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大正元年十月初版
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第一には容易に腹を立てないこと、第二には
人は一生食べるだけのものを持って生まれているのだともいい、ものを粗末にする人は、年とってから乏しい目をするともいいます。そんなことはあるまいと思う人もあるようですが、よく考えてみると、ほんとにそうだということがわかります。考えてみてくださいませ。私たちは正直に働いていると、だれにでもよく思われて重宝がられるので、食うに困るというようなことはありません。しかしまた人ひとりの働きにはかぎりがあります。どんな人でもそうそう
ものをしまつにする
時は金だということは、よくいうことで、時間をむだにするのは、金を捨てるのとおなじこと、ものをむだにするのとおなじことです。時をむだにすることはなまけることで、時をむだにしてなまけると、貧しくなるのは誰でも知っていることです。
時は金だといいますが、さらによく考えてみると、時はまた知恵です。金などとはくらべものにならないほどに
精出せば一時間でできることを、一時間半もかかっているというような、だらしない仕事のしかたは、金を捨て知恵を捨て、その上に身体までも弱くするのです。若い時から、この
笑う
いずれの国、いつの世にも、賢い人も愚かな人もあります。落ちついて心持ちの届いた人と届かない人とでは、大変なちがいです。
しかし『姿形こそ生まれつきならめ、心はなどか賢きより賢きにもうつさばうつらざらん』と昔の人もいっているとおりです。これから精出して、栄えに栄えていかなければならない若い人たちは、鏡にうつる姿よりも、心のうつる鏡があったら、どうかして自分の心の姿が見たいと、いつも心掛けてほしいものだと思います。人間の栄えていくために、何よりも大切なのは賢い心です。ここに一つ二つの、若い人たちの心をうつす鏡になりそうなことをお話したいと思います。
ある奥さんは、この間から苦にしていた張り物もすんだから、子供たちをみなつれて上野へでも行ってみようと思いました。留守番なしに出かけることはできないし、二人あるお手つだいのうち、どちらを連れていこうかと考えました。子供たちがいくのだから、どうしても行き届くもののほうが都合がよい。そこで奥さんは、竹さんには気の毒だが、春さんに来てもらうことにしようと思いました。
出かけた後で、竹さんはひとりで考えました。奥さんはお春さんばかりをひいきになさるから、私はほんとうにつまらない······。それで自然に気がくさくさして、仕事にも身がいりませんでした。みなが帰ってきました。お帰りなさいましと、出迎える顔にも暗いかげがさしている。奥さんはどう思うでしょう。留守番をさせられたので、おのずと精の出ないのもむりではないが、それにしてもこの掃除の不行き届きには困ったものだ、何ごとにももう少し届いてくれたら、留守をさせても、連れて出ても、心丈夫なのだけれどと、またも竹さんに失望するでしょう。
今度あるお家に、子供がみな招ばれました。せんだって春さんを上野につれて行ったから、竹さんをつけてやりたいけれど、留守番も思うように出来ないものを、子供につけてよそのお家に出すというのも心細い、やはりまた春さんにということになりました。手つだってもらうほうに、決してはじめからわけ隔てのありようはずはないのです。竹さんでも春さんでも、役に立つほうが重宝されるのですから、竹さんがひとりで留守をしながら考えてみたときに、きょう私のお留守番になったのは、お春さんのほうが、何ごとにも気がつくからであろうと心づいて、これから一生懸命気をつけて、奥さんに頼もしがられるようになろうと思ったらどうでしょう。仕事にも身が入って、掃除も立派にできる、そしていそいそと出迎えたら、もともと留守番をさせるのが気の毒だという心が、奥さんの胸にあふれているのですから、留守をさせても不平に思わず、いつもよりかえって立派に掃除もすませて待っているとは、ちかごろ竹さんもよほど何かがわかってきたと、次には繰り合わせても竹さんをつれていこうということになるでしょう。
しかし竹さんは、ひょっとしたらいうかも知れません。上野へ行ったって、何が面白かろう。らくらくと横にでもなっているほうがましだと。これがまた賢い心でしょうか。ちょっとしたことにも相当によろこびの顔を見せるものには、誰でもその上のことをしてやりたいという気になるものですけれど、竹さんのようにふてたことをいった日には、誰でもかわいげのない娘だと思うものです。
なに、ここの奥さんにかわいがってもらわなくても、どこにでも奉公するところがあると、また竹さんはいうかもしれません。それもまた賢い心でしょうか。一つの家で頼もしいものに思われることができないようでは、他の家でも大概は同じことです。一人のひとに愛想づかしをされるようでは、ほかへ行ってもそうではないでしょうか。
けさはご飯がかたいといわれた。昼はまたおかずの煮方がよくないといわれる。何というやかましい奥さんだろうと、竹さんはまた考えました。それも賢い心でしょうか。せっかくこしらえたものがまずいというのは、言うほうでもつらいものです。誰がすき好んで小言をいいましょう。こう朝にも昼にも落度のあるのは、私の届かないためなのだから、あすからは一つ十分気をつけてご飯も立派に炊いてみよう。きょうは一体、どこの加減が悪かったのだろう。水を気をつけて計らなかったからだとか、おかずのおいしくなかったのは、火を強くしたからだろうとかいうふうに考えたらどうでしょうか。そうすると必ず、きょうよりもあす、あすよりもあさってと、仕事がずんずん上手になっていくように思います。
賢い女はこうして誰にでもかわいがられ、ものもだんだんよくできて、ついに出世をすることになり、賢くない女は一生不平をいって、つまらなく暮らさなければなりません。
夜の自由時間には、いねむりをしていても、おしゃべりをしていても、またつまらない読み物などに読みふけっていてもよいと思わず、自由時間を楽しみにしてよいことをしたいものです。
誰でも、一つの役目を持っているものには、その役目のすんだあとで、自分ひとりの時間というものがなくてはならないのです。あなた方も一日の役目のすんだあとでは、静かにすわって、わが身のことを考えてみなければなりません。考えてみるばかりでなく、わが身のまわりの当座の用事も果たさなくてはならず、行末のための勉強もしなければなりません。当座の用事とは、必要な手紙をかくとか、始終こざっぱりした
日記をつけることは、またこのごろの
毎日毎日その日にみえたお客の批評と、主家に起こったつまらない出来事を、まわらぬ筆で、その日記に書いていた女中もあり、きょうも残りもの、きょうも残りものとおかずの小言ばかりを書いていた女中もあったと、この間あるところでもみなさんのお話にうかがったことでした。そうしてその残りものというのは、そこのお家は、お年寄りもお子さんもない、しかもご主人がお留守がちなので、ご飯のたびにばたばたしないでもと、まめやかな奥さんだものだから、
家の中にばかり立ち働いているので、毎日毎日気のつくことは、その家の中のことよりほかにない。毎日毎日のことだから、おもしろおかしい日ばかりはないでしょう。それだから、書けば自然とそのようなことになるのかも知れません。日記というよりは、何となくあらさがし、不平
書いておきたいなら、新しい料理を習ったときに、その仕方をかきつけたり、珍しいところに遊びにつれて行ってもらったときにそのことをしるしたり、のちのちのためにもなるようなことを聞いたときに書いておいたりすると、あとから出してみても、楽しみにもなりためにもなるわけです。
手紙もまたあちらの友だち、こちらの友だちに、用もないのに書いては出すのは、大切な自由時間がむだにもなるし、双方のためにならないことです。両親のところにはいうまでもなく、お友だちにもよい手紙をきまりよく書き送るのはよいことです。
自由時間にも、休めないというのは大変だと思うかもしれませんが、私たちにしてもごらんのとおり起きているかぎりは働いています。そうしてそれは人間の当り前です。食事時間に静かにくつろいでゆっくりすること、本気になって手早く仕事をかたづけて、一日の
なお自由時間が終わったら別にさだめてある役割りによって、身のまわりと受け持ちの部屋部屋に出ているものをことごとく整理し、翌朝は一つもかたづけものをせず、すぐ仕事にかかれるようにしておくことを忘れてはなりません。そうしてそれは決して三十分もかかるまいと思うから、眠る時間の十時までにまだ時があったら、みなでくつろいで話したらよいでしょう。
食事の行儀は、いまもむかしも西洋でも日本でも、ごく大切としてあることで、不行儀なたべ方をするものは、人柄のいやしい証拠とまでいわれています。急がずに気を落ちつけて、ゆっくりと食事をするようにし、ご飯もお
お茶づけでかき込んだり、からい煮物のお
つね日ごろこういうふうに考えていさえすれば、料理について、ああしてこうしてといいつけられることも、なるほどと十分に合点がいって、聞き損じは少なくなるでしょう。
すべてものごとに注意するよい習慣を、まず食物を味わってたべることから、けいこするのはよかろうと思います。一様に煮魚焼き魚でありさえすれば、どんな煮ようでも焼きようでも、同じ味だと思ってたべているようでは、万事に心細いわけです。
なんの仕事でも、仕事をするのには、二つの心得が大切だと思います。その一つは、仕事には順序があるということ、いま一つは、するところまでするという気象です。
みなさんは裁縫をならったことがあるでしょう。裁ち方はもちろんのこと、縫い方にも一々順序があります。その順序をもしも無茶苦茶に考えなしにした日には、どこまでも手間どれて、そうして幾枚縫っても手のあがるものではありません。また
裁縫ばかりでなく、掃除でも、あとかたづけでも、洗たくでも、細かにいうと、お味噌をするのでも、香の物を切るのでも、みなこの順序よくということと、するところまでするという気を持たなければできません。すった味噌をそこに置いて味噌こしをさがしたり、洗ったすり鉢に味噌かすが残っていたり、切って出した香の物にぬかがついていたり、ぬか味噌がぬきとったまま押しつけられずにあったりしては、お
ご飯のあとをかたづけるにしても、残りものの上をこしてよごれた食器をはこんだり、あちらにお茶土びんが忘れてあったり、こちらにご飯粒が落ちていたりするようでは、かたづけたとはいえません。まずはじめに、残りもの醤油つぎなど戸棚に入れ、つぎに箸箱土びんお盆というような、まわりにあるものをかたづけ、つぎにお
流しでは、まず一つの器に入れてある残りのものを、あたりに落ち散らぬように捨て、つぎによごれの少ないものから下洗いして、清洗いをもすませ、水の切れるようにしてあるざるにとり、一度ふいて、またかわきふきんをかけ、清らかな盆の上に、やはり前のように、椀、茶碗とそれぞれに重ねて、一つでも置き場所のちがわないようにかたづけ、さて鍋類の洗いにうつり、終わりにふきんを洗って、流しもとおよび台所をきれいにし、
朝、寝間を掃除するにしても、いろいろのものがまわりに置いてあるままで、夜具をたたみにかかったりすると、足場もわるく、置いてあるねまきなどもきたなくなります。まず枕もとに置いてあるものからかたづけ、次にぬいだねまきなどを
どうも手順を考えず、行きあたりばったりに仕事をして、あちらを落としこちらを落とし、すべて仕事が中途はんぱになって、するところまでしてないのは、多くの若いお手つだいの人たちのくせだと思います。せっかく頼りにして働いてもらっても、それではずいぶん困ることですが、それよりも何の仕事でもするところまで出来ないというのは、皆さんめいめいのために何よりも困ることまた恥ずかしいことだろうと思います。
きのうのみそ汁はお豆腐で、けさは
いつもいつもいう通り、賢い人とぼんやりした人とのちがいは、ただものごとに注意して、仕事に十分身を入れてするのと、なにごともいきつき放題にしているのとのちがいだけなのです。どんなことでも気をつけていると、それからそれといろいろのことを覚え、いきつき放題にしているとただ手を動かすだけで、人形の運動とおなじこと、なにも心にとまらないものです。
私たちのようにすわって仕事をしているものは、とかく手足が思うように動かなくなるものです。それで私は平生みなさんの活発に働くのをみて感心もし、またうらやましくも思っています。しかしみなの働きぶりをみて、いつも不思議でならないことが一つあります。それはあなた方は、めいめいに目と頭のあることを忘れているようにみえることです。
けさ台所の
それでなければ、下駄ぬぎを掃くときに、ここに自分のきのうさした傘があると、気がつきそうなものです。傘があるなら、ひろげてかわかしてしまおうと思いそうなものです。もし目が働いているならば、ほうきの先のみすみす重くなる紙くずを庭中ころがしまわるのも不思議です。頭が働いているなら、こういうものはまず取って
手を動かしさえすればお盆がふけると思っているのはまちがっています。縞になったのを平気で持ち出すのは、仕事をするのに目を使わないからで、水気の多いふきんでふいたら、次にかわいたふきんでよくふかなければならないというところに気のつかないのは、頭をつかっていない証拠だと思います。洗たくをするのでも、まずよごれ具合に目をつけて、よごれていないところはざっと、よごれているところは、幾度でも落ちるまではよく洗って、よくよく奇麗になったということを見さだめて、次にうつるように、ゆすぐときにも同様に、目をつかい頭をつかわなければ、決して一枚の洗たくものでもほんとうにできるものではありません。
前にもいったように、私は慣れないことだから、どうしても皆さんほどに、手足の動かないことが多い。しかし台所を自分ですると、皆がするよりも順序よくかたづきます。それはのろい手足ではあるけれども、頭と目がおもになって始終働いているからです。手や足はどうでもよいとは思いません。しかし大きいことでも小さいことでも、人間の仕事にまとまりをつけるのは頭の役で、つねに手足のする仕事を見張って、これを監督するのは目です。しまりをつける頭もつかわず、見張り番の目もつかわずに、ただ手足ばかり動かすのは、ちょうど
ことに手足の力のあまりいらない仕事、おもに目と頭とでしなければならない仕事も、一日のうちには幾度もあります。近い話が子供がおかゆをやめて、このごろからご飯になったのだから、当分いつもよりご飯をやわらかに炊いてと頼んであります。毎日よくできていましたが、今朝のご飯はちょっとみてもかたいことが分かっていたのです。けれども皆は、気がつかないで、そのままつけてやろうとしていました。目と頭がいつも働いているならば、ご飯をちょっとみた時に、これはかたいと早速気がつくはずです。そうしてすぐに子供の分をおかゆにしなければならないと考えつくはずなのです。
目と頭がぼんやりしていると、しなければならない仕事を知らずにぬかしてしまうことになります。手や足は仕事があるとなってから、呼び出して来ても間に合うのですが、目と頭だけは夜眠っているときのほかは、つねに働いていなければなりません。
上に引きまわしてくれる人のある、奉公中はまだよいけれど、それでは家をもったときに、年中下手なことばかりして、家の中のこともよくいかず、子供もつまらなく育つということになりましょう。すわっているものの手足が十分活発に動かないように、若くて働く人の頭が、込み入ったことにまで気のつかないのは当り前ですが、日常一通りのことには、そのつもりで気をつけさえすれば、誰の目でも頭でも働かないわけはないのです。
みなさんが頭と目とを自分でつかってくれないばかりに、用事をたのむほうのものが、始終みなさんの目や頭の代わりにならなければならず、一人使うよりは二人と、雇人の多くなるほど、気骨の折れることは大変なものです。大勢の女中をほんとうによく使っておいでになるお家では、奥さんはひまどころではなく、かえって出かける時間も少なくなるというようなふうです。それでは使われるほうも、
これからはふいた縁側にきたないところがあっても、洗たくものがよく出来なくても、ここがまだこんなによごれているではないのといわず、これはあなたの目と頭をつかった仕事かと聞くつもりです。どうかそう聞かれないうちに目と頭をつかうようにしてくださいませ。
掃除のもとになるのは、物の置き場所だということを、まず何よりも心に入れることが大切だと思います。物の置き場所がわからなければ、掃除はてんでできるものではありません。物の置き場所は、家々で必ずきまっています。気をつけてまちがいのないようにしなければなりません。
台所のこまこましたもので、主婦のほうからどこという置きどころを指図されてないものがあるならば、自分でここという置きどころをさだめておくように、また物によっては、この置き場所をどこにしましょうと、主婦の指図を受けるようにして、どんなものでも置きどころの分からないままで、うっかりしているようなことがあってはなりません。一軒の家の中に、一つでも置きどころのきまらないものがあったり、またきまっていても、知らずにいるものがあったり、知っていてもうっかりして、その置き場所を十分にまもらない雇人があったりすると、家の中はみだれて気持ちわるく、年中さがし物をしなければならないのだから、みなの骨折りが一そう多くなります。掃除のもとは物の置き場所をただすことだということを、かならず覚えるようにしてくださいませ。
すべて掃除のために室内をかたづけるときには、その部屋のものでないものから持ち出して、かならずそれぞれの置き場所におさめること(茶器など洗ってからでなければしまわれないものは、洗いものを置くところに持っていく)。その部屋に置くべきものでないものが、一つも残らず部屋の外にはこび出され、それぞれの場所におさめられたところで、ごみを掃き出すほうの障子を明けはらい、その部屋に備えつけてあるもの、たとえば火鉢とか、ざぶとんとか机とかいうものに、はたきをかけて次の間にはこび出し、次の間とのあいだを
最初その部屋のものでないものをはこびだすときに、もしもその中に食べ物など(菓子の盛ってある菓子器など)があったなら、一番さきにかたづけなければなりません。なぜというのに食べ物などをそこにおいたまま、かたづけものをするためにあちこちすると、その上にほこりがおくからです。食べ物でなくっても、きれ類とか塗り物とか、すべてほこりがおいては一そう困るようなものは先にかたづけること。
また大概の女中たちのかたづけものをするのをみていると、とかく大きいものを気にして、さきにはこびたがるようですけれど、細かいものがあたりにたくさん散らばっている中から、大きいものをぽつんと引きぬいても、そのあとがちっともかたづいたようにないばかりか、かえって一そう乱雑にみえて、かたづけものが余計面倒な気にもなるし、また小さいもののそこここにある中を、大きなものをかかえてあちこちすることは、もの
以上の筋道を応用して考えると、台所も十分にきれいにしておくことができます。
終わりにあらためていっておくのは、一つの部屋を掃除するのには、その部屋の中に置くべきものでないものを、一つでもその部屋に残してはならない。またおなじ部屋の中でも、こちらのすみに置くべきものを、向こうのすみに置くというふうなことは、たとえどんなに小さいものでも、決していけないということです。
つぎには掃除の仕方ですが、はたきをかけるのに、大概まっすぐに障子にむかって、大そうな勢いで紙ばかりたたくように見えますが、あれではいけません。ななめに立って障子の桟を目がけて、順々にさらさらと十分ほこりの落ちるまではたくうちに、紙も自然よきほどにはらわれるものです。ほんとうに丁寧にはたくのには、はじめに向こう向きにななめになって四枚なら四枚ある障子をすっかりはたいたら、こんどは別のほうに向きになおり、最後にはたいた障子から順々に向こうにはたいていくので、こうすると障子の桟の四方が一つ一つすべてきれいにはたかれるのです。しかしそのひまのない場合には、朝はこちらから夕の掃除には向こうからというようにしてもよいわけです。
それからほうきをとって掃くときに、押入れの
考えてみると雑巾の数もなかなか多くいるもので、広い家は別として、普通の家でも、これからここに話すような仕方だと、まず座敷まわりの雑巾が三つ、台所のが二つ、あいだで座敷に水のこぼれたというようなときにつかうのが二つ、おなじく台所のが二つ、棚ふき三つ、食卓ふきが二つ、便所上下二つ、ちょっとそういうふうに考えてみても十五、六はぜひいります。そしてその雑巾や台ふきには、どこの分どこの分としるし縫いをしておかなくてはなりません。またそれだけのものを置くところも、必ずそれぞれに考えておかなくてはなりません。
バケツの数も
雑巾が多すぎると思う人もあるでしょう。それはこういうふうにつかうからです。一体雑巾がけというものは、ちょっと長い廊下などを、一つの雑巾で、洗ってはふき、また洗ってはそのさきを拭くというようにすると、洗うたびに水をかえるのは面倒ですから、ついだんだんに水が濁ってきます。少しでも濁った水でふいていると板の間が黒くなります。
それだから、まず朝の雑巾がけのときに、座敷からはじめるとすれば、きれいに洗って外の竿にほしてある、座敷用と縁側用の雑巾あわせて五つをとり、井戸端で五つとも水でゆすいでかたくしぼり、バケツに入れて持ってきて、その五つの雑巾をみな使ってしまったら、また一どきに
四つの台所雑巾のつかい方も、また同じことです。
朝晩にふく雑巾は、すむとこうして一つのほかはほし竿にかけてしまう。そしてその一つは、あいだで座敷に水がこぼれたの、ちょっと台所がきたないのというときに使います。これは前のように置き場所を定め、朝使ったのは、かわかないままにおいてあるのですから、いま一つのをかわかして取りかえるのです。こうして二つの座敷用の雑巾を、つかったら洗って交代に例のほし竿に持っていき、また交代に取り込んでくる。そうしていつもさだめの場所に、一つずつの座敷用雑巾を置くことです。
それで朝夕のふき掃除用の雑巾が、座敷用三つ、台所用二ついるほかに、あいだの雑巾がまた二つずついるわけになります。
勝手もとには、いつでも前の雑巾バケツ一つをおいておき、あいだの雑巾も、使ったたびに、洗ってひろげておくことにすること。(雑巾のよごれたままつくねてあるのは、家の中をきたなくするもとになります。)
食卓ふきと、棚ふきはやはり使ったたびに、洗ってひろげておくことにして、日に一つずつ、きのう使ったものは、よくよくしゃぼんで洗って干し竿にかけることにして、きのうかわかして置いたものをあらためて備えておくのです。棚をふくときは、どこでも水が近まにあるから、幾度もちょいちょい雑巾を洗うこと。
雑巾がけは、すうっといちどきに長く早くふいてしまわずに、じゅうぶん両手に力を入れて、こまかく手を動かし、一つのところに、二度三度ずつ雑巾の当るようにふくこと。
なお雑巾の、厚ぼったくさしたのは、かわきもわるく、板にもぴったりつかず、すみずみをふく時にも都合がわるいからよくないと思います。普通の手拭ぐらいの大きさのきれがあれば、ちょうど一つの雑巾になります。ことに綿屋で売ってくれる綿袋という大袋は、切ってそのまま雑巾につかうと、水ぎれもよく実に具合のよいものです。
ほうきの先と、台所用の上ぞうりのうらを、ときどきソーダ湯で洗うことを忘れないように。せっかくきれいな畳も、よごれたほうきで掃いていると黒くなり、ふきあげた板の間も、裏のきたないぞうりで歩いたら、じきにどろどろになります。
掃除ぐらいは誰にでもできる、雑巾がけのできない女があるだろうかと、ちょっとは思われるようなものの、私のみたところでは、ほんとうに掃除のできる女中、雑巾がけのできる女中というものはあまり沢山ないように思います。この二つのことがまめにできると、きれい好きな女として、ひとにも重宝がられ、家を持っても一生涯さっぱりと暮らすことができます。
前にははき掃除の心得をかきました。雑巾がけはまたこのとおりにしさえすれば、かならず誰にでもほめられるほどに出来ます。
すみとりの底に、粉炭をためてはならないこと。炭を出す時にはかならず用意の粉炭入れに、くずをうつして、さっぱりときれいなすみとりの中に、わらくず一つまじらないように気をつけて、新たな炭を出さなければなりません。
すみとりの底に残っている細かな炭をはらわずに、その上にその上にと炭を出し、たまりたまった細かなくずを、七
どんなによくおこっているにしても、七輪に残った堅炭をつめたい長火鉢に十能からどさりとあけて、ぞんざいにいけておくようなことでは、長火鉢の火は始終なくなって、一日のうちに幾度も幾度も火をふいたり、火だねをこしらえたりしなければならないことになります。長火鉢はいうまでもなく、毎朝きれいに掃除し、火つぼをよく掘って、次に切り炭をその大きさに従い二つなり三つなりよくいけて、その上に火だねをのせ、まずまわりにざっと灰をよせておき、半分ごろおこったところで更によくいけて、むやみにかきたてないようにすること。
煮物のときに七輪に残った火は、こうして長火鉢の火を丁寧にいけてあるなら、やはりその上にのせるよりも、すぐに消しつぼにとった方がよい。お昼の支度のときがきて、火だねを長火鉢からとる時には、前にいけてある切り炭のうちの一つをとって、もしもそのあとの火があまり少ないと思うならば、その取ったところにまた一つ新しい切り炭を入れて、もとのとおりいけておくこと。長火鉢にかかっていた鉄びんが、せっかく熱くわいていても、火だねのいるときに、残らず長火鉢の火をとってしまうと、
火だねのために長火鉢の火を残らず取ってしまうことの不経済は、一度わかした鉄びんを二度わかすことになるばかりではなく、炭というものは、あたたかい灰の中に、そっとしておいてこそ、長くもつものですが、つめたい火鉢に入れた火は、すぐにたってしまうものです。火だねをとるので、幾度も長火鉢の火つぼを
子供のある家などでは、おかゆだとかそのほか火鉢にかけるものが多くあります。火鉢で煮るものは、どうせ火を強くするにおよばないものですから、前にいけてあるだけの火で足りればよし、もしも足るまいと思うなら、炭と炭との間をくつろげてよきほどの炭(かた炭でよし)を入れ、おこりかけたところでざっと灰をかけ、そっとして煮ること。煮物をおろしてからは、灰をあつくかけることを忘れないように。
ついでにいっておくことは、長火鉢の上には、かならず水さしを用意すること。いわずとものことではあるが、
「おこすのに手間のいる炭火ばかりならだけれど、ガスがあるから電気があるから、いつでもすぐにお湯がわく」と思うでしょうが、火鉢の火に気をつけないで、始終消えがちにしておいて、お湯のいるたびにガスでわかして、またさまし、またいるときに沸かすというようなことをしては、人出入りの多い家などでは、ガスの不経済がたいへんになります。ガスの不経済ばかりでなく、湯わかしがいたむばかりでなく、手間もそれだけ
お茶の湯には炭手前といって、早くいうと炭火のおこし方のけいこがあるのは知っているでしょう。総体火というものは、その上にかける釜なり鍋なり、また
炭のおこし方くらい誰れだって知っているなどと、無雑作にいってのけられるものではありません。むかしのことわざにも、火を上手におこす女は、家持ちがよい女だといっています。火鉢や七輪に横にぎしぎしと炭をいれたり、お鍋の中をみると火の強いしるしの焦げつきが、どれにもついているようなことはないでしょうか。
湯をわかすくらいは、強火でわかしても、
七輪に火をおこすのにも、
炭の経済の大体は、まずこのようなものでしょう。薪炭のことばかりでなく、すべて毎日の仕事にこれだけ気を入れていると、一日ましにそのひとは賢くなります。反対に毎日の仕事をぼんやりと、なんでもただ面倒のないようにないようにとしていては、ただすべてのものがむだになって、前に話したように、めいめいの福分をへらすばかりでなく、その心もまただんだんに愚かになるものです。日々の仕事に気を入れて、賢いものになることは、また実に仕合わせのもとだということを、よく考えてごらんなさい。
主婦が外に出て、何よりも心にかかるのは子供のことです。留守をあずかっている女中が、この心をくみとって、子供の世話をよくしてくれるのは、母親にとってどんなにうれしいことだか知れません。
たとえば、おやつの時や食事の前には手を洗うとか、
母親がよんどころない用事で外出して、帰ってきたときに、子供たちが髪をみだしたり、土だらけになったり、おさない子供はまた、昼寝もしなかったというので、いつになくきげんがわるく、学校道具は縁側におきっぱなしになっているし、めったに出さない大事なおもちゃときめてある人形が、庭にすてられてあったりすると、子供たちの
これに引きかえて、子供たちが母親の帰ったときに、皆ちゃんとした風をして出むかえてくれ、学校から帰った子供は、道具もはかまもハンケチもみなそれぞれに整理して、置くべきところに置いてあり、おさない子供も、いつものように昼寝をすませたといい、薬をのんでいる子供でもあると、またやはりきまりどおりにお薬をもらったというようなふうであると、留守をあずかってくれたものの親切が、しみじみうれしく思われるものです。
子供はなかなか気ままなものだから、容易に皆のいうことを用いないことも、それはもう必ずあることではあろうけれど、幼稚園の先生にでもなったつもりで、さまざまに工夫して、上手に
もういま時分は、部屋の掃除もすんでいるだろう、風呂もわいているだろう、帰ったらこうしてああしてと心づもりをして帰ってみると、風呂の火のおこり具合が悪かったとか、子供があまり一杯にちらかしたので、掃除に手間がいり、ついまだすんではおりません。ほし物を取り込むことも、そんなこんなで忘れました、などというようなことがあると、心して間に合うような手都合にはしてあるものの、留守であったから
朝の天気はうららかであったので、夜具を干さして出かけたあとで、思いがけない風がでてほこりだつときなどは、心づいて取り込んでくれたかしらんと、気になるものです。帰って何よりさきに見てみると、ほこりのたつ中に、夜具がそのまま干してあったり、また雨がふりだしたので、ほし物はいれたけれども、はなれの縁側は降りこむままでガラス戸がしめてなかったり、お天気だからきょうはなるべく子供を外であそばせるようにといって出たからといって、思いのほかに寒くなっても、また風がでてきても、やはり外であそばせてあったり、雑巾がけは朝だけだからという気持ちで、午後の風に廊下中ざらざらしても、ついふいておこうというまでの心くばりがなかったりするようでは、十分に安心な留守居とはいわれません。雨が降る風が吹くというようなことばかりでなく、主婦のいいつけて出たときと事情のかわるような場合は、いろいろのことによくあるものだから、留守をあずかるということは、一つはめいめいの気働きの練習のためにもなって楽しみだという気で十分にしてほしいと思います。
金をあずかったものは、買い物をしたたびに、あずけてある当座帳にしるし、取り次ぎをしたものはまた留守中の来客の名と、忘れてならない用事とをかいておくこと、受け取った郵便物を一定の場所におくことをおこたってはならないこと。
主婦の留守中に、子供を大声でとがめたり、
留守居の心得の中には、子供を上手に扱うということ、早めに仕事にかかるということ、それから臨時の出来事に気働きのある処置をすること、金銭の出し入れのあいまいにならないように、報告すべき用事を忘れないように気をつけることなど、ほとんど主婦の一家をおさめると同じだけの働きがみなことごとく含まれています。のちに家を持つときのために、何よりもよい練習だと思います。
使いにいくときは、気をつけて、こちらの口上をよくきいて、その言葉ばかりでなく、その口上の意味をも、とくと心に入れて、まちがいのないようにしなければなりません。それに対する先方の口上も、また同じように、よく落ちついて、聞きわけて帰らなければなりません。同じことをいっても、使いのものがぞんざいな言葉でいったために、先方に不愉快な思いをさせたり、また先方の口上が普通の口上であったのを、使いのものの少しの言葉づかいから、ばかに恐縮しているように、こちらに聞こえたりするようなことがあってはこまります。
玄関に取り次ぎに出たときも、落ちついてつつしんで、よく来客のいうことをまちがいなくききとり、こちらに通ずるようにしなければなりません。
子供というものは遠慮のないもので、私、竹さんは大好きだけれど、春さんは大きらいよなどといいます。一度や二度のことならばまだしも、始終このようにいわれた日には、子供のいうことだとは思いながらも、誰でもよい気持ちはしないはずです。おなじなら春さん春さんと好かれて
子供が春さん春さんと呼んでいても、返事をする声がさっそくにきこえないことがたびたびあります。
ちょっと考えると、主人や主婦の呼んだときに、すこしでも返事のおくれるのは、いかにも失礼のように思われるが、
子供に呼ばれたときに、大人に呼ばれたときよりも、一そう気をつけて声に応じてさっそくに、はっきりと気持ちよい返事をしなければなりません。またくだらないことで呼ぶのだろうと、三度に一度はつい聞かないふりをしているとか、
気持ちのよい返事をしたならば、つぎにはさっそくに呼んでいる子供のそばにいき、頼まれた用事をこころよく
呼ぶとさっそくに返事をして、いつでもにこにことすぐ出てきてくれる。ただこれだけのことでも、子供には非常にうれしい。私、春さんは大好きと、すぐに信用してくれます。子供の信用を得た上で、やさしくものをいいさえすれば、子供というものは、存外大人のいうことをきくものです。
子供に呼ばれたら、さっそくに返事をして、すぐと出てきてくれる。用事をたのむといつも気持よく弁じてくれる||日ごろ子供にこれだけのことをつとめておいて、そうして春さんは大好きという信用を得ていると、どうしてもこうしても、手をはなすことの出来ない場合に、呼ばれたようなときには、『坊ちゃんお嬢さん、私はただいまおかあ様のこれこれのご用をしておりますから、ちょっと待っていただくことが出来ましょうか』というと、子供はきっと、こころよく待つものです。もしも、『だって私も急ぐのだもの』といったところで、『まあいらしってごらんなさい。春はこういうことをしているのでございますよ』といえば、大概の子供は、『そうなあに』といって春さんのそばに来てみるにちがいないのです。そうしたところで、また丁寧に、『なんのご用ですか、すぐにして上げたいのですけれど、ごらんなさい、こういうご用をしているのでございましょう、もう少しですみますから』とか、またものによっては、『それはきっとお嬢さんおひとりにもお出来になりますよ』とかいってくれると、子供はその気になるものです。
子供に信用されているものでも、こういうときに、『そんなにおっしゃっても春はいま手がはなせないのですもの』などと、荒い言葉で理屈ばったことをいった日には、子供はじきに、『いいことよ、もう
自分のほうに何の差しつかえもなく、子供に呼ばれて、なにかの用事を頼まれたときに、もしもそのことが平生母親のこれこれのことは自分ひとりでしなければならないと、子供にいい聞かせてあることであったり、またはそうしてはならないことであったなら、それはしてやらないほうがよいのです。しかしそのしてやらないのにも、『おかあ様が、そういうことはひとりでなさいとおっしゃるのではありませんか』と、子供をやりこめるように、荒くいうことは禁物です。『おかあ様はそういうことはおひとりでなさるほうがよいとおっしゃったようでございましたねえ。春が見ておりますから、坊ちゃんご自分でなさってごらんなさい』とやさしく励ますようにいいさえすれば、きっと子供はきくものです。
子供が一人でよくないことをしたときにも、『あら坊ちゃん、おかあ様にいいつけますよ』などと、とがめるものではありません。『それはいけませんから、およしなさい』と、親切にいってくれるほうが、子供の心にこたえるものです。ことに何かにつけて、『ほんとうにいやな坊ちゃん』とか、『しようのないことねえ』とかいうように、守をするものの無遠慮に子供をとがめる言葉は、はたで聞いても聞き苦しく、何よりも子供にいやがられるもとになるから気をつけなければなりません。
子供が呼んだら、大人に呼ばれたときよりも大事だと心得て、すぐに返事をすること。子供にたのまれた用事は、できるだけほかの用事を繰り合わせてこころよくしてやること。荒い言葉で子供をとがめてはならないこと。いつでも子供の味方になって、親切に子供を助けてくれること。これだけのことを、十分に心に入れておいたら、かならず子供に好かれる守になります。ただ守になれるばかりでなく、このことは後にみなの母親になったときにも、ごくごく入用な心得になるのです。
お子さんに、ご飯をあげることくらい、できないものがあるだろうかと、思うかも知れませんが、
母親の留守の時間や用事のあるときに、子供たちに上手にご飯をたべさせてくれるなら、それはたしかにみなさんの大きな一つの手柄です。
まずみなさんは、
二口三口は熱心にたべるけれど、じきに脇をむく。ご飯がいらないのでないけれど、食事をしながらああしたりこうしたり遊びまわるのは子供のつねです。こういうときにただ『早くおあがりなさいおあがりなさい』といっているだけでは
つぎには、ただ『おあがりなさいおあがりなさい』ではだめだからというので、お
つぎに子供というものは、
めいめいの体質によって、濃厚なものを好く人も、淡白なものを好む人もあるわけですが、子供のときから気をつけて、肉を好く子供にも、その好きな肉と一緒に野菜をも添えて食べさせ、野菜を好む子供にも、肉をも添えて食べさせるようにすれば、どちらかといえば肉が好きだけれど、野菜も食べられる。一体が野菜好きだけれど、肉もきらいでないというように、なんでも食べられる人になれ、身体のためにもまた大そうそれがよいのです。ちょっとした不注意から、子供にあれが好き、これがきらいといわせはじめるのは、また一つの下手なご飯のやり方です。
考えてみると、子供に食事をさせるということも、決して『そんなことのできない人があるだろうか』といったような無雑作なものではありません。のんきでいたずらな、ものにあきやすい子供を、ゆっくりとひきとめて、身体のためにもなるように、のちのちに悪い習慣も残さないように、そうして楽しく食事をさせるのには、よほど気転のいることです。
まずおかゆからご飯になったばかりの子供などには、今度からご飯になりましたから、みなのようによく
こうしてだんだんによい習慣をつけた子供は、あとはもうよほど楽ではあるけれど、油断していると子供はまた少しばかり食べてはやめる癖や、お
食事を上手にさせるということは、子供を丈夫に育てるために、ほんとうに大切なことですから、母親が食事時に家をあけたときなどは、子供が家でみなのおかげで、よく食事をしたろうかどうだろうかということが、一番に案じられるものです。油断して悪い癖をつけるようなことのないように骨折ってくださいませ。
||おわり||