一
なにかの話から、神田の柳原の噂が出たときに、老人はこう語った。
「やなぎ原の
慶応初年の八月初めである。ここらで怪しい噂が立った。誰が云い出したのか知らないが、日がくれてから一人の女が、この柳原堤の清水山のあたりにあらわれるというのである。
「なに、
気の強いものは笑っていた。柳原通りの筋違から和泉橋にむかった南側には、むかしは武家屋敷が続いていたのであるが、その後に取り払われて
しかしそれがほんとうの夜鷹でないことは、夜鷹自身が其の女におびやかされたという事実によって証明された。
こういう噂がそれからそれへと伝えられて、このごろ清水山のあたりにあらわれる女は夜鷹のたぐいではない、まったく何かの怪異に相違ないということになった。前にもいう通り、元来が一種の魔所のように恐れられている場所だけに、それが容易に諸人にも信じられて、近所の湯屋や髪結床では毎日その噂がくり返された。それに又いろいろの作り話も加わって、かの女は清水山の洞穴に年ひさしく棲む
こんにちと違って、江戸時代に妖怪の探索などということはなかった。その妖怪がよほど特別の禍いをなさない限りは、いっさい不問に付しておくのが習いで、そのころの江戸市中には化け物が出ると云い伝えられている場所はたくさんあった。現に牛込矢来下の酒井の屋敷の横手には
神田岩井
「旗本屋敷の
「そうかも知れねえ」と、喜平も笑った。
これは誰でも考えそうなことで、現にその時もそんな説を唱える者もあったのである。しかしそれが中ごろから青い鬼ではなく実は青い蛇であったように伝えられて、それから大蛇の精などという噂も生み出されたのであった。そういうわけで、銀蔵は清水山の怪異が果たして真の妖怪であるや否やを疑っている一人であった。おなじように調子をあわせていながらも、喜平はあくまでもそれを一種の怪物であると信じていた。
二人はめいめいに違った心持をいだいて、同じ目的地に到着した頃には、秋の日はすっかり暮れ切っていた。その怪しい女があらわれるという時刻は一定していないのである。ある者は宵の口に見たといい、ある者は夜ふけに出逢ったというのであるから、その探索に出向いて来た以上、どうでも宵から夜なかまでここらに見張っていなければならないので、二人は堤の下を
宵を過ぎると、柳原の通りにも往来の人影はだんだん薄くなった。例の夜鷹の群れも妖怪のうわさに恐れて、この頃は和泉橋よりも東の堤寄りに巣を換えてしまったので、二人はからかっている相手もなかった。喜平ほどの熱心家でもない銀蔵はすこし退屈して来たところへ、五ツ(午後八時)を過ぎる頃から細かい雨がほろほろと落ちて来た。
「あ、降って来た。こりゃあいけねえ」と、銀蔵は空をあおいだ。
この企ては今夜に限ったことでもない。近所のことであるから、あしたの晩また出直そうではないかと、かれは丁度幸いのように云い出した。
「なに、たいしたこともあるまい。折角出かけて来たもんだから、もう少し我慢してみようじゃあないか。強く降って来たら、駈け出して帰る
喜平は強情に主張するので、銀蔵は渋々ながら附き合っていると、雨はさのみ強く降らないで、やがて
「それ見ねえ。すぐ止んだ」
「だが、いやに薄ら寒くなって来たな」と、銀蔵は肩をすくめた。「夜が
ふたりは大通りを横切って、戸をおろしてある床店の暗い軒下にはいろうとすると、店と店とのあいだから一つの黒い影があらわれた。不意をくらって、ふたりは思わずためらっていると、その黒い影は静かに動き出した。それが
二
銀蔵は勿論、
「白い
「そりゃあ九月だもの」と、喜平は云った。
「化け物なら時候によって着物を着換えやしめえ。こりゃあ違うだろう」と、銀蔵はまた云った。
「なにしろ、もうちっと正体を見とどけよう」
ふたりは薄月のひかりを頼りに、その黒い影のいかに動くかをうかがっていると、それは頬かむりをしている男であるらしいので、銀蔵はまた失望した。
「おい、男だぜ」
「まあ、いいから黙っていろ」
喜平は飽くまでも熱心にうかがっていると、その影は往来のまん中に立ちどまったかと思うと、又しずかに歩き出して、かの清水山の堤の裾に近寄った。それ見ろと、喜平は銀蔵にささやいて、
「畜生」と、ふたりは同時に
しかしこれで妖怪の正体は大抵わかったように思われた。黒い影は妖怪ではない。普通の人間であるらしい。なにかの秘密があって、その一人が清水山へ忍んで行くところを、喜平らが見つけてそのあとをつけたので、ほかの仲間がどこからか現われて来て、不意に彼らふたりを
「奴らはきっと泥つくだぜ」と、銀蔵は着物の泥をはたきながら云った。「さもなけりゃあ
清水山が魔所と恐れられているのを幸いに、一団の賊がそこを隠れ家にしているのか。あるいは博奕打ちの仲間がそこに入り込んで、ひそかに賭場を開いているのか。二つに一つであろうと彼らが判断したのも無理はなかった。
「そう判ったら構うことはねえ。押し掛けて行ってやろうじゃねえか」と、喜平はなぐられた頬を撫でながらいきまいた。
「むむ、だが、向うが大勢だと
銀蔵はまた二の足を踏んだ。かれらの仲間が二人いることは確かである。まだそのほかにも幾人かの仲間が潜んでいるかも知れない。そこへ自分たちふたりが
店へ帰って、その晩は無事に寝たが、喜平はくやしくてならなかった。化け物ならば格別、どうも人間らしい奴の大きい手で、眼から火の出るほどに撲り付けられたことが
「おらあくやしくってならなかったが、銀の奴が弱いもんだからとうとう詰まらなく引き揚げて来てしまった。なんとか意趣がえしのしようはあるめえかしら」
大勢は好奇の眼をかがやかして、息もつかずにその話を聞きすましていたが、そのなかでも勝次郎という若い大工はそれに特別の興味をもったらしく、ひたいの鉢巻をしめ直しながら云った。
「おい、喜平さん。まったくそのままで済ませるのは詰まらねえ。今夜わたしが一緒に行こう」
「おまえが行ってくれるか」
「むむ、行こう。中途で引っ返して来ちゃあいけねえ。なんでも強情に正体を見とどけて来るんだ」
新らしい味方をみつけ出して、喜平は新らしい勇気が出た。
「じゃあ。勝さん。ほんとうに行くかえ」
「きっと行くよ。嘘は云わねえ」
その詞のまだ終らないうちに、二人のうしろに立てかけてあった大きい材木が不意にかれらの上に倒れて来た。それに頭を撃たれれば勿論、背中や腰を撃たれても定めて大怪我をするのであったが、さすがに商売であるだけに、喜平も勝次郎もあやういところで身をかわした。ほかの者もおどろいて一度に飛び
「どうしてこの丸太が倒れたろう」
人々は顔を見あわせた。しかもその材木が偶然かも知れないが、あたかも今夜ふたたび清水山へ探索にゆこうと相談している二人の上に倒れかかって来たということが、大勢の胸に云い知れない恐怖を感じさせた。今まで強がっていた勝次郎の顔は俄かに蒼くなった。喜平もしばらく黙っていた。
「さあ、そろそろ仕事に取りかかろうか」と、そのなかで一番年上の大工は
「喜平さんも勝公も、まあ、詰まらねえ相談は止した方がいいぜ」
どの人もそれぎり黙って、めいめいの仕事にとりかかった。夕方に仕事をしまって大工たちがみな帰ったときに、勝次郎も消えるように姿を隠した。また出直して来るのかと、喜平はいつまでも待っていたが、勝次郎は夜のふけるまで姿をみせなかった。材木の倒れて来たのにおびやかされたか、または他の大工に意見されたか、それらのことで彼は俄かに変心したらしく思われた。あいつもやっぱり弱い奴だと、喜平はひそかに舌打ちしたが、さりとて自分もひとりで踏み出すほどの勇気はないので、その晩は残念ながらおとなしく寝てしまった。
あくる日、仕事場で勝次郎に逢うと、かれは喜平にむかって頻りに違約の云い訳をしていた。家へ帰って夕飯を食って、それから出直して来ようと思っていると、あいにく相長屋に急病人が出来たので、その方にかかり合っていて、いつか夜が明けてしまったと、彼はきまり悪そうに説明していたが、喜平はそれを信用しなかった。
「そこで、お前は今夜も行くのかえ」と、勝次郎は
「いや、もう止そうよ。また丸太が倒れて来ると怖いからな」と、喜平は皮肉らしく云った。
勝次郎は黙っていた。
喜平はもう彼を見かぎっていた。一時の付け元気で一緒に行こうなどと云ったものの、かれは確かに中途で変心したに相違ない。そんな弱虫はこっちでも頼まないと、喜平は腹の底でかれの臆病をあざけり笑っていた。その日のひる過ぎにかの木挽の銀蔵が来たので、喜平はもう一度かれを道連れにしようと誘いかけてみたが、銀蔵もなんだかあいまいな返事をしているばかりで、いつの間にかふいと立ち去ってしまった。
銀蔵といい、勝次郎といい、
「誰かないかな」
かれは強情にかんがえた末に、同町内の和泉という建具屋の若い職人を誘い出すことにした。職人は茂八といって、ことしの夏は根津神社の境内まで素人相撲をとりに行った男である。かれは喜平の相談をうけて、一も二もなく承知した。
「そういうことなら早くおれに相談してくれればいいのに······。実はおれもやってみようかと思っていたところだ」
案外に話が早く纏まって、二人が柳原へ出かけたのは、最初の晩から四日目の暮れ六ツ過ぎであったが、このごろの
宵闇ではあったが、今夜の大空には無数の星がきらめいていた。その星あかりの下に、この頃はもう散りはじめた堤の柳が夜風に乱れなびいているのも、
「どうだい、いっそ山のなかへ這入ってみようか」と、茂八は云い出した。
「はいろうか」
ふたりは思い切って、この暗い夜の清水山へ踏み込むことになった。もとより深い山ではないが、前にも云ったような事情で久しく鎌を入れたことがないので、ここには灌木や秋草が一面に生い茂って、闇の底から白い
三
「おい、何か出たぜ」
ふたりは小声でたがいに注意した。
なにぶんにも草が深いので、今だしぬけにあらわれて来た
ふたりは手に武器を持っていたが、鑿や小刀のような小さい刃物では、足もとへ低く飛び込んで来る敵を撃ちはらうには甚だ不便であった。殊に相手の正体がわからないので、ふたりは一種の恐怖に襲われて、茂八はふだんの力自慢にも似あわずに、まず引っ返して逃げ出した。その臆病風に誘われて、喜平もつづいて逃げた。堤をころげ降りて往来へ出ると、敵はそこまでは追って来ないらしいので、ふたりは立ちどまって顔をみあわせた。
「狐だろうか」と、茂八はあとを見かえりながら一と息ついた。
「狐にしちゃあ大き過ぎるようだ」と、喜平は首をひねった。
「それじゃあ
「それとも河岸の方から
狐か鼬か河獺か。ふたりは往来に立ってその
銀蔵といい、茂八といい、味方は揃いも揃って口ほどにもない弱虫であるのが、喜平には腹立たしく思われてならなかった。さりとて自分ひとりで実行するほどの勇気もないので、更に頼もしい味方を新らしく見つけ出そうと考えているうちに、かの茂八が
それが主人の耳にはいって、茂八は和泉屋の主人から叱られた。とりわけて喜平はその
問題の白い浴衣も寒空にむかっては姿をあらわさないとみえて、その方の噂はだんだんに消えて行ったが、喜平らによって新らしく生み出された大入道と九尾の狐の噂は容易に消滅しないばかりか、それを瓦版にして売りあるく者さえ出来たので、八丁堀同心らももう棄てておかれなくなった。前にも云ったようなわけで、町奉行所では大入道や九尾の狐を問題にはしなかったが、八丁堀の人々はともかくも一応は念のために、その噂の実否を取り調べておく必要をみとめた。場所が神田にあるので、三河町の半七が八丁堀の
「半七。お前の縄張り内に大入道と九尾の狐が巣をつくっているそうだ。どうも大変なことだな」と、金太夫は笑った。「あんまりばかばかしいと思うものの、世間を騒がせることはよくねえことだ。わざわざおまえが汗をかくほどの仕事でもあるめえが、縄張り内に起ったのがお前の不祥だ。誰か若い奴らでもやって、ひと通りは詮議させてくれ」
半七ほどの御用聞きに対して、いかに役目でもこんな仕事を直接に働けとは云いにくいので、子分の若い者どもに勤めさせろと云いつけたのである。それは半七も呑み込んでいるので、こころよく承知した。
「自分の鼻の先のことを御指図で恐れ入りました。実は若い奴らからそんな話を聞かないでもなかったのですが、ほかの御用に取りまぎれて居りまして······」
「いや、忙がしくなくっても、こんなべらぼうな仕事は立派な男の勤める役じゃあねえ」と、金太夫はまた笑った。「清水山というと大層らしいが、堤の幅にしてみたら多寡が三、四間、おそらく五間とはあるめえ。高さだって知れたもので足長島の人間ならば一とまたぎというくらいだ。そんなところに鬼が棲むか、
「ごもっともでございます」と、半七も笑った。「まったく油断は出来ません。では、早速に調べあげてまいります」
半七は家へ帰って、すぐ子分の幸次郎と善八を呼んだ。
「ほかじゃあねえが、清水山の一件だ。おれは馬鹿にしてかかっていたので、旦那の方から声をかけられてしまった。もう打っちゃっては置かれねえ。ひと通り調べてきてくれ。だが、おれの指図するまでは現場の方へはむやみに手をつけるなよ」
「あい。ようがす」
二人はすぐに出て行った。今までは初めから馬鹿にし切って、ほとんど問題にもしていなかったのであるが、さてそれが一つの仕事となると、半七の神経はだんだんに鋭くなって来て、なんだか子分共ばかりには任せておかれないような気にもなったので、かれも午過ぎから家を出た。それは喜平らが最後の探検から一と月あまりを過ぎた頃で、十月ももう末に近い薄陰りの日であった。
「なんだか
どこという
神田に多年住んでいて、ここらは眼をつぶっても歩かれるくらいによく知っているのではあるが、こういう問題が新らしく湧き出して来ると、やはり一応は念入りに調べてみなければならないので、半七は
金太夫も云う通り、山というのは名ばかりで、足の長いものならばまたぎ越えられるぐらいの小さい高地で、全体の地坪から見ても三四十坪を過ぎまいと思われるのであるが、昔から奇怪な伝説の付き纏っているところだけに、生い茂った灌木のあいだには高い枯れ草がおおいかかって、どこから吹き寄せたとも知れない落葉がまたその上をうずめていた。気のせいか何となく物凄い場所ではあるが、これが山の手の奥とか、
「親分さん。どちらへ」
気がついて見返ると、それは此の堤下に
「やあ、親方。寒いね」と、半七も挨拶した。
「寒いにも何にも······。わたしはこの冬になって、もう三度も
「世のなかは逆になったからな。やがてそうなるかも知れねえ」と、半七も笑った。「いや、恐ろしいといえば、この頃この山が物騒だというじゃあねえか」
「まったくおお物騒。馬鹿に世間がそうぞうしいので驚きますよ。山卯の若い衆が
諸人が毎日寄りあつまる髪結床の亭主だけに、甚五郎は清水山の出来事については何から何までくわしく知っていた。勿論、例の冗談も幾らかまじっているらしかったが、その関係者の喜平、銀蔵、茂八のことから、大入道や九尾の狐の怪談まで、かれは半七に問われるままに一々説明した。
「主人や番頭に
「今度は誰が出て来たんだ」と、半七はきいた。
「今度のは飯田
池崎弥五郎は麹町の飯田町に屋敷をかまえている千二百石の旗本である。その中間のひとりがこの八月に清水山の下を通っている白い浴衣の女にからかって、青鬼のような顔をみせられて、気が遠くなって倒れた。その当時にも大部屋の中間どもが清水山探検に押し出そうとしたのであるが、余り騒ぎ立てるのもよくあるまいという部屋頭の意見で、一旦はそのままに鎮まったが、大入道や九尾の狐の噂がだんだんに高くなったので、彼等はもうたまらなくなった。かれらは五人連れで、きょうの
「そりゃあちっとも知らなかった」と、半七はその話に耳を傾けた。「そうして、どうしたえ」
「なにしろ大部屋の連中ですからね、大きな犬を一匹連れて来たんです。人を化かす古狐がこの山に棲んでいるに相違ないから、犬を入れて狐狩をするというわけで······」
「そこで狐が出たかえ」
「狐は出ませんが、妙なものが出ましたよ」
甚五郎は顔をしかめてみせた。
四
自分がこれから手を着けようとするところへ、素人がむやみに踏み込んで荒らされては困ると、半七は
「妙なものとはなんだえ。まさか人間の首でもあるめえ」
「首じゃあありませんが、まんざら首に縁のねえこともねえんで······」と、甚五郎は笑いながら答えた。「わたしは見たわけじゃありませんが、なんでも白木の箱が出たそうですよ。その犬がくわえ出して来たんです。箱は
「犬が
「それでも長さは小一尺ほどもある細長い箱で、はて何だろうとすぐに打ち
「それから、その箱をどうした」
「中間たちも薄気味悪くなったんでしょう。こんなものはしょうがねえというんで、川へほうり込んでしまったそうですよ」
半七はまた舌打ちした。その怪しい箱が何かの手がかりになろうものを、神田川へほうり込んでしまわれてはどうにもならない。それだから素人には困ると思いながら、それからどうしたと更にたずねると、中間どもはその上にまだ何かの獲物があるかと思って、再び犬を追い込んでみたが、犬は空しく引っ返して来たので、もう仕方がないとあきらめたらしく、そのまま引き揚げてしまったとのことであった。
「じゃあ、誰もはいっては見なかったんだな」と、半七は念を押した。
「誰もはいった者はなかったようです。なんのかのと云っても、やっぱり気味がよくねえんでしょう」と、甚五郎はまた笑った。
かれらに踏み荒らされないのが、せめてもの仕合わせであったと半七は思った。甚五郎にわかれて、半七はこれからともかくも山卯の材木店へ行ってみようかと、岩井町の方へふみ出すと、ちょうど幸次郎の来るのに出逢った。かれは親分の顔を見て駈けて来た。
「とりあえず山卯へ行って、発頭人の喜平を調べて来ました。それから建具屋の茂八も一と通りは調べましたが、どうもこれという手がかりもねえので困りました。木挽の方は善八が出かけて行きましたから、なにかいい種をあげて来るかも知れません」
大入道や九尾のきつねは嘘であるが、不意に大きい手があらわれて喜平と銀蔵をなぐり倒したのは事実である。喜平と茂八が
「親分。これからどうしましょう」と、幸次郎は相談するように
「そうさなあ」と、半七はかんがえていた。
「やっぱり張り込みましょうか」
「むむ。知恵のねえやり方だが、そうするかな」
幸次郎の耳に口をよせて何か云い聞かせると、かれはうなずいて
たった今幸次郎に調べられて、又もやその親分の半七が来たというので、喜平は少しおちつかないような顔をして出て来たのを、半七は眼で招いて、店の横手に立てかけてある材木のかげへ連れ込んだ。
「今しがた
「利助に藤次郎と申します」と、喜平は答えた。「御用なら呼んでまいりましょうか」
「まあ、待ってくれ。その利助に藤次郎は幾つだね」
「どっちも同い年で十六でございます」
「どっちがおとなしいね」
「藤次郎の方が素直でおとなしゅうございます。利助の奴はいたずら者で、この夏にも一旦暇を出されたのですが、親元からあやまって来まして、また使っているようなわけでございます」
「それから大工の勝次郎というのはどんな奴だね。おまえさんと一緒に清水山へ出かける筈で、途中で臆病風に吹かれたとかいう話だが、そいつは博奕でも打つかね」
「小博奕ぐらいは打つようです。家は
「意気地のない奴だな」
「まったく意気地のない奴ですよ」
勝次郎の寝がえりを余ほど
「その勝次郎はきょうも来ているかえ」と、半七は
「いいえ、来ていません。このごろは
「そうか。じゃあ、その利助という小僧を呼んで貰おう。ただ黙って連れて来てくれ」
「はい、はい」
喜平は引っ返して行こうとして、にわかに声を
「やい、この野郎」
その声におどろいて、半七も見かえると、喜平はうしろの材木のかげから一人の小僧をひきずり出して来た。それはかのいたずら小僧であることを半七もすぐ覚った。
「親分さん。こいつが利助です。やい、手前はさっきからそこに隠れていて、なにを立ち聴きしていやあがったんだ」と、喜平はかれの胸を小突きながら半七の前に突き出した。
「まあ、小さい者をそう叱るな。喜平どん、一緒にいちゃあ調べるのに都合がわるい。ちっとあっちへ行っていてくれ」
まだ不安らしい眼をして睨んでいる喜平を追いやって、半七はしずかに云い出した。
「だが、利助。おまえはどうも評判がよくないようだぞ。子供だといっても、もう十六だ。物事の善い悪いはわかっている筈だのに、なぜあんな悪いことをした」
だしぬけに睨みつけられて、利助は
「おれは三河町の半七だ。嘘をつくと縛ってしまうぞ。おまえは先月、あの喜平と大工の勝次郎とが清水山へ行く相談をしている時に、誰にたのまれて仕事場の材木を倒した」
さすがのいたずら小僧も俄かに顔の色かえて、
「なぜ黙っている。なぜ返事をしねえ。さあ、誰にたのまれて丸太を倒した。大きい丸太が倒れて来て、人の脳天でもぶち割ったらどうする。貴様はまぎれなしの
利助はうつむいたままで、やはり黙っていた。
「論より証拠、自分にうしろ暗いことがないのなら、なぜそんなところに隠れて立ち聴きをしていたのだ。いくら貴様が強情を張っても、おれはちゃんと知っているぞ」と、半七は笑った。「そんなに隠すならおれの方から云って聞かせる。あの丸太を倒せと教えたのは、大工の勝次郎だろう。どうだ、まだ隠すか」
如何にいたずらでも強情でも、ことし十六の小僧は半七の敵ではなかった。一々図星をさされて、利助はとうとう降参した。かれは半七の問いに落ちて、このあいだ仕事場で材木を倒したのは、自分の仕業に相違ないと白状した。それを頼んだのは確かに大工の勝次郎で、かれから百文の
その白状を残らず聞いた上で、半七は利助を番頭のところへ連れて行った。そうして、あらためてこの小僧を番屋へ呼び出すまでは、決して表へ出してはならないと堅く戒めて帰った。
五
半七は山卯の材木店を出て、ふたたび柳原の通りへ引っ返してくると、あとから子分の善八が追って来た
「親分。山卯の店へたずねて行ったら、親分はたった今帰ったというので、すぐに追っかけて来ました。番頭の話では、利助という小僧がなにか眼をつけられたそうですね」
「むむ、まあ、大抵は見当がついたようだ」と、半七は笑った。「ところで、
「銀蔵の奴は駄目でした。別に手がかりになりそうなこともありませんよ」
善八は自分が調べて来ただけのことを話した。それは幸次郎の報告と大差ないもので、かれ自身も失望している通り、別に新らしい手がかりになりそうな材料を含んでいなかった。
「まあ、銀蔵も喜平も別に係り合いはなさそうだ。それより大工の勝次郎という若い野郎を引き挙げてくれ。こいつは石町の油屋に仕事に行っているそうだから」
「ようがす。すぐに番屋へ引っ張って来ますかえ」
「むむ。おれは先に行って待っている」と、半七は云った。「相手は若けえ奴だ。おまけに大工だというから、なにか切れ物でも持っているかも知れねえ。気をつけて行け」
善八にわかれて、半七はすぐに町内の自身番へ行こうとしたが、かれが日本橋の石町へ行って本人を引っぱって来るまでには、まだ相当の
「やあ、親分。先ほどは······」と、かれは起って挨拶した。「きたないところですが、まあお掛けなさい」
自分の店へ髪を結いに来たのでないことは甚五郎も初めから承知しているので、かれは
「親分も清水山の一件をお調べになるんですかえ」
「世間がそうぞうしいので、まんざら打っちゃっても置かれねえ」と、半七も煙草入れを出しながら云った。
「実はさっきお話をしませんでしたが、池崎の屋敷の中間のほかに、こんなことがありましたよ。これはわたしだけが知っていることなんですがね。なんでも八月の中頃からでしょうか、変な男がときどき髪を
「それがどう変なのだ」
「どうということもありませんが······。わたしも客商売で、毎日いろいろの人に逢っていますが、どうもその男の様子がなんだか変でしたよ」
「その男は今でも来るかえ」と、半七は煙草を吸いながらしずかにきいた。
「いや、それがまたおかしいんです。九月のなかば過ぎ、山卯の若い衆が清水山へ見とどけに出かけてから二、三日あとのことでした。その男がいつもの通りふらりとはいって来て、わたしに髭を当らせていると、そこへまたほかの客がはいって来て、山卯の若い衆の噂をはじめると、その男は黙って聞いていたが、やがてにやりと
「それっきり来ねえか」
「それっきり一度も顔をみせません。ねえ。親分。なんだか変じゃありませんか。そいつは今も云う通り、色の黒い、骨太の、頑丈な奴でしたよ」
喜平と銀蔵をなぐり倒した大きい手の持ち主はかの男ではないかと、甚五郎は疑っているらしかった。半七もそう思った。
「そいつは二人連れで来たこともあるんだね」
「ありますよ」と、甚五郎はうなずいた。「もう一人の男は少し若い三十二三ぐらいの、これはずっと小作りの男でした」
「商売の見当はつかないかね」
「さあ」と、甚五郎は首をかしげた。「どうも江戸じゃありませんね。まあ近在のお百姓でしょうかね」
「いや、ありがとう。いいことを教えてくれた。うまく行けば一杯買うぜ」
「どうも恐れ入りました。こんな話が何かのお役に立てば結構です」
半七はここの店を出て、山卯の町内の自身番へ行ってみると、善八はまだ来ていなかった。
「おい、御苦労」と、半七は勝次郎に声をかけた。「よくすぐに来てくれたな」
「親分さんの御用だということですから」と、勝次郎はおとなしく答えた。
よく見ると、かれの顔はどことなく
「そこで早速だが、お前は柳原の清水山へ何しに行くんだ」
「いいえ、行ったことはございません。山卯の喜平どんに誘われましたが、どうも気が進まないのでことわりました」
「気が進まないなら、なぜ初めに自分の方から行こうと云い出したんだ。いやなものなら黙っていたらよさそうなもんだ。一旦行こうとしながら、中途で寝返りを打つばかりか、山卯の小僧に百の銭をくれて、仕事場の丸太をなぜ倒さした。そのわけが
「へえ」
それに対して何か云い訳をかんがえているらしい勝次郎の頭の上へ、半七はつづけて浴びせかけた。
「一体おめえは妙な知りびとを持っているな。あの三十五六の色の黒い、骨太の男はなんだ」
勝次郎は黙ってうつむいていた。
「それから三十二三の小作りの男······あんな奴らとなぜ附き合っているんだ」
勝次郎は真っ蒼になってふるえ出した。
「もう何事もお
半七に睨まれて、若い大工は骨をぬかれたようにへたばってしまった。
「さあ、なんとか返事をしろ。黙っているなら、おれの方からもっと云って聞かしてやろうか。だが、おれに口をきかせれば利かせるほど、貴様の罪が重くなるのだから、その積りでいろ。それともここらで素直に云うか」
再び睨みつけられて、勝次郎はあわてて叫んだ。
「親分、堪忍してください。申し上げます、申し上げます」
半七は善八に云いつけて、茶碗に水を入れて来て勝次郎の前に置かせた。
「さあ、水をやる。一杯のんで、気をおちつけて、はっきりと申し立てろ」
「ありがとうございます」と、勝次郎はふるえながらその水をひと口飲んだ。そうして、板の間に手をついた。
「こうなれば何もかも
「うそをつけ」と、半七はまた睨んだ。「どうも強情な奴だな。じゃあ、おれの方からよく云って聞かせる。貴様が
「恐れ入りました」と、勝次郎は声をふるわせた。「親分のおっしゃることは一々図星でございます[#「ございます」は底本では「ごさいます」]。しかし親分、わたくしは清水山の一件に係り合いがあるには相違ありませんが、決して悪いことをした覚えはないのでございます。まあ、お聞きください。ことしの七月の末でございました。日が暮れてもなかなか残暑が強いので、涼みながら鼻唄で柳原の堤下を通りました。もうかれこれ五ツ半(午後九時)頃でしたろう。ふいと見ると、うす暗いなかに白地の浴衣を着ているらしい女がぼんやりと突っ立っているんです。しけを食った夜鷹だろうと思って、からかい半分にそばへ寄って、何か冗談を云いかけると、その女はいきなりわたくしの腕をつかまえて、堤の上へ引っ張って行く。こっちも若いもんですから、いよいよ面白くなって付いて行きました。ところが、相手は夜鷹どころか、別れる時に、向うから一分の金をわたくしの手に握らせてくれました。そうして、あしたの晩もきっと来てくれと云うんです。いよいよ嬉しくなって、そのあしたの晩も約束通りに出かけて行くと、女はやっぱり待っていました。出逢う所はいつでも清水山で、逢うたびにきっと一分ずつくれるんですから、こんな面白いことはないと思っていると、忘れもしない八月八日の晩でした。その晩はいい月で、女の顔が······。女はいつも手拭を深くかぶっているので、一体どんな女だかよくわからなかったんですが、今夜こそはよく見とどけてやろうと思って、月明かりで手拭のなかを覗いてみると、いやどうもおどろきました。その女は両方の眼のまわりから鼻の下あたりまで、まるで
かれは茶碗の水を又ひと口のんで、しばらく息を休めていた。
六
その後の成り行きについて勝次郎はこう訴えた。
かれは一時逃がれの気やすめを云って、その晩はともかくも化け物のような女から放たれたが、色も慾も消えうせて、もう二度とかの女に逢う気にもならないので、あくる晩は約束にそむいて清水山へ出かけて行かなかった。しかもなんだか自分の家にはおちついていられないので、かれは近所の女師匠のところへ遊びに行って、四ツ(午後十時)を合図に帰ってくると、家のまえにはかの女が幽霊のように立っていた。勝次郎はひとり者で、表の戸をしめて出たので、女はその軒下にたたずんで彼の帰るのを待ちうけていたのである。それをみて、勝次郎は又おどろかされた。こういうことになると知っていたら、迂濶に自分の居どころを明かすのではなかったと今さら悔んでも追っ付かないので、彼はよんどころなくその化け物を内へ連れ込むことになったが、女は内へはいらずに帰った。
女は帰るときに堅く念を押して、もし約束を
そのうちに、柳原堤に怪しい女が出るという世間の噂がだんだん高くなって来るので、勝次郎はそれに対してもまた一種の不安を感じはじめて、逢いびきの場所をどこへか換えようと云い出したが、女はなぜか承知しなかった。年の若い勝次郎は清水山が魔所であるという伝説については、今まで余り多くの注意を払っていなかったが、化け物のような女がこの清水山に執着しているのを考えると、今更のように又いろいろのことが思いあわされて、かれの恐怖は日ましに募るばかりであった。さりとて、宿がえをすることも出来ない、まさか他国へ逃げてゆく訳にも行かない。いっそ思い切って誰かに打ち明けて、その知恵を借りようかと思いながら、それもやはり躊躇して日を送るあいだに、かの山卯の喜平の探検がはじまった。
半七が鑑定した通り、脛に疵もつ彼はわざと強そうなことを云って、喜平と一緒に清水山へゆくことを約束したが、勿論そんな気はないので、山卯のいたずら小僧に百文の銭をやって、仕事場の材木を不意に倒しかけて喜平を
喜平らの探検を恐れて、かの女が姿をかくしてしまったのは、勝次郎にとっては
その申し立てに、少しく疑わしい点がないでもなかったが、半七はその以上に彼を吟味しなかった。それでも念のためにまた
「そのお勝とかいう女は、それっきりちっとも音沙汰がないんだな」
「その当時はなんどきまた押し掛けて来るかと、内々心配していましたが、もうひと月の余になりますけれども、それっきり影も形もみませんから、もう大丈夫だろうと安心しているのでございます」
「そうか」と、半七はうなずいた。「そこで、おまえはこの六月から七月頃にかけて、何処とどこへ仕事に行った」
勝次郎はこの頃ようよう一人前の職人になったのであるから、自分の得意場などは持っていない。いつも親方に引き廻されているのであるが、六月から七月にかけては、日本橋で二軒、神田で一軒、深川で一軒、雑司ヶ谷で一軒、都合五カ所の仕事に出たが、いずれも三日か四日の
「よし、わかった。これで今日は帰してやる。御用があって又なんどき呼び出すかも知れねえから、仕事場の出さきを
「かしこまりました」
「それからお前に云っておくが、まあ当分は夜あるきをしねえがいいぜ。なるたけ自分の
委細承知しましたと云って、勝次郎は早々に立ち去った。
「親分、どうです」と、善八はかれの姿を見送りながら小声で
「幸の奴は清水山に張り込ませることになっているから、おめえ御苦労でも誰かと手分けをして、あいつの仕事さきを一々洗って来てくれ」
「どんなことを洗ってくるんです」
「一から十までくわしいほどいいんだが、大体の目安はこうだ」と、半七は子分の耳に口をよせた。
何をささやかれたのか、善八は一々うなずいて、これも早々に出て行った。たとい手分けをしたにしても、日本橋と神田と深川を調べて来るのは、右から左というわけには行かない。殊に雑司ヶ谷などという遠いところもある。
あくる朝、
「どうもいけません。この姿で清水山に夜通し寝ていましたが、犬ころ一匹出て来ませんでした」と、かれは朝の寒さにふるえながら云った。
「御苦労、御苦労。さあ、朝湯へでも飛び込んでおよいで来い」と、半七は幾らかの銭をやった。
「今夜も張り込みますかえ」
「まあ、それはもう少し考えてみよう」
幸次郎が着物を着かえて出てゆくと、半七もすぐに朝飯を食って出た。そうして、きのうの通りに清水山の下をひとまわりして、それから山卯の店へ立ち寄ると、ちょうど店さきに立っていた喜平があわただしく駈けて来た。
「親分さん。大工の勝次郎がゆうべから帰らないそうです」
「勝次郎が······。ゆうべから······」
「そうです。ゆうべも町内の師匠のところへ行って、四ツ(午後十時)頃まで呶鳴って帰ったそうですが、けさになっても家へ帰らないんです。どこへか泊まりに行ったのかと思うんですが、長屋の人たちの話では、この頃めったに
「それでも若い者のことだ。どこへ転げ込まねえとも限らねえ。まだ夜が明けたばかりだ。今にどこからか出て来るだろう」
「でも、親分。師匠のうちから半町ばかり離れたところに、勝次郎の煙草入れと草履が片足落ちていたそうです」
「そうか」と、半七は眉をよせた。「そいつは打っちゃっては置かれねえ」
半七はとりあえず竜閑町の裏長屋へ行って、家主立ち会いで勝次郎の家を調べると、表の錠はおろしたままであった。その錠をこじあけてはいってみると、狭い家のなかは別に取り散らした様子もみえなかった。夜逃げをするならば何か持ち出しそうなものである。どこへか泊まりに行ったならば、往来に煙草入れや草履かた足を落してゆくのもおかしい。更に清元の師匠の家へ行ってきくと、勝次郎はゆうべ酔っていなかったということが判った。こうなると不審は重々である。半七は更に勝次郎の親方の大五郎という棟梁をたずねた。大五郎の家は山卯の店から遠くないところで、格子のまえには若い職人二人と小僧一人が突っ立って、事ありげに何かひそひそと話していた。
大五郎はもう五十近い男で、半七を奥へ通して丁寧に挨拶した。
「おたずねの勝次郎のことに付きましては、わたくしも心配して、これから若い者どもを手分けして、心あたりを探させようと思っているところでございます。前夜の様子から考えると、なにか人と喧嘩でもしたのか。男のことですから、まさかに
「きのう当人から聴いたのじゃあ、この六月から七月にかけて、日本橋に二軒、神田に一軒、深川に一軒、雑司ヶ谷に一軒、仕事に行ったそうですが、そのなかで顔に
「さあ」と、大五郎は首をひねった。「みんなわたくしの出入り場ですが、どうもそんな女のいる家はなかったようですね。
かれは
七
半七は家へ帰っていると、正午すぎになって子分の多吉が先ず帰って来た。かれは善八と手わけをして、ゆうべから日本橋二軒と深川一軒とを調べあげて来たのである。しかしその報告には半七の注意をひくほどの材料はなかった。
「いよいよ雑司ヶ谷だな」
こう思って待ちかまえていると、日の暮れる頃に善八が大いそぎで引き揚げて来た。かれは神田から雑司ヶ谷へまわったのである。神田の方は訳もなく埒があいたが、雑司ヶ谷の方は足場が悪いのと、少し面倒であったのとで、思いのほかに暇どれたと彼は云い訳らしく云った。
「そうだろうと思っていた」と、半七は待ち兼ねたように訊いた。「そこで早速だが、神田の方はあと廻しとして、まずその雑司ヶ谷の方から聞かしてくれ。その
「家号は桝屋ですが、苗字は庄司というんだそうで、土地の者はみんな庄司と云っています。土地では旧家だそうで、店の商売は穀屋ですが、
「奉公人のほかに家内は幾人いる」
「大家内の割合いに、家の者は極く少ないんです」と、善八は答えた。「主人は藤左衛門といって、もう六十ぐらいになる。女房は十年ほど前に死ぬ。子供は男二人と女ふたりで、惣領は奥州の方へ行って店を出している。次男は中国の方へ養子にやる。惣領娘は越後の方へ嫁にやる。家に残っているのはお早という妹娘だけで、これが二十六になるそうですが、なんだか身体が悪いとかいうので、去年あたりから内に閉じこもっていて、誰にも顔をみせないということです」
「そうすると、親子二人ぎりだな。その庄司の家には何か悪い筋でもあるという噂は聞かねえか」
「さあ、そんな噂は聞きませんでした。主人は慈悲ぶかい人だそうで、土地では庄司の旦那様といえば、仏さまのように敬っているようです。なにを
「いや、無駄でねえ」と、半七はほほえんだ。「もうこれでいよいよ極まった。勝次郎に逢いに来る女は、そのお早という二十六の娘に相違ねえ」
「そうでしょうか」と、善八は疑うように親分の顔をみつめた。
「だって、考えてみろ。それほどの
「それにしても、そのお早という女が勝次郎に逢いに来たんでしょうか。それがまだわからねえ」
「わからねえことがあるものか」と、半七はまた笑った。「その女は顔に青い
「勝次郎は一件を知っているんでしょうか」と、善八は顔をしかめた。
「よもや知るめえ」と、半七も溜息をついた。「痣のあることは知っていたろうが、相手は大家の娘だ。あいつも慾に転んで引っかかったんだろう。悪いことは出来ねえもんだ。喜平や銀蔵をなぐった奴も雑司ヶ谷の奉公人だろう。大勢の奉公人のうちには忠義者があって、よそながら主人のむすめの警固に来ているらしい。甚五郎の床店へ髪を
「じゃあ、すぐに繰り出しましょうか」
「これから出かけると、夜がふけて何かの都合が悪かろう。まあ、あしたにしようぜ。世間のうわさがあんまり騒々しくなったのと、勝次郎の奴がこの頃だんだんぐらつき出したので、向うでも引っかついで行ってしまったんだろうから、なにも命を取るようなこともあるめえ。種さえあがれば、そんなに慌てなくてもいい」
あくる朝、半七は善八をつれて雑司ヶ谷へ出向いた。よもやと思うものの、相手は大家で大勢の奉公人がいるといい、近所の者もみな彼を尊敬しているようでは、どんな邪魔がはいらないとも限らないので、幸次郎と多吉も見え隠れにそのあとを追って行った。庄司の家はなるほど由緒ありげな大きい古屋敷で、門の前にはここらの名物の大きい
主人に逢いたいと申し込むと、しばらくして二人は門内へ通された。庭には大きい池があって、そこには鴨の降りているのが見えた。池の岸には
ここで半七をおどろかしたのは、かの勝次郎の親方の大五郎が暗い顔をして、線香の煙りのなかに坐っていることであった。自分たちよりも
「一体、親方はどうしてここへ来なすった。わたし達も鼻を明かされてしまいましたよ」
「どう致しまして······」と、大五郎は小声で答えた。「けさ暗いうちに、こちらから迎いの駕籠がまいりましたので、何がなにやら判らずに参ったのでございます」
それにしても、線香の匂いがどこからか流れて来るのが半七の気になった。
「なんだか
「それでございます。神田の親分さん、どうぞこれを御覧くださいまし」
藤左衛門が起って次の間の襖をあけると、そこには血みどろになった若い男と女の死骸がならべて横たえてあった。
「御免ください」
半七も起って行って、まずふたりの死骸をあらためた。男は左の頸筋から
これで一切は解決した。
半七が想象していた通り、勝次郎の申し立てにはよほどの嘘がまじっていた。かれはこの夏、親方と一緒にこの家の仕事に通って来て、
そのうちに仕事が済んで、勝次郎はもう雑司ヶ谷へ通わなくなると、お早の方から追って来た。しかし長屋住居の男の家へ入り込むことを嫌って、いつもかの清水山で逢うことにしていた。それを父の藤左衛門に覚られて、きびしく意見を加えられたが、恋に狂っているお早はどうしても
しかしこういう探検者があらわれて来るからには、迂濶に清水山へ通うのは危険であると、かれらは主人に注意した。お早にも注意した。それで一旦はその通い路を
それから後は、どうしたのか誰も知っている者はない。それでも虫が知らしたとでもいうのか、藤左衛門はなんだか一種の不安をいだいて、夜のあけないうちにそっとその様子をうかがいにゆくと、かれの眼に映ったのは
ふたりはどうして死んだのか判らないが、前後の事情から考えて、又その模様から判断して、それが普通の心中でないことは半七にも想像された。勝次郎は痣娘にその若い命をちぢめられたらしい。それについて藤左衛門は眼をふきながら云った。
「お役目の方が御覧になりましたなら、何もかもお判りでござりましょうから、なまじいに隠し立てはいたしません。娘は思いあまって、こんな事になったのであろうと存じます。これが人なみの娘でござりましたなら、たといどんな片輪者でござりましょうとも、勝次郎さんにもよく頼んで、なんとか添い遂げる御相談のしようもあるのでござりますが、どうもそれがなりませんので······」
云いさして彼は声を呑んだ。その白い
「いや、判りました。もう仰しゃるには及びません。何もかもお察し申して居ります。ついては棟梁」と、かれは大五郎を見かえった。「おまえさんも弟子ひとりを取られて、さぞ残念には思うだろうが、これも因縁ずくで仕方がねえ。なんにも云わずに、この二人は心中ということにして、こららの
「何分よろしくねがいます」と、大五郎も素直に承知した。
藤左衛門の眼からは新らしい涙が流れた。半七と大五郎は二つの亡骸のまえに改めて線香をそなえた。
雑司ヶ谷心中と世間にうたわれて、庄司の家から程遠くない寺内にお早と勝次郎とが葬られた後、しぐれ雲のゆきかいする寒い日が幾日もつづいた。十一月のなかばになって、清水山で一匹の獣が生け捕られた。それは山卯の喜平と建具屋の茂八の
喜平は番頭に叱られ、茂八は主人に叱られたのであるが、それが近所にも知れ渡って、自分たちが弱虫であるように云いはやされるのが、如何にも残念でならないので、どうかして自分たちをおびやかした獣の正体を見あらわしてくれようと、二人は相談の上でまた
唯ここに一つの疑問として残されているのは、池崎の中間どもが清水山に犬を入れて