ことしは、雨の多き年なる哉。春多くふりたり。更に四月の始めに大雪ふりたり。六月に入りて、雹さへ降りたり。この具合にては、梅雨の候は、所謂
中野に三重の塔あり。これ西郊の一名物也。杉の木立に圍まれたる中に、屹然として立つ。最上層の屋根やぶれ、たるき朽ち、下層の屋根には、草生ひ、欅の若木さへ生ひたり。古塔と云はむよりも、むしろ廢塔といふべく、余は、一種の詩趣を覺ゆるまゝに、常に好んで、散歩するにつれて之を訪へり。さきごろ訪ひし時は、二人の大工、
かへるさ、辨天飴の前を過ぐ。山本碧葉、余を見て、座に延く。辨天飴は、中野の一名物也。店頭の辨慶の木像古りて、これも一種の詩趣を帶びたり。碧葉は、俳句をよくす。去年の秋より相識れる仲也。頻に余をもてなし、終に短册を取出して、何か書けといふに、さらば、君の家の看板の辨天を讀み込まむとて、
梅雨ばれや店の辨天の像光る
古塔にて、共に何か句をつくらずやとて、廢塔のあせし丹塗や夏木立 碧葉
晝顏に拾ふ古塔の瓦哉 同
われは、晝顏に拾ふ古塔の瓦哉 同
杉の根に塔を見上げて凉む哉
日光の力衰へたりとて、簾をまけば、神田川の支流なる小川、さら/\流る。斜日若葉を洩れて、水に落ち、所謂水明の觀を呈す。石榴の花もさきたり。この面白き光景に對して、一句なかるべからずとて、早き瀬の夕日に光る若葉哉
(明治四十三年)