はじめ、私はこの一篇を、
山媛、また山姫、いずれかにしようと思った。あえて奇を好む次第ではない。また強いて怪談がるつもりでもない。
けれども、現代
||たとい地方とはいっても立派な町から、大川を一つ隔てた、近山ながら
||時は晩秋、いやもう冬である。薄いのも、半ば染めたのも散り済まして、松山の松のみ
翠深く、丘は霜のように白い、尾花が銀色を輝かして、処々に
朱葉の
紅の影を映している。
高嶺は
遥に雪を
被いで、連山の波の寂然と静まった中へ、
島田髷に、
薄か、白菊か、ひらひらと
簪をさした振袖の女が丈立ちよくすらりと
顕われた、と言うと、読者は直ちに
化生のものと想わるるに相違ない。
||風俗は移った。
天衣、
瓔珞のおん
装でなくても、かかる場面へ、だしぬけの振袖は、狐の花嫁よりも、人界に遠いもののごとく、一層人を驚かす。
従って
||郡多津吉も、これに不意を打たれたのだと、さぞ一驚を
吃したであろうと思う。
しかるに振袖の娘は、山姫どころか、(今は何と云うか
確でない)
······さ、さ、法界
······あの女である。
当時は、安来節、おはら節などを唄うと聞く、流しの法界屋の
姉さんの仮装したのに過ぎない。
||山人の研究を別として、ただ伝説と幻象による微妙なる山姫に対して、
濫なる題名を遠慮した
所以である。
それから
||暑い時分だから、冷いことも悪くない。
||南天燭の
紅い実を目に入れた円い白雪は、お定りその南天燭の葉を耳に立てると、
仔細なく
兎である。雪の日の愛々しい戯れには限らない。あまねく世に知られて、木彫、
練もの、おもちゃにまで出来ている。
玉子
形の色の白い
······このもの
語の土地では
鶴子饅頭と云うそうである、ほっとり、くるりと、そのやや細い方を
頭に、
緋のもみじを
一葉挿して、それが紅い
鳥冠と見えるであろうか?
気の迷いにもせよ、
確にそう見えた、と多津吉は言うのである。
||聞きがきする私のために、
偏にこれは御承認を願いたい。
山の上の墓地にして、まばらな松がおのずから、
墓所々々の
劃になる。
······一個所、小高い丘の下に、
蓑で伏せて、蓑の乱れたような、草の
蓬に包んだ、塚ともいおう。塔婆、石碑の影もない、墓の根に、ただ丘に添って、一樹の
記念の松が、霧を含んで立っている。
笠形の枝の蔭に、鳥冠が、ちらちらと草がくれに、紅い。
······華奢な女の
掌にも入りそうな鶏が二羽、
······その白い饅頭が、向い合いもせず、前向に揃うともなしに、横に
二個、ひったりと翼を並べたように置いてある。水晶に
紅をさした
鴛鴦の姿にも
擬えられよう。
······ 墓へ入口の、やや同じたけの松の根に、ちょっと
蟠って高いから
||腰を掛けても足が伸びるのに、背かがみになった
膝に両手を置いて、多津吉は
凝と
視ていた。
洋杖は根に倒れて、枝にも掛けず、黒の
中折帽は
仰向けに転げている。
ここからでも分るが、その白い饅頭は、草の葉にもたせて、下に、真四角な盆のように、こぼれ松葉の青々としたのが、整然として手で
梳いたように敷いてあった。
俗に言伝える。
天狗、
狗賓が
棲む、巨樹、大木は、その幹の
肢、枝の
交叉の
一所、
氈を伸べ、床を磨いたごとく、清く滑かである。
||禁を犯して採伐するものの、綱を伝って樹を上りつつ、一目見るや
倒に墜落するのが約束らしい。
きれいな、敷松葉は、その塚の、五寸の魔所、七寸の鬼の領とも
憚からるる。
また、あまた天狗が
棲むと伝える処であった。
緋の鳥冠の小さな鶏は二羽白い。
多津吉は一度、近々と
視て、ここへ退いたまま、
怪みながら、
瞻りながら、
左右なく手をつけかねているのである。
颯||と
頸から、爪さきまで、
膚を
徹して、冷く、
静に、この
梢をあれへ通う、梢と梢で
谺を打って、耳近に、しかも
幽に松風が渡って響く、氷の糸のような
調律である。
そこへ
||振袖の女が、上の丘へ、帯から上、胸を半身でくっきりと美しく出た。山では、ちっとでも高い処が、遠いように見え、また思いのほか近く見える。霧も薄し、こちらからは
吃驚するほど、大きく見た、が、澄切った
藍色の空を
遥に来たように、その胸から上半分の娘の方は、さも深そうに下の墓を
覗いて、帽子を転がして、ぼんやりうつむいている多津吉を
打撞ったように見ると、眉はきりりとしたが優しい目を、驚いた
様に

りながら、
後退りになって隠れたが。
しばらくすると、そっと、うしろから、わざと足数を拾って、半ば輪を描いて
近いた。上からすぐ男の居る処へ道はあるが、その阪下りに来たのではない。丘の向う裏から廻って、開いた
平場を寄ったのである。
「旦那。
······」
旦那と、
······肩越に低く呼んだが、二声とも呼ばせず、男は直ぐに振向いた。女の近寄るのを、まんざら知らないのではなかったらしい。
だから、女も、ものが言いよかったろう、もう、
莞爾して、
「何をしていらっしゃるの。」
下品な唄を、高調子で繰返す稼ぎのせいか、またうまれつきの
声調か、幅があって、そして
掠れた声が、気さくな中に、寂しさが含まれる、あわれも、情も
籠って聞こえた。
此方も古塚の奇異に対して、
瞑想黙思した男には
相応わない。
「実は
||お前さんを待っていたよ。」
成程、中折帽を転がしている人間らしい。これなら何も、霧でぼかし、丘で隔て、間に松の樹をあしらってまで、骨を折って二人を紹介するがものはなかった。
けれども、もう一度、繰返すが、町近くで、さまで高くないこの山、多くの天狗の集り住むと、
是沙汰する場所である。雲の形、日の
隈など、よりよりに、寂しい影が
颯とさすと、山遊びの人々も、川だちの
危い
淵を避けるようにして場所をかえるので
······ちょうどこの辺がいまその深い淵であった。
赤土の広場の松の、あちこちには、人のぶらつくのも見え、谷に臨んで、
茣蓙毛氈を敷いた一組、二組も、色紙形に遠く
視められる。
一葉、
二葉、
紅の葉も散るが、それに乗ったのは鶏ではない。
それに、真上にもあるような、やや、大小を交えて、たとえば、
古塁の砲台のあととも思われる、峰を切崩して、四角に台を残した、おなじ丘が幾つも、幾つもある。上が
兀げて、土がきれいで、よく見ると、
誂えた祭壇の
······そこへ天狗が集りそうで、うそ寂しい。
||実はその幾つかを、あるいは縫い、あるいは
繞って、山道を来る途中で、もうちっと前に、多津吉は、この振袖に
逢ったのである。
町から上るには、大手
搦手といったように、山の両方から二口ある。
||もっともこうした山だから、草を分け、
茨を払えば、大抵どの
谷戸からも
攀じることが出来る
······その
山懐を
掻分けて、
茸狩をして遊ぶ。但しそれには時節がやや遅い。従って、人出もさまでにはなかった。
多津吉は、町の場末
||件の搦手の方から、前刻尾づたいに上って来た。
竜胆が一二輪。
小笹の葉がくれに、茨の実の、紅玉を拾わんとして、
瑠璃に
装を凝らした星の貴女が、日中を
天降ったように。
||「ああ、竜胆が咲いている。」
「まあ、ここにも。」
||更めて言うが、その時は女まじりに、三人ばかり土地の
知己で、多津吉に
連があった。
その女のつれが、摘んで、渡すのを、自分の見つけたのと
二本三本、嬉しそうに手にした時
······いや、まだ、その、
一本、二本、三本を
算えない時であった。
丘の
周囲を、振袖の一行
||稚児髷に、
友染の袖、
緋の
襷して、鉄扇
擬の塗骨の
扇子を提げて
義経袴を
穿いた十四五の娘と、またおなじ
年紀ごろ
······一つ二つは下か、
若衆髷に、笹色の口紅つけて、
萌黄の紋つきに、
紅い
股引で
尻端折をしたのと、もう一人、
······肥った大柄な色白の年増で、茶と白の大市松の
掻巻のごとき衣装で、青い
蹴出しを前はだけに、帯を細く貝の口に結んだのが居た。
日中といえども、不意に山道で出会ったら、これにこそは驚こう。
かかる異様なのが、
一個々々、多津吉等の一行と同じ影を
這わせて
歩行いた。
彼処に、尾花が
十穂ばかり、例のおなじような
兀げた丘の腹に、
小草もないのに、すっきりと一輪咲いて、丈も高く
莟さえある
······その竜胆を、島田髷のその振袖、
繻珍の帯を矢の字にしたのが、弱腰を
嫋やかに、白い指をそらして折って取った。
······狩を先んじられた気がちょっとした。
その多津吉の
傍へ、何の介意もなく、するすると、
褄をちらりと
捌いて寄ると、手を触れるばかりにして、竜胆の紫を黙ってよこした。流れた瞳の
清しさ。
「ありがとう。これはどうも。」
とばかり多津吉は、そのまま
連に連れられようとして、ふと見ると、一方は丘を、一方は谷の、がけ際の山笹を、ひしゃげた茶の
釜底帽子が、がさがさと、
乾びた音を立てて
揺って、
見上皺を額に刻んで、もじゃもじゃ眉に、きょろりと目を光らした年配の
漢が見えた。異様な一行の
連らしい。
娘と手を合わせたのに、何となく気がさして、多津吉はその
漢に声を掛けた。
「
茸はありますか。」
「はあ、いや松露でな。」
もってのほか、
穏和な声した
親仁は、笹葉にかくれて、
崖へ半ば
踞んだが、黒の
石持の羽織に、びらしゃら
袴で、つり革の頑丈に太い、
提革鞄を
斜にかけて、柄のない
錆小刀で、松の根を
掻廻わしていた。
「
······松露がありますか、こんな処に。
······」
「ありますかって、
貴方、ほれ、これでがす。」
ころ、ころ。
「ほれ、
||諸国、旅をして存じております。砂浜から、ひょっこりひょっこりと出る芋づるの奴より、この
······山の松露が、それこそ真に
香しい露の凝ったので、いわば松の樹の
精根でがしてな。」
「松露を掘ってるようじゃ、法界屋、景気が悪うございますね。」
男のつれは笑ったが、
「あなた
幾干金かお遣んなすったの、御祝儀を。」
と女のつれが云ったのに、多津吉はついうっかりでいたのを心着いた。
||竜胆を手折ってくれたその振袖は、すらすらと
裳に
薄を掛けた後姿が見えて、市松大柄な年増は、半身を根笹に、崖へ下りかかる
······見附かった山の幸に興じたものであろう。秋の山は
静に、その人たちの
袖摺れに、草のさらさらと鳴るのが聞こえて、釜底帽子の親仁も、若い娘たちも、もう山懐に深かった。
「そこらをぶらつくうちにはまた出会いましょう。あの
扮装です
······見違えはしませんから、わざわざ引返すのも変ですから。
······」
だのに、それから、十歩、二十歩とはまだ
隔らないうちに、目の下の城下に火が起った
||こういうと記録じみる
||一眸の下に
瞰下ろさるる、縦横に樹林で
劃られた市街の一箇処が、あたかも魔の手のあって、森の一束を
蒼空へ引上げたような煙が
濛々と揚って、流るる
藍色の川を切って暗くした。
||町の東と西とに分れて、城の
櫓と、
巨刹の棟が見える。俗に魔の火と
称えて、この山に
棲む天狗が、遊山を驚かすために、ともすると影のない炎を揚げて、
渠等の慌て騒ぐのを
可笑がる
······その寺の棟に寄った時は
真の火である。城に近いのは
空き煙だ、と言伝える。
ちょうど
真中であった。森の砕けて、根の土を振うがごとく乱るる煙は。
|| 見当が、我が住む町内に外れても、土地の人には随所に親類も知己も多い。多津吉の
同伴はこの
岨路を、みはらしの広場下りに駆出した。
口早に、あらかじめ
契った
晩飯の場所と、火事は我が家、我が家には直面しない事と、久しぶりなる故郷の山に、心
静に一人
親むこととを言置いたのは言うまでもない。
駆出した中の
婦が、広場の松を低く、ハタと留まって、前後左右を、男女のばらばらと散る間に、この峰の
方を振返った。肩を絞って、胸を
外らすと、
遥に打仰いだ顔はやや
蒼く、
銀杏返しの
鬢が
引戦いで見える。左の腕に多津吉の
外套を掛けていた。
意味は知れよう。
「構わない、構わない、
打棄って
||そこへ打棄って
||」
多津吉は上から手を振った。
自から
竜胆の花は高く揺れた。
声は届かない。念は通じた。が、
言は
伝らないから、
婦は外套を
預ったまま、向直って
衝と去った。
多津吉は一人、塚を前にして、松蔭に居たのである。
「私も貴方に逢いに来たの。」
「嘘を
吐け。」
「あら、ほんとだわ。」
帽子をよけて、幹に立った、振袖は肩ずれに、
島田髷は男よりやや高い。
「
連の人は?」
「松露を捜して、谷の中へ分れて下りたの。
······私はお精進の女で、殺生には向かないんですって。
······魚でも、
茸でも、いきもの
······」
と言いかけて、ちょっと背きながら、お転婆に笑った。
「あら、
可厭だ。
||知らないわ。」
「何をさ。」
「いいえ、いきものをね、分って?
······取るのは、うまれつき
拙なんですって。ですから松露を捜す気もなかった処へ、火事だって騒ぎでしょう。煙が見えたわ。あの丘へ駆上ると、もう、その煙は私の立った背より低くなって、火も見えないで消えたんですもの。
小火なんですね。」
「いや、
悪戯だよ。」
「まあ、
放火。」
「違うよ。
······魔の火と云ってね、この山の天狗が、人を驚かす悪戯だそうだ。」
「そう、面白いわね。」
諸国を渡る
門づけの振袖は、あえて天狗に
怯えない。
「じゃあ、今しがた、ここに居た、あの、天狗様の悪戯かも知れないわね。」
「ここに居た、天狗、どこに、いつ。」
かえって多津吉が驚いた。
「そこにさ。貴方の。」
「ええ。」
「腰を掛けていらっしゃる、松の根を枕にして。」
多津吉は思わず
居退いた。うっかりそこへ触った手を、膝へ正したほどである。
「
仰向けに寝転んで、
蒼空を見ていたんですよ。」
言うまもなしに、
「御覧なさい。」
背後から、塚へするすると、乱菊の裾を、
撓わに、紫の色に出て、
「まだ、
整としていますのね。この白い鶏も、その天狗様の悪戯じゃありませんか。
||ああ、竜胆を。」
と、ながしめ
清しく、
「まあ、嬉しい。あなたもお手向けなすったのね。あの、そしてこの塚のいわれを御存じなんですか。」
翳せる袖と竜胆の紫の影は添いながら、
鳥冠は冴えて
紅である。
「いわれも聞きたし、
更めて花の礼も言いたいが、
||何だか、お前さんは、魔神の
眷属······と言って悪ければ、娘か、腰元、ででもあるような気がする。」
多津吉は軽く会釈して、
「その鶏は?」
「ええ、まったくよ。」
とまた
莞爾しながら、
翳した袖を胸に返して、
袂の先を軽くなぶった。
「天狗様が
拵えて、供えたんですがね。よく、烏が
啣えて行かなかったこと。
||そこいらの墓では、まだ火の
点れた、
蝋燭を、
真黒な
嘴で
啣えて風のように飛ぶと、中途で、青い煙になって消えたんですのに。」
「烏にしてみれば
||烏にしてみれば、は
可訝いけれども。」
身を起して、寄ると、塚を前にほとんど肩の並んだ振袖は、横へ胸を開いて、隣地との土の低い
劃へ、無雑作に腰を掛けた。こぼれ松葉は
苫のように積って、同じ松蔭に風の瀬が通った。
「燃えさしの蝋燭より、緋の鳥冠の
鶏は、ちょっと扱いにくいかも知れない。
||嘘のようだけれど、まったく真に迫っている。姉さん、ほんとうの事を聞かしてくれないかね。この鶴の子饅頭は。」
「あら、ほんとうですってば。」
片手を松葉に、
「だって、自分でそう云ったんですもの。
······(
俺は天狗だぞ。)ッて。
······先刻、
落こちてるお客をひろいに
||御免なさい、貴方もお客様ですわね
||私たち、離れ離れに、あっちこっち、ぶらつきますうちに、のん気らしく、ここに寝転んでる人がありますから、こっちから
······脚の方から入りましてね、いま、貴方が掛けておいでなすったその松の坊主頭
||坊主じゃないんですけれど、薄毛がもやもやとして、べろ
兀の
大い円いの。
······挫げたって
惜くはないわ、薄黒くなった
麦稈帽子を枕にして、黒い洋服でさ。」
「妙な天狗だね。」
「お聞きなさいよ。何とかウイスキイてんでしょう。
壜をさ、
||余り
清潔じゃあない
手巾に
載せたまんまで、
······仰向いてその鼻が、鼻が、ほほほ。」
「鼻が。」
多津吉は
真面目で聞く。
「
隆くない、ほほほ、ちょっと
撮んでやろうかしら、なんと思って上から顔を
視ると、
睡っていたんじゃないんです。円くて
渋面の
親仁様が、
団栗目をぎろぎろと遣って、(狐か
||俺は天狗だぞ、
可恐いぞ。)と云うから、(可恐いもんですか。)ってそう云うと、(成程、化もの
夥間だ、わはは。)
大な声なの。
老人の癖に、カラカラしたものよ。どっこいしょなら
親仁相応なのに、(やあ、)と学生さんのような若い掛声で、むくりと起きた処が、脊の低い、はち切れそうな
緊った
身体さ。
あなた
||どうでしょう、天狗様の方が股が裂けそうな
大胡坐で、ずしんと、その松の幹へよりかかると、大袈裟な胡坐ッたら。あれなんですよ。むこうの、あの四角いような白い丘が、お尻の
響でぶるぶると揺れるようなの。」
城下の
果に霧を
展いて、銀線の揺れつつ光る海の上に、紅日、山の
端の松を沈むこと二三寸。煙のあとの森も屋根も、市街はしっとりと露を打って、みはらしの樹の間の人影は、
毛氈とともに
仄暗い。
いま振袖の
指した、丘の一つが白かった。
「図々しいじゃあないの、(狐、さあ、
夥間づきあいに一つ酌をしてくれ。本来は、ここのこの塚は、白い幽霊の出る処だ。)
親仁様、まだ驚かすつもりでいるのかしら。」
「何、白い幽霊?」
と、聞き返すがごとくにして、
衝と膝を折って
屈めた。
「紅い鳥冠の鶏の
||と云うのかね。」
「いいえ、それはそれは美しい
婦の方の。」
「
··················」
「そして、白いのはお
衣ものも、ですけど、降り積る雪なんですって。」
「その天狗が話したのかね。」
「ちびりちびりとウイスをのみながらだから。
······いい加減お察しなさいよ。
······こっちの木の葉より、
羽団扇の毛でもちっとは
増だろうと思うから、お酌をしますとね、(聞け
||娘。)と今度はお酌のお
庇で、狐が娘になったんですがね。
······そのかわり、羽団扇の方も怪しくなったの。でも、お話がお話だから、つい聞いたんですわ。
九州の
河童の
九千坊とかではありませんけれど、この土地には、
||御覧なさい、お城の奥の野の
果の黒い山に、八千坊といって、むかし、数知れず、国一杯に荒廻った天狗様を
祀り
籠めた処があるんですって。
||(これ古服は黒し、
俺は旅まわりの烏天狗で、まだいずれへも
知己にはならないけれど、いや、
何国の
果にも、魔の
悪戯はあると見える。わずかにこの十年ばかり前までは、うら
枯の秋から、冬の時雨の夜へかけて、
||迷児の迷児の何とかやーい
||と鐘をたたいて、魔に
捉られたものを探す声を、毎晩のように聞いて、何とも早や首を縮めたものでござります、
······と
昨夜の宿で
按摩が
饒舌った。
······俺の友だちで、十四五年以前に、この土地へ旅をしたものが。)ッて、
兀の
親仁様が言ったんですけど、
||あなた、天狗にお友だちッてあるんでしょうか。」
「八千坊というくらいだから、皆それは友だちだろうね。」
つい聞入って真顔で答えた。振袖は、島田の
鬢をゆらゆらと、白歯で
片頬笑をしているのに。
|| 鬢のほつれに顔はなお白い。火沙汰に丘を駆けたというにも、襟裏の
紅のちらめくまで、
衣紋は着くずれたが、合わせた
褄と
爪尖は、松葉の二針
相合したようにきりりとしている。
「その貴方、天狗様の友だち
······友だちの天狗様
······あら、何だかこんがらかりました。いえね、その自分で天狗だ、と云った
親仁様の友だちが、やがて十年ほど前に、この土地へ来なすった時も、
旅籠でとった按摩が、やっぱりさ、ここ十年前までは、うら枯の秋の末から、冬の時雨の夜へかけて
||迷児の迷児の何とかやーい
······で、何とも早や首を縮めたものでござります、と話したと云うのを聞いた事があるから、ここの城下の按摩は、お景物話に、十年前の神隠しを話すのが
習慣と見える。
······ ||親仁様がそう云いましてね。おんなじ杉山流だかどうだか知らないが、
昨夜の旅籠で夜が
更けて、とにかく、そんな按摩の話した事だから、ほんとうかどうかは分らないけれど、
||山の、ここの、この塚は
|| 親仁様が、貴方のおいでなさいました、その松に居直って、片膝立てて、手首の長く出た
流行らない洋服の腕で指さしを。」
おなじ
状に、振袖をさしのべたが、すらりと控えた。
「いやだ、
······鶴子饅頭が食べたそうだ、ほほほ。」
「むむ。」
多津吉は頬張るごとく
頷いた。
「やりたまえ。
······第一形もよし、きれいだよ。敷いてある松葉は毒にはならない。」
「ええ、私なんか、お
腹がすけば、他国の
茸だって生で食べます。人間は下ってますけれど、そんな事に掛けては仙人ですから、食ものに毒も薬もないんですが、
実を入れて、
······何ですか、お聞き下さるようですから、一段語りましてから御祝儀を頂きますわ。
ね、洋服で片膝立てたのは変なものね、親仁様、自分で
名告った天狗より、桃を持たしたい、
大な
猿かに見えた事。
貴方、ここには、
||この城下で、上手名人と言われた
近常さんという
······評判の、いずれ、そんな人だから貧乏も評判の、何ですかね、何とか
家とか云ったけれど私にはよく分らない。(
指環も
簪も
拵えるのじゃ。)と親仁様が言ったから
錺職さんですわね。その方のお骨が
納っているんですってね。」
「ああ、錺職
||じゃあ男だね。」
「そうよ、ええ、もう随分のお年でしたって。」
「待ちたまえ。
······骨の入っているのが、いい年の錺職さん、近常か
||それにしては、雪の中の美しい、
······何だっけね、
婦人の白い幽霊と云ったのはおかしいね。」
「まあ、お聞きなさいよ。
||貴方は、妙に、沈んで落着いて、考え事をしているように見える癖に、
性急だね、
||ちょっと年をお言いなさい、星を
占てあげますから。」
と
熟と瞳を寄せつつ、
「星の
性なら構わないけれど、そうでなくッて、そんな様子だと
怪我をする事よ。
路に山坂がありますから、お気をつけなさいなね。」
「怪我ぐらいはするだろうよ。
······知己でもない君のような
別嬪と、こんな処で
対向いで話をするようなまわり合せじゃあ。
······」
「まあ、とんだ御迷惑ね。」
「いや覚悟をしている。
······本望だよ。」
「嬉しい事、そんなにおっしゃって下さるんですもの、私かって、
······お宿までもついて送って行くわ。
······途中で怪我なんかさせませんわ。
生命に掛けても。
······」
多津吉はいささか気を打たれたように目を

った。
「
同伴はどうなんだね、
串戯にも、そんな事を云って、お前さん。」
「谷へ下りたから、あのまんま
田畝へ出て、木賃へ引取りましょうよ。もう晩方で、山に稼ぎはなし、方角がそうなんですもの。」
「だって、一座の花形を、一人置いて行きっこはなかろうではないか。」
「そこは放し
飼よ。外に
塒がないんですもの、もとの巣へ戻ると思うから平気なもの。それとも直ぐ帰れなんのって、つれに来れば、ちょっと、
隠形の術を使うわ。
||一座の花形ですもの。
火遁だって、土遁どろどろどろ、すいとんだって、焼鳥だってお茶の子だわ。」
「しかし、それにしてもだね。」
「苦労性ね、そんな星かしら。」
「きみの星は! 年は?」
「年は狐
······星は狼。
······」
「
凄いもんだなあ。
||そこで、今の話だが。」
「ええ、
||白い幽霊の訳はね、天狗様が按摩に聞いた話を、私にしたんですよ。
······可ござんすか。
明治
······あれは何年とか言いました、早い頃です。
||その
錺職の近常さんの、古畳の
茅屋へ、県庁からお使者が立ちました。
······頤はすっぺり、
頬髯の房々と右左へ分れた、口髯のピンと
刎ねた
||(按摩の癖に、よくそんな事を
饒舌ったものね)
······もっとも有名な立派な方ですとさ、勧業課長さん、下役を二人、供に連れて、右の
茅屋へお出向きになると、
目貫、
小柄で、お侍の三千石、五千石には、
少いうち
馴れていなすっても、
······この頃といっては、ついぞ居まわりで見た事もない、大した官員様のお
入ですし、それに不意だし、また近常さんは目が近くって、耳が遠くっていなすったそうですからね、継はぎさ、
||もう
御新造さんはとうに亡くなって、子一人、お
老母さん一人の男やもめ
||そのお
媼さんが丹精の継はぎの膝掛を
刎ねて、お出迎え、という隙もありゃしますまい。古火鉢と、大きな細工盤とで
劃って、うしろに神棚を
祀った仕事場に、しかけた仕事の
鉄鎚を持ったまま、
鏨を
圧えて、平伏をなさると、
||畳が汚いでしょう。けばが破れて、じとじとでしょう、弱ったわね、課長さん。
······洋服のもっ
立尻を浮かして、両手を細工盤について、ぬッと左右の
鯰髯。
対手が
近眼だから似合ったわ。そこへ、いまじゃ
流行らないけれども割安の附木ほどの名刺を出すと、錺職の御老体、恐れ入って、ぴたりとおじぎをする時分には、ついて来た、羽織なしで
袴だけの下役が、
手拭を出して、そッと課長さんのお尻の下へ当がうといった寸法ですって。」
「光景
覩るがごとし
······詳いなあ。」
多津吉は苦笑した。
振袖は案外真面目で、
「
······お亡くなんなすってから、あと、直ぐに大層な値になって、近常さんの
品は、そうなると、お国自慢よ。
煙管一つも他国へ取られるな、と皆
蔵込むから、余計値が出るでしょう。
贋もの沢山になって、鑑定が大切だが、その鑑定を頼まれて確かなのが自分だって、按摩、(
掌に据えて、貫目を計って、釣合を取って、
撫でてかぐ。)
······とそう云うんですッて、大変だわね。毛彫浮彫の花鳥草木
······まあ私のお取次ぎは
粗雑ですよ。(匂がする、)と言うくらいだから、按摩、それから、それへ聞伝え、思い込んで、(近常の事は余程
悉いようだ。)と天狗様が、私にさ、貴方、おじぎの仕方から、もっ立尻の様子まで
······その
昨夜宿で聞いたっていう按摩の遣った通り
||按摩は
這いましたとさ、話しながら。
||私は時々お酌をしながら聞いていて、その天狗様に這われたらどうしよう、と思ったんですよ。いかに私だって気味が悪い。」
「まさか、昼這う奴があるものか。」
と多津吉は投げるように言って再び苦笑した。
「だって、そこが魔ものじゃあなくって?
······それに酔ってるんでしょう。ウイで沢山な処へ、だんだんスキッて来てるんですもの。」
「何の事だい、スキッて来るとは。」
「私にも分らない、ほほほ。」
と、
片褄を少し崩すと、ちらめく
裳、紫の袖は
斜になった。
「承れ、いかに近常
||と
更る処だわね。手拭の
床几でさ。東京に美術工業大博覧会がある。外国に対しても晴の仕事じゃから、第一は、お国のため、また県のため、続いては、
親仁の名誉のため、心血を
灌いだ出品をするように、
||大仕事となれば、いずれ
費用も
掛ろう。手間も要ろう。官より直接とは参らぬが、そこは有志の資本家と内約が結んである。どうじゃ、親仁。お国のため。
||はッというので、近常さん、(
阿母喜んで下さい。)と、火鉢で茶を入れていたおふくろさんと、課長殿の顔を見て、濃い眉の下に露一杯。
不景気だし、註文は取れず、くらしも、かつかつ。
簪は銀の松葉、それはまだ上等よ。
煙管は
真鍮まで承って、
裁縫の指ぬきの、いまも名誉の毛彫の
鏨が、針たての穴を
敲いていなすったって処だって言いますもの、職人に取っては、城一つ、国
一郡、知行されたほどの、その嬉しさ。
||ああ、降ったる雪かな。
||」
振袖は花やかに、帯の扇をぬいて開いて、片手を白く、折からこぼるる松に
翳した。
「あとで御祝儀を遊ばせ。
||法界屋の鉢の木では、梅、桜、松も縁日ものですがね、
······近常さんは、名も一字、
常世が三ヶの庄を
賜ったほどの嬉しさで。
||もっとも、
下職も三人入り、
破屋も金銀の地金に、輝いて世に出ました。仕上り二年間の
見積の処が、一年と持たず、
四月五月といううちから、職人の作料工賃にも差支えが出来たんですって、
||それがだわね、
······県庁の息が
掛って、つなぎの資本をおろしていた大商人が、相場か何かで、がらがらと来て、美術工業の奨励、県庁のためどころではなくなったんです。資本が続かないでしょう。近常さんは幾度も幾度も課長どのへ逢いに行き、
縋ってもみたんだけれども、横へ
刎ねた頬髯が、ぐったりと下って弱っているの。人はいいんだわね、畳は汚ながっても、さ。
有志の後援を頼みにしたので、お役所にそんな
金子の用意はなかったんです。さあ、そうなると頼んだ職人を断るにつけて、作料を渡すにさえ、
御新造さんの
記念の小袖。
······この方はね、踊のお師匠さんでしたとさ。
下方もお出来なすって、
······貴方お聞きなさいよ。これなんだから、天狗様に熱を吹かれているうちにも、余計に、その近常さんが
贔屓になったんですよ。
······その小袖を年一度、七夕様だわね、鼓の
調を渡して、小袖の土用干をなさる時ばかり、花ももみじも
一時に、城も御殿も
羨しくないとお思いなすった、その
記念まで
······箪笥はもうない、
古葛籠の底から、
······お墓の黒髪に枕させた、まあね
······御経でも取出すように、頂いて、古着屋の手に渡りましたッて、お可哀相に。
||」
と、さし
俯向いて、畳んだ
扇子で胸を
圧えた。
撫肩がすらすらと、
薄のように、尾上の風に
靡いたのである。
「お待ちないよ、この振袖。失礼ですが、
······色はさめました、模様も薄くなりました。でも、それだけに、どんな事で、これがその
御新造さんのお
記念かも知れません。
······この土地へ来ましてから、つい思いつきで、古着屋から買ったんですから。」
「ちょっと。」
「あら、なぜ、袖を
引張らないの、持たないんです。」
多津吉は、妙に唇をゆがめながら、
「余り
不躾らしいから。」
と云った、大島の知らず、
絣の羽織の袖を、居寄って振袖の紫に敷いて
熟と
瞻たのであったが、
「せめて、移り香を。」
「
厭味たらしい、およしなさい、柄にもない。
······じゃあ私も
気障をしてよ。」
するりと
簪を抜くと、ひらひらの
薄が、光る
鞠のように、袖と
袂と
重った上へ、
鬢の香を誘って落ちた。
「しばらくそうしていらっしゃい。
||離れないお
禁厭よ。」
「
竜胆以上に嬉しいなあ。」
と、寂しそうに笑った。
「御挨拶だわね。
||狐の尻尾よ。その実は。
······暗くなったらひらひら燃えるかも知れませんよ。
いえね、狐火でも欲しいほど、
洋燈がしょんぼり
点いたばかり、それも油煙に
燻って、近常さんの内はまた
真暗になりました。
······お正月がそれなんですもの。
霜枯の二月をお察しなさい。お年よりは台所で寒の
中の水仕事、乏しいお
膳の跡片づけ、それも、夜のもう八時すぎ九時ぐらい。近常さんは、ほかに身の置場所のない仕事場で、さあ、こうなると
酷いものです。
······がら
落の相場師は、
侠気はあっても苦しい余りに、そちこち、玉子の黄味ぐらいまで形のついた。
······」
ふと黙って、
「待って下さい、形は似ていますけれどもね、いま玉子を言っては
不可い。ここへ、またお使者が飛んで来て、鶏の因縁になるんですから。」
「
············」
「そうね、ほんのりと雲と波が
明くなったッて言いましょうか。それッていうのが、近常さんの一代の仕事として、博覧会へ出品しようとおもくろみなすったのが、尺まわりの
円形の
釣香炉でしたとさ。地の総銀一面に浮彫の波の中に、うつくしい竜宮を色で
象嵌に透かして、片面へ、兎を走らす。
······蓋は
黄金無垢の雲の高彫に、千羽鶴を
透彫にして、一方の波へ、毛彫の
冴で、月の影を
颯と映そうというのだそうですから。
······ 黄金の雲なんか
真先よ。
||銀の波も
······こうなると、水盃だわね、
疾のむかし、お別れになって、
灰神楽が
吹溜ったような、手づくねの
蝋型に指のあとの波の形の
顕われたのを、細工盤に載せたのを、半分閉じた目で
熟と見まもって、ただ手は冴えても、腕は鳴っても、
遣場のない
鉄鎚を取りしめて
······火鉢に火はなし、氷のように。
戸外は大雪よ、貴方。
······あら、
簪が揺れるわ、振落そうとするんじゃあなくって?
······邪慳よ。そうしといて頂戴、後生だから。
一時、
······無念、残念に張詰めた精もつきて、魂も抜けたように、ぐったりとなったのが、はッと気が着いて、暗い
間の内を見なさいますとね、向う
斜の古戸棚を
劃った納戸境の柱に
掛っていた、時計がないの。
時計がさ、
御新造さんが、その振袖の時分に、お狂言か何かで、御守殿から頂戴なすッたって、
······時間なんか、
何時だか、もう分らないんだそうですけれど、打つと、それは何ともいえない、好い
音がするんです。一つ残った
記念だし、耳の遠い人だけに、
迦陵頻伽の歌のように聞きなすったのが、まあ! ないんでしょう。目のせいか、と
擦りながら、ドキドキする胸で、棒立ちに、仕事場を出て見なすったそうですがね、
······盗まれたに違いない。
||そういえば何だか、黒い影が壁から棚前を伝った気がする、はッ盗まれた、とお思いなさると、
上下一度にがッくりと歯が抜けた気と一所に、内がポカンと穴のように見えて、戸障子も、どんでん返し
||ばたばたと、何ですかね、台所の板の間を隔ての、一枚
破襖に
描いた、芭蕉の葉の上に、むかしむかしから留まっていた
蝸牛が、ころりと落ちて死んだように見えたんですとさ。
······そこが
真白な雪になりました
······突抜けに格子戸が開いたんです、音も何も聞えやしない。」
「もっともだね、ああ、もっともだとも。」
と
呻くように多津吉は応じた。
「葉へも、白く降積ったような芭蕉の中から、
頬被をした、おかしな首をぬっと出して、ずかずかと入った男があるんです。
袴の
股立を取っている。やあ、
盗賊||と近常さんが、さがんなさると、台所から、お
媼さんが。
|| 幕末ごろの
推込じゃアあるまいし、袴の股立を取った
盗賊もおかしいと、私も思ったんですけれどもさ。その股立が、きょろッとして、それが、慌てて頬被を取ると、へたへたと
叩頭をしました。(やあ、大師匠、先生、お
婆々様ッ。)さ、
······お婆々様は
気障だけれども、大層な奉りようなんですとさ。
柴山運八といって、近常さんと同業、錺屋さんだけれども、これは美術家で、そのお
父さんというのが以前後藤彫で、近常さんのお師匠さんなんですって。
||いまは、その子運八の代で、工場を持って、何とか閣で、大きな処を遣っている。そこの下職人が駆込んだ使いなんです。もっとも見知合いで、不断は、おい、とっさんか、せいぜい近小父、でも、名より、目の方へ、見当をつける若いものが、大師匠、先生は
······ちょっと、
尋常事ではないでしょう。
大切な事を頼みに来たの。
あの、大博覧会の出品ね
||県庁から、この
錺職へお声がかりがある位ですもの。美術家の何とか閣が
檜舞台へ
糶出さない
筈はないことよ。
作は大仕掛な、床の間の置物で、
······唐草高蒔絵の
両柄の車、
||曳けばきりきりと動くんです。
||それに
朧銀台の太鼓に、七賢人を
象嵌して載せた、その上へ銀の鶏を据えたんです。これが呼びものの細工ですとさ。
工芸も、何ですか、大層に気を配って、
······世の泰平をかたどった、
諫鼓||それも打つに及ばぬ意味で
······と私に分るように、天狗様は言ったんですがね。
苔深うして何とかは分りませんでしたわ。
······塚に苔は生えていません。」
と
扇子の
要で、軽く払うにつれて、弱腰に敷くこぼれ松葉は、日に
紅く
曼珠沙華の幻を描く時、打重ねた袖の、いずれ綿薄ければ、男の
絣も、落葉に透くまで、
薄の
簪は
静である。
「
······その諫鼓とかの出品は、東京の博覧会で感状とか、一等賞とか、県の名誉になったそうです。
||ところでですわね、
股立を取った
趣は、
羽にうつ石目
一鏨も、残りなく出来上って、あとへ、銘を入れるばかり、二年の大仕事の仕上りで、職人も一同、羽織、袴で並んだ処、その鶏の目に、瞳を一点打つとなって、手が出ません、手が出ないんですとさ。(おいでを願って、
······すぐにおいでを願って、願って、大師匠、先生に一鏨、是非とも、)と言うんだそうです。
······城下でも評判だったと言いますし、師匠の
家だし、近常さんも、時々仕事中に、まあね、見学といった形で、閣へ行きなすったものですから、鶏の工合は分っています。
お
媼さんは、
七輪の
焚落しを持っていらっしゃる、こちらへと、使者を火鉢に坐らせて、近常さんが向直って、(
阿母、
一番鶏が鳴きました。時計はのうても夜は明けます。
······鶏の目を明けよ、と云うおおせ、しかも、師匠のお家から、職人
冥加に
叶いました。御辞退を申す筈なれども、謹んで承ります。)(おう、ようしてござれ。)お
使者が、(やあ、
難有い。)となりました。
お年よりが、納戸の
葛籠を、かさかさとお開けなさるのに心着けて、(いや、羽織だけ、職人はこれが礼服。)と仕事着の膝を軽くたたいて、羽織を着て、仕事場の神棚へ、拝をして、ただ一つ
欅の
如輪木で
塵も置かず、
拭込んで、あの黒水晶のような
鏨箪笥、何千本か
艶々と透通るような中から、
抽斗を開けて取ろうとして
||(片目じゃろうね。)
||ッて天狗様が、うけ売のうけ売で話をする癖に、いきなり
大な声をしたから、私
吃驚した!
······ちょっと、おまけに、大目玉八貫小僧のように、片目を指の輪で
剥き出すんですもの。
······ 職人も吃驚しましたって、ええと聞くと、(片目は富さんが入れましたでござりましょう。)
||この富さんとかいうのはね、多勢職人をつかった、諫鼓、いさめのつづみの
······今度の
棟梁で、近常さんには、弟分だけれど相弟子の、それは仕事の上手ですって。
近目と貧乏は馬鹿にしていても、職にたずさわる男だけに、道の覚悟はありました。使者の職人は、
悚とするなり、ぐったりと手を
支きましたとさ。言われる通り、たった今、富さんが、鶏の
瞳を入れようとして、入れようとして幾たびか、
鉄鎚を持ったんだそうです。(片目は見事に入れますが、座をかえて、もう一つの目は息が抜けます、精が続かない。こうではなかったと思うが、お恥かしい、)と、はたで何と勧めても、額から汗を流して、(
兄哥を頼みましょう、お迎え申して、)という事だったのを、近常さんが、ちゃんと、
······分っているんですもの
||富に両方の目は荷に余る、しかし片目は入れたろう、とそれで、そう云って聞いたんですわね、
······凄かったわ、私
······聞いていて。
······(いや、両方とも先生に、)というのを聞いて、しばらく
熟と考えて、
鏨を三本、細くって小さいんですとさ。
鉄鎚を二
挺、大きな紙入の底へ、内懐へしっかりと入れて、もやもや雲の
蝋型には、
鬱金の
切を深く掛けた上、羽織の
紐をきちんと結んで、
||お供を。
|| 道は雪で
明いが、わざと
提灯、お仏壇の
蝋燭を。
······亡き父はじめ、恋女房。
······」
振袖の声が曇ると、多津吉も
面を伏せた。
「御先祖へも面目に、夜の
錦を飾りましょう。庭の
砂は金銀の、雪は凍った、草履で
可、
······瑠璃の
扉、と戸をあけて、


のゆきげた
瑪瑙の橋と、悠然と出掛けるのに、飛んで来たお使者は
朴の木歯の
高下駄、ちょっと化けた山伏が供をするようだわ。こうなると先生あつかい、わざと提灯も手に持ってさ。
パッと燃え立つ
毛氈に。」
夕日は
言に色を添え、
「鶏が銀に輝やいて、日の出の
紅の
漲るような、夜の雪の大広間、
蒔絵の車がひとりでに廻るように、
塗膳がずらりと並んで、細工場でも、運八美術閣だから立派なのよ。
鶏を
真中にして、上座には運八、とそれに並んで、色の白い、少し病身らしいけれども、洋服を着た若い人で、髪を長くしたのが。」
と、顔を
斜に見越しながら、
「貴方なんぞも遣りそうな柄だわね、髪を長く
······ほほほ、遣った事があるんでしょう。似合うかも知れない事よ。」
「まあ、可い。
······その髪の長いのは。」
「東京の工芸学校へ行っている運八の息子なの
······正月やすみで帰っていて、ここで鶏に目が入り次第、車を
手舁で床の正面へ据えて、すぐに
荷拵えをして、その宰領をしながら、東京へ帰ろう
手筈だったそうですわ。
······仕上りと、その
出発祝を兼ねた御馳走の席なのよ。
末座で挨拶をして、近常さんは、すぐに毛氈の上をずッと、鶏のわきへ出なさると、運八の次に居た、その富さんが座を立って出て、双方でお辞儀をして、目を見合って、しばらくして、近常さんが二度ばかり黙って
頷くと、
懐中の
鏨を出したんです。
髪の長い、ネクタイの気取ったのが、ずかずかとそこへ出て来て、
||やあ、
親仁。
|| ||これは若旦那様。
|| ||僕の学校の教授がね、教授、教授がね、親仁の作を見て感心をしていたよ。どこかで何か見たんだって。
|| ||東京の大先生が、はッ恐れ多い事で。
|| ||鏨を見せたまえ。
|| ||いや、くるいが出るとなりません。
|| ||ふウむ、何かね、鳩の目と、雀の目と、鳩
······たとえばだな、鳩の目と、鶏の目と、使う鏨が違うかね。
|| ||はあ、鈴虫と松虫とでも違いますわ。
|| 一座が二十六七人、揃って顔を見合わせると、それまで、鼻の
隆い、
長頤を
撫でていた運八が、
袴のひだへ手を入れて目礼をしたんですって。
鉄鎚をお持ちの時、手をついていた富
棟梁が、つッとあとへ引きました。
その時に近常さんは、羽織の紐を解いて
······脱がないで、そして気構えましたッて。
······」
振袖は
扇子を胸に持据えて、
「
······片膝を軽く
······こうね、近常さんが一方へお引きなさると。」
簪は袖とともに揺れつつも、
「鏨を取った
片肱を、ぴったりと太鼓に
矯めて、銀の鶏を見据えなすった、右の手の
鉄鎚とかね合いに、向うへ
······打つんじゃあなく
手許へ
弦を絞るように、まるで名人の弓ですわね、トンと矢音に、瞳が入ると、大勢が
呼吸を詰めて
唾をのんでいる、その大広間の天井へ、高く響いて
······」
ハッと多津吉が胸を窪ませ、身を引くのと、振袖が
屹と扇子を上げたのと同時であった。
||袖がしなって、
両つに分れた両方の
袂の間が、爪さき深く、谷に見えるまで、簪の
薄の穂のひらひらと散って落つる処を、
引しめたままの扇子で、さそくに
掬ったのが、かえって悠揚たる
状で、一度上へはずまして、
突羽子のようについて、
飜る処を袂の端で
整然と受けた。
「色気はちょっと預りましょうね。大切な処ですから。
······おお、あつい。
······私は肌が脱ぎたくなった。
······これが、燃立つようなお定まりの
緋縮緬、
緋鹿子というんだと引立つんですけれどもね、半襟の引きはぎなんぞ短冊形に、
枕屏風の張交ぜじゃあお座がさめるわね。」
と
擦るように袖を撫でた。その
透切した
衣の背に肩に、一城下をかけて、海に沈む日の
余波の朱を注ぐのに、なお意気は
徹って、血が冴える。
「でも、一生懸命ですわ。
||ここを話して聞かせた時のウイスキイ天狗の
顔色を御覧なさい。目がキラキラと光ったんです。
······近常さんが、その鏨で、トンと軽く打って、トンと打つと
||給仕に来ていた職人の女房たち、懇意の娘たちまで、気を凝らして、ひっそりした天井に、大きく
谺するように響くのに、鶏は、
寂と据って、毛一つも揺れなかったそうなんですよ。鏨をきめて、
熟と
視ていなさるうちに、鉄鎚が
柔かに膝におりると、(
可。)とその膝を
傍へ直して、片側へ廻って、同じように左の目を入れたんですとさ。
······天狗の目がまた光るのよ。
······ 一時、何となく陰々とした広間が、ぱッとまた
明くなりますとね、鶏がくるりと目を覚まして、
莞爾笑ったように見えたんですって。
||天狗が、同じように笑ったから不気味でしたの。
そこへ、運八美術閣をはじめ、髪の長いのはもとよりですわね、残らず職人が、一束ねに顔を出す
······寒の
中でしょう、鼻息が白く立って、頭が黒いの。
······輝く鶏の目のまわりに。
近常さんと、富さんは、その間に、双方手をつき合って挨拶をなさいました。それから、また直ぐに、近常さんが、人の顔と頭の間で、ぐっと鶏の
蹴爪を
圧えたんですってね、場合が場合だもんだから、何ですか
······台の車が五六尺、ひとりでにきりきりと動出すのに連れられて、世に生れて、瞳の輝く第一番に、
羽搏き打って、宙へ飛ぼうとする処を、しっかり引留めたようでしたとさ。
それはね、近常さんが、もう一本の
鏨で、
||時を造る処ですから、翼を開いていましょう。
||左の翼の端裏へ、刻印を切ろうとなすったんです。絵ならば落

なんですわね。(
老夫! 何をする?)運八がね、
鉄鎚の手の揚る処を、
······ぎょっとする間もなかったものだから、いきなりドンと近常さんの肩を突いて、何をする、と怒鳴りました。これに
吃驚して、何の事とも知らないで、気の弱い方だから、もう、わびをして欲しそうに、
夥間の職人たちを、うろうろと

しながら、(な、なんぞ
粗忽でも。)お師匠筋へ手をつくと、運八がしゃりしゃりと、袴の膝で詰寄って、(
汝というものは、
老夫、大それた、これ、ものも積って程に見ろ。一県二三ヶ国を代表して大博覧会へ出品をしようという、
俺の作に向って、
汝の銘を入れる法があるか。
退れ、推参な、無礼千万。これ、悪く取れば仕事を盗む、
盗賊も同然だぞ。余りの大ものに見驚きして、気が違いかけたものであろう。しかし、
詫びるとあれば
仔細ない。一杯たらそう。)いやな
言だわね、この土地じゃあ、目下に、ものを馳走などする事を(たらす)ッて言うんですって、(さ、さ、さ、
皆、膳につけ、膳につけ。)(いや、あの
状でも名誉心があるかなあ。
活きとるわけだ。)と毛の長い若旦那は、一番に膳について、焼ものの大鯛から横むしりにむしりかけて、(やあ、素晴しい鯛だなあ。)
場違ですもの、安いんだわ。
沈み切っていた、職人頭の富さんが、運八に
推遣られて坐に返ると、
一同も、お
神輿の警護が解けたように、飲みがまえで、ずらりとお並びさ、貴方。
近常さんは、驚いたのと、
口惜いのと、
落胆したのと、ただ何よりも恥かしさに、鏨と鉄鎚を持ったなりで
······そうでしょうね
||俯向いていなさいましたって、もうね、半分は、気もぼうとしたんでしょうのに、運八の方では、まだそうでもない、隙を見て
飛ついて、一鏨、
||そこへ掛けては
手錬だから
||一息に銘を入れはしまいかと、袴の膝に、
拳を握って
睨んでいる。
私なんぞ、よくは分りはしませんけれど、目はその細工の
生命です。それを彫ったものの、作人と一所に銘を入れるのは、お職人の
習慣だと言いますもの。
||近常さんのおもいでは、せめて一生に一度
||お国のため、とまで言って下すった、県庁の課長さんへの義理、
中絶はしても、
資本を出した人への恩返し。
······御先祖がたへの面目と、それよりも何よりも、恋女房の
御新造さんへ見せたさに、わざと仏壇の蝋燭を提灯に、がたくり格子も
瑠璃の
扉、夜の雪の
凍てた道さえ、
瑪瑙の橋で出なすったのに
······ほんとうにその時のお胸のうちが察しられます。
運八の
女房さん
||美術閣だから、奥さん
||が、一人前、別にお膳を持って、自分で出ました。
······ちょっと話があるんです
······この奥さんは、もと藩の立派な武家のお嬢さんで、
······近常さんの、若くて美男だった頃、そちらから縁談のあった事があるんですとさ、
||土地の按摩はくわしいんですわね
||(見染められたんだ、怪しからん。)
||そう云って、お天狗は、それまでの気組も忘れて、肩を
大揺りに、ぐたぐたしたのよ。
もっとも、横合から、運八のものになった事はお話しするまでもないでしょう。姿も、なよやか、気の優しい奥さんですって。膳をね、富さんの次へ置こうとするのを、富さんが、次へ引いて、上の席へ据えました。そして二人で立って来て、富さんは膝を
支いて手を挙げる。(さあ、ね、近常さん。)と奥さんが背中を
擦るようにして言われたので、ハッとする。鶏の涙、銀の露、
睫毛の
雫。
||腰を立てても力のない、杖にしたそうな鉄鎚など、道具を懐にして、そこで膳にはついたんだそうですけれど、御酒一合が、それも三日め五日めの
貧の
楽みの、その杯にも
咽せるんですもの。
猪口に二つか、三つか、とお思いなすったのが、沈んでばかり飲むせいか、
······やがて、近常さんの立ちなすった時は、一座大乱れでもって、もうね、素裸の
額へ、お
平の
蓋を
顱巻で留めて、
||お酌の娘の器用な三味線で
||(
蟷螂や、ちょうらいや、蠅を取って見さいな)
||でね、畳の引合せへ
箸を立てて突刺した
蒲鉾を
狙って踊っている。
······中座だし、師匠家だし、台所口から帰る時、二度の吸ものの差図をしていなすった奥さんが、(まあ、
······そうでございますか。
||お
媼さんにお土産は、
明朝、こちらから。
······前に悪い川があります、
河太郎が出ますから気をつけてね。)お嬢さんらしいわね、むかアしの
······何となく様子を知って、心あっての
言でしょう。河太郎の出る、悪い川。
||その台所まで、もう水の音が聞えるんですって、じゃぶじゃぶと。
······美術閣の門の、すぐ向うが高台の町の崖つづきで、その下をお城の用水が瀬を立てて流れます。片側の屋敷町で、川と一筋、どこまでも、古い土塀が続いて、土塀の切目は
畠だったり、
水田だったり。
······ 旧藩の頃にね、
||謡好きのお武家が、川べりのその土塀の処を、夜更けて、松風、とかをうたって通ると、どこかそこの塀の中
||中ならいいんですけど、壁が口を利くように、ウウと、つけ謡でうたうんですとさ。どこまでも
歩行けば歩行くほど土塀がうたいます
||余り不思議だから、
熊野、とかに謡いかえると、またおなじように、しかも秘曲だというのを謡うもんですから、一ぱし
強気なのが
堪らなくなって駆出すと、その拍子に頭から、ばしゃりと水を浴びせられた事なんかあるんですって。
······またある
武士が、
夜半に前へ立つ、
怪い女を、抜打ちに
斬りつけると、それが自分の奥方の、夢から抜出した魂だったりしたんですって
······可厭な処
······ ||河童は今でも居ますとさ。
近常さんは
悄然と、そこへ台所口から
藪について出て行くんです。
座敷では、じゃかじゃかじゃん
······ここらは本職だわね。」
と、軽い
撥を真似て、白い指を
弾いた。
「頭の
顱じゃあないけれど、額の椀の
蓋は所作
真盛り。
||(蟷螂や、ちょうらいや、蠅を取って見さいな)
||裸で踊っているのを誰だと思って?
······ちょっと?」
「あ。」
多津吉は
吃驚したらしい顔を上げた。
渠は
面も上げないで聞いたのである。
「
······それがね、近常さんを、お迎いに行った職人なのよ
||全体、迎いに行ってから、美術閣での様子なんぞは、この職人が、いきなり(目は一つだけか。)と言われてから
以来、ほんとうに大師匠だと恐入って、あとあとまでも、
悉しく
細く、さし
合のない処でさえあれば、話すのを、按摩も、そっちこっちから、根
穿り葉穿りして、聞いたんだそうですがね。
||大師匠だと恐入っても、その場の事は察し入っても、飲んだ酒にも酔えば、
娘子には浮かれるわ
······人間ですもの。富さんが、
褌のみつを
引張って、(
諫鼓の荷づくりを見届けるまで、今夜ばかりは、自分の目は離されぬ。近常さんの途中の様子を。)(合点。)
······で、いずれ、杯のやりとりのうちに、その職人の、気心が分ったんでしょう。わざと
裸体に耳打ちすると、裸体に
外套を
引被って、
······ちっとはおまけでしょうけれどもね、雪
一条、土塀と川で、
三途のような寂しい
河岸道へ飛出して、気を構えて見ますとね、向うへとぼとぼと
行くのが、ほかに人通りのある時刻じゃなし、近常小父さん。
||その向うに、こんな
夜更には、水の
妖精が、
面を出して、人間界を
覗く
水目金のような、薄黄色な灯が、ぼうとして、(
蕎麦アウウ
······)
||と呼ぶんです。振売の時、チリンチリンと鳴らすが、似ているからって、
風鐸蕎麦と云うんだそうです。聞いても寒いわね。風鐸どころですか、荷の軒から
氷柱が下って。
||蕎麦を一つ、茶碗酒を二杯
······前後に
||それまで
蟷螂が
蟋蟀に化けて石垣に
踞んで、見届けますとね、
熟と紙入を出して見ていなすったっけ、急いで勘定して、(もう一杯、)その酒を、茶碗を持ったまま、飲まないで、川岸へ雪を踏みなすった。そこに、石で囲って、段々があるんです。」
「うむ、ある。」
|| と、多津吉が不意に云った。
女もうっかりしたように、
「ざぶり、ざぶりと、横瀬を打って気味が悪い。下り口の大きな石へ、その茶碗を据えなさいますとね、うつむいて、しばらく拝みなすった。肩つきが寂しいでしょう。そんなに
煽切ったのに、職人も蕎麦の
行燈で見た、その近常さんの顔が
土気色だというんですもの。駆寄ろうとする一息さきに、蕎麦屋がうしろから抱留めました。」
「
難有い。ああ、
可かった。」
「だから、貴方は慌てものだと、云うんですよ
······蕎麦屋も慌てものだわね。
爺の癖に。近常さんが、(身投と間違えられましたか。)
······そうではない。
||(よそ様のお情で、書生をして、いま東京で修行をしている
伜めが、十四五で、この土地に居ますうち、このさきの英語の塾へ、
朝稽古に通いました。夏は三時
起、冬は四時起。その夏の三時起に、眠り眠りここを
歩行いて、ドンと
躓いたのがこの石で、転ぶと、胸を打って、しばらく、息を留めた事がござりました。田舎寺のお小僧さんで、やっぱり朝稽古に通う、おなじ年頃の仲よしの友だちが来かかって、抱起したので
助って、胸を痛めもしませんだが、もう一息で、
睡りながら川へ流れます処。すればこの石は大恩人。これがあったために
躓いたのでござりませぬ。石は
好い心持でいる処を、ぶつかったのは
小児めの不調法。通りがかりには挨拶をしましたが、
仔細あって、しばらく、ここへ参るまいと存ずるので、会釈に一献進ぜました。
······いや思出せば、なおその昔、伜が
腹に
居ります頃、女房と二人で、
鬼子母神様へ
参詣をするのに、ここを通ると、供えものの、
石榴を、私が包から転がして、女房が拾いまして、こぼれた実を
懐紙につつみながら、
身体の弱い女でな、ここへ休んだ事もあります。御祝儀なしじゃ、蕎麦屋さん、御免なされ。は、は、は。)と、
寂しそうに笑って、
······雪道を
||(ああ、ふったる雪かな、いかに世にある人の面白う候らん、それ雪は
鵞毛に似て、)
||と聞きながら、職人が、もうちっとと思うのに、その謡が、あれなの、あれ
······」
「ええ。」
「そのおなじ謡が、土塀の中からも、
嗄声で聞こえるので、
堪らなくなって、あとじさりをしながら、
背後を見ると、今居たと思う蕎麦屋が影もなしに雪に消えたので、わッと云うと、荷のあった前を山を飛越すように
遁げたんですって。
||話は
岐路になりますけれども、勉強はしたいものですわね、そのお小僧さんは、ずッと学問を、お通しなすって、いまでは博士で、どこのか大学の校長さんでいなさるそうです。肝心の、近常さんの
伜ですがね。」
「伜
······成程。」
「それは、から、のらくらしていて、何だか今もって、だらしのない人だって。
······(それほどの近常さん宗旨の按摩に、さっぱりひいきがないんだから、もって知るべしだ。)とそう云ってね、天狗様も苦り切っていたわ。」
「大きにもっともだ。もって知るべしだ。成程。」
「ひどく、感心するんだわね。」
「いや、何しろもっともだから。」
「まったくだわね。」
「
||そこで、どうなったんだろう。それから。」
「お察しなさいよ
······どうなる、とお思いなさるの? あなた、なまじっか、御先祖のお
位牌へも面目、と思いなすっただけに、消した
蝋燭にも恥かしい。お年よりに愚痴を聞かせれば、なお不孝。ろくでなしの伜には言ったって分らないし、それに東京へ行っているし、
情なさの
遣場のない、
······そんな時、世の中に、ただ一人、つらい胸を聞かせたし、聞いて
欲し、慰めてももらいたいのは、御新造さんばかりでしょう。近常さんは、御自分の町を隔てた、雪の
小路を、遠廻りして、あの川。」
と云って、松の枝ずれに振袖がすっと立った。
||「あの橋、
······」
姿の紫を掛けはせずや。
麓を
籠めて、
練絹を織って流るる川に、渡した橋は、細く解いた鼓の二筋の緒に見えた。山の
端かえす夕映の、もみじに染まって。
······ ||その橋も、麓の道も、ただ白かった
||と云って袖を
飜した、手も手先も、また、ちらちらと雪である。
「ちらほらここからも小さく見えますね、あの岸の松も、白い
蓑を
被いで、渡っておいでの欄干は、それこそ青く
氷って
瑪瑙のようです。ですけれども、真夜中ですもの、川の瀬の音は
冥土へも響きそうで、そして
蛇籠に当って砕ける波は、
蓮華を刻むように見えたんですって。
······極楽も地獄も、近常さんには、もう夢中だったんですわね。
······ ついでに、あちらを御覧なさいまし。あの山の
出端に一組、いま
毛氈を畳み掛けているのがありましょう
||ああ一人酔っている。ふらふら
孑孑のようだわね
······あれから、上へ上へと
見霽の丘になって、段々なぞえに上る処
······ちょうどここと同じくらいな高さの処に、」
振袖姿は、塚と斜めに立っている。
「
樹林がこんもりして、松の中に
緋葉が見えましょう。
他所のより、ずッと色の冴えました、ね。もう御堂も壊れ壊れになりましたし、それだし、この辺を総体にこうやって、市の公園のようにするのにつけて、御本尊は、町方の寺へ納めたのだそうですが、あすこに、もと、お月様の御堂がありましたって。
······お月様の森の、もみじですもの、色は照りますわ。
||余り綺麗だから、
一葉二葉、枝のを取って来たのを
||天狗がですよ。白い饅頭にさして、その
紅い
鳥冠にしたんだって言ったんですがね。
||市から監督につけておく、山まわりの
巡吏に、
小酷く叱られましたとさ、その二三枚葉を

ったのを。
······天狗でも巡吏にはかなわないんですわね。もっとも、手でなんぞ尋常なんじゃなくッて、
羽団扇で
払いたのかも知れません。
······ああ、あの、
緋葉がちらちらと散りますこと。ひとりで散れば散るんですけれど。
······この風の
止んだ静かな山の暮方に、でもどこかそこらの丘の上から、意趣返しに羽団扇で吹かしているのかも知れません。」
兀並んだ丘は一つずつ、山深き奥へ次第に暗い。
「近常さんは、それですから幻の月の世界へ、
縋りついて
攀上るように、雪の山を、雪の山を、ね、貴方、お月様の御堂を
的に、氷に
辷り、雪を抱いて来なすって、伏拝んだ御堂から
||もう
高低はありません、一面
白妙なんですから。(今戻ったぞ、これの、おお、この寒いに、まだ石碑さえ立てないで、面目ないが、ほかに
行く処は、ようないのじゃ。)とこの塚に、熱い涙をほろほろと挨拶をなすった心の
裡。
······貴方、お世辞にでもお泣きなさいよ、
······私も話すうちに、何ですか、つい悲しくなって来た。」
と、
眩ゆそうに入日に
翳す、手を
洩るる、
紅の露はあらなくに、
睫毛は
伏って、霧にしめやかな松の葉より
濃かに細い。
「いや、どうも、私も
先刻から、何だか。」
と、なぜか多津吉は肩を
揺って、
首垂れた。
「その時ですって、枝も風に鳴らずに、塚も動かないでいて、このお
墓所が、そのまま、近常さんの、我家の、いつもの細工場になって、それがただ白い細工場で、白い神棚が見えて、白い
細工盤が据って、それで、白い塚が、細工盤と角を取った長火鉢だったんですって。」
多津吉は
掌を強く目を払って、
熟と
視る。
「ですから、火も皆白いんです。鉄瓶もやっぱり白い。
||その下に、
焚いてありました松の枝が、煙も立たずに白い炎で、小さな
卍に燃えていて、そこに、ただ御新造の黒髪ばかり、お顔ばかり、お姿ばかり、お顔はもとより、
衣紋も、肩も、袖も、膝も
真白な
······幽霊さん
······」
「ああ。」
「ね、ただ、お
髪の
円髷の青い
手絡ばかり、天と山との間へ、青い星が宿ったように、
晃々と光って見えたんですって。
ああ、貴方、お拝みなさるの。
私も拝みたい。」
「ちょっと!
······塚の前で、さしむかって、私と並ぶと、きみが、そのまま、白くなって消えそうで
危っかしい。しばらく、もう、しばらく。」
と
息忙しい。
「ええ、そうね。この振袖を、その方のおかたみかも知れないなぞと、
自惚れているうちは
可いけれど、そこへ寄って、そのお姿と並んでは、消えてしまうもおなじですわね。ちょっと、ここからお拝み申して
······」
と、腰をすらりと
掌を合わせた。
「御免遊ばせ、勝手にお
風説なんかして。」
と、膝を折りつつ低く居て、片手に松葉を拾う時、
簪を
鬢に挿すのであった。
多津吉は向直って、
「それから。」
「まあ、その
銅壺に、ちゃんとお
銚子がついているんじゃありませんか。踊のお師匠さんだったといいますから、お銚子をお持ちの
御容子も嬉しい事。
||近常さんは、
娑婆も
苦患も忘れてしまって、ありしむかしは、
夜延仕事のあとといえば、そうやって、お若い御新造さんのお酌で、いつも一杯の時の心持で。
······どんなお酒だったでしょうね、熱い甘露でしょう、
······二三杯あがったと思うと、凍った骨、枯れた筋にも、
一斉に、くらくらと血が
湧いて、積った雪を
引かけた
蒲団の気で、
大胡坐。
······(運八が銀の鶏
······ではあれども、職人
頭は兄弟分、
······まず出来た。この形。)と雪を、あの
一塊······鳥冠を
捻り、
頸を据え、翼を
形どり、尾を
扱いて、丹念に、でも、あらづもりの形を。
||それを、おなじ雪の根の松の下へお置きなさると、
鏨はほんとうのを
懐中から、
鉄鎚を取って、御新造さんと
熟と顔を見合って、(目はこう入れたわ。)
丁!(左は)
丁と打込む
冴に、ありありとお美しい御新造さんの
鬢のほつれをかけて、雪の羽がさらさらと動いて、散って、翼を両方へ
羽搏くと思うと、
||けけこッこう
||鶏の声がしたんですって。」
二人思わず、しかし言合わしたごとく、同時に塚の枯草の鳥冠を
視た。日影は枯芝の根を染めながら、目近き霧のうら
枯を渡るのが、
朦朧と、玉子
形の鶏を包んで、二羽に円光の幻を掛けた。
「
||そう言って、幾たびも、近常さんは
臨終の際に、お年よりをはじめ、気を許した人たちに、夢
現のように
······あの霜の
尖ったような顔にも、
莞爾してはお話しなすったそうですがね
|| その何ですとさ、鶏の声が、谷々へ響いて、ずッと城下へ
拡がると一所に、山々峰々の雪が
颯と薄い紫に見えたんですって、
夜が白みましたの。ああ、御新造さんの面影はもう見えません。近常さんは、はッと涙をお流しなすったそうですが、もうただ悲しいばかりの涙じゃアありません。
可懐い、恋しい、嬉しい、それに強さ、勇ましさもまじったのです。どうしてって言えばね、雪をつかねた鶏の鳥冠が、ほんのりと桃色に
染りましたって、日の昇り際の、峰から雲に
射す影が映って彩ったんです。
濃い紫に光るのは、お月様の御堂の棟。
||その頃は、こんな山の、荒れた
祠ですもの。お住持はなくて、ひとりものの
親仁が堂守をしていましたそうです。降りつづいた朝ぼらけでしょう。雀わなじゃアありません。いろ鳥のいろいろに、
稗粟を一つかみ、縁へ、供養、と思って、出て、雪をかついで雪折れのした松の枝かと思う、倒れている人間の
形を見つけて、
吃驚して、さらさらと刻んで飛ぶと、いつもお参りをかかしなさらない、
顔馴染の近常さん。抱いて戻って、介抱をしたあとを、里へ
······人橋かけるじゃあなし、山男そっくりの力ですから、裸おんぶであっためながら、
家へお送りはしたそうですが、それがもとでお亡くなりは、どうもぜひない事でしたわね。
······ああ、また聞こえました、その時の鶏の声。
······夜の
蓮華の白いのの、いま
真青な、
麓の川波を
綾に渡って、鼓の緒を
捌くように響いて。
峰の白雪
······私が云うと、ひな唄のようでも、
荘厳な
旭でしょう。月の御堂の
桂の棟。そのお話の、
真中へ立って、こうした私は
極りが悪い
······」
と、袖を合わせた肩細く、
「御覧なさい、その近常さんは、その
真中へ、両手をついて、お日様、お月様に礼拝をしたんですって
||そして、取って、塚にのせた雪の鶏に、
||お名を
······銘を
······」
ふと、ふっくりするまで、
瞼に気を籠め、傾いて打案ずる
状して、
「姓がおあんなすったんですがね
······近常さん。」
「勿論、それは、ここで、きみが天狗から聞いたんだね。」
「はあ。」
「あいにく、いまだ石碑がない。」
と、袖も寂しそうに塚に添い、葉を
擦った。
「名のりは、きみが幾たびも言ってくれたので、まざまざと、その顔も
容子も、眉毛まで見えるように思われてならないよ。」
「どうして思出せないんでしょう。いいえね、あの、近常さんの方は、
||一字、私の名が入っていたので、余り覚えよかったもんですから
······」
「ああ、お近さん。」
「常で沢山。
······近目のようで
可厭ですわ、殿方と違いますもの
||貴方は?」
「いや、それがね、申しおくれた処へ、今のような真剣の話の中へは、
······やくざ過ぎて、言憎い。が、まあ、
更めて挨拶しよう。
||話をして、それから、その天狗はどうしたね。」
「この山は、どういうものか、雑木林なり、草の中なり、谷陰なり、男がただひとりで居ると、優しい、朗かな声がしたり、
衣摺れが聞こえたり、どこからともなく、女が出て来る。
円髷もあろうし、島田もあろうし、桃の枝を提げたのも、藤山吹を手折ったのも、また
草籠を
背負ったのも、
茸狩の
姉さんかぶりも、それは
種々、時々だというけれど、いつも声がして、近づいて姿が見える
||とそういうのが、近国にも響いた名所だ。町に
別嬪が多くて、山遊びが
好な土地柄だろう。果して寝転んでいて、振袖を
生捉った。
······場所をかえて、もう二三人
捉えよう。
||(旅のものだ、いつでもというわけには行かない。夜を掛けても女を稼ごう。)
||厚かましいわ。
蟒に呑まれたそうに、
兀頭をさきへ振って、ひょろひょろ丘の奥へ入りました。」
「ただものでない、はてな。」
多津吉は
確と腕を
拱いた。
「何しろ、これは、今の話の様子だと、
||故人が
鏨で刻んだという、雪をつかんだ鶏の鳥冠に、
旭のさしたのを
象徴ったものだ。
緋葉もなお濃い。
······不思議なもののような気がする。ただの白い饅頭では断じてない。はてな。」
と、のばして触れようとした手を、膝に
拳して、固くなって控えた。
「天狗が気になる。うっかり触ると消えはしないか。」
「消えれば口の中ですわ。
······祝儀をくれない天狗なんか。」
姉さん、ここはばらがきで、
「私にやろう
······と云ったんですもの。ほんとうの天狗の
雛ッ子だって。」
また奇妙に、片袖をポンと肩に掛けて、多津吉の眉の前へ、白い腕を
露呈に、
衝とかがみ腰に手を伸ばして、ばさりと巣を探る
悪戯のように
||指を伏せても
埒あく処を
||両手に一つずつ饅頭を、しかし
活もののごとくふわりと軽く取った。
立直った時である。
「あらあら火事が。」
多津吉もすっくと身を起した。
「また火事か!
||いや、火事じゃない。あれは、あすこに、大きな坊さんの銅像がある。それに夕日が当るんだよ。」
月の御堂のあとという、一むらの樹立、しかも次第高なれば、その
梢にかくれたのが、もみじを掛けた
袈裟ならず、
緋の
法衣のごとく

と立った。
水平線上は一脈
金色である。朱に溶けたその波を、火の鳥のように直線に飛んで、
真面に銅像を射たのであった。
しばらくして、
男女は、台石の
巌ともに二丈六尺と称するその大銅像の下を、一寸ぐらいに
歩行いていた。あわれに小さい。が、松と
緋葉の中なれば、さすらう
渠等も恵まれて、
足許の影は
駒を
横え、
裳の
蹴出しは霧に乗って、
対の
狩衣の風情があった。
||前刻、多津吉のつれの女が、
外套を抱えたまま振返って、上を仰いだ処は、大造りな
手水鉢を境にして、なお一つ
展けた原の方なのである。
|| 振袖が
朗な声して、
「まあ、貴方、なぜおじぎをなさらないの。さっきは、法界屋にも、丁寧に御挨拶をなすったのに、貴いお上人さんの前にさ
||」
「おちかさん。」
多津吉は、
盥のごとき鉄鉢を片手に、片手を雲に
印象した、銅像の大きな顔の、でっぷりした
頤の
真下に、
屹と瞳を
昂げて言った。
「
······これは、美術閣の柴山運八と、その子の運五郎とが鋳たんだよ。」
波頭、雲の層、
累る
蓮華か、
象徴った台座の
巌を見定める
隙もなしに、声とともに羽織の襟を払って、ずかと銅像の足の爪を、烏の
嘴のごとく上から
覗かせて、
真背向に腰を掛けた。
「姓は
郡です
······職人近常の。
······私はその
伜の多津吉というんだよ。」
「ああ多津吉さん。」
その肩を並べて、
莞爾して並んで掛け、
「まあ、嬉しい
······御自分で名を言って下すったのは、私の
占筮が当ったより嬉しいわ。そうして占筮は当りました。この大坊主ったら、一体誰なんです。」
と肩を一層、男に落して、
四斗樽ほどの大首を斜めに仰ぐ。
······俗に四斗樽というのは
蟒の頭の形容である。
濫に他の物象に向って、特に銅像に対して使用すべきではない。が、鋳たものが運八
父子で、多津吉の名が知れると、法界屋の娘の言葉も、お上人様が坊主になった。
「
······橋の上、大通りの辻
······高台の
見霽と、一々数えないでも、城下一帯、この銅像の見えることは、ここから、町を見下ろすとおんなじで
······またその位置を撰んで据えたのだそうだから、土地の人は
御来迎、御来迎と云うんだね。高山の大霧に、三丈、五丈に人の影の映るのが大仏になって見えるというのにたとえてだよ。勿論、運八父子は、一度聞けば誰も知らぬもののない、昔の大上人としてこれを鋳たんだ。
||不思議に、きみはまだ知らないようだけれど、五つ七つの
小児に聞いても、誰も知らぬものはなかろうね。」
「
蓮如さん、」
「さあ、」
「
親鸞上人。」
「さあ、」
「弘法大師。」
「さあ、それが誰だって、何だって、私は失礼をする気は決してないんだ。ただ運八父子の手に成った
······」
「勿論ですわ。
||法界屋にお辞儀をなすった方が、この
木菟入道に
······」
おお、今度は木菟入道。
「挨拶をなさらないのは。
||あなた、私ね、
前刻通りがかりに、一度拝んだんですよ。御利益はちっともない。ほほほ、誰がこの下で法界屋を唄わせたり、
刎ねさせたりするものがありますか。そんな事より、ただ大きな、立派なもの
······もっとも、むくみが来て、ちっとうだばれてはいますがね。」
脊筋を
捻じて、台座に掛けた秋の蝶の指の細さ。
「御覧なさい。余計な耳を
押立てて、
垂頬で、ぶよぶよッちゃアありゃしない。
······でも場所が場所だし、目に着くことといったら、国一番この通りですからね。
||この
鶏を。」
······包みもしないで
||翠を透かして、松原の下り道は夕霧になお近いから
||懐紙に乗せたまま、
雛菓子のように片手に据えた。
「あなた、折角、私がおさがりを頂いたんですからね、あの塚から、」
その古塚は、あわれ、雪に
埋れた名工と、鼓の緒の幻の
陽炎に消えた美女のおくつきである。
「二羽巣立をして、空へ
翔けるように、波ですか、雲ですか、ここへ
備えようと思って持って来たんですけれどもね、
||ふふんだ、誰が、誰が
······」
頸を白く、銅像に前髪をバラリと振った。下唇の揺れるような、
鳥冠の
緋葉を、
一葉ぬいて、その黒髪に挿したと思うと、
「ああ、おいしい。」
早い事。
「なかなか、おいしい。天狗の
雛児。
||あなたも一つめしあがれ。」
「
············」
「あら、
卑怯だことね、お毒味は済んでるのに。」
と、あとのに、いきなりまた
皓歯を当てると、
「半分を、半分を、そのまま、口から。」
と、たとえば地蔵様の前に地獄の絵の生首を並べた
状に、
頸を
引抱えた、多津吉の手を、ちょっと
遁げて、背いて
捻った女の唇から、たらたらと血が
溢れた。
一種の変相と同じである。
「や、
中毒ったか。」
と頬に頬をのしかかって、
「毒でも構わん、一所に食べよう。」
「あいつつ。」
と、眉を
顰めた。松葉が
睫毛に
掛ったように。
「
噛みはしない、噛んだか。いや噛んだかも知れない。きみに詫びる。謝罪する。
······失礼だがきみの、身分を思って
······生半可の
横啣えで、償いの多少に依りさえすればこんな事はきっと出来ると
······二度目にあの塚へ、きみが姿を見せた時から、そう思った。悪心でそう思った。
||ここへ連れて来て、銅像の
鼻前で、きみの唇を買って、精進坊主を軽蔑してやろうと思ったんだ。慈悲にも
忍辱にも、目の前で、この光景を
視せられて、侮辱を感じないものは断じてないから。
||うむ、そうだ。坊主を軽蔑する本心にも手段にも、いささかもかわりはない。が、きみに対して、今は誓って悪心でない、真心だ。真実だ。許してくれ。そして軽蔑さしてくれ。」
「はなして
······よ。」
しかも、
打睡るばかりの双の
瞼は、細く長く、たちまち
薬研のようになって、一点の黒き瞳が
恍惚と流れた。その
艶麗なる
面の大きさは銅像の首と
相斉しい。男の顔も相斉しい。大悪相を顕じたのである。従って女の口を
洩るる点々の血も、
彼処に
手洗水に
湧く水脈に響いて、
緋葉をそそぐ滝であった。
「あ。」
「痛い、
刺って、」
「や、
刺か。」
獣の顔は離れた。が、女の影は鳥のように地に動いて、
裾は尾を細く、すっと
緊まる。
「何でしょう。」
衝と懐紙に取ったを見よ。
「あら、大きな針
······まあ釘よ。
······」
「釘?」
と、多津吉は眉を寄せつつ、かえって忘れてでもいるような女の手から、その
疵つけたものを
撮み取って
凝と
視ると、視るうちに、わなわなと指が震えた。
「
父親の
鏨だ。」
「ええ、近常さんの
······」
「見てくれたまえ
||この
尖へ、きみの口の
裡の血がついて。」
絹糸の
縺れの
紅いのを、
衝と吸う端に持ちかえた。が、
「もとの処に、これ、細い葉を二筋と、五弁の小さな花が彫ってある。
······父親は法華宗のかたまり
家だったが、仕事には、天満宮を信心して、年を取っても、月々の二十五日には、きっと一日断食していた。梅の紋を、そのままは勿体ないという遠慮から、高山に咲く
······この山にも時には見つかる、梅鉢草なんだよ。この
印は。
||もっとも、一心を籠めた
大切な鏨にだけ記したのだから。
||これは、きみの口から聞かしてくれた
······無論私も知っている
······運八のために、その
一期の無念の時、白い幽霊に暖められながら、雪を
掴んで
鶏の目を彫込んで、暁に息が凍った。その時のものかも知れないと
······知れないと、私は、私は思うんだ。」
「違いありませんよ、きっと、きっとそうに。
||ですもの、
活きてるような白い饅頭が、それも、あとの一つの方は、口へ入れると、ひなひなと血が流れるように動いたんですの。
······天狗のなす
業だわね。お父さんのその鏨で、どうしたら
可いでしょう、私
凄いわ。何ですか、震えて来た。ぞくぞくして。」
「笑ってくれたもうなよ、私には一人の
父親だ。」
鏨をば押頂き、
確と
懐中に挿入れた。
「風来もので、だらしはないがね、職人の子だから腹巻を
緊めている。」
と突入れつつも肩が
聳え、
「まったく、ぞくぞくもしよう、寒気もしよう、胸も悪かろう、唇も
汚らしかろう。堪忍してくれたまえ。
······そのかわり、今ね、
憤るなよ
······お転婆な、きみが嬉しがる、ぐっとつかえが下って胸の透く事をしてお目に掛ける。
|| そこいらの連中も、よく見ておけ。」
と、なだらに下る山の
端に瞳を向けた。が、行きつれ、立ち交る人影は、みなおり口の阪へ行く。
······薄き海の光の末に、烏の立迷う風情であった。
「ちかさん、
父親を
贔屓の
盲人にさえ、土地に、やくざものに見離された
······この故郷へ、何のために帰るものか。」
意気は独り激しそうだ。が、する事はだらしがない。外套は着ていなかった。羽織を
捌いた胸さがりの角帯に結び添え、
希くは道中師の、上は三尺ともいうべき処を、薄汚れた紺めりんすの風呂敷づつみを、それでも
緊と結んだと見えて、手まさぐると
······「解いてあげましょうか。」
「いや、大丈夫。
······きみたちは知るまいなあ。
||むかしここいらで、小学校へ通うのに、いまのように
洒落た舶来ものは影もないから、石盤、手習草紙という処を
一絡めにして
······武者修行然として、肩から
斜っかけ、そいつはまだ
可いがね、追々寒さに向って羽織を着るようになるとこの
態裁です。
||しかし
膚に着けるにはこれが一等だ。震災以後は、東京じゃ臆病な女連は今でも遣ってる。」
と云って、膝の上で、腰弁当のような風呂敷を、開く、と見れば
||一
挺の
拳銃。
晃然と霜柱のごとく光って、銃には殺気紫に、
莟める青い
竜胆の
装を凝らした。筆者は、これを記すのに張合がない。なぜというに、
咄嗟に
拳銃を引出すのは、最新流行の服の
衣兜で、これを扱うものは、世界的の名探偵か、
兇賊かでなければならないようだからである。
······但し、名探偵か、兇賊でさえあれば、それが女性でも差支えのない事は註に及ばぬ。
風呂敷には、もう
一品||小さな
袖姿見があった。もっとも八つ花形でもなければ
柳鵲の
装があるのでもない。
単に、円形の
姿見である。
婦も、ちっと張合のないように、さし
覗き、両の
腕を白々と膝に頬杖した。高島田の空に、夕立雲の
蔽えるがごとく、銅像の
覆掛った事は云うまでもない。
「
······玩弄品?」
「
怪しからんことを
||由緒は正しく、深く、暗く、むしろ恐るべきほどのものだよ。」
と、片手に
撓めて、袖に載せた
拳銃は、更に、
抽取った、血のままなる
狼の
牙のように見えた。
「銅像の目を射るんだ
||ちかさん。」
「あら、」
思わず軽く手を
拍くと、
衝と寄せた、刻んだような美しい鼻を、男の肩に、ひたと着けて、
「いいわねえ、賛成。
······上手に
射てますか。」
その
口振は、ややこの
器に
馴れたもののようでもある。
「信ずるんだ。腕じゃあない、この
拳銃を信ずるんだよ。
||聞きたまえ、ここにこの銅像を除幕してから、ほとんど十年になる。これが各国に知れた頃から、私は目を射る事を、
遥にまた遠く心掛けた。しかし、田舎まわりの新聞記者の
下端じゃあ、記事で、この銅像を礼讃することを、
||口惜いじゃあないか
||余儀なくされるばかりで。
······射的で
蝙蝠を落す事さえ
容易くは出来ないんです。
おなじく、地方を渡り
歩行くうちに、
||去年の秋だ。四国土佐の高知の町でね
······ああ、遠い
······遥々として思われるなあ。」
海に向って、胸を伸ばすと、影か、
||波か、雲か、その台座の
巌を走る。
「
南京出刃打の
見世物が、奇術にまじって、劇場に
掛ったんだよ。まともには見られないような、白い、西洋の
婦人の裸身が、戸板へ両腕を長く張って、脚を揃えて、これも
鎹で留めてある。
······絵で見るような、いや、看板だから絵には違いない
······長剣を帯びて、
緋羅紗を
羽被った、帽子もお約束の
土耳古人が、出刃じゃない、
拳銃で撃っているんだ。
この看板を
視て立ったと云うのさえ、しみたれた
了簡をさらけ出すようで、きみの前で言うのもお恥かしいがね、
······さいわい夜だ、大して満員でもなさそうだから切符を買った。が、目的はただ一つなんだからね、(
拳銃はまだかね、)と札口で聞いたが、(え、)と札売の娘は
解りかねる。(南京の出刃打は、)とうっかり言って、(お目当はこれからですよ。)には顔から火が出た。いま、きみに対しても汗が出る。
||悪くまた二階の正面に連れられて、いわゆるそのお目当を見たんだが、
悉しくは云うにも及ばないけれど、
······若いお嬢さんさ、その色の白いお嬢さん
||恩人だし、仙女、魔女と思うから、お嬢さんと言うんです。看板で見たようなものじゃあない。上品で、気高いくらいでね。玉とも雪とも、しかもその乳、腹、腰の
露呈なことはまた看板以上、西洋人だし、地方のことだから、
取締も自然
寛かなんだろう。
······暗い舞台に浮出して、まったく、大理石に血の通うと云うのだね。
||肩、両眼、腰、足の先と、
膚なりに、
土耳古人が
狙って縫打に打つんだが、
弾丸の煙が、
颯、颯と、薄絹を掛けて、肉線を
絡うごとに、うつくしい顔は、ただ彫像のようでありながら、乳に手首に脈を打つ。
||見てはいられない処を、あからめもせず
瞻ったのは、土耳古の
······口上が名のった何とかパシャの
拳銃の、その
鮮かな手錬なんです。繕って言うのじゃあないが、それを見るのが目的だった。もう一度、以前、日比谷の興行で綺麗な
鸚鵡が引金を口で切って、
黄薔薇の
蕋を射て当てて、花弁を円く輪に散らしたのを見て覚えている。
||扱い
人は、たしか
葡萄牙人であったと思う。
いなか記者の新聞
摺れで、そこはずうずうしい、まず取柄です。
||土耳古人にお
鮨もおかしい、が、ビスケットでもあるまいから、
煎餅なりと、で、心づけをして置いて、
······はねると直ぐに楽屋で会った。
私はいきなり
跪いたよ。むこうが椅子でも、居所は
破畳です。
······こう云うと軽薄らしいが、まったくの処
······一生懸命で、土間でも床でも構う気じゃなかった。
拳銃皆伝の一軸、極意の巻ものを一気に頂こうという、むかしもの語りの術譲りの処だから。私から見れば黄石公
||壁に脱いだ、
緋の
外套は
······そのまま、大天狗の僧正坊
······」
多津吉は銅像の腰を透かして、
背後に迫って、次第に暮れかかる山の
寂寞さを左右に
視たが、
「
燕尾服の口上が、土地の新聞社という処で、相当にあしらってくれる。これが通訳で。
······早い処
······切に志を
陳べたんだ。けれども、笑ってばかりいて、てんで受付けません。また土耳古人のこういう
半狂気に対する笑い方といったら、一種特別不思議でね、第一
大な鼻の鼻筋の、
笑皺というものが、何とも言えない。
五百羅漢の中にも似たらしい形はない。象の小父さんが、
嚔をしたようで、えぐいよ。
鼻で巻いて、投出されて、
怪飛んでその夜は帰った。
······しかし、気心の知れた
丑の
時参詣でさえ、牛の背を
跨ぎ、毒蛇の
顎を
潜らなければならないと云うんです。翌晩また
跪いた。が、今度は、おなじ象の鼻で、反対に、
背向に
刎ねられたんだね、土耳古人は向うむきになって、どしどし楽屋を出ちまったよ。刎ねられ方は簡単だけれど、今度は
昨夜より
落胆した。
||実はうっかり言うまいと思ったけれど、そうもしたらばと、よもやに引かされ、その拳銃の極意を授けられたい、狙う目的と、その趣意を、父の無念ばらしの復讐のために銅像の目を狙うことを打明けたんだから
||だ。が、何にもならない。
興行は五日間
||皆通った。
······もう三度めからは会ってもくれない、
寄附けません。しかも、打方を見るだけでも、いくらか門前の小僧だ、と思って、目も離さずに見たんだが、この目の色は、外国人が見ても、輪を掛けて違っていたに相違ない、少々血迷ってる形です。
|| 楽の晩だ。
板礫の、あともう一場、
賑かな舞踏がある。
||帷幕が下りると、
······燕尾服の口上じゃない
||薄汚い、黒の皺だらけの、わざと坊さんの
法衣を着た、
印度人が来て、袖を
曳いて、
指示をしながら、揚幕へ連れ込んで、穴段を踏んで、あの奈落
······きみもよく知っていようが、別して
地方劇場の奈落だよ。土地柄でも分る、犬神の巣の魔窟だと思えば可い。十年人の
棲まない
妖怪邸の天井裏にも、ちょっとあるまいと思う陰惨とした、どん底に
||何と、一体白身の女神、
別嬪の姉さんが、舞台の礫の時より、研いだようになお冴えて、唇に
緋桃を含んで立っていた。
つもっても知れる
······世界を流れ渡る、この
遍路芸人も、楽屋風呂はどうしても
可厭だと云って、折たたみの風呂を持参で、奈落で、
沐浴をするんだそうだっけ。血の池の行水だね、しかし白蓮華は丈高い。
すらりと目を
眄して、滑かに伸ばす手の方へ、印度人がかくれると、(お前さんに
拳銃を上げましょう。)とこう言うんだ。少しは分る。私だって少々は
噛る。
||土耳古の鼻を
舐めた奴だ、白百合
二朶の花筒へ
顔を
突込んで、
仔細なく、
跪いた。
||ただし、上げましょう拳銃を
||と言う意味は
||打方を教えよう
||だとばかり思ったのに、乳の下の藤色のタオルのまま、引寄せた椅子の
仮衣の中で、
手提をパチリとあけて
······品二つ
||一度取上げて目で
撓めて
||この目が黒い、髪が水々とまた黒い
||そして私の手に渡すのが、紫水晶の
笄と、大真珠の
簪を髪からぬき取ったようだった。
······ ||ちかさん、この、
袖姿見と拳銃なんだよ。」
女は息を引いて
頷いた。
男が、島田の
刎元結の
結目を
圧えた。
「ここを狙え、と教えたんだ。」
「あ。」
「御免よ。うっかり
······」
「ああ、元結が切れそうだった。
可厭ね、力を入れてさ。」
と
邪慳に云って優しく
視た。
「土耳古人が、
頤、
咽喉下から、肩、順々に
||最後に両方の耳の根を打つ。最々後に、絶対の危険を冒す全世界の放れ業だ、と
怯かして、裸身の犠牲の
脳頭を狙う時は、必ず、うしろ向きになるんだよ。うしろ向きになって、的の姉さんを
袖姿見に映して狙いながら、
銃口を、ズッと軽く
柔かに肩に
極めて、そのうしろむき曲打にズドンと遣るんだ。いや、肝を冷す。(教えよう)
||お嬢さんが、私にその通りに遣れ、と云うんだ。(少し離れて、もう少し、立った爪尖まで、全身がはっきり映るまで、)とさしずをされて、さあ
······一間半、二間足らず離れたろうか。
||牛馬の骨皮を、じとじと踏むような奈落の床を。
||裸の姿に
||しかも
素馨の香に包まれて。
||きみの前だが、その時タオルも棄てたから一糸も掛けない、
浴後の立姿だ。
······私はうしろ向きさ。(
拳銃を肩に
当よ、)と言う、(打とうと思う目をお狙い
······)と云う、口が苦いまで、肝を
噛んで、
熟と
視たが、わなわなと震えて、あっと言って振向いた。
屹となって、(教えません、そんな事では
||不可ません、)と言われたが。蛇です、蛇です、蛇です、三
疋。一尺ぐらいずつ、おなじほどの距離をおいて、
蜘蛛の巣と、どくだみの、石垣の穴と穴から、にょろりと鎌首を揃えたのが、姉さんの白い腰に、舌をめらめらと吐いているんじゃあないか。
||歴々と
袖姿見に映ったんだ。
心もち肩を落して、乳房を抱いたが
||澄ましてね、これらの蛇は出て来るんじゃあない。
遁げて
引込むんだから心配はない。
||智慧で占ったのではない事実だ、と云うんだ。湯を運ぶ印度人が、
可恐く蛇ずきの
悪戯で、
秋寂びた冷気に珍らしい湯のぬくもりを心地よげに出て来る蛇を、一度に押えてせっちょうして、遁げ込む石垣の尾を二疋も三疋も、
引掴み、
引掴み、ぬき出しは出来なかったが、
断れたら
食かねない
勢で、
曳張り曳張りしたもんだから、三日めあたりから
||蛇は
悧巧で
||湯のまわりにのたっていて、人を見て遁げるのに尾の方を
前へ入れて、頭を段々に
引込める。(世のはじめから蛇は智慧者ですよ。)と言う。まったく、少しずつ
鱗が縮んでぬるぬると引込んで、鼠の鼻ッさきが
挟ったようになって消えたがね。奴等の、あの
可厭らしい目だの、舌の色が見えるほど、球一つ
······お嬢さんは電燈を
驕っていてくれたんだ
||が、その光さえ、
雷光か、流星のように見えたのも奈落のせいです。
遣直して肝を
噛んだ。
||(この

った目が、
袖姿見の
裡のこの

った目が、
瞬いたと思う、その瞬間を射るんです。)同じようにして、うしろ向きに
凝視めていれば、瞬くと思う感じがその銅像の場合にも
顕われる。魔の
睫毛一毫の
秒がきっとある。そこを射よ、きっと
命中る! 私も世界を廻るうちに、魔の睫毛一毫の秒に、
拙な
基督の像の目を三度射た、(ほほほ、)と笑って、(腹切、浅野、
内蔵之助||仇討は
······おお
可厭だけれど、
復讐は大好き
||しっかりその銅像の目をお打ちなさいよ。打つ
礫は
過ってその身に返る事はあっても、
弾丸は仕損じてもあなたを損いはしません。
助太刀の志です。)
||上着を掛けながら、胸を寄せて、
鳴をしてくれました。トタンに電燈を消したんです。(魔の睫毛一毫の秒でしたわね、)浪を行く
魚、
中空を飛ぶ鳥に、なごりを
惜むものではありません
||流星は宇宙に留っても、人の目に触るるのはただ一度ですもの、と云って、
······別れました。
別れました。その姉さんには別れた、が、きみとは別れまいね。」
と云った、
袖姿見は男の胸に、
拳銃は女の肩に
掛ったのである。
御手洗を前にして、やがて、並んで立った形は、法界屋が二人で屋台のおでん屋の
暖簾に立ったようである。じりじりと歩を刻んで、あたかもここに位置を得た。
袖姿見は、瞳のごとく
背後ざまに巨なる銅像を吸った。
拳銃は取直され、
銃尖が肩から
覗いた
······磨いた
鉄鎚のように、銅像の右の目に向ったのである。
さすがに色をあらためて、
「気味が悪かろうとは、きみだから言わない
||私が未熟だから、危いから、少し、そちらへ。」
「着ものを脱いで、的にも立ちかねないんですがね。」
と、自若として、
微笑ながら、
「あなたの柄だと、私は
矢取の女のようだよ。」
「馬鹿な事を
||真剣だ。」
「あなた。」
と
面を
引緊めた。
「
············」
「一つは
射てますわね。
······魔のお姫様の直伝ですから。
······でも、音がするでしょう、
拳銃は。お嬢さんが
耶蘇の目を射た場所は、世界を掛けての事だから、野も山もちっとこことは違うようです。目の下が、すぐ町で、まだその辺に、人は散り切りません。天狗が一二枚もみじの葉を取ったって、すぐ
山巡吏の監督が出て来るんじゃアありませんか。
||この
静さじゃ、音は城下一杯に
谺します。
||私にその
鏨をお貸しなさいな。」
「鏨を。」兇悪をなすに、
責を知って、後事を
托せよと云うがごとく聞えて、
頷いて渡した。
「
拳銃をお見せなさいな。」
「
······拳銃を。成程、引続けて二度狙うのは、自信がない、連発だけれども、」
空を打たれて、
手練に得ものを落されたように
||且つ器械を
検べようとする注意だと思ったように、ポカンと渡すと、引取るが
疾いか、ぞろりと
紅の
褄を絞って小褄をきりきりと引上げた。落葉が舞った。
風に乗るように振袖はふっと浮いて
衝と飛んで、台座に駆上ると見ると、男の目には、顔の白い
翡翠が飛ぶ。ひらひらと銅像の
襞
を踏んで、手がその肩に
掛った時、前髪のもみじが、
薄の
簪を誘って、中空に
飜るにつれて、はじめて、台座に揃えて脱いだ草履が山へ落ちた。
「あ、あ、あ、あんなものが、ああ、運五郎、
伜、運五郎、山の銅像に天人が
天降った、天降った。おお、あれは、あれは。やあ、大きな
縞蛇だ。運五郎、運五郎。
||いや、鳥だ、鳥だ。
······青い、白い縞が、
紅い羽もまじった。やあ
嘴で目をつつく。」
銅像が、城の天守と相対して以来、美術閣上の物干を、人は、物見と
風説する。
······男女の礼拝、
稽首するのを、運八美術閣翁は、
白髪の
総髪に、ひだなしの
袴をいつもして、日和とさえ言えば、もの見をした。
馴れて、近来はそうまでもなかった処に、日の今日は、前刻城寄の町に
小火があって、煙をうかがいに出たのであるが、折から
小春凪の夕晴に、来迎の大上人の足もとに、ぬかごのごとく人のゆききするのを、心地よげに、久しぶりに
見惚れていた。もっともその間に、遊廓の窓だの、囲いものの小座敷だの、かねて照準を合わせた処を、夢中で
覗く事を忘れない。それにこの
器は、新式精鋭のものでない。藩侯の宝物蔵にあったという、由緒づきの
大な
遠目金を台つきで廻転させるのであるから、いたずらものを
威嚇するのは十分だが、
慌しく映るものは
||天女が
||縞蛇に
||化鳥に
|| またたちまち
······「やあ、
轆轤首の女だ、運五郎。」
ドシンと天狗に投げられたように、
翁は物干に腰をついた。
島田の
鬢の白い顔が、宙にかかり、口で銅像の耳を
噛んで
踏辷る
褄の
紅を、二丈六尺、高く釣りつつ、
鏨を右の目に当てて、雪の
腕に、
拳銃を、
鉄鎚に取って
翳した。
銅像の左の目は、同じ様にして既に一撃を加えた後である。
まことや、魔の
睫毛一毫の
秒に、いま、右の目に鏨を丁と打ったと思うと、
「キイー」
と声の糸を切って、振袖は銅像の肩から、ずるずると
辷り落ちた。あわや台座に留まろうとして、
術の施す隙なき
状に、そのまま
仰向けに
黄昏の地に吸われたが、
白脛を空に土を
蹴て、
褄をかくして
俯向けになって倒れた。
読者の、もの
狂しく運八翁が、物見から、弓矢で、あるいは銃で、射留めた、と想像さるるのを妨げない。
弾丸のとどかない距離をまだ註してはいなかったから。いわんや、翁は、旧藩の士族の出であるものを。
「
||事実を言おう、
口惜いが、目が光ったんだ。鏨で突き
潰すと、銅像の目が大きく開いて光ったんだ。
······女は驚いて落ちこんだ。」
多津吉は、手足を力なく垂れた振袖を、横抱きに胸に
引緊めて、
御手洗の前に、ぐたりとして、蒼くなって言った。
銅像の肩から転落した女を、きつけの水に抱込んだのはほとんど本能的であったといって可い。しかし、
鬢も崩れ、髪も濡れて、二人とも頭から水だらけになっているのは
|| ||「ベッ、
此奴等、血のついた
屑切なんか取散らかして、
蛆虫め。
||この霊地をどうする。」
自動車の助手に、松の枝を折らせ、掃立てさせた傍ら、
柄杓を取って、パッパッと水を打つついでに、頭ともいわず肩ともいわず、二人に浴びせかけたのは、銅像の製作家、東京がえりの長髪の運五郎氏で、閣翁運八とともに、自動車で駆上って来た事は
更めて言うに及ぶまい。事実に
逢着すると、着弾の距離と自動車の速力と大差のない事になる。自動車の方が便利である。
侮辱と
唾棄の表現のために、
刎ね掛けられた柄杓の水さえ
救の露のしたたるか、と多津吉は今は恋人の
生命を求むるのに急で、
焦燥の極、放心の
体でいるのであったが。
「
近視の
伜が遣りそうな事だわい。
不埒ものめが。
······その女は、そりゃ何だ。」
袴腰に両腕を張って
覗込む、運八翁に、再び
蒼白い顔を振上げた。
「門附芸人です、僕の女房です。」
「う、う、おお、似合うたな、おなじように。」
「ああ、お父さん
||郡は
拳銃を持っていますから。」
少し離れて半円を廻わして、遊山がえりの
||自動車より前に駆集った
群が、間近くも寄らないのは、銅像に
攀じた魔の振袖のはじめから、何となきこの拳銃の影であった。
集える衆の肩背の
透に、霊地の口に、自動車が見えて、巨像の腹の鳴るがごとく、時々、ぐわッぐわッと自己の存在と生活を叫んでいる。
この時しも、軽装した助手は、人の輪の前をぐるりぐるりと柄杓を上下に振って廻った。
「
拳銃を
······拳銃を
······」
他を打てか、自らを殺せか
||呼吸の下で、
幽に震えた、女は、まだ全く死んではいないのである。
「危い、お父さん。
||早く警察へ。」
「何をし得るものだ。
||いや、時にいずれも、立合わるる、いずれも。」
運八翁は、ずかずかと
横歩行きに輪の真中へ立って、
「俺と伜の、この製作の名誉を
嫉んで。」
「そうですそうです。」
運五郎氏も、並んで、細い
杖を高らかに振った。
「大銅像の目を
傷けたんだね、両眼を
||潰すと
斉しく霊像の目が
活きて光って開いた、虫の投落されたのをよく
視て下さい。」
「柴山運八。」
「運五郎、苦心の製作に対して。」
と云った。
「あはッ、はッ、はッ、はッ、はッ。」
と笑ったものがある。この時、銅像が赤面した。
一朶の
珊瑚島のごとく水平線上に浮いた夕日の雲が反射したのである。肩まで霧に包まれたその足と、台座の間に、ちょぼりと半面を
蟋蟀のごとく覗かせて見ていた、
埃だらけの黒服の
親仁が、ひょいと出た、妙な処に。
||もっとも、この山のかかる時には、砲台形に並んだ丘の上をはじめ、少し脊の高い松のどの樹にも、天狗が居て、翼を合せ鼻を並べて見物する。
親仁は、てくてくと歩み寄ると、閣翁父子の
背後へ、
就中、翁の尻へ、いきなり服の尻をおッつけるがごとくにして、
背合せに立った。すなわち銅像に対したのである。
一人やなんぞ、気にもしないで、
父子は澄まして、
衆の我に対する表敬の
動揺を待って、
傲然としていた。
黒服の
親仁は、すっぽりと
中山高を脱ぐ。
兀頭で、太い
頸に
横皺がある。
尻で、閣翁を突くがごとくにして、銅像に一拝すると、
「えへん。」
と
咳き、がっしりした、
脊低の
反身で、仰いで、指を輪にして目に当てたと見えたのは、柄つきの片目金、拡大鏡を
当がったのである。
「は、は、は、違う、違う、まるで違う。この大入道の
団栗目は、はじめ死んでおった。それが
鏨で
活きたのじゃ。すなわち潰されたために、
開いたのじゃ。」
「何。」
「あ、先生。」
と、運五郎氏がギクンと首を折った。
「柴山君、しばらくじゃ。」
「お父さん、お父さん、
榊原||俊明先生です。」
東京
||(壱)
||芸学校の教授にして、(弐)
||術院の委員、審査員、として、
玄武青竜はいざ知らず、
斯界の虎! はたその老齢の故に、
白虎と
称えらるる偉匠である。
惟うべし近常夫婦の塚に、手向けたる
一捻の白饅頭の
活けるがごとかりしを。しかのみならず、梅鉢草の印の
鏨を拾って、一条の奇蹟を
鶏に授けたのを。
「ええ、ええ、大先生、伜がかねて
······」
儀礼に、こだわりの過ぎるほど訓錬のある、特に官職に対して謙屈な土地柄だから、閣翁は、衆に
仰向けに反らしたちょうど同じ角度に、その
頤を
臍に埋めて、手を垂れた。
「
||間違うても構わんです。あんた方の銅像に対する、
俊明の鑑査はじゃね。」
古帽子で、ポンと膝頭を
敲いて、
「今の一言の通りです。」
父子は、太き息を通わせて、目を見合った。
「せち辛い世の中ですで、鑑査の報酬を要求します。はっはっはっ。その料金としてじゃね、怪我人を病院へ
馳らす、自動車を使用しまするぞ。
||用意!
······自動車屋。」
柄杓とともに、助手を投出すと
斉しく、俊明先生の
兀頭は皿のまわるがごとく
向かわって、
漂泊の男女の上に
押被さった。
「
別嬪。」
「あれ、天
······狗
······さん。」
「しかり、天狗が
承合うた、きっと治るぞ。」
道中皺の
手巾で、二人の頭も顔も涙も一所くたに
拭いてやりつつ、
「する事は乱暴じゃが、ああ、優しいな。」
と、ほろりとして言った。
昭和三(一九二八)年二月