一
番茶を
焙じるらしい、いゝ
香気が、真夜中とも思ふ頃
芬としたので、うと/\としたやうだつた
沢は、はつきりと目が覚めた。
随分遙々の旅だつたけれども、時計と云ふものを持たないので、何時頃か、
其は分らぬ。
尤も
村里を遠く離れた
峠の宿で、鐘の声など聞えやうが無い。こつ/\と石を載せた、
板葺屋根も、松高き裏の峰も、今は、
渓河の流れの音も
寂として、何も聞えず、時々
颯と音を立てて、枕に響くのは
山颪である。
蕭殺たる
此の秋の風は、
宵は
一際鋭かつた。
藍縞の
袷を着て、黒の
兵子帯を締めて、羽織も無い、沢の
少いが
痩せた
身体を、
背後から絞つて、長くもない
額髪を
冷く払つた。
······其の
余波が、カラカラと
乾びた
木の
葉を
捲きながら、
旅籠屋の
框へ
吹込んで、
大な
炉に、
一簇の
黒雲の濃く
舞下つたやうに
漾ふ、松を焼く煙を
弗と吹くと、煙は
筵の上を
階子段の下へ
潜んで、向うに
真暗な
納戸へ逃げて、
而して炉べりに居る二人ばかりの人の顔が、はじめて真赤に現れると
一所に、自在に
掛つた
大鍋の底へ、ひら/\と炎が
搦んで、真白な湯気のむく/\と立つのが見えた。
其の湯気の
頼母しいほど、
山気は寒く薄い
膚を
透したのであつた。
午下りに
麓から
攀上つた時は、其の癖
汗ばんだくらゐだに
······ 表二階の、狭い三
畳ばかりの座敷に通されたが、案内したものの顔も、
漸つと
仄くばかり、
目口も見えず、
最う暗い。
色の黒い
小女が、やがて
漆の
禿げたやうな
装で、
金盥に
柄を附けたらうと思ふ、
大な
十能に、
焚落しを、ぐわん、と
装つたのと、片手に
煤けた
行燈に
点灯したのを提げて、みし/\と
段階子を
上つて来るのが、底の知れない天井の下を、
穴倉から
迫上つて来るやうで、ぱつぱつと
呼吸を吹く
状に、十能の火が真赤な脈を打つた
······冷な風が
舞込むので。
座敷へ入つて、
惜気なく
真鍮の火鉢へ
打撒けると、横に
肱掛窓めいた低い障子が二枚、
······其の紙の
破から
一文字に吹いた風に、又
※[#「火+發」、105-14]としたのが
鮮麗な
朱鷺色を
染めた、あゝ、秋が深いと、火の
気勢も
霜に
染む。
行燈の
灯は薄もみぢ。
小女は
尚ほ黒い。
沢は其のまゝにじり寄つて、手を
翳して
俯向いた。一人旅の姿は
悄然とする。
がさ/\、がさ/\と、近いが
行燈の灯は届かぬ座敷の入口、板廊下の隅に、
芭蕉の葉を
引摺るやうな音がすると、
蝙蝠が
覗く
風情に、人の肩がのそりと出て、
「
如何様で、」
とぼやりとした声。
「え?」と沢は
振向いて、
些と
怯えたらしく
聞返す、
······「
按摩でな。」
と大分
横柄······中に居るものの
髯のありなしは、よく其の
勘で分ると見える。ものを云ふ顔が、
反返るほど
仰向いて、沢の目には
咽喉ばかり。
「お療治は如何様で。」
「まあ、
可ござんした。」
と旅なれぬ
少ものは
慇懃に云つた。
「はい、お休み。」
と其でも
頭を下げたのを見ると、抜群なる
大坊主。
で、
行燈に
伸掛るかと、ぬつくりと
起つたが、障子を閉める、と
沙汰が無い。
前途に
金色の日の輝く思ひの、都をさしての旅ながら、
恁る
山家は
初旅で、
旅籠屋へあらはれる按摩の事は、古い物語で読んだばかりの沢は、つく/″\とものの
哀を感じた。
二
沢は
薄汚れた、
唯それ
一個の荷物の、小さな
提革鞄を
熟と
視ながら、
蒼い
形で、さし
俯向いたのである。
爾時、さつと云ひ、さつと鳴り、さら/\と響いて、小窓の外を宙を通る
······冷い
裳の、すら/\と
木の
葉に触つて
······高嶺をかけて星の空へ軽く飛ぶやうな音を聞いた。
吹頻つた秋の風が、
夜は姿をあらはして、人に言葉を掛けるらしい。
宵には其の声さへ、
寂しい中にも
可懐しかつた。
さて、今聞くも同じ声。
けれども、
深更に聞く秋の声は、夜中にひそ/\と
門を
行く
跫音と
殆ど
斉しい。宵の人通りは、内に居るものに取つて
誰かは知らず
知己である。が、
更けての跫音は、
敵かと思ふ
隔てがある。分けて恋のない
||人を待つ
思の絶えた
||一人旅の
奥山家、枕に
音づるゝ風は我を
襲はむとする殺気を含む。
処で
······沢が
此処に寝て居る座敷は
||其の家も
||宵に宿つた
旅籠屋ではない。
あの、
小女が来て、それから按摩の
顕れたのは、
蔵屋と言ふので
······今宿つて居る
······此方は、
鍵屋と云ふ
······此の
峠に
向合つた二軒旅籠の、峰を
背後にして、
崖の
樹立の
蔭に
埋まつた
寂しい家で。
前のは
背戸がずつと
展けて、向うの谷で
劃られるが、其の
間、
僅少ばかりでも
畠があつた。
峠には此の二軒の
他に、別な
納戸も
廏も無い、これは昔から
然うだと云ふ。
「峠、お泊りでごいせうな。」
麓へ十四五
町隔つた、崖の上にある、古い、薄暗い
茶店に
憩つた時、裏に
鬱金木綿を着けた
縞の
胴服を、
肩衣のやうに着た、
白髪の
爺の、
霜げた耳に
輪数珠を掛けたのが、
店前に
畏つて居て聞いたので。
其処の
敷ものには熊の皮を拡げて、目の
処を二つゑぐり取つたまゝの、
而して木の根のくり
抜の
大火鉢が置いてあつた。
背戸口は、
早や
充満た
山霧で、
岫の雲を
吐く如く、
幹の
半ばを其の霧で
蔽はれた、
三抱四抱の
栃の
樹が、すく/\と並んで居た。
名にし
負ふ
栃木峠よ!
麓から一日がかり、
上るに従ひ、はじめは谷に其の
梢、やがては崖に枝
組違へ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包むで、
一時路は
真暗な
夜と成つた。
······梢の風は、雨の如く
下闇の草の
径を、清水が音を立てて
蜘蛛手に走る。
前途を
遙に、ちら/\と燃え行く炎が、
煙ならず白い
沫を飛ばしたのは、
駕籠屋が
打振る
昼中の
松明であつた。
漸と
茶店に
辿着くと、其の駕籠は
軒下に建つて居たが、沢の腰を掛けた時、白い
毛布に包まつた病人らしい
漢を乗せたが、ゆらりと
上つて、すた/\行く
······ 峠越の此の
山路や、以前も
旧道で、余り道中の無かつた
処を、汽車が通じてからは、
殆ど
廃駅に成つて、
猪も
狼も又戻つたと言はれる。其の年、
烈しい
暴風雨があつて、鉄道が不通に成り、
新道とても
薬研に刻んで崩れたため、
旅客は皆こゝを
辿つたのであるが、其も当時だけで、又
中絶えして、今は
最う、
後れた
雁ばかりが雲を越す思ひで急ぐ。
······ 上端に客を
迎顔の
爺様の、トやつた
風采は、
建場らしくなく、
墓所の
茶店の
趣があつた。
「
旅籠はの、大昔から、蔵屋と鍵屋と二軒ばかりでござんすがの。」
「
何方へ泊らうね。」
「やあ、」
と
皺手を
膝へ組んで、
俯向いて口をむぐ/\さして、
「鍵屋へは一人も泊るものがごいせぬ。
何や知らん怪しい事がある言うての。」
三
沢は蔵屋へ泊つた。
が、
焼麩と
小菜の汁で
膳が済むと、
最う
行燈を
片寄せて、
小女が、堅い、
冷い寝床を取つて
了つたので、
此からの
長夜を、いとゞ
侘しい。
座敷は
其方此方、
人声して、台所には
賑かなものの音、
炉辺には
寂びた
笑も時々聞える。
寂しい
一室に、ひとり
革鞄と
睨めくらをした沢は、
頻に
音訪ふ、
颯······颯と云ふ
秋風の
漫ろ
可懐さに、窓を
開ける、と
冷な峰が
額を圧した。向う側の其の深い
樹立の中に、小さく穴の
蓋を
外づしたやうに、あか/\と
灯影の
映すのは、
聞及んだ鍵屋であらう、二軒の
他は無い
峠。
一郭、中が
窪んで、
石碓を拡げた
······右左は一面の
霧。さしむかひに、其でも戸の
開いた前あたり、
何処ともなしに其の色が薄かつた。
で、つと小窓を
開くと、
其処に
袖摺れた秋風は、ふと向うへ
遁げて、鍵屋の屋根をさら/\と渡る。
······颯、颯と鳴る。
而して、白い霧はそよとも動かないで、
墨色をした峰が
揺ぶれた。
夜の樹立の
森々としたのは、
山颪に、皆
······散果てた柳の枝の
撓ふやうに見えて、鍵屋の
軒を吹くのである。
透かすと
······鍵屋の其の
寂しい
軒下に、赤いものが並んで見えた。見る内に、霧が薄らいで、其が
雫に成るのか、赤いものは
艶を帯びて、
濡色に立つたのは、
紅玉の如き柿の実を売るさうな。
「一つ食べよう。」
迚も寝られぬ
······次手に、宿の前だけも
歩行いて見よう、
||「遠くへ
行かつせるな、
天狗様が居ますぜえ。」
あり合はせた
草履を
穿いて出る時、亭主が声を掛けて笑つた。其の
炉辺には、
先刻の
按摩の
大入道が、やがて自在の
中途を頭で、神妙らしく
正整と坐つて。
······胡坐掻いて
駕籠舁も二人居た。
沢は
此方の
側伝ひ、鍵屋の店を
謎を見る
心持で
差覗きながら、一度
素通りに、霧の中を、
翌日行く方へ
歩行いて見た。
少し行くと橋があつた。
驚いたのは、其の
土橋が、
危つかしく
壊れ
壊れに成つて居た事では無い。
渡掛けた橋の下は、深さ
千仭の
渓河で、
畳まり畳まり、
犇々と
蔽累なつた濃い霧を、深く
貫いて、
······峰裏の樹立を
射る月の光が、
真蒼に、
一条霧に映つて、底から
逆に
銀鱗の竜の、
一畝り
畝つて
閃めき
上るが如く見えた其の
凄さであつた。
流の音は、ぐわうと云ふ。
沢は
目のあたり、
深山の秘密を感じて、
其処から
後へ
引返した。
帰りは、
幹を並べた
栃の木の、星を指す偉大なる
円柱に似たのを廻り廻つて、
山際に添つて、反対の
側を鍵屋の前に戻つたのである。
「此の柿を一つ
······」
「まあ、お掛けなさいましな。」
框を
納涼台のやうにして、
端近に、
小造りで二十二三の
婦が、しつとりと
夜露に重さうな
縞縮緬の
褄を投げつゝ、
軒下を
這ふ霧を軽く踏んで、すらりと、くの字に腰を掛け、
戸外を
視めて居たのを、沢は一目見て
悚然とした。月の
明い美人であつた。
が、
櫛巻の髪に柔かな
艶を見せて、
背に、ごつ/\した
矢張り
鬱金の裏のついた、古い
胴服を着て、身に
染む
夜寒を
凌いで居たが、其の美人の身に
着いたれば、
宝蔵千年の
鎧を取つて
投懸けた
風情がある。
声も乱れて、
「お
代は?」
「私は内のものではないの。でも
可うござんす、めしあがれ。」
と
爽な、
清しいものいひ。
四
沢は、
駕籠に乗つて蔵屋に宿つた病人らしい其と言ひ、鍵屋に此の思ひがけない
都人を見て、つい
聞知らずに居た、此の山には
温泉などあつて、それで逗留をして居るのであらう。
と
先づ思つた。
処が、聞いて見ると、
然うで無い。
唯此処の
浮世離れがして
寂しいのが気に入つたので、
何処にも行かないで居るのだと云ふ。
寂しいにも、第一
此の家には、旅人の来て宿るものは一
人も無い、と
茶店で聞いた
||泊がさて無いばかりか、

して見ても、がらんとした
古家の中に、其の
婦ばかり。
一寸鼠も騒がねば、家族らしいものの影も見えぬ。
男たちは、
疾から
人里へ
稼ぎに
下りて
少時帰らぬ。内には女房と小娘が残つて居るが、皆向うの
賑かな蔵屋の方へ手伝ひに行く。
······商売敵も何も無い。
只管人懐かしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける
······一頃皆無だつた
旅客が急に
立籠んだ時分は
固より、今夜なども
木の
葉の
落溜つたやうに方々から
吹寄せる客が十人の上もあらう。
······其だと蔵屋の
人数ばかりでは手が廻りかねる。時とすると、
膳、家具、
蒲団などまで、
此方から
持運ぶのだ、と云ふのが、
頃刻して
美人の話で分つた。
「家も
此方が立派ですね。」
「えゝ、
暴風雨の時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて
······此方は裏に峰があつたお
庇で、
旧のまゝだつて言ひますから
······」
「其だに
何故客が来ないんでせう。」
「
貴下、何もお聞きなさいませんか。」
「はあ。」
沢は実は
其段心得て居た、為に
口籠つた。
「お
化が出ますとさ。」
痩ぎすな顔に、
清い目を

つて、沢を見て
微笑んで云つた。
「嘘でせう。」
「まあ、泊つて御覧なさいませんか。」
はじめは
串戯らしかつたが、
後は
真個誘つた。
「
是非、
然うなさいまし、お化が出ると云つて
······而して
婦が一人で居るのを見て、お泊んなさらないでは
卑怯だわ。
人身御供に
出会せば、
屹と男が助けると
極つたものなの
······又、助けられる事に成つて居るんですもの。ね、
然うなさい。」
で、
退引きあらせず。
「蔵屋の方は構ひません。
一寸、私が行つて断つて来て上げます。」
と気軽に、すつと出る、
留南奇の
薫が
颯と散つた、霧に
月射す
裳の
影は、絵で見るやうな
友染である。
沢は
笊に並んだ其の柿を
鵜呑にしたやうに、ポンと成つた
||実は
······旅店の注意で、
暴風雨で
変果てた此の
前の
山路を、朝がけの旅は、不案内のものに
危険であるから、一同のするやうに、
路案内を
雇へ、と云つた。
······成程、途中の
覚束なさは、今見た橋の霧の中に穴の深いのでもよく知れる
······寝るまでに必ず
雇はう、と思つて居た、其の事を言ひ出す
隙も無かつたのである。
「お荷物は
此だけですつてね、
然う?
······」
と
革鞄を
袖で抱いて帰つて来たのが、
打傾いて優しく聞く。
「恐縮です、恐縮です。」
沢は
恐入らずには居られなかつた。
鳶の
羽には
託けても、此の人の両袖に、
||恁く、なよなよと、
抱取らるべき革鞄ではなかつたから。
「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其は
可いの、
貴下、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らない
処は
僅少の
間ですから、私がお見立て申すわ。
逗留してよく知つて居ます。」
と
入替りに、
軒に立つて、中に居る沢に
恁う言ひながら、其の安からぬ顔を見て
莞爾した。
「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」
と肩を
細り
······廂はづれに空を仰いで、山の
端の月と
顔を合せた。
「
最う
霜が下りるのよ、炉の
処で
焚火をしませうね。」
五
美女は炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。
而して、沢が其の
故郷の話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。
沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、
十有余年崇拝する、都の文学者
某君の
許へ、
宿望の入門が
叶つて、其のために急いで上京する次第は、
何故か、
天機を
洩らすと云ふやうにも思はれるし、又余り
縁遠い、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。
蔵屋の
門の戸が
閉つて、山が月ばかり、
真蒼に成つた時、此の鍵屋の
母娘が帰つた。例の
小女は其の娘で。
二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、
其処へ寝た
||丁ど真夜中過ぎである。
······ 枕を削る
山颪は、激しく
板戸を
挫ぐばかり、髪を
蓬に、
藍色の
面が、
斧を取つて襲ふかともの
凄い。
······心細さは
鼠も鳴かぬ。
其処へ、茶を
焙じる、
夜が明けたやうな
薫で、沢は
蘇生つた気がしたのである。
けれども、寝られぬ苦しさは、ものの
可恐しさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、
身繕ひして、
行燈を提げて、
便のないほど
堂々広い廊下を伝つた。
持つて下りた
行燈は
階子段の下に
差置いた。下の
縁の、ずつと奥の
一室から、ほのかに
灯の影がさしたのである。
邪な心があつて、ために
憚られたのではないが、
一足づゝ、みし/\ぎち/\と響く
······嵐吹添ふ
縁の音は、
恁る
山家に、おのれ
魅と成つて、歯を
剥いて、人を
威すが如く思はれたので、忍んで
密と
抜足で渡つた。
傍へ寄るまでもなく、
大な其の障子の
破目から、立ちながら
裡の
光景は、
衣桁に掛けた
羽衣の手に取るばかりによく見える。
ト
荒果てたが、書院づくりの、
床の
傍に、あり/\と
彩色の残つた絵の
袋戸の入つた棚の上に、
呀! 壁を
突通して
紺青の
浪あつて月の輝く如き、表紙の
揃つた、背皮に
黄金の文字を
刷した
洋綴の
書籍が、ぎしりと並んで、
燦として
蒼き光を放つ。
美人は其の横に、机を控へて、
行燈を
傍に、
背を細く、
裳をすらりと、なよやかに薄い絹の
掻巻を肩から
羽織つて、
両袖を下へ忘れた、
双の手を包んだ
友染で、清らかな
頸から
頬杖支いて、
繰拡げたペイジを
凝と
読入つたのが、
態度で
経文を
誦するとは思へぬけれども、
神々しく、
媚めかしく、
然も
婀娜めいて見えたのである。
「お客様ですか。」
沢が、声を掛けようとして、思はず
行詰つた時、向うから先んじて
振向いた。
「私です。」
「お入んなさいましな、待つて居たの。
屹と寝られなくつて
在らつしやるだらうと思つて、」
障子の破れに、顔が
艶麗に口の
綻びた時に、さすがに
凄かつた。が、
寂しいとも、
夜半にとも、何とも
言訳などするには及ばぬ。
「御勉強でございますか。」
我ながら
相応はない事を云つて、
火桶の
此方へ坐つた時、
違棚の背皮の文字が、
稲妻の如く沢の
瞳を
射た、
他には何もない、机の上なるも其の中の一冊である。
沢は思はず、
跪いて両手を
支いた。やがて
門生たらむとする師なる君の著述を続刊する、皆名作の集なのであつた。
時に、見返つた
美女の
風采は、
蓮葉に見えて
且つ気高く、
「
何うなすつたの。」
沢は仔細を語つたのである
······ 聞きつゝ、世にも嬉しげに見えて、
「
頼母しいのねえ、
貴下は
······えゝ、知つて居ますとも、
多日御一所に居たんですもの。」
「では、あの、奥様。」
と、片手を
支きつゝ、夢を見るやうな顔して云ふ。
「まあ、嬉しい!」
と派手な声の、あとが消えて、じり/\と身を
緊めた、と思ふと、ほろりとした。
「奥様と云つて下すつたお礼に、いゝものを
御馳走しませう
······めしあがれ。」
と云ふ。
最う
晴やかに成つて、
差寄せる盆に
折敷いた
白紙の上に乗つたのは、たとへば親指の
尖ばかり、名も知れぬ鳥の卵かと思ふもの
······「
栃の実の
餅よ。」
同じものを、来る
途の
爺が
茶店でも売つて居た。が、其の形は
宛然違ふ。
「
貴下、気味が悪いんでせう
······」
と顔を見て又
微笑みつゝ、
「
真個の事を言ひませうか、私は人間ではないの。」
「えゝ!」
「
鸚鵡なの、」
「
············」
「真白な鸚鵡の鳥なの。此の
御本の先生を、
最う其は
······贔屓な夫人があつて、其の
方が私を飼つて、
口移しに
餌を飼つたんです。私は
接吻をする鳥でせう。
而してね、先生の
許へ贈りものになつて、私は行つたんです。
先生は私に口移しが出来ないの
······然うすると、其の夫人を恋するやうに成るからつて。
私は中に立つて、其の夫人と、先生とに
接吻をさせるために生れました。
而して、
遙々東印度から渡つて来たのに
······口惜いわね。
其で居て、
傍に置いては、つい口をつけないでは居られないやうな気に成るからつて、私を放したんです。
雀や
燕でないのだもの、鸚鵡が
町家の屋根にでも居て御覧なさい、其こそ世間騒がせだから、こゝへ来て
引籠つて、先生の小説ばかり読んで居ます。
貴下、嘘だと思ふんなら、其の証拠を見せませう。」
と不思議な美しい其の
餅を、ト唇に受けたと思ふと、沢の手は取られたのである。
で、ぐいと引寄せられた。
「
恁うして、さ。」
と、
櫛巻の其の
水々とあるのを、がつくりと
額の
消ゆるばかり、仰いで
黒目勝な
涼い
瞳で
凝と、
凝視めた。白い
頬が、
滑々と寄つた時、
嘴が触れたのであらう、
······沢は見る/\鼻のあたりから、あの女の乳房を
開く、鍵のやうな、鸚鵡の嘴に変つて行く
美女の顔を見ながら、甘さ、
得も言はれぬ其の餅を含んだ、
心消々と成る。
山颪に
弗と
灯が消えた。
と
婦の全身、
廂を
漏る月影に、たら/\と人の姿の溶ける
風情に、輝く雪のやうな翼に成るのを見つゝ、沢は自分の胸の血潮が、同じ其の月の光に、
真紅に
透通るのを覚えたのである。
「それでは、
······よく先生にお習ひなさいよ。」
東雲の
気爽に、送つて来て別れる時、つと高く
通しるべの
松明を挙げて、
前途を示して云つた。其の火は
朝露に
晃々と、霧を払つて、
満山の
木の
葉に映つた、松明は
竜田姫が、
恁くて
錦を
染むる、燃ゆるが如き絵の具であらう。
······白い
鸚鵡を、今も信ずる。