ポオル・クロオデルが日本に滯在中に書いた「日のもとの黒鳥」(L'Oiseau Noir dans le Soleil Levant)といふ本も、ときどき取り出して見てゐる本の一つである。この本の題名に使はれてゐる何か象徴的な感じの黒鳥といふのは、實はクロオデルの洒落なのださうだが、そんなところもなかなか好ましい。いろいろ好い論文や小品が集められてゐるが、僕が屡

「劇とは何事かが到來するものであり、能とは何びとかが到來するものである」といふ彼らしい莊重な定義をいきなり冒頭に置いてから、クロオデルは、先づ、橋懸りと本舞臺とからなる舞臺の説明から始め、それから能の音樂||囃子と地謠と||を紹介する。それらの囃子の中で、あの哀調に充ちた笛を「過ぎゆく時間の我々の耳に對するときをりの轉調、演者の背後での時間と瞬間との對話」であると言つてゐるなどは面白い。又、地謠||これは、ギリシヤ式の合唱(Le Ch

さて、次に登場人物が説明されてゐる。それは二人きりである、即ちワキとシテである。そのいづれも一人か數人のツレを伴つてゐることもあり、又、ゐないこともある。
ワキは凝視し、待ちうけてゐる者である。彼は決して面をかぶらない。彼は普通の人間なのである。
舞臺はワキの出によつて、靜かに始まる。正面までしづしづと出てきたワキは、我々に向つて、名乘りを上げる。例へば、諸國行脚の僧などである。それから彼はワキ座につく。そして橋がかりの方へ目を据ゑて、彼は待つてゐる。
彼が待つてゐる、と何びとかが現はれてくるのである。
神、英雄、仙人、亡靈、鬼など||シテはいつも見知らぬものの使者である。そしてそれに準じて彼は面をつけるのである。それはワキに自分を
それから間になる。通行人がやつて來て、ワキに、對話の調子で低聲に問うたり、又説明したりする。
さて、後の場になる。ワキはその役目を了へる。そしてもう傍觀者に過ぎなくなる。一瞬間引つ込んでゐたシテが再び現はれる。彼は死から、粗描から、忘却から出てくるのである。彼は着附を換へ、ときには變形する。いまや全場面は彼のものである。彼はその魔法の扇でもつて、現在を蒸氣のやうに追ひ拂ひ、そしてその不思議な衣のゆるやかな風でもつて、もはや存在して居らぬものに、彼のまはりに浮び上がるやうに命令する。他の者らがそれに續けるに從つて消え去つてゆく彼の
かくのごとく能の構成を説明してきたクロオデルは、今度は、その全體としての印象を與へようとする。それが夢に似てゐること、演者が一種の催眠術的状態の裡に動いてゐること、そして泣いたり殺したりするのには、唯、眠りに重たくなつた腕をもち上げさへすれはよいことなど。そして光つてゐる面の上を滑りながら足の指を上げたり下げたりなどしてゐる演者については、「その各

クロオデルはかくのごとく能の美しさを説きすすみながら、更らにかかる能の歴史、謠曲の文學的性質、さては能の衣裳、面、扇などにまで獨自の見解を加へてゐる。例へば、扇についてはかう書いてゐる。
「この彫像の上で、それは顫へてゐる唯一つのものである。それはその彫像の腕の先にただ一つきりある人間的な葉むれである。そしていましがた私が言つたやうに、それは翅のやうに、思考のあらゆる態を眞似る。それは色彩組織を變へ、心臟の上でゆるやかに打ち、又、不動の顏の代りに震へる、金と光との點である。それは手のなかに咲いてゐる花であり、炎であり、鋭い矢であり、思考の地平線であり、魂の顫動である。「蘆刈」の中で、長い別離のあとで、夫と妻とが再會するとき、二人の感動は、二人の息づかひを一瞬間ごつちやにしてしまふ、二箇の扇の顫動によつてのみ表現されるのである。」