一、合掌する屍体
前捜査局長で目下一流の刑事弁護士である
小石川清水谷の坂を下ると、左手に樫や
三尺四方もある大きな敷石が、本堂の横手から始まっていて、薬師堂を卍形に曲り、現場に迄達している。堂は四坪程の広さで、玄白堂と云う
細かい砂礫を敷き詰めた堂の内部には、蜘蛛の巣と煤が鐘乳石のように垂れ下っていて、奥の暗がりの中に色泥の剥げた伎芸天女の等身像が、それも白い顔だけが、無気味な生々しさで浮き出していた。それに、石垣にあるような大石が、天人像近くに一つ転がっている所は、恰度南北物のト書とでも云った所で、それが何んとも云われぬ鬼気なのであった。
法水の顔を見ると、
「いいかね法水君、これが発見当時その儘の状況なんだぜ。それが判ると、僕が
法水は努めて冷静を装ってはいたが、流石心中の動揺は覆い隠せなかった。彼は非度く神経的な手附で屍体を
「どうだい、この屍体は、実に素晴らしい彫刻じゃないか」と熊城が、寧ろ挑戦的な調子で云った。
「何処から何処まで不可解ずくめなんて、ピッタリと君の趣味だぜ」
「なァに、驚く事はないさ。新しい
「それは、被害者の胎龍だけが、繁くこの堂に出入りしていたと云うからね。多分その辺に原因があるに違いないぜ。それから、今朝八時に検屍したのだが、死後十時間以上十二時間と云う鑑定だ。然し、傷口の中に羽蟻が二匹捲き込まれている所を見ると、絶命は八時から九時迄の間と云えるだろう。昨夜はその頃に、羽蟻の猛烈な襲来があったそうだよ」
「すると、兇器は?」
「それがまだ
堂の右端にある敷石から、そこと大石との間を往復している雪駄の跡があって、もう一つその右寄りに、二の字が大石の側迄続いているのだが、日和下駄はそこへ脱ぎ捨てられてある。(前頁の図を参照されたい[#図は省略])その間、検事は日和下駄の歯跡の溝を計っていたが、
「どうも、体重の割に溝が深いと思うが」
「それは暗い中を歩いたからさ。明るい所と違って、兎角体重が掛り勝ちになるからね」と法水は検事の疑念に答えてから、何んと思ったか、巻尺を足跡の辺で縦にすると、それがコロコロ左手に転がって行く。彼はそれを無言の中に眺めていたが、やがて熊城に、「君は、殺人が一体何処で行われたと思うね」と訊ねた。
「歴然たるものじゃないか」熊城は異様な所作に続く法水の奇問に、眼をパチクリさせたが、「とにかく見た通りさ。被害者は日和を脱いで大石に上ってから、やんわり地上に下りたのだ。そして、雪駄を履いた犯人が、背後から兇行を行ったのだよ。然し、屍体の形状を見ると、無論それには、破天荒な
「

法水はそれには別に意見を吐かなかったが、再び屍体を見下ろして
「熊城君、帽子の
「そうかも知れない」熊城は珍らしく神妙な合槌を打った。
「場所もあろうに、頭の
「たった、これだけのものさ。||尖鋭な鏨様のものが兇器らしいが、それも強打したのではなく、割合
意外な断定に、二人は思わずアッと叫んだが、法水は
「その証拠には、尖鋭な武器で強打した場合だと、周囲に小片の骨折が起るし、
「それなら尚更、苦痛の表出がなけりゃならんが」検事は片唾を呑んで法水の言葉を待ったが、その時別人のような声で熊城が遮った。
「所で、君に最後の報告をして置こう」と彼は驚くべき二人胎龍の事実を明らかにしたのである。「信ずる信じないは君の判断に任すとして······。実は細君の柳江が昨夜十時頃に、薬師堂の中で祈念している胎龍の後姿を見たと云うのだがね」
「すると、それが屍体だか犯人の仮装だか、それとも、奇蹟が現われて、被害者がその時まだ生きていたのか······」と法水は、暫く明るい楓の梢を睨んでいたけれども、それには大して信を措かぬもののように、不図別な事を熊城に訊ねた。
「では、昨夜の事情を聴かせて貰おう」
「それは、宵の八時頃に被害者が薬師堂に上って、護摩を焚いたと云うのが始まりで、それなり本堂へ戻って来ず、今朝六時半になって寺男の浪貝久八がこの堂内で屍体を発見したのだ。それに、境内は四の日の薬師の縁日以外には開放されないのだし、建仁寺垣の内側にも、越えたらしい足跡はないし、周囲の家を調べてみても、不審な物音や叫び声は一向に聴かなかったと云う。また、胎龍と云う人物は、歌と宗教関係以外には交渉の少ない人で、怨恨等はてんで外部に想像されない許りでなく、この三月程の間は外出もせず、絶対に人と遇わなかったそうだよ。それでなくても、犯人寺内説を有力に証明しているのは、この雪駄が被害者の所有品だと云う事なんだ」そう云ってから、熊城は大仰な咳払いをして、「だから法水君、鳥渡考えただけでは、僕等は全然、この
法水は真剣な態度で聴いていたが、
「勿論犯人は寺内にある。所で、君はいま、胎龍が三月許り誰にも遇わなかったと云ったね」と尤もらしい歯軋りをして、まるで夢見るように、視線を宙に馳せた。「すると、やはりあれかな。いや断じてそれ以外にはない」
「と云うと、何を考え付いたのだ?」
「大した事じゃないがね。僕は地史学者じゃないが、一つの骨片を発見したのだよ。それで、骨格の全貌だけでも想像付くと云うものさ」
「フム、そうすると」
「と云って、指紋のような直接犯人の特徴を指摘出来るものではない。今も云った通り、屍体の謎を貫いている凄まじい底流なんだ、つまり殺人技巧の純粋理論なんだが、その軌道以外には、この変種が絶対に咲かない事を記憶して欲しいと思うね」
「冗談じゃない」検事は眼を円くした。「僕等の発見は遂に尽きている筈だぜ。そして、流血の
法水は検事を
「その解答がこれさ||つまり、一本の脈線なんだよ。屍体の謎が各自に分裂したものでない感じはしていても、今迄はそれに漠然とした観念しか持てなかったのだ。所が、そう云う不可解現象の
「成程」検事が思わず膝を打つと、
「すると、催眠術かね?」と熊城も思わず引き入られたように叫んだ。
「いや、催眠術じゃない。と云うのは、胎龍が三月も人と遇わなかったのでも判る! 当人に気付かれずに施術出来るような術者は、恐らく寺内にはあるまい。無論、数ヵ月前に暗示して置いた後催眠現象が発したのではないかと云う懸念があるけれども、それには、胎龍に豊富な催眠経歴が必要なんだよ」と法水は、まず入念に熊城の疑惑を解いてから、彼の説を語り始めた。
「所で僕の
「だが、そこで問題なのは、絶命と同時に果して強直が起ったかどうかなんだよ。支倉君は強直前に犯人の手が加わったのではないかと云うけれども、僕には強直が同時でないと、屍体の合掌を説明する方法が全く尽きてしまうのだ」
熊城は晦渋な霧のようなものに打たれて沈黙したが、検事は懐疑的な眼を見据えて、
「それで、僕はあれが気になるんだよ。ホラ、像の頭から右斜かい上に五寸程の所と、左右の板壁に二つと||それを直線で結び付けると恰度屍体の頸筋辺で結び付くんだが||節穴が三つあるだろう。元より作ったものじゃないけれども、あんな所から、非常に単純な仕組で、それでいて効果の素晴らしい、何か弛緩整形装置とでも云いたいものを、犯人は考案したのではないだろうか。勿論
「ウン、僕も先刻から気が付いているのだ。おまけに、どの孔の前にも蜘蛛の巣が破れている」法水は鳥渡当惑の色を泛べて云ったが、その顔をクルッと熊城に向けて、
「関係者を訊問して何か収穫があったかね」
「所が、動機らしいものを持った人物が一人もいない始末だが、その代り、どれもこれも、一目で強烈な印象をうける||
一同は本堂に向ったが、その途中、瀝青色をした大池の彼方に、裏手の雫石家の二階が倒影している。本堂の左端にある格子扉をあけると、四坪程の土間から黒光りした板敷に続き、次の陰気な茶の間を通って、廻り縁から渡り廊下で連なっているのが、厨川朔郎の室である。
然し其処には、不似合に大きな柱時計と
二人の私服に挾まれて、
彼は法水を見ると、
「ヤア、漸と助かりましたよ。実は、法水さんの御出馬を千秋の思いで待ち焦がれていた所なんです。全く熊城さんの無茶な推定にはやり切れません。鏨が一本発見された位の事や、僕の室の窓外にある裏木戸から薬師堂の前へ直接出られる位の事で、僕を犯人に擬すると云う始末ですからね。それに、鏨と云われて探してみると、もう一本あったのが何時の間にか紛失しているのですが、それをどんなに述べ立てても、僕を少しも信用してくれないのですからね。では、昨夜の行動を申上げましょうか」と云って、||四時に学校から戻って、それから室でゴーガンの伝記を読んでいて、七時に夕食に呼ばれ、九時頃蒟蒻閻魔の縁日に出掛けて十時過ぎに帰宅したと云う旨を、要領よく述べ立てた。その堂々たる
その間法水は
「ハハァ、鉄輪の俥があった頃の趣味だね」と法水は初めて朔郎に声を掛けた。
「ええ、奥さんと云う方は、古風な大店の
「すると、君は背景描きをやっているのかい」そう云って法水が端の一本を摘むと、それは、紙芯に銀紙を被せた柔かい紐だった。
その時窓外からボンと一つ、零時半を報らせる沈んだ音色が聴こえた。それは朔郎の室に
それから、朔郎の饒舌が胎龍夫妻の疎隔に触れて行って、散々夫人の柳江を罵倒してから、最後に頗る興味のある事実を述べた。
「そう云う風に、今年に入って以来の住持の生活は、全く見るも痛々しい位に淋しいものでした。それでこの三月頃には、時々失神した様になって持っていたものを取り落したり、暫く茫然としている事などもありましたし、その頃は妙な夢ばかり見ると云って、僕にこんなのを話した事がありましたっけ。||何んでも、自分の身体の中から侏儒の様な自分が脱け出して行って、慈昶君の
二、一人二役、||胎龍かそれとも
朔郎を去らせてから引続きこの室で、柳江、納所僧の空闥と慈昶、寺男の久八||と以上の順で訊問する事になった。褪せた油単で覆うた本間の琴が立て掛けてある床間から、蛞蝓でも出そうな腐朽した木の匂いがする。それが、朔郎の言葉に妙な聯想を起すのだった。
「厨川朔郎と云う男には、犯人としても、また優れた俳優としての天分もある。けれども、疚しい所のない人間と云うものは、鳥渡した悪戯気から、つい芝居をしたくなるものだがね。それに······」
「いや、あの男はもっと他に知っている事があるんだぜ」検事はそう云って
「ねえ熊城君」と
それから、彼は窓の障子をあけて、土蜘蛛の押絵をあちこちから眺めすかしていたが、
「ホホウ、恐ろしく贅沢なものだな。
柳江は過去に名声を持つ女流歌人で、先夫の梵語学者鍬辺来吉氏の歿後に、胎龍と再婚したのだった。
「ハァ、午後からずうっと茶の間に居りましたが、多分七時半頃で御座いましたでしょう。主人が雪駄を突掛けて出て行った様子で御座いましたが、程なく戻って来て、薬師堂で祈祷すると云い、慈昶を連れて出掛けましたのです」
「では、あの雪駄が

「ハハハハ熊城君、多分この矛盾は、間もなく判る筈だよ。それから奥さん、その時御主人の様子に、何か平生と変った点があったのをお気付きになりませんでしたか?」
「ハァ、別に最近の主人と変ったような所は御座いませんでしたが、どうした訳か、空闥さんの日和を履いてしまったので御座います。それから十五分程経って、慈昶が戻ったらしい咳払いを聴きましたけれども、空闥さんはその時、本堂脇の室で檀家の者と葬儀の相談をしていた様子で御座いました。主人は二、三日来咽喉を痛めて居りますので、黙祷と見えて読経の声も聴こえず、夕食にも戻りませんでした。ですから、毎夜の例で十時頃に、私が池の方へ散歩に参りました途中、薬師堂の中で見掛けましたのが、最後の姿だったので御座います」
「所が、その時とうに、御主人は玄白堂の中で屍体になってた筈なんですがね」
「それを私にお訊ねになるのは無理で御座いますわ」柳江には全然無反響だった。「決して、
「すると、扉が開かれていた事になる」熊城が誰にともなしに云った。「慈昶はピッタリ閉めて出たと云うのだがね」
「屹度、護摩の煙が罩もったからだろう」法水は大して気にもせず質問を続けた。「所で、その時何か変った点に気が付きませんでしたか?」
「ただ、護摩の煙が大分薄いな||と思った位の事で、主人は行儀よく坐って居りましたし、他には何処ぞと云って······」
「では、帰りにはどうでした?」
「帰り途は、薬師堂の裏を通りましたので······。それから十一時半頃でしたが、主人の室の方で歩き廻るような物音が致しました。私は、その時戻ったのだと信じて居りましたのですが」
「跫音

「それには、この二月以来の主人をお話しなければなりませんが」と柳江は漸と女性らしい抑揚になって、声を慄わせた。「その頃から、何か唯事でない精神的打撃をうけたと見えまして、昼間は絶えず物思いに耽り、夜になると取り止めのない譫言を云うようになりました。そして身体に眼に見えた衰えが現われて参りました。所が、先月に入ると、毎夜のように薬師堂で狂気のような
「成程······。所で、今度は頗る奇妙な質問ですが、長押にある押絵の左眼は、あれは、とうからないのですか?」
「いいえ」柳江は無雑作に答えた。「一昨日の朝は、確かにあったようでしたけども······。それに、昨日あの室には、誰一人入った者が御座いませんでした」
「有難う、よく判りました。所で」と法水は始めて鋭い訊き方をした。「昨晩十時頃に散歩に出たと云うお話でしたが、昨夜はその頃から曇って、非常に気温が低かったのですよ。確かそれは、散歩だけでなかったのでしょうね」
その瞬間血の気がサッと引いて、柳江は衝動を耐えているような苦し気な表情をした。所が、法水はどうした訳か、その様子を一瞥しただけで、彼もまた深い吐息をつき、柳江に対する訊問を打ち切ってしまったのであった。
柳江が去ると、熊城は妙な片笑いを泛べて、
「聴かなくても、君には判っているのだろう」
「サア」法水は曖昧な言葉で濁したが、「然し、似れば似たものさ。勿論偶然の相似だろうが、この顔が実に伎芸天女そっくりだとは思わんかね」
「それより法水君」検事が莨を捨てて坐り直した。「君は何故、押絵の左眼を気にしているんだ?」
それを聴くと、法水は
「では、実験をする事にしようかな。昨夜、此の室に
そして、彼自身がまず閾の上に乗って力を加え、片手で板戸を押したが、板戸は非度い音を立てて軋った。所が、次に熊城を載せると、今度は滑らかに走る。と同時に、押絵を見ていた検事がウーンと唸った。
「どうだい。
二人分||それは犯人と屍体とを意味する。果して一人か二人か? そして、此の室で何事が行われたのだろう? それとも眼膜剥落は、法水の推測とは全然異なる経路に於いて、起されたのではないだろうか? と様々な疑問が、宛ら窒息させん許りの迫力で押し被さって来る。が、その空気は間もなく空闥に依って破られた。この老達な説教師は、摩訶不思議な花火を携えて登場したのであった。
空闥と云う五十恰好の僧侶には、被害者と
||三月晦日の夜、月が出て間のない八時頃の事だった。突然慈昶と朔郎が駈け込んで来て、玄白堂に妖しい奇蹟が現われたと云うのである。それが、天人像の頭上に月暈の様な浄い後光がさしたとの事なので、ともかく一応は調べる事になり、胎龍と空闥の二人が玄白堂に赴いた。所が、堂の内外には何等異常がない許りか、試みに頭上の節穴から光線を落してみても、髪毛の漆が光るに過ぎない。そして、とうとう不思議現象の儘残ってしまったのだが、その翌日から胎龍の様子がガラリと変って、懐疑と思念に耽るようになったと云うのである。
「然し、朔郎は何んとも云いませんでしたよ」聴き終ると法水は、鳥渡皮肉な質問をした。
「そうでしょう。あの大師外道めは、誰かの念入りな悪戯だと云いますでな。てんで念頭にはありますまい。然し、科学とやらでは、どうして解く事が出来ましょうか。いや、解けぬのが道理なのですじゃよ」
「すると、像の後光はその時だけでしたか」
「いや、その後にもう一度、五月十日にありました。その時見たのは、つい
「今度のは何時頃でしたか?」
「左様、確か九時十分頃だったと思いますが、恰度その時私は時計の捻子を捲いて居りましたので、時刻は正確に記憶しとりますので」
次の慈昶は最も他奇のない陳述で終り、一日中外出せず自室に暮していたと云うのみの事だったが、頭蓋がロムブローゾなら振るい付くだろうと思われる様な、一種特異な形状を示していた。法水は慈昶に対する訊問を終えると、胎龍の室に赴いて何やら捜していたが、再び戻って来ると、続いて寺男の浪貝久八を呼ぶように命じた。然し、その||
「確か十時半頃でしたか、誰が鎖を解いたものか、飼犬の啼き声が池の方でしますのでした。それで、捕えに行こうとして薬師堂の前を通ると、
「なに、君もか」瞬間、思わず三人の視線が合ったけれども、久八は無関心に続けた。
「所が、その時可笑しなものを見ましてな。縁日の晩にしか使わない赤い筒提灯が両脇に吊してありまして、二つ共に灯が入って居りました」
「ホウ、赤い筒提灯が

「それから池の畔に行ったのですが、真暗なので犬を深す事が出来ません。それで致し方なく、口笛を鳴らしながら
「では、帰りにも提灯が点いていたかね?」
「いいえ、提灯どころか、扉が閉っていて真暗でしたが」
それで、関係者の訊問が終了した。久八が去ると、法水はグッタリとなって呟いた。
「成程、動機と云えるものがない。それに、斯う云うダダッ広くて人間の少ない家の中では、元来
「けれども、君の云う、
「所が、いま全体の陰画が判ったのだよ。胎龍の心理が、どう云う風に蝕ばまれ変化して行ったかと云う······」
「フム、と云うのは」
「それはこうなんだ。実は、先刻胎龍の室を捜して、僕は手記めいたものを発見したのだ。勿論他には注目するに足る記述はないけれども、夢を書き遺してくれたので、大変に助かったよ。||五月二十一日に、近頃幾晩となく、木の錠前に腰を掛けた夢を見るのはどうした事だろうとある。それから六月十九日に、自分の一つしかない右眼を刳り抜いて、天人像に欠けている左眼の中に入れた||とあるのだよ。所で、僕はフロイトじゃないが、早速この夢判断をする事にした。実にそれが、胎龍の歪められて行く心理を、正確に描写してあるのだ。で、まず最初に、三月頃胎龍に時々起った失神状態と云うのを説明して置くが、それは、性的機能の抑欝から起る麻痺性の疲労なんだ。その証拠が、

云い終ると、法水は唖然とした二人を尻目にかけて、悠然と立上った。
「さて、空闥に案内して貰って薬師堂を調べる事にしよう」
薬師堂の階段を上ると、中央には香の燃滓が山のように堆積している護摩壇があり、その背後が厨子形の
「何処を見ても、埃がないですね」と法水が、怪訝そうに空闥に云うと、
「縁日の前日が掃除日でして、未だ三日許りしか経ちませんのですから、足型が残ると云う程の埃はありません。その時、此の筒提灯の中も掃除しますので」
そう云って、空闥が両手に提げて来たのは、伸ばした全長が人間の背丈程もあって、鉄板製の口径が七寸にも及ぶ、真紅の筒提灯が二つ。蝋燭は二つ共に、鉄芯が現われる間際まで燃えていて、其処で消したらしい。法水は、此の提灯から結局何も得る所はなかった。護摩壇前の経机には、右端に般若心経が積み重なっていて、胎龍が唱えたらしい秘密三昧即仏念誦の写本が、中央に拡げられてある。杵鈴を錘に置いて開かれている面と云うのは、「五障百六十心等三重赤色妄執火」と云う一節だった。
「この一巻を始めから唱えていたとすると、此処迄に何分位
「左様、二、三十分ですかな」と空闥が答えた。
「すると、八時から始めたとして、八時三十分かな

「ウン、或は、此処で屍体にしたのを、玄白堂に運び込んだのかも知れない。筒提灯が一つ加わったので、遂々天秤が水平になっちまったよ」と熊城は当惑したように云ったが、その鼻先に、法水は小さな紙包を突き出して、
「これを鑑識課に廻して、顕微鏡検査をして呉れ給え。黒い煤みたいなものなんだが、薬師三尊のうちの、月光の光背にだけ附いていたんだよ」と云ってから、
「赤と赤、火と火!」と小声で、夢見るような呟きをした。
薬師堂の調査を終ってから池畔に出ると、法水が何時の間にか喬村の許へ使を出したと見えて、一人の刑事が一通の封書を手に戻って来た。それには、走り書で次のような文章が認められてあった。
||胎龍君が殺害されたとは実に意外だ。だが、それ以上驚かされたのは、僕が何時の間にか事件中の一人になっていると云う事だ。君は、柳江が僕と結婚するために胎龍君の許を去りたがっている旨を告白したと云う。如何にも、それは事実だ。事実僕は柳江を愛している。そして、二人の関係は去年の暮以来続いているのだが、それが単純な思慕以上には、一歩も踏み出していない事を断って置きたい。勿論昨夜も十時頃だったと思うが、物干から下りて、十分許り池の畔で彼女に遇った。然し、幾ら世事に迂遠な僕でも、密会に均しい場所で誰が莨なんぞ喫うもんか! 以上君の質問にお答えしておく。独身の画描きに確実な不在証明のないと云う事は、万々承知の上だけれども、正直が最善の術策なり||と信ずるが故に······。
読み終って、法水は悔む様な苦笑をした。
「友情を裏切って、カマをかけて······そして判ったのは、柳江が云えなかったものだけだったよ。態を見ろ法水!」
それから、彼は独りで池の対岸に行き、水門の堰を調べてから、探し物でもする様な恰好で、俯向きながら歩いていたが、やがて一本の蓮の花を手に戻って来た。
「妙なものを見付けて来たよ」そう云って、花弁を

「堰近くにあったのだが、どうだ良い匂いがするだろう。タバヨス
「······」検事と熊城は、莨の灰が次第に長くなって行くけれども、遂に答えられなかった。
「判らなければ、僕の方から云おう。犯人が、池の水で血に染んだ手を洗ったのだが、その時附近に水浸しになっていた
ああ法水は、その水流から、何を掴み上げたのだろうか?
「判らなくては困るね。犯人でなくても、誰しも水準の異なった二つの池があれば、それを利用するだろうからね。つまり、此の池の水面を僅か程下げてから、玄白堂の右手にある、池と池溝との間の堰を切ったのだ。すると、池の水が水面の低い池溝の中へ一度に押し出すので、岩の尽きた堂の左側に来ると、ドッと地上に氾濫する。その水勢が地上の細かい砂礫を動かして、堂の左側から胎龍の背後にかけて、そこに残されている足跡を消してしまったのだよ。所が、僕が巻尺を転がして試した通りに、堂内は右手から左手にかけて勾配がついているのだから、雪駄と日和の痕がある辺までは、水が届かない。そして、あの辺は早朝だけ陽差が落ちるので、そうして濡れた跡が、屍体を発見する頃には遂に乾いてしまったのだよ」
「すると、
「だが、犯人は何故莨を喫ったんだろうな。殺人を犯した人間が、誰が見ているかも知れないのに莨を喫うなんて······その心理が僕にはどうしても判らない。それとも、喬村が捜査官の心理を逆に利用しようとしたのかも知れないが、動機らしいものとそれだけでは、どうしても、喬村を縛る気が出ないじゃないか」
検事は更に語を続ける。
「それから、謎はもう一つある。と云うのが、提灯の奇体な出没さ。十時に柳江が見てなかったものが、十時半には灯が入って下っていた。またそれが、十一時になると姿を消しているのだ。その三段階の出没に、一体どう云う犯人の意図が含まれているのだろう?」
「ウン、全くあれには惑殺されるよ」熊城も暗然となって呟いた。「それ迄僕は、てっきり犯人の変装だと信じていたのだが、あれに打衝って、その考えが根底から崩れてしまったよ。護摩の火の光だけなら、恐らく有効だろうがね。あのように、左右へ提灯を吊すとなると、莨の火と同様正体を曝露する惧れがある。と云って、それを屍体だとする事は、より以上現実に遠い話だからね。大体法水君、君の意見は?」
然し法水には、何故か生気があった。
「所がねえ、僕は君達と違って、あの提灯を動かさずに観察して見たんだよ。提灯の中の蝋燭の火だけを凝然と瞶めていたのさ。すると、犯人の不思議な殺人方法が、何んとなく判って来るような気がして来たんだ。今に、天人像の後光と筒提灯との光との間に、一体どう云う不思議な機械が廻転していたものか||それが、屹度判る時期が来るに違いないよ。とにかく、今日は此れだけで打ち切って、僕によく考えさせて呉れ給え」
そうして、事件の第一日は、謎の山積の儘で終ってしまったが、果して熊城は、柳江・喬村・朔郎の三名を拘引したのだった。
三、二つの後光
その夜
「いま朔郎を放免した所なんだよ。彼奴に
然し、法水のどんより充血した眼を見ると、夜を徹した思索が如何に凄烈を極めていたか||想像されるのだが、そうして熊城の話を聴き終ると、その眼が俄かに爛々たる光を帯びて来た。
「そうかい。すると、遂々劫楽寺事件の終篇を書ける訳だな。実は、朔郎に
その翌日だった。法水は開演を数日後に控えている、鰕十郎座の舞台裏に姿を現わした。午前中の奈落は人影も疎らで厨川朔郎は白い画室衣を着て、余念なく絵筆を動かしている。その肩口をポンと叩いて、
「やあ、お芽出度う。時に厨川君、君は昨日柱時計を修繕したのかい?」
「何んです? 僕には一向に呑み込めませんがね」朔郎は怪訝な面持で云った。
「でも、あの日から君の時計の時鳴装置が、どんな時刻にも、一つしか打たなくなった筈だがね。それが、今日君の留守中行ってみると、何時の間にか普通の状態に戻っているんだ。しかし、君は恐らく口を噤んでしまうだろうから、僕が代って云う事にしよう」と最初法水は、極めて平静な調子で云い出したのであったが、それにつれて、朔郎の唇に現われた痙攣が次第に度を昂めて行った。
「それには、最初準備行為が必要だったのだよ。君は自分の室の時計に綿様のものを
「どうかしてますね貴方は

「成程、十本の中で両端の二本宛は単純な絹紐だよ。所が、中の八本は本物の小道具なんだ。土蜘蛛の糸にはもう二十年此の方、電気用の
「いや、実に奇抜な趣向です。しかし、一体それは、貴方の独創なのですか」朔郎は膏汗をタラタラ流し、辛くも椅子の背で倒れるのを支えていたが、強いて嘲ける様な表情を作った。
「いや、君の鳥渡した手脱りからだよ。大体、
「すると、もうそれだけですか?」朔郎は思わず絶望的にのけぞったが、なおも必死の気配を見せた。
「まだある。今度は像の後光だよ。然し、実に巧く月の光線を利用したもんだなア。月夜には頭上にある節穴から、約五分程の間だけ、像の後頭部に光が落ちる。それを知ったので、像に後光が現われた時刻を調べてみると、二回とも、節穴から月光が洩れる刻限に当っているらしい。それで、後光の全貌が判ったのだよ。つまり、最初の夜は、臭化ラジウムと硫化亜鉛とで作った発光塗料を、

曝露された犯罪者特有の醜い表情は、遂の間に消え失せていて、朔郎の顔は白蝋の仮面さながらだった。
「だが、一体胎龍は、何処でどんな兇器で殺されたのだね? それから、屍体の状態とあの不可解極まる表情は? それ以外にも、此の事件には、数々の謎が含まれているのだが······?」と熊城は、一息入れる隙を法水に与えなかった。
「ウン」
「では、厨川君の計画を最初から述べる事にするから、その中に現われて来るものを、よく注意していてくれ給え。所で此の事件は、三月晦日の天人像の怪異で幕が上るのだが、それ以前に、胎龍の語る夢を精神分析的に解釈して、最初の機会が熟するのを待っていた。そして案の状、投げた
「·········」朔郎は機械人形の様に頷いた。
「そして厨川君は、それ以外の三月余りの間を、絶えず夢を語らせては、その精神分析に依って、胎龍の脳髄中に成長して行く組織の姿を、冷然と見守っていた。と云う所迄が
「なに

「ああ、貴方は実に怖ろしい人だ!」と呻く様に朔郎が嘆息した。然しながら、法水にとっては、その真相も、一つの事務的な整理に過ぎなかったのであった。
「所が、それが線香花火なんだよ。厨川君は、薬師仏の背後の壇上にある聖観音の首に、鏡を
それから筒提灯が何をしたか||法水の説明は、最終の
「そこで厨川君は、珠数の垂れを合掌している両手に絡めて置き、予め鋭利に研ぎ澄まして置いた提灯の鉄芯を顱頂部に当てて、それを渾身の力で押し込んだのだ。しかし胎龍は、焔々たる地獄の業火と菩薩の広大無辺な法力を、ホンの一瞬感じただけで、その儘微動もせず無痛無自覚のうちに死んで行ったのだよ。すると熊城君、その脳組織侵害法が君の所謂機構だったと云う事が判るだろう。それから僕が、その機構と殺人具とを繋ぐ不思議な型の歯車と云ったのが、取りも直さず、あの筒提灯だったのだよ」
「だが、どうしてそれと判ったね?」熊城は溜めていた息をフウッと吐き出して、汗を拭った。
「その一つは、厨川君は線香花火と月光像との間に、何か仕切を置くのを忘れたからだよ。線香花火は硝石と鉄粉と松煙の混合物だからね。そして、鉄粉は松葉火になって空気中に出ると、酸化して角が丸くなってしまうのだ。それから、もう一つは数字的な符合なんだよ。と云うのは、提灯の口金と胎龍の頭蓋との
「成程」熊城は頷いて、眼で先を促した。
「で、此処迄判れば、屍体が絶命前の強直状態をその儘持続したと云う事が確実になる。事実、珠数の緊縛を解いて重心を定めたので、恰度祈祷中宛然の姿を保つ事が出来たのだ。おまけに、蝋受の皿がペッタリと
「成程、それで提灯を灯した理由が判る」
「ウン、あれには、すんでの事で瞞される所だった。全く自然な陰蔽方法だからな」法水は
「何しろ、血に染んだ個所と云うのが、鉄芯から蝋受皿の内側にかけてだけだろう。だから、その部分を洗ったにした所で、後で蝋燭を鉄芯の間際迄灯すから、尖鋭な槍先から下の不自然な部分が流れる蝋ですっかり隠されてしまう。併し、それを吊して人目に曝したのは、狡猾な擾乱手段に過ぎないのだ」
「すると、堰を切ったのも厨川だろう」
「そうだ。久八が堂の前を通ると、すぐに灯を消して池の畔へ出たのだ。それは、喬村君と柳江が毎夜会うのを知っていたので、それを利用して、僕等の視線を喬村君に向けようとしたからだ。所で厨川君は、最初に久八の犬の鎖を解いて池畔で放し、その鳴声に依って久八を誘き出してから、今度もまた向う岸で、線香花火を使ったのだよ。前以って血粉を混ぜたのを一本作って置いて、それに点火したのだが、血粉が溶けるので松葉火が出ず、一塊の火団となって池の中へ落ちたのだ。つまり、それが喫い終った莨を捨てたと見た、あの目撃談の正体なんだよ。しかしその時、厨川君は見当を付けて昼間のうち一本水浸しにして置いた、タパヨス
朔郎は、囚われた犯罪者とは到底思われぬような、澄み切った瞳を向け、冷静な言葉で云った。
「僕は父の復讐をしたのです。父は胎龍と年雅塾の同門だったのですが、官展の出品で当選を争った際に、胎龍は卑怯な暗躍をして、父を落選させ自分が当選しました。父はそれを気に病んでから発狂し、一生を癲狂院で終ってしまいました。ですから子たる私は、どうしても眼で眼に酬いてやらねばならなかったのです。それから、喬村には理由はありません。ただ、動機と目される様な行為を続けていたので、それを利用したに過ぎなかったのでした」
と云い終るが早いか、朔郎は突然身を飜えして、背後にある
