが、幸か不幸か今度は前にいった事故から免役となって帰ることになったのである。家族等は免役の事は悲しんだが、帰国という事は喜んで、勇しく江戸を出発した。私は『お国』という所はどんな所だろうと思いつつ辿って
この旅行についていろいろ準備をせねばならなかった。まず東海道を通るには駕籠を買調えねばならなかった。
父は兵制上の争から不首尾で免役になりかつ帰藩を命ぜられる際でもあり、また一体父の性分として見えを張らぬ方であったから、駕籠を買うことになっても、切棒駕籠は一挺だけにし、あとは
大名やその他身分の高い者の乗る駕籠は
荷馬には
私どもは十二年間馴染んだ江戸を出発して、品川鮫洲の茶屋、今もあるあの川崎屋で休んで、そこで見送りの人と告別した。父の弟の浅井という小姓をしていたのが馬で送って来て、その頃の事であるから、兄弟またいつ遇われるやらと別を惜んだことを覚えている。品川までは江戸の人足のカンバンでも着たのに駕籠を舁かせて来たが、品川で雲助を雇うのである。
雲助といえば、暖くなれば皆裸で、冬でも、着物一枚着てるのはよほどよい方で、むしろを巻いたり、小さい蒲団を縄で結わえ着けたりしてるのもある。品川で始めてこの者どもの手に渡るのである。雲助は駅々の親分を通じて用を聞いていたものである。彼らは戸籍も無く親戚も無く全くアフレ者で、金を少し取れば、酒を飲むか飯盛を買うか
駅より駅への長い間には一行の駕籠が離れ離れになり、一町二町と隔たって舁がれて行く。こうして広い野や淋しい山道を通ることがある。婦女子などはこういう時雲助に対して甚しく不安を感ずべきであるが、武家の一行は全く安心なもので、次の駅で皆無事に揃うのであった。なぜ武家に対して彼らが温順であったかというに、武家は駅の問屋の手を経て雲助を雇う。問屋には雲助の親分が請負的に用を弁じている。もし雲助に悪行があったら、直ちに親分の責任になる。故に親分はその雲助に制裁を加えた。馬子も雲助同様の組織になっていたから荷物も聊か障りなく届いたものである。制裁はなかまどうしで加えさせたもので、軽いので指を一、二本へし折られた。甚しいのは十本とも折られる。あるいは殴って半殺しにする。そうしてその駅を追っ放す。或る駅でこういう制裁を受けると他の駅でも雇ってくれぬ。だから雲助は親分には十分に服従せねばならぬのである。それで問屋から口をかけられた旅人には、全くおとなしくしていた。
賃銭は武家の払うのは五十年も前の相場で払うので、安政の当時においては不当なほど廉価なものであったが、雲助や馬子はそれに甘んじて仕事をした。それではいかにも引合わぬという疑が起ろうが、彼らの稼ぎには武家以外に平民がある。平民の用は、問屋から武家の用を命ぜられるそのいとまに遣るということになっており、それは『
平民の旅行となると雲助のために多くの費用がかかった。
武家が大勢落合って雲助や馬子の不足する時は、問屋から別に『
私どもは一定の
私は旅することを初めは面白く思ったが、山の中野の中を連れと離れて舁がれてゆく時は怖しく淋しく、父などと一所になればやっと安心し、立場で茶受けに名物の団子など食べる時には嬉しく、問屋で人足をかえる際には、諸藩の武家をはじめ往来の旅客が集って極めて雑沓するので、はぐれはしまいかと心配した。
さて戸塚へ泊ると、宿屋の食事は本膳で汁や平がつくので、常に質素な食事ばかりしていたから、大変な御馳走だと思った。そして夕飯朝飯は毎日どこでもこれであるので嬉しかったが慣れぬうちは知らぬ家で寝るという事が不安で、父や祖母と一間に寝たのであるが、戸塚では殆ど眠られなかった。それも慣れては我が家の如く安眠するようになった。戸塚の駅の辺りで屋根の上に
その頃では私の父位の身分の一行であっても、宿を取ることになればその宿は一行で借切ったもので『相宿は許さぬ』と告げ、宿屋もそれを承知したものである。武家の宿と商人の宿とは大抵別になっていた。かくまで威張った武家が
宿屋全体を占領するのであるからユックリしたもので、
侍が単身でもまた一家を連れてでも、旅する際の費用は、決して官から賜らなかった。本来知行を貰っているという事は何らかの場合に公務を弁ずるという請負として貰っているので、それの余力で家族を養うという事になっていたので、藩のために旅行するも公務の一部で、旅費は家禄を以て弁ぜねばならなかったのである。大名の参勤交代でもその通りで皆大名の自弁であった。大名はその上に、時々城やその他の土木工事を命ぜられ、これらも軍役に準じてやはり自弁でせねばならなかった。
藩の侍の如き、表向きは余力で家族を養うということになっていても、実際においては家禄の全部を使ってやっと家族を養っていたので、旅などする時には家禄の前借をしたものである。また別に侍中の共有の貯蓄があって、それも貰うことになっていた。そういう次第であるから手を詰めた旅行をせねばならぬのである。
ところがこの頃は東海道を初め、どの道筋でも『川止め』という厄介な事があった。雨が降続いて川が増水すると、危ないというので渡しを止めるのである。東海道の川々、大抵は舟渡しで、大井川と
それで少し雨が多いとなると、危険というほどでもないのに、もう舟は出せないといって止めてしまう。これに対してはいかに大名といえども渡る事は出来なかった。またその土地の舟以外の舟で渡るという事は幕府の禁ずる所であった。大井川の如きも人足が渡してくれねばといって、舟を浮べることは勿論禁ぜられていた。なんでも大井川などは早く増水するように特に渡し場の所だけ深く掘ってあるとかいう話も聞いていた。
私どもの一行も川止にあわぬようあわぬようと念じつつ行ったが、大井川は無事に越した。こういう川越しの際の人足もその役筋から雇ってくれるので安かった。私も台輿で渡ったが目がまうように覚えた。或る日途中で父が力を落した風で投げ首で休んでいた。私が
川止の外に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と
子供となると、五歳以上の男児で上下着した者は一人前の武士と見なされていたが、それ以下の男児は、男たる事を証明するために、関の役人の前で前をまくって陰茎を示したものである。女の子は振袖を着けて、それだけで済んだ。道中には所々に藩の用達というものがあって、関所にかかる時には、まずその前の駅の藩の用達を呼んで、関所を通るについて万事その人の手でしてもらうことであった。手形も用達の手から関の役人に差出してもらう。同時に賄賂も差出してもらう。この賄賂は多きを要しないで一定していた。もしこれを出さないと何かいい草をつけて川止め以上の日数を浪費させられることがある。
関所へかかる前には行装も調えねばならぬ。それで箱根では、そこに近い間の宿で休んで、女は髪をあらためられる支度をして髷をほどき髪を洗っておく、父は旅中の常服としては野服といって、今も芝居で見られる鷹狩装束のようななりをしていたが、関所を通る時には野袴を穿き紋附羽織を着、家来も新しいカンバンに改め木刀をささせ、槍と草履とを持たせ、具足櫃も常は
父は関所の役人へ何ら会釈もせず、突袖のまま通ることが出来た。その次には私だが、私は既に十一歳だから、大小を帯び、父と同じ野袴紋附羽織に改めて通るのである。が、父のように素通りすることは出来ぬ。用達に連れられて役人の前に進むと役人が厳格に『名前は』と問う。『内藤助之進』と名乗る。『通らっしゃい』という。すると用達はもう宜しいとささやいたから、そこで通った。弟は例の前まくりをやらせられ、女連は髪をあらためられた。女のあらためはさすがに男はやらないことになっていて一人そのために婆アが雇ってあって、それがあらためた。賄賂は定まり通り納めてあるので、皆無事に通るを得、次の間の宿で休息し、再び常の行装になって、旅行を続けたのである。
町人百姓は手形を住地の役筋から貰って通ったものである。この手合の女の検査は武家の女ほど
しかしその抜道には、よく悪者が居て、追剥強盗などをした。それをもし訴えると関所破りをした事がわかるので、災難に遭っても黙っておく。それをよいことにして悪者が暴行をした。かの伊賀越の芝居でも、唐木政右衛門が岡崎の宿に着く際、この抜道を通ったということに作ってある。
私達の一行は次の新居の関(遠州)も越したが、ここでも手形を出すとか、検査を受けるとか名乗をするとかいう事は、箱根の通りではあったが、ここは役人の態度が、いかにも穏和であった。例えば、私が通る時老人の役人が『お名前は』と聞いた。名乗をすると、『お通りなさい』といった。箱根の『名前は』『通らっしゃい』とは大変な違いである。
この新居の関は、この地の小さな大名が、幕府からの命令で、受持っていたのである。箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になっていたから、自然厳重な荒々しい言葉使いをしたものである。
これらの関所の外に、馬のつぎかえをする時に荷物の貫目を検査する場所があった。それは第一が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが、その間にも、一つあったかも知れぬ。この検査の時も、用達に周旋をさせ、問屋の役人に賄賂をつかうと、少々貫目が多くても通してくれた。もし賄賂をつかわないと、貫目が少くても多いといわれることがある。役人の手儘に目方をかけるのであるから、重いも軽いも手加減次第でどうでもなった。その賄賂は殆ど定価のようになっていて、既に江戸出発の折に、幾ら幾らと予算に立てて置くことが出来た。
旅籠屋では茶代を必ず置かねばならなかった。何でも二百文か三百文ぐらい置いたもののように覚えている。
武家には温順であるとさきにいった雲助、馬士も時々酒手をくれぐらいのことはいった。武士であるから叱り付ければそれまでのことであるが、やはり乞われれば少々は与えた。与えないと疲れぬのに疲れた風をして、グズグズするという位の復讐にはあうのだ。
武家宿には、特に何藩の定宿というのも多くあった。松山藩の如きは別に定宿というのは無かったが、幕府の親藩に準じたという訳か、外の外様や譜代よりは、海道筋でも何となく勢力があるらしく、『松山様』といえばどこでも快く宿を引受けた。なお昔は長崎の探題とかであった訳もあろう。
大名の泊る宿は本陣と称したが、それに次いで『脇本陣』というのがあった。家老あたりの身分のよい者は本陣か脇本陣で泊った。大名の泊る時は、前にもいったように駅の全部を占領したもので、駅の両端には『松平隠岐守泊』というように書いた札を立て、本陣の主人は裃はだしで駅の入口に出迎え、本陣の門には盛砂、飾手桶が置かれた。この本陣と呼ぶのは戦国の名残であること勿論である。
私どもの一行もたまたま脇本陣に泊ることもあった。こういう所では取扱が非常に丁寧であった。明日は七里の渡しをして桑名まで行くというので、宮(熱田)に泊まった時であった。宮の宿の用達は伊勢屋といって、脇本陣をしていたので、そこへ泊まることになったのである。切棒一挺、あと垂駕籠という体たらくで、こういう所へ泊るのは極まりが悪いと父がいっていた。その垂駕籠を主人自ら鄭重に奥へ舁入れた事を今も覚えている。
七里の渡しの折、船も旅籠屋と同様、借切りで、同船の者は許さないことであった、これより先遠州の
東海道の所々に名物がある。しかし一行は節倹を主としていたので、あまりそういう物を食べなかったが、私だけは時々ねだって食べた。その中で、小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中へ入れてもらったが、その桶が珍しかった。有名な宇津の山の十団子は、小さな堅いのが糸に通してあるのだ。これは堅くて食べられなかった。
小夜の中山の夜泣石の由来は、その前の宿で父が大体話してくれた。通りすがりに駕籠から見ると、石は道のまん中に転がっていて、上に南無阿弥陀仏と
大津に入るあたりで三上山を見た。彼の田原藤太が射た大
さて一行はいよいよ伏見に着いた。京都へはまわりになるから立寄らない。伏見には藩の用達や定宿があるので、そこに落着き、今まで乗った駕籠を棄て値で売払い、一挺の切棒駕籠だけは残して置いた。それから三十石を一艘借切って、駕籠や荷物と一所に乗込んで淀川を下った、
一晩船中でおくるのであるから、小便をせねばならぬ。男は船ばたでやるが、女はそれをしかねるので便器を携えて乗ったものであるが、一行の老婆二人も継母も、それには及ばぬといって乗ったが、時を経ると催して来て堪えられなくなった。祖母がまず思い切って船ばたでやった。船頭がそばから『お婆さんあぶない』と声をかけたので、皆が笑った。夜中になって継母もやったようである。私はそのうち眠ったが、目が醒めると、まだうす暗い頃、大阪の八軒家に着いていた。
大阪には藩の屋敷が中ノ島の淀屋橋の傍にあるので、一行はそこへ行った。既に知らせてあるから、長屋ながら一つの小屋を借りてそこに落着いて、いよいよ藩へ下る船の準備をしてもらった。それまでは少し間があるので、天満の天神など近所の名所を見物に出掛けた。
この屋敷には留守居という者とその下役が居る。私の藩では、他に産物は無いが、米がかなり沢山出来るので、藩の士民が食べる外に、沢山余る。それを藩外へ売出して、上下共に費用を弁じたものである。年貢の納まるまでは百姓の手で米を売ることは出来ぬので、それが済めば勝手に売出すことが出来るのである。藩は藩の手で船で大阪まで積んで行き、この留守居の手で、大阪相場を聞合わせ、出入の商人に売渡す。これが藩の財政上のおもなる事件になっていた。
こういう事の外に大阪の留守居には別に肝心な役目があった。それは借金の事である。大名が金を借りる時には必ず大阪の豪商に借りた。その談判は必ず藩の留守居役がやったのである。これはどの藩でも同様であった。各藩の収入では普通の参勤交代等の費用を弁じ得るだけで、その他の臨時費になると、とてもその収入では出来なかった。それに太平が続いて、段々世が贅沢になり、物価が騰貴するに従って、いよいよ豪商に頼る必要頻々と起って来た。借りて、元利を幾分かずつ支払って行く大名には、豪商も直ちに需に応じたが、返し得ない貧乏藩が沢山あるので、そういうのに対しては、たやすくは応じなかった。藩の足もとを見ては、豪商は少しでも利を高く取ろうとした。大阪の留守居はこの談判をうまくせねばならぬ。談判の際大抵豪商とは直接にしないで、番頭を相手に交渉するのであるから、その事なき平素から留守居は時々番頭に贈物をしたり、また酒楼へ連れて行ったりして、機嫌を取るに汲々としていた。
この頃の豪商のおもなる者は、鴻池、住友、平野、鹿島などであった。この中で住友は伊予の別子の銅山を元禄以来開いており、その地は幕府領ではあるが、私の藩が預かっていたから住友と特別の
一行はこれよりいよいよ海路を藩地まで行くのである。船は藩の所有で、主としては大阪へ米を積出すに使い、また藩士の往来にも使うものが沢山あった。この外に、昔は海戦に用い、その後は藩主や家老などの重臣の乗用になっている
荷船は荷を積むのがおもで、その一の胴の間というに我々一行の如きが乗るのであるから、頭を高くあげるとつかえる。櫓は舳先や
私ども一行は大阪で食料等を準備し、藩の所有の荷船を特別に仕立ててもらい、それに乗って大阪を発した。
安治川の上下や、伏見までの淀川の上下などを藩主がする場合には、別に立派な船を用いたもので、その船は大阪中ノ島の藩邸の前に繋留所が出来て、それに繋がれてあった。私は隙間から覗いたが、金銀の金具が輝き種々の彩色が鮮かに見え、朱塗黒塗などで頗る見事なものであった。大名同士が互に美を競いかかる船に乗ったもので、太平の贅沢の一つであった。
この藩の船に乗込んでいる者に船手というは、藩の扶持を貰っていて、常には藩地の
私どもの乗った船は四百石ぐらいで、帆は七反帆であった。その帆は紺と白とをあえまぜに竪の段ダラ形で、これが藩の船印の一ツになっていた。風がよいと、艫の方で
当時ノジという小さな漁船があった。それは一家内乗込んで、原籍も無く、一生を船中で暮す者の称である。このノジがよく碇泊中に、肴を買ってくれといってやって来た。大変に安くて捕り立てであるのでうまい。或る時私どもはこのノジから黒鯛を買って俎板で割くと、その腹から糞が出て来て、大弱りをした。黒鯛は他の魚よりも人糞を食うもので、これは碇泊舶の糞を食ったものらしかった。
一行の船は段々と帰路が捗取って、もはや讃岐の陸近くへ来た。このあたりで航海者はよく
私どもはかねて途中に金毘羅参詣をするという事を藩に願っておいたので、参詣をした。社は朱塗金金具で美々しいものであった。社前に夥しく髪の毛が下っていた。これは難船せんとする際、お助け下さらば髪を切って捧げますと誓った人が、後日捧げたものである。ここからまた船を出して、幾日かを経て、やっと藩地の三津の浜に着いた。
この着いたことを直ちに藩に届け、親類にも告げた。間もなく親類どもがやって来た。継母の里の春日からは使が重詰を持って来た。その使は、折柄
その晩は船で寝て、翌日上陸して、浜座敷という所を借りて、そこで入浴し、女連は髪を結いなどして支度をした。迎えに来てくれた親類がそれぞれ準備してくれたので、一行
途中前にいった衣山を通る時三つのさらし首を見た。青竹を三本組み合わしてその上へさん俵を敷いてそれに首が一つずつ載せてあった。私はさらし首を見たのはこれが初であった。
藩地の住宅は、普通で帰った者は予め屋敷を賜わったものだが、不首尾で帰った者は、直ちには賜わらぬので、暫く借宅をせねばならぬ。私どもは城下はずれの
着いた日には親類や知人が沢山集り、こちらでもうけた物もあり、客の持参した物もあって一同が宴会を開いた。会う人は大概私の初対面の人であった。中には子供も居たが、打解けて遊ぶことは出来なかった。
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さて暫く経って、やや落つくと、私も十一歳になっているから、文武修行の場所へ入らねばならなかった。
私の藩は、三代前の藩主が明教館というを設け、これに文武の教授場を総て包括していた。就中学問所(漢学の)が根本になっていて、これには『表講釈』という講釈日があり、月に二回ずつは、士分徒士に至るまで、必ず聴聞に出頭せねばならぬ事になっていた。病気等でも届を出さないで欠席する者は、直ちに罰を受けた。おもなる士分の講釈日には君侯も来て聴かれた。
武芸の方は、弓術が四家、剣術が三家、槍術が三家、馬術が一家、柔術が一家で、これだけ明教館に附属した所に設けられて、各指南した。この師家には人々の望によって、自由にどこへでも入門することが出来た。馬術は木馬の型ばかりを教え、実際のは他の広い場所で教えた。
私はまず学問所へ入門することになった。その時は上下を着て、誰かに伴われて行った。行き着くと、学問所の教官に導かれ、講堂という広い堂へ行って、大きな孔子様の画像を拝し扇子を一対献ずる。これが入門の式であった。
その翌日から素読を教えてもらいに出た。学問所の課程は最初は素読で、まず論語を終ると一等となり、孟子と大学を終ると二等、中庸小学で三等、詩経書経で四等、易春秋礼記で五等となって、これで素読が終るのである。それから意味の解釈となり、講義や輪講等へ出席する。四書小学の解釈が出来ると六等になり、五経の解釈が出来ると七等になり、それで全課程を終るのである。私は江戸に居る時、孟子の半ばまで父から授かっていたから、その続きをここで習った。等を上るには
常の素読は、『
この素読隊が三つに分れていて、私は三番隊に入った。最初論語は終っていたから、試読席で一等を受けた。先生は、「大変よく出来る。」といって賞めてくれた。孟子大学の終った時も好成績で等が進んだ。それでその年に中庸小学も終り、詩経の部へ進んだ。これは非常な進み方であるので先生は賞めた。勿論これは宅で父から教えてもらったからズンズン進んだのである。今日の課程の如きでなく、当時は力次第で右の如く進むことが出来た。詩経あたりへ行くと、私は大概自分で読んで、わからぬ所を先生や父に聞くという位に行ったから、素読は何らむつかしいものとは思わなかったが、詩経で小戎の篇の小戎※[#「にんべん+戔」、U+4FF4、76-7]収、五※[#「鶩」の「鳥」に代えて「木」、U+6958、76-7]梁


武芸の方は、まず剣術から始めたが宜いというので、三家中で橋本というに入門した。ここは新当流で宮本武蔵から伝った流だと聞いていた。この入門には
武場は、藩地では地べたでする事になっていた。上には屋根が無いが、
やがて寒に入って、寒稽古が始まった。面小手腹当竹刀の外に大きな薪を一本ぶら提げ、朝の弁当も持って、朝暗いうちから出かけるのである。薪は或る場所へ集めて火をたいて温まるのであるが、周囲は先輩が占領して、我々は火に遠い所で震えていたものである。そのうち粥が大きな二つの桶に運ばれる。それに沢庵が大切りにして附けてある。これも先輩がさきへ食ったが、しかしかなり普及していた。この粥は一般の武場へ藩から奨励の為に賜わったものである。そしてかの持寄りの薪で沸かした湯が沸くと、各弁当を食べる。我々の食う時はいつも湯が無くなっていた。弁当の菜はめいめい有合わせを持って行く。藩地では私どもは、猪や鹿などを狩りして来たのを分けてもらい、または店から買って時々食べたので、この菜にも稀には獣肉を持って行った。すると外の者等が覗込んで、『ヤマク(山鯨)を持って来た。』とはいいさまドシドシ奪われてしまって、やっと一きれ位しか自分に食べられなかった。けれどもヤマクを持って行くという事は私どもの誇であった。この菜の掠奪は多くの者がやられたもので、中にはまず菜のなかへ自分の唾をはき込んで、掠奪を防ぐ者もあった。藩地でも獣肉は高価であったから、そう度々食うことは出来ないのである。
武芸のうちには明教館以外で大砲や小銃の稽古もした。小銃に入門をして或る許しを受けた以上は、銃を持って獣狩に行くことが出来た。まだその頃は、少し城下を離れた山には、鹿などが居たもので、それを打取って来れば、一部分を師匠及び高弟に贈る。なにがしが鹿を獲て帰ったと聞くと、近所からも少しいただきたいといって貰いに来る。それを乞うに任せて分ったので、鹿を得た家でも十分に一家で食うことは出来なかった。かかる有様であるから、ヤマクを弁当の菜に持って行って、皆が騒ぐのも無理はない。
私は撃剣へ入門をしたが、試合は頗る下手で、同輩と勝負しても常に負けた。頭をドンドン叩かれるのも痛いものであった。強く叩かれると土臭い匂いがする。それに反して、カタはうまかった。その頃カタのことをオモテといった。入門すると或るカタを習って、進むに従って段式というを貰って、段式相当のカタを習うことであったが、私のカタが一番よいといって、先生がいつも誉めてくれた。
その翌年の春に、君侯の御覧があった。君侯は学問所へは月に二回ずつ来て講釈を聞かれ、武芸の方は春秋二回御覧があった。この時は各流が日をかえて御覧に供するのだが、いずれも晴の場所として技倆を競ったものである。君侯が江戸詰をして居られる一年は、家老が代理をして、これを見分といった。この以外に目付の見分もあった。この御覧には、十五歳以上でなくては出られぬのであるが、学問所の方で三等を得ている者は、年が足りなくても、特に出ることが出来た。そこで私はすでに三等を得ていたから御覧に出て試合をしたのである。私の相手は籾山という者であった。うまくその御胴を打って、それから三番勝負で、私が勝を占めた。これはさきが拙かったからである。
手習ということは、江戸に居た頃は余りしなかった。尤も継母の姉婿の、かの絵をよく描く山本は、書もよく書くので、これに手本を書いてもらって習ったが、私は一体手習が嫌いであった。しかし藩地に来てからは、他の同年輩の者等と共に、どうしても手習をせねばならぬことになった。
藩の学問所は、読書は授けるが、手習は授けないので、別に師を選んで随意に入門することであった。私は武知幾右衛門(号は愛山また五友)という人の手習所へ入門した。この人は漢学者で、学問所の方でも教官をしており、私の父とは従来懇意であり、藩でも殊に烈しい攘夷党であった。その頃は父も同主義であったから親しくしていて、私を引立ててもらった。武知先生は維新後も生きていて、八十ほどで亡くなったが、死ぬまで髷を切らなかった。私の父も私も後には頗る開化主義になったので、そうなってからはこの先生によい顔はしてもらえなかった。
さて手習を始めた所が、よくも出来ず、面白くもないので、ちっとも進まなかったが、先生は漢学の方から、私の読書力のあるのを認め、学問所の等級も知って居られるので、間もなく私を頭取という仲間に入れられた。頭取になると、草紙をいくら習っても随意なのである。頭取にならぬうちは、草紙の数が極まっていて一々検査を受けるのである。こういう楽な仲間に這入ったので、私はいよいよ手習をしなくなった。けれど、清書は勿論先生に見せるのである。私の清書にはよい点はつけてもらえなかったが、そこは読書力の方で差引して、大目に見てくれたようであった。或る時先生が鎌倉の頼朝以下十将軍の名を唐紙へ書いて、これを暗記して書いて見せたものへ遣ろうといった。そこで私はそれ位は最前知っているから直ちに書いて見せると、先生がアアお前が居てはいかんといって顔をしかめたが、約束だからそれは貰った。
とかくして帰国した一年は終り、翌年になったので、お国で、一種変った新年を迎えた。まず正月の二日には君侯の館へ出て、年賀を述べる、これは江戸と同じである。それから親類を回る。それらの儀式は江戸と多く変らぬが、万歳に至っては、藩地では全く穢多のすることになっていた。三河万歳のような簡単なものではなく、三味線太鼓笛などで
三月になって雛祭をした。祖母の雛は十二年前江戸へ行く時に他に預けて置いたので、それをこの節句には飾ったから古い大きな内裏様が一対増したのを嬉しく珍しく思った。私は江戸以来男ながら小さな雛を持っていたのを飾ったが、弟の大之丞が自分にも欲しいなどというのを、私は手を触らせないようにするので、よく喧嘩をした。
藩地の城下の地面は砂地で、植物に不適当であって、殊に桜の如きは育ちにくいので、城下では一本の桜も珍重する。花見といえば、城下を十町ほど離れた所に江戸山というのがあって、そこに五、六本の桜があるのを大騒ぎで見に行くのである。私もそこへ花見に行った。そこには山内神社といって、享保年間に私の藩で御家騒動のあった時、忠義のために割腹した者を、三代前の文武を奨励した君侯の時、特に神として祭られた、その社がある。花見はこの社の参詣をかねていたものである。
社のついでにいうが、私の家の持主の味酒神社は大山祇の神を祭ったもので、久しい以前から唯一神道でいて、社は皆
ある日大宮司の内で遊んでいた時、私のそばにそこの長男が居た。私がちょっと右へ顔をふり向けると、耳の穴が非常に痛かった。長男が私の耳へ小さな藁しべをあてがっていたのである。それから暫く耳が痛んで仕方がなかったが、七十四歳の今日でも、耳の掃除をする折、ある部分に触れると多少の痛みを感ずるのである。
その頃彼らは私に向って、『今こそお前はおとなしくしているが、今に屋敷を持って、他の士族仲間の子弟と遊び出したら、私達は顧みもしなくなるだろう』といっていた。大宮司は従五位上肥後守といっていたが、藩の士に対しては卑下していた。私はたまたま家主の子であり藩地へ来て
この大宮司へは国学者などがよく来たもので、ある時長く逗留して何か調べ物をしている人があった。大宮司の子等があれは国学の先生で
五月になると、江戸で初幟をした折の、長い幟と四角なのとを立てた。七歳以上になると立てぬもの故、次々と弟に譲ったので、弟の初幟といっては、別に買わなかった。この正月継母が更に男子を生んだ。それは彦之助と名づけた。
段々と暑くなった。私も学問所や武場の友達が殖えたので、それらの人とよく遊んだ。その頃子供の遊びとしては城下の外の小さな川へ鮒や鯉を釣りに行くことで、少し荒っぽい方では
あるいは
そうしているうちに、或る日私が外から帰って来ると、継母や祖母が憂に沈んでいる。不思議なことと思ったが、父が京都の御留守居をいい付かった故と知れた。
去年不首尾で帰ってから一年たったので、元来父は藩では才力のあった方ゆえ、長く休ませて置くでもないということになり、それにしても、父は頑固な方ゆえ、京都あたりの留守居でもさせたら、少しは角が取れるだろうとの考えから、こういう役をいい付かった様子である。
京都の留守居といえば、禄高も増し、よい地位であり、首尾直りの上からは
親類等が遣って来ては、我々家族を慰め、長いことではあるまい、そのうちまた藩地へ帰ることになろう、と慰めた。父は別に嬉しいとも悲しいともいわぬ性分であったから、唯黙って京都行きの準備をした。唯、私の文武の修行を怠らせるのを残念がって、長くなるようなら父の実家へ私を預けて修行させることにしよう、といっていた。
八月いよいよ三津から藩の船に乗って、京都をさして上ることになった。三津までは親類も送って来た。別を惜んで落涙する者もあった。この海路は非常に風が悪かった。追手続きなれば三昼夜で大阪に這入れるが、まず普通は七日かかる。それが、この時の航海は風の都合が悪くて、あちこちの港に泊り、その度入浴したり、米の買足しをしたりして、十九日目にやっと大阪に入ることを得た。父は位地がよくなったので、若党を二人、仲間を一人、下女を二人召連れていた。
大阪に着して、例の中ノ島の屋敷に一両日滞留した。別に見物はしなかった。この屋敷の留守居の下役に
大阪着の晩、私は錦画を一、二枚買って来たら、父が『こんな贅沢な物を買ってはならぬ』といって叱った。留守居という役は、他の藩々の留守居と交際をせねばならぬ、そしてその交際の場所は京都では祇園町であるので、家禄の増高の外に交際費も貰うのであるが、それでもこの役は結局いくらか借財が出来ると覚悟せねばならなかった。父がこの錦画のために叱ったのも、よほど用心して節倹せねばならぬと思っていたからであったろう。京都に入って後も、贅沢な玩具などを買うことは出来なかった。
私は父に叱られる事が何より怖かった。一度叱られるといつまでもそれを守らねばならぬと思っていた。尤も度々は叱られなかった、叱られた事は今も歴々と記憶している。
一つ、父の命を守り過ぎてかえって後悔している事がある。それは藩地に居た時のことで、友達に誘われ、城下の外の池へ行って、水をあびていた。そのうち友達が泳ぎ出したので、私も泳ぎたくなって、両手を突いて、足をバチャバチャさせていた。さて帰って来ると、頭の濡れているのを見つけられて、これはどうしたのかと問われた。私は偽りをいうことは出来ぬ性分なので、ありのままにいうと、祖母は、池には人取り池というのがあるといって戒め、父もこの事を聞くや、危険な時に子供同士では助け合うことは出来ぬからといって叱った。その後また友達に誘われてかの池へ行ったが、叱られるが怖さに水に這入るのを躊躇していると、卑怯だ卑怯だと罵られたのでまた這入った。これもわかって今度は父に火のつくように叱られた。それから全く池や川に這入ることはせず、そのため一生泳ぎを知らず、ちょっと艀に乗っても不安な思いをするのである。父の命とはいえこれだけは少し守り過ぎたと思っている。藩には伊東という游泳を教える家があったが、なぜかこれには徒士以下の者が多く入門していた。この伊東の游泳術は神伝流と称して二、三代前の祐根という人が開いたのだが、その後他の藩へも広まって、今も東京の或る水泳場ではこの神伝流を教えている。
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さて京都の屋敷は、高倉通り六角下ル
留守居は各藩共に、主として禁裡御所へ対する藩の勤を落度の無いように互に相談し合っていたものである。大名は、参勤交代等の際にも、禁裡御所へ立寄ることは出来ず、稀に、将軍の代理として上京することがあるだけである。京都に対して何かすると、幕府から嫌疑を受けるという恐れもあった。ただ藩主が侍従とか少将とかになった時には、朝廷から口宣を賜わるので
京都の邸は小さくて、御殿といって君侯の居られる所も出来ていたが、ここへ来られるのはまず君侯一代に一度もあるかないかという位であるので、この御殿へ留守居が住まっていた。立派な所が我が家になったのである。それから、父がちょっと出るにも、若党二人と草履取を連れる。屋敷を出る時には、皆下座をして『お出まし』という、子供心にこれらの事は嬉しかった。
節倹をせねばならぬというので、家族は物見遊山に出なかった。それに大之丞の次の弟、彦之助が京に上ってから胎毒を発し、頭が
京都の藩邸へは出入りの人々がある。そのおもな者には、徳大寺殿の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物などもして機嫌を取っていた。そこでかれからも親しく交際を求め、私の内へよく来た。茶道の千家は利休以来裏表があるが、この裏千家も私方へ出入をした。この千家の玄々斎宗室と呼ぶのが藩士の名義になって二百石を受け、側医者の格で居た。その外銀主と称える平田、呉服商の吉沢、三宅、などいうのが出入した。銀主というのは、大阪以外この京都でも藩主が借金をした、その債主で、今では金も無くなりただ昔の名義で扶持を貰っている者である。呉服商は、朝廷へ参内する時の官服などを命ずる者である。こういう出入の者等には、留守居としては毎月一回はちょっとした饗応をせねばならなかった。そのうち滋賀や千家などは稀に祇園町へも連れて行かねばならなかったらしい。
父は京都に着くと、まず他藩の留守居に対して、ヒロメの宴を祇園町に張った。その翌日、祇園町から菓子を贈って来たが、その見事なことは、実に家族等の目を驚かした。
父は役柄とはいえ、絶えず面白く遊びうまい物を食うので、家族にも何か面白い遊びをさせようと思い、出入の者も勧めるので、遂に大英断で、四条の大芝居を見せるということになった。継母は彦之助の胎毒がまだ治らぬので留守をし、私と祖母二人と出入商人で出かけた。
四条では南座が始まっていた。これが江戸の猿若以来二度目に見る大芝居である。その頃の京都の芝居は、幕数が非常に多かった。七ツ時(午前四時)に提灯つけて出かけて行き、桟敷へ行くと、二間買切で取ってあった。そのうち鍋に餅を入れた雑炊を持って来る。それが朝飯である。
やがて幕が開くと、忠臣蔵で、序から九段目までした。二番目が八犬伝の

忠臣蔵は私もほぼ筋を知っており、八犬伝はその頃読本を見ていたから面白く見た。璃


私は読本や草双紙を知っているので、それと芝居と違うのが気になった。昼飯は茶屋へ行って、そこで普通の膳が出て食べた、厚焼の玉子のうまかった事を今も忘れぬ。夕飯はちょっとしたものであった。食事は江戸に比してすべて粗末であったが、菓子は立派に
父が京都の留守居を勤めたのは八ヶ月で、翌年の夏藩地へ帰ったので、家族が京都で芝居を見たというのは唯この一度であった。しかし私は今は新京極というその頃の誓願寺や、錦小路天神、
なぜ若党どもが
こう戒めた父が、役目とはいえ祇園町へ頻りに行くのであるから、とかく家庭が総て上調子であった。家来のうち一人は藩地に居る間に聊か義太夫の稽古をしていた。京都抱えの若党も少しはやるので、父の留守には、低声に義太夫をやる。私も好んでそこへ行って、聞慣れ、義太夫本も読んで、面白くなって、それを写したのもある。忠臣蔵四段目、二度目の清書、妹背山三段目、杉酒屋、安達原三段目などは、私は写しもし、またいくらか暗記もした。就中、忠臣蔵の八段目の道行の如きは、口調もよく、短いので、今でもやれる、その他も、一段全部は覚束ないが、一部分々々は随分今でも記憶している。十二歳から十三歳へかけての記憶が七十四歳の今日も存しているのである。
京都に住んだその年の末に、徳川家茂公に将軍宣下があったため、酒井
町家住居をすると、夜々蕎麦屋が、『うどんエそばエハウ』といって売りに来た。温かく煮た蕎麦へ山葵がかけてあるのを、寒い頃なので家来がまず食べ始めてうまいうまいといい、やがて家族も食べて、毎晩上下こもごもこれを呼んで食べた。この位の事は、祇園通いをする父がもう戒め得なかった。
そのうち新年になった。春駒というものが来る。これは馬の頭に鈴をつけ、それに手綱をつけて打振り打振り三味線で囃し、それが済むと、ちょっとした芝居一くさりをする、私の所ではこの春駒によく銭をやるので、度々来て芸をした。この春駒の中で、金三郎といって、美男であり芸も多少勝れている者があった。下女などは『金さん金さん』といって、後を追うてよそで芸をするのまで見た。
後にこの金三郎が、尾上多見蔵に認められて、本当の役者になり、やがて名代になって市川市十郎と名乗った。その後東京の春木座が出来した時に、市川右団次の一座に這入って来た。私もなつかしくて見に行ったが、
新年にはまたチョロという者が来た。張子の大きな顔の、腰の下まであるのをスポリとかぶり、左右の穴から手を出してササラを持っている。町の子供はこれを見ると『チョロよチョロよ』と囃し立てる。するとチョロはその子供らを殊更に追いまわした。
酒井雅楽頭は、新年になって上京した、私はその行列を三条通りで見た、赤坂奴が大鳥毛の槍を振り立て拍子を取って手渡ししつつ練って行った。江戸に居た時大名の行列は度々見たけれども、こんな晴れの行列は始めてであった。
姫路の藩邸の留守居の下役と、私の藩の留守居の下役とは、親類であったので、かの貸した屋敷へも行って見せてもらったが、大提灯や幕や金屏風で飾立てて、そこへ堂上方はじめ頻繁に訪問したそうで、これが自分どもの住んでいた所かと怪しまれた。雅楽頭の引払われてから、その居間を見せてもらったが、そこに紫色をした蕗の薹が一輪ざしに活けてあったことを覚えている。
間もなく建増も取払われ、私の藩へ引渡されて、また私どもの住居になった。ところがその荷物を運んでる最中に、家来が『先ほど松山から御用状が参りました』といって差出す。父が開いて見ると、『御留守居御免で、松山へ帰足、御目付帰役仰付けらる』、との辞令である。家内一同驚きかつ喜んだ。
目付というのは藩の枢要の地位で、上に家老を戴いて、すべての政治に関する役である。これは既に江戸で勤めていた故、『帰役』といって、元の座席へ帰って勤めることである。
こうなったが、代りの留守居が来るまで、暫く在職していねばならぬ。その間に伊勢参宮をした。京都の留守居は、年に一回藩主の代理として参宮をすることになっていたのである。その土産に鹿の玩具や鹿の巻筆などを貰った。
その頃花時で、私の庭前の大きな桜も見事に咲いたので、或る日内で花見をすることになり、滋賀や千家や出入の商人が来て盛んな宴を張った。皆松山帰りの喜びも述べた。この日は芸子なども来、夜更くるまで篝などをたいて大変に陽気であった。
これもその頃であったが、円山の何阿弥という茶屋で踊の
その面白い目を見たというのは、出入商人が父を促がして清水の花見に行った時のことで、私も附いて行った。ある茶店で弁当を開いたが、商人らはそれだけで満足せず、父をせり立てるので、父はやむをえず右の鶴屋へ一行を案内した。座敷へ這入ると、赤前垂の仲居が父に『小縫さんを呼びましょうか』と囁いた。『それに及ばぬ』と父は答えて、外の芸子を呼び舞子も呼んだ。私はこの時『小縫』という名を始めて聞いたが、これは父の馴染の芸子であった。留守居役は各藩共馴染の芸子を
京都住居は僅か八ヶ月であったが、私はこの間に祇園町を知り、四条の芝居を知り、小芝居や寄席もしばしば行き、義太夫は暗記するまでに至って、私が後日こういう方面に趣味を辿ることが出来たのは、この京都住居が
いよいよ京都を去るという前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や千家等を招き、席の周旋には『山猫』という者が来た。山猫というのは、祇園町のでなく山の手の方の芸子を呼ぶ称である。誰かが『御留守居さんの出立に、山猫はちと吝い』といった。千家は頻りに祇園町行きを迫って『明朝間に合わせますからちょっと行きましょう』などといったが、父は応じなかった。
帰藩については、元来なら行列を立てて伏見まで下るべきであるが、節倹主義から、高瀬舟に家族も荷物ものせて下ることにした。あまり見苦しいから止せという人もあったが、父は平気で実行した。この頃高瀬川の上流は田へ水を引くために水が流れていなかったので、特別に金を出して堰を切ってもらい、三条あたりから舟を出してもらった。
これに乗って段々と行くと、少し先きは砂利であるのが、舟の行くに従って堰を切って水になる工合が甚だ奇であった。そのうち普通の川になってる所へ進んだ。そうして伏見に着いた。見送りの人に杯をあげて別れを告げ、また三十石の客になった。今度は昼船なので、まさか女の小便は出来ぬので、枚方で船を着けて用をすまし、日暮に大阪に着いて、屋敷に上り、一両日逗留した。かつて松の枝を投げて怪我をさせた安西の子供へ、京都土産の玩具をやった。それから帰りの海路は追手がよく四、五日で三津に着した。
この後維新まで私どもは藩地生活をしたのである。
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いよいよ藩地の松山へ帰ったが、今回は一昨年江戸から帰った時と違い、父も上首尾で、お目付という権勢のある役となっていたのであるから、借家などはせないで、既に一の邸を賜わり、それを親類の者が掃除などして待受けていた。そこへ帰着した日より住まったのである。それは松山城の北で、傘屋町という所にあった。私も今度は自分の邸というものに初めて住んだのであるから、何だか嬉しい心持がした。一体、城下で士族の邸というと、江戸に住んでいた折のお小屋などに比べれば頗る広い、まず十四畳敷も二間あり、それに準じて居間部屋台所等もカナリ広い。その他門長屋には家来なども住ませる事になっていた。尤も京都に居た頃には藩邸の御殿を仮住居としていたので、それに比すれば規模も小さく

その内に、段々と人が来ての話に、この邸は『
この松前からの城移しの事について、ついでながらいい添えて置く事がある。それは松前の風習として漁夫の妻たるものは多く城下その他へ魚を売りに来るが、『ごろうびつ』という桶の中に白魚という魚を入れて、それを頭上に頂いて、『
この私の邸は長く住まわないで、その年末には城山の麓の堀の内という、即ち第三の郭中へ更に邸を賜わった。これは父の実家たる菱田というが住んでいたが、この際外へ移ったので、その跡をそのまま賜わったのである。これもかなり旧い邸ではあったが、傘屋町のものに比すれば、聊か好いので、家族等も少々安んじた。この邸は南堀に沿うた土手の下で、土手の上には並松が植っているし、裏面には
かく藩地に住む事になったので、私も久しく京都に住んで廃していた文武の修行を再び継続せねばならぬ事となった。殊に読書は私も得意としていたのであるが、一時京都の空気に触れて、芝居や義太夫、乃至落語等に浮かれていた故、藩地へ帰り多くの朋友と出会って見ると、聊か
前にもいった武知先生の塾へも相変らず手習に行ったが、傍ら蒙求とか日本外史とかいうものを自ら読んでは、分らぬ所を先生に
私の今の母というは、前にもいった通り継母で、実母は私が三歳の時に没した。実母の里を交野といって、そこには私からいうと祖母と叔父とその妻子がいた。叔父は砲術に長けていたが、武人であったから日々の勤というはなくて、至って閑であった。叔父はこの頃武人のよくする猪打や魚取りをする他に貸本を借りて読んでいた。貸本屋は松山の城下にも二軒あって、蔵書はかなり豊富であった。私も叔父の許へ行けばそれを読む事が出来たので、元来読書好きの私は、この貸本を手当り次第読む事になった。けれども当時多くの人が見た写し本の諸藩のお家騒動とか仇討とかいうものは、余りに文章が拙いので、少年ながらも読む気がしない。もっぱら読んだ物は馬琴の著作であった。八犬伝などはこれまで草双紙の方で見ていたが、今度いよいよ
これらを読むと共に、他の作者の読本は面白くないので、京伝や種彦の物を少しばかり読んで他は打捨って置いた。作者は忘れたが『神稲俊傑水滸伝』だけは聊か物足らず思いながらも読み
かように貸本の味が分ると共に肝心の漢学の修行を怠る風が見えたので、遂には父が怒って貸本ばかり見るのならば、交野へはやらぬといわれ、父の眼を
それからこれは祖母の里で、宇佐美というがあった。この宇佐美の祖母の父なる人は当時もう死んでいたが、この人は漢学者で、漢詩を多く作り、また浄瑠璃(義太夫)が好きで、自分で浄瑠璃の丸本を書いたのも二、三種あった。それほど浄瑠璃には詳しかったから、凡ての浄瑠璃本は殆ど皆宇佐美の家にあった。尤もその一半はその家から井上という家へ養子に行った者が借りて江戸まで持って行って、そして前にいった愛宕下の上屋敷の火災の時に焼いてしまったが、その一半はまだここに残っていたので、それを読む事が出来た。浄瑠璃は既に西京で味を覚えていたし、この丸本は一段物と違い、筋も充分分る所から、いよいよ興味をもって読初めた。これも今日私が浄瑠璃なり、芝居なりに親しむ原因となっている。祖母の父の自作の丸本をも私は見たいと思ったが、それも右の井上が借りて行って焼いてしまった。宇佐美家に存していたものは、祖母の甥に当る者が他家の写し本から写し取った一冊だけであったが、私はそれを見たのである。
かように、私がややともすると道楽的読書に傾き、このままで行ったら当時の武士仲間で
それは漢学の明教館において素読の助けの外、漢籍の意義を講明することも、追々上達して味も生ずるようになったからだ。当時諸外国との関係上、いよいよ横浜を開港場として外国人が住むことになり、幕府では仮条約を結ぶというので、攘夷党は益々奮激して横浜を襲撃せんと企つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の入口神奈川の警衛に任じていて、一の砲台をも築くようになっていたから、それらに対する藩の用務も頻繁になり、私の父は要路に当っていたので度々江戸へ勤番して、神奈川表の警衛にも当っていた。それ故、藩地の宅では、多く父が留守なので、父は私が文武の修行を怠る事を恐れて、親類の水野というに私の漢学の世話を頼んで行った。水野は早くから明教館に出ていて、当時七等を貰っていたのであるが、漢学は余り出来ていなかった。この水野の世話になるという事は、少年ながらも満足には思わなかったが、父の命令でもあり、また水野も誘導するので、時々その家へ行って小学の講義を聴いた。けれども往々不満な解釈を与えるので、私は内心おかしくも思った。
しかるに或る年、前にもいった君公の御試業があるので、われわれ年輩の漢学生は奮って出講する事となった。尤もその時は君公が江戸に居られたので、家老が代理となって行うのであったが、とにかく漢学生に取っては晴れの場所であった。水野が私に向って、お前ほどに漢学が出来れば是非とも御試業に出たが好いと言ったが、私は一体内気な方なので、馴れた人に対しては随分知っているだけの学問の話もするが、君公代理の前に出て、経書の講釈をするとなると、何だか怖いような気がして容易に出る気にはなれなかった。尤も当時私は既に十六歳に達していた。水野は飽くまでも勧めて止まず、その講釈の仕方までも悉皆口授してくれて、是非とも出ろという事であった。父が藩地にいたら、叱りつけても出すのであろうが、居ないのを幸にして、私はまだ躊躇していたけれども、いよいよその日となる頃には、遂に私も決心がついて出ようと思うようになった。
そこでその日は明教館の広い講堂で、代理の家老を初め役々が列座している、一面には学校の先生達、一面には明教館の寄宿生及びその他の学生が居並んでいる、その中央へ出て行って一人ずつ講義するのである。この講義をするものは一方に控えていて順々に立って行くのであるが、段々と順番が進んで、私の座席近くまで出て行って、早や私の番が来そうになったので、胸は
明教館では表講釈と称えて君公初め一般の藩士が聴聞に行く事は前にもいったが、学生はそれに出る事は出来ず、学生のためには一ヶ月に度々輪講とか会読とかがあって、それには寄宿生初め、われわれ外来の学生も出席が出来るのである。私は右の輪講会読等へはまだ憚る気がして出なかったが、五等以上の者ならば誰でも行って、館の蔵書を借覧する事の出来る独看席というが設けてあったので、そこへは日々行って勉強した。
私は以前からもそうであったが、この頃からいよいよ歴史を読む趣味が加わって歴史物を主として読んだ。宅には父が読むので『歴史綱鑑補』があったから、それは既に読んでいて、父から教えてもらった事もあった。その綱とあるのは朱子の
それから、日本の歴史では『大日本史』は従来の歴史に北朝を正統としたのを、南朝が正統として書かれている。これがあたかも綱目の意義と同じであるから、これも好んで読んだ。その後に出た岩垣松苗の『国史略』は随分初心者に読まれた物であるが、私は北朝を正統としてあったから、その書に限り読む事を好まなかった。それよりは同じ位のもので、青山
けれどもそれが今もなお存していたら、今昔の感を叙する種にもなったろうが、ちょうどそれを書き終った頃に、父が江戸から帰って来て、留守中私がそんな事に耽っていたのを見ると機嫌が好くなくて、『まだ手前はそんな事をするよりも、充分経書を勉強せねばならぬのだ。』といって、一日大いに叱った。私は父のいう事といえばよく守ると共に、信ずる事も厚かったから、これは自分の過ちだと思い、沢山の草稿になっている手作の南北朝綱目を、庭の大竈の中へ投込んで一片の煙としてしまった。それからは父のいう如くもっぱら経書の研究をする事になった。
その頃朋友の中で最も親しかった者は、由井弁三郎、錦織左馬太郎、籾山駿三郎等で、いずれも漢籍を好んだ仲間である。これらの友人どもとは明教館で語り合うのみならず、自宅でも経書の研究会を開く事なぞがあった。私の父はさほど漢学を深くも修めていなかったが祖父なるものは徂徠派の学を究め、旁ら甲州派の軍学も印可を受るまでになっていた。それらの文武の書籍も沢山に遺っていたので、私は本箱を探してそれらの物を見たが、就中、仁斎や徂徠春台の経書の解釈に属する書を読んだ。するとこれまで朱子の註釈した経書とは大いに違い、むしろ朱子の註よりも、私の心に適う点も少なくなかったので、その後由井等と共に研究する時には、これらの古学古義派の説をも持出して、彼らを煙に巻いた事もあった。
しかし、明教館の先生の前へ出ては、そんな事は一言も吐かなかった。もし一言でも吐こうものなら、お目玉を喰うのみならず、退学を命ぜられるのである。寛政年間、桑名の楽翁が当局中に漢学は程朱の主義に従うべきものと一般に規定せられてから、私の藩などでは殊にそれを遵奉していた。明教館にもそれらの明文を掲げてあるくらいだから、もしも仁斎、徂徠の異端なる説を称うるならば、一日たりともそのままには置かれなかった。
私は十六歳の時に半元服をした。今日こそ生れた時の
その頃私の
ついでだがこの薬丸にも沢山の草双紙を持っていたから、かつて私は江戸で随分見ていた草双紙を、この家で再び読むことが出来た。またこの家は家内が草双紙好きで、常に他家からも借りて読んでいたから、当時の草双紙は大概見てしまった。
それから少し話が

これで武術は何らの成績もなく経過したが、それと反対に漢学の方は漸次と味も加わり、いよいよ進歩する事になった。前にもいった由井とか錦織とか籾山とかいう朋友と経書の研究を
それから毎年正月には椿参り、柳参りという事がある。椿参りは椿の森という社で、伊予津彦の神を祀った場所で、城下からツイ三十丁ばかりの所にあった。その新年の祭日には参詣の人が少しの切れ目もなく途上に続く位であった。柳参りは城下から二里許りの山中で、祭礼当日にはなかなか人の群集したものである。そこには土地の者が大きな椀に味噌汁を盛り団子を拵えなどして、店を出していたが、ちょっと珍らしいので皆が賞翫した。その途中を少し入り込んだ所に脇が淵というがあって、昔大蛇が棲んでいたといい伝えられていた。随分樹木が茂り、岩石が聳立った下が淵なので、私等もそこへ行くと、身の毛が竪つ思いがした。
山野を跋渉する時にはいつも弁当を携えて行ったものだが、それは黄粉をまぶした握り飯であった。服装は学校へ行くと同様の袴を穿き、大小を帯びていた。この大小というのは五歳の時、上下着をして以来、外出の時には必ず帯びたものである。尤も子供の時には玩具のような大小であるが、
一体、私ども士族の日常生活といえば、頗る簡単で質素なものであった。まず、食物は邸内にある畑で作った野菜をもって菜となし、外に一年中一度に漬けてある沢庵を用いる。魚類は出入りの魚屋から買うのであるが、それも一ヶ月に
かように節約主義を取らしめたのは、当時外国人が来て国内も追々殺伐な風が起り、何時戦争が初まるかも知れぬという用意でもあったが、一方では藩侯も普通の参勤交代等の外に、臨時に特別の出張をも度々せねばならぬ事に成り行いた上に、私の藩では前にもいった如く神奈川の警衛の任に当って、砲台等をも築いていたから、いよいよ藩の費用は
この神奈川の砲台について少しお話をすると、これは万延元年に前年からの工事が落成したもので、かの有名な勝安房守が未だ麟太郎といっていた頃にそれへ頼んで設計してもらったものである。それでこの砲台は当時比較的新らしい形式に
なおこれも今日の若い人には知られぬ事であろうが、一体何万石などという大名は、その凡てを収入とするのではない。その土地に出来る総米高の称である。この総米高の十分の六を百姓が取って余の四分を藩主へ収める、即ち『四公六民』であって、幕府を初め凡ての租税法となっていた。そこで十五万石ならばその十分の四、六万石がその収入となるのであった。尤もその外に運上などといって種々の取り立てをする事があった。また藩内の城普請、道普請、川普請等の土木工事も百姓を使役する事になっていた。私の藩の松山などは、米のよく出来る所であったから、それらをいずれも米に引直して取り立てていた。そこで実際は米の総出来高の十分ノ六分以上、殆んど七分位までも年貢米として取ったものである。元来この年貢米はもっぱら国家に対して御軍役その他を勤めるために取っているので、藩主一家の生活は言わばその余りを以て弁ずるはずなのである。それから藩士へ何千石何百石と言って与えるのも、その実はヤハリ呼高の四分を与えるので、禄を貰っているのは藩主の負担した御軍役等を禄高だけその下受負をする訳なのである。して見れば藩主が、国家のために多くの費用を要する事があれば、また士族どもにおいても貰っている禄の中を削減せられるは、義務としてやむをえざる事である。その他、町人百姓等は義務ではなけれど、常に政治の下に太平の恩沢を蒙っている
さて、こんな風で私の藩地等でも日本国内が多事になると共に、藩士の江戸へ勤番することも漸次頻繁になって来た。殊に神奈川警衛については絶えず多数の人が交代せしめられていた。右の砲台の出来上った事については、幕府から賞典があって、藩主に対しては特に少将に進められ、家格等も特別の扱いを受くる事になり、築造に関係した藩士どもには、家老以下一同へ幕府から賜わり物があった。私の父も御時服二重と銀二十枚とを頂戴した。御時服というは大きな紋の付いた
なおこの神奈川警衛中一つ変事があった。それは私の藩で、一人を数人で窘めることを『たかる』といって、藩士の間にも行われていたが、或る時この警衛の勤番中に新海という者が、常に同輩から憎まれていたから、遂にたかられる事になった。即ち、同列の五人ばかりが、一日新海の室へ酒樽を持込んで、強いて酒宴を開かせ、散々に飲み散らした末そこらあたりの器具を
一体いずれの藩にあっても、士族の私闘という事は厳しく戒めてあったが、殊に私の藩では厳しかった。そして一人が抜刀した時に少しでも傷を負う事があれば、傷を負わせた者も、負わせられた者も、双方共に割腹せねばならぬということになっていた。そこで右の如く新海が抜刀して、三人の者に手傷を負わせたのであるから、四人ながら割腹せねばならぬことになった。新海をたかりに行った三人等は、さぞ後悔した事であったろう。尤も一時は新海を発狂という事にして無事に納めようとした者もあったが、当人の新海は飽くまで正気であると主張するし、また警衛場においての私闘は最も
この時新海はさすがに立派に割腹した。即ちそれを見ていた人の話を私は聞いたが、彼は腹を一文字に切ってから、尖切を咽へ刺して前へ
そこでこの事が藩地へ聞えた時、私の家でも随分と心配した。そして関係者は割腹した者の外も厳罰を受ける法になっていたので、従って宇佐美も隠居を命ぜられ家禄も百二十石を二十石減少せられ、当時男子がなかったので他より養子をさせられて、
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これも私の十六歳の時即ち文久二年に、藩主が津藩の藤堂家より養子を貰われ、それが初登城の際より、式部大輔と称せられた。そこで従来の例に依って、その補佐役として『側用達』という役が置かれ、私の父は当藩主の世子の頃その役を勤めた関係もあったから、今度もそれを命ぜらるる事になった。けれども政務の方にも必要なので、ヤハリ目付を本役として側用達は兼勤という事であった。この側用達は役の格式も大分上等に属するもので、即ち中奥筆頭格というに列した。従って、その嫡子たる私においても、それだけの待遇を受ける事になり、まず新年の年賀をする場合にも、今までの大書院ではなくて、中書院という所へ出て、その仲間も皆歴々の嫡子のみである、藩主が江戸へ参勤したり、藩地へ帰任したりするのを送迎する際にも、歴々仲間の出る所へ出られる事になったので、何だか愉快ではあったが、私どもの家は士族としてはさほどよい家柄ではないのに、父のお
この頃、国内は段々と騒がしくなって来て、朝廷からは将軍
一体、藩士においては私用の旅行は一切ならぬ事になっていたから、同じ伊予の国内で僅か三里隔る大洲領内へさえ、一歩も踏込む事は出来なかったのである。まして遠方へ旅行するなどは、勤務している者は勿論、その子弟では家族の婦人でも一切出来ぬことであった。が、ここに取のけがある。それは神仏の参詣、即ち伊勢大神宮とか、隣国の讃岐の金比羅とかへの参詣は、特に願って往復幾日かの旅程を定め旅行を許される事があった。その他父母の病気が重態で、看護を要するという場合を限り、その父母の居る地へ旅行する事が出来るので、これは勤務している者を初め、一般家族にも許されていたのである。しかし婦人は誰もした例がないが、男子にして十五歳以上にも達していれば、是非看病に行かねばならぬ位の習慣になっていた。
そこで私もいよいよこの旅行をする事になったが、前にいった十一歳で江戸から帰り、その年から翌年へかけて京都の往来をした外には久しく旅行する事もなく、またこれらの旅は父を初め家族が同行したのであるに、今度は独行せなければならぬ。今日では藩地から京都へは一日足らずに達する事も出来ようが、その頃は船の都合が好くても四、五日、もし悪ければ十日も二十日も日数が掛るのであった。そして百里以上の海陸を経ることである故、旅慣れぬ私は、何だか心細い感じがした、尤も一僕は召連れる事になっていたので、継母の里方春日に久しく出入していた男を特に雇入れた、現に家で使っている僕はまだ若年だからであった。
こんな私事に属する旅行でも、藩用の船便がある時は、願った上でそれに乗せてもらう事も出来、それなれば同行者も多く、心丈夫なのであるが、折節その便船はなかった。父が重態であるから、何でもかでも、一刻も早く出発せねばならぬのに、大阪へ向けて公私の船を出す三津浜には、差当って大阪へ赴くべき船便は私用のものさえもなかった。そこで、大阪と
ここは山中の部落で、夜は物淋しく、殊更慣れぬ宿りであるから久しく眠に就けなかった。そこで常々好きな書物か何かあれば見たいと想って宿の者に訊ねると、『こんな物がある。』といって、古本を一、二冊出してくれた。その中に三体詩の零本があったから、枕頭の灯を
その翌日は、一僕と共に私も草鞋掛で歩いて、やがて城下から十里ばかり隔った大頭宿に達した。そこから先はいよいよ他藩即ち小松領に入るので、一層心細い感を抱いた。行き行いて関の峠というへ達した。私は風邪を押していたので段々と疲労を覚えて困っていると、この日路傍に馬方がいて、『帰り馬で安いから
四日目の宿は和田浜といって、最早讃州へ入ったのであった。例の如く夕飯等も済んで寝ていると、俄に或る一方で騒がしい声が起り、また苦痛に
その翌日、起きて見ると、宿の伜が田舎角力仲間ででもあるらしい大きな肥満した身体でいながら、神棚に向って拍手して一心に礼拝していた。なんでもそれが前夜胡麻の蠅を拷問した
その翌日はまだ日の高い内に丸亀港へ着いた。この港はもっぱら金比羅詣の船が着く処で、旅人の往来も頻繁だから船問屋兼業の宿屋も数々あった。私もある宿屋に投じ、暫く休息した。これから乗る船はその頃渡海船といって、金比羅参詣の客その他商人等を乗せるが、またわれわれ如き両刀を帯した者もそれに交って乗っていた。もうここへ来ると少しも侍の権威はない。他の平民どもと打混じて船中に雑居するのである。
この渡船の例として、たとえば丸亀から大阪へいくら、広島または下ノ関へいくらと定め、その航路が順風であって僅かの日数で達しても、またはいかほど日数が掛っても、最初定めた船賃に増減はせない。そしてその間三度の食事も一切船の賄いであった。
私は既に船宿で食事をして乗ったが、夜に入っては船の蒲団を借りて寝た。僕も隣へ寝た。その周囲には知らぬ旅人が沢山寝ていた。多くは無作法な者ばかりであったから、変な感がして容易に眠る事が出来ぬ、その中に
夜が明けて聞いて見ると、それは備前の国の田ノ口という港であった。備前の国の陸地ではこの田ノ口が最も海中に突出していたから、讃岐よりの航路が短いので、多くの船はここへ着いたものである。
そこで再び船が出るかと思うと、一向に出る様子がない。最早大分風も
この田ノ口港の近傍に由賀山という寺があったが、これはカナリ信仰の多い関西の霊地で、やはり金比羅等に準じて、遠方からも参詣者が絶えなかった。従って宿屋等も相当に賑わっている。私もこの由賀山へ参詣して、いよいよ岡山城下へ向けて陸地の旅を初める事となった。
これは後に聞いた話であるが、かくの如く私どもその他の船客が上陸したのは、かねてより設けられた
岡山城下は長い町で、ちょうど五月であったから、両側の軒先に幟を立てていた。いずれも見上げるような大きな物で、中には糸を網のように編んでそれへ鯉とか人物とかを貼付けたのもあった。これは江戸にも藩地にも例のない珍らしいものであった。なおそれより進んで姫路の城下、明石の城下もやはり長い町であった。一体、街道筋に当る城下の町は通行の旅客に依て利益を得ようとするので多く一筋町になっている。また郷村へ行ってわざわざ
私は何でも四日目に兵庫港へ着いた。この間三泊したのだが、二つの宿は忘れて、加古川という宿だけを覚えている。その宿に泊っていると、按摩がやって来て、『御用はありませぬか。』という。私も風邪を押していたので身体がだらしいから一つ按摩をさせて見ようという気になって、させて見るとなかなか心地好いものであった。これが私の按摩の味を知った最初で、それからは旅行をすれば必ず按摩を呼ぶことにしている。今も按摩に対すればこの加古川の宿の事が連想されるのである。今一つ、忠臣蔵の桃井の家老でお馴染の名前だから記憶しているのである。
途中
明石の町へ来ては、ちょっと傍道へ入ると人丸の社があるのだが、参詣もせなかった。このあたりから私は次第に熱気が発して来て、もう歩くことなどは苦しいから、城下の出放れの立場で、例の荷馬を雇うて乗ることにした。この馬へ乗る時片足に非常な疼痛を覚えたので、そのまま床几の上へ転がって暫く苦悶していた。僕や他の人々は馬が噛んだのかと思って心配したがそうではなかった。足を高く揚げたのが少しく無理であったと見えて、かくの如き疼痛を発したのである。これもその時が初まりで今以て時々少しく足を無理に捻るとほぼ二、三分の間非常な痛みを発する。折々にその話をして見るが他の人にはそんな事があるというを聞かぬ。転筋などといって苦しむ事もあるがそれとも違う。けだし筋肉から神経に与える痛みであろうかとも思われる、して見れば甚だしい神経痛を瞬間だけ起すものといってもよかろう。これも明石の城下外れに遺した一つの追憶である。
有名な須磨明石の浜辺も、馬の上で熱に浮かされながら、夢うつつの間に通過した。折々前から来る人に馬から落ちそうだと注意された事もあった。さような中にも眼を引いたのは浜辺に沿うて小さな白帆が馳せ行く、それがあたかも陸を行くわれわれと伴うが如く見えたのであった。
遂に兵庫港の宿に着いた。これからは大阪へ度々船が出るから、海路を取ろうというのである。段々熱が出るので暫く蒲団を着て休んでいた。その中に船が出るというから乗ったが、この度は天気も好く風もなかったが、それだけ屋根も何もない船の上に夏の日に照らされて一層頭痛を引起したことであった。
天保山の入口から安治川を遡って中の島の藩邸へ着いた時はもう日が暮れていた。早速病を押して袴を着け、詰合の目付へ届け出た。私の父は目付でも上席で、多少権勢もあったから、その下にいる人々も私に向っては特によく労ってくれた。その時初めて会った人の中に藤野立馬というがあった。これは漢学者で近頃目付となった者であった。以前は私の藩では漢学者は余り用いられず、武芸者の方が重んぜられたが、世間が多事になり藩と藩との間にも多少外交が喧しくなったので初めて学者の必要を感じ、元は学校の教官位に止まった者が漸次政治向きの役々にも採用せらるるに至った。藤野は最初に抜擢せられた一人であった。後年この人が私に向って話したりまた書いたものを見ると、やはり私の父などが多少漢学の智識があったのでこれらの学者を登用した主唱者らしく思われる。藤野は後に藩の権大参事兼公議人となり、大学本校少博士ともなり、また修史館が出来た時にはその編輯官ともなった。号を海南といい、最初幕府の昌平塾の塾頭もして世間の人にも知られていた。文章が得意であったが実務に当る見識や才能も具えていたようである。
大阪へ着いたその晩、藩邸の人々の世話になって、夜船に乗り、翌朝伏見へ着いて或る宿屋に小憩した。前にもいった通り、松山を立って以来感冒に罹っていたが、明石を過ぐる頃から大分発熱して、この伏見に着いた時にはもう体も非常に衰弱していた。折から雨天でもあるし、とても歩行は出来ぬので、駕を雇うて京に入ることにした。この駕は、父の顔もあるから切棒にして人足も三人附けねばならぬので、駕賃も従って高くなる。それで供の僕が心配して異論を唱えるのを私はどうしても駕に乗ると命令した。かように病気をしている私と、僕とがそれらの話をしているのを、宿屋の主婦が聞いたので、頗る同情して私を慰めてくれた。
かくて私は雨を侵して三里の道を駕に乗って京都に入ったが、その頃世子の旅館は、高倉の藩邸は手狭なので、別に寺町の何とかいう寺を借り、それを東海道などの旅行の時の如く本陣と呼んでいた。そして随行の人々は別に近所の寺院を宿にしてこの本陣へ日々交代して勤めていた。因って父もこの随行者のいるある寺にいたので、私はそこへ到着したのであった。しかしその前に世子は既に江戸に行かれたので、右の寺に残っている者は父以下少数の人であった。私は着くや否父の病床に駈込んだが、その時熱をおしていた上に雨の冷気に侵されて、体が麻痺したようになり、ろくろく口も利けぬようになっていた。でも何とか少しばかり見舞を言う。父も私を見てさすがに喜んで、色々温言を与えてくれた。父の病気は幸にもう快方に向い、予後を注意するという位になっていたので、わざわざ看病に行ったけれども、私は何の用もなくなったが、それだけ安心もしたのである。
父は御目附の外御側御用達を兼務していたから、この度の如く世子が京都へ行かれて朝廷や幕府の間に多少の斡旋奔走せらるる際は、別して補佐の責任も重かったため、病気を押した結果、遂に大患にもなったのであるから、世子その他の人々もこの事については頗る心配されて、療養上の保護も厚く受けていた。従って世子が京都を引上げられる際も、特に御側医師西崎松柏という者を残してもっぱら父の療養をさせられた。また父の弟の浅井半之助というが世子の小姓(他でいう近習)をしていたのを、特に随行を免ぜられて父の看護をすることを許された。なお父が目付であったため、目付手附の卒で伊東与之右衛門というものを、その筋から病気の用弁に残されていた。この外父が身分相応の従僕も三人ばかりいたので、この寺院における父の一行だけでもなかなか多人数であった。
私は着くや否父の並びに床をとってもらい、打臥したが、右の西崎医の診察では
浅井の叔父は、その頃大分酒を飲み、父の枕頭でもちびりちびりと盃をあげるほどの、ちょっと変った気分であるし、父の病も快方に向って安心してもいたろうから、酔うとよく詩吟をした。それは山陽の天草洋や文天祥の正気歌などで、就中尤もよく吟じたのは李白の『両人対酌山花開、一杯一杯復一杯、我酔欲眠卿且去、明朝有意抱琴来。』を繰返し繰返し吟じたのは、今も私の耳に残っている。父もやかましいと思って困ったようではあったが、止めることもしなかった。この叔父は多少詩も作りまた漢学の素養もあったので、親子兄弟三人で随分そんな話もしたのであった。
藩の公用も父が少し良くなったために、京都に残っている目付や藩邸の留守居などが時々来て相談することもあって、私もわからぬながらそれを病床で傍聴したこともあった。その内父もいよいよ快癒して帰藩の旅をしてもよいということになり、私も勿論快復したので、そこでかつて京都留守居を引上る時に用いた高瀬舟をまた雇切って、伏見へ下り、伏見からは例の三十石の昼舟で大阪へ下ったのであった。西崎医は伏見まで送って来た。浅井の叔父はやはり船も同行したように記憶している。
大阪からの船は、折から藩の大きな荷船の来ているのが無かったので、別に早船を藩から雇ってそれに乗せられた。この船にも小さな屋根があって、父その他の数人もその下に寝ることは出来た。一体小形で、帆も上げるが主としては櫓を用いた。この櫓は随分早いものであった。これは大阪で雇入れたので、船頭もやはりその船に属した者ばかりである。藩の船手は一人だけ乗組んでいた。前にもいった如く藩の船なら船手も数人いて、藩地の浦々で徴発するかこに向っては頗る威張ったものであるが、この商船となると自分一人であるので、隅に小さくなっていて何事も差図などはせない、全くお客様という顔をしていたのは、誰もひそかに笑った。
この航路は天気もよく、存外早かったが、ある港で潮待をしていた時、近所に碇泊している或る船の中で味噌汁に菜葉を入れたのを喰っていたのが、私は何だか羨ましくなり
三津浜へ着くと、親族知己が出迎えに出て、例の如く行列を立て親子駕をならべて松山の邸へ戻った。門には僕が迎え内玄関には二人の祖母や、継母、弟などが待っていて、皆快復して帰ったことを喜び迎えた。就中継母は涙もろい方であったから、父や私が病後の衰弱した様を見ると、悲しさや嬉しさで、私を撫でながら涙を落したことを覚えている。
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私はもう十七歳になっていたけれど、父の不在のために元服していなかったから、体が全く快復すると共に元服をした。それには昔は烏帽子親ともいった如く、最初の剃刀をあてるものは特に目上の人を選ぶ例であったから、父の実父たる菱田の祖父がそれをしてくれた。同時に助之進という通称の外に師克という実名をつけた。これはその頃名乗といって、通称の外に元服後はなくてはならぬものであった。この方は実母の里交野から実母の姉が中島というへ嫁していた、その夫の隼太というのが明教館の助教で、私も時々教えを受けていた関係もあるから、つけてくれたのである。師克とは、父の実名が同人で易の同人卦からとったので、同じ卦の大師克相遇という爻の詞を採ったということであった。
元服をすると、最初若い者の仲間に遇えば『お似合お似合』といって額を打たれるのが習慣になっていたが、私は明教館でもまず学問の方では或る造詣をしていたし、撃剣場などでも、父の役目に封して多少憚られていたから、幸に額の痛いほど打たれたことはなかった。しかし自分には変った顔となったのが恥かしかった。この際衣服の袖の八ツ口を全く止めて総てが大人振って見えるようになるのだ。
元服と同時に撃剣の師匠橋本先生から切組格という段式を貰った。かように大人中間に入ったので明教館の漢学はいよいよ励まねばならず、また由井、錦織、籾山などの学事の交際や、郊外散歩なども相変らずしていた。しかるに私は経書や歴史などの研究は誰よりも優れていたにかかわらず、詩を作ることは全然知らなかった。かつて武知先生の塾へ手習に行っていた時、『ちと詩も作ったらよかろう、それには幼学便覧などを見るがよい。』といわれたので、その本を父に買ってもらったが、どうも面白くないので、そのままになっていたのである。しかるに他の朋友は少しは詩も出来るから、詩の話になれば、私は沈黙しなければならぬのであった。それが口惜しいので、ある日由井と二人で城西江戸山あたりを散歩した時、由井に詩はどうして作るかと問うて、そこで絶句とか律詩とか、平仄押韻などの事を知り、それからは時々自分でも作って見た。尤も多くの初学者はまず幼学便覧などにある二字三字の熟語を上下にはめて、それで五言七言の詩を作るのであるが、私はそんな既成の語を綴り合しては自分の手柄にならぬと思い、何か一つ自分のいって見たいと思う事を、字の平仄を調べた上で、自分限りの修辞を以て作ることにした。勿論漢籍は随分読んでいたので、漢語の使用はかなり出来るけれども、詩の修辞は別段なものであるから、他の詩に熟達した人から見れば、字数だけは五言や七言にはなっていても、全く詩とはならなかったのである。でも自分だけは
当時は世間の志士などが多く慷慨悲憤の心を述べるために詩を作った。彼の東湖の正気歌とか獄中作なども伝えられていたので、私も徒に花鳥風月を詠ずる時勢に非ずと思い、何か理窟ぽい議論めいた事のみを述べて、いよいよ以て変な詩ばかりを作り、而して朋友の作を軽んじ、議論をすれば食ってかかるから、詩においては殆ど敬遠主義をとられていた位であった。
この年、明教館にお選みを以て寄宿仰付らるという御沙汰の下に寄宿する者が出来た。従来も同館に寄宿生はあったがそれは希望者が先生の許可を受けて寄宿したものである。しかるに今回のは全く藩命に依って寄宿するので、それだけ名誉でもあるから、十分修業せねばならぬことになるのである。かような事の起った理由は、この頃はもう日本国中が大分騒がしくなって、朝廷幕府各藩の間に互に意見を立て議論を闘わすようなことになったので、自然学問ある人物の必要を来し、従てこれを養成するためであったのである。けれどもこれらの子弟は多く家柄もよくて、年頃にもなれば君公の小姓を勤めるような門閥にもなっていたから、長く漢学ばかりさせておいては、本人やその親も迷惑であるので、他から言草の這入ったのか、段々と抜擢されて小姓になった。そこで仰付られの寄宿生は小姓の下地だという世間の噂もあった。
私もこの年の秋の末であった。他の両三名と共にお選みを以て寄宿を仰付られた。『助さんもいよいよ御小姓の下地になった。』などとひやかされたが、しかし私は多少得意であった。
その頃の寄宿舎は講堂その他の学問所に続いて建てられて、新寮旧寮といっていた。新寮は藩命の寄宿生が出来たために新設されたのである。舎の数は旧寮五室、新寮三室、各々寮長があった。これは二人ながら七等以上を貰っていて、もう本人は一通り修業が出来ているけれども、後生の指導のため特に寄宿していたものである。この八つの各室は旧寮の方は宮、商、角、徴、羽、新寮の方は智、仁、勇、と称していた。私の入ったのは仁寮で、同室が他に二人あった。一人は寄宿生として先輩であったが、私は以前より漢学の方は自信があり、先生達にも認められていたので、先輩は勿論、先生達さえ別に恐いとは思わなかった。尤も大原武右衛門、号を
この外になお文会と詩会とがあった。これは月に各一回、これにも先生達数人が臨席して各生徒の作った詩文を批評した。そこで私もいよいよ詩を作らねばならぬ事になった。前述の如く私の詩は理窟ぽい事のみで、花鳥風月を詠むことが出来ないのであるから、この詩会には少々降参したが、当時の寄宿生は詩などもたいして出来なかったので、私の詩もそれに比してはさほど劣ったものでなかった。文会の方は到底まだ論文とか紀行文とかいうほどのものを作る生徒がないので、まず紀事といって、ある仮名書の文章一段を漢文に翻釈させるばかりであった。これは私も読書力があったから、さほどむずかしいとも思わず、紀事の成績はいつも優等で先生から賞讃されていた。詩の方とてもその頃の先生達は今日の俳句でいえば多く月並で、当時流行の尊王攘夷とか慷慨悲憤などを述べれば、それでよいと思っていた。なおこの淵源に遡れば、当時の漢学の程朱主義は、詩文を卑み経義を尊ぶことに傾いていたから、詩作の上にも、あまり詩人めいた詩らしい詩を取らなかったのである。この訳から私の詩も存外首尾が悪くはなかった。その頃父は江戸や京都あたりに旅行することが多いので、私の詩を作り始めたと聞き、山陽詩鈔を送ってくれた。それを開いてみると、歴史を種に尊王主義の慷慨を詠ったものが多いので、あたかも理窟ぽい私の頭と一致して、詩は山陽心酔者となり、益々慷慨の詩を作った。尤も山陽だけの詩の修辞が出来れば上々だが、私のは随分骨っぽくてまず東湖あたりの口真似に過ぎなかった。
私の恐れた大原観山先生は、自分だけは申分ない詩を作っていられたにかかわらず、後生を率いるにはやり慷慨的に傾いて、私の詩にも度々よいお点や批評を与えられた。そこで私も信ずる所の先生の下にいよいよこの方面を発揮することになった。だからその以来私の四十六歳で常磐会寄宿舎の監督として、寄宿生正岡子規に引きこまれて俳句を初めるまでの間、詩といえばいつもそんなもののみを作っていた。従って長い間に二千や三千の詩は出来たと思うが、今残っているものを見ると、殆ど全部月並であることに自らも驚くのである。
寄宿舎には従来年末に忘年会をする例になっていて、常には昼する詩会を夜にして、これを開いた。そこで常の詩文会では出席生徒が順番にその宅から持寄りにする豆煎りを食うのみであるが、忘年会の詩会では、いり豆の外に獣肉の汁をこしらえて飯を食うことになっていた。これらの費用も、生徒が少々ずつ醵出して、幹事が城下の魚の棚の肉店へ買いに行った。尤も猪肉は高いから鹿肉にして、
ついでにいうが、右の如く市中へ肉など買いに行くという事は、婢僕を使っている士分の家では主人は勿論家族でも多くはせなかった。もし買う事があれば、僕を遣わすか、あるいは宅に呼び寄せて買うので、呉服小間物類は別として、そうしていた。そこで私は父の役目もあるから一層この束縛に就いていたのだが、或る年忘年会の幹事に当ったので、他の幹事に率いられて肉を買いに行った。夜分とはいえ少し極り悪く感じていると、他の者が『助さんはさぞお困りであろう。』といって労わりながらも冷やかしたことがあった。
この寄宿舎は食事だけは藩命の者と
かくてその年も
一体戸主以外に嫡子は番入という事があって、幾年目かに廿五歳に達している者はこの番入を命ぜられた。而して親同様に一人前の士分となって、親が死ぬるか隠居をする||六十歳になると隠居するを許された。||までは、別に三人扶持を支給された。またこの外に不時番入といって、不時に番入を命ぜられたが、これは武芸の中段以上、学問の六等以上を、三つ得ている者に限られ、やはり嫡子のみであった。而して二、三男となれば、かような勤仕をする機会がないのみか、一生妻を娶る事も出来なかった。この事は大名旗本及諸藩士も同様であったから、これらの二、三男を冷めし喰いと呼ばれていた。しかるに今度この冷めし喰いが、妻帯とまでは行かずとも、勤仕を命ぜらるる事が、我藩に始まったので、二、三男の喜びは如何ばかりであったろうか。尤も従来二、三男といえども、他家の子のない処へは養子に行く事は出来たから、一生この冷めし喰いでいる者は割合に少なかったのではあった。
しかるに私は学問では優等生ではあったけれど、この頃の風として同年輩の者は皆或る年数を経た上一様に等を進められたから、まだ六等を貰わなかった。それに武芸の方は劣等生であったので、元服と共に切組格となり、次いで切組とはなったがまだとても中段にはなれない。しかし他の同年輩の朋友は多く武芸の方では中段であるため、段々とお雇になって行く。取残された私は人に対しても恥かしくて気が気でない。この上は撃剣の方で中段を得んものと、この年の下半期には寄宿生でいながら日々橋本の稽古場へ通って人一倍励んでみた。が、半年位の勉強だから、いつも七月と十二月の段式の昇級をさせる時が来ても、私は依然として切組に止まった。元々嫌いな武芸はもうそれだけですっかり気がくじけてその後は勉強をせなくなった。
その頃藩でもいよいよ戦備をせねばならぬことになったので、軍学をも奨励して、従来あった源家古法の野沢家と、甲州流の某家とに意を嘱して弟子を奨励せしめた。尤もこんな軍法では実用にはならぬのだけれども、藩の軍隊さえ甲冑や槍や火縄筒を用いていたのであるから、この奨励の下に両家へも入門する者が増加した。私も軍法ならぬ[#「軍法ならぬ」はママ]撃剣とは違い、漢学の応用も出来ようから、一つこれで中段を得たいと思い、既に学友の籾山は入門していたから、それにも問合せなお由井を勧めて二人で野沢へ入門した。出てみると、その先輩達が軍法に属する書物を一応読んで聞かせて、それを私どもにも読ませる。総てが仮名文で、漢籍を読む力では実にばかばかしいものであったが中段が得たいばかりに、腹の中では笑いながらもその教えを受けた。またある時は出陣式とか鎧の着初式とかいうのを古式に依って行い、門人の中の或る子供が殿様や若殿様となり、その他も種々なる役人となって、各々小具足を着けて真似事などをした。場所は藩にも奨励の際とて三の丸大書院を明渡してそこでさせた。私も小具足でその席に列し、命令通りの服役をしたことである。けれども漢学の力を応用するような機会もなく、中段は一向に貰えない。
もうその頃は同年輩の者は得意で御雇を勤め、あるいは京阪に旅行するものもあった。それに引替え私は寄宿舎の中にくすぶっていて、その中でこそ気焔も吐くが、外に出ては、嫡子でいながらひやめし喰いにも追従せられぬので、自分のみすぼらしさをつくづくと感じた。それに私は一両年前より
私の如き藩命に依る寄宿生は、多く小姓に出る閥があって、それぞれ出て行ったにかかわらず、私のみは既に足掛け三年もそのままでいる。私の家は曾祖父以来小姓に出る閥でもあるし、父は現在枢要にもいたのであるから、
小姓になると共に寄宿舎を退いた。この際初めて六等を得た。これで御雇の資格も出来たのである。しかし小姓は前にいった番入と同じ勤仕の仲間で、年々父の禄の外に三人扶持を賜って銀六枚などよりは遥かに身分もよかったのである。
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世子は当時、家茂将軍の長洲再征の御供として、京都に一隊の藩兵を率いて滞在して居られたので、私もそこへ行って勤務をすることになった。私と同時に小姓を命ぜられた者は岡部伝八郎、中村勘右衛門、野口勇三郎であったから、この四人が三津浜から大阪行の藩の船に乗り組んだ。この船は
世子の本陣は、前年と同じ寺町の或る寺であって、その供方の者どもは、いずれも近傍の寺々を借りて置かれていた。そこで私どもはその本陣へ行って到着のことを届け、同僚はじめ他の役々へも挨拶して、それから同僚どもの居る或る寺へ下がって旅装を解いて、いよいよそこへ落着くことになった。同僚は我々どもを加えて二十三、四人も居たろう。先輩では木脇兵蔵、野沢小才次、菅沼忠三郎、それから小林伊織、山本新三郎、この二人は私の従弟である。また小姓の上に立って君側の監督等をしている
翌日からいよいよ小姓の勤をするのだが、従来の例としてまず見習いということをさせられる。これは同僚の詰所の一方へ新参の者を並ばせて、何事もさせず、ただ先輩の同僚の執務するのを見せるばかりである。この時間は口をきくこともならず
小姓の勤めは、朝番というのが、六ツ時から午後の八ツ時まで、八ツ番というのが八ツ時から夕の六ツ時まで、宿番というのが六ツ時から翌朝の六ツ時まで、互に交代したものである。そうして宿番は宵のうちこそ世子も起きられているがその後寝床へ入られても、小姓は不寝番というをせねばならぬ。そこで宿番を宵前、宵後、暁前、暁後と四ツに別けて、代りやって不寝番をする。この不寝番は一人で、他に介というが一人ある。世子が夜中厠に行くといわれると、不寝番が、直に寝ている介を起して、二人でその用を勤めるのである。僅かな距離の厠でも、一人は脇差を持っていて、厠に入られた間はその外に待っている。モウ用達が済んだらしい音がすると、一人は厠の中の手洗鉢のある所まで行って、世子の手へ水を
前にもいう如く、小姓の勤めといっても随分暇があるのだから、その時は外出も勝手次第にしていた。遥か前の号で、江戸藩邸の勤番者の非常に外出の束縛を受けていた事を話したが、この頃はこんな旅行の出先では、余り束縛もなく全く出入自由である。けれども、将軍再征に関する陣中ということは誰れしも心得ているし、長だった者からも監視を加えるからさほど遊蕩に耽ける者はなかった。就中世子の側に仕えているものは、一層謹慎しているから、外へ出て酒を飲むといっても、その頃から流行出した、
この頃の京都は彼の長洲兵が、禁門に発砲した騒動で、その残党を捜索するという事から殆んど人家の大部分を焼き払った後であるので、段々と人家も出来てはいたけれど、皆粗末な板屋葺きで、所々に焼瓦の散っている空地もあった。しかし今日でいう新京極一帯の地は、小芝居から浄瑠璃、落語、その他の興行物や飲食店はなかなか盛んであった。そうして私どもの寓所よりも近かったので、誰も外出すれば、このさかり場を逍遥したものである。私は最前父が京都留守居の時こそ、家来に舁がれてしばしばここへ見物にきたのであるが、今度は文武を励む世子の側仕えをしているという自重心から、芝居浄瑠璃その他の見物は一切せなかった。ただ或る葭簀張り店で蒸し鮓を売っているのを一度食べて、美味かったから、外出すればそれを食べるのを何よりの楽みとしていた。この外は或る時人に誘われて、四条あたりで汁粉店へ入ったことが一度あるのみである。そこで或る時父に出逢った際、(親子でも勤め向が
家茂将軍の再征は、誰れも知る如く、種々なる事情があって、将軍は京阪に滞留したまま進退
そこで我々どもも世子に従って京都を出発し、伏見からは、小船で大阪へ着き、それから、藩の方から廻してある関船やその他の船に乗った。尤も君側の者は、前にいった当番をせねばならぬのだから、常に世子の関船に離れないようにしていて、この船も御召し替えという同じ型の関船であった。私は十一歳の時から既に大阪と藩地との航海をした位であるに、船には最も弱く、モウ乗ったと思うと心地が悪くなる。こういうと、それは覆没を恐るるからだという人もあるが、いかに風波のない時でもやはり酔う。あるいはブランコに乗れば一とふりでモウ胸が悪くなる。現今の汽車でもレールが悪くて半日以上も乗っているものなら、モウ食気がなくなる。一体動揺するものに乗ることが私の体には適せぬのだ。そうして左右動は、まだよいが、上下動になると最も困るのだ。そこでブランコと船とが就中閉口せざるを得ぬことになる。けれどもこの船嫌いも、航海をする一回は一回ごとに嫌いになったので、この世子の随行は最初から七回目であったから、今日ほどは弱らなかった。そこで一日だけは世子の側で、勤務もすることが出来たが、少し風波が強くなったので、翌日からは終に引籠った。同僚の日々勤務するに対してなんだか気の毒ではあったが、終に寝たままで幾日か経て藩地の三津浜へ着いた。この海路でまず伊予国の
松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤嘉明がこの城を築いて本丸やその周園の[#「周園の」はママ]櫓等が出来た頃に、会津へ転封されて、その後を蒲生家が貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家も暫時で
この二の丸は、主なる書院が、一の間、二の間、三の間となっていて、
また世子の方へ立戻るが、世子は日に一回は必ず御霊前拝というがあって、この時は、袴を着け小刀を帯び、小姓は長刀を持って附いて行く。また少々不快で横に寝たいと思わるる時は、側役を呼ばせてその事を告げられる。側役が宜しう御坐りますというと、それから小姓が
今奥といったが、世子が奥へ行かれるのは一ヶ月六回に限られていた。その他は病気があっても、表の居間で臥されるので、奥へ行く事は出来ない。そうしてこの六回も昼間ではなく、六ツ時後の夜に限られていた。またこの奥といっても世子の奥方は江戸の藩邸に居られるから、御妾のみが居るので、これは世子の東西に往来せられる際、別に奥向きの役人が引連れて他の女中と共に往来したものである。ついでにいうが、大名のお妾という者はなかなか勤めにくかった者で、それは君公に対するよりも朋輩の女中と折合いが悪く、いつも女中から、いじめられた者だ。なるほど大勢の空房を守る女の中に、君公の御恩を蒙る者が一人居るのであるから、女性の妬み心はそれに集って、何とか彼とか難癖をつけて、その結果は御暇という事にもさせるのであるが、この世子に仕えていたお妾は、私の知っては長い年でもなかったから、右の御暇のあったような話もきかなかった。尤も私どもは、このお妾を始め凡ての女中の顔を見た事もない。或る式日は奥の老女と中老のみが表の御居間へ、御礼を申上げに出て来る、その顔は見る事がある。昔の風としていかに年を取っていても白粉や臙脂をつけ、なお式日に依ては額に黛を描いている事もあった。帯も何だか左右へ翅を広げたように結んでいた。その外我々が奥の女中と出逢う事は、世子の何かの御用とか、あるいは今いった六回だけ奥へ行かれる時とかに、奥と表の間の廊下の御鈴口という所で出逢うのである。この御鈴口は常には閉めて、表裏に錠が下りて、どちらからか用があれば鈴を鳴らす。すると出掛けて行くが、小姓でも最先輩でなくてはここへ行く事は出来ない。そして用事を話し合うといっても、お鈴口の敷居を互に越す事は出来ない。敷居を隔てて手を突いて話し合う。世子を奥へ送る時でもこの御鈴口限りで、小姓は例の持っている小刀を女中に渡す。それと共に世子は奥へ行かれる。お鈴口はチャリンと錠が下りる。これもなんだか囚人の受取渡しでもするような有様であったのだ。
他の藩でもそうであろうが、私の藩で家老と他の藩士とは、非常の等差のあったもので、家老はその他の藩士を何役であろうが呼び捨てにする。藩士は某様といって殆んど君公に次いだ敬礼をする、途中で出逢っても、下駄を穿いている時はそれを脱いで地上に
前にもいったが、世子は文武の修業をしられていたので、武芸では私と同じ橋本新刀流の門であったから、私も御相手という命を蒙ったが、例の下手である故一度も世子との仕合はせなかった。これに反し、漢学講義とか輪講とかいう際は私も加わって相応に口をきいた。また詩会なども時々あって、それは東野の別荘で催おさるる事もあって、ちょっとした酒肴を頂く事もあった。平常でもお次ぎでは、側役を始め我々小姓も、読書することを許されていた。漢文、仮名物、その力に応じて読んだもので、少々は声を出して読むことも許された。以上は多く私の直接に仕えた世子についての様子だが、藩主といえども大概同様であって、ただ横に寝る時側役の許可を得るに及ばぬのと、奥入りを日々することの自由が異っていただけである。
そこで私も帰藩後は右の如き小姓の勤めをして、漸々とその儀式に馴れるのみならず、世子にも度々詞を交されて親しくなって、別に怖いという感じもなくなった。また私は年齢に比しては世間知らずの青年であったから、世子に対しても随分率直な答えなどをするので、その点は世子にもかえって愛せられていたようであった。
いよいよ長防討入りという事で、幕府から軍監を差下さるるようになった。元治甲子の初度の征伐は藩主が出陣して、領内の神ノ浦まで本陣を据えられたのであるが、毛利家が恭順したので、間もなく帰陣せられた。そこでこの度は世子が藩主に代って出陣したいと幕布に願い、許可を得られたので、まず三津浜まで出向して本陣をすえられた。私もその際家族と別盃を酌んでいよいよ生死の別れをした。三津浜では藩の船番所を世子の御座所となし、我々は町の人家を徴発して下宿した。これも今日の俳句生活と一つの関係だが、私の下宿は木綿糸の糸車を造る老人夫婦の小さな家であって、この老人は発句を作って何とかの俳号も持っていた。何か書物でも見せろといった時、発句で高点を取った巻などを見せた。なお小さな床には鶯居の名でこの老人へ宛てた手紙を懸軸にしていた。この鶯居は藩の一番家老の奥平弾正という人のことで、かなり発句も出来て藩以外の宗匠達とも交際をしていた。今松山に居る野間叟柳氏などもこの人の門人だと聞いている。かような御家老の手紙を、糸車造り風情が貰ったのだから頗る自慢をして床に懸けて、我々にも見せていたものである。がそれらの発句は私には何らも趣味を
長防へ討入るといっても、海を隔てているから、船でなければならない。もうこの頃は大砲の術も漸々発達しているので今までの兵船たる関船では間に合わない。そこで兼て藩から幕府に願って、軍艦を借用したいといった結果、小形ながら蒸汽船二艘をさし越された。勿論その艦長や操縦者は幕府人が乗り組んでいた。この軍艦に藩の軍隊の一の手二の手、これはまだ旧式の隊であるが、外に西洋式の新選隊というのをこの軍艦に乗込ませ、まだ余った兵は藩の和船に乗込ませて、防州大島郡というへ向わせた。この島は敵も少し油断していて守りの兵もさほど
この時私も生れて始めて戦場に向うのだという決心をした。この慶応二年さえも我藩の軍隊は、源家古法と甲州流を折衷した旧式編制であって、弓隊こそ廃したれ、銃隊の足軽は丸玉の火縄筒である。士分以上は撰士隊と称して槍を持っていた。そうして身にはやはり甲冑を着け、それぞれに指物を背にした。で、私もやはり具足櫃に甲冑その他を入れ、槍も一本携えていた。かつていった如く下手ながら撃剣は少々稽古していたなれども、槍は少しも習っていない。その習わぬ槍を揮って世子の御馬前を警護して敵と戦わんとしたのは、今から思えば馬鹿々々しい次第である。されどその時は何とも思わず、敵に逢ったら力限り働くつもりで、まさか打ち勝つとも確信がなかったが、敵に討たれて死ぬという事も別段怖くもなかった。この時は十九歳であったが、今の兵隊が二十歳の丁年で従軍して敵に対って別に怖れもせず、勇往奮闘する心理状態の如きも、これから推すと不思議はないのだ。尤も私も少しは戦場の練習をして置きたいと思って、まだ出陣せないで宅にいた頃、座敷で甲冑を着て抜身の槍を手で扱いて見た事があった。持ち馴れぬ槍とて随分重かった。それでまさかの段には槍を捨てて抜刀して切り込もうという考えもしていた。何しろ戦場に向う覚悟といっても、経験のない者は、誰れも私位の考えでいたのが多かったろう。
しかるに出先の軍隊から急報があって、上下一同に色を変じたのは、大島郡の敗報である。後で聞けば、長州方には大島郡に幕布方が討ち入ったと聞いたので、それは捨て置けぬといって、有名な高杉晋作などが軍隊を率いて密に海路を経て島の後へ渡った。それを我軍は少しも知らず、全島を占領したものと思って、三日目には一の手、二の手、新選隊が三方から源明峠その他の山頂をさして登って行った。すると頂上に敵が現れて突然小銃を乱射した。我兵は不意を討たれたので吃驚した上に、地理も悪いから、一
この幕府の長防再征は、元々騎虎の勢いなので、寄せ手の兵はいずれの口もさほど士気が振っていなかったのだから、
その後大分日が経ったが、幕軍は少しも盛り返えす様子もなく、従って我藩の軍隊もいよいよ惰気を生じた。けれども幕府から出陣の命は蒙っているので、僅に一里半隔てた城下ながら、世子も帰ることが出来ない。そこで、陣移しの名儀で城下から半里の西山の麓の辻、沢という両村へ引揚げて、庄屋の宅を本陣とした。我々どもも附近の人家を徴発して下宿した。そうして今まで近島にいた軍隊は三津浜まで引揚げた。しかのみならず今度は反対に長州兵が攻めて来るかも知れぬというので、海岸の要所要所へ俄造りの砲台を構えて、新古取交ぜの大砲を据え付けて、幾らかの兵を配置した。尤も三津浜には早くより不充分ながら砲台が出来ていて、三十六
そのうち家茂将軍は薨去せられるし、孝明天皇も崩御遊ばされたので、休兵という達しがあったから、世子も終に城下へ引揚げられて、二の丸へ帰住せられた。そうして我々も自宅へ帰って再び家族に対面した。けれども自分も
既に休兵の命はあったけれど、長州の態度は少しも判らぬから、何時攻めて来るかも知れぬので、軍備は調べて置かねばならぬ。ある日世子は二の丸から本丸へかけての櫓々の武器の検査された。その際天守閣に登られて、私もお供して初めてこの天主閣の眺望をしたのである。最上層には遠祖の菅原道真即ち天満宮が祀ってある。その他にも武器などが置かれてあったが、この天主閣の下は石造の穴蔵のような物になっていた。外へ出るには鉄の
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翌慶応三年正月、長州の使者として林半七が来たので、我藩では、三津浜に迎えて応接した。その使命は、第一に俘虜の交換、第二に我藩の向背を尋ねるというのであった。俘虜というと仰山だが、前年大島討入の際、彼の士分一名を捕え帰った。また我藩では世子の小姓の菅沼忠三郎というが内命を
世子が帰藩せられて、幕府の指令を一般に告示されて、いよいよ正式の使者を長州へ差立てらるる事になったが、それには番頭の津田十郎兵衛というが家老代理として命ぜられ、それに目付の藤野立馬久松静馬河東喜一郎が同行した。勿論これは大島討入の際の挨拶というのみであったが、先方からは有名なる木戸準一郎が出て来て、防州宮市において応接した。而して木戸は、長藩の最初からの勤王並に奉勅の始末を縷々弁じ、是非貴藩にも連合せられたいと迫った。けれども我藩の使者は幕府の指令もあるから、この盟約は断然謝絶した。そこで彼は不満足でなお種々問答もあったが、結局不得要領な談判で、我藩の使者は引取った。従てこれだけではまだ長州方面の警戒は解けないのであるが、前にもいう如く、彼には既に薩州と連合して大なる企ても進行していたのであるから、その後は何事もなく経過した。
しかるに我藩内では、この長州に対する事件からいわゆる正義派また過激派はいよいよ燃え立って、この際因循派の当局者を厳罰せねばならぬということになり、それに世子の側用達の戸塚助左衛門なども内より
これは少し前の出来事だが、私と同じ連坐して目付願取付となった野口勇三郎と二人は、藩から洋学修行として江戸表へ行けとの命があった。窃に聞けば、これは世子の思召で、私どもの才を惜み、父の責罰中ではあれど、特にこの恩命を下されたのであるらしい。また多少は久しく輔佐となっていた父に対しても、間接に慰藉されるお心でもあったろうか。さすれば私はこれに対して大に奮発し、この学を十分研究すべきはずであったが、漢学仕込みの私の頭は何だかまだ夷狄の学問を忌み嫌い、その他家庭の事情にもほだされたので、遂に平常信仰する彼の大原先生に縋って、右のありがたい恩命を辞してしまった。そういうと可笑しいが、学才には富む私だから、この慶応時代から外国の学問をしていたら、爾来かなりの大家にはなってはいよう。しかしそのため今日の俳人鳴雪とはなっているかどうか。呵々。
少し遡っていうが、藩内の紛議やその他世間の状態も段々と劇変するので、藩主の温和なる性質では、もうそれらに直接することが厭わしくなられた。これに反して世子は、勇敢の気性で、進んで難局にも当りたいという風であったから、遂に藩主は世子に世を譲りたいと思い立たれその旨を幕府に出願された。そして、それが聞届けになるべき様子が知れたので、
明くれば慶応四年即ち明治元年正月は、早々から彼の伏見の戦争が始まった。私は前にいう如く、父と共に藩地に淋しく住んでいたが、前年末より再び明教館の寄宿を命ぜられて、以前の如く漢学を勉強することになっていた。忘れもせない新年の六日に京都から右の伏見の事変の急報があったので、我藩は上下
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いよいよわが藩が土州に向って恭順を表した上は、新藩主及び前藩主は、松山城北の常真寺へ退居して、謹慎せられ、土州軍総督の深尾左馬之助は軍隊を率いて松山城の三の丸へ入込んだ。そうして藩主の代理たる家老その他の役人で、城郭軍器また凡ての土地人民を、土州に差出すことになった。そこで私の宅は堀の内といって、この三の丸近傍にも多くの士族屋敷があった、その一に住んでいたから、他の人々と共に立退きをせねばならぬことになって、二番町というに継母の里の春日が住んでいたから、それへ同居する事になった。この藩主が立退かれた際だが、前にもいった過激党はまだ憤慨の気が納まらず、松山城で反抗することは出来ないまでも、遠く江戸に居る会桑軍に投じて、共に薩長と戦おうという考で、それには新藩主を擁立し同志者と共に海路江戸へ廻ろうということに内決していた。すると一方の恭順派はそれを知ったので、さような事があっては折角土州の勧誘に応じた詮もない、つまり藩の存亡にも拘るから、あくまで反対党を阻止せねばならぬ、それには遂に兵器に訴えてもよいとこれも内々準備していた。尤も過激党の江戸脱走は、藩に一隻の汽船があったから、それに乗込む考であったのだがちょうど長州軍が船で三津浜まで来たので、その汽船も分捕せられてしまった。依てこの脱走も挫折して事止みとなったが、その後、徳川家初め他の藩々も段々と恭順を表された形勢からいえば、これは我藩に取っては幸であったのだ。
土州軍は前にもいった如き、内々の好意もあって、形式的にこそ我藩地を占領したのであるけれど、実際においてはただ三の丸に軍隊を繰込んだまでで、その他は何事にも手を着けない。それで藩の政庁は従来通り役々が出勤して事務を執る。その場所は明教館の学問所が広かったからそこを使用していた。また藩主父子の側仕えをする人々も従来の如く常真寺へ代りあって詰めた。しかも藩主の御機嫌を伺うといって一般の藩士も日々常真寺へ出頭した。けれども余り多勢一緒に行くのは土州軍に対し憚かれという内諭もあったので、その心得で三々五々目立たぬように行ったものである。そうして藩主のみならず臣下一同恭順しているのであるから、外出の際は必ず裃を着た。なお同じ恭順でも高松藩では藩士一同脱刀したという事だが、我藩には皆大小を佩びていた。
しかるに、一方には長州軍が三津へ来ていたから、土州軍への申込みに、一応松山藩主の謹慎の様子を見届けたい、また城郭等も見分したいとの事であった。そこで土州軍はこれまで我藩へ用捨して、そんな事もせなかったのだが、長州軍へ対する関係から、俄にその総督が常真寺へ来て藩主父子に対面をするし、また本丸二の丸を見聞した。続いて長州総督堅田大和及び副たる杉孫七郎が常真寺へ来ることになった。以前は土州軍からはこの常真寺へも用捨して警護兵をつけていなかったのだが、長州へ対するため、この日から一小隊の警護兵を付けることになった。この小隊長は名を何とかいったが、今向うから長州軍の総督が、これも一小隊ばかりの兵を率いて来るのを見て、我土州で固めている区域へは長州兵は一歩も踏込まさぬもしも踏込むなら打払えといって、隊兵に玉込めをさした。その事が長州へも知れたので、長州の一小隊は遥か隔った所に止め、総督その他が少数の人数で常真寺へ来た。この土州の小隊長の挙動は、後に聞いて土州の総督も賞美しまた我々松山人も頗る痛快に感じたのであった。そこで常真寺の藩主側にあっては、何しろ官軍の総督が来るというので、それぞれ準備をして、一体ならば藩主定昭公は寺の門前へでも出迎われねばならぬのであるが、そこは病気といって、礼服を着用して書院の下の間まで出られて、上の間に通った堅田総督に対し朝廷向よろしくお
かく我藩も恭順を表せられた上は、藩士内に党派などがあっては土州長州へ対して聞えも宜しからぬと、去年責罰された家老初めも総てそれを赦されて、あるいは役付をする事にもなった。そこで私の父は勘定奉行といって、財政の主任になった。また私も再び小姓を申付けられて、今度は前藩主勝成公の側付となった。つまらぬ事だが、私は小姓の再勤であるにもかかわらず、今度は総ての人の末席となった。それは父たる君公の側付の小姓が子たる君公の側付となれば、前の座席をそのまま持込むのであるが、子たる君公の側付が父たる君公の側付となれば、再勤と否とにかかわらず皆末席となるのが慣例なのである。そこで私は遥か後に小姓となった者よりも下に付いて働くことが何だか口惜しいように思った。けれどもこの小姓再勤を、私を愛した祖母に聞かせたら、どの位喜ぶかも知れぬのだに、去年亡くなったのを残念に思った。
右の如く恭順中であるにかかわらず、藩庁は藩士の進退をするし、また家禄等も、最前いった人数扶持の制法で渡した。それから土州長州両軍の滞在費は総て我藩で支弁せねばならぬ、これがなかなかの物入りであった。また各郡の民政等は既に土州が占領したる上は、土州で扱わねばならぬのだけれど、やはり我藩の代官役に扱わせていた。ただ処々に立ててあった高札だけは、松山藩とあるのを、土州藩と改めてしまった。そうして松山城下は勿論土州の直接管理であったが、なかなか軍規は厳粛、少しも町方を凌虐するようなことはなかった。或る時土州の足軽位な軽輩の者が、古町の呉服屋で買物をして、僅の金を与えて立去り、即ち押買いをしたことがあったが総督はこれを聞くと直ちに斬罪に行って、その首四個を北の城門の外の濠端に晒した。
しかるに長州軍は我藩地へ来たは来たものの、土州に先を越されているから、僅に三津浜と総ての島方を占領したまでである。そうして我藩の士民も、特に土州には親しむが、長州は
そこで我藩は既に恭順を表した上は一日も早く朝廷の御沙汰のあるのを待っている。また段々と聞く所では、徳川家始めその他の朝敵となった藩々も、奥羽をかけていずれも恭順を表することになったので、最早佐幕主義貫徹の希望もなくなるし、この上はひたすら藩の安全を図る外はないという事に多くの人心が成行いた。しかるに突然朝廷から土州への御沙汰では、『定昭儀は賊徒要路の職に罷在逆謀に組し候罪不軽』とあって、まだなかなか寛典を蒙りそうな様子でない。この事が知れると我藩の温和党は俄に騒ぎ立って、この上は藩主に代って当時大阪に供をしていた家老の菅と鈴木とに割腹させ、その首を差出して申訳させねばなるまいということになって両人の家老の宅へ詰かけ、もし聞入れねば刺殺そうという事まで申合った。すると過激党の側では、そんな卑屈な事をするには及ばぬ、家老二人はどこまでも殺させないといって、壮士等はその邸を護衛して、強いて押掛けて来れば切払うということになったが、藩主始め藩庁ではそんな事の起るのを心配しまた右の朝廷の御沙汰に賊徒要路の職とあるのは、彼の老中上席を勤めていられたものとの誤認であるから、それを弁解されて、その当時既に辞職していらるる事実を明にしたなら、かかる厳重なる御沙汰も自然に取消さりょうと考えて、この事を土州総督へも十分に通告したので、それを山内容堂公等にも十分斡旋せられた結果、五月下旬を以て改めて寛典の御沙汰となって、定昭公は蟄居を命ぜられ、勝成公に再勤を命ぜられて、十五万石はそのまま下さるる事になった。尤も勤王の実効として軍費金十五万円を献納せよという別の御沙汰もあった。そこで我藩上下一同まず愁眉を開いたことである。
遡っていうが、この以前藩主の奥方と祖母君は江戸の邸にいられたのを、士州総督へ出願の上藩地へ帰らるることになり外国船二隻を借受けて海路より帰着せられて、これは千秋寺という寺に
いよいよ我藩も元の如くなったので、土州長州の両軍もそれぞれ退去するし、再勤された藩主勝成公は三の丸へ帰任せられた。そうして定昭公は東野の吟松庵というお茶屋へ移られ、ここで謹慎せられることになった。また私の一家も堀の内の宅へ帰住したが、土州の軍隊の号令厳粛であったとはいえ、随分汚なく住み荒して、私どもの残して置いた調度万端は散々に取り扱って、有る物もあったが無いものも多かった。
この六月私は妻を娶った。これは継母の里の春日八郎兵衛の長女で、即ち継母の姪に当るもので、予てより約束が調っていたのだけれども、父の譴責やまた我藩の事変のため延引していたのを、もう憚ることもないから婚儀を挙げたのであった。そうして間もなく私は小姓勤務のまま明教館へ寄宿を命ぜられて、また往年の如く学生となった。
この頃朝廷には諸藩の重役の職名を一定されて、執政参政というものを置かれたので、我藩でも家老は総て執政となり、参政に当る職はこれまで無いのだから、新に抜摘を以て命ぜられることになり、私の父も参政となった。また父と反対党とも目されていた戸塚助左衛門も同職となった。この戸塚は去年要路者排斥建議の殆ど主謀であったから、行為不穏というのでこれも要路者の責罰と共に責罰されて目付願取次となっていたが、その頃或る夜白衣のままで私の宅へ来て、父とは旧同僚でもあった辺から、一個人としての打解けた談をした。父ももとよりそこは同じ襟懐だから、長い時間膝を交えて談し合った。ここらはちょっと面白い交際であったのだが、
この曾祖母は向井氏で藩では有名な軍学者三鶴の孫だが、戸主たる兄が或る不心得から家名断絶となって、実兄の竹村家に養われ、そこから私の家へ嫁したのである。しかるに向井家断絶より六十余年後、ちょうど私が十一歳で江戸から藩地へ帰った時、右の兄なる人が八十以上の高齢でまだ生きていて、三津浜に潜かに住んでいたが、絶えて久しき妹に面会がしたいと人を以て申越した。すると曾祖母は、『家名を汚した人には生前に逢う心がない。』と毅然として拒絶した。女ながらこんな気性の人で、亡くなったのは八十九歳、それまで小病もなく、時々煩うのは溜飲位であった。而してその終りは全くの老衰で、何の苦痛もなく両手を胸上に合して眠るが如く
この年の末に私は小姓そのままで、経学修行として京都へ行けとの命があった。而して明教館からも七等に進められた。そこで私はいよいよ藩地外で漢学生々活をすることになったので勇ましく出発した。この頃従来松山藩へ幕府から与えている領地家督相続の証として黒印ある書面(即ち将軍の御判物)悉皆を朝廷へ納付せよとの御沙汰があったので、それを入れたる長持を私がこの京都行のついでを以て保護して行けとの命を受けた。そこで出発の際それを先へ立てて、北の城門を出ようとすると、忽ち番所の詰合の者が下座と呼んで一同で平伏するのみならず、常には閉じてある大扉を左右に開いて私どもを通した。これは徳川時代に御判物に対する礼式で今もそれを遣ったのだが、私は初めてこんな待遇に遇ったので、少々面喰ったが、また意気揚々たる感じもした。この旅行は別条もなくて京都へ達し、まず御判物を出張の藩吏へ渡して、私は従弟の山本新三郎の旅宿へ同寓した。当時、藩主勝成公は本領安堵の御礼として、上京されていて、山本は目付となっていたが、これも諸藩一定の職制を定められて公議人公用人という、その公用人をも兼ねていた。この役はもっぱら朝廷向やまた各藩に往来して、藩の朝廷に対する公務を弁ずる者である。そうして段々と山本の話を聞くと、私のこの度経学修業として京都へ来ることになったのは、他の一面には、諸藩の情勢にも注意して何か変った事があれば藩の当局へ報知することをも心得ていねばならぬのであった。そこでそれの便宜を得るには、勤王藩の首たる薩州邸へ入込むのがよいというので、幸にその邸内に水本保太郎というが漢学塾を開いていて、それは我藩の藤野立馬と昌平塾の同窓であるし、また山本もこの頃はそこへしばしば往来して親しくなっているから、それへ既に頼んだということで、私はいよいよこの水本塾へ入ることになった。この山本の旅宿は京都の東北の吉田神社の傍で、藩主の本陣は真如堂であったから、私もあちこち往来して、また藩主にも拝謁することを得た。そうしてこの度入るべき薩州邸は相国寺に隣してかなり広い建物であった。
私は薩州邸の水本塾へ入ったが、同塾生は過半薩州人で、他に高松藩とか、鯖江藩とか、肥前鹿島藩とかの人もいた。塾長は小牧善次郎で、後昌業といって、現今は御侍講を勤めて誰れも知る人だ。また宮内省で久しく要路に居た長崎省吾も当時は助八郎といっていた。また海軍中将だかにまで進んだ黒岡帯刀もいた。塾生で漢学の力ある人では、右の小牧は勿論白男川勇次郎というがあり、詩をよくする方では、伊地知とか吉国とかいう人もあって、私も親しくなるにつれて応酬をした。この時代の事であるから、塾生一同はあまり勉強をしない。多くはよそで酒を飲んで帰って来て大声で吟声を発しまた時世論をする。それから夜更けて戻った者が、既に寝ている者を起して、雑炊会を始める。それは
一体牛肉を食うということは昔は無かったので、江戸でこそ
水本先生は酒を飲むから酒楼に行くことも度々で、酔って帰ることも多かったが、また塾生を同行することもあった。それは多く三本木の月波楼とかいうので、私も連れられて行って、いわゆる三本木芸子にも出合った。この頃私は七言律詩を二十ばかりも作って、紅楼の興味や何かを聞かじり半分に詠って、小牧始めの同塾生にも示し、また我藩の山本とか、医者で詩をよくした天岸桝玄などにも見せた。これがそもそも私の漢詩で多少の艶態を詠った始めである。
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段々と話が今日現存の人にも及ぶから今回より人名には多く敬語を加えることにした。
私は久しぶりで京都に来たのであるから、常に好きな芝居を見ることも楽んでいた一ツである。そこで折節四条の南座が芝居をやっているので、或る日行って見たが、ちょっと一事余計な話しを挟んで置くのだが、この頃水本塾へ時々遊びに来る人に矢沢某氏というがあって、薩州での旧水本門人らしいが、その後奥羽征討軍の参謀部に従事してそれも今は解任せられていた。この人は最も詩才に富んでかつて桜を詠じたものに『薄命能延旬日命納言姓氏冒斯花、云云』の七律を作って同塾でも称賛を得たそうだ。しかるに輓近琵琶歌にこの詩を入れて作者は新井白石だといっている。これは白石の雪の詩の七律と間違ったもので、その体裁が全く同様なからである。尤も矢沢の桜の詩も無論それに倣ったには相違ない。
新年早々東京では旧幕府の諸学校を再興されて、漢学専門の昌平塾を昌平学校と称してそれに国学を併せて教授する校舎が出来た。その他以前の開成所を開成学校と称して洋学を教授し、医学所を医学校と称して医学を教授する所となった。そこで水本先生は、昌平学校の一等教授を朝廷から命ぜられて、俄に東京へ行かるることになったので、われわれどもは頗る失望した。尤もその代りとして
京都の話しはまずこれだけで、われわれもいよいよ東京へ出発することになったが、同行者は多く薩州人で、他に一、二の他藩人もいた。而して塾長の小牧善次郎氏はこれも史官を拝命して陛下の御東幸に供奉することになったので、あとの塾は重野先生と三、四の学生のみが残ってガランと淋しくなった。私は安政年間十一歳で藩地へ帰った以来、再び見る江戸否東京であるから
東京へ着した晩は、二本榎の水本先生の母人の家へ他の薩州の人々と共に泊めてもらった。朝起きて見ると、もうその母人は大勢の男女の教場に臨んで、手習の指南や、漢籍の素読を高声に授けていられた。聞く所では水本先生はその尊父の代から江戸の漢学者で、その配遇も女ながらに漢学を修めていられた。その後尊父は亡くなられ、先生は薩州藩に聘用せられて、遂に鹿児島へ行って藩校の漢学の指導をせられていた。そうしてこの母人はやはり江戸に残って、そのまま家塾で幼年男女の教授をせられていたのであるそうな。一見してもなかなか気丈な婆さんだと見えた。その日水本先生はその頃有名な古川端の狐鰻へ学問上の或る知人を招かるるので、私どもにも同行せよとのことで、そこへ行って御馳走になった。客人は肥前人であったが、席上で七言律詩を作って先生に示した。先生は直ちに次韻して唐紙へ揮毫せられた。そして私へも次韻せよとの事であったが、少し臆したのか出来ずと了った。
その頃我が藩の屋敷は、愛宕下の方の上屋敷は朝敵となった際に没収されたまま返されず、別に小石川見附内の高松の中屋敷を代りに下さった。しかし三田の中屋敷は元の如く下されたのでそこに留守居役や公儀人公用人なども住んでいた。公儀人は藤野正啓氏(海南)、公用人は梯渡氏、留守居は佃杢氏であった。私は藤野氏の寓所へ行って著京を届けて、そのまま泊めてもらった。私は東京へ来ればまず芝居が見たいので、その事を話すと、藤野氏もちょうど見たいと思っている所だと言われて、翌日猿若三丁目の守田座を見物することになった。この座の座頭は沢村
こんな見物ばかりしちゃいられない、いよいよ昌平学校へ入らねばならぬのだからその手続をしてもらって、間もなく許可されて学生となり入寮した。京都より同行の薩州その他の書生も前後して入寮したので、これら知っている顔とは朝夕打寄って話などもするから別に心細くもなかった。この昌平学校へ段々入って来た寮生でその後世間に知られている人を少しばかり挙げると前にもいったが、薩州藩では黒岡帯刀氏長崎省吾氏の外、川島醇氏西徳次郎氏山本権兵衛氏、大村藩では岩崎小次郎氏、肥前藩では松田正久氏中島盛有氏(当時土山藤次郎)、土州では谷新助氏奥宮正治氏、中村藩では相馬永胤氏、久留米藩では高橋二郎氏、富山藩では磯部四郎氏、高鍋藩では堤長発氏、処士では色川圀士氏村岡良弼氏などである。なお公家の子弟に八氏大名の子弟にも八氏あった。それから私の知っている所で、文章家では肥前藩の於保武十氏中村藩の藤田九万氏、詩家では小田原藩の村上珍休氏などであった。この頃はいずれの藩からも昌平学校が開けたというので、入寮生が頻りにふえる。そこで、幕府以来の旧寮の外にまた新寮が出来て、前後の通計では入寮生が四百人以上にもなったと聞いている。かく多人数が居るにかかわらず、余り勉強はせない。その頃の教官は漢学では水本先生の一等教授の外吉野立蔵氏が二等教授私の藩の藤野正啓氏が三等教授、国学では平田
その頃の在寮生中にも全く勉強家がないのでもない。私の寮の近傍に居たものでは、前にいった藤田九万氏高橋二郎氏などは随分勉強していたようだ。また文章家の於保武十氏とか詩人で村上珍休氏等とも往来してよく話し合った。また岩崎小次郎氏は大村の藩兵に加って奥羽から帰りだちというので、なかなかの元気で、誰かの書いた和文のナポレオン伝を高声に読んでいたのが今も耳に残っている。また高知の雨宮真澄氏谷新助氏等は随分乱暴家であって、就中谷氏は短刀を抜いて少年を脅迫したことなどもあった。その他戦争戻りの人も少なくなかったが、就中薩州人が多くて、それは皆散髪であったから頗る目に立った。何とかいった人は片腕を失っていた。要するに戦争上りのことでもあるから、人気は一般に荒っぽく、
芝居では中村座の座頭が以前市村羽左衛門といった尾上菊五郎、立女形が坂東三津五郎、書出は忘れた。市村座の座頭は後に市川の九代目となった河原崎権之助、立女形は後に半四郎を継いだ岩井紫若、ここも書出は忘れた。守田座は前にいった通り。それから中村芝翫とか坂東彦三郎とかは、あちらこちらと助けに来て、これは特待の中軸になっていた。なお中村宗十郎とか、大谷友右衛門とか中村翫雀とか、東京へ来ては同姓名のあるのを避けた高砂屋福助なども、絶えず大阪から来て、これは客座に名を出していた。この年の七月であった、沢村田之助は久しく引籠っていたのが珍しく出勤したが、もう両足とも切っていたので、痛みを忍びながら寝たまま三勝半七の三勝が病中の所だとして、左団次の半七を相手に一幕だけ顔を見せた。その後またまた引籠ってしまった。その頃の芝居は随分舞台で猥褻な情態をして、それで見物の興を引く弊もあったが、その筋からも何らの干渉をせなかった。一体に、戦争上りで努めて人心を温和に導くという政策ででもあったのか、太政大臣の三条公さえも、維新の最初は吉原の金瓶楼あたりへ通われたという話しもあった。また山内容堂公は殊に頗る遊蕩を試みられたが、これは維新の際の或る不平を漏らされたものらしい。その他各藩の公議人とか公用人とかいうものは、互に交際と称し公然と遊蕩したものである。また高下にかかわらず官吏は今まで下層の生活をしていたものが俄に多くの月給を取るので、総てが奢り散らしたものである。もう百両前後の月給を取る内には、書生の二、三人を置き学資を給して学問をさせていた位である。
この明治二年に諸藩一同は版籍の奉還という事になって、旧藩主は改めて知事を命ぜられ、執政参政等を大少参事としてなお正権の等差があった。そこで私の父も松山藩権大参事となり、これらと共に藩政にも改革が行われ、その結果私も小姓の役が解けて、干城隊(後に平士上隊と改名)に入ることとなった。尤も留学の命はそのままなのだ。それからこの頃弟の薬丸へ養子へ行っている大之丞が、大学南校の貢進生として藩地より出て来たので、時々昌平寮へも来て面会した。また芝居見物にも随分伴った。
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前にいったような次第で、私は多少見ぬ書も渉猟して勉強もしたが、わざわざ東京の大学に来ているというほどの益もなく、一面には芝居の見物やその他で遊び散らしているという風であった。そこで同郷の学友中にも、こんな事をして日を消しているのは無益だという説が起って、藩の出張員に向って、いっそ学問修業の命をやめて帰藩させてもらいたいといい出し、その許可を得ていよいよ東京を出発する事になった。尤も錦織左馬太郎は、先へ帰ったので、残っている由井弁三郎、山川八弥、杉浦慎一郎と共に私は三月朔日に東京を出発する事になった。そうしてこの帰途は東海道も陳腐だから、木曾海道を通って、それから伊勢参宮や奈良見物をして見ようといい合ったので、発足の日は板橋駅に泊り、それから段々と予定の道中をした。まだ記憶に残っているのは、妙義山が左り手に当って突兀と聳えていた事と、
その頃東京では段々と脱刀とか散髪とかいう事が始まって、後には廃刀令というのも出たが、まだ最初は随意にやりたい者がやったので、その事が藩地へも知れたから、私は同僚の二、三と共に直に散髪になった。刀の方はその頃の事とて少し、用心もせねばならぬから一刀だけを帯ぶる事にした。この一刀も東京あたりでその頃流行したもので、これまでの大小の、大よりも少し短かくして、その飾りは、奢ったものは純金にし、次は純銀にした。私の同僚でも長屋氏は金があったから、東京へ出張して帰った時金刀を閃かしていたが、私は貧乏だから、やっと銀刀を造ってその真似をした。
この藩政改革に引続いて藩知事公新邸が出来た。これまで代々の藩主は三の丸に住まわれて、或る点においては公私混合という風であったが、朝廷からの命令で、藩主の暮し向きは、藩の収入十分の一を下附せらるるという事になり、その暮し向きの変更からも別に居宅を構えらるるの必要が生じて、即ち知事の官宅という姿でかような新邸が出来たのである。この新邸落成の祝宴には参事一同をも招き酒宴を開かれたが、以前は家老でさえも膝行して盃を賜わるという風であったのを、そんな虚礼はやめねばならぬといって、知事公と同席で盃の献酬などもして、酔いが回ると雑談もするので、君公に近侍の家職の人達などは、いささか眉を蹙めたが私などは反動的に随分平民主義の態度を執ったのが今から思えば可笑しい。
その少し以前藩庁の建っていた三の丸が焼けた。これは大賄所という支度を司る役所の引けた後小使部屋から出火したので、既に私どもは退庁していたが、聞くと直に馳け付けたけれど、火勢が盛んで消防どころか、殆ど何一つ出す事が出来なかった。それで松山藩創立以来の日記その他あらゆる重要な書類が悉皆焼けてしまったのは惜しかった。最近私どもが久松伯爵家から嘱托せられて、旧藩の事蹟を調べる時もこの焼失のため頗る不便を感じた。また藩知事公の居間も勿論焼けたので、一時二の丸の方へ転居せられ、間もなく前にいった新邸が出来てそこへ移られたのである。
この頃徳川慶喜公を始めその他一時朝敵の名を蒙り蟄居を命ぜられた藩主連も、寛典を蒙り平常に復して位さえ賜わる事になったので、前藩主の定昭公も同様の御沙汰を蒙られて、改めて従五位に叙せられた。そうして藩知事勝成公は余儀なき事情で再勤せられたのであるから、定昭公にしてかく平体に復せられた以上は、それに知事の職務を譲りたいと思われ、その筋へ出願の上、いよいよ勝成公は隠居せられて、定昭公が藩知事を拝命せらるる事になった。
この頃の事である、幕府時代から引続いて切支丹宗門は禁制であって、その信徒は厳刑に処する掟であったにもかかわらず、長崎地方にはこの信徒が絶えなかった。尤も王政維新の際、一時は神道派が勢力を得て仏教さえも廃せらるるかの噂さえあったほどだから、切支丹宗徒は無論厳罰にも処せらるべきであるが、既に外国と交際を開きその公使も来ているし、就中英国のパークスはこの信徒についても種々干渉するので、その取扱いさえ多少寛大にせねばならぬ事情となった。そうして少し以前長崎地方の切支丹信徒は或る藩々へ数十人ずつ分かち預けて、改宗の説諭をなさしめらるる事となり、我松山藩へも三十人ばかりの信徒を預かっていた。しかるに或る時朝廷からの御沙汰に中野外務権太丞がその藩へ出張するとの事で、間もなくその一行が到着したが、その用向きは、兼て預けてある切支丹信徒の事であった。しかるに、藩では、かつては厳刑に処せらるる位な者の事だから、凡てを獄屋へ入れ、男女も区別してあった。因てその事を答えると、さように過酷に扱ってはならぬといわれ、なお説諭方等の事も聞かれたが、実の処藩ではそんな事も余りにせないで、特別の掛員さえ設けてなかった。そこで俄に私へ学校係の外異宗徒取扱係という兼務を命ぜられた。そうして、権少属の和田昌孝氏史生の伊佐庭如夫氏にも同じ命があった。そこで、まず中野権太丞を案内して、獄屋において切支丹信徒の状態を見せた。この獄屋は城下外れの三津口にあって、やはり厳重な格子造りになっていたが、錠前を開けると、権太丞一行がまず這入って行く、そこで私等も這入ったが、獄屋は私には始めての事だから、頗る汚らわしく穢く思った。殊にこの信徒には、他の囚人よりは寛大にして少しの煮焚なども許していたから、その火気が充ちているので、一層臭気も甚だしかった。中野権太丞は、それらを見分した後、今後かような所へ置く事はならぬ、また一家の男女を分ち置くという事も悪いから、それを改めよとの事であった。因てこれらの信徒を置くために、城下外れでお築山という方面に卒の下等に属するお仲間という者を置いてあった棟割長屋があったのを他へ移して、そこへ信徒を住わして、一家は一戸ずつ同居させて、夫婦も子供も団欒させる事になった。子供はこれまでは女監の方に入れていたのである。そうしてこの信徒に或る一人はなんと思ったか早くより改宗したいと申し出たので、それだけは、獄屋以外に置いて特別に労っていたのであるが、この際同じ長屋続きに住う事になったので、その人が他の信徒に対して顔を合すのが極りの悪るそうな風をしていたのも可笑しい。これらは少し後の事で、中野権太丞は右の獄屋を検分した翌日自分にも説諭がしたい、また藩の役人達の説諭の様子も見たいとあったので、町会所という所へ信徒を呼び寄せ、庭へ
この四年五月妻は長女を生み、順と名づけた。
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これは昨年大改革の後の事で、父は従来の勤労の関係から、旧家老などに

この頃東京の藩邸では、公用人が、もっぱら朝廷に対する用弁をしていたのだが、それの監督かたがた、大参事と少参事とが替り合って出張する事になった。そうして大参事は、正権共に公儀人の役目も持った。そこでその頃少参事の小林信近氏が東京へ出張したので、氏がその頃管理していた、刑法課を私が暫時代理した。即ち学校課の外にこの刑罰等に関する事務にも関係したのである。その頃の白洲というは罪人を訊問する処で、刑法課の属官が主任となり、その下に同心とか、手先とかが囚人を直接に取扱った。故に権少参事の私は、それを隙見をするのみであったが、その頃の事とて、罪ありと認めた者が容易く自白せぬ時は、拷問にかけた。拷問法も種々あったがまず軽いのは、灸を握りこぶしほどに大きくかためてそれを衣をまくった膝の上に置いて火を点し、漸々と燃え立っている火が下へ喰入って行く、そこで今に痛くなるぞと言って手先が脅す、囚人も最うたまらぬから、申上ます、申上ますというと、その灸を払い捨ててやる。けれども、強情なのは随分その大きな灸の火に苦痛を忍ぶものもあった。それから、鉄棒挟というがあって、鉄の二本の棒の一方を釘止めにしたその間へ足を挟んで上から締め付ける、すると骨まで挫けそうで痛いから罪人は白状する。あるいはその鉄棒挟みを衣を捲った膝の下へ敷かせて、その膝の上へ大きな石を乗せる、二ツ三ツと乗せると、膝は上下で圧迫されて痛むから白状する。まずこれらの拷問を普通にしたもので、その他にも種々の拷問器具が置いてあったが、これは威かしのためで多くは用いなかった。そこで、今いったような拷問を私も隙見をせねばならぬことになったが、最初は見るに忍びず、また少しは怖いような気もしていたが度重ると、もう何の感もなく、強情な奴にはまだ少し強く責めてやってもよかろうという感を持つようになった。人間の残酷性はつまりかような習慣から養成されるのである。また或る時、かつて私の知っていた士分で某という人が、藩の紙幣の贋物を造ったというので訊問に遇った。隙見だから私の顔は見せないけれども、その人の顔は充分に見えるので、多少気の毒な感がした。これも正権少属が主任となって調べたが、士分の事であるから、最初は椽先へ
このついでにいって置くが、他の藩々でも多くはそうだが、私の藩でも久しき以前より紙幣を発行していた。これは銀札と銭札との二種があって、銀札は何の都合であったか余り世間には行われないで、もっぱら銭札が行われていた。銭札で大きなのは百
いよいよ四年の七月に朝廷から廃藩置県という御沙汰があった。そこでわれわれは喫驚して、右等改革もその効果を見ることの出来ぬのを遺憾としたが、元来われわれには例の開化主義であるから、日本の国勢においては、廃藩置県は適当であると思って、この上は自分らの企画が無駄になった事よりも政府の大英断に向って心窃に謳歌した。勿論祖先以来戴いた君公と離るる事は人情として忍びない処だけれども、日本の存立上に考え至れば如何ともし難いと諦めた。しかし一般の士民にあってはその点には何らの智識もないから、非常な驚愕を以てこの御沙汰に対した。尤も藩籍奉還後、藩主が藩知事となられた上は、久松家はほんの或る役目を旧藩地に務めていらるるだけで藩地は既に旧来の如き領分ではなく、従って君臣の関係も既になくなっているのだが、領主がそのまま知事となっていられるので、それらの制度や事実が全く判っていなかったのである。そこで今般の廃藩置県は久しく戴いた、殿様を一朝にして失うのだと思う事から、驚いたのも無理はない。しかのみならず知事にして一度藩地を去らるる上は、如何なる人が来て、松山を治めて、如何なる虐政を施すかも知らぬという惧れもあるので、これはどこまでも知事の留任を乞いて、藩であろうが県であろうが、相替わらず、久松家の政治の下にありたいという事を希った。即ちこの廃藩と共に、知事は従来の公家達と同じく華族となって東京へ移住せらるるからである。
この知事留任の希望は終に具体的の騒動となって、その先発は城下から七里離れた山分の
この一揆の起った事を旧知事の久松家にも聞き込まれ、このまま捨て置かれぬといって、まず旧家老あたりの者やその他藩の元老顔をしている者に説諭を托された。従って私の父櫨陰もこの仲間に加って、彼方此方と奔走して説諭をしたのであった。がなかなかそれらの説諭には承服せない、一揆の与党には
こうなって来ては
この一揆打払いの少し以前に前知事も自ら家職を率いて一揆に対して説諭をされた。その詞には自分に留任をさせたいという事は辱けないが、それでは朝廷に対して嫌疑を受けて、結局自分の罪となる。この点を考えてどうか鎮静してもらいたいといわれたのだが、騒ぎたった一揆はなかなか静まらない。知事の一行が、進んで行かるればその方は後へ後へと退くが、他の一方の途から一揆の別隊が城下へ向って進む、どうする事もならぬから、前知事も持あぐんで引取られて、終に藩兵の攻撃するに任されたのであった。
いよいよ一揆が治まった上は、前知事一家は朝廷の御沙汰に従って東京へ移住されねばならぬ。しかるに、その出発に当ってはきっとお止め申すといって再び一揆が起るという噂であったから、そこで藩庁においては各郡の総代たるべき者をよび寄せて大少参事列席の上説諭をした。それには鈴木重遠氏が主としていい聞かされたが、威重あり弁もあったから、意志は充分に徹底した。この頃は最う竹槍蓆旗では抵抗出来ぬと諦めた百姓ばらだから別に抗論もせないが、また承服もせない。一先一般に申し聞せて考えさせようという位な処でいずれも引取った。その後諸郡では、この上は各総代を上京させて、朝廷へ直接に知事の留任を願おうという事に申し合った。これは松山町でも同様で、町人の総代数人を上京せしむる事になった。
この知事留任の一揆騒動は他の藩にも多くあったので、既に南隣の大洲藩でもなかなかの騒ぎであった。一揆の全部は既に藩庁を取囲むに至ったので、権大参事の山本某というもっぱら藩政の枢軸に当っていた人が、自ら割腹して一揆の反抗心を暫く[#「暫く」はママ]鎮めたという報にも接した。
しかしいずれの藩も一揆の気焔は間もなく鎮静して前知事はいずれも上京せらるる事になったので、私の藩の知事久松定昭公もいよいよ上京せらるる事になった。少し前に遡っての話しだが、定昭公は最前もいった如く、年壮気鋭の方であったので、既に王政となった上は、またこの下に充分尽力して、かつては幕府に効した力を以てこれからは朝廷に効したいと思われ、養父勝成公に代って藩政に臨まるるに至っては、われわれ大少参事を率いて充分に藩屏の任を揚げんと欲せられたのである。ついては近傍の藩々の知事も同僚であるから互に藩治上の打合せをするため、まず同姓である北隣の今治藩へその事を申し込まれ、彼の藩の知事は大少参事を従えて松山へ来られ、また定昭公も大少参事を従えて今治へ赴かれた事もあった。その他文武その他の藩政も充分にあげらるるつもりでいられたから、廃藩置県の御沙汰にはちょっと出し抜けを喰われたのであるが、時世に着眼の早い公の事であるから、何らの躊躇もなく
前知事の去られてからの藩庁は大少参事で暫く藩政の残務を扱って、新に命ぜられる、県官の赴任を待ち引続きを為すという運びになった。けれどもそれは翌五年にならねば実際の運びは出来そうもない、そこで私はこの上藩庁に居た所で、残務を扱う外何の用もなく、学校の改革は可笑しいながら、してしまった、別に手を着ける事もない。手を着けた所で、やはり人に引継がねばならぬ、頗るつまらんような気になったと共に、往年藩より命ぜられた洋学の修業を祖母達に止められ、また自分も気弱くて止めたのを残念に思っていた際だから、この機会に、先はともあれ藩庁の存している間に再び洋学修学の命を受けて東京へ出ようと思い付いた。この事を親友のこれまで庶務課の権大属でいた由井清氏に謀って、同氏も同行しようといったから、終に大参事始めに内意述べて、いよいよ望み通りに藩費を以て洋学の修業をせよとの命を受けた。これは四年の年末であったが、私と由井氏と二人の外に、父の里方の従弟に当る菱田中行という少年も洋学修業としてこれは自費で出京する事になった。海路は別に滞りもなく大阪へ着いて、それから東海道を東上した。勿論いずれも書生の身分だから日々徒歩と定め、よくよく足が疲れると荷馬の空鞍に乗った。その頃珍らしかったのは、三河地方の平坦な土地では、人が曳いて土石などを運ぶ、板で囲った小さな荷車に、旅客をも賃銭を取って乗せてたので、私どもも三人一緒にそれに乗った事がある。今日の如く、バネがないから、車輪から立つ砂埃は用捨なく、乗客を襲うので、これには随分閉口した。川口は幕府の時と違って船渡しの手当も充分であるし、また冬の季節でもあったから、別に川止めにも出会わず無事に東京へ着いた。この道中の大磯からであったと思うその頃東京ではもっぱら流行していた人力車というものがあったので、三人ながらそれに乗った。実に早いものだと驚いた事であった。
東京へ着した時はまだ藩の出張所は何とかいった、京橋あたりの旅店に設けられていた。そうして三田の藩邸は久松家の住わるる私有邸となっていた。私どもはまず藩の出張所へ到着を届けて、そこへ一、二泊させてもらった。その内従弟の中行は三田の慶応義塾へ入塾した。私と由井氏とは芝の新銭座の或る人の坐敷を借りて寓居した。三度の食事はその頃始まっていた、常平舎というから弁当の仕出しをさせた。この常平舎は東京到る所にあって頗る書生どもに便を与えた。中には一家族が煮炊の煩累を避けてこの常平弁当を喰べる者もあるとさえ聞いた。この新銭座に居た頃忘れもせぬのは年越しの晩であったが、つい近傍の浜松町の寄席へ由井氏と共に行った。影絵の興行で、折々見物の席も真闇となる、そこでその真闇が明るくなった際、気が付いて見ると私の懐中がない。今しがた、布団代を払ってそのまま懐中を傍へ置いたのだが、右の真闇に乗じて誰かが盗んだのらしい。席亭へも話して見たが捜索の道がない。やむをえずそのまま帰寓したが、この懐中は最近二分で新らしく買ったのである。金はたった二分残っていたのだから、それらはさほど惜しくもないが、この懐中には実印が入っていた。もしもそれを他人に使用されては如何なる迷惑が来るかも知れぬから、それのみが懸念で堪らぬ。今日なら印形の遺失とか盗難とかの届をするのだが、その頃はそんな道もないから、せめてもの申訳でもあるし、また入用でもあるので、新たに実印を彫刻せしめた。私はかつてもいった通り、母方の伯母聟の中島翁に師克という実名を貰ったが、師克の師は憎まれ者の師直の師と同じなのが厭なので、自分で永貞と改めた。これも易の坤卦から取ったので、そうしてこの度失った実印も永貞と彫っていた。しかしそれを今後名乗るのも気がかりなので、更に素行と改めてそれを実印に彫刻せしめた。これは中庸の文言から取ったのである。しかるに後年何事も成行きに任すという事の当て字で鳴雪と俳号を付けた関係から、この素行までを、ナリユキと読む人があるが、これは元来モトユキと読ませているのである。
一事言い落したが、私の上京した際、かつてもいった弟の薬丸大之丞は大学南校の貢進生で居たのがこの頃はかような生徒の廃止せられたので、従って藩費も貰えぬ事になっていた。けれどもその頃の
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今回の出京は、英学の修業が目的であるのだから、その手順を求めたのであるが、私といい由井氏といい、書生としては老書生であるので、まさか少年輩と同じ級で、ABCを習うのも間が悪い。といって自分の都合のよい学校もないから、或る日同郷の先輩藤野正啓氏に相談すると、それは私が、親しくしている岡鹿門の塾へ行くがよい、彼の塾頭には河野某というが、同じ仙台人で漢学の傍ら英学を修めていて、岡の塾は漢学と洋学とを二つながら教授しているからその洋学の方を学ぶといって入門するがよい、私が紹介しようと肯われた。そこで私は由井氏と共にその頃愛宕下町にあった岡塾へ行って、まず岡先生に面謁し、それから塾長をしている河野氏にも逢った。兼て藤野翁からの依頼もあり、私どもはもともと漢学生であるという事を知って居られたので、岡先生も漢学話などをせられて、数時間も居て辞し去った。しかし二人ともサア今日から行こうという気にならず、なんだか横文字の書を開くのがオックウな感じがして、一日一日と遅らした。そのうち或る都合から由井氏とは同寓する事をやめて、私は藤野翁の宅へ頼んで同居させてもらった。そこでいよいよ岡塾へ行く機会を失ったが、この宅にも塾を開かれて、漢学を教授して居られ、塾長は会津人の斎藤一馬氏といって、この人は漢文が巧かった。そんな事から私は持って生れた漢学の嗜好の関係よりこの塾中の人々と交際をして、詩の応酬なども始めた。
この藤野宅に寓居している時であった。ある日大火だと人が騒ぎ出したから、塾生らと共に行って見ると、今しも和田倉門内の旧大名邸が燃え落ちて、飛火が堀を越して某邸へ移って盛んに燃え揚る所であった。そこでこの火の燃え行くのを見物しつつ段々と歩いて、即ち火事と同行をなしつつ築地まで行った。けれども余りに風が強く砂が眼に入るので遂に堪え切れずして帰寓した。この火はとうとう海岸まで焼け抜けて、西本願寺を始め、その頃有名なる築地ホテルも烏有に帰してしまった。これは明治以後東京始めての大火であったのだ。
そうこうするうち、明治五年となって、いよいよ旧藩庁が新設石鐵県へ事務を引継ぐ事となり、従って私どもの学資も出所がなくなった。藤野翁はこちらで修業がしたいなら、その学資位はどうかして周旋しようともいわれたが、私は郷里の父が彼の平均禄位では生計が立たず、さぞ困却していようと思うと、この上東京で一人安気にぶらぶらしているのが済まない感が生じた。これは初一念とは違うのだが、小胆な私はこう思い出すと、矢も楯も耐らず、藤野翁の好意には反くけれど、終に帰郷する事に決した。由井氏も同様に帰郷するはずであったが、都合に依り私は一人旅行で東海道を行く事になった。旅贅は未だ旧藩の出張所員からくれたので、豊かでもないが、それで東海道の名所位は少しの廻り道をしても見物しようと思い定めた。頃は三月であったろう、東京を出発して、その時はもう人力車がどこにもあったから、一日の行程も以前よりは早くはかどって、大阪まで着いた。川止めなども旧藩時代の如く殊更らなことをせぬから何の滞りもなかったのである。それから可笑しいのは最初廻り道をしても、名所古跡を訪いたいと思ったのが、人力に乗って駈け出させては、そんな事をして時間を費すのが惜しくなって、何所一つ道寄りをせなかった。要するに、山水その他の見物は私の性質として余り好まない。俳句では随分、景色等の事も詠むが、多くは理想的に描くのである。こんな風だから、まだ俳句を始めぬその頃の私では、かく無風流に旅行して終った事も不思議はないのである。一つ記憶に残っているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱ばかりの祝儀を与えた。するとこの地ではそんな習慣がない所より、宿に居る女中が、後から後から出て来て、それにも遣らずには済まないから、大分散財をした事であった。海路はもう内海通いの汽船があったけれども、凡てが中国沿岸から、九州方面へ通航するばかりで、四国路は多度津の金比羅詣りに便する外どこへも寄らない。従ってわが郷里の三津の浜へは無論寄らないのだが、特に頼むとちょっと着けてはくれるという事を聞いたので、遂に何とか丸という船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生などもいて、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかった。三津の浜へ着いたのは、夜半であったが、私と今一人の客を
私の宅は以前の如く堀の内の士族邸だが、召使なども凡て暇をやって、家族で炊事もしている。父は最前もいった如く邸内の畠打をしていたが、その外綿繰りといって、実の交った綿を小さな器械を廻してそれを抜き、木綿糸を
この頃は旧藩知事の久松家は東京に住居せられていたが、何分旧大名風の生活が改められないので、経済の点にもよろしくないから、この改革をなすには是非とも私の父を上京させたいという事になった。父は度々いう如くもう世務に関する気はなかったのだけれども、久しく仕えた君家のためとあっては、辞退する心にならず、終に御受けをする事になったが、家令などという職名はいやだといって、御用掛位な位地で上京する事になった。そして幸だからというので、父の使用かたがた英学の修業をさせるために、弟の大之丞を召し連れた。この頃久松家には芝の三田邸を売却されて、日本橋浜町の旧水野邸を買って住居されていたので、父もそこへ寓居した。ついでにいうが、当時はまだ衛生などという事は知らず、ただ交通の便利々々という事のみを誰れもいうので、久松家にもそれに感染せられたのであるが、三田邸は二万数千坪もあって、高台であるし、現今では松方侯爵その他が分割して東京でもよい邸地といわれているのだが、それを僅に三千何百円とかで人手に渡してしまわれたのは実に惜しい。これに反して、浜町は土地が低くて湿気も多いし、水も悪いし、大火ある度に風下となって延焼する虞れもあるというので、その後またまたそこを売却されて、現今の芝公園の紅葉館の隣地へ転任せらるる事になった。この地は鍋島家の末家邸であったかと記憶する。
この年の十月太政官からの学制頒布があった。それで大学中学小学などという学校の制も定まり、就中小学校は各地にあまねく設置して、一般の児童は事故なき者の外就学せねばならぬ事になった。尤もこの頃は府県に大区小区を置かれて石鐵県は一大区から十五大区まであって、各大区の下に従来の町村を幾つずつか合した小区があった。そうして学制においてもっぱら小学校設置等の事に当る学区取締というのを、他の府県もほぼ同様だろうが、石鐵県は大区ごとに一人を置いた。そこで私は旧藩で学政専任の権少参事でいた関係から、その学区取締を命ぜられて、県庁所在地の松山、即ち第十五大区の学区取締となった。その位置はまず大区長と相対するものなのだ。それであって給料はたった八円、しかし私の家計にはこれでも大分の
既に今いった如き困難がある上に、更に一ツの困難に出逢ったのは旧穢多を就学せしめるという事である。維新の最初に穢多も一般の人民と同様に見做さるるという事は政府の御沙汰に出ている事であるが、久しき間の習慣は彼らを全く人間以下の畜生同様と見ていた。しかるに学制の上ではこの旧穢多もまた普通の人民であるから是非とも就学させねばならない、旧穢多を就学させるという事になれば、さなきだに、児童を学校へ出す事を厭がる父兄は、穢多と一緒に習わせるのは御免蒙るといって、いよいよ命に従わぬ、そして、穢多の方では、もう朝廷から平等に見られているのだから、児童を小学校へ入れたいという、つまり私どもは、この中間に板挟みとなったのだから堪まらぬ。そこで、一方に対っては、旧穢多の歴史上同じ人間であるという事、また朝廷の厚い思召であるという事を説き聞かせるし、また一方に対っては、今日の場合勿論同じ様に取扱うのであるが、久しき習慣はちょっと変ぜられぬから、多少の辛棒をして我々の指図に従ってもらいたいと、懇々と言い聞かせ、まず同じ小学校でも、旧穢多の子弟は、本堂や拝殿の縁側に薄べりを敷いて、そこで学ばせた。それからこの着手の初に、松山の士族学校へは第一にこの旧穢多の子弟を入れて、それを郡部一般の説諭の種にもしたいと思い、私どもは松山附近で
この年末であったが、石鐵県の県庁は松山から十一里ばかりある今治の方へ移った。この一大原因としては、県官で九等出仕某という者が、或る夜宿所で誰れとも知れず暗殺された。それ以来県官は松山の士民を頗る疑惑する事になり、今治の方に親しみと便利を感じて遂に移庁するに至ったものらしい。そうしてこの暗殺の嫌疑者として、同郷人の服部嘉陳氏、錦織義弘氏が主として東京へ拘引され、なお従弟の小林信近や親友の由井清氏藤野漸氏相田義和氏なども連類として拘引された。しかし事実がないのでその後いずれも放免される事になった。
この頃の石鐵県には県令はなくて、参事に土州人の本山茂任氏が居た。権参事は大洲人の児玉某氏が命ぜられたけれども赴任せずに終った。間もなく、政府は小さい県を合併せらるる事となって、我が伊予の国も、石鐵県と神山県と二ツに分かれていたのを合して愛媛県とせられた。そこで宇和島吉田大洲新谷松山今治小松西条の旧八藩と
右は明治六年の事だが、この九月に東京に居る父が大病に罹って危篤だという知らせがあった。そこで私は驚いて、県庁に願って東京へ赴くこととした。或る汽船便で神戸まで達して西村旅館に着いて見ると、昨日この置手紙をして愛媛県の方へ下られた人があるという。見ると弟の大之丞の筆で、父はもう廿二日に死去してその遺髪を持って帰郷する、定めてこの宿に立寄るであろうから知らすというのであった。私はこの手紙を得て落胆するし、号泣もしたが、この上は東京へ行く必要もないので、そのまま汽船便で帰郷した。帰ると一家は皆悲嘆に暮れている。父の病は脚気衝心であった。父は江戸以来この症に罹る癖がある、その上老年にも及んだので終に回復を遂げなかったのであるらしい。行年五十歳。しかし平素の主義として、君家のためにわざわざ東京へ上ってこの病のために斃れたという事は死しても満足した事であったろう。それから松山の代々菩提所としている、正宗寺へ遺髪を葬った。これらの費用や私の上京の途中の費用等に費した金がほぼ五十円位であったが、父は現今の私と同様に蓄財などという事はちっとも出来なかった。それでかつて藩政の末に士族に郷居を奨励するためそれを願うものには藩庁から五十円を給与するという事になっていて、私の内でも、早晩郷居する事に極めて五十円貰った。それと父が家禄平均の際に別の下賜金を貰ったのを合わせて、久米郡の梅本村へ少しばかりの土地を買って家屋を建築した。けれどもそれに移住は出来ないで、父は久松家の用向きで東京へ行く事になった。また私はその頃のハイカラだから田舎住居などはする気がない。因てそれは久く空屋にしてあった。しかるに石鐵県となってかようの輩にいよいよ郷居をせぬなら、かつて、藩から与えた五十円を返却せよとの達があった。そこで私は直ちに梅本の土地家屋を百円ばかりで捨て売りにしてその一半五十円を県庁に納めた。そうして残りの五十円がちょうどこの度の費用を支弁したのである。さて学区取締の給料はというと愛媛県となった界から規則が改まって六円に減額されていた。が、間も無く八円となり十円となった。これと平均額の家禄とで辛うじて一家の生計は営んでいたのである。
ついでにいうがこの平均家禄は、前にもいった如く一戸に二十俵と一人に一人半扶持の定めであったが、石鐵県となった際、毎戸区々では大蔵省の計算上都合が悪いというので、旧新両士族に属する者の総給与高を平均して旧士族は二十石七斗となったのを毎戸へ同一に下付さるることになった。それから明治八年家禄の奉還を願い出る者には一時の下付金があるという事になったので私は二十石七斗の半額を奉還してその下付金を受けた。更に十一年に一般の士族に家禄返上を命ぜられたので私もその残りの半額に当る下付金を公債証書として貰った。この二回の下付金が何でも七百円位あったかと思うが、下にいう家屋の新築費や、その後東京へ移住して生計の欠乏を補う必要から、時々支消して、明治廿年頃には全く無くなっていた。
さて住宅については、明治七年頃であった、久しく住んでいた堀内の邸を僅かばかりに売却し、その金を以て継母かつ妻の里なる二番町の春日の長屋を借り修繕を加えて、かつて同居させていた弟薬丸大之丞の家族をも引連れて移転した。その後右の家禄返上に依って下付金を得たので、更に春日邸の一部を譲ってもらい、そこへ二階付の小家屋を新築した。この家屋は十三年に一家東京へ移住して後は人に貸して居ったが、卅六年段々借財が出来たからその償却のために遂に売却してしまった。けれども、現今でも私は愛媛県松山市大字二番町百十四番戸々主という空名だけは持っている。
文部省では米国人のスカットというを雇って普通教育の伝習として、御茶の水の旧大学本校跡を東京師範学校と名けて師範学科を多くの学生に教えさせ、次に大阪へも大阪師範学校というのを設けて、東京師範学校の卒業生などを以て同様に師範科を教授せしめた。この学校を出た土州人の安岡珍麿というを明治七年に愛媛県へ招聘された。これが我県で文部省の規定に合った小学教育を施すの端緒である。そうしてそれを拡めるため、伝習所というを、松山に置かれて、私は学区取締からその主幹を兼務して、この伝習の事にも当った。そこで松山人は勿論県内の大洲、宇和島、今治、小松、西条等の小学教育に従事する
これは翌年八年へかけての事であるが、この八年は熊本県で江藤党が騒動を起して、同県の県令たる岩村高俊氏は辛うじて身を免れた位であったが、それが鎮定すると共に、愛媛県の県令に転任された。この人は土州人で、
しかるに間もなく文部省の視学官が視察に来る事になった。それは野村素介氏並に随行員二人であった。そこで私はその一行を案内して県下の小学校を彼方此方と見せたが、野村氏のいわるるに、この県には未だ県立師範学校がない、他の県の多くは師範学校が出来ているから是非それを設けよとの事であった。私はそれに対してそんな師範学校を設くるよりも各地へ伝習所を置いた方が実際教授の普及には裨益があると抗弁した。けれども他の県に師範学校があって見れば、我が県にそれがないのも口惜しいと思って、その事を岩村県令に建議して、それなら相当の学校長を雇って来いという事で俄に出京を命ぜられた。因て直ちに出京したが、野村視学官はまだ帰京していなかった。そこで文部省へ出頭して、良い東京師範学校卒業者を求めた結果、松本英忠氏というを雇入るる事になった。そうして創設したのが現今も存在している松山の師範学校である。この創設と共に各所の伝習所は廃止して、その主任で居た教授法の諸教師は改めて派駐訓導と名けて、相変らず伝習はさせた。それから、中学校もなければならぬというので、これには慶応義塾から草間時福氏というを招聘して主として英書を教えさせ、別に漢書の教場をも設けた、この教師は松山在来の漢学者を用いて、太田厚氏が首坐であった。けれども未だ学制の中学科の制には一致する事が出来ないので、これを変則中学と名けた。この変則中学校には草間氏の周旋で更に西川通徹氏とかなお一、二人の英書の助教を雇ったのである。
そんな事で愛媛県も初等教育と中等の教育とは、どうかこうか施す事が出来たので、私は彼方ら此方らと巡回して、主としては小学校を視察した。小学校ではいつも臨時試験を行って、私はかつて師範科の伝習を朧気ながら受けていたから、自ら教鞭を執り、ボールドに向って、白墨を使い、生徒の試験をしたのは、今から思えば可笑しい。
この年妻が長男を生んで、健行と命名した。
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ちょっと前へ戻るが右の師範学校長を雇うために上京した時、暫く滞留したので例の芝居見物をしたのだが、折節守田
前へ立戻って、右の如く兼三は薬丸家より離縁させたが、私は弟に代って薬丸家の事は出来るだけ世話をするといってその頃居た祖母と、弟の妻であった女とは相変らず私の家屋続きへそのままに同居させていた。その後この薬丸家から他へ養子に行っていた者が、これもある事情で離縁されて帰って、これが一家を経営する事になるから、従って私も薬丸家の世話をせずとも済む事になった。
愛媛県の学事は岩村県令が熱心に奨励せられるので、私もその下に出来るだけ勉強していた。その頃は文部省が、全国を五大学区に区分して、我県は広島、山口、岡山、島根の諸県と共に第四大学区に属していた。そこで他の大学区にもした事だが、同大学区内の聯合教育会というのを起そうという事になり、我県も承諾したので、明治十年一月県官を広島へ派遣する事になった。即ち広島がこの年の聯合教育会を開く位置に当ったからだ。そこで私は、学務課長の肝付兼弘氏と、外に師範学校長の松本英忠氏及前にいった派駐訓導の一人を率いて出張する事になった。この聯合教育会では、岡山県の学務課長加藤次郎氏というが洋行もした事があるというので、多くの人に知られていて最初の議長となった。けれども諸県の集り勢で、銘々勝手な意見などを立てるので、この加藤氏は、元気のよい替りに短気者であったから、度々怒鳴り付ける、一方には反動的にいう事を聞かないという風で、議場が度々騒いだ。そこへ私が巧く投じて双方を緩解したので、意外に衆望が私に帰して、二度目の議長選挙には私が議長となった。なお次の改選にも当選したのでいよいよ得意となって議場の整理は手に入って来た。ついでながらいうがその翌年は山口で同じ会が開かれて、この時も肝付学務課長と共に私が出張したが、やはり議長に推薦された。けれども、長人気質は、他県人の下に立つ事を嫌うので、殊更に反抗して議長を困らせるような事があったから、私は厭気になって、再度目の議長には山口県の学務課長落合済三氏を当選させる事を運動してそうさせた。その次の年は、岡山県下で同じ会を開かれたが、ここでは三度ながら、私が議長を勤めて別に騒ぎも起らずと済んだ。要するに、今日でもそうだが、諸県の教育当事者が、集ったといっても、別に何一つ仕出かす事もなく、多くは互に議論を闘わして半分は物知り自慢をするという位にとどまっていた。
忘れもせぬがこの初度の教育会に、まだ広島に居る際、予て多少噂もあった薩州の私学党が、西郷を戴いていよいよ兵を挙げたという報知があった。それから帰県して見るともっぱらこの西南騒動の噂ばかりで、人心が恟々としていた。そのうち熊本城で賊を喰い止めたが、その与党が我県と海を隔ている大分県にも蜂起して、今にも我県へ攻め来りそうになった。しかのみならず、県下でも、宇和島、大洲方面には大分西郷に心を寄せる者もあって、少しも油断のならぬ状況になった。或る日警察課長の武藤某氏がこれから大洲地方へ出張するといって、部下を随えて行ったが、三、四日して帰った時は、多くの国事犯人を捕縛して来て裁判所の方へ引渡した。これは大洲と宇和島との不平党仲間で、大分県の蜂起すると共に、我県でもこれに応じねばならぬといって、密に兵器を貯えて、まず松山の県庁を襲撃するという事に申し合っていて、今やそれを実行せんとする際、武藤警察課長が入り込んで捕縛したのであった。銃器弾薬などは、その人々の家の縁の下などに隠してあったという事である。して見ると、一つ違えば県庁へ打ち込まれて、我々の県官もひどい目に遭うのであった。尤も県庁でも、何時事変が起るかも知れぬというので、多数の県官が、宿直する事になっていて、私も宿直の日は短刀位は用意し、なお元気を付けるために瓶詰の酒位は携帯していた。そんな事で学事は多少捨て置かるる事になったが、いつまでもそうしては居られぬというので、段々と学校の視察員も派遣されて、私は宇和島方面へ行く事になった。そこで、南宇和郡というは、大分県と海を隔てて相対する地方だが、そこの城辺小学校というを視察するため一泊していると、俄に騒がしくなって、今薩州方の軍艦が海岸へ着いたといって、荷物などを片付ける者もあった。そこで私も全く賊軍中に陥ったので、ひどい目に逢うだろうと驚いたが、逃るる路もない、刀を仕込んだ杖一本は携えていたけれども、実に心細い感がした。しかるに右の騒ぎは全く間違いであって、海岸に着いた軍艦は官軍の援兵で、大分県へ赴く途中碇泊したという事が分り、私もホット安心した。そのうち私の止宿している宿屋へも官軍の賄をせよといって来るし、そこらここらに往来する兵隊も見た。それが俄か製の粗末な小倉か何かの服で、鉄砲の外腰には長刀を佩びていた。これは例の抜刀隊に当る覚悟なので、多く、会津、仙台辺りの士族であった。そうして彼らは往年己れ等を賊として攻めた官軍の大将西郷が、今度はアベコベに賊となったから、復讐的に官軍となって征伐するという、或る敵愾心を持っていたのである。私はこんな事で、そこそこにこの地は引揚げた。なお宇和島から遥に隔てた沖の
西南の騒動はヤット鎮静したが、その頃我愛媛県は讃岐国をも合併していたので、私はその方の学校の視察にも赴く事になった。この地方で高松人は、早くより土州の立志社に共鳴してその支社を開いていたから、それらの人々は
しかし自由民権といえば松山の変則中学校の草間時福氏も慶応義塾出身だけに、随分主張していた。のみならず岩村県令も同志社の親分株の林有造氏の実弟であるから、これもその主義は頗る賛成であった。そこで、県庁の下においても草間氏が率先して演説会を開いて自由民権を主張する、先生がそうだから、学生などもそれに加わりなお一般の松山人にも熱心な運動者が出来た、私の末弟の克家も変則中学校の教授の手伝い位をしていたから、私の母方の従弟中島勝載と共にこの演説会に加わって、かなりお喋りをしていた。かような風で、愛媛県下は殆んど同志社の主義の下に立って、暗に政府に反抗する如くにも見えたので、政府はその頃自由民権論に対して多少鎮圧を加えねばならぬという事になっていたから、終に岩村県令も内務省の戸籍局長へ祭り込まるる事になった。
右は明治十三年の夏に入る頃であったろう。その以前一月には始めて地方官会議というが東京に開かれて、府県の長官もしくは代理の次官を集めて、或る問題を出して評議させらるる事になった。議長は元老院の副議長の河野
私は明治九年の師範学校長を雇いに来た時も岩村県令から視察して来いと言われたので、千葉県へ往って師範学校や中学校を見せてもらったが、また今回も同県へ視察に行く事になった。この頃はまだ諸県でも稀れにある、女子師範学校を見たのを珍らしく思った。
こんな事をして、県令の随行とはいえ自由行動も出来るのであるから、例の好きな芝居も見た。そうしていると俄に国元から電報があって、継母が大病で危篤に瀕しているという事であった。そこで県令に願って俄に帰県する事にして、この時前にもいった弟の兼三が在京していたから同行せしめたのである。この頃は三菱会社の汽船が沿海の航路を大分占領していて、それは西南の戦争の際、政府が運送の必要上、岩崎弥太郎氏へ巨額の資金を給与して、これまで日本の沿海は米国の汽船がおもに往来していたのを買収して、それに充てた。爾来年々補助金を給与したので、日本沿海だけはヤッと三菱会社の汽船で荷物や旅客を乗せる事になった。けれどもその頃、英国の或る汽船会社が、三菱会社と競争して、これも日本沿海を往来していたので、政府は三菱会社を後援するため、同会社の汽船に乗るには、何の手数もかからぬが、この英国の汽船に乗る時は予め或る筋の許可を得ねばならぬという面倒をさせた。しかるに私が帰県する際ちょうど三菱船がなかったので、やむなく手数をして英国船の方へ乗った。尤も千
そこで前に立戻って、岩村県令は一度地方官会議からは帰県されたが、在京中にモウ内々の話しも済んでいたのであったろう、政府から、内務省の戸籍局長に転任を命ぜられた。我が県の主立った市民は民権主義であったから、人望も同氏に帰していたので、この転任は非常に失望したけれども仕方がない。それで三津浜出船の時などは、旧藩主が江戸へ出発する時、御曳船といって数多の小舟が印の旗を立てて御船唄というを歌いながら、沖まで漕ぎ連れて藩主の船を送ったものだが、その例を再び用いて、盛んに県令の出発を送ったので、岩村氏も頗る満足せられた。
今回県令の更迭は今もいう如く岩村氏が民権主義に傾くという事からであるから、新来の県令は漢学者で保守主義である。関新平氏というが拝命された。この人は佐賀人でこれまでは茨城県令をしていて、水戸人とは気風が会っていたから、この度の転任と共に茨城県人を数人連れて来て、課長や重なる県官の椅子は段々とそれらに与えた。そうして今まで岩村氏に親しかった者は氏の周旋で内務省へ転任した。それは衛生課長であった伊佐庭如矢氏、勧業課長であった藤野漸氏、その他伊藤鼎氏、辰川為次郎氏、これは皆松山人で、また他から来ていて庶務課長であった南挺三氏もその一行であった。それから租税課長の竹場好明氏、会計課長の篠崎承弼氏は宇和島人であったが、これは留任した。一体岩村県令の民権主義を最も賛成して、その他常に出入りをして県令と親しかった者は我松山人なので、その訳から皆転任せしめられたのである。そこで私だが、前にもいった如く、最初、その頃では異数の抜擢に逢って、学務課で働く事が出来、肝付兼弘氏が他へ転任してからは、学務課長を命ぜられていたのであるが、私の性として新らしい事新らしい事と知識を拡めて行く、そこで明治の始めこそ、福沢風におだてられ、また民約論や三権分立論などを読んで、自由とか民権とかを神の御託宣のように思っていたのであるが、その後ブルンチュリーの国法汎論なども読み、また文部省雑誌といって西洋の新らしい論説を載せたものを読んで、段々と
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私はこの年の歳末に、久松家の麻布長坂の別邸へ、行くようにとの事であったから、そこへ移った。その頃は東京の物価も余り高くない時であったが何しろ五十円の収入が四十円に減って、しかも都会生活をしなければならぬというのだから、随分困難であった。私の家庭は前にもいった、長女長男の外になお次女せいというを挙げていたので、その頃は親子五人の暮らしであった。それからここへ来ると文部省へは一里と十丁ばかりの距離であるが電車もない時代とて、それを日々歩いて勤めた。衣服も多くは
翌十四年に副局長の久保田少書記官が、神奈川、埼玉、群馬三県へ巡回する随行を命ぜられたので、それらの地方の学校その他の様子を見る事が出来た。この時神奈川の或る小学校で、教育上に関して久保田氏の代理として演説をする事になったが、或る拍子に詞が滞ると共に思想が散漫して後の語が継げず、頗る不体裁をしでかした。尤も私は藩の学校などでも講義をするのは人よりもうまかったから、人中で喋る事は多少の自信もあったのであるが、忘れもせぬ、学区取締となった最初に、小学校設置の必要を松山の有志者に説き聞かす時、少しいい詰って、出来そこなった事がある。それ以来、大勢の前での演説は少しおくれ気味になっていた所へ、この度文部省出張官の位置としての演説であったから遂に失敗したのである。これは後の事だが、それに
一体学制の頒布は第一に小学教育の普及を主眼としていたのであるが、まだ強迫就学という事までは進んでいなかった。しかるに私が県地にいて小学教育を督励していた経験では、是非とも強迫就学となし、その教育費も他の租税の如く、賦課するのでなければ結局の目的は達せられないという事を知っていたから、最前地方官会議の随行中文部省に出頭した時もこの意見を述べるし、また九鬼文部大輔にも面会してこの事を話して置いた。けだしこれは他の地方からも私と同じ意見を申し出た者が多かったろうと思う。そんな結果からか、田中文部大輔が法制局へ転任して河野敏鎌氏が文部卿となり、九鬼氏がそれを輔佐せらるる事となった際、遂に強迫就学と学費も租税同様賦課せしめらるるに至った。これが十三年末の大改革で、改正の教育令といった。ちょうどそこへ私は文部省へ転勤したのであるから、主としてこの改革に関する施行規則等の調査に従事した。まだその頃は大学卒業の学士などは一人も官吏となる者はなくて、多くは古い漢学や変則洋学を修めた人達であるから、私の如き自己研究の聞噛り学問をした者であっても、いくばくか用に立つ、また理論を徹底せしめるという事は私の今でも得意とする所であるから、そんな事で位地の低いに関らず、意見は充分に立てる事が出来た。ただ
この教育令の施行規則は文部省から随分と綿密に干渉して殆ど地方官には何らの活用もさせぬというような風であったので、地方の当局者は時々上京して不平を述べる者もあったが、それに対しての答弁は私が多く引受けて、聞き噛りの
私は幸に文部省の位置も段々と進むし、多少生活も豊かになったから、いつまでも久松邸の御厄介になっているのも恐縮だと考え、十七年の二月、上六番町へ家を借りて移転した。この頃は長女の順はもう小学校も終る頃になっていたので、近傍の桜井女学校へ入学させた。校長は、今は誰れにも知られている矢島
十八年の末に
森文部大臣の自分で法令案を書かるる事は前にもいったが、なお学事の方針や施設の心得等に関しては、絶えず各地方を巡回して当局者に親しく講演され、それを筆記したものを印刷して一般へ示さるる例で、この文章の潤色も多く私が担当していた。忘れもせぬ、廿一年紀元節の憲法発布式の日、私は大礼服がないので、||以前拝賀には借着した事もあれど||不参をしていたが、右の大臣の講演筆記の潤色用を急がるるので、特に文部省へ出勤し折からの大雪の寒冷を忍びて、筆を執っていると、俄に電話が掛り、大臣が負傷されたとあったから、急に車を馳せてその官宅へ行って見ると、意外も意外、森氏は西野文太郎という書生に刺され、西野はその場で大臣護衛の斎田某に切殺されて、廊下は血だらけになっている而して医師達は既に集ってもっぱら森氏への手当中であったが、氏は既に昏酔に陥って、時々大声を発して無念らしい唸きをせられていた。私と前後して他の人々も駈けつけて、官舎は忽ち大騒ぎとなった。而して森氏はその夜遂に亡くなられたがこの終焉の記録等も、辻次官の命で私が筆を執った。森氏は英国駐在の公使を久しく勤めて居られたにもかかわらず、普通教育は全く
遡っていうが、私が東京へ転任した翌年に次男を挙げて、惟行と
私も既に月給は百円ずつ貰っていたので、その頃の物価ではこの金額でもやや寛ろぎが出来るはずだが、夫婦共に会計上に拙いので、他の同僚の如く人力車夫を抱える事も出来ず、雇い車の車夫にやっと看板の仕着せ位をして済ませ、文部省の弁当も判任官以来五銭弁当で甘んじていた。借家は最初の上六番町から下六番へ移り大分奮発して九円五十銭の家賃を払う事になった。こんな生活だけれども月給ではどうかすると不足を告げ、終に借金が出来るようになったので、一つそれらの整理をせねばならぬと思い付いて、廿一年に妻と相談の上彼に次女と次男とを連れさせて一時郷里の松山へ赴かせた。この少し以前、三女らくは
また廿二年の頃久松家の御事向につき事件が起り、私はこれに対して意見を陳述する機会を得たので、その以前より出来ていた、御家憲の実施を促がし、その結果として諮問員を東京と松山とに置かれ毎年の経費や重要の事件はこの諮問員に諮問されて後ち施行さるる事になった。而て私もその一員に加わる事になって、これは今日に至るまで継続して勤めている。
そこで文部省の方では廿三年に参事官に任しなお普通学務局の方も兼任していたが、その以前から私は精神衰弱とでもいうものか、事務の調査をする際は能く不眠病に罹る事が始まって、それでも勤めるだけは勤めねば気の済まぬのだから随分と苦しむ事になった。しかのみならず、その頃は大学卒業者も文部へ入って来てなかなか頭の好い者も出来た、即ち先進者では高橋健三氏、それから岡倉覚三氏木場貞長氏沢柳政太郎氏渡辺董之助氏などである。こんな事で私は
それ以来私は寄宿舎の監督のみを職務としていたが、そう日々の用向きはないので、それからは運動のため日々当てもなく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い絵図面を持っていたのを、散歩の度に通った道路に朱を引きそのため用もない道や、わざわざ廻り道などもして、段々と図面が赤くなるのを楽しみにしていた。また近在の宮や寺や名所などもあまねく廻ったから、今日でも、これらに知らぬ所はない。しかのみならず、寄宿生には時々遠足会という事を催すので、それも私が率先して熟知の名所古蹟等へ伴う事にした。私は身体の人よりも弱いにかかわらず、足だけは幸に達者なので、この書生を率いた時などは、別して痩せ我慢の健足に誇って見せた事である。
寄宿舎に居る生徒は各々自分の目的に従って学校へ通っていたので、法律や政治や経済やまた文学などと各方面の生徒も居たのだが、正岡子規氏とか、
私はまた別に、宇和島人の土居藪鶯氏は兼て知り合いで、これもその頃から俳句を始めたと聞いたので、この人の在勤している、横浜へも行って共に句作し、そこの宗匠に見てもらう事もしたけれどもまだ何らの標準も立たず月並的の句も作るので、子規氏が松山から帰って来ても余り取ってくれない。そこで私は多少憤慨心も起ったので、兼て子規氏から聞いていた蕉門の
その翌年の一月であった、子規氏が私の宅へ来て、昨夜は非常に面白かった、それは椎の友会というへ行って運座をやって、遂に徹夜したとの事である。そこで聞くと、椎の友会は、伊藤
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この年から翌年頃へかけてが、私どもの俳句に熱狂していた盛りである。同人が互に往来して俳句を作り俳談を闘わすのみならず、例の各派を合した会なども度々催して、その頃は多くが書生であるから、家を持った私どもの仲間が順番に会席を引受けて、ちょっとした飯と酒とを出す事になっていた。就中宇和島人の二宮兄弟は熱心であったから、その弟の孤松氏宅や、その兄の素香氏を通して仲間に入った桜井静堂氏宅と、私宅では、頻繁に開会した。そうして子規氏は何といっても先覚で中心点ではあるが、この頃いうデモクラシー的に何ら先生顔もしない、そしてわれわれも先生らしくは扱っていないのである。これが我々中間の俳句の特色で、今でも新傾向派などが起ったにかかわらず、この態度は同様である。この頃であった、美術家で有名なる岡倉覚三氏の厳父が俳句をやられるので、私はその俳席へも出た。また牛込の宗匠たる岡本半翠氏は、予て私が文部省の参事官であった頃の筆生であったが、計らずもそれがいわゆる旧派の宗匠であった事を、同人中の土居藪鶯氏から聞いて、この関係からこの半翠氏宅の俳句会へも行く事になった。この会も或る特色は持っていて、従来の運座では或る一枚の紙に題を書いてそれに順次に句を書きつけて折り込んで行く例であったが、どうかすると前の作者の句を見て、自分の参考にするような嫌いもあった、そんな弊を防ぐために、一題ずつに状袋をこしらえて、それへ順次に句を書いた紙片を入れて廻す事にした。この方式は半翠氏門下の発明であったという事で、会名を袋組と称していた。私どもは頗るそれをよい方法だと感じたから、その後は伊藤松宇氏が始めた互選法と共に、この状袋廻しの事をも真似する事になった。その後この方法は久しく行われていたが、袋を順次に廻せば苦吟家に停滞される憂いがあるから、遂には席の中央へ各題の状袋を投げ出して置いて、出来た者がその中へ句を入れる事に改めた。そこで我々の俳句は子規の発達と共に発達したのでその後は半翠氏等の旧派連と出逢う機会もなかったが、遥か年すぎて、私が牛込方面を通っていたら、或る婦人がよび留めて、私は岡本の妻であるが、今先生の通られた事を夫が知って是非御面会したいというから立寄ってくれという、そこでその家へ這入って見ると、半翠氏は病床に横わっていて、聞けば肺病らしかった。それでも私と逢った事を喜んで種々の俳談を交した。なんだか心細く名残惜しいような顔をしていたが、際限もないから私はそこを辞して出た。その後一年ばかり経て、岡本の門人だという人が私の宅へ来て、我師はもう去年亡って、今年は一周忌であるから追悼の句を貰いたいといったので、私も以前の事を思い出して感慨にうたれたから一句作って与えて弔意を表して置いた事である。
右は後の話であるが、二十六年の末ごろ、私は旧藩主の久松伯爵家から旧藩事蹟取調という事を嘱托せられた。これは二十一年頃、先帝の思召しで、三条公と岩倉公との事蹟を調べて置くようにとの仰せがあったので、それと共に維新の際いわゆる勤王党であった旧藩主が、右の両家と共に事蹟を調べる事になって、その結果二百六十の旧藩主華族諸家もこの調べをする事に御沙汰があった。けれども元々持出す事件があるならば持出せというような事であったから、それを調べぬ家々も多かった。が、私の旧藩主久松伯爵家では熱心にそれを調べられる事になってとても家職では暇がないという事から特別に私に嘱托せられたのである。なお旧藩の頃家老から大参事を勤めてその後は立憲進歩党の老人株で居た鈴木重遠氏も先輩として加わる事になった。この調べをする事蹟の範囲はもっぱら、嘉永年間米国船の渡来より、明治の廃藩までというのであって、久松家から宮内省へ差出さるる事蹟はそれだけなのであるが、いっその事この機会に松山藩の出来た以後の二百数十年間の事をも調べて置きたいという事で、これも私どもの担任する所となった。そうして宮内省からの需めにかかるものを甲種とよび、その他の事蹟を乙種とよんで、共に材料を集める事になったが、残念な事にはかつてもいった如く廃藩の少し前に、三ノ丸が火災に罹って、藩庁の書類は悉皆焼失してしまった。そこでこの上は旧藩地について個人の家々に残っているものを探し出す外はない、尤もこれらも、明治の初年に久松家から当時の老人連に嘱托して旧藩代々の君侯はじめ臣下や人民の特種な事蹟を調べさせられたものが、松山叢談という三十巻ばかりのものになっている。けれども惜いかな昔し気質の老人の手に成ったので、君侯の事歴こそかなり詳いけれども、その他は多く個人的の特種な行為が列記されているというのみで、肝腎な藩の政治法令とか民間の農業商業其他社会方面の事は殆ど全く調べられていない。そんな事から、この度私が嘱托を受けて見ると、それらの洩れたるものをもなるべく調べたいと思って、そのために松山へ赴く事になった。松山には従来久松家の松山方面の家政を取扱う人々が居るので、まずそこへ行ってこの度の取調の事件について充分に話もしていよいよ着手せしむる事になった。またこの取調のため、松山でも残りの老人二、三に嘱托者が出来た。けれども明治の初年と違って偶々あった材料も子孫の世となっては、反古にしてしまったものもあって、辛うじて集ったものも充分なものでなかった、がまずそれらを謄写するとか貰い受けるとかを、松山の掛員へ托して置いて、そして私は帰京した。この松山行きは十三年に出京してから二度目であったが、段々と知人も物故して、今昔の感も尠くなかった。
この松山行の途中私は京都へ立寄った。それは同郷の河東碧梧桐氏、
ツイいい洩らしたが、二十二年に私は三男和行を挙げた。
ここでちょっと話を挟むが、子規氏の俳句を始めた頃は主として芭蕉一派の俳句を標本としていたのだが、椎の友会席上で蕪村の句の巧いという話が出た。けれどもそれは俳句題叢に載っているものの外見ることが出来ない。蕪村句集を探したけれどもちょっと手に入らない、ないというといよいよ見たくなるので、終に我々が申し合って、もしも蕪村句集を最初に手に入れたものには賞を与えるという事を約した。間もなく片山桃雨氏が蕪村の句の僅かばかり書き集めた写本を探し出したので、我々から硯一面を賞として贈った。後で聞けば大野洒竹氏の手にあったのを桃雨氏が借りたのであったそうな。しかし蕪村の多くの俳句は相変わらず見る事が出来なかった。そこへ或る時村上霽月氏の報知では、松山の古本屋で蕪村句集の上巻を手に入れたという事だ。私どもは驚喜してそれを貸してくれといってやったが、霽月氏も現本を貸すのは惜しいと思ったか、別に自分が写したのをさし越した。そこで一番に私がそれを写す、子規氏も次に写す、なお椎の友連へもそれを見せた。そうこうしているうち、誰かが告げるに、芝の日影町の村幸店に、蕪村句集の上下揃ったものがあるとの事であった。私は聞くとそのまま人力を雇って馳け付けたが、途中でももしそれが人手に渡りはせぬかと気遣いながら、その店へ行って聞くとまだあるといったので、実に天へも登る嬉しさであった。価もその頃では奮発であったが、二円で買い取って、帰ると直に披読し、その日に子規氏へも報知する、また椎の友会へも段々と告げて、我々一同がここに始めて久渇を医したのであった。が少数ながらも、最初に探し出したという賞は桃雨氏に帰していたから、私はもう賞を貰うことは出来なかった。けれどもその大得意は賞の有無を考えるどころではなかった。そうしてその下巻を直に写して松山の霽月氏に与えて、さきに上巻を見せてもらった報酬をした事である。ついでにいうが、蕪村句集を我々仲間がかく競い読むという事が、段々と俳人仲間にも広がって、世間へも聞えると共に、終に神保町の磊々堂が旧版を再版する事になった。聞けばこれは大野洒竹氏が、私が得た少し後にまた一部を得たのを、堂の主人佐藤六石氏が乞い取って、それを再版に付したのであるそうな。それから少し経って大阪の書肆が土蔵の奥に捨てて置いた蕪村句集の旧版を発見したので、それを刷ったのが世間に出たから、いよいよ蕪村句集は誰れにも見られる事になった。私は今いった最初発見の句集を持っていた上に、別によい初刷本のあるという事を村幸から知らせて来たので、終に若干の価を増し前のと交換して、今も持っている。これには表題に上編と記してあって、月渓の跋文に蕪村の一周忌にこの集を出したのだが、なお翌年の忌には次編を出すといってある。それが下編に当るのであろうけれども終に発行せられずに終ったから、その後刷る版本には表題の上編という文字とこの跋文とは除かれている。なお京阪の俳人仲間が金福寺で蕪村忌を営む事になった頃、これも大阪の或る書肆の蔵の奥にあったという事で、まだ上木せない蕪村の句稿を、
今いった碧梧桐虚子の二氏はその後京都の高等中学校の改革で仙台の第二高等中学校に移ったが、間もなく、もう大学校などへ入るのは面倒だという事で、自分で退学してもっぱら東京で文学を研究する事になり、就中俳句は子規氏の下で益々盛に遣る事になって、終に子規氏の左右の腕となるに至った。そこで私は最初こそ子規氏が、無二の相手であったが、もうこの頃は碧、虚二氏が成り立ったので、自然に老人役という側へ廻って、世間からも子規氏と私は芭蕉と素堂の関係だといわるる事になった。けれども子規氏の宅の俳句会は勿論、蕪村の輪講など催す時は私は必ず出席して、一番にお
このホトトギスだが、これは二十九年頃であったろう、郷里の松山で
ホトトギス仲間では、少し以前に五百木飄亭氏が徴兵に出て兵隊生活をした関係から、同じ兵隊中で佐藤肋骨氏を俳句仲間に引入れ、また日本新聞に入って来た関係から佐藤紅緑石井露月の二氏も我々仲間へ加わった。また福田
私がそもそも最初に雑誌の選者となったのは、文庫であって、これには選句の中へ簡単なる評語を挟んだので、世間では頗る受けたが、余りに口合的になるので、子規氏は機嫌がよくなかった。また太陽に同人の俳句を出す事も、その頃からで、それは編輯者の泉鏡花氏がよく私に俳句を見せた関係からである。その後
二十七、八年に亘った日清戦争の時、五百木飄亭氏は兼て医者の開業免許を取っていたので、看護卒となって服役していたが、その以前より、日本新聞の記者を兼ねていたので、それに報ずる戦地の状況が、他の報告よりも特色を帯びていたので多くの読者には歓迎されていた。そんなことからも、また自分に期する所もあったので、子規氏は病身であるにかかわらず、戦地へ行って見たくなって、それを陸羯南氏にも話したが、羯南氏は子規氏の病体を更に悪くする事を気遣って容易に許さなかった。が、再三熱心に
我々の俳句会は久しく子規氏の宅で開いていたが、氏の病もよくならず、余りに大勢の集るも如何という所から、終に虚子氏の猿楽町の宅へ移して、ここで開くことになった。またホトトギスの編輯や発行は最初より、虚子氏の宅であったが誰れか編輯等のよい手助けはないかと求むる際、子規氏が地方からの出吟者で傑出した三人を見出した。それは東京の第一高等学校(この頃中の字を取った)数学教師の
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今の如く青々氏や露月氏の事をいったついでだから、なお遡って、子規氏と共に俳句を作り始めた古い人々のこともいって見よう。その頃最も才気があって、現代の文芸主義にも早くより通暁していた者では藤野古白氏がある。氏は子規氏の従弟で、早稲田の学校では後に有名になった島村抱月氏と同級であったのだが、
それから新海非風氏だが、これは家庭の境遇から余り学問はしていなかったが、天才的で俳句を作る才は時々子規氏をも驚ろかした。いわゆるせり吟にも多く作って多くの佳句を見せていた。そうしてこの人も古白氏と共に軟派文士肌で別に資力もない癖に吉原通いをして或る妓と馴染を重ねたが、間もなくその妓が年明けとなって、身を任そうと思う男が二人あったそうだが、終に非風氏の方へ
五百木飄亭氏は最初大阪で医者の試験に及第したが、未だ丁年に満たないので、医者と称することも出来ず、それから上京して私の寄宿舎へ入ったのだが、年齢よりは老成していたために、推薦せられて舎監にもなった。そうして読書の才もあって、俳句がうまかったのみならず随分漢籍をも読んで、私が未だ読まぬ書を読んでいたのに驚かされた事もあった。その後日本新聞社へ子規氏の後から入って、筆を執っているうち、徴兵の乙種であったので日清戦争に従軍した。尤も医学の素養があるため看護卒となって、戦地の報告を日本新聞へ掲載して異彩を放ったことは前にもいった通りである。凱旋後も長くこの新聞に従事していて、その後は医界時報を田中義之氏と共に経営していたが、終にそれを田中氏のみに任せ今ではいわゆる高等浪人となって朝鮮合併や支那事件などにも野にあって努力していることは誰も知る通りである。
また勝田明庵氏は他に較べては余りに俳句に熱心でなかったが、それだけ政治や経済の方面には早くより研究をして、寄宿生中でも他の者は暑中休暇などには郷里へ帰省するのだが、氏に限っては見学のため知らぬ地方を巡回して、其所々々の殖産やその他社会的の事を調べて、帰舎すると茶話会席上でそれらを報告するのを得意としていた。そんな風故法科大学を卒業すると共に大蔵省へ出身して、函館の税関長となりまた本省の局長から、次官に進んで終に大臣となった。しかし今でも時々は俳句も作っているようだ。
以上は寄宿舎で俳句を作っていた同郷人の主なる者だが、その他では、後に自分で婦人科病院を起て、また俳事に関する蔵書に富んでいた医学士の大野洒竹氏、新聞上で筆を執って一時文名を馳せていた田岡嶺雲氏、この二人はもう亡くなった。文学の専門家で、傍らいろはたとえの如き俚諺を集むるを楽みにしていた、藤井
またぞろ話が後の事に走ったが、子規氏の生前は、病苦を忍びながらも和歌の方面にも研究を始めて、古今集以下は月並的に落ちてしまった事を発見して、万葉以前の風を主張し、それと共に、修辞も万葉時代のものを多く用いた。そうして、これも日本新聞において意見を吐いたのでこの子規氏の説に共鳴して指導を受ける者も段々と出来た。その主なる者では、伊藤左千夫氏、森田義郎氏、
近年は碧梧桐氏がいわゆる新傾向の俳句を始めてなかなか多くの共鳴者を得ているが、一体五七五調の俳句と異った口調では誰れも知る如く、芭蕉の頃の「虚栗」蕪村の頃の柴田麦水を中心とした「新虚栗」もあったのみならず、子規氏生前の我々の中でも、一時は随分試みたのであった。それは碧梧桐虚子両氏が若い元気で重もに鼓吹したのである。私は老人だけにそれが不同意で子規氏にも話したが、氏は若い者には何でもかでも勝手にやらして置くがよいといって笑っていた。がこの変調は子規氏も時々試ることになり、私も思わず釣り込まれて幾らか作った。即ち我々仲間で始めて出した「新俳句」の巻頭にある私の句の『百年にして天明二百年にして明治の初日影』もその結果である。がこの変調は一時的のもので、碧、虚二氏も再び五七五調に立戻ってそれで子規氏の生前はそのままであったのだ。
まだ何かあるかも知れぬが、もう子規氏の終焉の話しに移ろう。前にもいった如く、病床ながら、俳句のみならず、和歌にも写生文にも、昼夜研究と鼓吹とに努めた末が、結核性の病毒は脊髄病となって、
子規氏の死んだのは三十六歳であったが、俳句その他の事業は病気に罹って後の仕事で、即ち病苦中の産物である。そうしてその見識や文才や刻苦勉励の事実は多くの人の尊敬を得て、誰れからも侮蔑や悪言を受けなかった。尤も陰では異説を唱える者もあったろうが、正面では氏を攻撃する者はまずなかったように思われる。しかるに高知の人で、若尾瀾水氏というが、最初は子規氏の句会にも出て我々も知っていたのだが法科大学を卒業した頃であろう、但馬で発行した、某俳誌上に長文を載せて子規氏を散々に罵った。これは何時か子規氏を訪ねた際、氏の態度が倨傲であったという事が
子規氏の病苦が甚だしくなっては、日本新聞の俳句欄に関しても怠り勝ちとなったので、代理として赤木格堂氏に選句をさせた。そこで子規氏の晩年は両腕であった、碧、虚二氏よりもこの格堂氏に意を嘱する事が深いのだと思わしめたが、格堂氏は反ってそれを迷惑に思い、自分は俳人として起つのは志でないといって、間もなく日本新聞の選者を断り、その後は碧梧桐氏が選者となって数年継続していたが、陸羯南氏が日本新聞を他の人に譲る事になって、暫くは現状のままで居たけれど、羯南氏に代って主筆となった三宅
そこでわれわれの俳句はどうかというに、子規氏の生前こそ、われわれ仲間も、大体の句風は統一されていて、一時碧、虚両氏が唱えた変調は間もなく跡を絶ったのであったが、段々と年を経るに随って、四方太氏の如きは全く俳句をやめるし、虚子氏は、写生的の文章専門となって、ホトトギスこそ経営すれ、俳句は全く擲つ事になった。それから碧梧桐氏は別に新傾向の句風を起す事になって、これに属する者に
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余りに子規を中心とした、俳句の話ばかりになっていたから、これからは私の身の上について御話をする。私は人と違って旅行するのが面倒、否むしろ嫌いで、機会は随分あったけれども
翌卅七年は誰れも知る日露戦争が起って、我々どもの気分もなんだか緊張したのであったが、二男惟行は外国語学校の支那語を学んでちょうど卒業するのであったので、支那方面へ兵を出す必要上から、陸軍省が文部省へ掛合って少し早く支那語の学生を卒業させてもらいたいとあって、惟行も学校を出るや否、陸軍の通訳官となって従軍した。そして少将の山本信行氏が率いた旅団司令部附となったので、金州から上陸して旅順方面へ行った。間もなく海鼠砲台を我軍が占領したので、山本旅団長は副官を従えて砲台を見聞した。惟行も好事心から一緒に行ったが、前面の敵から狙撃されて、山本氏は弾に当って即死した。惟行も戎服の裾に弾が通ったが幸に怪我はせなかった。その後旅順方面で彼の穴籠りなどもして、砲丸の下に往来した末が、旅順の陥ると共にまた奉天から鉄嶺を越して、何とかいった地方までも従軍した。この通訳官は中途から辞職して帰った者も多かったが、忰は幾らか辛抱強いので、一度かなりな大病をしたのも押して務めて終に、出征軍の凱旋と共に帰朝した。一体惟行は私とは違って学問などするよりも、何か金儲けでもして成り立とうという野心を持っていたので、支那の在陣中も機会があれば、支那の有力者などとも交っていたのであるが、この凱旋して間もなく正金銀行に採用されて支那の支店へ行く事になった。そこで北京に居るのだから、支那人との交際も多くなり、一層支那語の研究もする事が出来た。そして支店長の実相寺氏等にもかなり愛されていたので、なおよい機会があらば何か一つの仕事を見付ようとしていたのであるに、支那人との交際には食卓を囲んで互に一つ器の食物を匙で喰い合うような事から、終に肺病の黴菌を貰った。尤我慢な奴であったから、なりたけ寝る事もせなかったが、終に勤務も苦しくなり、先輩からも忠告さるるので帰朝して、家庭で養生する事になった。けれども少しよいと、いかに止めても酒を飲む、外出しては何か割の好い仕事を求めようとする、そんな事で一時はいくらか回復しかけたのも、終に手戻りがして、卅九年の歳末には赤十字病院へ入る事になった。そして翌年の四月の桜の盛り頃に三十歳を一期として志を齎して黄泉に赴いた。私は前にもいった如く、明治廿年に三歳の楽女を
なお卅九年であった、常盤会寄宿舎は随分古い建物で、間取りも不便だという事から、久松家にも改築せられる考えもあったのだが、日露戦争の騒ぎなどで、延引していたのを、いよいよ決行される事になった。この改築中は、八ヶ月ばかり私は四谷の荒木町に移住していた。この頃の家庭は妻と末の男子和行のみであった。長男健行は前にいった、宮崎県より更に台湾の農事試験場に転任していたし、次男の惟行は北京で病み付いた頃であるから宅には居ない、それからいい落したが、次女の静はもう十年も前日清戦争の終った年に、凱旋した同郷人の騎兵大尉の小崎正満へ嫁した。この静や長女の順やそれが生んだ孫や曾孫などのことは、この先で段々と話す事にしよう。さて寄宿舎の改築も出来あがったので、私もそこへ住む事になって前よりは多少清潔にもなったのだが、この監督宅は寄宿舎と違って、古建物を移されたのであるし、門も崖端の狭い道についていたから、人力の乗り付けも出来るか出来ない位で、かなり不体裁なものであったのである。それで惟行の棺を出す時は門から出るには
この寄宿舎を改築の際から、今までは、寄宿生中より抜擢して命じた舎監を特に他の同郷の壮年者に嘱托する事になって、そこで肉弾の著者で名を知られた、桜井
今一つついでにいうが、今いった先祖の与左衛門の時代は、島原騒動が治まった頃で、それ以来吉利支丹宗は厳禁で、その宗旨を奉ずる者を訴人すれば御褒美が出るという事までになっていた。ところが、この与左衛門の従弟が吉利支丹信者であったとかいうので、その嫌疑は与左衛門の上にも下って、俄に家禄を奪われて江戸表へ護送せらるる事となった。けれども少しも覚えのない事だから、それを弁解しつつあった末、吹上御殿において三代将軍の御前で訴訟人と対決させる事になって、この時に与左衛門が申し立てた事は事実相違ないという事に判決せられて、それから藩へ帰る事になったが、老中から今後も何らか御尋ねのある事がないとも限らぬから謹慎させて置けという事であったので、与左衛門は以前は大目付とかを勤めたといってあるが、その後は何らの役目をも勤めぬのみか、家族皆謹慎せられて、これまで禄は二百石であったのを三十人扶持と若党と下僕の給米を支給せられる事になった。これが四十年も続いて、二代目の甚五兵衛勝則になって余りに長く謹慎しているので、藩の当局者も気の毒に思って、幕府へ伺ったらあれは一時の事で、そんなに謹慎させるには及ばなかったというので、忽ち謹慎を赦されたが実は馬鹿馬鹿しい事であった。そして改めて百二十石貰ったが、その後の代々は才幹もなかったか、余り役儀も勤めずにいてそして名を出したのは、私の祖父瀬兵衛昶からである。この瀬兵衛は他の役も勤めたが、代官役で、民治の上には功績を立て、即ちその頃の弊として百姓が自ら怠って不作をさせて年貢の軽減を求めるというような事をも、矯正して、それぞれ未進のないようにさせたりあるいは義倉といって村々の共有財産を作って凶歳の準備をさせたりしたので、藩からも度々賞美された。その後廿七年を経て父の代に更に祖父が代官中の功績を追賞されて、若干の金を賜わった事もある。これは私も知っている。この祖父は経書では徂徠学を修め、甲州流の軍学にも達していて、旁ら文章や詩も作っていたので、その遺稿は今も存している。父も久しく藩の枢要に当っていて、参政や権大参事になった事は前にもいった通りである。
右の如く先祖は、吉利支丹宗の嫌疑で迷惑したにかかわらず、これも前にちょっといったが、私が番町に住んでいた頃、妻や長女は矢島楫女史の誘引で基督信者になった。これは私が例の哲学からの悟りで、婦女子には何らかの宗教心があるがよいと思っていたからだ。けれども先祖の嫌疑を私の代に至って、本物に吉利支丹宗を家族に奉ぜしむるに至ったのは、時世の変遷とはいえちょっと可笑しい。
私が単純なる俳句の選者生活になって後は、別に責任というほどのものも無く、段々とこの生活では多忙にもなったけれど、今までの如く不得手な役目を担うというのでないから、多忙の中にも自ら興味をもつ事になった。そして、私は俳句の上もいつの間にか古顔で大家という事になったので、若い人には幾らか
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私が前にもいった、麻布笄町への転宅は年齢では、七十一歳であった。七十は杜甫の詩に、『古来稀』ともいっていて、それ以来は古稀の祝と称えて誰れもする事である。しかし私は別に祝いたいという感もなく、また祝うとすると金もいるが、その金もないのでそのままにこの年も終えてしまったのであるが、故子規氏の庵で時々開く、旧友会の連中が特に私の古稀を祝って遣ろうとの事で、やはり子規氏の旧庵でそれを催おしてくれられた。その時の中村不折氏の書いた私の肖像は表装までしてもらっている。尤もその肖像の体勢が、私よりも不折氏の方に
私の七十歳の年はこれだけで終って、いよいよ七十一歳となった頃、かつて寄宿舎に居た、勝田主計氏和田昌訓氏が発企して多くは旧寄宿生であった人々と、それに同郷の先輩数人を加えて、醵出された金を以て私の寿碑を郷地の道後の公園に建てらるる事になった。これは主として旧寄宿生というのであったから、わざと広くはこの事を及ぼされなかったようである。それが段々と運んで、この年の九月に竣工したので、その除幕式をするから、私に松山へ来いという事になった。これまでも郷地の人からは度々来い来いといわれたのだが、私は前にもいった如く、新聞や雑誌で多くの俳事を担当しているし、また旅行という事を余り好まぬ方なので、その好意は
いよいよ除幕式の日になったので、その日は電車で道後公園へ行ったが、妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられて、予てこの建碑に厚意を寄せられた人々はいずれも参会した。そして柳原極堂氏の建碑の始末に関する報告があり、旧温泉郡長の大道寺一善氏が私に対する頌賛的の演説があり、私もそれに答えかたがた厚く謝辞を述べて、この碑は私の如きものの記念というよりは、故旧に対して厚い同郷諸君の徳誼の表彰碑だといって置いた。それから直に県公会堂で大歓迎会を開いて下さるというので、それに赴いた。これは県庁の隣に新築されたもので、市の公会堂の
この外郷里の青年のために設けられた、松山同郷会より招かれて、多くの青年少年のために訓諭をした事がある。また伊予史談会というが、私の郷地の老人であるのみならず、東京では史談会の幹事でもあるから、何か話しをせよという事で、これは田内栄三郎氏の宅の楼上で開かれた。そこで私のいったのは、凡て人間として歴史は知らねばならぬ、横に空間の智識を広めると共に縦に時間の智識を伸ばすという事は、必然的のもので、歴史を知らねば、人間の一方面が欠けているのだ、しかるに今の若い者は、西洋辺りの事物は研究するが、わが生れた、日本の歴史はそっちのけにしている。それは不都合じゃないかという事から説き起して、それから私の出合った維新前後の事件や、なお人から聞いた事件を雑えて、一場の責を塞いで置いた。この外にも、学校連中が私が旧来の関係もあるので、会を催して話しを聞きたいと需められたが、婿の一遊が私をいたわってそれを断ってしまった。私はお喋り好きだから、遣ってもよいと思ったのだがそれは機会を失った。それから他の会では、旧友会というのが催されて、多くは明教館の同窓で少年の昔を話し合ったのは特種の愉快があった。俳句会としては、柳原極堂氏が主催で私の檀那たる正宗寺で一回あったが、随分多数の人であった。私はこの席では最近の句風の変調を起した事に話し及んで、これも西洋の文学侵入に伴う結果だから、別に咎めるにも及ばん、私の見解からもっぱら娯楽的に俳句を扱うのだけれども、それはそれ、これはこれで、各作りたい句を作ればそれで可いことだ、というような事を述べて置いた。なお敬晨会というはもっぱら老人のみを以て組織された俳句会で、これも予ての知り合であるから、そこへも出席した、この席中には私よりも年長者として、野間一雲、柳原尚山、真部春甫氏などがある。就中一雲氏は七十七歳で最近病臥して居られたが、私の帰省したのを喜んで病を押して出席された。その後私が帰京して間もなく氏の訃報に接したのは殊に悼む所である。この老人連は私の関係している日本及日本人の毎号へ出吟してくれらるる仲間なのだ。また藩主の祖先を祭った東雲神社の社務所で同県人の能楽を見た。これは毎年定期に法楽の催しがあるので、ちょうど高浜虚子氏及その兄池内信嘉氏も帰県していて一緒に見た。我が藩にはかつては禄を与えて召抱えた能楽師及囃し方も数々あって、藩主御覧の能楽も時々あったから、その名残を今も有志者の仲間で留めているのだ。就中崎山氏というが牛耳を執っていた。衣裳も旧藩主家のを譲ってもらったのだが、モウ古くなって、あるいは綻びをつづくっているのもあって、私も頗る感慨に打たれた。
私の松山滞在は僅の日数であるにかかわらず、来訪者の頻々たると共に揮毫を需むる人が非常に多かった。それでこの方面にはとても応じ切れぬので、あちらこちらと知人の宅へ逃げて行ってそこで断ることの出来ない分の揮毫をした。この数だけでも五百や六百はあったろう。そこでいよいよ出発する日に迫ったが、その前日においてやっと除幕式や歓迎会を開いてもらった人々に答礼としての訪問を終えた。が漏れたのも尠くない。出発の前夜も道後の船屋別館で、五十二銀行の石原頭取其他が送別宴を開いて下さった。またこの以前に、城下の南外れの亀の井という割烹店で二回までも或る方面の人の御馳走になった。私が主人となって、この亀の井で親戚と最も親しい婦人連を招待した事もある。なお広く郷地の人々を招待したいのであったが、何しろ貧乏な私は、金がないのでその志が遂げられず、御馳走の喰いっぱなしで
前にもいった私の檀那寺正宗寺には、代々の墓もあるから、妻と共に参拝した上に、総ての仏に対する法事を営んで、僧侶と近い親戚とへ午餐を出した。ここの和尚も揮毫を求めたから禅宗でもあるし、かたがた例の達磨の句を全紙に書きなぐって与えて置いた。この寺は故子規居士の石碑もあるから、知る人は時々訪れるらしい。
こんな風で松山は引上げて、この帰途には大阪で青木月斗氏等の俳句会に臨む約もあるし、また奈良見物や、京都近傍の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが、兵庫へ着くと、姪の婿なる市橋俊之助が停車場に来ていて、流行感冒が猖獗で家族も臥蓐しているといったので、その須磨へも一泊せず、神戸の或る旅店に一泊したままで、直に東京へ急行列車で帰って来た。老夫婦は旅中で流行感冒に罹っては大変であるからだ。
いい落したが右の松山行をせぬ前に東京において碧梧桐虚子氏その他の催しで、私の祝賀会として、靖国神社の能楽堂で、能楽の催しがあった。これは『ホトトギス』の関係から広く文士連を招待されたので、見所も満員となった。演奏されたものは、『自然居士』と『
以上の如き数々の祝賀会に対しては、私が自筆の『迎へしは古来稀なる春ぢやげな』の句を染出した帛紗を配った。が、京都や大阪や松山の厚意を受けた人々へは、未だそれを送っていない。そうこうするうち、早数年を経たが、是非生前に何かの挨拶をせねばならぬのである。今一ついい落したが、俳人側においても中野
私の晩年の思い出は、まずこの古稀の祝賀会であって、その後は別に話す事もない。また私は前途なんの企画する事もなく、ただ担当している多くの俳事を、その日その日と弁じているが、つい生き延びて本年は七十六歳となった。老年に比較して精神だけは頗る健全だが、身体の方は漸々と衰弱して殊に寒気には閉口する。幸に去年からそれを凌いで来て、これからは、いわゆる小寒大寒を凌がねばならぬ。果して凌げるかどうかは神ならぬ私は全く知らないのである。
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元日や一系の天子不二の山
六日はや睦月は古りぬ雨と風
朝拝や春は曙一の人
輪飾や吾は借家の第一号
輪飾の低うかゝりし戸口かな
打ちつれて夜の年賀や婿娘
万歳や古き千代田の門柱
万歳の鼓を炙る竈かな
妻猿の舞はですねたる一日かな
春駒や美人もすなる物貰ひ
鞠唄や妹が日南の二三尺
から/\と切凧走る河原かな
藪入の昼寝もしたり南縁
きぬ/″\や薺に叩き起されつ
六日はや睦月は古りぬ雨と風
朝拝や春は曙一の人
輪飾や吾は借家の第一号
輪飾の低うかゝりし戸口かな
打ちつれて夜の年賀や婿娘
万歳や古き千代田の門柱
万歳の鼓を炙る竈かな
妻猿の舞はですねたる一日かな
春駒や美人もすなる物貰ひ
鞠唄や妹が日南の二三尺
から/\と切凧走る河原かな
藪入の昼寝もしたり南縁
きぬ/″\や薺に叩き起されつ
病中新年
寝て聞けば知る声々の御慶かな子規を訪ひて
病む人も頭もたぐる御慶かな初東風や富士に筋違ふ凧
仙人や霞を吸ひて寝つ起つ
道尽きて松明振るや雪解川
春雨や酒を断ちたる昨日今日
春雨に杉苗育つ小山哉
浅茅生の宿と答へて朧月
朧夜の雨となりけり渡月橋
小蔀に人のけはひや春の月
片側に雪積む屋根や春の月
陽炎や石の八陣潮落ちて
陽炎や掘り出す石に温泉の匂ひ
桶に浮く丸き氷や水ぬるむ
子鴉や苗代水の羽づくろひ
春寒の白粉解くや掌
梅ちりて鶴の子寒き二月かな
永き日や花の初瀬の堂めぐり
伐り出す木曾の檜の日永かな
寒食の膳棚に吹く嵐かな
掃き溜の草も弥生のけしき哉
陀羅尼品春の日脚の傾きぬ
暖かやかちん汗かく重の内
脱ぎ捨てし人の晴着や宵の春
春の夜の鳩のうめきや絵天井
行春の鴉啼くなり女人堂
夏近き吊手拭のそよぎかな
山畑は月にも打つや真間の里
銃提げて焼野の煙踏み越ゆる
摘草の約あり淀の小橋まで
一畑は接木ばかりの昼淋し
文使を待たせて菊の根分かな
乞食の子も孫もある彼岸哉
踏青や裏戸出づれば桂川
古雛の衣や薄き夜の市
盃の花押し分けて流れけり
堀止めのこゝも潮干や鰌掘り
出代りて此処に小梅の茶見世かな
涅槃繪の下に物縫ふ比丘尼哉
曇る日や深く沈みし種俵
衣桁にも這ふ蚕に宮の御笑ひ
行雁や射よげに飛んで那須の原
あちこちと鶯飛ぶよ芝広し
鶯や折り焚く柴に夜を啼く
二羽打ちて啼かずなりたる雉子哉
柳鮠かき消すごとく散りにけり
汁椀に大蛤の一つかな
雲雀落つ影も夕日の田毎哉
子雲雀や比叡山おろし起ちかぬる
苗代の水の浅さよ蛙の背
野の梅や折らんとすれば牛の声
垣越えて梅折る人や明屋敷
夕日や納屋も厩も梅の影
灯ともして夜行く人や梅の中
荷車の柳曳きずる埃かな
うたゝ寝の覚むれば[#「覚むれば」は底本では「覧むれば」]桃の日落ちたり
奈良坂や桜に憩ふ油売
さくら折つて墓打ちたゝく狂女かな
北面に歌召されけり梨の花
足伸べて菜の花なぶる野茶屋哉
菜の花の行きどまりなり法隆寺
躑躅ぬけば石ころ/\と転がるよ
仙人や霞を吸ひて寝つ起つ
道尽きて松明振るや雪解川
春雨や酒を断ちたる昨日今日
春雨に杉苗育つ小山哉
浅茅生の宿と答へて朧月
朧夜の雨となりけり渡月橋
小蔀に人のけはひや春の月
片側に雪積む屋根や春の月
陽炎や石の八陣潮落ちて
陽炎や掘り出す石に温泉の匂ひ
桶に浮く丸き氷や水ぬるむ
子鴉や苗代水の羽づくろひ
春寒の白粉解くや掌
梅ちりて鶴の子寒き二月かな
永き日や花の初瀬の堂めぐり
伐り出す木曾の檜の日永かな
寒食の膳棚に吹く嵐かな
掃き溜の草も弥生のけしき哉
陀羅尼品春の日脚の傾きぬ
暖かやかちん汗かく重の内
脱ぎ捨てし人の晴着や宵の春
春の夜の鳩のうめきや絵天井
行春の鴉啼くなり女人堂
夏近き吊手拭のそよぎかな
山畑は月にも打つや真間の里
銃提げて焼野の煙踏み越ゆる
摘草の約あり淀の小橋まで
一畑は接木ばかりの昼淋し
文使を待たせて菊の根分かな
乞食の子も孫もある彼岸哉
踏青や裏戸出づれば桂川
古雛の衣や薄き夜の市
盃の花押し分けて流れけり
堀止めのこゝも潮干や鰌掘り
出代りて此処に小梅の茶見世かな
涅槃繪の下に物縫ふ比丘尼哉
曇る日や深く沈みし種俵
衣桁にも這ふ蚕に宮の御笑ひ
行雁や射よげに飛んで那須の原
あちこちと鶯飛ぶよ芝広し
鶯や折り焚く柴に夜を啼く
二羽打ちて啼かずなりたる雉子哉
柳鮠かき消すごとく散りにけり
汁椀に大蛤の一つかな
雲雀落つ影も夕日の田毎哉
子雲雀や比叡山おろし起ちかぬる
苗代の水の浅さよ蛙の背
野の梅や折らんとすれば牛の声
垣越えて梅折る人や明屋敷
夕日や納屋も厩も梅の影
灯ともして夜行く人や梅の中
荷車の柳曳きずる埃かな
うたゝ寝の覚むれば[#「覚むれば」は底本では「覧むれば」]桃の日落ちたり
奈良坂や桜に憩ふ油売
さくら折つて墓打ちたゝく狂女かな
北面に歌召されけり梨の花
足伸べて菜の花なぶる野茶屋哉
菜の花の行きどまりなり法隆寺
躑躅ぬけば石ころ/\と転がるよ
京都へ嫁入る女子に
暖き加茂の流れも汲み習へ亡児惟行が記念の帛紗に
為山が藤の花画きたれば
為山が藤の花画きたれば
行き行きて行くこの春の形見かな
大刀根の泡や流れて雲の峰
池に落ちて水雷の咽びかな
夕立や石吹き落す六合目
五月雨や蓑笠集ふ青砥殿
五月雨の合羽すれあふ大手かな
蓑を着て河内通ひや夏の雨
清水ある家の施薬や健胃散
雨雲の摩耶を離れぬ卯月かな
大沼や蘆を離るゝ五月雲
短夜や蓬の上の二十日月
短夜の麓に余吾の海白し
午睡さめて尻に夕日の暑さかな
涼しさや月に経よむ一の尼
更へ/\て我が世は古りし衣かな
新茶煮てこの緑陰の石を掃ふ
矢車に朝風強き幟かな
灌仏やはや黒々と痩せ給ふ
大団扇祭の稚児をあふぎけり
滝殿に人ある様や灯一つ
折り/\は滝も浴み来て夏書かな
蓬生の垣に蚊遣す女かな
古庵や草に捨てたる竹婦人
百の井に掘りて水なし雨を乞ふ
一杓は我も飲みつゝ打つ水よ
波立てゝ持ち来る鉢や冷奴
時鳥左近の陣の弓の数
月がさす厠の窓や時鳥
貰ひ来る茶碗の中の金魚かな
老い鳥や己が抜羽を顧る
古御所の蓬にまじり牡丹かな
荒れ寺や塔を残して麦畑
萍の泥にたゞよふ旱かな
一八の東海道も戸塚かな
下闇を出づれば鶏の八つ下り
玉葛の花ともいはず刈り干しぬ
池に落ちて水雷の咽びかな
夕立や石吹き落す六合目
五月雨や蓑笠集ふ青砥殿
五月雨の合羽すれあふ大手かな
蓑を着て河内通ひや夏の雨
清水ある家の施薬や健胃散
雨雲の摩耶を離れぬ卯月かな
大沼や蘆を離るゝ五月雲
短夜や蓬の上の二十日月
短夜の麓に余吾の海白し
午睡さめて尻に夕日の暑さかな
涼しさや月に経よむ一の尼
更へ/\て我が世は古りし衣かな
新茶煮てこの緑陰の石を掃ふ
矢車に朝風強き幟かな
灌仏やはや黒々と痩せ給ふ
大団扇祭の稚児をあふぎけり
滝殿に人ある様や灯一つ
折り/\は滝も浴み来て夏書かな
蓬生の垣に蚊遣す女かな
古庵や草に捨てたる竹婦人
百の井に掘りて水なし雨を乞ふ
一杓は我も飲みつゝ打つ水よ
波立てゝ持ち来る鉢や冷奴
時鳥左近の陣の弓の数
月がさす厠の窓や時鳥
貰ひ来る茶碗の中の金魚かな
老い鳥や己が抜羽を顧る
古御所の蓬にまじり牡丹かな
荒れ寺や塔を残して麦畑
萍の泥にたゞよふ旱かな
一八の東海道も戸塚かな
下闇を出づれば鶏の八つ下り
玉葛の花ともいはず刈り干しぬ
聴衆は稲妻あびて辻講義
朝露や矢文を拾ふ草の中
暁や鐘つき居れば初嵐
我声の吹き戻さるゝ野分かな
税苛し莨畑の秋の風
三日月や仏恋しき草枕
三日月に女ばかりの端居かな
月の船琵琶抱く人のあらはなり
横雲やいざよふ月の芝の海
古妻の昔を語る月夜かな
空家に下駄で上るや秋の雨
初潮を汲む青楼の釣瓶かな
山の井や我顔うつる秋の水
提灯で見るや夜寒の九品仏
山越や馬も夜寒の胴ぶるひ
堂島や二百十日の辻の人
我が描きし絵に泣く人や秋の暮
行秋の石より硬し十団子
下京や留守の戸叩く秋の暮
七夕を寝てしまひけり小傾城
押し立てゝはや散る笹の色紙哉
呼びつれて星迎へ女や小磯まで
屋根越しに僅かに見ゆる花火かな
小袴の股立とつて相撲かな
小角力の水打つて居る門辺かな
魂棚の前に飯喰ふ子供かな
草分けて犬の墓にも詣でけり
墓拝む後ろに高き芒かな
草市の立つ夜となりて風多し
通夜の窓ことり/\と添水かな
提げて行く燈籠濡れけり傘の下
酔顔の況や廻燈籠かな
踊るべく人集まりぬ月の辻
月ももり雨も漏りしを蚊帳の果
つゞくりの遂に破れて秋の蚊帳
巻きかへて又打ち出だす砧かな
摂待に女具したる法師かな
鳩笛も吹きならひけり湯治人
吹くうちに鳩居ずなりぬ野の曇り
綿取りに金剛山の道問ひぬ
山宿や軒端に注ぐ落し水
豹と[#「豹と」は底本では「豺と」]呼んで大いなる蚊の残りたる
桟橋に舟虫散るよ小提灯
蜩や千賀の潮竈潮さして
宵闇や鹿に行き逢ふ奈良の町
初雁や襟かき合す五衣
眼白籠抱いて裏山歩きけり
大寺の屋根に落ちたる一葉かな
したゝかに雨だれ落つる芭蕉哉
芭蕉破れて雨風多き夜となりぬ
灯ともせば只白菊の白かりし
萱原にねぢけて咲ける桔梗かな
いさかひは木槿の垣の裏表
夜をこめて柿のそら価や本門寺
朝露や矢文を拾ふ草の中
暁や鐘つき居れば初嵐
我声の吹き戻さるゝ野分かな
税苛し莨畑の秋の風
三日月や仏恋しき草枕
三日月に女ばかりの端居かな
月の船琵琶抱く人のあらはなり
横雲やいざよふ月の芝の海
古妻の昔を語る月夜かな
空家に下駄で上るや秋の雨
初潮を汲む青楼の釣瓶かな
山の井や我顔うつる秋の水
提灯で見るや夜寒の九品仏
山越や馬も夜寒の胴ぶるひ
堂島や二百十日の辻の人
我が描きし絵に泣く人や秋の暮
行秋の石より硬し十団子
下京や留守の戸叩く秋の暮
七夕を寝てしまひけり小傾城
押し立てゝはや散る笹の色紙哉
呼びつれて星迎へ女や小磯まで
屋根越しに僅かに見ゆる花火かな
小袴の股立とつて相撲かな
小角力の水打つて居る門辺かな
魂棚の前に飯喰ふ子供かな
草分けて犬の墓にも詣でけり
墓拝む後ろに高き芒かな
草市の立つ夜となりて風多し
通夜の窓ことり/\と添水かな
提げて行く燈籠濡れけり傘の下
酔顔の況や廻燈籠かな
踊るべく人集まりぬ月の辻
月ももり雨も漏りしを蚊帳の果
つゞくりの遂に破れて秋の蚊帳
巻きかへて又打ち出だす砧かな
摂待に女具したる法師かな
鳩笛も吹きならひけり湯治人
吹くうちに鳩居ずなりぬ野の曇り
綿取りに金剛山の道問ひぬ
山宿や軒端に注ぐ落し水
豹と[#「豹と」は底本では「豺と」]呼んで大いなる蚊の残りたる
桟橋に舟虫散るよ小提灯
蜩や千賀の潮竈潮さして
宵闇や鹿に行き逢ふ奈良の町
初雁や襟かき合す五衣
眼白籠抱いて裏山歩きけり
大寺の屋根に落ちたる一葉かな
したゝかに雨だれ落つる芭蕉哉
芭蕉破れて雨風多き夜となりぬ
灯ともせば只白菊の白かりし
萱原にねぢけて咲ける桔梗かな
いさかひは木槿の垣の裏表
夜をこめて柿のそら価や本門寺
凩の吹きあるゝ中の午砲かな
折りくべて霜湧き出づる生木かな
初霜をいたゞきつれて黒木売
もてあます女力や雪まろげ
大雪の谷間に低き小村かな
月寒し袈裟打ち被る山法師
古塚や冬田の中の一つ松
萩窪や野は枯れ果てゝ牛の声
初冬の襟にさし込む旭かな
小春日の山を見て掃く二階かな
湖を抱いて近江の小春かな
釜に湧く風邪の施薬や小春寺
冬の夜や小犬啼きよる窓明り
僧定に入るや豆腐の氷る時
耳うとき嫗が雑仕や冬ごもり
書を積みし机二つや冬ごもり
門前の籾を踏まるゝ十夜かな
横はる五尺の榾やちよろ/\火
古蒲団縄にからげていた/\し
繕ひて幾夜の冬や紙衾
炭焼の顔洗ひ居る流れかな
風呂吹の一切づゝも一句かな
顔見世や病に痩せて菊之丞
寒声は女なりけり戻り橋
有明や鴛鴦の浮寝のあからさま
鮟鱇の口から下がる臓腑かな
茶の花をまたいで出でつ墓の道
から/\と日は吹き暮れつ冬木立
樹にかけし提灯一つ師走かな
大年の両国通ふ灯かな
煤掃や庭に居並ぶ羅漢達
暁や見附出づれば餅の音
忘れけり四十九年の何とやら
折りくべて霜湧き出づる生木かな
初霜をいたゞきつれて黒木売
もてあます女力や雪まろげ
大雪の谷間に低き小村かな
月寒し袈裟打ち被る山法師
古塚や冬田の中の一つ松
萩窪や野は枯れ果てゝ牛の声
初冬の襟にさし込む旭かな
小春日の山を見て掃く二階かな
湖を抱いて近江の小春かな
釜に湧く風邪の施薬や小春寺
冬の夜や小犬啼きよる窓明り
僧定に入るや豆腐の氷る時
耳うとき嫗が雑仕や冬ごもり
書を積みし机二つや冬ごもり
門前の籾を踏まるゝ十夜かな
横はる五尺の榾やちよろ/\火
古蒲団縄にからげていた/\し
繕ひて幾夜の冬や紙衾
炭焼の顔洗ひ居る流れかな
風呂吹の一切づゝも一句かな
顔見世や病に痩せて菊之丞
寒声は女なりけり戻り橋
有明や鴛鴦の浮寝のあからさま
鮟鱇の口から下がる臓腑かな
茶の花をまたいで出でつ墓の道
から/\と日は吹き暮れつ冬木立
樹にかけし提灯一つ師走かな
大年の両国通ふ灯かな
煤掃や庭に居並ぶ羅漢達
暁や見附出づれば餅の音
忘れけり四十九年の何とやら