[#ページの左右中央]紅茶会 三両二分 通う神 紀の国屋
段階子 手鞠の友 湯帰り 描ける幻
朝参詣 言語道断 下かた 狂犬源兵衛
半札の円輔 犬張子 胸騒 鶯
白木の箱 灰神楽 星
[#改丁]「紅茶の
御馳走だ、君、寄宿舎の中だから何にもない、砂糖は
各々適宜に入れることにしよう。さあ、
神月。」
三人の紅茶を
一個々々硝子杯に
煎じ出した時、柳沢時一郎はそのすっきりと
脊の高い、
緊った制服の姿を
籐の
椅子の大きなのに、無造作に落していった。
渠は
腕袋の美しい
片肱を椅子の縁に掛けて、悠然とぶら下げながら、
「
篠塚、その砂糖をお客様に出して上げろ。」
「おい、」と心安げに答えたのは
和尚天窓で、背広を着た柔和な
仁体、篠塚
某という哲学家。一脚の
卓子を囲んで、柳沢と差向いに同じ椅子に掛けていたが、
体を
捻って、
背後へ手を
伸すと雑書を
納れた本箱の上から、一瓶の角砂糖を取って、これを二人の間に居る一
人の美少年の前に置いた。
「取って頂くよ。」と
優しく会釈する、これが神月と呼ばれた客で、名を
梓という同窓の文学士、いずれも歴々の人物である。
梓は柳沢が煎じてくれた紅茶の、
薄紅色の
透取る
硝子杯の小さいのを取って前に引いたが、いま一人哲学者と肩を
竝べて、手織の綿入に
小倉の
袴、
紬の羽織を脱いだのを、
紐長く椅子の
背後に、裏を
翻して
引懸けて、片手を袴に入れて、粛然として読書する
薄髯のあるのを見て、
「何を読んでるんです、」と少しく腰を浮かして、
差覗いて聞いた。
「僕、」と応じはしたけれども、急に顔を上げたので誰に返事をするのであるか、自分にも分らないで
迂路々々するのを柳沢は気軽に引取って、
「
若狭が読んでるのは歴史だよ、国史専修の先生だもの、しばらくの間も研究を怠らない。」
「御勉強です、」といって神月が
点首くと、和尚は、にやにやと笑いながら、その読んでる書を横目で見た。柳沢は吹出して、
「真面目な
挨拶をする
奴があるものか、歴史は歴史だが大変なもんです。無名氏著、岩見武勇伝だから
可いじゃあないか。」
「
酷く研究をしております、」と哲学者は仰いで飲む。これが聞えたものらしい。若狭は読みながら
莞爾とした。
「また何ぞの材料にならないとも限らないだろう。」と梓はその硝子杯を手にした。
柳沢は
斜に
卓子に
凭れて、
小刀の柄で紅茶に和した角砂糖を
突きながら、
「そりゃある、その材料のあることはちょうど何だ、篠塚が小まさの浄瑠璃の中から哲理を発見するようなもんだ。」
「馬鹿をいえ。」
梓は
傍より、
「しかし君も鳥屋の
女の言は、時に詩調を帯びると、そういった事があるよ。」
底意なき人達は三人一堂に笑った。
「
賑かだね、柳沢、」と窓の下の
園生から声を懸けたものがある。
一番窓に近い柳沢は、乱暴に胸を
反して振向いたが、
硝子越に下を
覗いて見て、
「
竜田か。」
「誰か来ているかい。」
「根岸の新華族だ、入れ。」と云って座に直る。
同時に、ひよいと
[#「ひよいと」はママ]窓の縁に手が
懸った、飛附いて、その以前、器械体操で
馴らしたか、身の軽さ、肩を揺り上げて室の中に、まずその
瀟洒なる顔を出したのは、竜田、名を若吉というのである。
梓を見て
笑を含み、
「堪忍してやれ、神月はもう子爵じゃあない。」といいながら腕組をして外壁に
附着いたままで居る。柳沢は椅子をずらして、
「まあ入れ、ちょうど
可い。今その事に就いて、神月問題というのをはじめた処だ。ちょっとその休憩時間よ。神月が
酷く弁論に窮して、き様の来るのを待っていたんだぜ、竜田が居たらばッてそういってな。」
聞きも果てず、満面に活気を帯び
来った竜田は、
飜然と躍込み、二人の
間へ
衝と立って、
卓子に手を
支いたが、解けかかる毛糸の襟巻の端を
背後へ
撥ねて、
「
可し、また例の筆法で苦しめたか、神月君、」
親しげに、
「よく、僕を待っててくれました、もう大丈夫だ、心配をしたもうな。僕何のために学生となって、法律を研究してると思う、皆親友神月の弁護をするためだね、どうです。」
「どうぞ
宜しく、」といって梓は
戯れに
頭を下げた。
竜田はその
薩摩飛白の羽織の
胸紐をぐッと
〆め、
「さあ、来い。」
「またやんちゃんが始まるな、」と哲学者は両手で
頤を支えて、柔和な顔を
仰向けながら、若吉を
瞶めて
剃立の
髯の
痕を
撫で廻す。
「大概分ってるさ、問題というのは神月が子爵家を去って、かの夫人に別れて、
谷中の寺に
籠城して、そして
情婦の処へ通うのを攻撃するんだろう。」
「勿論、」と簡単、がちゃりと
雑具の中へ
小刀を投出して、柳沢は
大跨に開き直り、
「最初、神月がその夫人との中に感情を害したのは、不幸にも結婚の第一
日、すなわち式を挙げた日だ。」
「さよう、」と
突込んで応ずる竜田の声は明快である。
「き様も知ってるな、僕も聞いた。そうして成程と思ったが、考えて見ると
蓋し神月の方が非なんじゃあないか。」
「何、そんなことがあるものか、新婚旅行に出掛けようとして、上野から汽車に乗込むと、まだ赤羽の声も
掛らぬうち、山下の森の中で、光りものがした。神月は
||おや、
人魂が飛ぶ、
||と何心なくいったんだ。谷中は近し、こりゃ感情だね。そうすると、あの
嚊々め。」
「竜田
窘め、
旦那様の前じゃ、」と哲学者が戯れる。
顧みて、
「失敬。」
「結構、」といったのは、そのいわゆる旦那様梓であった。竜田は
勢よく、
「どうだ、小生意気ではないか、
||いいえ、星が流れたんです、
隕石でございます、
||と云った、そればかりならばまだしも
恕すね。」
「神月が人魂だといったのを聞いた時、あいつ
愛嬌のない、鼻の
隆い、目の
強い、源氏物語の
精霊のような、
玉司子爵夫人
竜子、語を換えて云えば神月の
嚊々だ。君、そいつがねその権式高な、寂しい顔に
冷かな
笑を帯びてさ、文学士を軽蔑したもんだぜ、神月なるもの
癪に障らざるを得んじゃあないか。」
「
可し、婿さんは癪に障ったろう。癪に障ったろうが、また夫人その人の身になって、その時には限らぬが、すべて神月の性質と、
行を見た時の夫人の失望を察せんけりゃ
不可。もっとも余り物質的の名誉を重んずる夫人の性質も極端だが、それだけにまた
儕輩に群を抜いて、上流の貴婦人に、師のごとく、姉のごとく、敬い
尊ばれている名誉を思え、
七歳の
年紀から
仏蘭西へ行って
先方の学校で育ったんだ。」
「待て、待て、少し待て。」と竜田は
掌で
卓子を押え、
語を遮り、
「まあ待て、
先方が
七歳の時から仏蘭西で育ったんなら、手前どものは
六歳の
年紀から
仲之町で育ったんです、もっとも
唯今は
数寄屋町に
居りますがね。」
「竜田、」と留めた、梓は恥ずる色があった。
「
可いよ、君、可いから言わしておけ、どうせ
皆御存じなんだ。どうです、彼が仏蘭西で、学び、日本で得た、すべての学識と、その子爵たる財産と、家屋と、庭園と、十幾人の
奴隷とだ。その言一句といえども
忽にせず、一挙手一投足といえども謹んで、二十七歳の今日まで、
旭の昇るがごとくに博し得た名誉とを、
悉皆神月に捧げて、その妻となったのを、恩だというんなら、こっちにだってその一切に
価するものがあるんだよ。」
哲学者は
言を挟み、
「見たまえ、また竜田が例の笛と鼓を持出すからな、はははははは。」
「何を失敬な、」と哲学者をちょっと
睨んで、
「そうさ、持出すが悪いか。
先方じゃあ
巴里で、
麺麭を食ってバイブルを読んでいた時に、こっちじゃあ、雪の朝、
顫えてるのを
戸外へ突出されて、横笛の
稽古をさせられたんだ。吹込む
呼吸が強くなるためだといって
抱主が、君、朝御飯も食べさせない、
耐るもんか、寒い処を、笛を習ってる
中に
呼吸が続かぬから気絶するのが、毎朝のようだ、水を
吹かけて生返らして、それから握飯の針のようなのを二ツずつ貰って食べる、帰ると三味線のお
温習をして、そのまま
下方の稽古に
遣られる。直ぐに踊の師匠に
打ちのめされるんだ。
生疵の絶間もない位、夜はというと座敷を廻り歩いちゃあ、年上の奴に突飛ばされて、仰向けに倒れると見っともないといって
頬板を
打たれたもんだ、何のためだ、同じ我々
同胞の中へ生れて来て、一方は
髯を
生して馬車に乗った奴に尊敬される、一方は客とさえいやあ馬の骨にまで、その笛をもって、その踊をもって、勤めるんです、この
間に処して
板挟となった、神月たるもの、
宜しく彼を棄ててこれを救うべしじゃないか。どうだね、殊に親も兄弟も叔父叔母もない。ただ手足と、顔と、
綾羅錦繍と、三味線と
冷酒と踊とのみあって存する、あわれな
孤児をどうするんです、ねえ君、そこは
男子の意地だ。」と若い人は意気
頗る
昂った。
柳沢は冷然として、
「あらず、そういう意地は、
鳶の者も持ってるじゃあないか。」
この折から
譬えば荒滝をずたずたに切って落すような、がッがッという
響がした。この音は校舎の奥の
方より
遥に
轟き
来って、床下を決して
戸外へ抜けたのである。
先刻からわざと笑顔を装いながら、何か澄まないらしい色が見えて、ほとんど
茫然したかのごとく、柳沢と竜田の論ずる処を聴いていた文学士は、
太くこれを感じた様子で、
「何だね、今の音は、」と安からぬ
状して尋ねた。
柳沢、そのあらぬ
方を
瞶めていて落着かない梓の
面を
瞻って、
「忘れたか、神月。」
「何を。」
「今の音を。室を
煖める蒸気じゃあないか。」
言う時、
煉瓦造の高い寄宿舎の二階から一文字に懸けてある
鉄の
樋が鳴って、深い溝を一団の湯気が白々と
渦き
上った。
硝子窓は
朦朧として、夕暮の寒さが身に染みるほど室の煖まるのが感じらるる。
柳沢は片手を握って、長くこれを神月に差向けて
卓子の上に置き、
「それだからもう寄宿舎に居た頃の事を君は忘れてしまったのだ。既に幾たびも君が学資に窮して、休学の
已むを得ざらんとするごとに、常に
仏文の手紙が
添て、
行届いた
仕送があったではないか。神月、君が俊才有為の士である事は
皆が認めていた、けれども、いざとなって金貨を積んでその業を助けたものは、天下に今の夫人を
措いて
他にゃなかろう。
そうすりゃ恩人でまた唯一の知己といわなければならない。夫人の名誉のため、幸福のため、子爵のためというよりも、ただその知己であるというばかりに対しても、君の
行はちと間違っているじゃあないか。」
梓は聞いて物をもいわず
差俯向いたにも
係らないで、竜田は
凜として姿を調え、
「柳沢、そんなことをいって僕の居ない時に梓君を
苛めるのか、
止せ。
可いよ、待て、まあ、僕のいうことを、今君のいうごとくんばだ。
嚊々殿は仏文の手紙と、若干金の学資とをもって神月を買ったものだと言わなけりゃなりません、そいつあ御免を
蒙りたいな、仕送をしたっていくらがもんです。
金子なら千か二千じゃあないか。利をつけて返すくらいさほど困難なことでもなし、またそのくらいな
価で婿に買占められるような、僕の梓君じゃあない。それをともかくも
言に応じて玉司家を
嗣いだのは、すなわち君のいう、その知遇に感じたからだ。
しかるに、のっけから人魂と流星の事で早くも神月の感情を
害ねたのはどういう訳だい。
すべて女学校の教科書が貴婦人に化けたような訳で、まず
情話を聞かされると頭痛がして来るといやあ、生理上そういうことのあろう
筈はない、といった調子だから
耐った訳のもんじゃあない。
鰹は
中落が
旨くッて、
比良目は縁側に限るといやあ、何ですか、そこに一番滋養分がありますか、と
仰有るだろう。衛生ずくめだから耐らない。やれ教育だ、それ睡眠時間だ、もう一分で
午砲だ、お
昼飯だ。お
飯だ。亭主が
流行感冒一つ引いても、まっさきに伝染性なりや否やを医師に
質すような
婦を、貴婦人だって、学者だって、美人だって、
年増だって、女房にしていらるるもんか。」
「考えて見たまえな、名誉だの、品性だの、上流の婦人の
亀鑑だのと、
体の
可い名は附けるものの、何がなし見得坊なんじゃあないか。
御覧なさい、だから神月と結婚をした当座に、はじめからの関係を知ってる新聞が報道をすると、その記事の
中に、何か夫人がかねて神月に
恋をしていたというような意味が書いてあったといって、
嚊々め恐しく
憤って、名誉を
蹂躪された、世の中へ顔出しも出来ないてッたようなことを云って、あたかも神月君が社をして書かしめたように当り散らしたというんだ。夫に
愛しとるということをもって、大なる恥辱と心得るような見得坊がまたあるかい、
怪しからんじゃあないか。」と声を鋭くしていう、竜田はその白面に
紅を
漲らしたのである。
これを聞いて聞き
惚れて、
「しっかりやれ/\。」と哲学者も嬉しそうに応援した。
「それのみならず、数寄屋町と神月君とは神の引合せだと云っても
可いな。
······ 第一それからして夫人と衝突する
基じゃあったろうけれども、神月は先天的、むしろ家庭的か、そうだ、家庭的信心者で、寄宿舎に居る時分から、湯島の天神へ
参詣をするのが例で、子爵家に行ってからも
毎月欠かさなかった。去年の夏だ、まだ朝早いのに湯島に参って、これから
鰐口を鳴らそうと思うので、
御手洗で清めようとすると、番の
小児が水銭をくれろと云った。懐を探すと神月が懐中物を忘れたね、後に届けるといっても小児だから訳が分らぬ。内気な殿様だから顔を
赧くしてまごまごしたッさ。そこへ来合せて水銭を
達引いて、それが御縁となりましたのが、
唯今の美人です。蝶さんなんだ。」
「
解りましたよ。」といって柳沢は
詮方なげに苦笑した。
神月は
極悪げに、
「もう可いじゃないか、
皆僕が悪いんだから、まあ、柳沢、竜田。」
「いいえ悪かないよ。僕は大賛成、一体婦人が男子に対して貢献するのに、自分の名誉だの、財産だの、芸術だのをもってして、それで、
算盤玉に当って、差引こうというほど生意気なことは無い、いわんや、それに恩を
被せるに到っては、
不届といわざるを得ないな。
しかるに蝶さんに至っては、その今まで
為し
来ったすべての、可いかい。平ッたくこれをいえば苦労だ。その苦労はほとんど天下に
大名をなしたものの、堅忍苦耐したくらいなもんだよ、その
閲歴に対する報酬として、ただ、ひたすら、簡単に神月に見捨てられまいということを願ってまた他意なきを
如何よ。その上に一意専念、神月のために形造るに到っては、男子すべからくこれがために名と体とを与うべしさ、下らない名誉だの、財産だの、徳義だのに、毛一筋も払うもんか。」
「しかし竜田、アダムとイヴあって以来、世界に
男女ただ二人ばかりではない。
譬えば、神月とその美人と、」
「勿論、僕も居る、」
「それから
俺よ、」
「
私も
居るわい。」と哲学者は前に
屈んで、顔を差向けていった。
「加うるに君が居ても差支えない。諸君のような人ばかりなら、
幾人居たって私は心配も
何もしないが。」と梓は
愁然として
差俯向く。
「だから神月、君自ら感情を制して、その美人と別れたら
可かろう、」と柳沢は慎重に諭した。
「何、もう子爵家を去って、寺に下宿したら
可いじゃあないか。僕はね、爵位と、君があの高慢な
嚊々とを棄てたというので、すべての罪を償うて
余あるもんだと思う。借金でも何でも
遣ッつけッちまえ。
癪に障ったら
片端から
弾飛せ。一般の風潮で、日本に
容れられなかったら、二人で海外に旅行するさ。それでも
可けなけりゃ、天に登るこッた。美しい星が二つ出来るんです。天文学者には分らなくッても、情を解するものには、紫か、緑か、
燦然として衆星の中に異彩を放つのが明かに見出される。」といい放って、竜田はその若々しい、美しい顔を
仰向けて、腕組をした、毛糸の茶色の襟巻は端がほろほろと解けた。
その背を叩いて、
「江戸ッ
児! 相変らず
暢気なものだな、本人の神月は、君よりよっぽど訳が分ってるよ。だから心配をするんじゃあないか。」と
穏に云いながら柳沢は
老実々々しく、
卓子の上に両方からつないで下げた電燈の
火屋の
結目を解いたが、
堆い
書籍を片手で
掻退けると、
水指を取って、ひらりとその脊の高い体で、靴のまま卓子の上に
上って銅像のごとく
突立った。天井はそれよりも
遥に高いが、室は狭く、五人を入れて、卓子を
真中に、本箱を四壁に
塞いだ上に、戸の入口には下駄箱が
竝んで、これに、
穿物が脱いであるなり、
衣服は掛けてあり、
外套は
下ってる。
避て通らなければ出られないので、学士はその卓子越の間道を選んだので、余り
臨機な
働であったから、その心を解せず、三人は驚いて四方を囲んで、
斉しく高く仰ぎ見た。ために国史専修の学士も、しばらく岩見重太郎に別れなければならず余儀なくされた。
柳沢は
突立ったまま、
「おい、ちょっと
退かないか。」
「何をする、」と哲学者は
呆れ顔をしてほとんど問題を研究する時のように難しく眉を
顰めた。
事も無げに、
「紅茶を入替えよう、湯を取りに
行くんだから、」
「こっちへ
寄越せ、僕が
行こう、」と哲学者も
衝と立上る。
「そうか。」といいさま、柳沢はひらりと下りて、身軽に立直った、ぱたりと靴の音。
電燈の球は
卓子の上を
這ったまま、朱を
灌いだように
颯と
赫くなって、ふッと消えたが、白く
明くなったと思うと、
蒼い光を放つ!
「星を仰ぐこと、正に、」と竜田若吉は腰を落して
頭を卓子の下に入れ、顔を上げて、
清しい目を

って、
「こういう風。」
梓はその
面羞気な顔を照らされるのを
厭うがごとく、椅子を放れて
疾く
背後に
退いた。柳沢は長い足を素直に伸ばして、膝を膝に乗せて組違えると同時に仰向けに寝て一杯に
肱を張って、両手で
項を
抱きながら、じッと
件の電燈を
瞶めた。
その時、国史専修の学士は、
静に糸を取って、無心に
繋合せて、
灯を宙に
釣したと思うと、
袴の下へ手を入れて、片手で赤本をおさえてみたが、そのまま腰を掛けて、また読みはじめる、岩見重太郎武勇伝。
「
歇んだ、歇んだ、
可い
塩梅だ。」
空を仰いで
立停ったのは、町屋風の
壮佼で、雨の歇んだのを見ると、畳んで
袂の下に抱え込んでいた羽織を
一揺、はらりと襟を
扱いて手を通した。この男が雨に当てまいと大切がるのは、単にこの羽織ばかりではなく、
一品懐に入れているものがある。大きな紙入ではない。
乳貰の
嬰児でもない。すなわち一足
表打の
駒下駄であるが、
尾上の
使に
駈出して来た訳ではない。これはさる筋の
芸妓から年玉に買って頂いたので、すべて、お
守扱いにしているから、途中で雨を
啖ったために、汚すまいと懐中した。本人は生白い
跣足である。
かかる人は、下町にまず松の
鮓の
忰源次郎を
措いて外にはない。
それ世に、
鳶の者の
半纏は
侠にして旦那の
紋着は高等である。しかるに源ちゃんは
両天秤、女を張る時は半纏で、
顱巻。宗匠を張る時は紋着で
巻莨、色と点取発句が一斉に出来るのであるから、ついこう下駄を懐に入れるような事にもなる。
かえって説く源ちゃんは
町中の暗がりに羽織を着込んだが、足が汚れていたから下駄は
穿かないで、そのまま懐を揺り固めた。
「可い塩梅だ、畜生。」と、これも何か両面に意味の通ずるような
独言をして、また足早に歩き出した。
その
面形のごとく
凹んだ
面の、眉毛の薄い、低い鼻に世の中を何と
睨んだ、ちょっと度のかかった
目金を懸けている
名代の顔が、辻を曲って、三軒目の焼芋屋の
灯に
照された時、
背後から、
錆びたずんぐりした声で、
「源じゃあねえか、おい、源坊。」
「誰だい、」と
思入のある
身振で、源次郎は振返る。
「俺だ。」
「や、」
「待ちねえ。」
つかつかと
近いた、三尺帯を尻下りに結んで、
両提の
莨入をぶらりと、坊主
天窓の
親仁が一名。
「
頭。」
「おい、」と重く落着いて一ツ
頷いた。これは
下谷西黒門町に住んで、
頭、頭と立てらるる、
辰何とか言うのであろう。本名は誰も知らない、何をして暮すのか、ただ遊んで、どことも
謂わず
一群一群入り込む
侠な
壮佼に、時々
木遣を教えている。
頭は膨らんだ源のその懐をじろりと見て、
「何だ、それは、」
「ええ、」
「下駄じゃあねえか、下駄じゃあねえか、
串戯じゃあねえ、何を
面啖ったか知らねえが、そいつを懐に入れるだけの
隙が有りゃ、
敵の
向脛をかッぱらって
遁げるゆとりはありそうなもんだぜ。何だい、
出会したなあ、犬か、人間か。」
「
喧嘩じゃあないんです。」
「
辻斬か。」
「冗談をいっちゃあ
可けません。」
頭はわざとらしく
呵々と笑って、
「じゃあ、どうしたんだ。」といったが、思う処あるらしく、
房りしたその眉を
顰めた。
源次は何の気も付かない様子で、
「
仔細はないんです、喧嘩なんて何も決してそんな訳じゃあないんだけれどね、」
「ふむ、」と心ある
頭は返事まで物々しい。ちと
応答を仰山にされたので、源次は急に
極が悪そう。
「降って来たもんですから、その何なんですよ、泥でも
刎上げちゃあ、そのね、」と今更のように懐を

して、
「へへへへ、なに
詰んねえ事なんで、」
「それが、」とその時、
頭はずッと
合点んだ顔をして、
「あれだな、評判の。ついまだ掛違いまして手前お
目通は
仕らねえが、源坊が下駄と来ちゃあ当時
名高えもんだ。むむ、名高えもんだよ。」
「なに詰らない。」
「馬鹿あ言え。
畳算より目の子算用を先に覚えようという今時の
芸妓に、
若干か自腹を切らせたなあ、大したもんだ、どれちょっと見せねえ、よ、ちょっと拝ませねえかよ。」
思わず上から手で押えて、
「
頭、これですか。」
「その
芸妓の
達引いたやつよ。」
「へ、何、下らないことを、」と内々恐悦で、少し
含羞む。
「
可いやな、見せねえ、見せねえ、一番御灯明を奉ることにしようぜ、待ちねえよ。」
と言い懸けて向直り、左側の焼芋屋の店へ、正面を切って
揺いで入る。この店は古いもので、
取つきの
行燈に、
||おいしくば買いに来て見よ
川越の、と
仮名書して、本場○焼
俵藤助||となん。
「
父爺さんや、」で
頭は無造作に
言を懸ける。
ぶつぶつ、
······ものを読んでいた声がはたと
止んで、
破行燈の灯の
射す土間の上の一枚の古障子を明けて、
「誰だい。」といった
藤兵衛は、
匍匐になって、胸の下に京伝の
読本が一冊、悠々と
真鍮環の目金を取って、読み懸けた本の上に置きながら、
頬杖を突いたままで、
皺面をぬっ!
「俺だよ、へんちっとも珍しくねえ。」
「おお、頭。」
「用じゃあねえんだ。とっさん少しばかり店を貸してくんねえ、
灯が欲しいでの。」
「何か、灯ッて、その
燻ぶり返った
釣洋燈のことかい。」
「そうよ。まあ、」
「御念にゃあ及ばねえこッた、
内証の
文でも読むか、」
「いんや、質札だ、構わっしゃるな。寒いから閉めてくんな。」
戸外に向って、
「源坊、こっちへ入らっし。おい、何を
茫然石地蔵を抱いた風で
突立ってるんだ、いじけるない。」
「頭、
煖んなさい、」と
竈の
後から
皺嗄れた声を懸ける。
「おお、入れ
黒子のしなびたの、この節あどんな寸法、いや、
寸伯か
寸伯か、ははは。」
「
串戯じゃあない、ちょうど一くべ
燻べた処だ、
暖けえよ。」
「豪儀だな、そいつあ、」とくるりと廻った、
頭の
法然天窓は竈の陰に
赫々して、
「よ、まあこっちへ来ねえ、松の
鮨の
兄哥、入れッてことよ。」
強いられて、源さん
止むことを得ず。
「御免なさい。」
「さあさあ、」と婆さんも七十ばかりだが如才ない。
「聞きねえ、婆さん、
御前なんざあ上草履で廊下をばたばたの方だったから、
情人を
達引くのに、どうだ、こういうものは気が付くめえ。豪儀なもんだぜ、こら、どうだ素晴しいもんじゃあねえか。」
頭は
籐表を打った、
繻珍の鼻緒で、桐の
柾という、源次が私生児を
引放して、片足打返して差出した。
「ねえ、こら。」と
引くり返して鼻緒を
掴んでちょっと
捻る。
「どうしたんだね、」と婆さんは膝に手を乗せて
蹲まったまま呆れて見ている。
頭は
大袈裟に、
「どうしたどころかい、近頃評判なもんだ。これで五丁町を
踏鳴すんだぜ、お前も知ってるだろう、
一昨年の
仁和加に
狒々退治の武者修行をした大坂家の
抱妓な。」
「蝶吉さんかね。」
「うむ、この節あ数寄屋町に居らあ、あの
跳ッ返りめ、お先走りで、何でも来いだから、仁和加の時も、一本引ッこ抜いて使うんだからッて、それ痛い目に逢わないだけにして、本式に習いたいというので、お前ンとこの藤さんに仕込んでもらったな。
面小手で
竹刀を
引担いでお前、稽古着に、小倉の
襠高か何かで、
朴の木歯を
引摺って、ここの内へ通っちゃ、引けると仲之町を縦横十文字に
鳴して歩いた。ここにおわします色男も鳴すことその通り。
それがだな。あのお
茶ぴいめ、ついこないだまで竹馬に乗ったり、学校の生徒に
引張り出されちゃあ
田圃でぶらんこをしていたっけが、どうだい、一番この男とおっこちゃあがって、それ、お
歳玉に
内証だよ、と
遣りゃあがったんだとよ。驚くじゃあねえか、この下駄だ。」といって、また
引くり返した。
頭は
竈の前に両足を拡げながら、片手で抜取って
銀煙管を
銜え、腰なる
両提ふらふらと
莨を捻る。
「おや、」といったきり、婆さんはかねてその蝶吉というのを知ってるほど、おっこちたと
謂わるる男、すなわちこれなる源次郎のせめてそれだけでも
止して頂きたい、目金を乗せた鼻の形と、
件の下駄と
交る
交る
見競べて
解せない顔附。
頭は悠然と煙を
吹して、
「何しろ素晴しいもんじゃあねえか、
可恐しい。幾らだとか言ったっけな、んんどうだろう、うむ、豪儀な。」
言いようが余り
業々しいので、取合う気もなかった婆さんも近々と目を寄せて、
「頭、こりゃ今の
流行かい。」と老いたる事をまじまじと言う。
これを聞くと叱るがごとく、
「これ
庫の
七戸前も
嘗めた口で、何だい、その言い
種は、こう源坊、若い
中だぜ、
年紀は取るもんじゃあねえの。ここに居る婆さんは、これでも仲じゃあ
葛の葉といってその昔は売ったもんだ、ずうっとそれ、」
「
止しねえな、見っともない、」と
穏に
微笑んで目を
外した、もう仏に近いのである。
「
旧の
直で二朱ぐらいか、源坊、幾らだとかいったっけな、二両二分。」
「頭、三円、」といって
件の鼻を
仰向にして
澄す。
「ああ、三両二分か、何でも二分という
端だけは付いてると聞いたよ。そうか、三両二分か。ふ、豪儀なもんだ、ちょっとした碁盤より
直が張ってら。格子戸で、二間なら一月分の
店賃だ、
可恐しい、豪傑な。」と
熟々見ながら、うっかりしたか、下駄の
肚で吸殻をとん。
源次
慌しく、
「頭、」
「ほい、これは。」
「しかしどうも
可恐しい気前だぜ。もっともあの蝶吉といやあ、いつかも客に連れられて中の
植半へ行った時、お前、旦那がずッしり
重量のある紙入をこれ見よがしに預けるとな、
肯かない気だから、こんな面倒臭いものは
打棄っちまうよ。まさかと思うから、うむ、
可いとも大川へ流しッちまえ、といったが災難、
仲店で買物をして、お前紙入は、というと、橋の上から打棄ったと言わあ。本当か、とばかりで
真蒼になったとよ。そうだろう、二百円足らず入ッてたんだそうだ。
それだものこのくらいな
達引はしかねめえ。」という、高がこんな下駄を(しかねめえ。)というほどの事はあるまいと思うほど、
頭が
為振を見て、婆さんはこの
年紀になってもその
瞼の黒い目に、
逸疾く
仔細があろうと見て取った。
源次も何となく気がさして、少し不安心になった、
引構で、
「
頭、もう沢山だ。」
気可愧しそうに装って、もじつきながら、出して取ろうとした手を、外して
持更え、
「遠慮をするなッて事よ、何もはにかもうッて
年紀じゃあねえ。
落語家の
言種じゃあねえが、なぜ
帰宅が遅いんだッて言われりゃあ、奴が留めますもんですから、なんてッたような度胸があるんじゃあねえか。」
「なにまた
詰らないことを、」
「それでなくッて、どうしてお前、これが長火鉢の上へ持出されるもんか、この間もお前、脱いだやつを持って
上って、伝が
家の帳場格子の中へ
突込んで見せたというぜ。」と
風見の
鴉がくるりと廻って、少し
北風が吹いて来る。
「え。」
「その時ぶん
撲られなかったのが目っけもんだ。」とずッきり言って、したたかに気を替える。
ひやりと
応えて、
「何だってね、」
「婆さん、もう
一燻※[#「火+發」、U+243CB、298-16]とやりゃどうだ。」
といいながら
突込むように
煙管を
納れた、仕事に
懸る
身構で、
頭は素知らぬ顔をして
嘯きながら、揃えて下駄を
掻掴めり。
形勢
穏ならず、源次は
遁足を踏み、
這身になって、
掻裂くような手つきで、ちょいと出し、ちょいと引き、取戻そうとしては
遣損い、目色を変えて、
「
頭、何ですから、急ぎますから、」
「
跣足で
駈出しねえ、跣足で。それが
可いや、
可恐しく路が悪いぜ。」
また
一当当てられて
揉手をして、
「
穿いて
行きますよ、よ、穿くんだから、頭失礼ですが、その。」
「穿かねえでさ、下駄は穿くに
極ったもんだ。誰がまあ頂く奴があるもんか。だが、それ懐へ入れる奴は
無えとも限らねえ、なあ、源坊。」
「
私ゃちっと何だから、これから少し急ぐんですから、」
「どこへ急ぐんだ。どこへ、」
「ええ、ちっとその、何で。これから発句の会があるんです。」と
捨鞭で歌を読むような見得をいった。
「発句の会、ああ、そうか。源、何、何とか云ったな、その
戒名、いや俳名よ。待ちねえ、お前なんざあ俳名よりその戒名の方をつけるが可いぜ、おいらが一番下駄の火葬というのを
遣って、先きへ引導を渡してやろう。」
「ひゃあ、」
「馬鹿め、跣足で
失せやあがれ。」
「おやおや、
酷く曇ってるなあ、何だかこれじゃあ君を送って来たようだが、神月君。」
竜田は校内の
園を抜けて、
弥生町の門を出ようとして空を見たのである。
「一所に散歩をしようと思ったけれど、降りそうだから僕はもう失敬するよ、それじゃあ君、議論は議論だが実際は実際だ、よく考えて
軽忽なことをしたもうな。」と年下の友に
熟々言われて、ただ
打頷くのは神月であった。
「それでは。」
「失敬。」と言い棄てて、竜田は門から引返した。暗がりの中を詩を唱ったが、低唱してやがて聞えなくなった。
梓は
徊して歩を転ずる、
向から来て、ぱッたり。
「えッ。」といって何物か身を開いて
退って神月の姿を
透し、
「よ、先生か。」と
冷評すような調子で言った。
これは松の
鮨の源次郎で、蝶吉から頂いた、土付かずといって
可い大事の駒下駄を、芋を焼く
竈に
焚られた上に、けんつくを
啖って面目を失ったが、本人に聞くより一段情無い
愛想尽しを、
頭の口から、しかも意見するごとく言い聞かされ、お
穿物という謎まで聞いて、色男堪忍ならず。胸はひッくり返るようだが、むずと
胸倉を取られると、目の玉が出そうな豪傑の
頭を
対手には文句も言われず、
居耐らなくなった処を、
煙に
燻されて泥に酔ったように
駈出して来たのである、が、自分から
顛倒していて突当った人を見ると、
蛇の道は
蛇で、追廻す蝶吉がまた追廻す探索は届いて、顔まで
見知越の恋の
仇。恋に上下の差別がないから仇に上下の差別はない、学士神月梓である。むかッ
腹立の八ツ当りで、
「ふん、色男も
凄じいや、
汝が
孕ませた
児を
堕されりゃ沢山じゃあないか、お
政府へ知れて見ろ、二人とも、泥を
噛るんだい。知ってていわないのはお慈悲だと思うが可い。こっちから突当ったらな、そっちからあやまって、通るこッた。人をつけ、学者もそれで沢山だい、色男万歳だな。」
と影の添うがごとく七八歩、学士に添って
逆戻をして歩いたが、
「ざまあ見ろ色男、
面が見てえや、青いのか、赤いのか、やい、七面鳥の文学士。」と悪たれ口を
吐き棄てて擦違って駈出した。学士は歩み悩んだ様子で、ふと足を留めたがさすがに後を見も返らず、取るにも足りない
下司の雑言と思ったから。
「雨か。」
空を見ると雲低く、ひやりとして頬に
雫、またばらばらと二ツ三ツ。
「ああ、」と
呟いて、あたかもこの雫に
懸るまいとするごとく、かなたこなた身を
交して歩いた。
最初はただ、
廂溝などを
幽に打つ音のみであったが、やがて、
瓦屋根に当ってまたばらばら。
「
厭だな。」
見る見る
繁しくなって、
颯と鳴り、また途絶え、颯と鳴り、また途絶え途絶えしている内に、一斉に
木の葉に
灌ぐと見えて
静な空は一面に雨の音。
神月は見えなくなった。
御待合歌枕。
磨硝子の
瓦斯燈で
朧の半身、
背に御神燈の
明を受けて、
道行合羽の色くッきりと
鮮明に、格子戸の外へずッと出ると
突然柳の樹の下で、新しい紺蛇の目の傘を、肩を
窄めて両手で開く。顔はその中に隠れて見えず、
丈の
好いすらりとした
痩ぎすな立姿。桃色
縮緬の
扱帯で、弱腰を固くしめている。白足袋で、黒の
爪皮を深く掛けた小さく高い
足駄穿で、
花崗石の上を
小刻の音、からからと二足三足。
頭が軒の下を放れたと思うと、腰を
伸して、打仰いで空を見た。
ここに引着けた
腕車が一台。
蹴込に腰を掛けて待っていた車夫、我が
主来れりと見て、立直り、急いで美しい
母衣を
刎ねる。
楫棒に掛けて地に置いた
巳之屋と書いた看板は、新しい光を立てて、
蝋紙を
透す骨も一ツ一ツ
綺麗である。
「おや、降っちゃあいないんだね。」
静に蛇の目を窄めて片手に提げた。鼻筋の通った
細面の
凜とした、品の
良い横顔がちらりと見えたが、浮上るように身も軽く、
引緊った
裙捌で楫棒を越そうとする。
「こちらへ、」といった車夫は小腰を
屈めて、紺蛇の目を手早く受取る。その
腕車に乗ろうとする時、かちかちかちと木を
拍って、柳の
彼方の黒塀の前に、
頬冠をした二人が在った。
「へい、
御贔屓を一両名、尾上菊五郎、沢村源之助。」ト声を懸けたので、腕車の蔭に
立停る。
その時、板塀の上なる二階の障子へ、明るく影が映ったが、端を開けて、廊下へ出た。植込の
梢がくれに、
「あいよ、」という声、
捻った紙包が宙を切って、
忍返の釘を
掠めてはたと二人の前に落ちる。
「ええ、
鼠小紋春着新形。神田の
与吉実は鼠小僧
次郎吉、
傾城松山、」ちょっと句切って、
「鎌倉山の大小名、和田
北条をはじめとして、佐々木、
梶原、千葉、三浦、当時
一
別当の工藤などへは二三度
入り、まぶな時にゃあ千と二千、少ねえ時でも百や二百、仕事をしねえ事あなかった。その替りにゃあ貧乏と、その名の高え曾我などじゃあ、盗んだ金を置いて来た、悪事はするが義理堅え、いわば野暮な
盗人だが、知らねえ先あともかくも、こういう
身性と聞いたらば、お
主ゃあ
厭になりやしねえか。」
「何で厭になるものかね、これもみんなその身の
好々、お嬢さんといわれるのが、ちいさい時から私ゃ嫌い、油で固めた
高髷より、つぶし島田に結いたい願い、御殿模様の文字
入より、二の字
繋ぎのどてらが着たく、
御新造さんや奥さんと、いわれるよりも内の
奴、内の人かといいたさに、親をば捨てて勘当うけ、お前の
女房になった私、どんな事があろうとも、何で
愛想が尽きようぞいな。」
菊「そんならおぬしゃあ盗人と、知ってもやっぱり愛想も
尽さず、」源「お前と一所に居たいのは、
譬にもいう似た者夫婦、」菊「夜盗を働く鬼の
女房に、」源「枕探しの
鬼神とやら、」菊「そういうお主が度胸なら、
明日が日ばれて縄目にあい、」源「お上のお仕置受ければとて、」菊「
隙行駒の二人
連、」源「二本の
槍の
二世かけて、」菊「離れぬ中の
紙幟、」源「
果は野末に、」菊「身は捨札、」源「思えば
果敢ない、」
「紀之国屋
引」と思いがけず、暗がりの露地の
後の方で、うら若い
清しい声。
「ほほほほほほ、」と
蓮葉に
仇気なく笑ったが、再び、
「紀之国屋!」とあてもなく
漫ろに気の冴えた高調子。酔ったと見えて、ふらふらして
仮色使の
背後に立って、
「嬉しいねえ、」
といいながら、無遠慮に一ツその一人の肩を叩く。
吃驚して黙って呆れる、女は罪もなくまた笑った。
「ほほほほほ。」
「おや! お蝶さんだ。」と二階の
欄干に
凭懸ったのが、思わず威勢よく声を立てた。
振仰いで、
「今晩は。」
「神月さん参りました、来たんですよ。」と言ったが障子の中に姿が消えた。
「へい
難有う様でございます。」
度胆を抜かれて、
茫然した仮色使は、慌てて見当を失ったか、かえって
背後に立ったのに礼をいって、
「さあ、」
「おい。」
踵を
廻らすのを見も返らず、女は身を
斜にまた
蹌踉けて、柳の下を抜けようとした。
門口で、
「蝶ちゃん、
[#「、」は底本では無し。以下の本では「、」有り。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]」
「はい、」
「お気を付けなさいよ。」
「才ちゃんかい。」
「お
楽みだね。」
とひらりと乗る途端に
楫棒を取った、
腕車の上から、
「さようなら。」
「チャチャチャッチキチッチドンドン。」軽く柳の枝の垂れた
尖を細く指で叩いて見せる。
「ふん、」とばかり腕車の上で。見ぬようにしてちょっと見ながら
面を背ける、途端に車夫は
曳き
廻らした。暗夜の小路を看板は、これ流星のごとくに去んぬ。
「チャチャチャッチキチッチ、」と低く
口吟みながら、格子戸をがらりと開けると、同時に
框の障子を開いて、
「よくねえ、」と声を懸けて、
逸早く今欄干に
立顕れたその女中が出迎えた。帳場の
灯と御神燈の影で、ここに美しく照らし出されたのは、
下谷数寄屋町
大和屋が
分の蝶吉である。
着つけは濃いお納戸地に、金で乱菊を織出した
繻珍と
黒繻子の打合せの帯、
滝縞のお
召縮緬に
勝色のかわり裏、同じ
裾を二枚
襲ねて、もみじに御所車の模様ある
友染に、
緋裏を取った
対丈襦袢、これに、黒地に
桔梗の花を、白で抜いた半襟なり。
洗髪の
潰島田、ばっさりしてややほつれたのに
横櫛で、
金脚五分珠の
簪をわずかに見ゆるまで挿込んだ、目の涼しい、眉の間に
雲のない、
年紀はまだ若いのに、
白粉気なしの口紅ばかり、
小肥して
痩せてはおらぬが、幼い時から、踊が自慢の姿である。
出迎えた女中は前へ
転ったと思って
慌しく身を開いて、
「あれ危いじゃありませんか、」
蝶吉は
躓くように駒下駄を脱いで、
俯向けに
蹌踉け込んで、障子に
打撞かろうとして、肩を
交し、
退って、電燈を仰いで、
踏しめて立った。ほッという酒の息、威勢よく笑って、
「今晩は。」
「蝶さん、
奢らせますよ。」と帳場から呼んだのは女房である。この待合はその座敷、その器物、その
取扱、何につけても結構なものではない。五人一座の二人までは敷かせる
座蒲団の模様が違って、違った
小紋も、唐草も、いずれ
勧工場ものにあらざるなく、
杯洗と
海苔とお
銚子が乗って出るのも、
牛屋のちゃぶ台の
真中へ丸く木を
填めてあろうという組織であるのに、お座料がまた必ずしもお安くない。これでは何の
取得もないが、ここに注意すべきは女房たるもの、兄とその
情人のごときもの、且つ女中に至るまで、よく注意して秘密を守り遂げる信用があるので、知れては身分に係わるといった側が、ちょいちょい懐手で
出入する。
あえてものの三角形が秘密を守るものだという数学の原理はないけれども、歌枕の女房は目の形が三角である。鼻が三角で、口が三角、眉を払った
痕がまた三角なりで、
頤の細った頬骨の出た三角を
逆にして顔の
輪廓の中に度を揃えて
竝んでいる。白ッぽい糸織の羽織の
裙を払って、金の
平打の
指環を
嵌めた手を長火鉢の縁から放し、座蒲団を外してふわりと立つと、むッくりと起きた飼犬が一頭。
真鍮の首環をがちゃがちゃと鳴らして、さらさらと畳を渡り、蝶吉の
裾を
掠めて、
取着の
階子段へ、矢のごとく
駈け
上った。
この犬、一挙一動よく主婦の
意を知る、今その座を立ったのを見ててっきり二階へ
上るのだと
目敏く先へ立って飛出したのであるが、段を六ツばかり駈上ると、振返って
猶予って待っている風情。
三角の主婦は悠々として、
「さあ、お二階へ。」
「お早くいらっしゃいな、」と
傍からまた女中が促した。
蝶吉は雨の
朝桜の色しっとりとして、
瞼に色を染めながら、
「
厭ですよ、」とすねるように言って肩を振った。
「
可いのかい、ちょいとそんなことを言って、」
「どうせね、」と主従が
澄して
莞爾して左右から顔を
覗くと、
「犬が
恐いのよ。」と段階子を見込んで笑う。
主婦はつかつかと前に出て、目をきょろつかして伺ってる飼犬を見上げながら、左の手を袖の中へ引込ませて、ちょいと出して、指をさすと
電気を感じたようにくるりと廻って、小犬はちょろちょろと駈け上る。
「
可けない!」
というが
疾いか、段に片足を上げて両手を
支く、裾を引いて、ばったり
俯向に
転った綺麗な体は、
結えつけられたように階子に寝た。
「危い。」
「あれ、」とけたたましく
諸声に叫ぶのを耳にも入れず、蝶吉はそのまま
腕を
伸して、
「
不可ません、
不可い、不可いよ、」と
蹌踉ける足を
引摺って、
「畜生、
私より先へ行くッて法があるかい。」
「おいで。」
と膝を軽く
拍って、振返ったのは梓である。
上口の処で、くるくる廻っていた飼犬は、呼ばれて
猶予わず
衝と飛込み、いきなり梓の
袂に前足を掛けて、ひょいとその膝に乗って
畏った。
「不可いッたら! あれ。」
「失敬な奴ぢゃ、てッたような訳だわね、不都合だよ、いけすかない、何だ手前は、」ふらふらするのを
踏こたえて、
「誰に断ったの、畜生、こっちへ来ないかい、
打ってやるから、」と袖を飜して、手を挙げたが、そのまま立ってるさえ物憂げであった。
「誰が打たれに、
······」
梓は
俯向いて、犬の
天窓をこれ見よがし。
「
厭よ、厭よ、私は厭ですよ。そんなもの、打っちゃらかしておしまいなさいなねえ。」
「
恐いな、どこかの
姐さんが、打っちゃらかしておしまいなさいなねえッて言ってるよ。」
「
焦れッたいねえ。」
梓は笑いながら犬の前足を取って
伸すと、飼犬は口を開けて、目を光らして、わッ!
「悔しがってるじゃあないか、」と横顔を見せて振向いた。
「なぜそうですよ、言うことをお聞きなさいなね、ええ焦れったい、」
地蹈
を踏んでも
澄して取合ないので、
「悔しい。」
と横を向いて上口の壁を、構いつけず平手でどんどんどんと
撲り付けて体を
揉む。酔ってる処へ激しく動いたので、がっくり膝が抜けて
崩折れようとして、わずかにこらへ、
掻
るように壁に手を
縋って、顔を隠して
吻という息を
吐いた。
「どうしたんですよ、」
階子段を
上り上り、
主婦は物音を
怪んで来たのである。
「おや、おや、」
「
言句ばかり言ってるさ、構わないでおくが
可い。なあに
汝が先へ来たって何も
仔細はなかろうじゃないか。」
「そのことなんですか、まあ、飛んだ難かしいこと、トン!」
わッと
吠えて前足を立てた、トンは飼犬の名であろう。
「おいで、おいで。さあ、」
「可いよ、おかみさんこっちへ。」
「でもまた奥様がその何ですから、おほほほほ、」と
主婦は三角の口を丸うして笑って控える。
「何を、
詰らない。」
「はい、はい。」
膝に手を垂れ、腰を
屈めて、
戯に会釈すると、トンはよくその心を得て、前足を下して尻尾を落した。
扁い犬の鼻と、
主婦の低い鼻は、畳を隔てて
真直に向い合った。
「おお、
可し、可し。」二ツばかり
頷いて、「それではお邪魔を致しましょうか。」
同時に、ど、ど、ど、ど、どんと床板を
踏鳴して、
「厭! 厭よ、」と壁の中から
唐突に声を出した。
主婦は驚いて
退って、
「まあ、済みません、どうも。」
蝶吉は振乱すように壁に
押着けた
島田髷を
揺ぶって、
「
私、厭、厭よ。」
「泣いてるんだよ、おや、ま、どうしたッてこッたろう。驚きますねえ、」
と平手を二ツ
乳の上へあて、目を

って、
「しようのない
嬰児ちゃんだよ。」
「どうにかしてやっておくれ、面倒だから。」
梓は膝からトンを
掻退けて、座も言葉も
更めて言った。
「さあ、あなた、」とこれもちゃんと
極って
背に手を掛けると、訳もなく振払って、
「厭です。」
「
拗るもんじゃあありません、あの方が来ていらっしゃるのに、何が気に入らないで、じれてるんですよ、
母様は知らないよ。」
といって一つ
打つ。
「痛いよ、」
「嘘ばッかり、」
「厭よ。」
「何が厭なんですッてば、よ、
焦れッたい人だ。ええ、」
蝶吉は
[#「は」は底本では「が」。以下の本では「は」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]身顫して、
「
姐さん、」
「才ちゃんは
疾に帰りました、居やあしませんよ。さあ、さあ、もう聞かなきゃこうして、」
「あれ。」
蝶吉が
身悶するのを、
主婦は構わず
擽ったが、
吃驚して肩を抱いた。
「おや、本当に旦那、本当に泣いてるんでございますよ。堪忍して下さい、堪忍して下さい、悪かったよ、どうもお前さんただもう嬉しがってるんだろうと思うもんだから、つい知らないで、飛んだことをしたよ。済まなかった、」
極めて後悔し、そのまま首を
伸して、肩に
搦んで顔を
覗くと、
真赤になり、
可愛い目を細くして、およそ
耐らないといった様子で、
麗艶[#「麗艶」は底本では「艶麗」。以下の本では「麗艶」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]に
微笑んで、
「嬉しい!」とばかりで
斜に顔を向けて、
主婦の
面と、神月の横顔を
流眄に見ながら蝶吉は
莞爾する。
「畜生。」
小さくなって、
「擽りッこなしよ、
私はもう擽られると死ぬんですから、
酷いわ、一番恐いことよ。」といいながら
澄して壁を離れ、
裾を払って立直る処を、両手で
背後から突飛ばした。
「
可憎しいッたらないんだもの。」
壁には
薄り、
呼吸の
痕と、濡れた唇が幻にそのまま残って、蝶吉の体は
源之助の
肖顔画が抜出したようになって、
主婦の手で座敷の
真中へ突入れられて、足も
溜らず、
横僵れになったが、男の
傍。
あたかも
好し、梓の膝を枕にして、片手を
逆に
支いて起上ろうとしたが、支えかねて半面を隠して倒れた。
件の御所車を染めた友染の
長襦袢は、かわり裏のしどけない、
裳をこぼれて
媚めかしい。
男は懐にした手を出しもやらず、眉を
顰めて、
「何だね、その
形は。」
「
可くッてよ。」
「可かあない、かみさんが見ているよ。」
「
可いのよ、ねえ、おかみさん、」
「どうですか。」と極めて慎重に答えた。
主婦は心なく飛込むも異なものなり、そのまま階子段へ
引退るも
業腹なりで、おめおめと見せられる。
「
不可いッたッてしかたがない。」
とその玉のごとき手を畳に、はったり。
「
私はもう
草臥れたんです。」
「重い、しようがないな、おい、ちゃんとおしよ、」と揺り落す
勢で、梓は邪険に肩を振った。
「あら、髪がこわれてよ、」と少し横になって、蝶吉は片手を上げて
仰向けに梓の胸を押えて、
恍惚して嬉しそうに、
「
鬢のほつれは枕の
咎よ
||あれさ、じっとしていらっしゃい。
[#「。」は底本では「、」。以下の本では「。」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]後生だから、」
「構うもんか、
怪しからん。」と男はわざと叱るように言って、振落そうとする。
蝶吉は目を
瞑って、口をしめ、眉を
顰めて、さも切なげに装った、
「頭痛がしてよ、頭痛が、
天窓が痛いのに、
酷いことねえ。」
「嘘を
吐け、」
「あなた
擽っておやんなさいまし、」と
主婦は
焦れったそうに
足踏をした。
黙って
主婦を見たが、神月は下を向いて、
「
止そう、見ッともないから、
[#「、」は以下の本では「。」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)。『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)では「、」]擽ると最後、きゃっきゃっいってその騒々しいといったらないもの。」
「おや、いつも擽るんだと見えますね、あなたは。」
「え、何、下らない、何を言ってるんだ。まあ、おかみさん、飲むさ、こっちへ来て。」神月はこれをキッカケに
片肱をちゃぶ台に
支いて、やや所在を得たのである、しかたのなかった懐中の手は、
猪口を取って、ちょっと上げて、
「飲むさ。」
「いえ、頂きますまい、そんなことでごまかそうたって駄目ですよ。まあ、
串戯は止して早く
拵えさせますから、寝かしてお上げなさい、本当に酔ってるんですよ、全く苦しそうだわ。」
主婦は一切呑み込んだ顔附であった。神月はそれとはなげに、
「直ぐ帰るんだから、何だよ。」
「ですから誰もあなたにお休みなさいとは申しません。」
と悪く切口上で、別にお
燗を見ようともせず、
上口に
先刻から立っていたままで、二階を下りようとする、途端にちゃぶ台の片隅に
蹲って、
洋燈の影で見えなかったトンは、むッくりと
跳起きて首輪の音をさして座敷からつッと出た。
「どこでそんなに酔わされたんだ、よ。」
神月は期せずして
主婦を下に去らしめた
件の猪口を棄てて、手をその小さな女の胸に置いたのである。
熟として、
「存じません。」
「存じないことがあるものか。」
「
解らなくッてよ。」
といって
清しい目をぱっちりと開いた。蝶吉は、男の、
凜とした品の
可い、取って二十五の
少い顔を、しげしげと嬉しそうに
瞶めている。
「それじゃあ、酔わされたんだとはいうまいから、どこで飲んで来た、それなら知ってるだろう。」
「あなた、また叱ろうと思って、
厭よ。そんな
真面目な顔をしていらしちゃあ
······。だって少しばかりなんですもの、」といい懸けて目を
外し、枕にしている神月の膝を着物の上から
撮んだが、固くちゃんとしているので、
指尖にかからない、絹布に
皺を拵えようと、
抓るでもなく、
撫でるでもなく、
爪さぐって
莞爾して、
「可いじゃあありませんかねえ
[#「可いじゃあありませんかねえ」は底本では「可いじゃありませんかねえ」。以下の本では「可いぢやあありませんかねえ」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)。以下の本では「可いぢやあゝりませんかねえ」。『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]、少しばかり、
偶なんですもの、大丈夫さ。」
「大丈夫? そうさ、また大丈夫でなくったって誰が何というものか、酒はお前さんが飲むんじゃあないか、そしてお前さんが酔ったんだろう、芸者の蝶吉が酒に酔ったって、私にゃあ甘くも辛くもない、何も難しいことはありません。」と
向へ
押遣ると、
銚子が
袴を着けたままで、盤の上をするすると歩いた。杯は
一個横になって、飲みさしが流れていた。あえてこれを
細く断る必要はないけれども、ちょうどその銚子が歩いた時、蝶吉が起きたからのことである。
梓の羽織の袖に、
髷の
摺合うばかり
附着いて
横坐になったが、
鹿爪らしく膝に手を置き、近々と顔を差寄せて、
「おや、
異う
仰有いますね、
異なことを。何ですッて、」
蝶吉は詰め寄りそうにしていった、梓は今
辷らした銚子を更に
手許へ引いて、
「まずお酌でもして頂こうかね、お
燗ざましじゃあありますけれども、」
「ふん、」と言ったばかりで
澄して見ている。
「いかがでございましょう、頂く訳には参りませんか、どうです、蝶さん、ここに是非
一番君のお酌をという、厄介な、
心懸の悪いのが出来上ったんですが、悪うございますか。」
「はあ、随分
宜しゅうございましょう。」
梓は
猪口を拾って、杯洗の水を切り、
「結構な訳ね、宜しければ、どうぞこれへ、」
「おやおや
唯今内の人におことづけをなさいました、蝶吉
姐さんに酌をして欲しいと仰有いますのは、ちょいとお前さんかい。」
「
私でございます。」
「おお、心懸の
可い
奴じゃ、宜しい。さあぐッとお飲み。余り酔わないように致せ、これ、
女房がまた心配をするそうじゃからな。」
「
畏りましたが、一向さようなものはございませぬ。」
「なくても今に出来ます。その心懸なればきっと出来るから、さよう心得るじゃぞ。」
「はい。」
「一体、
容子が
可くッて、優しくッて、それで悪くまた学問とかがお出来遊ばしゃあがって、知った顔をしないでな、若殿様のようで、世話に砕けていて、
仇気なくって可愛らしくッて、気が置けなくッて、その癖
頼母しい、き様は
女殺じゃ。よくない奴じゃぞ。方々の女の子が
皆で騒ぎゃあがるで、
可哀そうに蝶吉が気ばかり
揉んでいるわえ、なぜそうじゃろかな。不心得な奴じゃ、その分には差置かれぬぞ。」と
覚束なげに巡査の
声色を
佳い声で使いながら、打合せの帯の乳の下の膨らんだ中から、一面の懐中鏡を取出して、顔を見て、ほつれ毛を
掻上げた。その
櫛を取直して、鉛筆に
擬えて、
「コヤコヤ、いつかも蝶吉がお
花札を引いた時のように警察の帳面につけておく。住所、姓名をちゃんと申せ、偽るとためにならぬぞ。コヤ、」と一生懸命に
笑を忍んで、
細りした頬を膨らしながら、唇を結んで真面目である。
最初は何か取合って遊ぶ
意だった梓もあんまりだから、
「何だ、馬鹿々々しい。」
「コヤ、巡査に向って何だ、馬鹿々々しい、き様は失敬な奴じゃな。」
「
可加減にしておけよ、面倒臭い。」
蝶吉はちょっと膝を
突ついて、
「よう、
巡査ごとをしようよ、よう、
可笑くッてよ。」
梓は叱る訳にもゆかず、苦笑一番して、
「
暢気なもんです。」
神月梓は学士である。同窓の朋友の間にも、その温雅なる
風采と、秀麗なる
容貌と、学識の豊富なるをもって聞えた、俊才で、且つ
人魂と、流星と、意見の衝突以来、不快の念を
抱いて、
頃日夫人の
許を辞して、谷中の寺に隠れたけれども、梓は子爵家の婿君である。すなわち華族の殿様であって見れば、世に処してかかる待合などには
出入すべき身分ではない。
もっとも地位あり、名声ある人の
芸妓遊をせぬという
限はない、立派に客たる品位を保って、内に
疾ましい処がなければ、まだしも世間は大目に見ようが、梓はさる身分でありながら、一待合の女房を見て、これを(おかみさん)といって自ら
謙り、相手の
芸妓を
捕えて、
おいとも、
こらともいうのではない、お蝶さん、おまえさんは、という調子たるや、
蓋し自ら
卑うしたるものだと
謂わざるを得ぬ。
少くとも青年の
佳士、衣冠正しい文学士が、
譬えば二人
対向いの時、人知れずであろうとも
独省みて恥辱でないことはない。
しかるに、梓は
旧仙台の
生で、土地の
塗物師の子であったが、
豊なる家計の
下に育ったものではなかった。
使に
行く問屋の旦那にも、内へ注文に来る
余所の小父さんにも、
隣家の士官の奥方にも、
向の質屋の番頭にも、いつも、可愛がられてはいたけれども、
未だ敬礼された
覚がないので、人に逢えばまず
此方から挨拶をするもののように、余儀なくされて育ったのである。
加うるに、その母親というのは、その
始江戸から住替えて来た有名な
芸妓だった、のみならず、これを
便って同じ仙台の土地へ後から出て来た母の妹夫婦も、また甚だ不遇で、年も
措かず夫が
亡なったので
活計を失うと、女の子が二人あったのが、
姉妹揃って苦界に身を
沈た。前世の因縁とでもいうのか、父の姉の子が一人、梓より年上であったのが、それもまた同じ
勤の
止むを得ぬ境遇であったから、中の
好い
従姉妹が三人、
年紀の姉なると、妹なると、
皆お嬢様ではおらず、女房にもならず、奥様にはもとよりなり、揃って世の中から畜生
呼わりをされる
身で。
母親は
若死した、やがて父親も
亡った。その遺言に因れば、梓の実の姉が一人ある。内の都合で、生れると直ぐ
音信不通の約束で他へ養女に遣わしたのが、年を経て風の
便に聞くと、それも
一家流転して、同じく、
左褄を取る身になったという。野辺の
送が済んで、七々四十九日というのに、自ら恥じて、それと知りつつ今まで
遂に
音信なかった
姉者人、その頃
一豪商の愛妾になっていたのが尋ねて来て、その
小使と、従姉妹三人が竜の
腮を探るような
思をして工面をしてくれた若干金とで、ようよう
後弔も出来たくらい、梓の
家は窮していた。
もっとも小学を
卒え、中学に
入って、ちょうど高等学校に入っていたその学資は、父が
膏血を絞ったものであることはいうまでもないが、従姉妹達が銘々、自分の境遇を悲しむ余りに、一門の中からせめて一人、梓さんが男だからと、石筆を持って来る、
算盤を買って来る。本の
栞に美しいといって、
花簪の房を仕送れば、
小な洋服が似合うから一所に写真を取ろうといって、姉に叱られる
可愛いのがあり。
学校の
帰途、
驟雨に逢えば、四辻から、紺蛇の目で
左褄というのが出て来て、
相合で手を
曳いて帰るので、八ツ九ツ時分、梓は
酷く男の友人に
疎じられた。人は皆竹馬の友を持ってるけれども、梓はかえって手鞠、
追羽子の友を持っていたのである。
父親が
亡って、姉が初めて
訪寄ったのが機会で、梓は高等学校の業を
卒えて上京した、学資は姉の手から
||その旦那の懐中から
||出たのであるが、学年中途にして志
未だ成らず、
年紀はようよう梓より二ツ上の姉が、両親の後を追って、清く且つ美しい一輪の椿、床の
花瓶をほつりと落ちた。
最後にその
三人の
従姉妹が、頭のもの、帯一本、
指環を一ツ売ったという、二十円
余二月足らずの学資を
達引いてくれたまでで、あわれ一
人は目を煩い、一人は気が狂ったようになり、いま一人は人に連れられて北海道に渡ったという、
音信があって、それなりけり。
という境遇であったので、幼少の折から、
紅の
曙、緑の暮、花の
楼、柳の
小家に
出入して、遊里に
馴れていたのであるが、
可懐しく尋ね寄り、用あって
音信れた、
往くさきざきは、残らず
抱であり、
分であり、いずれも主人持のことであるから、
勢已むことを得ず、帳場に片膝立てている女房に挨拶をせねばならず、奥に
掻巻を懸けて昼寝をしている、亭主に
天窓を下げねばならない。
単にそう云えば梓が
酷く
意気地のないように聞えるけれども、人の召使は我が召使ではない、玄関番の書生が、来客の
履を取って送迎するのを見て、来客たるもの、自家を尊大にして
己に従うものだと思うのは失敬であろう。履を取るはすなわち主公に使うるの道で、あえて来客に対する礼ではないから。
芸妓も自家これに客となって、祝儀を
発奮み、
玉を附けて、弾け、飲め、唄え、酌をせよ、と命令を奉ぜしめた時ばかり、世の賤業を営むものとおとしめて
宜しいけれども、
臂鉄砲に
癇癪玉を込めた、ドンを
啖い、
鳩玉で
引退るに当ってや、客たるものは商となく、工となく、武となく、文となく、
戦に
敗けたものと
謂わなければならない、いわんや、さッさと貰われてのッけから、
対手にされざるものにおいてをや。
忘八の亭主、待合の
女房といえども、
己遊客となってこれが敬礼を受ける場合でなく、一個人としてここに
訪い寄れば会釈をしなければならない
数で。
たとい、売淫婦といえどもその
妹たるものは、淑女であっても
渠は姉さんである。たとい山賊といえども、山路におのれ
蹈迷った時
寸毫の害も加えられずして、かえって
此方より道を聞いて、
麓に下りることを得たりとせんか、渠は恩人である。世を害するものなりといって訴人に及ぶは情において忍ばるる処ではあるまい。しかるにこれを訴人して、後にざまあ見ろをくらって、のり
血になって
悶くのは、芝居でも名題の買って出ぬ
役廻であろう。
母をはじめ、姉、従姉妹、幼時における梓が七情を支配したものは、皆苦労人であった。あえてこれ天下に
憚る処なしといえども、しかれども、
数の奇なるもの、
顧れば
無慙な境遇。
梓が上京して後東京の地において
可懐いのは湯島であった。湯島もその
見晴の鉄の欄干に
凭って、升形の家が取囲んでいる天神下の一
廓を
詠めるのが最も多く可懐しかった。
可懐しさもまるで
過世の夢をここに繰返すようなもので、あえて、ここで何等のことを
仕出したことはないが、天神下はその母親の生れた処だということについてである。
されば故郷を去って独り寄宿舎に居る、内気な、世
馴れない、心弱い、美少年は、その
界隈に古びた
廂を見ては、母親の住んだ家ではあるまいかと思い、宮の
鰐口に
縋っては、十七八であった時の母の手が、これに触れたのであろうと思い、左側に
竝んだ意気な二階家の欄干、
紅裏の着物が干してある時、
夜は殊に障子に
鏡立の影の映る時、いつもいつも心嬉しく姿寂しく、哀れさ、床しさが身に染みて、立去りあえず
彳むのが
習であったが、恋しさも
慕しさも、ただ
青海の空の雲の形を見るように漠然とした、幻に過ぎなかった。しかるにある時、それを形に
現して、梓の感情を支配する、すなわち、床しい、懐しい念のすべてをもって注ぐべき本尊、
譬えば婦人が信仰の目じるしに、優しい、尊い、気高い、
端厳微妙なる大悲観世音の
御姿を持ってるようなものが出来たのである。
ちょうど玉司子爵の令嬢いまは梓の夫人たる竜子から、まだ仏文の手紙の来ない先、姉が死んで、
従姉妹が離散して、学資が途切れたので、休学して、しばらく寄宿舎を
退いた間、夫婦で長屋を借りて世帯を持っていたいささかの
知己の処に世話になったが、その
主人また大の貧窮で
店立を命ぜられて、
一日九尺二間の城を明渡すの
止むを得ざることに立至った。その日も梓は例のごとく、不遇の身を湯島の境内に
彷徨わせて、鉄欄干に
遣瀬のう時を消して暮方に家に帰ろうとする、途中で会った友達夫婦が、一台の荷車の両脇に附添って、
妻恋の
下通を向うから
曳かせて来て、
(天神下の××番地へ引越す、後から来たまえ。)
(神月さん、その時この車に附けあまったがらくたを
隣家へ預けて来たんですから、車を雇って持って来て下さいな。)
と
暢気なもので別れて行った。意を了して、その頃
同朋町に
店借をしていた長屋に
引返して、残りの荷物を
纏めたが、自分の本箱やら、机やら、二人
乗には積み切れないで、引越車をまた一輛。
天神下までは
路も近し、
洋燈を手にして宰領して、男坂の裏を抜けて、
目的の処へ
行くと、さあ知れない。
向うが言い違えたか、こっちで聞違えたか、覚えた番地を差配にまでかかって尋ねたが、
皆くれ分らず、荷車について、ぐるぐる廻ってる、日は暮れる、暗くなる、二三
時もかかったので、間が抜けてるじゃありませんか、と
曳子はぶつぶつ
叱言をいう。
引返した処で寝る家もない場合。梓一人が迷惑して
困じ切っている処を、
灯がないと、交番で
咎められたが、
提灯の用意はなし、お前さん。その手に持ってる洋燈をお
点けなさい、と曳子は
中ッ
肚だから口の
裡で、幾たびも、ヘン
間抜だな。
さるほどに神月梓は、暗夜、
町中に
灯した
洋燈を持って、荷車の前に立たせられて、天神下をかしこここ、角の酒屋では伺います、
莨屋の店でも少々、米屋の窓でもちょいとものを。いずれも知らない、存じませんな、を言わるるたび、
背後から、
噛着くように
叱言をくッて、ほとんど
耐え切れなくなると、雨が降出した。
梓は
蒼くなるまでに、
果は気を
苛って、額がつッぱると思うほどな
癇癪筋、一体大人しく、人に逆らわず、争わないだけ、いつもは殺しておく虫があるのでむらむらと、来た。それに気が小さいから、取詰めて、持ってる洋燈をこの荷車に叩きつけよう、そして
粉微塵に砕けたら、石油に火が移ってめらめらと燃えて無くなるであろうとまで思った。これはしかねない少年であった。
その時、
黒縮緬の一ツ紋。お
召の
平生着に桃色の
巻つけ帯、
衣紋ゆるやかにぞろりとして、中ぐりの駒下駄、高いので
丈もすらりと見え、
洗髪で、
濡手拭、
紅絹の
糠袋を口に
銜えて、
鬢の毛を
掻上げながら、滝の湯とある、女の戸を、からりと出たのは、蝶吉で、仲之町からどこにか住替えようとして、しばらくこの近所にある
知己の
口入宿に遊んでいた。
年紀十七の夏のはじめ、春の
名残に降ろうとする大雨の前で、
戸外は
真暗な
出会頭。
蝙蝠が一羽ひらひらと地を
低くう飛んだと見た、早や戸を閉めた
縄暖簾を
洩れて二筋三筋
戸外にさす灯の色も沈んだ米屋を
背後に、
此方を向いて
悄然洋燈を手にして
彳んでる一個白面の少年を見たのである。梓その時はその美しい眉も
逆釣ッていたであろう。まさに洋燈を取って車の台に
抛むとする、
眦の
下ったのは
蝮より
嫌な江戸ッ
児肌。
人見知をせず、年は若し、かけかまいのない女であるから、癇癪が高ぶって血も
逆らんとする、若い品の
良いのを見て嬉しくッて
耐らず、様子を悟って声を懸けた。
(ちょいとどこへいらっしゃるの、)
一幅の赤い
灯が、暗夜を
劃して
閃くなかに、がらくたの
堆い荷車と、
曳子の黒い姿を従えて立っていたのが、洋燈を持ったまま前へ出て、
(
家を探してるんです。)と内心に激したれば声も鋭く答えたのである。
蝶吉は
莞爾々々しながら、愛想よく
仔細を尋ねて、
(そう、今日お
引越なすったの、何でしょう、
兵児帯をして、
前垂を懸けた、
肥った旦那と、襟のかかった
素袷で、器量の
可いかみさんとが居る内でしょう。そうなの、それじゃあついそこなんだわ。)といって、濡手拭で
指をしてくれた。蝶吉はその長屋の
表通の口入宿に居たのであった。
この口入宿の
隣家は、小さな
塩煎餅屋で、
合角の
花簪を内職にする表長屋との間に露地がある。そこを入ると
突当が黒板塀。ついて右へ廻ると
粋な格子戸の内に御神燈を
釣したのがあるが、あらず、左へ向うと、いきなり縁側になって、奥の石垣が
見透される板屋根の
小家がある、そこが引越先であった。
この一廓は、柳にかくれ、松が
枝に隔てられ、大屋根の陰になり、
建連る二階家に遮られて、男坂の上からも見えず、矢場が取払われて後、鉄欄干から
瞰下しても、直ぐ目の下であるのに、一棟の屋根も見えない、天神下のかくれ里。
さて
件の花簪屋と煎餅屋との間の露地口の木戸は、おしめ、古下駄等、
汚物洗うべからずの総井戸と一般、
差配様お
取極で、
紙屑拾不可入、午後十時堅く
〆切。
梓が引越してから五日目の夜、十時を過ぎて帰ることがあった。木戸へ来ると、鍵がかかっていた。向うの湯屋では板の間を
磨る音、男坂下なる心城院の門も
閉って、柳の影も暗く、あたりは寝て、
切通の
方には矢声高く、
腕車の
疾く
軋るのが聞えたが、重宝なもので、煎餅屋の店から裏長屋へ抜けられるのだから、木戸を閉切ったあとはこれが例、女房が見つけて、ちゃんと心得、
(書生さんの旦那、お
穿物をお提げなすって、こちらから。)と言ってくれた。
極も悪し、
面を背けて店口から奥へ抜けようとすると、
同く駒下駄を手に提げて裏口からはらりと入って来た、前日の美人とぱったり逢った。袖も
摺合うばかり敷居で
行違う。
振の
明から
溢れる
緋の
長襦袢が梓の手にちらちらと
搦むばかり、
颯とする
留南木の
薫。顔を見合せて、
(失礼、)
(
···············)
(ちとお
遊にいらっしゃいな。)と言い棄てて、それでもまだ答をしない
中に、早やばたばたと
戸外へ出たが、
(おばさん、お邪魔様、)と言いさまに口入宿の表の戸がらがら、鈴を鳴らして入った。蝶吉は今夜裏なる
常盤津の師匠の
許に遊びに行った
帰であった。
梓は幾ほどもなく仏文の手紙を得て、この
隠家を出て、再び寄宿舎の
卓子にバイロンの詩集を
繙いて粛然とする身になったが、もとより
可懐しい天神下はますます床しいものと成り
増ったのである。
今こそあれ、
件の美人を梓は誰なりと知る由なく、ただかの時と、その時と再度のみ。それもつくづく見たのではないから、
年紀のほども
顔立もよくは分らなかったけれども、ただ彼が風俗は一目見て素人でないことを知った。
宛たるこの大都の
芸妓の風俗、梓はぞっとしたのである。
しかも窮苦
極りなきに際して家を教えられたのであるから、事は小なりといえども梓は
大なる恩人のごとくに感じた。感ずるあまり、梓は
亡母が仮に姿を
現して自分を救ったのであろうと思った。あえてここに
更めていう、梓の母は
芸妓であった。そして天神下はその生れた処である。
幾多の星霜を経てはいるけれども、かしこの柳、ここの松、湯屋も古くからあるというし、寺の門前のは今もあたりの女の子が、打集うては遊んでいる、
鞠唄も唄うている、
廂、軒、土の色も有の
儘。これがむかし母親の住んだ
家ではないかと心の迷うのも慕わしさの
余、しばらく住んでいた、
破屋の
太く古いのにつけても、もしやそれかと、梓はあたかも幻というものを
画に
描いて、目にこれを見るような
思がした。それこれの
聯想から、誰とも知らず、その頃の蝶吉を、母の
俤に
肖たように思ってた折から、煎餅屋の店で行違った時も、母があたかもその
年紀で、その頃、同じことを、ここでして、こうして育ったのであろうと、あたかも前世紀の
活きた
映画に接するがごとく感じたのである。
梓が大学の業を
卒えて、仏文の手紙の姫、
年紀は二ツ上の竜子に迎えられて、子爵の家を
嗣ぐ頃には、地主の交替か、家主の都合か、かの隠家の木戸は
釘附の
〆切となって、古家の
俤も
偲れなくなった。
構外を廻って見ると、今までとは方面の違った町の側、酒屋の蔵の
廂合に
一条仄暗い露地が開かれた。大方そこから
旧の借家へ通ずることが出来るのであろうと思うばかり、いうまでもなく、先に世話になった友人夫婦は、
疾くに引越して
行方知れず、用もない処、殊に、向合って
御膳を食べる、窓から手を出して、
醤油を借りようという狭い露地内へ、
紋着の羽織でうそうそ入られたものではない。入って見られず、伺うて分らなくなると、ますます
可懐しさは
増ったけれども、これまでと違って玉司子爵梓氏となってからは、
邸を出入の送迎も仰々しく、
往来の人の目にも着く、湯島のそぞろ
歩行は次第に日を
措き、週を隔つる
[#「隔つる」は底本では「隔てる」。以下の本では「隔つる」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]ようになったが、遠いが花の香で、床しさはまた
一入。
梓はその感情をもって、その土地で、しかも湯島
詣の
朝、
御手洗の前で、
桔梗連の、若葉と、
幟と、
杜鵑の
句合の
掛行燈。雲が切れて、
梢に残月の墨絵の新しい、
曙に、蝶吉に再会したのである。
今日しも寄宿舎の紅茶会で、竜田若吉が言ったごとく、梓はその時もある意味をもって、蝶吉に助けられた。
些細なことだけれども、一体貧窮刻苦の中に育った人の、文学士で玉司子爵夫人の恋婿でありながら、ちっとも
小遣などは気にしないので、持って来たとも覚えず、忘れて来たとも知らず、落したのか、紙入というものを持合さず、水を
注ごうとして
干杓を取ると、
(水銭をおくんな。)と豆を
装ってならべてある
土器の蔭から、丸々ッちい、幼い顔を出されて、懐を探るとない。
袂に手を入れるとない。左にもない、帯の間にはもとよりない。
思わず、どぎまぎして
呟いた。
(どうした知らん。)
(水銭をおくんな。)
梓は
極が悪いので、
(おや、おや。)と疑わしそうに言ったけれども、一種の見得で、自分には
掏られたあてもないのである。
子供は同じことを、
(水銭をおくんな。)
(まあ、懐中を忘れたそうだよ。)
目をぱちくりして、委細構わず、
(水銭をおくんな。)
ただ六ツばかりの
小児に対しても、梓は
性としてこれには顔を
赧くして、立場なく後へ
退ろうとする。
背後に立ったのが、
朝参の
婀娜たる美人で、罪もなく
莞爾々々しながら、
繻子の不断帯の間から、
膨りと懐紙に包んだ紙入を抜いて取り、
掌に拡げて
緋地の
襤褸錦の紙入を開いた中から、指で
環を
拵えたような、小さな
玩弄の緑の
天鵝絨の
蟇口を引出して、パチンとあけて、
幼児が袂の中を
覗くように、あどけなく、嬉しそうに、ぱっちりした目を細めて見ながら、
一片の、銀の小粒を、キラリと
撮んで、向うへ投げた。
(小僧さん、旦那様の分もあるんだよ。)
梓は
屹となった。
美人は顧みて
嫣然として、
(あなたや、さあ、手をお出しなさいな。)
梓はここに到って、胸中まず後の謝恩を決しながら、
衝と差出した、医師のごとく、
爾く綺麗な手に、一杯の
清水、あたかも
珠のごときを
灌いで、
颯と砕けると更に灌いだ、
雫も切らせず、
(
私のを使って下さらなくッて。)と落着いて、
静に
秋波に
視ていいながら、ちょいと、
仰向いて
端を引いた、奉納の
手拭、いまだ
手摺もなく新しい。
茶色の地に、白で抜いて、数寄屋町、大和屋内
||ちょう吉
||とある。
(
姐さん、きっとお礼をする、)と梓は心を
籠めてはじめていった。
(あら、何ですよ、)
(いいえ、)と押えて、そのまま別れて敷石の上を渡った。額堂の軒、宮の
廂、鳥居の
下、
御手洗の屋根に留まった鳩が、あちらこちらしばしば鳴いて、二三羽、二人が間をはらはらと飛交わした。納豆々々の声
遥に、人はあたりになかったのである。
||この間二年
余相たち
申候。歌枕の今夜の
逢曳。
「ちょいと今夜は
私嬉しいわねえ、こないだから
塩梅が悪くッて、それにお前さんは久しくおいでなさらないし、
鬱いでばかりいたんですよ。」と急にまたしめやかになった。気の変ることの極めて早い、むしろ鋭いといっても
可い。この女の心は美しく、磨いた鏡のようなものであろう、月、花、
鶯、
蜀魂、
来って姿を宿すものが、ありのまま色に出るのである。
梓も
可懐げに
頷いて、
「ついちっとばかり忙しかったもんだから、病気とは聞いていたけれど。」
「精出して勉強をしていたんですか。」
「ああ、」と何気なく答えたがふと気に
懸った様子で浮かぬ顔をした。
蝶吉はもとより何の気もつかないので、
「そう、生意気だねえ。」
「失礼な、人が勉強してるというのに、生意気だということがあるものか。」
「あなたや、馬車に乗ろうと、いうんじゃあなし、
詰らなくッてよ。また煩いでもすると悪いもの。」
「だって怠けてちゃあ食べられませんから、」
「
私が
達引くから
可いわ、」といって蝶吉は
仇気ない顔に極めて老実な色を装った。梓はこれを聞いて、何か気がさしたような様子であったが、
笑に紛らして、
「どうぞ
宜しく、」
「ええ、それはもうね。」
「しかし、私は駒下駄じゃあ
厭なんだ。」と思い切ったという語気で
冷かにいって、
屹と蝶吉を見た、目の中には一種の
思を籠めたのである。
蝶吉はさも思い懸けなかったらしかった。
「おや、おや、
異なことを、」といって、
澄したもの。
梓はここに至って
居住を直した。
「いいえ、異なことをいうんじゃあない、隠し
立をされてはおかしくないよ、お前、松の
鮓は一体どうしたんだえ、」とさすがに問い兼ねて当らず障らず。
「厭よ、やくのかい、
貴方気に懸けるような
対手じゃあなくッてよう、初心らしいことをいって、
可笑しいわねえ。」
「何しろ、全くか。」
「はあ、」と
極り悪げに男と見合ってた顔の筋を
動して、
「それはあの、何なの、だって
私は何にも知らないんですもの、」と
俯向いて膝の上を、
煙管で無意識に
敲きながら、
「だってもうそれっきり何だってあんな
奴は何だろう、それを気に懸けて下さるのは、あんまり
可哀そうよ、蝶吉じゃあありませんか。」といって自らたゆげに見えて
微笑んだ。
「その事じゃあないよ、お
腹の
······」といいかけて、梓は我ながら
面を背けた。
「まあ、」
黙って、俯向いてしばらくして、蝶吉は顔を
赧らめ、
「貴方、誰に聞いて来て、ようどこから知れたのよ。」
「なに少しばかり気になることを
途で聞いたもんだから、つい、」
「もっとまだその上に知ってるんですか、」
蝶吉は驚いたような声。
「悪く思ってくれちゃあ困るよ、僕はね、知ってる
通、遊ぶのはお前がはじめてだ。商売だから嘘を
吐くもんだと思っていたんだけれども、お前が見ッともない、たというそにでも好いたとか、何とかいって、そうして好いた
真似をして見せる分には、好かれた者に違いはないのだから、好かれたんだと思っておいでなされば
可い。いやに疑るのは見っともない、男らしくもない、とそういうから、成程そうだと、自分
極で、好かれてると思ってる。ああ、ずっと
惚れられたんだと思って、これでも色男に
成済しているんだ。だから、何も洗い
立をして、どうの、こうのと、
詮議立をするんじゃあないけれども、今来る途中で、松の
鮨が、妙なことをいって
当っ
擦ったよ。」
「
厭だ!」
蝶吉は
閨を
透見したものを、
辱しめ、且つ自分のしどけなかったのを
愧ずるごとき、荒ッぽい調子であったが、また自ら
危んで、罪の宣告を促して弱々しく、
「何か言っていましたか。」
「残らず、」と神月はきっぱり言った。
「へい、」と真面目に、蝶吉はたちまち三ツばかりものの言いざまに
年紀を取ったが、急に気を換えて、
「だって、すっかり
快くなってよ。西洋じゃあ
皆平気ですって。また田舎なんぞには
当前だと思ってますとさ、
私もうさっぱりしたんです。
体にも障らなかったといって、今夜ねえ、床上げやら、何やらで、内の
姐さんが赤飯を炊いてくれました。そして一杯飲んだんですもの、祝ったくらいじゃあありませんか、
不可くッて、え、え?」
蝶吉は梓が何か易からぬ
面色があるのを見て、怪しむ様子。
梓は急に
語も出でず腕を
拱いて黙然としていた。
「よう、何を
鬱ぐのよ、
私のことなんですか、不可くッて、」
「可いも悪いもお前、」
言語道断だ。
「だってしかたがないじゃあありませんか、」と
詮方なげに蝶吉はぱっちりした目を細うして、下目使いで
莞爾したが、顔を上げてまじくりして、
「もっとも何なのよ。一度そんなことをしたものは、もうもう一生子供は出来ないッていうのよ。ですけれども、貴方
嬰児はいらないんでしょう、ぎゃあぎゃあ泣いて
可煩いから大
嫌だって言ったじゃあありませんか。ですもの、三ツばかりの
児が、父さん、母さんッて、生意気な口を利くのが可愛いんですから、
余所から貰うことにでもしましょうッていったら、それさえ面倒だ、可愛い口を利かせるなら
鸚鵡を飼えば沢山だッて言ったんですもの。」
梓呆れ果てて言葉なし。
蝶吉はしたり顔で、
「ほら、御覧なさいな、可いじゃあありませんか、
私も嬰児なんか欲しくないんですから、」
と言い懸けて少し体を
斜にして、
秋波で男を見ながら
指示すがごとく、その胸に手を当てた。
「こっちのお乳をお
菜にして、こっちの
大い方をお
飯にして食べるんだって、」とぐッと
緊め附けて肩を
窄め、笑顔で
身顫をして、
「厭、痛いわ!」
梓は
耐りかねて、
「お蝶、」とちと鋭くいうと、いつも叱るのを
外らかす伝で、蝶吉は三指を
支いて
的面に
潰し島田に
奴元結を懸けた
洗髪の
艶かなのを見せて、
俯向けに
畏り、
「召しましたは何御用にござりまするな。」と男の
仮声を造って、笑いたさを切なく
耐える風情。余りのことに気の弱い梓は胸が
充満、女が見ないので心の
張が
弛んだか、
瞶めている目にほろりとした。が、思切って、
衝と寄った、膝を膝に
突掛けて、肩に手を懸けるとうっかりした処を不意に抱起されて、呆れるのを、
熟と瞶め、
「
可哀そうだな、お前は
不幸に生れて来て、何にも世の中の事というものが分らないんだから、私は何にも
咎めやしない。たといここで、目の前で、やあい、
欺してやった、二本棒め、
殺を言やあ嬉しがって、色男が聞いて呆れる、ざまあ見やがれと、
愛想尽を言って舌を出した処で、ちっとも
肚を立てはしない。
いいえ、たとい悔しくッて、肚は立っても、お前を不人情だとも何ともいわないよ。
こうすりゃ薄情だ、不人情だと思ってされてこそ、
癪だけれども、ちっとも知らないで言うことなり、することなら、不都合でも何でもなかろう。
だから、何にも言わないが、その何だよ。お前は僕のことを初心だ、坊ちゃんだ、何にも知らないというそうだ。勿論三が
下るものやら二が
上るものやら、節は
伸すもんだか縮めるもんだか、少しも知らない。通だとか粋だとかいうことは、から
ももんじいで分らないけれども、意気だといって、この寒中、綿の入らない着物を着ていりゃ、体に毒だということは知ってるんだ。そしてまたここらの
芸妓は綿のはいったものを
引摺ってるといって、お前の
豪がることも知っている。
成程薄着ですらりとして、そりゃ姿は
可いだろう。ものが間違って、馬鹿げていて、
仇気ないのが可いとして、わざとさえ他愛ないことをいうようにしこまれるくらいだそうだッてな、字引と首ッ引で、四角い字、難かしい理窟ばかり聞いてた耳に、お前が、訳の分らない、他愛のない、仇気ない、罪のないことを言ってくれるのが嬉しかった。なに面白かったんだ、面白いといやあ
慰だ。それが段々嬉しくなって、可愛らしくもなり、ついこういうことにもなったんだが、他愛なさも、仇気なさも、お
肚を
······可いかい、
政府へ知れりゃ罪人だぜ。人にゃあ
交際も出来ないようなことをしながら、赤飯を食べさせられて、酔って来るようになりゃ沢山だ。」とひそひそながら声と共に手に力が入ったので、蝶吉は
赧らむ顔を
外しもならず、
呼吸を引くように唇を動かしている。
様子を見守り、
「可哀そうに、決して、それを責めるのじゃあない。さっきも言う
通、お前がお前だから何とも思いはしないけれど、お前は十九で、私は二十五。七ツ違いの兄さんだ。まあ、妹だと思っていうから聞きな。」
さればぞ思い当る。一月ばかり前の
夜、同じこの歌枕で会った時、蝶吉はそれとはなく、
頻に子が一人欲しくはないかといったのを、気にも留めないで
聞棄にしたが、松の
鮨の毒口を、ここで聞正せば実際で、梓は思い懸けず、且つ驚き且つ呆れ、あわれにも
情なくも思ったのである。
梓はかつて、蝶吉の
仇気ない口から、
汐干に行って、騒ぎ歩いて、水を飲んだ、海水は
塩ッぱいということを、さも
大なる学理を発見したごとくにいうのを聞かせられた。
子供の
中悪戯をして叱られると、内を
駈出して、近所の馬鹿
囃子の中へ紛込んで、チャチャチャッチキチッチッと躍っていると、
追駈けて来た者が分らないで黙って
見遁しては帰ったが、
私の顔は今でもおかめの面に
肖ているかといって、尋ねられたこともある。
その気であるから、蝶吉がおもてを歩いて、生意気だと思う
奴には突当ってやるというから、何を弱虫、
先方が怒ったらどうするといって
窘めれば、
打たれそうになったら二十五座へ紛込んで、馬鹿囃子を躍ってよ、と真面目でいうのだから
耐ない。まさかに今十九にもなって、そうとは信じもすまいけれども、口でいうような
幼心は、今もなお残っている。
堕胎をしたものは刑法の罪人だといえば、何の事かもとより分らず、お前巡査に
捕って
牢へ入れられなけりゃならないといえば、また二十五座へ
遁込んで躍るというであろう、手のつけられたものではない。
さまでに世の中の事というものが分らない
生立が、
馴染むに従って知れれば知れるほど、梓は
愛憐の情の深きを加えた。
さらぬだに蝶吉は恩人である。殊に懐旧の情に堪えざる湯島の記念がある上に、今はある者は死し、ある者は行方の知れない、もの心を覚えてから、
可懐しい、恋しい、いとおしい、嬉しい情を支配された、
従姉妹や姉に対するすべての
思を、境遇の
斉しい一個蝶吉の上に綜合して、その情の焦点を
聚めているのであるから身にかえても
不便でならぬ。
まして打明けた蝶吉の身の上を
悉しく知ってからは、
謂うべからざる同情の感に打たれたのである。
梓は何となくよく似た身の上だと思った。
蝶吉の母親は
旧京都のしかるべき
商賈の娘であったが、よくある、
浄瑠璃の文句にある、親々の思いも寄らぬ
夫定めで、言い
交した土佐の浪人とまだ江戸である頃遁げて来た。二人で根岸に隠れている
中、
時世といい、活計を失って、仲之町の
歌妓となった、且つ勤め、且つ夫に情を立てて、根岸に通っている内に、蝶吉は出来たので。
子持の母も芸で通り、
馴染の座敷では
小女が連れて来ると、
背後を向いて、三味線を下に置いて、懐を開けて乳房を含ませるという境遇であったが、誕生を
済して、蝶吉がようやく立って歩くようになると、根岸では、父が
病の床に倒れたがまた
起たなくなった。
越えて
三歳になる時、母親は
蠣殻町の
贔屓客に、
連児は承知の上
落籍されて、浜町に妾宅を構えると、二年が間、蝶吉は、
乳母日傘で、かあちゃん、かあちゃんと言えるようになった。
それもしばらく、米屋町は米の上り下りで人間の相場が狂い、妾宅の主人は大失敗で、
落魄して、最後に一旗という資本がないので、心まで淋しくなり、蝶吉の母に迫って、その
落籍しただけの金員耳を揃えて返せという。
蝶吉の母は根岸の
情人が
亡なってから、世を味気なく、身をただ運命に任せていたので、いうことに逆らわず、芳町から再勤したが、足りない
金子は、家財を売って、それでもまだ償われなかったので、蝶吉を仲之町の大坂屋というのに預けた、年期が十三年。
廓の
抱妓の慣例として、色はきっと売らさぬ代り、芸事にかけてはいかなる手段をもって仕込んでも差し支えはない、少々痛いおもいをさせてもという口約束をしたのであるから、そのせたげようと云ったら方外な。
座敷は三人が一組、姉株の
芸妓が二人、これに蝶吉が、
下方を持って
跟いて
行くのであった、といって、いつか雪の降る
夜、身の毛を
悚立てて梓にその頃の難苦を語ったことがある。
座敷がある、客はというと、あの土地では夜が更けてからのが多い。それという声が
懸ると、
手取早く二人の姉分の座敷着を、
背負揚、
扱帯、
帯留から
長襦袢の
紐まで順序よく
揃てちゃんと出して、自分が着換えるとその手で二人分の
穿物を揃えて、三味線を
||その頃腕達者な
烈しい
姉は、客の前で
弾切ると糸を掛けてる
中も間が抜けるといって、
伊達に換え三味線を持ったので
||四張。呼ばれた
青楼の帳場まで運んでおいて、息を切って引返す、両手に下方を持って
駈着ける。
それから四張の三味線を座敷に運んで、調子を合せて、差置くや否や、取って返して、自分が
持の下方の
調の緒を
〆める時分には、二人悠々と入って来る。穿物の雪を落して、片附ける間も心が
急かれ、座敷へ
上るとお座附の済む頃で、膝に手を置く猶予もなく、それ下方といって責められるが、指の皮が破れてる上に冷たくッて手がかじかむ。息が切れて、もう小鼓を肩に振懸ける力もない。
これを梓に言った時、蝶吉は床から出て、友染の夜具の袖を敷いたと見ると、長襦袢のまま片膝を立てた。その上に手を
翳して、
(
私小さくッてこれんばかりだったんですもの、鼓ばかりで体がどこにあるか分らなかったの。)と、いいつつ片手を肩に懸けて、小鼓を構える姿で
屹と直った。
鬢の毛ははらりはらりとその雪のような素顔に乱れたが、往時を追懐する目も
据って、いうべからざる悲哀の色を
浮べたので、梓は思わず
寝衣の襟を正して起きた。
とんと打入れる
発奮をくッて、腰も据らず、
仰向に
引くりかえることがある、ええだらしがない、尻から
焼火箸を刺通して、畳の
縁に
突立ててやろう、転ばない
呪禁にと、陰では口汚く
詈られて、帰ると耳を
引張って
掌で横すっぽう。襟首を取って伏せて、
長煙管で
背を
擲わすという仕置。ただその
粗忽があった時ばかりではなく、着物を畳んで背筋を曲げたと言っては
折檻、踊がまずいといっては
打たれて、体に
生疵の絶間もないのに、寒さは骨を通すようなあけ方までも追廻されて、二人が帰ると、着物から三味線、下駄のあと始末、夜が明けると帳面をさげて、
青楼を廻らせられるので、寝る間といってもおちおちない。
昼は昼で、笛やら、太鼓やら、踊の
稽古、
手習も一日
置で、ほっという間もなかったのである。
うろ覚えに実の母親は知っていたけれども、
年紀も分らねば所も知らず、泣けば舌の
尖を
捻じられるから、ほろほろ、涙を流しては、といった、蝶吉はその時、
崩折れて涙を払った。
土手など通ると、
余所の
児が母親に手を
曳かれて
行くのを見たり、面白そうに遊んでいるのを見るたびに、
同じ人間がなぜだろうと、思わぬ時といってはない。ある時も、
田圃のちょろちょろ水で、五六人、目高を
掬っているのを見ると、
可羨しさが耐えられないから、
前後も
弁えず、
裾を引上げて、
袂を
結えて、
私も遊ばして下さいな、といって
流に入った。やい、
売婦め、お
玉杓子め、汚らわしい! と二三人、手と足を取って仰向けに
引くりかえしたので、泥水を飲んで
真蒼になって帰ると、何条これを許すべき、
突然細紐でぐるぐる
巻、
濡しょびれたまま高い押入の中に
突込まれた。半日とその
夜の夜中二時頃まで、死んだもののようになってる
中に、
私ばかり、
情ないものを、辛いものを、慰めてこそくれずとも、売婦だといって
突転がした町の奴等。
内で芸事をせたげるのも、
皆手前達が甘やかされて、可愛がられて、風にもあてず育てられた、それほどの果報にも飽き足らず、にきびの出る時分にはその親に
泣を見せて、金を
掴んで、女をもてあそびに
来せるためだ。蹴飛ばしてやろう、おのれ、見返してやろう、おのれ
誑してやろう、
嬲ってやろう、死ぬような目にあわしてやろう。泡を吹かせずにおくものかと、それからは気に
張が出て、稽古事も自分で進み、人には負けぬ気で苦労も気にせず、十七の
年紀まで
遣り通したが、堅い
莟も花になって、もうあとへ、自分を姉さんといって
冊くのが出来て、秋の
仁和賀にも
引を取らず、座敷へ出ても押されぬ一本、
地は清元で、
振は
花柳の免許を取り、
生疵で鍛え上げて、芸にかけたら何でもよし、客を殺す
言句まで習い上げた蝶吉だ、さあ来い!
花も見、月も見る癖に、
活きた女を慰もうとする畜生等、目にものを見せてやろう、
簪の先が
尖ってるから、憎まれて
怨まれて、殺されそうになったらば、
対手の
目球を
突潰して、体だけ逃げれば
可いと、
柳眉星眼
火
の唇。
満腔の不平を
湛えて、かえって
嫣然として天の一方を
睨むようになり得ると、こはいかに、薄汚い、耳の遠い、目の赤い、
繿縷を
纏った婆さんが
杖に
縋って、よぼよぼと尋ねて来て、
生の母親が大病である、今生でたった一目、
名残が
惜みたいという口上。
夢にも逢いたい
母様と、取詰めて手も足も震う身を、その婆さんと別仕立の
乗合腕車。小石川
指ヶ
谷町の貧乏長屋へ
駈着けて、我にもあらず縋りついた。
母様、峰(幼名)か、と嬉しさのあまり、
呼吸の下で声も出た。母親はその日絶えなむとする玉の緒を蝶吉の手に
繋ぎ留められて、一たびは目を開いたが。
一目見廻した様子でも、医師はいうまでもないこと、
風薬の手当も出来ないと見て取って、何は
措いて、蝶吉は
一先ず大坂家に帰って、後の年期も少いので、
上借をして貢いだけれども、半日もままならぬ
抱妓の身。看病人を頼むのも、医者を心付けるのも、
北里と、小石川の
及腰、
瘠細るばかり塩気を
断って、
生命を縮めてもと念じ
明した。
七日目の朝、ようようのことで
抱主から半日の
暇を許され、再び母親を小石川の
荒屋に見舞うと、三日が間、夜も昼も差込み通し、
鳩尾の処へぐッと上げた
握掌ほどのものが、上へも下へも通らぬので、唇の色も紫になっていたのが、蝶吉の手で
擦られると、恩愛の情に和げられて、すやすやと寝ることが出来た。三時間ばかり
経つと、病苦も忘れたようになり
括枕に胸を
圧えて起上った時、蝶吉は生れて以来、しみじみ顔を見たのである。
(よく紀の国屋に
肖ていてよ。)
と蝶吉がそう云う
顔立、母親は名を絹といった。
娘を大坂屋に預けて、その身
葭町で弘めをしてから、じみちに稼ぎ稼ぎ借金をなし崩し、およそ五年ばかりで
身脱をした、その間に世話をするものがあって、自前になって御神燈を出したが、
可い
抱妓の一人も置いてやろう、と言うものがあったけれども、母親はこれを
己に
鑑み、たといそうして所得が有って身代が出来た処で、
汚れた金で蝶吉を
救出しては、きっと末がよくあるまい。また二度の
勤をしてますます深みへ落ちようも知れず、もとより抱妓を置く金で仲之町から引取って
手許で稼がせる
数ではなし。さればといって人の深切も、さすがに娘を
落籍してくれるまでには到らなかったが、女腕で一人を過す
片遑に
端金を積立てても、なかなか蝶吉の体は買取られぬ。たとえばそれが出来るにせよ、母はもとより天道の
大御心には
協わぬ
生立、自分の体を
牲にして、そして
神仏の手で、つまり
幽冥の間に蝶吉の身を救ってやろう、いずれ
母娘が、揃って泥水稼業というは、
免れぬ
前の世の因縁づく。
罪滅のためだと思って母親の持った亭主は
||間黒源兵衛
||渾名を
狂犬という、花川戸町の裏長屋に住む人入稼業、主に米屋の
日傭取を世話する
親仁。
渡者を振廻して処々の米屋に稼がしておく、お絹はその賃銭を集めに廻った。橋場今戸の居まわりは云うに及ばず、本所、下谷、飛離れて遠くは日本橋あたりまでも、草履
穿で
駈ずり歩かねばならないのみならず、煮るも、炊くも、水を
汲むのも、雑巾がけも、かよわい人の一人
手業で、朝は暗い内に起きねばならず、夜になるまで、足を
曳摺って、
日雇の賃銭を集めて、
家に帰ると親仁の酒の酌をして、
灸の
蓋を取換えて、肩腰を
擦って、枕に就かせて、それから、
歩を取って、
各々、二階に三人、店に五人、
入交りに
泊に来る渡者の稼ぎ高に割当てて、
小遣を
遣って、屋根代を入れさせる。この算用を
算盤ぱちぱち、五を引いて二が残り、たった三厘の相違があっても
髻を
掴んで
引摺倒そうという
因業な旦那を持ってるから、夜の更けるまで帳場に坐って、その疲れ果てて
吻と一息
吐くと綿のようになる体で、お絹は
添臥をしたのである。
何の! 踊の稽古をしても、三味線の弟子を取っても、我身一ツは安々と世間を清く過さるるを、獄に投ぜられて苦役に就いても、さばかりにはあらずと思う、ほとんど生身を削り落すような難行をしたのは、あえて
堕地獄の我身の
苦患を
扶かろうというのではない、ただ
単に蝶吉のためにしたのであったと、母親がその時の物語。
もとより自ら進んでも、かくはなるべき運命であったろうけれども、さまでとはさすがに思い懸けなかった、
[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]積年の憂苦辛酸、一
日の安き
暇もないので、お絹は身も心も疲れ果てて、その一月ばかり前から煩い出し、床に就いて足腰の自由が利かなくなると、夫
狂犬源兵衛は屋外にこれを追出した。それを争う力もなくて、指す
方もなく
便ったのが、この耳の
疎い目腐れの
婆の
家、この
年寄の
児は、かつて
米搗となって源兵衛が手に
懸って、自然お絹の世話にもなったが、不心得な、
明巣覗で上げられて、今苦役中なので、その以前から
忰の縁で、お絹にも
厚意を受けた。年寄は恩を忘れず
家へ引取って介抱をしてはいるけれども、
活計に窮するのはいうまでもない上に、耳が遠くッて用が足りず、水一杯といっても聞えない
看護を
請けるお絹の身になったらどうであったろう、またこれを知りつつも、一晩と附切って介抱することのならなかった蝶吉の気はどんなであった? 人が
神仏を
怨むのは正にそういう時である。
そちこちする
中、昼も過ぎたので、年寄はまめまめしく
形ばかりの
膳立をした、お
菜がその時目刺に
油揚。
(
母さんが

って上げよう、)と、お絹は一世の
思出。
知死期は不思議のいい目を見せて、たよたよとして火鉢に
凭った。夏近いが、寒いからと、年寄は
危んで、
背後から昆布のような
蒲団を
被せようとすると、これじゃあ
汚らしくッて折角の
馳走も
旨しゅうないと、取って
撥退けたので、蝶吉が心得て、被ていた羽織を脱いで着せた。
(じみなんですから
母さん似合いますよ、)と嬉しそうにいう顔を
視めながら、お絹は手を通しつつ
振沢山な裏と表を
熟と見て、
(峰ちゃん、生意気なものを着てるね、)といった。
故郷の京の色香に江戸の
意気張を持って、仲之町でも、葭町でも、小さんといって、立てられた蝶吉の母は
年紀わずかに三十三、最後の大厄で、その日の晩方、男は自分で見立てろと言って遺言して、日本の男と女の中に、しかも、
廓の中に、蝶吉ばかりを残したのである。あと十日とは
措かないで、小石川柳町から丸山の
窪地へ水が出た時、荷車が流れたのが、
根太へ
打つかって、床を壊すと、
件の婆は溺れて死んだ。これも葬る者がないので、蝶吉は母が臨終に世話になったのを恩として、同じ寺に葬ったのである。
印の墓石はいまだ立てることは出来ないけれども、出来る時だけは欠かさないで
参詣する、梓がなかった
以前は、ただその墓に
取縋ることばかりがこの上もない
楽みであった。
蝶吉はその亡きお絹の引合せだと信じている梓に、いつの晩か手を開いて見せた。指の先が色に染まって、赤くなって血が
浸んだようなのを
怪んで聞くと、今日お墓参りをした時濡れ手で線香を持ったといって、
(
私母さんと御膳を食べたのは生れてからたった一度なんですもの、)と縋り着いて泣いた。その手が冷たかったから、梓は思わず、しっかと胸に抱いたのである。
(お宗旨は何だ。)
(知りません。)
(問えば
可いじゃあないか。)
(だって
可笑しいわ。)
(じゃあ何てッて拝むんだな。)
(一生懸命に
南無阿弥陀仏。)
この女が、この体で、この姿で、ただ一人墓の前に泣くのだと思って、梓は抱いたまま放さなかった。
「よ、どうしてそれが見棄てられるものか、まだその上に蝶吉は子供の時から、
怨と、
僻と
憤とをもって見た世に対して、
謂わば
復讎的に
己が腕で幾多
遊冶郎を活殺して、その
肉を
啖い、その血を
嘗むることをもって、精魂の痛苦を
癒そうとしたが、あたかも母の死に逢って志を果さず、まだ一たびも男に向って、
誑すの
嬲るのというはもとより、お世辞一ツ言わずにいた身をもって、これを梓に献じたのである。
譬えば、その家は
壊たれ、その樹は
伐られ、その海は干され、その山は崩され、その民は
屠られ、その
女は
姦せられた亡国の公主にして、復讎の企図を
懐いて、
薪胆の苦を嘗め尽したのが、
張も忘れ、意気地も棄ててかえって我に
哀を請い、一片の同情を求むるのである。天下またかくのごとく
憐むべく悼むべきものはあるまい。何としてそれが見棄てられよう。蝶吉は
残少になった年期に借り足して、母親を見送ってからは、世に
便なく、心細さの
余、ちと
棄身になって、日頃から少しは
飲けた口のますます酒量を増して、ある時も
青楼の座敷で酔った帰りに、夜更けて京町の夜露の上に寝倒れた。月が
射して、その肉は
蒼く、その骨は白く見ゆるまで、冷えて霜を浴びたようになったのを、
往来の仕事師が見附けて、大坂屋へ抱え込むと、気が付いたが、急に
胸前へ
差込が来てから、持病になって、三日置ぐらいには
苦悶える、最後にはあまり苦痛が
烈しいので、くいしばっても悲鳴が
洩れて、畳を
掻むしって転げ廻るのを、
可煩いと、
抱主が手足を縛って、口に
手拭を
捻込んだ上、気つけだと言って、足袋を脱がせて、足の
拇指の間へ続け様に灸を据えた。
妙齢になってから、火ぶくれの
痕は、今も
鮮明に残ってると、蝶吉は口惜しそうに、母親に甘えるごとく、肩を振って、浴衣に
搦んで足を揃えて、
小い
爪尖を見せながら、目に涙を
浮べたその目で、待合の
襖の紙が
蟹のような形に破れているのを見付けると
延した足の拇指を曲げて、
件の
破目を、
(繕ったら
可さそうなものね、何だい、何だい、)と叱るようにいって
抉るのを、
(馬鹿な、)と叱りつける梓の顔、鼻を
詰らせながら、涙の目で、蝶吉は嬉しそうに
瞶めていた。それをも梓は忘れはせぬ。そんな他愛のない、
取留のない、しかも
便りのない
孤に、ただ一筋に便らるる、梓はどうして棄てられよう。
蝶吉はかの時
無慙なる介抱をした抱主の処置に
平なることあたわず、
圧え切れない虫は
突走って、さてこそ天神下の口入宿へ来たのであった。柳橋か、
葭町かと行先を選んでいる
中に、内々勧めるものがあった。これは天下の秘密だけれども、
髪結が一人、お針が二人、料理人が一人、医師が一人、女を十二人選んで、世話役が三人これを頭取が率いてパリイとかシカゴとかいう処の、博覧会へ日本の女を見せに
行く。場所も
薔薇の花の
盛な中へ取って、
朱塗の
埒も結ってある、日給は一日三円、
十月の約束でどうだという。どの道東京で死んだ処で、誰一人そうかとも言ってくれない体だからと、既に
観世物になる処、湯屋の前でふっと見た梓に未練が残ったので、ようよう
獣に
楽まれるだけ助かったのである。その話をする時も、蝶吉は坐ったまま、大手を振って、
(こうやって威張って見せてやろうと思ったのよ。)
梓は余りのことに吹出して、
(シャモの
牝はこれでございと言やあしないか、)
(まずね、)と
莞爾した
暢気さ加減、浅はかさも程があった。
「僕が附いていない日には、お蝶、お前どんな目に逢おうも知れぬ、」と梓は息を
吐きもあえず、
「それさえ見棄てて、別れなければならないような、
児を
堕すなどという、飛んだことをしてくれた。」と蝶吉の
項を抱いて口移しに
噛んで含めるように、自分の
赤心を語るため、今まで久しい間、時に触れ、折に当って、動かされた、至憐至愛の情の切なるを、ここに打明けて語ったのである。
蝶吉は聞くこと半ばにして、色を変えて、心、その心を貫くごとに、ほとんど顔を見らるるに耐えざるごとく、
摺抜けて
駈出しもしかねない様子に見え、左に、右に、その
面を背けたが、梓の手と、声と、
語と、真心は、ますます力が
籠ったから、身も世もあらず、動きもならずいうこと、ここに到る
頃いの、
果は、
悄然と
頭を
低れて、
腕に落した前髪がひやりとしたので、
手折った
女郎花の
儚い露を、憂き世の風が心なく、
吹散すかと、胸に
応える。
「僕だって
最初からこういう間の中といっちゃあ、
末始終はきっと
泣を見なければならないと思うから、今度こそ別れるような話にしようか、今度こそと、その度に
悄れちゃあここへ来ると、何かしらお前に言われること、されることが、一々思いの増すようなことばかり。私はもう一服ずつ
痺薬を飲まされるようだった。
今じゃ
家にも居られなくッて、谷中に
引込むようになった上は、どうせ破れかぶれだから、人が何といったって、世間も義理も構うことはない、お前とどうぞしてという覚悟を
極めた処へ飛んだことを聞いてしまった。
お蝶さん、お前は訳が分らないから、何にも世の中のことは知るまいがね、およそ
堕胎ということをした者は、これが罪とも恥とも知らないでした事にしろ、心は腐っても、人間という目鼻だけの、せめて皮でも
被ってる
中は、二人
竝んじゃあ居られやしない。こう言えば水臭いと、きっと私を
怨むだろうが、いつも言う通り、お前のような稼業をしている者とは、兄弟であったり
従姉妹であったりした上に、
皆にたんと世話にもなった。どういう因縁だか、お前にも恩を
被た私だから、訳は分ってる、こう見えても
可愧しいが、馬車に乗ったこともあるし、
御前様々々と
畏られたこともあるが、
大な声一つ出してお前にゃあ、用を言い付けたこともない。あんまり大人しくッて、頼りがないから、私は何だか物足りない、きりッとして叱ってくれ、
癇癪を起して横顔の一ツも
撲られたいと、
芸妓のお前にいつも言われた、男が一人そのくらいに
惚れたら
可かろう。故郷とは始終
便をして、人のおもちゃになってる女に、姉上々々と書いたから、ああこんなことをするような身分ではないと知りながら、お前の手紙が来れば、様づけにして返事を出した、何も機嫌を取った訳でもなし、取入って色男になろうと思ったのでもない。
うわべはどうでも、理窟は知ってても、
小児の内からの
為来りで、
本当に友達のようにも思い、世話になったとも思う上に、可愛い、
不便だと思うから、
前後も考えなかった。
お前を立派な女だ、
姫様だ、
女房さんだと
心から思ってしたことだよ。僕はお世辞も何にも言わない。女は氏なくして玉の
輿だから、どんな身分の人に姉さんといわれないとも限らぬが、そりゃ男の方から心を取って惚れさせようとか、気に入られようとかして、後じゃあ
玩弄にするためだ。
可い
餌をかって肥えさしてしめて食べようという、
鴨と
同じ訳じゃあないか。これが
遊人とか、町内の若い衆とかいうなら知らず、ちったあ身分もあるものに本当に惚れられた
芸妓といっちゃあ、まあ、お前一人だろうよ。
それを
思出にして、後生だから
断念めておくれ。神月は私の
良人だったと、人にいっても差支えはない。そして
謂うに謂われない
仔細があって別れたといって御覧、お前の恥にゃあならないから、よ、
解ったかい。
いまにもう少し
年紀でも取って、ちったあ分別がついて来ると、成程無理はなかったと、自分のしたことに気が付いて私の心も知れるから、体だけ大事にして
軽忽をしないで辛抱しな。別れるといって見棄てやしない、蔭じゃあどこまでも思っている、」と神月もほろりとした。蝶吉は死んだ者のようである。
「悪いことはいわないから、その綿の入らないものを威張って着るのと、いつもいうことだけれど、これから暑くなって、氷の
打欠をお
飯にかけて食べるのと、それから無理酒を飲むのは
止せ、よ、気を付けなけりゃ、お前今年は大厄だ。」
としめやかに言ったがふと心付いて、手を
弛めた、
「
酔醒か。寒くはないか。」
「いいえ、」と
内端に小さな声で、ものを考えるがごとく蝶吉はいった。
「そうか、また冷えると悪いぜ。」
「ええ。」と
仇気なく
秘さず、打明けて
縋り着くような返事をする。梓はこの声を聞くと
一入思入って、あわれにいとおしくなるのが例で。
「体はもうすっかり
良いのかい、」
「ええ、」
「お前は駄々ッ子で、鼻ッ端が強くって、威勢よく
暴れるけれど、その実大の弱虫なんだから心配だよ、この頃は内で
姐さんと
喧嘩はしないか。」
「ふふ、」と泣出しそうにしながら、蝶吉は無理に片頬で
微笑む。
「やっぱり
母様の夢ばかり見てるのか。」
「ええ、」ともいわず蝶吉は
面を背けると、御所車の
簾の青い裏に、燃立つような
緋縮緬を、手に
搦んで、引出して、目を
拭って、
「何にも言わないで下さいな、胸が一杯になって来てよ、
可笑しいねえ、」といって袖口を
除けたが、ぱっちりと目を

いて、梓を見まいとするかのごとく、あらぬ
方を
瞶めたけれども、
「おやおや、
可けないねえ。」
また
俯向いて目を
塞いで、
「
貴方、手を放して下さいな、」
声も消入るようであった。
梓はともかくも蝶吉の心の落着いているのが知れて、いうままに手を放したが、ほとんど失心しているような女の体は、そのまま
背後へ倒れるだろうと思った。
蝶吉は、かえって、ちゃんとして、膝に両手を組みながら、
恍惚して梓の顔を見ていたが、細い声で、
「あなた、」
「どうしたの、」
「後生だから顔を見ないで下さいな。」
梓は思わず
面を背けた、
[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]火鉢の火は消えかかって
籠洋燈の光も暗い、と見ると
痩せた
薄と、
悄れた
女郎花と、
桔梗とが咲乱れて、黒雲空に、月は傾いて照らさんとも見えず、あわれに描いた秋草の二枚折の
屏風が立っているのが、薄暗い
灯で、幻のようで、もの寂しい。
「
私泣くんだから、あっちを向いても
可くッて?」
梓は
頭から寒くなったが、俯向いて
頷くと、蝶吉は
向むきになって屏風に影が映った、その胸をしっかり抱いた。
着物の
振が両方から、はらりと迫って、身も痩せた。細々とした指の
尖が、肩から見えて、
潰し島田の乱れかかったのを、ふらふらとさして
熟としていたが、折れたように身を倒す、姿はしぼんだごとくになり、声を殺してわっと泣いた。梓も
耐らず、
背向になった。二人の
茫然した薄い姿は、
件の秋草の中へ入って、風もないのに動いたと見ると、一人は畳へ、一人は壁へ、座敷の影が別れたのである。
「さて早や、」と云う
懸声で大和家の格子戸を開けて入る、三遊派の
落語家に
円輔とて、都合に依れば座敷で真を切り、都合に依れば
寄席で真を打つ好男子。但しこの男が真の時は必ず御定連へ
半札を出す例であるから、通称は半札の円公。鈴本が
刎ねてあいにく繰込のお供も
仕らず、御酒
頂戴も致されず、
家へ帰って
妹じゃ間に合ずというので、近所だから大和家へ寄ることちょいちょい。さてはや半札の円公は、御神燈の下から、まず
御馴染の
顔色を御覧に入れますると、
「よう!」と長火鉢の前から奇な声を発して応じたものあり。内の
姐さんか、あらず、
傭の婆さんか、あらず、お茶を
碾いてる
抱妓か、あらず、猫か、あらず。あらず。あらず。湯島天神
中坂下の松の
鮨の
忰源ちゃんである。この男銭を遣わずに女の子と遊ぶのをもって、通と悟ったから
耐らない。数寄屋町の御神燈の下を
潜る事、毎夜あたかも
燕のごとしで、殊にこの大和家には、蝶吉という、野郎首ッたけの女が居るから、その取入ること
一通ではなく、
余所の障子を張ってやりの筆法で
芸妓の
用達から
傭婆の
手助までする上に、
隙な時は長火鉢の前で飼猫の毛を
梳いている。運が
好いと、
雛妓の袖を
引張ることも出来るし、女中の
臀を叩くことも出来るのが役得。蝶吉に
肱鉄砲を食ッて、
鳶頭に懐中の駒下駄を焼かれた上、人の
妓を食おうとする、獅子身中の虫だとあって、内の
姉御に御勘気を
蒙ったのを、
平蜘蛛で
詑を入れて、以来きっと
[#「きっと」は底本では「きつと」。以下の本では「屹度」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]心得まするで、
何卒相変りませず、今夜も来ている。
あいにく
抱妓どもは皆出を勤めて
居らず、女中は
忙しいし、姉御は用達にお出懸けなり、火鉢の灰は綺麗だし、
注す後から鉄瓶の湯は煮立つので、色男
余の所作なさに、猫を
撫でたり、
擦ったり、どうしたなどと、言って見たり、耳を
引張ったり、
髯の数を数えたり、様々に扱うと、畜生とて黙っておらず、ニャアと一声
身顫をして
駈出そうとするのを、逃がしてなろか、と
引抱て、
首環に
噛り着いて、頬杖して、ふと思い着いて、「恩愛雪の
乳貰」という
気取、わざと浮かぬ
面をしている処へ、
件の半札がさて早であった。
「師匠上りたまえ。ようこそ、」と諸事内の人で挨拶する。
ぐッと
呑込んで、円輔はあたりを

し、
「へへえ、
成程、あいにく出懸けまして御愛想もございませんがね、どこへ、姐さんは。」
「また、これだそうさ、」といって
窪んだ顔の
真中へ
指をした、近眼鏡の輪を
真直に切って、指が一本。何と気を変えたか、宗匠、今夜は大いに
侠って、
印半纏に三尺帯、但し
繻珍の
莨入に
象牙の筒で、内々そのお
人品な処を見せてござる。
円輔は細長い膝を
小紋縮緬の
薄ぺらな
二枚襲の上から、
掌でずらりと
膝頭へ
擦り落すこと三度にして、がッくりと
俯向き、
「さてはや。」
「どうしました、大分落胆の気味だね、
新情婦も出来ませんか。」と源次郎は三味線の
挂った柱に
凭れて澄ましている。
円輔はまた
耳朶へ掛けて
頬辺を
扱き上げて、
「いや、まず、はははは、時に何は、君の落ッこちはどうしたんでげす、お座敷かね。」
「何ちっと、遠方だそうです。」
「ははあ、遠出でげすかい、なにかに就けてさぞ気が
揉めるこってえしょう、よ、色男。」と
浮ッ調子で
臀をぐいと突くと、尋常に股を
窄めて、
「
止せッてえに、これ、
詰らないことを、何だ。こう見えても苦労があるんだから、ねえ、おい。」と甘ッたるい。
「よ、苦労!」
と仰々しく手を
支いて、ぐッと反って、
「来ましたね、隊長、
恐入ったね、どうも。苦労と来たね、畜生、
奢りたまえ、奢りたまえ。」
「いずれ帰ったら奢らせることに致しましょうよ。」と
北叟笑をする。
「これは!」
「いや、師匠、
串戯は止してさ、蝶吉が帰りさえすりゃ、是非その御一統が一杯ありつこうという寸法があるんでさ。ごくごく
吝嗇に行った処で、
鰻か鳥ね、中な処が岡政で小ざっぱり、但しぐっと
発奮んで伊予紋となろうも知れず、
私ゃ鮨屋だ! 甘いものは本人が行けず、いずれそこいらだ、まあ、待っていたまえ。」
「
確に、」
「ええ、
確りだ。」
「
豪い!」と大声を張上げて、ぴたりと、
天窓を下げたが、ちゃんと
極って、
「さてどっちです、こうなると待遠しい。」
「八丁堀だそうだ。」
「成程御遠方だ。幾時頃から、」
「
一昨日の晩から
行きッ切り、おなじく、」と鼻を指して、「ね、さっき
使が来て、今夜は遅くとも帰るッていうんだ、ねえ、
升どん。」
勝手から女中の声で、
「はあ、」
「ねえ、おい、
富ちゃん。」
次の部屋の
真中で、盆に向って、
飯鉢と茶の土瓶を引寄せて、
此方の
灯を頼りにして、
幼子が独り飯食う秋の暮、という形で、
掻っ込んでいた、
哀な
雛妓が、
「ええ、」と答えてがッくりと飲む。
「
確かい。」
「きっとでございますって。」
「占めた!」という時からからと戸が
開いた。
円輔は振返って、
「や、御帰館!」と
喚いて、座を開いて、くるりと向く。
源次はぬうと首を伸ばして、
「誰だい、」
「蝶吉姐さんだよ、誰だたあ何のこッた。」
「そう、」といって源次は猫を落して坐り直った。
蝶吉は何か
悄然として帰って来たが、髪も乱れて、顔の色も
茫然している。
前垂懸で
繻子の帯、
唐桟の
半纏を着た
平生の
服装で、
引詰めた
銀杏返、
年紀も老けて見え、頬も
痩せて見えたが、もの淋しそうに入って脇目も
触らず、あたりの人には目も懸けないで、二階へ
澄して
上ろうとするのを、円輔が
瞶めて、ちっと当ての違ったという形で、変に
生真面目に、
「お帰んなさい。」
「
唯今、」と言ったばかり、つんとしてトン、トン、トン。
「御機嫌麗わしからずじゃあないか。顔色が
可恐しく悪いぜ、
花札が走ったと見える、
御馳走はお流れか、」と円輔はてかてかした額を撫でた。
「いえ、師匠、御馳走はその勝負にゃあ寄らないんだ。但し御機嫌の悪いのはこの節しょっちゅうさ、
心太[#ルビの「ところてん」は底本では「とろろてん」。以下の本では「ところてん」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]の拍子木じゃあないが、からぶりぶりしてらあな。」
「やっぱり
······。」と押えて、それか、と呑み込んだようにいうと、源次は黙って
頷く。
声を低うして、
「何でげすかい、あの神月とやらいう先生に一件が知れて、
先方から突出したというのは本当なんで?」
「ああ、」と何だか聴きたくもなさそうに、源次郎は乗らない返事。
「成程
竝べて置けば
雛一対というのだが、身分には段があるね。学士と
謂やあお前さん、大したもんでげしょう。その上に華族の婿様だというじゃあありませんか、幾ら若い同志で
惚れ合ったって、お前さん、その身分で
芸妓に
懸り合って屋敷も出たッてえから、世の中にゃべら棒もあったもんだ。それだから円輔も大学へ入る処をさらりと
止して、
落語家となったような訳だと、思ったんでげすが、いや、世の中へ顔出しも出来なくなった処で、子を
堕したと聞いて、すっぱり縁を切ったなあさすがに
豪いや、へん、
猪口の受取りようを知らねえような二才でも、学問をした
奴あ
要が利かあ、大したもんだね、して見ると蝶さんが惚れたのも
男振ばかりじゃあないと見える、
縒が戻りそうでもありませんかい。」
「どうして、ちっとでも脈がある内に
鬱ぐような女じゃあないんだ、きゃッきゃッて騒があね。」
「成程、して見るとこちとら一味徒党。
色情事に
孕むなあ野暮の骨頂だ、ぽてと来るとお座がさめる、
蟇の食傷じゃあねえが、お産の時は
腸がぶら
下りまさ、口でいってさえ
粋でねえね、
芸妓が孕んで
可いものか悪いものか、まず
音羽屋に聞いてもらいたいなんてッて、あの
女が、他愛のない処へ付け込んで、おひゃり上げて、一服承知させた連中、残らず、こりゃ
怨まれそうなこッてげす。何を
目当に、御馳走なんぞ、へん下らない。」
と円輔はまた
落胆、源次は落着き
澄して、
「師匠心配したもうなッてえのに、疑り深いな。」
「だってあの
御気色を
御覧じろ、きっとあれだ、
違えねえね、八丁堀で
花札が走った上に、怨み重なる
支那と来ちゃあ、こりゃ
奢られッこなし。」
「勿論僕の、その御相伴なんだよ。」
「へ、君だってあんまり、奢られる風じゃありますまいぜ。」
「ずッと有る、有るね、そこあ
憚りながら源ちゃん方寸にありさ。」
「じゃあ
一番お手形を頂きたいね。」と円輔は詰寄った。
「手形
宜しい。当てが違えば、師匠、どうだ、これを献上は。へへ、
詰らねえもんだけれど。」
と少し見せたくもあって
件の
莨入を抜く。円輔は打返して
捻ッて、
「
罷り間違えば、手前にこのお腰のもの、ちょいと武士に二言はなしかね。」
「いや、江戸ッ
児だ。」と誰かの
声色で、
判然となる。
「豪い?」と大声で、ぴたりとお辞儀をした、円輔は驚いて顔を上げる。
二階から蝶吉の声で、
「
富ちゃん! 富ちゃん。」
「はァい。」と
引張って返事をして、
雛妓は
膳を
摺らして立ち、
段階子の下で顔を傾けて、可愛らしく、
「何、
姐さん。」
「あのね、
私は今夜
塩梅が悪いから、どこから
懸って来てもお座敷は
皆断って下さいな、そして姐さんがお帰りだったら済みませんがお先へ
臥りましたッてね。」
「はい。」
「
可いかい。」
蝶吉は、帰るとその時まで何をするともなく
可厭な心持で、
箪笥の前にぼんやり立っていたのであった。
雛妓に言付けて、座敷を
斜に切って、
上口から箪笥の前へ
引返すと、一番目の
抽斗が半ば
開いていた。蝶吉は
衝と立って、
「おやおや、
私が開けたのか知ら、」
と思い寄らず
呟いた。抽斗には、神月の写真をいつも立て掛けておくのである。
ふッつり切られてしまってからは、人は見なくッても、神月は知らないことでも、蝶吉は何となく、その写真を見ることさえ、我身で
儘ならぬようで
儚いので、あえて、今は
仇なれと、
偲ぶ
思の増すのが辛さに、
俤を見まいとするのでない、身に
過失があって、縁切ったと言われた人の、たといその姿でも、見てはならないようにされたごとく感じている。
抽斗の縁に手を掛けて、
猶予いながら、伸上るようにして
恐いもののように
差覗こうとして目を
塞いだ。がッくり支えるように抽斗を差し懸けて、ああこの写真から下げて来ちゃ
旨しいものを食べたっけと、
耐らなくなって、
此方を向くと、背中でとんと
閉ッた途端に、魂を抜去られたか、我にもあらず、両手で顔を隠して、
俯向いて、そのまま泣いていた。
しばらくして、
蘇生ったもののように、顔を上げる。
向の隅に、
雛の
屏風の、小さな二枚折の蔭から、友染の
掻巻の
裾が
洩れて、
灯に風も当たらず
寂莫としてもの寂しく
華美な死体が
臥ているのは、蝶吉が
冊く人形である。掻巻はいつも神月と添寝した
五所車を染めた
長襦袢を
裁ったのに、
紅絹の裏を附けて、藤色
縮緬の
裾廻、綿も新しいのをふッかりと入れて、
天鵝絨の襟を掛けて、黄八丈の
蒲団を二枚。畳を六ツに仕切ったほどの処へ、その屏風、その枕、小さく揃えて寝かした上の、天井には
犬張子の、見事大きなのが
四足をぶら下げて動きもせず、一体
遣りッ放しのお
侠で、自転車に乗りたがっても、人形などは持ってもみようと思わない
質であったのが、
児を
堕したために神月との縁が切れて、因果を含められた時始めて罪を知って、言われたことを得心してから、縁なればこそ折角腹に宿ったものを、
闇から闇へ遣った児に、やがて追い着いて手を引くまで、
詑をする気でこうしている。あたかも
活きたるものを愛するごとく、起きると着物を
着更えさせる。抱いて
風車を見せるやら、
懐中へ入れて小さな乳を
押付けるやら、枕を
竝べて寝てみるやら、
余所目にはまるで
狂気。
「ああ、
天窓が重い、胸が痛い、体中がふらふらする、もう寝ようや、」
蝶吉は枕を
竝べて、着たまま横になって
裾を伸ばして、
爪先を
包んだが、玉のような
腕を人形の
掻巻の上へ投げ掛けて、ぴったり寄って頬を差寄せ、
「坊や、ちょいと、どうしたの、お
母ちゃんは
可けなくッてよ、すっかりお花を引いて負けて来たわ。二晩ちっとも寝ないんだもの、天窓が割れるようなの、悪いわねえ、穴蔵ン中でお前、六人一座でさ、
灯は
点け通しだし、息が苦しくなると、そこらへ酢を打つのよ。
私はもう死ぬようだ。お前のお
父ちゃんに叱られてから、お花なんざ引くまいと思って、水も
沸したんでなくッちゃ飲まないでいたけれども、お
母ちゃんはお
暇が出たんですもの、体を大事にしたって
詰らなくなってよ。だから、
最初ッから、お前さんに棄てられると、
私はどうなるか知れないッて、始終いっていたのにさ、
打遣ってしまってさ、そして
軽忽なことをするなッて言ってくれたって
私は知りません。天窓へぴんと来るような五円花でも引かなくッちゃあ、自分で生きてるのか何だか分らないもの。
だけどもねえ、身でも投げて死んじまうと、さも
面当にしたようで、どんなに心配を懸けるか知れないし、愛想を尽かされると、死んでからも添われないと悪いから。何も
私を
厭なんじゃない、世間の義理だからって言うんだけれども、何だか自分勝手のようだわねえ。
どうせ早く死にたいんだから、何だって、構やしない。坊や、お前でも生きてるなら
可いけれど、目ばッかりぱちぱちしていて、何にも言わないんだもの、
張合も何にもありやしない。
私も死んじまったら、死んだものと、死んだものとだから、お前も口を利くだろう。少しも分らないでした事だから、堪忍することはするッて、お
父ちゃんもそうお言いだから、坊や、お前も
酷いことをされて、鬼とも
蛇とも思ってようけれど、堪忍して、
母ちゃんと言って頂戴な。」
と
摺着いたが、がッくり
仰向き、薄い
燈火に手を
翳して見た。
「おやおや、
痩せたわねえ。
徹夜をして、湯にも何にも入らないから、黒くなったよ、段々痩せて消えれば可いな。」
と袖口を
掴んで肩の
辺まで、
撫で下げると、上へ伸ばしていた着物は飜って、二の腕もあらわになった。
柔肌に食い入るばかり、金
金具で留めた
天鵝絨の
腕守、内証で神月の
頭字一字、神というのが彫ってある。
蝶吉は
清しい目をぱっちりと

って、
恍惚となったが、枕を上げると
突然忘れたように食い付いた。腕守を
噛んで、
頭を振って、髪を
揺ぶり、
「厭よ、
私厭よ、別れるのは厭、厭! 厭だ、厭だ、別れるのは厭。」と、
泣吃逆をして、身を
顫わし、
「写真くらい見たって、可いじゃないかね、
可けないかい、ええ、構うもんか。
私はもう、」
むッくり起上ろうとすると、
茫然犬張子が目に着いた。
「はッ、」という
溜息で、またばったり枕に就いたが、舌打をして、
「寝ッちまえ!」
と
縋り寄り、
「
私も端の方へ入ってよ、坊や、さあ、お乳。」
といって、見得もなく、懐を
掻開けて、ふッくり白いのを持ち添えて、と見ると、人形の顔はふッと消えて無かったのである。
「おや、おかしいねえ、」と
吃驚して
屹となったが、蝶吉は出がけに人形の顔を
掻巻の襟で隠しておいたのに気が付いた。
「まあ、さっきから顔が見えたようだっけ、それじゃあ、
俤だったかしら。」
思わず
悚然として、あたりを見たが、
莞爾して、
「ちょいと、
肖ていると思うもんだから、お前は生意気だね。」といって掻巻の上を軽く叩くと、ふわりと手が沈んで
応がない。
「あれ、」とばかりで、考えたが、そッと襟を取って、
恐々掻巻を上げて見ると、
牡丹のように裏が返った、
敷蒲団との間には、紙一枚も無いのである。
蝶吉は我知らず、
「
富ちゃん、」と声を立てて、
真直に跳起きた。
「はてな、」机に
凭りかかった胸を正しく、読んでた雨月物語から目を放して、座の一方を見たのは、谷中
瑞林寺の一間に
寓する、学士神月梓である。
衣帯正しく端然として膝に手を
支いて
熟ともの思いに沈んだが、
借ものの経机を
傍に引着けてある上から、そのむかしなにがし
殿の庭にあった梅の古木で刻んだという、
渠が
愛玩の
香合を取って、
一捻して、
「こんなこッちゃあ
可かん。」と自から
窘めるがごとく
呟いて、
洋燈を見て、再び机に向った時、
室が広いので灯も届かず、薄暗い
古襖の外に
咳く声して、
「先生、御勉強じゃな、」と
[#「と」は底本では「と、」。以下の本では「と」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]いいながら静かに入ったのは、院の住職律師
雲岳である。
学士の前に
一揖して、
「お邪魔を。実はまた一石願おうかと思って、参ったがな、御音読中でござったで、
暫時あれへ控えておりました。何を御覧なさるか、結構なことじゃ。襖越ではござるし、途切れ途切れで文章はよく聞取りませぬが、不思議に先生、今夜の
貴方の御声というものは、実に
白蓮の花に露が
転ぶというのか、こうその
渓川の水へ月が、映ると申そうか、いかにも
譬えようのない、清い、澄んだ、
冴々した、そういたして何か聞いている者までが、引入れられますような、心細い
情ないといったように、自然とうら悲しくなりましたが、一体お読みなされたのは。」と思入った風情である。
梓はト胸を突いた様子で、
「希代なことがあるんですよ、お
上人、読んでいましたのは御存じの雨月なんですが、私もなぜか自分の声に聞き
惚れるほど、時々ぞッぞッとしちゃあその度に美しい冷い水を
一雫ずつ飲むようで、
唾が涼しいんです。近頃はどういうものか、ものを言うにさえ、唾がねばって、舌がぬめぬめして心地の悪さといったらなかったんですが、まあ、体が半分水になって、それが解けて
行くようで、月の雫で洗ったようです。それでいて
爽かな
可い心持かと思うと、そうじゃない、ここン処が。」といいかけて、梓はうら寒げに、冷たい
衣の上から胸を
圧えた、人にも逢わず
引籠って、二月
余、色はますます白く、目はますます涼しく、唇の色はいやが上に赤く、髪はやや延びたが、
艶を増して、品
好く
痩ぎすな俤は、見るともの
凄いほどである。
「
胸騒ッていうんでしょう。」
「痛いのかと思うとそうでもなしに、むず
痒い、
頼ない、もので
圧えつけると
動気が
跳る
様で切なくッて
可けません。
熟としていれば倒れそうになるんですもの、それを紛らそうといつになく、声を出して読み出したんですが、自分で
凄くなるように、
仰有れば成程
良い声というんでしょうか。」
「なかなか、
幽冥に通じて、餓鬼畜生まで耳を傾けて微妙の音楽を聞くという音調だ、妙なことがあるものでございますな、そして、やはりお心持は。」
「
憑物でも放れて行ったように思うんですが、こりゃ何なんでしょう、いずれその事に就いてでしょうよ、」と
微かに
笑を含んで、神月は
可愧しげに上人が白き
鬚ある
棗のごとき
面を見た。
「どうしても思い切れなかったんです、実は
······。」
ここに梓が
待人、
辻占、畳算、夢の
占などいう迷信の
盛な人の中に生れもし育ちもし、且つ教えられもしたことを
予め断っておかねばならぬ。
はじめ蝶吉と歌枕で
逢曳の重なる時分、神月は玉司子爵の婿君であったから、
一擲千金はその
難しとせざる処、蝶吉が身を苦界から救うのはあえて困難な事ではなかった。
もっとも
他と違い、神月は、
己が既往の経歴に徴して、花街にあるものの、かえって、実があって、深切で、情を解して、殊に一種
任侠の気を帯びていることを知ってはいたが、さすがに清い、美しい体のものだとは思わない。そのほとんど、
掌にも、額にも、
悪汗一ツ
掻いたことのない、
黒子も擦傷の
痕もない、玉のごとき身を投じて、これが歌枕の一室に、蝶吉と
衾を同じゅうする時は、さばかり愛憐の情は燃えながら、火中一条の冷竜あって身を守り、
婀娜窈窕たる佳人にも梓の肌を
汚さしめず、幾分の間隙を枕の
間に置いたのであるが、
一朝、蝶吉はふッと目を覚して、
現の梓を揺起して、
吃驚したようにあたりを見ながら、夢に、
菖蒲の花を三本、
莟なるを手に提げて、暗い処に立ってると、
明くなって、
太陽が
射した。黄金のようなその
光線を浴びると、見る見る三輪ともぱっと咲いた、なぜでしょう、といって、
仇気なく聞かれた。梓はあたかも悪夢に襲われて、幻の
苦患を
嘗めていた、冷汗もまだ
止らなかったくらいの処へ、この夢を話されて、
面を赤うするまで心に恥じた、あわれ泥中のこの白き
蓮に比して、我が心かえって
汚れたりと、学士はしみじみ蝶吉の清い心を知った。
その時と、いま一度は、蝶吉がしかるべき軍人の一座の客に呼ばれたが、言うことが
癪に障った上に、酔って懐の玉を探ろうとしたので、
癇癪を起してその
横顔を平手で
撲ると、
虎髯を
逆にして
張飛のように腹を立て、ひいひい泣入る横腹を
蹴つけたばかりでは合点せず、その日の主人役が客に
済ずとあって、
死だもののようになってるのを引起し、二人両手を取って、
小刀で前髪を切って、座敷をつッ立った。居合した朋輩も、女中も、
駈上った若い者も、
顫えるばかりで、
取おさえ手もなかったといって、梓に
顫着いて
口惜がった時には、
耐らずその場から車に乗せて、これをわが
園へ移し植えようと思ったのである。
もとよりその時には限らない、
[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]女は迷惑を懸けようとはしないで、一生
芸妓をしているから、変らず見棄てないでさえくれれば
可いというのだけれども、いうがごとく、聞くがごとく、はたそれ見るがごとき気性の女、梓は心の動くごとに
勤を
落籍そうと思わぬことはなかったが、
渠が感情の上に、先天的一種の迷信を持ってるというはここのこと。
一体、天神様の境内で、恩を謝す心を決して以来、その機会がなかった処、翌年一月、伊予紋で、大学出の人の新年会があった。一座の
中に蝶吉が居た。また一座の
中に、下宿の二階に住んで六畳の半ばを
蔽う白熊の毛皮を敷いて、ぞろりと着流して坐りながら、下谷の地を操縦する、神機軍師
朱武あって、
疾より秘計を
囲らし、兵を伏せて置いたれば、酒半ばにして
哄と
矢叫の声を立てて、
突然梓の
黒斜子に五ツ紋の羽織を奪って、これを蝶吉の肩に
被せた。嬉しい! と手を通して
出の
三枚襲の上へ羽織ると
斉しく
引緊めて、
裾を引いたまますッと出て座敷を消えると、色男梓君のために、健康を祝してビールの満を引くもの
数をしらず。梓は丸腰の着流し、あたかもお
館の
法度を犯して裏庭から
御台のお
情で落ちて
行くように、
腕車で歌枕に送られたが、後を知らず、顔色も悪く未明に起きると、帯を取って、
小取廻に
尖を渡して、本式に畳んで置いた
袴の腰板を取ってあてがい、着たまま
枕頭に坐って介抱していた蝶吉が
件の羽織を
惜そうに脱いで被せた。人肌のぬくみも去らず、身に染みた
移香をそのまま、梓は
邸に帰って、ずッと通ると、居間の中には女
交りにわやわや人声。明けて入るのを、
小間使が、あれといって、手を突く間もなく、一人が
背後からぴッたり閉めた。雨戸は
半開のまま、朝がけの
軍に
狼狽えたような形。
払を持つやら、
箒やら、
団扇を
翳しているものやら、どこに
透があって立ち込んだか、
鶯がお居間の中に、あれあれという。
鴨居から飛んで、到来ものを飾った雪の積ったような満開の梅の盆栽の枝に
留ったのを、逃がすなと箒を突出すから、梓は引留めながら件の羽織を脱いで、はらりと投げたのが、中に鶯を包んで落ちた。
手を入れて労り取って、二十四の梓は嬉しそうに、縁側を伝って夫人竜子の
寝室に
入って、
寝台の枕頭に
押着けて、呼起して、
黄鳥を手柄そうに見せると、冷やかに一目見たばかり。
(私はまだ起きる時間ではございません。)と
背後も向かず自若として目を
瞑った。その時も梓は顔の色を変えたのであるが、争うこともせず。
(失礼、)といってずッと出て、廊下に立ちながら
籠を命じ、持って来る
間を、手では、と懐に入れながら、
見霽の湯島の空を眺めている内、いかなる名鳥か
嚶々として、三
度、梓の胸に鳴いたのである。
が、籠が来て懐から出そうとすると、羽ばたきもしないので、早や
馴れたかと思うと、あわれ、翼をちぢめて目を落していたのである。
蒔絵の鳥籠に、
件の盆栽の梅を添えて、わざわざ葬らせに
使を出した。以来心に
懸って、蝶吉を
落籍そうと思うたびに、さることはあらじと知りながら、幼い時からの感情で、羽織の
同一のが兆をなして、恐らく、我が手に彼を救うてこれを掌中の玉とせんか、時を
措かず砕けるのである。日もあらず煩いでもするのであろう、むしろ、
生命が長くあるまい、と思う念に制せられて、その
寿を欲するために、常に
躊躇していたのであったが。
「
······一旦縁を切ってしまった上では、私が心持にも、また世間の義理にも、
疚しいことはないんですから、それが未練というんでしょう。そのうち玉司へ行って、
表向縁を切りかたがた、あの男は
手切を取ると言われても構わない。
芸妓を
落籍せると隠さずにいって、
金子を取って、それで、勿論二度とかかりあいはしない
意じゃありますがね、苦界だけは救って素人にしてやろうと、お上人、
可愧いんですが言います。実はそれを心
楽みにして、幾分かまだまるッきり離れてしまわないような気で、当分逢わないだけだというような心持でおったんです。
先刻私を尋ねて来た、品の
可い老女があったでしょう。彼は玉司に昔から勤めている
取しまりで、何十年にも奥からは出た事がない、まだ鉄道はどんなものだか知らない女で、竜子の乳母なんですが、実はその用で参ったんで、私にまた帰れっていいます。それとはあんな御気性だから、
怪我にも
仰有りはしないけれども、何をいったって、初めて男を知ったお姫様だ。
貴方が内を出てからは、
鬱々として人にもお逢いなさらない。
医者は神経衰弱だというそうですが、不眠性に
罹って、三日も四日も、
七日ばかり一目もお
寝みなさらない事がある。悩みが
一通じゃない。この間もうとうとしかけた処へ、縁側を通った腰元が
跫音を
立て、それがために目が覚めたといって腹を立って、
小刀を投付けて、もうちっとで腰元の胸を突こうとしました。
この頃じゃ、まるで
一室の外へも出て来ないような始末。見かけはどんなでもよくよく心を知ってるのは、乳母だから、私に帰れ。
承れば大分御謹慎で、すっかりお
品行も治ったそうだって、そういうことでございました。
随分片意地な老女が、
我を折っていましたから嘘じゃあありますまい。
成程それではあんな
夫人でも私をそれまでに思ってくれるのが
解りましたが、こうなった上のこと。
謹慎をしているのは、あえて辛抱を見せて、玉司の家に帰りたいためではないから、断然、これッきりだと思ってくれ、私の
引籠って身を責めているのは、ただ先祖に対して済まないと思うからだ。
ときっぱりいって帰しましたよ。」
「ふう、」と上人は
頷いて、じっと考え、
「いや、段々お心が静まって来て、
好い御返事をなされた、結構じゃ。」といいかけて、梓のもの寂しげなる顔を見て、
「それでさっぱりとなされたかな。」
「ええ、さっぱりしたそのせいだろうと思うんです。まだ、金の
蔓があって、一式のことに
落籍して素人にしてやろうと、内々思ってました内は、何かしら心の底に
温があったのを、断然、
使を帰した上、夫人の心も知れて見れば、いかに
棄身になった処で、無心などいえたものじゃあない。そうすりゃお蝶の方も、もうあれッきり、ふッつり切れた、私はこう
孤島に独り残されたようで心細い、
胸騒のするのはそのために違いないんです、
[#「、」は底本では「。」。以下の本では「、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]お
可愧いね、」といった清らかなる学士の笑顔はうら寂しい。
「ははあ、いや、お若い
中また余り悟り
澄さないのも
宜しかろう。たんと迷わっしゃるも面白い。」とこの人こそ悟り切ったらしいことをいって、
呵々と笑って、
行きがけに大音で、「誰ぞ先生に茶を上げい。」
梓はまた机に向ったが、木の角では、心の
跳るのが押え切れず、胸騒がする、気が
鬱ぐ、もう引入れられそうで
耐えられなくなって、
香の
薫に染みた不断着をそのまま、かかる時、梓が
行くのは必ず湯島。
「
富ちゃん、ちょいと、富ちゃん、
私の人形を知らなくッて、」
あたふた
狼狽えたようなものの
気勢、
癇癪交りに呼んだのは蝶吉である。
「一件だ、」と、これを聞いてかねて心得たもののごとく、源次は
傍に目配せした。
「来ましたね。」と
低声でいって、訳もなく
天窓を叩いて
竦んだが、円輔は、えへん!
声繕をして二階に向い、
「お蝶さん、何ですか、人形。人形どころかい、そこどころじゃあない、大変なことがありますぜ、ちょいと大したこッた、
豪いこッたよ。」
「何、」と切って棄てたような、つッけんどんなもの言いである。
「まあさ、ちょいとおいでなさいていこッた、こッたの
性なら下まで来いだよ。」
「富ちゃん、富ちゃんてば。」
蝶吉は取合ずに、
雛妓ばかり呼立てる。
「まあおいでなさいっていうのに、何ですぜ、ちょいと、大変なこった、お蝶さん、神月の旦那から、」
「ええ、」
「それ見ねえ、」と源次がちょいと突いて、にやりと笑うと、円輔は
大乗地で、
「旦那から、もし小包郵便が来たんですぜ。」
「ええ。」
「神月さんからお届けものだ。」と源次も
傍から口を添える。
「知りませんよ。」と邪険には言ったけれども、そのうち
自ら
和のある、
音色を下で
聞澄して、
「御存じの
筈ですが、神月さんといやあお前さん、」
「
可いよ。」
「
宜しくばお
止めになさいまし。」と大いに澄し、顔を見合せて
黙りとなった。
「富ちゃん、」
「そら、また富ちゃんだ。」といって円輔は、敷居の処まで来て立っている雛妓を見て
屹と目で知らせた。
「
私は知らないの。」
しばらくして、声も優しく、
「いいえ、小包さあ、」
「本当だってば、何を疑るんだな。」と源次は大真面目でいる。
「嘘ばッかり、」といいながら、ちょいとためらった様子であったが、
階子段がトンと鳴った。
下から仰山に遮って、
「ちょいとお待ちなさい、お蝶さん、
請取がいりますぜ、いらっしゃるなら、どうぞ、御懐中物を御持参で、」
「宜しい、」と男らしく派手に
爽にいった。これを
機掛に、蝶吉は人形と添寝をして少し取乱したまま、しどけなく、乱調子に三階から下りて来て、
突然、
「どこにさ、」と
嬰児の
強請るようにいいながら、人前を澄した顔。
「気が
疾いな、どうも、師匠出してやりたまえ。」
「まずお受取を頂戴いたしたいような訳で。」
「すッかり負けて来たんですからたんとはなくッてよ。」
「豪い!」といいさま、
小紋縮緬で裏が
緞子、
同く薄ッぺらな羽織を
飜りと
撥ねて、お納戸地の帯にぐいとさした扇子を抜いて、とんと置くと、ずっと寄って、紙幣を請取り、
「何にいたしましょうな。」
源次は取片附けて、
「まあ、師匠。」
「じゃあちょいと升どん。」
勝手から、
「
御馳走様ですね。」
「さてはや、何でげすえ御到来物は。」と円輔は
洋燈の方へ顔を突出し、源次は柱に
天窓を着けて片陰で
仰向いた、この両人、
胴中を入違いに、長火鉢の前で形が
X。
「どうもお相伴を
難有うございますよ。」と
向へ坐ったのは、
遣手が老いたりという
面構、
目肉が落ちたのに美しく歯を染めている、
胡麻塩天窓、これが秘薬の
服方、
煎法、
堕胎した後始末、体の養生まで一切
取計った、口の臭い、お倉という
婆である。
蝶吉は、
確に小包を請取ったので、かくとは思い懸けず、慎みながら、若いから、今も今で、かねていいつけられて
窘んだ、
花札を引いて、気の衰えるまで負けて帰ったので、済まなさも済まないし、嬉しさも嬉しければ、包んでも色に出る
極の悪さ。震える手で
明い処へ持出して、顔を見られまいと、
傍目も
触らず、血の上った
耳朶を
赧うして、可愛らしく
畏って、
右見左見、
「おやおや、
大倭家内松山峰子様行と書いてあるねえ。」
「峰子様、よッ。」と
懸声をするは円輔なり。
「
可くッてよ、」と
可愧しそうに、打返してまた裏を見た。
「神月より、
······おや、
平時の字と違ってやしなくッて?
······何だか手が違ってるようだねえ。」
あえて疑うというではないが、まさかと思う心から人にも、確めてもらいたいので、わざと
不審げに
呟いた。
「わざッと手を替えてお書きなさいましたあね、そりゃ、お前さん。」と
[#「と」は以下の本では「と、」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)。『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)では「と」]婆々は極めて
鹿爪らしい。
「そうねえ、何だか包が大きいわねえ、何だしら。」
玉手箱
[#「玉手箱」は底本では「王手箱」。以下の本では「玉手箱」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]という形で両手に据えながら目を
瞑る。
「何でげしょう。」
「何だか、」
「そうさね。」
「一番あてッこで、
丁と出たらまた頂戴は、どうでげすえ。」
源次は
鷹揚に、
「
下司張るな下司張るな。」
「どうせ
詰らないものよ。」と蝶吉は笑いたそうにして
押耐える。
円輔は例に因って、
「よッ!」
「沢山おひゃらかして下さいな。」と怒ったのでも何でもない、いそいそ膝の上へ
抱下して
斜にした。
蝶吉は
簪を抜いて、そっと持って、
「邪険に封をしてさ。」といいいい、名工が苦心の
眼で、
瞶めて、簪の
尖で、封じ目を切って
解く。
上包はくるくると
開いて、やまと新聞の一の面が
颯と膝の上に広がった。中は、中は、手文庫ばかりの白木の箱。
「さあさあ
御覧じろ、封が
解るに従うて、お蝶さんの、あの顔が段々
弛んで来る処を、」
「どういう訳だか、不思議なもんさね、」と源次郎は
憎体な。
「
私沢山だ。」
「何もお前さんそんなにつんとすることはないじゃありませんか、頬を膨らしてさ。」
「一生懸命でおいで遊ばす、さあ、
耐らない。ほれ、」
「それ笑った。」
蝶吉は
莞爾して、
「御免なさい、」というかと思うと、
引攫うように小包を取って、
裳を蹴返すと二階へ、ふい。
驚いたのは円輔である。ぐんにゃりとなって、
「
豪い!」
「堪忍なさいな、
私は見向いても下さらないんだと思って、
自暴よ、お
花札なんか引いてさ、堪忍して下さいな、
可くッて。おまえ
様の深切を無にしたようだけれど、だってしようがないんだもの。これからきっと大人しくしますから。いいつけた
通にしていると思っていらっしゃるんだよ。悪かったわねえ。それでも開けても可くッて。嬉しいなあ、」と胸を
抱しめて身を
顫わした。この
音信があったので、許されたもののように思われて、蝶吉は二階に
上ると、まずその神月の写真を懐に抱いたのであった。
それでも箱の中が気に
懸って、そわそわして手も震い、
動悸の躍るのを忘れるばかり、写真で
圧えて、一生懸命になって
蓋を開けた。
箱の中には紙にも包まず裸の人形が入っている。
ふっと見て少し色を変えて、
「おやおや、おかしいねえ、あてッこすりに
寄越したのかしら、
私をこんなにしておいて、まだそんなことをする方じゃあない、」とこの時気が付いたのは、自分の人形のことである。
蝶吉は夢のような心持がして、気味悪そうに、
灯の暗い、
森として、片附いた美しい二階の座敷を

したが、そうだ、小包が神月からというのに
顛倒して忘れていた、
先刻を思出すと、
悚として、ばたりと箱を落して立ち、何を
憚るともなく、
浮足で、
密と寄って、
蒲団を上げて見ると何にもない。思切って、白い手を冷い小さな
閨の
中に差入れると、丹精をして着せておく、筒袖の着物に
襦袢、
縮緬の書生帯まで
引くるめて、
円げてあった。蝶吉は、
呼吸を詰めて、
唾を呑み、座に直って、引寄せて、
熟と見て
蒼くなった。涙をはらはらと落して、震い着いて、
「坊や、」とばかり、あわれな
裸身を抱え上げようとして、その乳のあたりを手に取ると、首が抜けて、手足がばらばら。
胴中の丸いものばかり蝶吉の手に残ったので、
「
厭!」と声を上げざまに、蛇を
掴んだと思って、どんと投げると、空を切って、姿見に映って落ちた。
「あれえ。」
下階では
哄と笑う声、円輔は
屹と見得をして、
「今のは
確に、」
「
叱!」と押えて源次はしてやったという
顔色。
「雲井の印紙を
引剥がして、張り付けて、筆で消印を押したお手際なんざあ、」
「どんなもんだい。」
「いや、御馳走様でございますよ。」
「
口惜しい!」と泣く声が細く耳を貫いて響いたが。
下じめの端を両手できりきりと
〆めながら、
蹌踉いて二階を下りて来た、蝶吉の血相は変っている。
顔も蒼白く、目が
逆釣り、
口許も上に反ったように歯を
噛んで、驚いて見る下地ッ子の小さな手を砕けよと掴んでぐッと引着けた。
「あれ、
姐さん。」
「さあ、言っとくれ、言っとくれ、承知しなくッてよ、
私の、私の人形をあんなにしたなあ誰だ。いいえ、知らないッたって
不可いの、あんなにお前さんにも頼んでおくものを、
······」と力を
籠めておさえるようにいったが、ぶるぶる震える、額には筋が通った。
「手も足もばらばらよ、
酷いッたら、酷いことよ。さあ、誰だか、いっておしまい、いえ、聞かしておくれ。蔭になり
日向になり、しょっちゅう
庇ってやる姐さんだ、お聞かせなね、ええ! 畜生言わないかい。」
「痛い、痛い、姐さん。」とべそを
掻いてたのがわっと泣出した。
「ま、ま、お前さん何でございます、手荒なことを。」と
婆は居合腰に伸上って、
袂を取って分けようとするのを、
身悶して振払い、振向いて
屹と見て、
「お
婆さん、お前にも
私は
怨があってよ、
可い加減なことをいって
誑してさ、お
肚が痛むか
擦ろうなんぞッて言っておくれだから、深切な人だと思ったわ、悔しいじゃあないかね。畜生、放せ、何をするのよう。」
「おや、
恐い、恐いこッた。へん、」と
太々しい。
血眼でもう
武者振附そうだから、
飽気に取られていた円輔が割って入った。
「さてはや、」
「ええ、手前達の手を触る体じゃあないんだい、御亭主が着いてるよ、
野幇間め、」と平手で横顔をぴたりと当てる。
天窓を抱えて、
「
豪い、」と
吃驚。
「亭主持が
凄じいや、
向から切られた癖に、何だ、取揚婆のさかさまめ、」まさかにこうとは思い懸けず、いやがらせをやって、
嬲って
奢らせた上、笑い着けて、下駄の
肚癒をして、それから、仲直りをして、ちょいと悪党な処を見せて、そこらで思い着かれようという際限のない
大慾張、源次は源次だけの
考で、既に今夜
印半纏で、いなって
反身の始末であったが、
悪戯も、人形の手足を

いでおいたのに
極って、蝶吉の血相の容易でなく、
尋常では
納りそうもない光景を見て、居合すは
恐と、
立際の
悪体口、
「ざまあ見やがれ、」と
ふてを
吐いて、忘れずに
莨入を取って差し、
生白い足を
大跨にふいと立って出ようとする。
「待ちゃあがれ。」
「ええ、」
「
悪戯をしたなあ、源の野郎、
手前だな。」
「いいえ、私だ。」とすっきりいって、ずッと入ったのは大和屋の
姐さんで、
蔦吉という
中年増。腕も器量も
凄いのが、
唐桟ずくめのいなせな
形で、
暴風雨に屋根を取られたような
人立のする我家の帳場を、
一渡
しながら、悠々として、長火鉢の向側、これがその座に敷いてある、
黒天鵝絨の大座蒲団にきちんと坐って、「寒い。」と肩を一つ
揺っておいて、
「
皆静にしておくれ、お蝶さんお前もおすわり。」
「何ですッて、」と蝶吉は目を据えて立ったまま、
主婦が
方に向直って、
「悪戯をしたなあ、お前さん、」と
屹という。
「あい、私さ、」
「何、」
「
突立って、何だ。」
「坐ったらどうおしだい。」
「おやおや、この
女は、目が
上ってるよ、水でもぶッかけておやんなね。」
「まあ、姐さん、」とばかりで
[#「で」は底本では無し。以下の本では「で」有り。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]円輔は
遣瀬がない。
「お蝶私は主人だよ。」
「は、
私お前さんの
抱妓じゃありません、誰が、そんな水臭い、分らない
奴に抱えられるもんか。人が知らないと思ってさ、薬を飲ませてさ、そのせいで、
私逢えないんじゃありませんか、命もいらない人よ。あんまり
思遣がない、何が気に入らないで、人形を壊したのよ、よ。お前さんは悪いことを、ようく知ってて
私に教えてさ、無理にあんなことをさせておいて、まだ足りなくッて。畜生! 義理知らず、お前さんの
出は田舎じゃあないか、
私はね、仲之町で育ったんです。」と蝶吉は
急き上げて言うこともしどろである。
「黙れ、黙れ、黙れ、ええ黙らないかい。」といいさま持ってた
長煙管で蝶吉の肩をぴしと打った。
「畜生!」
「生意気な、文句をいうなら借金を突いて
懸るこッた、
分が何だい、
憚ンながら大金が
懸ってますよ。そうさ、また仲之町でお育ち遊ばしたあなただから、分外なお
金子を貸した訳さ。しッ
越もない癖に、
情人なんぞ
拵えて、何だい、
孕むなんて不景気な、そんな体は難産と
極ってるから、血だらけになって死なないようにとお慈悲で
堕してやったんだ。商売にも障ります、こっちゃ何も
慰に置くお前じゃあない、お姫様も
可い加減にしておくが可いや、
狂気。
朝から晩まで人形いじくりをし通されて
耐るもんか、
外の
妓にも障るんです、五人六人と
雑魚寝をする二階にあんなもの
出放しにしておかれちゃあ邪魔にもなるね。
面も生ッ
白いし、芸も出来て、ちったあ売れるからと大目に見て、我ままをさしておきゃあ附け上って、何だと、畜生。もう一度いって見ろ、言わなきゃあ言わしてやろうか、」
と乗上って火鉢越に、またその
頸のあたりを強く
打ったのである。
「神月さん!」と蝶吉は半狂乱で悲鳴を上げる。
「まあさ、まあさ、姉さん。」と円輔は
手持不沙汰なのを
頻に
揉む。
「一体口が過ぎるんですよ。」と婆はねッつり。
「いいえ、たまにゃこんな目に逢わせておかないとね、いい気になってつけ上りまさあね。神月さんがどうした、向うから突出された癖に何だい、器量の悪さッたらありやしない、呼べるなら呼んで見るが可いや。」
「ええ、呼べなくッて、」と
泣々いいながら、立とうとするのを、婆がむずと
掴まえた。
「お前さんは。」
蝶吉は弱々となって
崩折れて、
「悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、
皆で
私を、私をどうするのよ。どうせ死ぬんだから、さあ、殺しておしまいなさいなね、さあ、さあ、」と小供が
捏々をいうごとく、
横坐になって、顔も体も水から上ったようにびッしょり汗になりながら、
投遣りに
突かかる。
「殺して
耐るもんか、
大枚のお
金子だあね、なあお婆さん。おほほほほほ。」
「さようでございますとも、ははははは、」と笑いつけてあえて
不関焉。
真蒼になり、髪も乱れて、
泣吃逆をしいしい、
「殺さなくッたって
可いのよ、可いのよ、
厭なら
止せ、
私どうせ死ぬんだから。そして、あの
皆神月さんに
言付けてやるから覚えているが可い。
私誰も構っちゃあくれないんだもの、世間にゃあ、鬼ばッかり。」とはや血が狂ったか舌も
縺れて他愛がない。
「ええ、性根をつけないかい!」と、力なく
己を捕えた敵の
腕、婆の膝によりかかって肩で息を
吐いている、胸の処を、また一つ煙管で
撲った。
途端に糸切歯をきりりと
鳴して、
脱兎のごとく、火鉢の鉄瓶を
突覆すと、
凄じい音がして
※[#「火+發」、U+243CB、397-11]と立った灰神楽、灯も暗く、あッという間に、蝶吉の姿はひらひらとして見えなくなる。
「待て、」と
縋って戸口で押えたのは源次であった。
物をも言わず、
据った瞳で、じっと見るや、両手に持った駒下駄を
襷がけに振ったので、片手は源次が横顔を打って
退け、片手は
磨硝子の戸を一枚
微塵に砕いた、蝶吉は飜って出たと思うと、糸を
曳くように
颯と
駈ける。
「こりゃ、待て。」
学士は
胸騒がして、瑞林寺のその
寓居に胸を
圧えて坐するに忍びず、常にさる時は
行いて時を消すのが例であった湯島から、谷中に帰る
途の暗がりで、
唐突に手を捕えたのは一名の年若き警官である。
梓は気も心も沈んでいたから少しも騒がず、もとより驚く
仔細はない。
静に顧みて、
「私、」
「どこへ行くか、あッ貴様は。」
言葉も荒く、ものに激しているようである。
「谷中の方へ
行くんですが、」
「うむ、墓原へでも寝に
行くか、嘘を
吐け! き様
掬摸じゃろう、」とほとんど
狂人に
斉しい
譫言を言ったけれども、梓はよく人を見て、この年少巡査があえて我を
誣いんとする念慮のあるのでもなく、また罪人を
悪む情が
烈しいのでもなく、単に職務に熱誠であるため、自ら抑うることの出来ない血気に
逸るのであることを知った。
「
貴方御心配には及びません。」と
微笑むばかりに涼しく答える。清らかなその
面を見ても、
可懐しい
香の
薫の身に染みたのに聞いても、品位ある青年であることが分るであろうに、警官は余り職務に熱心であった。
「名を言え、番地はどこか。」
「
············」
「こら!」と驚くべき声で
詈り
喚く。
あえて
憚る処はないけれども、
名告るは惜しい名であった。神月はいい
淀み、
「玉
······月、」とばかり言葉が濁る、と
聞免さず、
「玉
······玉
······玉何だ、」と畳みかけて尋問する。
「玉月、あ、秋太郎です。」といったが我にもあらず
狼狽たのである。
「
家は、」
「下宿して、」
「どこだ、何というか、うむ、
疾く言わんか。」と
急き立てられて、トむねをついて
猶予って、悪いことをしたと思った。
横顔を
一拳、
拉げよと
撲りつけて、威丈高になって、
「来い、」
蒲柳の公子は生れて以来、かばかりの恥辱を与えられたことをかつて覚えぬ。夜目にこそ見えね色を
作して、
「君!」
「馬鹿いえ、君たあ何か、」といいざまに
横撲に
払く手を、しっかと取ったが声も震えて、
「名を言おう。」
「何い。」
「神月梓というんだよ。」といいながら手を向うへ
押遣ったが、
吻と息を
吐いて
俯向いた。学士はここで名乗った名が
太くも
汚れたように感じたのである。
警官はこれを聞くと、その偽名を語ったゆえんを
詰ろうともせず、たちまち声を
和げて、
「神月かね、」
「用があるんですか。」と、
憤はまだ消えず
冷かに答えた。
「さようか、何にしても交番まで、」といって、巡査はその仔細を語った。
ちょうど今しがた、根津の交番で、
太く取乱した女が一人
掴ったが、神月という人を尋ねるのだとばかりで、
取留のないことを言っている。
最初その女が路を歩いている時
背後から一人
跟けて来た男があった、ということを通行人が告げたので、女は
身装の
可い上に、容色が抜群であるから、掬摸か、何ぞ悪意あって尾行したものであろうという鑑定で、女を取調べる
旁その悪漢の手当に巡行を命ぜられたものである。
語りかけて巡査は
嘲けるがごとく梓を見て、
「ふむ、
色狂気の亭主だな。」
しかり、==色狂気の亭主
[#「亭主」は底本では「亨主」。以下の本では「亭主」。『鏡花全集 卷五』(岩波書店、昭和49年3月4日 第2刷發行)、『鏡花全集 巻四』(春陽堂、大正15年9月25日發行)、『湯島詣』(春陽堂、明治32年11月23日發行)、『湯島詣』(春陽堂文庫、春陽堂、昭和22年10月20日復刊第一版發行)]==これを警官の口から聞くに至って梓は絶望したのである。
されば
冥土を
辿るような思いで、
弥生町を過ぎて根津まで
行くと、
夜更で
人立はなかったが、交番の中に、蝶吉は、
腕を
背へ
捻られたまま、水を張った
手桶にその横顔を押着けられて、ひいひい泣いていた。
帯を解いて下じめと共に
卓子の上に
綰ねてあった。この時まで
嗜んで持っていたか、懐中鏡やら
鼈甲に
透彫の金
蒔絵の
挿櫛やら、
辺に
散ばった懐紙の中には、
見覚のある
繿縷錦の紙入も、
落交って
狼藉極まる、蝶吉はあたかも
手籠にされたもののごとく、三人
懸りで身動きもさせない様子で、一
人は
柄杓を取って
天窓から水を浴びせておった。黒髪も
海松となり、胸も
裾も取乱して乳も
露になって震えている。
梓は
歯切をして、
衝と寄って、その
行為を
詰ったが、これに答えた警官の
語は、極めて明瞭に、且つ極めて正当なものであった。
狂人力で手に合わず、取静めようとして引留めれば、
主のある
身体だ、指を指すなと、あばれ廻って、
簪を抜いて突こうとする。突かれて手の甲に
傷けられたものも一名ある、ようよう
掴まえてからも危険だから、腕は
捻じ上げておかねばならぬ。且つその住所、姓名、身分の
手懸を知るために、懐中物も
検べねばならず、
或はいかなる迫害を途上受けたかも計られないから、身内を検するには、着物も脱がさなければならぬ、もちろん帯も解かんけりゃ
不可い。
逆上て
夥多しく鼻血を出すから、手当をして、今
冷している処だといった。学士がここに来た時には、既にその道を
行く女に尾行した男というのが明かに分っていた。
交番の窓に頬杖を
支いて、様子を見ている一名
紋着を着た目の鋭いのがすなわちそれで、
渠は学士に
怨のある書生の身の
果で、今は府下のある
小新聞に探訪員たる紳士であった。
「やあ、神月。」
これにも答えず、もとより警官には返すべき
言もなく、学士は見る目も
可憐さに死んだもののようになっている蝶吉を横ざまに膝に抱上げた。
「神月だ。」
思わず骨も砕くるばかり、しっかと
縋って離れぬのを、
賺かして、帯をしめさせて、胸を
掻合せてやって、落散った駒下駄を
穿かせて、手を引いて交番を出ようとする時、
「そら忘物だ、」といって
投出して呉れたのは、
年紀二十の自分の写真、大学の制服で、
折革鞄を脇挟んだのを受取って、角燈の灯の
達かぬ、暗がりの中に消えてしまった。が、深更の大路に車の
轆る音が起って、
都の一端をりんりんとして
馳せ
行く
響、山下を抜けて広徳寺前へかかる時、
合乗の
泥除にその黒髪を敷くばかり、蝶吉は身を横に、顔を
仰けにした上へ、梓は頬を重ねていた。その時は二人抱合っていたが、
死骸は大川で
別々。
男は顔を両手で隠して固く放さず、女は両手を
下〆で
鳩尾に巻きしめていた。
この死骸を葬る時、疾風一陣土砂を
捲いて、天暗く、都の半面が暗くなって、矢のごとき
驟雨が注いだ。
柩は白日暗中を通ったが、寺に着く
頃いには、
拭うがごとき
蒼空となった。
墓は、神月梓、松山峰子、と二ツならべて谷中の瑞林寺にある。
弔うものは、梓が生前の三個の信友と、いま一
人、
忍々に
音信るる玉司子爵夫人竜子であるが、姫は一夜、墓前において、ゆくりなく三人の学士にあった時、
哀を請うもののごとく、その自分がここに
詣ずることは、固く秘密を守って世にあらわれぬよう、名にかけて誓われたいといって
跪いたのである。哲学者は直ちに霊前に合掌してこれを誓い、柳沢は卵塔の
背後に粛然として
頷いたが、一人竜田は、柳沢の胸にその紅顔を押当てて落涙しつつ
頭を
掉った。星はその時
煌いたであろう。いかに、紫か、緑か、
燦然として。
明治三十二(一八九九)年十一月