一
真中に
一棟、小さき屋根の、
恰も
朝凪の海に難破船の
俤のやう、
且つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、
此の
広野を、久しい以前汽車が
横切つた、
其の
時分の
停車場の
名残である。
路も
纔に通ずるばかり、枯れても
未だ
葎の
結ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる
小雨を透かして、遠く其の
寂しい
状を
視めながら、
「もし、お
媼さん、
彼処までは
何のくらゐあります。」
と尋ねたのは
効々しい
猟装束。
顔容勝れて清らかな少年で、
土間へ
草鞋穿の
脚を投げて、英国政府が王冠章の
刻印打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、
銃孔は星の如きを、
斜に
古畳の上に
差置いたが、
恁う聞く
中に、其の
鳥打帽を
掻取ると、
雫するほど
額髪の黒く
軟かに
濡れたのを、
幾度も払ひつゝ、
太く
野路の雨に悩んだ
風情。
縁側もない
破屋の、横に長いのを
二室にした、古び
曲んだ柱の根に、
齢七十路に余る一人の
媼、糸を
繰つて車をぶう/\、
静にぶう/\。
「
然うぢやの、もの十七八
町もござらうぞ、さし
渡しにしては
沢山もござるまいが、人の
歩行く
路は廻り廻り
蜒つて居るで、
半里の
余もござりましよ。」と首を引込め、又
揺出すやうにして、旧
停車場の
方を見ながら言つた、媼がしよぼ/\した目は、
恁うやつて遠方のものに
摺りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。
それから顔を上げ
下しをする
度に、
恒は
何処にか
蔵して置くらしい、がツくり
窪んだ胸を、
伸し
且つ
竦めるのであつた。
素直に伸びたのを其のまゝ
撫でつけた
白髪の
其よりも、
尚多いのは
膚の
皺で、
就中最も深く刻まれたのが、
脊を低く、
丁ど糸車を前に、
枯野の末に、
埴生の小屋など
引くるめた置物同然に媼を
畳み込んで置くのらしい。一度胸を
伸して
後へ
反るやうにした今の様子で見れば、
瘠せさらぼうた
脊丈、此の
齢にしては
些と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本
細いのがある
背戸の
榛の
樹立の
他に、珍しい
枯木に見えよう。肉は
干び、皮
萎びて見るかげもないが、手、胸などの
巌乗さ、
渋色に
亀裂が入つて
下塗の
漆で固めたやう、
未だ/\目立つのは鼻筋の
判然と通つて居る
顔備と。
黒ずんだが
鬱金の裏の附いた、はぎ/\の、
之はまた美しい、
褪せては居るが色々、
浅葱の
麻の葉、
鹿子の
緋、国の
習で百軒から
切一ツづゝ集めて
継ぎ合す
処がある、其のちやん/\を着て、
前帯で坐つた形で。
彼の古戦場を
過つて、
矢叫の音を風に聞き、
浅茅が
原の月影に、
古の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の
媼が六十年の昔を
推して、世にも
希なる、
容色よき
上
としても
差支はないと思ふ、何となく
犯し
難き品位があつた。其の
尖つた
顋のあたりを、すら/\と
靡いて通る、
綿の筋の
幽に白きさへ、やがて
霜になりさうな
冷い雨。
少年は
炉の上へ両手を
真直に
翳し、
斜に媼の胸のあたりを
窺うて、
「はあ其では、何か、
他に通るものがあるんですか。」
媼は見返りもしないで、
真向正面に
渺々たる
荒野を控へ、
「
他に通るかとは、何がでござるの。」
「
否、今
謂つたぢやないか、人の通る
路は廻り/\
蜒つて居るつて。だから聞くんですが、
他に何か
歩行きますか。」
「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、
狐も犬も通りませいで。
霧がかゝりや、
歩かうず、雲が
下りや、
走らうず、
蜈蚣も
潜れば
蝗も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、
顧みて
打微笑む。
二
此の口からなら、
譬ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ
処もなし、又
然う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓
桂木氏、東京なる
某学校の秀才で、今年夏のはじめから一種
憂鬱な
病にかゝり、日を
経るに従うて、色も、心も
死灰の如く、やがて
石碑の下に形なき
祭を
享けるばかりになつたが、其の病の
原因はと、
渠を
能く知る友だちが
密に言ふ、仔細あつて世を
早うした恋なりし人の、其の
姉君なる貴夫人より、
一挺最新式の猟銃を
賜はつた。が、
爰に
差置いた
即是。
武器を参らす、郊外に猟などして、
自ら励まし
給へ、聞くが如き其の
容体は、薬も
看護も
効あらずと医師のいへば。
但御身に
恙なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を
籠めた手紙を添へて、両三
日以前に
御使者到来。
凭りかゝつた胸の離れなかつた、机の
傍にこれを受取ると、
額に手を加ふること
頃刻にして、桂木は猛然として立つたのである。
扨今朝、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新
停車場で
唯一
人下り立つて、
朝霧の
濃やかな
野中を
歩して、雨になつた
午の
時過ぎ、
媼の
住居に
駈け込んだまで、
未だ
嘗て一度も煙を銃身に
絡めなかつた。
桂木は其の
病まざる
前の性質に
復したれば、貴夫人が
情ある贈物に
酬いるため
||函嶺を越ゆる時汽車の中で
逢つた同窓の学友に、
何処へ、と問はれて、
修善寺の方へ
蜜月の旅と答へた
||最愛なる新婚の
婦、ポネヒル姫の第一発は、
仇に
田鴫山鳩如きを打たず、願はくは
目覚しき獲物を
提げて、
土産にしようと思つたので。
時ならぬ洪水、不思議の
風雨に、
隙なく線路を
損はれて、官線ならぬ鉄道は其の
停車場を
更へた位、
殊に桂木の
一家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、
屡々易からぬ奇怪の歴史を有する、三里の
荒野を
跋渉して、目に見ゆるもの、手に立つもの、
対手が人類の形でさへなかつたら、覚えの
狙撃で
射て取らうと言ふのであるから。
霧も雲も
歩行くと語つた、仔細ありげな
媼の
言を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの
草鞋の
紐を
解きかける。
油断はしないが
俯向いたまゝ、
「私は
又不思議な物でも通るかと思つて
悚然とした、お
媼さん、
此様な
処に一人で居て、昼間だつて
怖しくはないのですか。」
桂木は
疾く媼の口の、炎でも
吐けよかしと、
然り
気なく誘ひかける。
媼は
額の上に
綿を引いて、
「何が
恐しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、
狼より
雨漏が恐しいと言ふわいの。」
と
又背を
屈め、胸を張り、手でこするが如くにし、
外の
方を
覗いたが、
「むかうへむく/\と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、
此方の方から雲が出て、そろ/\両方から
歩行びよつて、
一所になる時が此の雨ぢや。びしよ/\降ると寒うござるで、
老寄には何より恐しうござるわいの。」
「あゝ、私も雨には弱りました、じと/\
其処等中へ
染込んで、この気味の悪さと云つたらない、お
媼さん。」
「はい、
御難儀でござつたろ。」
「お
邪魔ですが
此処を借ります。」
桂木は
足袋を脱ぎ、足の
爪尖を取つて見たが、泥にも
塗れず、
綺麗だから、其のまゝ
筵の上へ、ずいと腰を。
たとひ
洗足を求めた
処で、
媼は水を
汲んで
呉れたか
何うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、
小笹を風が渡るかと
······音につれて積る
白糸。
三
桂木は
濡れた
上衣を脱ぎ
棄てた、カラアも
外したが、炉のふちに
尚油断なく、
「あゝ、腹が
空いた。
最う/\降るのと
溜つたので濡れ
徹つて、帽子から
雫が垂れた時は、色も慾も無くなつて、
筵が一枚ありや極楽、
其処で寝たいと思つたけれど、
恁うしてお世話になつて
雨露が
凌げると、今度は虫が
合点しない、
何ぞ食べるものはありませんか。」
「
然ればなう、
恐し
気な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた
時分には、客も少々はござつたで、
瓜なと
剥いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。
私が
食る分ばかり、其も
黍を
焚いたのぢやほどに、
迚もお口には合ふまいぞ。」
「
否、
飯は持つてます、
何うせ、
人里のないを承知だつたから、
竹包にして
兵糧は持参ですが、お
菜にするものがないんです、何か
些と分けて
貰ひたいと思ふんだがね。」
媼は胸を折つてゆるやかに
打頷き、
「それならば待たしやませ、
塩ツぱいが
味噌漬の
香の物がござるわいなう。」
「待ちたまへ、味噌漬なら
敢てお
手数に及ぶまいと思ひます。」
と
手早く
笹の葉を
解くと、
硬いのがしやつちこばる、
包の端を
圧へて、
草臥れた両手をつき、
畏つて
熟と見て、
「それ、言はないこツちやない、果して此の
菜も味噌漬だ。お
媼さん、大きな野だの、奥山へ入るには、
梅干を持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、
然うなのかね、」と顔を上げて又
瞻つたが、
恁る
相好の
媼を見たのは、場末の
寄席の
寂として客が
唯二三の時、
片隅に猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、
薪を
背負つて
歩行いて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。
媼は
皺だらけの
面の皺も動かさず、
「
何うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、
一層のこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」
「
然う、」とばかり
見詰めて居た。
此時気だるさうにはじめて
振向き、
「あのまた霧の毒といふものは
恐しいものでなう、お前様、今日は
彼が雨になつたればこそ
可うござつた、ものの半日も
冥土のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、
生命を取られいでから
三月四月煩うげな、
此処の霧は又
格別ぢやと言ふわいなう。」
「あの、霧が、」
「お客様、お前さま、はじめて
此処を
歩行かつしやるや?」
桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと
呑込み、
「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」
「
然うぢやろ、然うぢやろ。」と
媼はまた
頷いたが、
単然うであらうではなく、
正に
然うなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。
「
而して何かの、お前様
其の鉄砲を打つて
歩行かしやるでござるかの。」と糸を
繰る手を両方に
開いてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木は
箸を置き、心で
身構をして、
「これかね。」と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、
小雨の色、
孤家の
裡も、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、
凡て
枯野に描かれた、幻の如き
間に、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青く
閃くまで磨ける鏡かと壁を
射て、
弾込したのがづツしり
手応。
我ながら
頼母しく、
「何、まあね、
何うぞこれを打つことのないやうにと、
内々祈つて居るんだよ。」
「其はまた何といふわけでござらうの。」と
澄して、例の糸を
繰る、五体は
悉皆、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は
少頃も手を休めず。
驚破といふ時、
綿の
条を
射切つたら、胸に
不及、
咽喉に
不及、
玉の
緒は
絶えて媼は
唯一個、
朽木の像にならうも知れぬ。
と桂木は心の
裡。
四
構はず
兵糧を使ひつゝ、
「だつてお
媼さん、此の野原は
滅多に人の通らない
処だつて聞いたからさ。」
「そりや
最う
眺望というても池一つあるぢやござらぬ、
纔ばかりの
違でなう、三島はお
富士山の名所ぢやに、
此処は
恁う
一目千里の原なれど、何が
邪魔をするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。」
「
否さ、景色がよくないから
遊山に
来ぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の
野中へ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。」
「それはお客様、
此処といふ
限はござるまいがなう、
躓けば転びもせず、転びやうが悪ければ
怪我もせうず、
打処が悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、
然う
又人のいふ
処へ、お前様は何をしに来さつしやつた。」
じろりと
流盻に見ていつた。
桂木はぎよつとしたが、
「
理窟を聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人に
逢つて、何か変つた話をして
貰はう、見られるものなら見ようと思つて、
遙々出向いて来たんだもの。人間の
他に
歩行くものがあるといふから、
扨こそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつて
了ふし、
活かしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、
怪我過失は所を定めないといふし、それぢや
些とも
張合がありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。」
膝を進めて、
瞳を
据ゑ、
「私はね、お
媼さん、
風説を知りつゝ
恁うやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けた
処、君は何だ、様子が
宛然野の
主とでもいふべきぢやないか、何の
馬鹿々々しいと思ふだらうが、
好事です、
何うぞ
一番構はず云つて聞かしてくれ
給へな。
恁ういふと何かお
妖の催促をするやうでをかしいけれど、
焦れツたくツて
堪らない。
素より其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、
函嶺を追はれた
狼だらう、
今時詰らない
妖者が居てなりますか、それとも
野伏り
山賊の
類ででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、
怪我過失だつたり、心の
迷ぐらゐなことは実は
此方から言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、
此方はお
媼さん、お前さんの姿を見てから、
却つて
些と自分の意見が違つて来て、
成程これぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。
お聞きなさい、私が縁続きの人はね、
商人で此の
節は立派に暮して居るけれど、若いうち
一時困つたことがあつて、
瀬戸のしけものを
背負つて、方々国々を売つて
歩行いて、此の野に
行暮れて、其の時
草茫々とした中に、五六本
樹立のあるのを目当に、一軒家へ
辿り着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に
難渋の次第を話して、一晩泊めて
貰ふとね、快く宿をしてくれて、
何うして
何うして行暮れた
旅商人如きを、
待遇すやうなものではない、
銚子杯が出る始末、
少い女中が二人まで給仕について、寝るにも
紅裏の
絹布の
夜具、
枕頭で
佳い
薫の
香を
焚く。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、
恁ういふ身の上にと、其の時分は思つた、其の
通つたもんだから、夢なら覚めるなと
一夜明かした迄は
可かつたさうだが。
翌日になると帰さない、
其晩女中が云ふには、お奥で
館が召しますつさ。
其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其は
何うも何とも気高い美しい
婦人ださうだ。しかし
何分生胆を取られるか、薬の中へ
錬込まれさうで、
恐さが先に立つて、片時も目を
瞑るわけには
行かなかつた。
私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。」
五
桂木は伸びて手首を
蔽はんとする、
襯衣の
袖を
捲き上げたが、手も白く、
戦を
挑むやうではない
優しやかなものであつた、けれども、世に力あるは、
却つて
恁る少年の意を決した時であらう。
「さあ、
館の心に従ふまでは、村へも里へも帰さぬといつたが、別に座敷牢へ入れるでもなし、木戸の扉も
葎を分けて、ぎいと
開け、障子も雨戸も
開放して、
真昼間、此の野を抜けて帰らるゝものなら、勝手に帰つて御覧なさいと、
然も軽蔑をしたやうに、あは、あは笑ふと両方の
縁へふたつに別れて、二人の其の
侍女が、廊下づたひに引込むと、あとはがらんとして
畳数十五
畳も敷けようといふ、広い座敷に
唯一人。」
折から炉の底にしよんぼりとする、
掬ふやうにして手づから
燻した落葉の中に
二枚ばかり
荊の葉の
太く湿つたのがいぶり出した、胸のあたりへ煙が弱く、いつも
勢よくは
焚かぬさうで
冷い灰を、
舐めるやうにして、
一ツ
蜒つて
這ひ
上るのを、肩で乱して払ひながら、
「
煙い。其までは
宛然恁う、
身体へ
絡つて、肩を包むやうにして、
侍女の手だの、袖だの、
裾だの、
屏風だの、
襖だの、
蒲団だの、
膳だの、枕だのが、あの、
所狭きまでといふ風であつたのが、
不残ずツと引込んで、座敷の
隅々へ
片着いて、右も左も見通しに、
開放しの野原も急に広くなつたやうに思はれたと言ひます。
然うすると、急に秋風が身に
染みて、其の男はぶる/\と震へ出したさうだがね、
寂閑として
人ツ
児一人居さうにもない。
夢か
現かと思う位。」
桂木は語りながら、
自ら其の境遇に
在る如く、
「目を
瞑つて耳を
澄して居ると、二重、三重、四重ぐらゐ、
壁越に、
琴の糸に風が渡つて揺れるやうな音で、
細く、ひゆう/\と、お
媼さん、今お前さんが言つてる其の糸車だ。
此の炉を
一ツ、
恁うして
爰で聞いて居てさへ遠い
処に聞えるが、
其音が、
幽にしたとね。
其時茫乎と思ひ出したのは、
昨夜の其の、奥方だか、
姫様だか、それとも
御新姐だか、魔だか、鬼だか、お
閨へ召しました一件のお
館だが、当座は
唯赫と
取逆上て、
四辺のものは
唯曇つた
硝子を透かして、目に映つたまでの事だつたさうだけれど。
緋の
袴を
穿いても居なけりや、
掻取を着ても届ない、たゞ、
輝々した
蒔絵ものが
揃つて、あたりは
神々しかつた。狭い
一室に、
束髪の
引かけ
帯で、ふつくりした
美い女が、糸車を廻して居たが、燭台につけた
蝋燭の
灯影に、横顔で、
旅商人、私の其の縁続きの美男を
見向いて、
(
主のあるものですが、
一所に死んで下さいませんか。)
||と
唯一言いつたのださうだ。
いや、
最う六十になるが忘れないとさ、此の人は又
然ういふよ、其れから
此方、都にも
鄙にも、其れだけの美女を見ないツて。
さあ、其の糸車のまはる音を聞くと、白い柔かな手を動かすまで目に見えるやうで、其のまゝ気の遠くなる、其が、やがて死ぬ
心持に違ひがなければ、鬼でも構はないと思つたけれども、
何うも
未だ
浮世に未練があつたから、
這ふやうにして、
跫音を盗んで出て、
脚絆を附けて
草鞋を
穿くまで、誰も
遮る者はなかつたさうだけれど、それが又、敵の
囲を
蹴散らして
遁げるより、
工合が悪い。
帰らるゝなら帰つて見ろと、女どもが云つた
呪詛のやうな
言も
凄し、
一足棟を離れるが最後、
岸破と野が落ちて
地の底へ沈まうも知れずと、
爪立足で、びく/\しながら、それから一生懸命に、
野路にかゝつて
遁げ出した、伊豆の伊東へ出る
間道で、
此処を放れたまで何の
障りもなかつたさうで。
たゞ、
些と時節が早かつたと見えて、三島の山々から
一なだれの
茅萱が
丈より高い中から、ごそごそと
彼処此処、
野馬が顔を出して人珍しげに
瞶めては、
何処へか隠れて
了ふのと、
蒼空だつたが、ちぎれ/\に雲の
脚の
疾いのが、
何んな変事でも起らうかと思はれて、
活きた心地はなかつたと言ふ話ぢやないか。
それだもの、お
媼さん。」
六
「もし、そんなことが、
真個にある
処なら、
生命がけだつてねえ、一度来て見ずには居られないとは思ひませんか。
何しに来たつて、お前さんが
咎めるやうに聞くから言ふんだが、何も其の
何うしよう、
恁うしようといふ
悪気はない。
好事さ、
好事で、変つた話でもあつたら聞かう、不思議なことでもあるなら見ようと思ふばかり、しかしね、其を
見聞くにつけては、どんな又
対手に不心得があつて、
危険でないとも限らぬから、
其処で
恁う、用心の銃をかついで、食べる物も用意した。
台場の
停車場から
半道ばかり、
今朝此原へかゝつた時は、
脚絆の
紐も
緊乎と、
草鞋もさツ/\と新しい
踏心地、一面に霧のかゝつたのも、味方の
狼煙のやうに
勇しく
踏込むと、さあ、
一ツ
一ツ、
萱にも尾花にも心を置いて、
葉末に目をつけ、根を
窺ひ、まるで、美しい
蕈でも捜す形。
葉ずれの音がざわ/\と、風が吹く
度に、遠くの方で、
(
主あるものですが、)とでも
囁いて居るやうで、
頼母しいにつけても、
髑髏の形をした
石塊でもないか、今にも馬の
顔が出はしないかと、宝の
蔓でも
手繰る気で、
茅萱の中の
細路を、
胸騒がしながら
歩行いたけれども、不思議なものは
樹の根にも
出会さない、
唯、
彼のこはれ/″\の
停車場のあとへ来た時、
雨露に
曝された十字の
里程標が、
枯草の中に、横になつて居るのを見て、何となく
荒野の中の
磔柱ででもあるやうに思つた。
おゝ、
然ういへば
沢山古い昔ではない、此の国の
歴々が、
此処に
鷹狩をして帰りがけ、
秋草の中に立つて居た
媚かしい
婦人の、あまりの美しさに、
予ての
色好み、うつかり
見惚れるはずみに
鞍を
外して落馬した、
打処が
病のもとで、あの
婦人ともを
為せろ、と
言ひ
死に亡くなられた。
あとでは魔法づかひだ、
主殺しと、可哀相に、此の原で
磔にしたとかいふ。
日本一の無法な
奴等、かた/″\殿様のお
伽なればと言つて、
綾錦の
粧をさせ、
白足袋まで
穿かせた上、
犠牲に上げたとやら。
南無三宝、此の柱へ血が垂れるのが
序開きかと、
其十字の里程標の
白骨のやうなのを見て居る
中に、
凭かゝつて居た
停車場の
朽ちた柱が、風もないに、
身体の
圧で動くから、鉄砲を
取直しながら
後退りに
其処を出た。
雨は其の時から降り出して、それからの難儀さ。
小糠雨の
細いのが、
衣服の上から毛穴を
徹して、骨に
染むやうで、
天窓は重くなる、
草鞋は切れる、
疲労は出る、
雫は
垂る、あゝ、新しい
筵があつたら、
棺の中へでも寝たいと思つた、其で此の家を見つけたんだもの、何の考へもなしに
駈け込んだが、
一呼吸して見ると、
何うだらう。」
炉の火はパツと
炎尖を立てて、赤く
媼の
額を
射た、
瞻らるゝは
白髪である、
其皺である、
目鼻立である、手の動くのである、糸車の廻るのである。
恁くても依然として胸を折つて、
唯糸に
操らるゝ如き、媼の
状を見るにつけても、桂木は
膝を立てて
屹となつた。
「失礼だが、お
媼さん、場所は場所だし、
末枯だし、雨は降る、
普通ものとは思へないぢやないか。霧が雲がと
押問答、
謎のかけツこ見たやうなことをして居るのは、
最う
焦れつたくつて我慢が出来ぬ。そんなまだるつこい、気の
滅入る、糸車なんざ横倒しにして、面白いことを聞かしておくれ。
それとも人が来たのが
煩くツて、
癪に
障つたら、さあ、手取り早く
何うにかするんだ、
牙にかけるなり、炎を
吐くなり、
然うすりや
叶はないまでも
抵抗しよう、善にも悪にも
恁うして居ちや、じり/\して胸が苦しい、じみ/\雨で弱らせるのは、第一
何にしろ卑怯の
到りだ、さあ、さあ、人間でさいなくなりや、其を合図で勝負にしよう、」と微笑を
泛べて
串戯らしく、
身悶をして迫りながら、桂木の
瞳は
据つた。
血気に
逸る少年の、其の無邪気さを愛する如く、離れては居るが顔と顔、媼は
嘗めるやうにして、しよぼ/\と目を

き、
「お客様もう降つて
居はせぬがなう。」
桂木
一驚を
喫して、
「や
何時の
間に、」
七
「炉の中の
荊の葉が、かち/\と鳴つて燃えると、雨は上るわいなう。」
いかにも
拭つたやうに
野面一面。
媼の
頭は白さを増したが、桂木の
膝のあたりに
薄日が
射した、
但件の
停車場に磁石を向けると、一直線の北に当る、
日金山、
鶴巻山、
十国峠を頂いた、三島の連山の
裾が
直に
枯草に
交るあたり、一帯の霧が
細流のやうに
靉靆いて、空も野も幻の中に、
一際濃やかに残るのである。
あはれ
座右のポネヒル
一度声を発するを、
彼処に人ありて
遙に見よ、
此処に
恰も其の霧の如く、怪しき煙が立たうもの、
と、桂木は心も
勇んで、
「むゝ、雨は
歇んだ、けれどもお
媼さんの姿は
未だ
矢張人間だよ。」と
物狂はしく
固唾を飲んだ。
此の時媼、
呵々と
達者に笑ひ、
「はゝはゝ、お客様も余程のお方ぢやなう、しつかりさつしやれ、気分が悪いのでござろ。なるほど石ころ一つ、草の葉にまで、心を置いたと
謂はつしやるにつけ、
何うかしてござらうに、まづまづ、横にでもなつて気を落着けるが
可いわいなう、それぢやが、
私を
早や
矢張怪しいものぢやと思うてござつては、何とも
安堵出来
悪かろ、
可いわいの。
もつともぢや、お
主さへ命がけで入つてござつたといふ
処、
私がやうな
起居も不自由な
老寄が一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、
姨捨山というて、
年寄を
棄てた名所さへある世の中ぢや、
私が世を
棄て一人住んで
居つたというて、何で怪しう思はしやる。
少い
世捨人な、これ、坊さまも
沢山あるではないかいの、まだ/\、死んだ者に
信女や、
大姉居士なぞいうて、名をつける
習でござらうが、何で又、其の
旅商人に
婦人が
懸想したことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!」と胸を
伸して、
皺だらけの
大な手を、薄いよれ/\の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、
左手は
尚細長い
綿から糸を
吐かせたまゝ、
乳のあたりに捧げて居た。
「第一まあ、
先刻から
恁うやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を
繰る手を下にも置かない、茶を一つ
汲んで
呉れず、
焚火だつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お
媼さん。」
「これは/\、お前様は、何と、働きもの、
愛想のないものを、
変化ぢやと思はつしやるか。」
「むゝ。」
「それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は
可愛らしいお方ぢやでの、
私も
内端のもてなしぢや、茶も
汲んで
飲らうぞ、火も
焚いて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう」
「
············」桂木は返す
言は出なかつたが、
恁う
謂はるれば謂はれるほど、
却つて怪しさが増すのであつたが。
爰にいたりて自然の
勢、最早
与みし
易からぬやうに
覚ゆると同時に、肩も
竦み、
膝もしまるばかり、
烈しく恐怖の念が起つて、
単に頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかと
怯れが生じて、
迚も
敵し
難しと、断念をするとともに、
張詰めた気も
弛み、心も
挫けて、
一斉にがつくりと
疲労が出た。
初陣の此の
若武者、霧に打たれ、雨に悩み、
妖婆のために取つて伏せられ、
忍の
緒をプツツリ切つて、
「
最う
何うでも
可うございます、私はふら/\して
堪らない、殺されても
可いから
少時爰で横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。」
「おう/\
可いともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも
憂慮をさつしやることはないに、
私が山猫の化けたのでも。」
「え。」
「はて魔の者にした
処が、
鬼神に
横道はないといふ、さあ/\かたげて
寝まつしやれいの/\。」
桂木はいふがまゝに、
兎も
角も横になつた、引寄せもせず、ポネヒル銃のある
処へ転げざまに、倒れて寝ようとすると、
「や、しばらく待たつしやれ。」
八
「お前様一枚脱いでなり、
濡れたあとで寒うござろ。」
「震へるやうです、全く。」
「掛けるものを貸して進ぜましよ、
矢張内端ぢや、お前様立つて取らつしやれ、
何なう、
私がなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、
一寸でも此の糸を切るが最後、お前様の身が
危いで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。
又た不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間の
習ぢや。よりもかゝらず、
蜘蛛の糸より弱うても、
私が居るから
可いわいの、さあ/\立つて取らつしやれ、
被けるものはの、
他にない、あつても気味が悪からうず、
少い人には
丁度持つて来い、
枯野に似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。
あゝ、いや、其の
蓑ではないぞの、
屏風を
退けて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。」と糸車の前をずりもせず、顔ばかり
振向く
方。
桂木は、古びた
雨漏だらけの壁に向つて、
衝と立つた、
唯見れば
一領、
古蓑が描ける
墨絵の滝の如く、
梁に
掛つて居たが、見てはじめ、人の
身体に着るのではなく、
雨露を
凌ぐため、
破家に
絡うて置くのかと思つた。
蜂の巣のやう穴だらけで、炉の煙は
幾条にもなつて
此処からも
潜つて壁の外へ
染み出す、
破屏風を
取のけて、さら/\と手に触れると、蓑はすつぽりと
梁を
放れる。
下に、絶壁の
磽
たる如く、壁に雨漏の線が入つた
処に、すらりとかゝつた、
目覚るばかり
色好き
衣、
恁る
住居に似合ない余りの思ひがけなさに、
媼の
通力、
枯野忽ち
深山に変じて、こゝに蓑の滝、壁の
巌、もみぢの
錦かと思つたので。
桂木は目を

つて、
「お
媼さん。」
「おゝ、其ぢや、何と
丁どよからうがの、取つて
掻巻にさつしやれいなう。」
裳は
畳につくばかり、細く
褄を
引合せた、
両袖をだらりと、
固より
空蝉の殻なれば、
咽喉もなく肩もない、
襟を掛けて裏返しに下げてある、
衣紋は
梁の上に日の通さぬ、薄暗い
中に
振仰いで見るばかりの、
丈長き女の
衣、低い天井から桂木の
背を
覗いて、
薄煙の
立迷ふ中に、
一本の
女郎花、
枯野に
彳んで
淋しさう、
然も
何となく
活々して、
扱帯一筋纏うたら、
裾も
捌かず、手足もなく、
俤のみがすら/\と、炉の
縁を伝ふであらう、と桂木は思はず
退つた。
「大事ない/\、
袷ぢやけれどの、
濡れた
上衣よりは
増でござろわいの、
主も分つてある、
麗な娘のぢやで、お前様に
殆ど
可いわ、
其主もまたの、お前様のやうな、
少い
綺麗な人と寝たら
本望ぢやろ、はゝはゝはゝ。」
腹蔵なく
大笑をするので、桂木は気を
取直して、
密と
先づ其の
袂の端に手を触れた。
途端に指の
尖を氷のやうな針で鋭く刺さうと、
天窓から
冷りとしたが、
小袖はしつとりと手にこたへた、取り
外し、小脇に抱く、裏が上になり、
膝のあたり
和かに、
褄しとやかに袷の裾なよ/\と畳に敷いて、襟は
仰向けに、
譬ば胸を
反らすやうにして、桂木の腕にかゝつたのである。
さて見れば、
鼠縮緬の
裾廻、
二枚袷の下着と
覚しく、
薄兼房よろけ
縞のお
召縮緬、
胴抜は絞つたやうな緋の竜巻、
霜に夕日の色
染めたる、
胴裏の
紅冷く
飜つて、引けば切れさうに
振が
開いて、
媼が若き時の
名残とは見えず、当世の色あざやかに、今脱いだかと
媚かしい。
熟と見るうちに我にもあらず、懐しく、
床しく、いとしらしく、
殊にあはれさが身に
染みて、まゝよ、ころりと寝て襟のあたりまで、銃を枕に
引かぶる気になつた、ものの
情を知るものの、
恁くて妖魔の術中に
陥らうとは、いつとはなしに思ひ思はず。
九
「はゝはゝ、見れば見るほど良い孫ぢやわいなう、
何うぢや、少しは
落着かしやつたか、
安堵して休まつしやれ。したがの、長いことはならぬぞや、
疲労が治つたら、早く帰らつしやれ。
お前さま
先刻のほど、
血相をかへて
謂はしつた、何か珍しいことでもあらうかと、
生命がけでござつたとの。良いにつけ、悪いにつけ、
此処等人の
来ぬ
土地へ、珍しいお客様ぢや。
私がの、
然うやつてござるあひだ、お
伽に
土産話を聞かせましよ。」
と下にも置かず両の手で、
静に糸を
繰りながら、
「
他の事ではないがの、今かけてござる其の下着ぢや。」
桂木は
何時かうつら/\して居たが、ぱつちりと
涼い目を
開けた。
「其は
恁うぢやよ、
一月の
余も前ぢやわいの、何ともつひぞ見たことのない、
都風俗の、
少い美しい嬢様が、
唯た
一人景色を見い/\、此の野へござつて
私が
処へ休ましやつたが、此の奥にの、
何とも名の知れぬ古い
社がござるわいの、
其処へお
参詣に行くといはつしやる。
はて此の野は其のお宮の
主の持物で、何をさつしやるも其の
御心ぢや、聞かつしやれ。
どんな
願事でもかなふけれど、其かはり
生命を
犠にせねばならぬ
掟ぢやわいなう、何と
又世の中に、
生命が
要らぬといふ
願があろか、
措かつしやれ、お嬢様、御存じないか、というたれば。
いえ/\大事ござんせぬ、其を承知で参りました、といはつしやるわいの。
いや
最う、
何も
彼も御存じで、
婆なぞが
兎や
角ういふも
恐多いやうな
御人品ぢや、さやうならば行つてござらつせえまし。お出かけなさる時に、
歩行いたせゐか暑うてならぬ、これを脱いで行きますと、
其処で帯を
解かつしやつて、お脱ぎなされた。支度を直して、
長襦袢の上へ
袷一ツ、身軽になつて、すら/\草の中を行かつしやる、
艶々としたおつむりが、
薄の中へ隠れたまで送つてなう。
それからは
茅萱の音にも、
最うお
帰かと、待てど暮らせど、大方
例のにへにならつしやつたのでござらうわいなう。
私がやうな
年寄にかけかまひはなけれどもの、
何につけても思ひ詰めた、若い人たちの入つて来る
処ではないほどに、お前様も二度と来ようとは思はつしやるな。
可いかの、
可いかの。」と
間を
措いて、
緩く引張つてくゝめるが如くにいふ、
媼の
言が
断々に
幽に聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は
留南木の
薫に又
恍惚。
優しい暖かさが、身に
染みて、心から、
草臥れた肌を包むやうな、
掻巻の
情に
半ば
眼を閉ぢた。
驚破といへば、
射て
落さんず心も
失せ、はじめの
一念も
疾く忘れて、
野にありといふ
古社、其の
怪を聞かうともせず、
目のあたりに車を廻すあからさまな
媼の形も、其のまゝ
舁き移すやうに
席を
彼方へ、小さく遠くなつたやうな思ひがして、其の娘も
犠の仔細も、媼の
素性も、野の
状も、我が身のことさへ、夢を見たら夢に一切知れようと、ねむさに投げ出した心の
裡。
却つて
爰に人あるが如く、横に寝た肩に
袖がかゝつて、胸にひつたりとついた
胴抜の、
媚かしい下着の
襟を、口を結んで
熟と見て、
噫、我が恋人は
他に
嫁して、今は世に
亡き人となりぬ。
我も
生命も
惜まねばこそ、
恁る野にも
来りしなれ、
何うなりとも成るやうになつて
止め!
之も
犠になつたといふ、あはれな
記念の
衣哉、としきりに
果敢さに胸がせまつて、思はず涙ぐむ
襟許へ、
颯と
冷い風。
枯野の
冷が
一幅に細く肩の
隙へ入つたので、しつかと引寄せた下着の
背、
綿もないのに
暖く
二の
腕へ触れたと思ふと、足を包んだ
裳が揺れて、絵の
婦人の、
片膝立てたやうな
皺が、
袷の
縞なりに出来て、しなやかに美しくなつた。
呀と見ると、女の
俤。
十
眉長く、
瞳黒く、色雪の如きに、黒髪の
鬢乱れ、前髪の根も
分るゝばかり
鼻筋の通つたのが、寝ながら桂木の顔を仰ぐ、
白歯も見えた涙の顔に、
得も
謂はれぬ
笑を含んで、ハツとする胸に、
媼が糸を
繰る音とともに
幽に響いて、
「
主のあるものですが、
一所に死んで下さいませんか。」と声あるにあらず、無きにあらず、
嘗て我が心に覚えある
言を引出すやうに
確に聞えた。
耳がぐわツと。
小屋が土台から
一揺揺れたかと覚えて、
物凄い音がした。
「
姦婦」と
一喝、
雷の如く
鬱し
怒れる声して、
外の
方に呼ばはるものあり。此の声
柱を動かして、
黒燻の壁、其の
蓑の下、
袷をかけてあつた
処、
件の
巌形の
破目より、
岸破と
倒しに
裡へ倒れて、炉の上へ
屏風ぐるみ崩れ込むと、黄に赤に煙が
交つて
※[#「火+發」、93-9]と
砂煙が
上つた。
ために、媼の姿が
一時消えるやうに見えなくなつた時である。
桂木は
弾き飛ばされたやうに一
間ばかり、
筵を
彼方へ飛び起きたが、片手に
緊乎と美人を抱いたから、寝るうちも放さなかつた銃を取るに
遑あらず。
兎角の
分別も
未だ出ぬ前、
恐い地震だと思つて、
真蒼になつて、
棟を離れて
遁れようとする。
門口を
塞いだやうに、眼を
遮つたのは
毒霧で。
彼の
野末に
一流白旗のやうに
靡いて居たのが、横に長く、縦に広く、ちらと動いたかと思ふと、三里の
曠野、真白な
綿で包まれたのは、いま
遁げようとすると
殆ど
咄嗟の
間の
事。
然も此の霧の中に、
野面を
蹴かへす
蹄の音、
九ツならず
十ならず、沈んで、どうと、
恰も激流
地の下より寄せ
来る
気勢。
「
遁すな。」
「女!」
「男!」
と声々、ハヤ耳のあたりに聞えたので、又
引返して
唯壁の
崩を見ると、
一団の
大なる炎の形に破れた中は、おなじ
枯野の目も
遙に
彼方に
幾百里といふことを知らず、
犇々と
羽目を圧して、一体こゝにも五六十、神か、鬼か、怪しき人物。
朽葉色、灰、
鼠、
焦茶、たゞこれ
黄昏の野の如き、霧の
衣を
纏うたる、いづれも抜群の巨人である。中に
一人真先かけて、壁の穴を
塞いで居たのが、此の時、
掻潜るやうにして、
恐い顔を出した、
面の
大さ、
梁の
半を
蔽うて、血の
筋走る
金の
眼にハタと桂木を
睨めつけた。
思はず
後居に腰を突く、
膝の上に
真俯伏せ、真白な両手を重ねて、わなゝく
髷の根、
頸さへ、あざやかに見ゆる美人の
襟を、
誰が手ともなく
無手と取つて
一拉ぎ。
「あれ。」
と叫んだ声ばかり、
引断れたやうに残つて、
袷はのけざまにずる/\と
畳の上を
引摺らるゝ、
腋あけのあたり、ちら/\と、
残ンの雪も消え、目も消えて、
裾の端が
飜へつたと思ふと、
倒に裏庭へ
引落された。
「男は、」
「男は、」
と
七ツ
八ツ
入乱れてけたゝましい
跫音が
駈けめぐる。
「
叱!」とばかり、此の時覚悟して立たうとした桂木の
傍に
引添うたのは、再び目に見えた
破家の
媼であつた、
果せるかな、糸は其の手に無かつたのである。
恁る時桂木の身は
危ふしとこそ予言したれ、
幸に怪しき敵の
見出し
得ぬは、
由ありげな媼が、身を以て桂木を
庇ふ
所為であらう。桂木はほツと
一息。
「
何処へ
遁げた。」
「今
此処に、」
「
其処で見た。」
と
魂消ゆる
哉、
詈り
交すわ。
十一
恁くてしばらくの
間といふものは、
轡を鳴らす音、
蹄の音、ものを呼ぶ声、叫ぶ声、
雑々として
物騒がしく、此の
破家の庭の如き、
唯其処ばかりを
劃つて四五本の
樹立あり、
恁る
広野に
停車場の屋根と此の
梢の
他には、草より高く空を
遮るもののない、其の
辺の混雑さ、
多人数の
踏しだくと見えて、
敷満ちたる
枯草、
伏し、
且つ立ち、
窪み、又倒れ、しばらくも
休まぬ
間々、目まぐるしきばかり、靴、
草鞋の、
樺の
踵、
灰汁の裏、
爪尖を上に動かすさへ見えて、異類
異形の
蝗ども、
葉末を飛ぶかとあやまたるゝが、
一個も姿は見えなかつたが、やがて、
叱!
叱!と
相伝ふる。
しばらくして、
「静まれ。」といふのが聞えると、ひツそりした。
枯草も
真直になつて、風
死し、そよとも
靡かぬ上に、あはれにかゝつたのは
彼の
胴抜の下着である。
「
其奴縛せ。」
「
縛れ、縛れ。」と二三度ばかり
言をかはしたと思ふと、
早や引上げられ、
袖を
背へ、肩が
尖つて、
振の
半ばを前へ折つて伏せたと思ふと、
膝のあたりから下へ曲げて
掻い込んだ、
後に立つた
一本の
榛の
樹に、
荊の実の赤き上に、
犇々と
縛められたのである。
「さあ、言へ、言へ。」
「殿様の
御意だ、男を
何処へ
秘した。」
「さあ、言つちまへ。」
縛されながら
戦くばかり。
「そこ
退け、踏んでくれう。」と
苛てる音調、草が
飛々大跨に
寝つ
起きつしたと見ると、
縞の下着は横ざまに寝た。
艶なる
褄がばらりと乱れて、たふれて肩を動かしたが、
「あゝれ。」
「
業畜、心に従はぬは許して置く、
鉄の
室に入れられながら、
毛筋ほどの
隙間から、言語道断の
不埒を働く、憎い女、さあ、男をいつて
一所に死ね
······えゝ、言はぬか
何うだ。」
踏躙る
気勢がすると、袖の
縺、
衣紋の乱れ、波に
揺るゝかと震ふにつれて、
霰の如く火花に
肖て、から/\と飛ぶは、
可傷、
引敷かれ
居る
棘を落ちて、
血汐のしぶく荊の実。
桂木は
拳を握つて石になつた、
媼の袖は柔かに
渠を
蔽うて
引添ひ居る。
「殿、殿。」
と呼んで、
「其では
謂はうとても謂はれませぬ、
些と
寛げて
遣はさりまし。」
「
可し、さあ、
何うだ、言へ。何、知らぬ、知らぬ

黙れ。
男を
慕ふ女の心はいつも男の
居所ぢや
哩、
疾く、口をあけて、さあ、
吐かぬか、えゝ、
業畜。」
「あツ、」とまた
烈しい
婦人の悲鳴、此の
際には、其の
掻くにつれて、
榛の木の
梢の絶えず動いたのさへ
留んだので。
桂木は
塞がうと思ふ目も、鈴で撃つたやうになつて
瞬も出来ぬのであつた。
稍あつて、
大跨の足あとは、
衝と
逆に
退つたが、すツくと
立向つた様子があつて、切つて放したやうに、
「打て!」
「殺して、殺して下さいよ、殺して下さいよ。」
「いづれ殺す、
活けては置かぬが、男の
居所を謂ふまでは、
活さぬ、殺さぬ。やあ、手ぬるい、打て。
笞の音が長く続いて
在所を語る声になるまで。」
「はツ。」
四五人で答へたらしい、
荊の実は又
頻に飛ぶ、
記念の
衣は左右より、
衣紋がはら/\と寄つては
解け、
解れては
結ぼれ、
恰も糸の乱るゝやう、翼裂けて
天女の
衣、
紛々として大空より
降り
来るばかり、其の胸の
反る時や、
紅裏颯と
飜り、地に
襟のうつむき
伏す時、
縞はよれ/\に
背を絞つて、上に下に
七転八倒。
俤は近く桂木の目の前に、
瞳を
据ゑた目も
塞がず、
薄紫に変じながら、言はじと誓ふ口を結んで、
然も
惚々と、男の顔を
見詰るのがちらついたが、今は
恁うと、一度踏みこたへてずり
外した、
裳は長く草に
煽つて、あはれ、
口許の
笑も消えんとするに、桂木は
最うあるにもあられず、
片膝屹と立てて、銃を
掻取る、
袖を
圧へて、
「
密と、密と、密と。」
低声に
畳みかけて
媼が制した。
譬ひ此の弾丸山を砕いて
粉にするまでも、
四辺の光景
単身で
敵し
難きを知らぬでないから、桂木は
呼吸を引いて、力なく媼の胸に
潜んだが。
其時最後の痛苦の絶叫、と見ると、
苛まるゝ
婦人の下着、樹の枝に届くまで、すツくりと立つたので、我を忘れて
突立ち
上ると、
彼方はハタと又
僵れた、今は
皮や破れけん、
枯草の白き上へ、
垂々と血が流れた。
「
此処に居る。」と半狂乱、桂木はつゝと出た。
「や、」「や、」と声をかけ合せると、
早や、我が
身体は宙に
釣られて、庭の土に沈むまで、

とばかり。
桂木は
投落されて横になつたが、死を
極めて
起返るより先に、これを見たか婦人の念力、
袖の
折目の正しきまで、下着は起きて、何となく、我を
見詰むる
風情である。
「静まれ、
無体なことを
為申す
勿。」
姿は見えぬが巨人の声にて、
「
客人何も
謂はぬ。
唯御身達のやうなものは、
活けて置かぬが
夥間の
掟だ。」
桂木は舌しゞまりて、
「
············」ものも言はれず。
「
斬つ
了へ!
眷属等。」
きらり/\と
四振の
太刀、
二刀づゝを
斜に組んで、
彼方の
顋と、
此方の胸、カチリと鳴つて、ぴたりと合せた。
桂木は
切尖を
咽喉に、
剣の峰からあはれなる顔を出して、うろ/\
媼を求めたが、其の
言に従はず、
故らに
死地に
就いたを憎んだか、
最う影も形も見えず、推量と多く
違はず、家も
床も
疾に消えて、
唯枯野の霧の
黄昏に、
露の命の
男女也。目を
瞑ると、声を掛け、
「しかし客人、死を
惜む者は殺さぬが又
掟だ、
予め聞かう、
主ある者と恋を
為遂げるため、死を覚悟か。」
稍激しく。
「
婦人は?」
「はい。」と
呼吸の下で答へたが、
頷くやうにして
頭を垂れた。
「
可し。」
改めて、
「
御身は。」
諾と答へようとした、
謂ふまでもない、
此美人は
譬ひ今は世に
亡き人にもせよ、
正に自分の恋人に似て居るから。
けれども、
譬ひ今は世に亡き人にもせよ、正に自分の恋人であればだけれども、
可怪、
枯野の妖魔が
振舞、我とともに死なんといふもの、恐らく
案山子を
剥いだ
古蓑の、
徒に風に
煽るに過ぎぬも知れないと思つたから、おもはゆげに
頭を
掉つた。
「殿、不実な男であります、
婦人は覚悟をしましたに、
生命を助かりたいとは、あきれ果てた
未練者、目の前でずた/\に
婦人を殺して見せつけてくれませう。」
「待て。」
「は。」
「客人が、世を
果敢んで居るうちは、我々の自由であるが、
一度心を
入交へて、
恁る
処へ来るなどといふ、
無分別さへ出さぬに於ては、
神仏おはします、
父君、
母君おはします
洛陽の貴公子、むざとしては
却つて
冥罰が
恐しい。
婦人は
斬れ!
然し客人は丁寧にお帰し申せ。」
「は。」と再び答へると、何か知らず、桂木の両手を取つて、優しく
扶け起したものがある、其が身に接した時、湿つた
木の
葉の
薫がした。
腰のあたり、
膝のあたり、
跪いて
塵を払ひくれる者もあつた。
銃をも、引上げて身に立てかけてよこしたのを、
弱々と取つて
提げて、胸を抱いて見返ると、
縞の膝を
此方にずらして、
紅の
衣の裏、ほのかに男を見送つて、
分を
惜むやうであつた。
桂木は倒れようとしたが、
踵をめぐらし、
衝と
背後向になつた、霧の中から大きな顔を出したのは、
逞しい馬で。
これを片手で、かい
退けて、それから足を早めたが、霧が包んで、
蹄の音、とゞろ/\と、送るか、追ふか、
彼の
停車場のあたりまで、四
間ばかり
間を置いてついて来た。
来た時のやうに
立停つて又、
噫、妖魔にもせよ、と身を
棄てて
一所に殺されようかと思つた。途端に騎馬が
引返した。其の
間遠ざかるほど、
人数を
増して、次第に百騎、三百騎、
果は空吹く風にも聞え、沖を
大浪の渡るにも
紛うて、ど、ど、ど、ど、どツと
野末へ引いて、やがて山々へ、
木精に響いたと思ふと
止んだ。
最早、天地、
処を
隔つたやうだから、其のまゝ、
銃孔を高くキラリと
揺り上げた、星
一ツ寒く輝く下に、
路も迷はず、
夜になり行く
狭霧の中を、
台場に抜けると
点燈頃。
山家の茶屋の店さきへ倒れたが、火の
赫と起つた、
囲炉裡に
鉄網をかけて、亭主、女房、
小児まじりに、
餅を焼いて居る、此の
匂をかぐと、
何ういふものか桂木は人間界へ
蘇生つたやうな
心持がしたのである。
汽車がついたと見えて、
此処まで聞ゆるは、のんきな声、お弁当は
宜し、お
鮨はいかゞ。
······