······一つの
その空家は丁度或るやや急な傾斜をもった坂道の中腹にあった。一たいに坂道というものがどれでも多少人を夢見心地にさせる性質のものである。そういう坂道の中途まで来てふと足を止めた瞬間、ひょいとそんな荒れ果てた庭園が目に入るので、人はますますその空家を何だか夢の中ででも見ているような気がするのである。
或る日のこと、その坂道を一人の少年と一人の少女とが互いに肩をすりあわせるようにして降りてきた。小さな恋人たちなのかも知れない。そう云えば、さっきから自分等のための love-scene によいような場所をさんざ捜しまわっているのだが、それがどうしても見つからないですっかり困ってしまっているような二人に見えないこともない。||
そんな二人がその坂の中途まで下りて来て、ふと足を止めて、そういう絵のような空家とその庭とを目に入れたのである。それを見ると、二人は互いに目と目とでこんな会話をしたようだった。「ここなら誰にも見られっこはあるまい」「ええ、私もそう思うの······」
そう決めたのか、二人はその坂の中腹から彼等の脊ぐらいある雑草をかき分けながらその空家の庭へずんずんはいって行った。ちょっと不安そうな眼つきで横文字の書いてある標札をちらりと見ながら。······
その庭園の奥ぶかくには、彼等が名前を知らないような花がどっさり咲いていた。少年はその一つの
「やあ、
「あら、あれは薔薇じゃありませんわ」少女の声はまだいくらか少年よりも落着いている。「あれは
「そうかなあ······」
少年はすこし不満そうに見える。それから二人は黙ったままその空家のまわりを一巡して見た。
が、その家の裏手に、そこの庭園から丁度露台へ上るような工合にして直接にその家の二階へ通じているらしい、
「ちょっとあれへ上って見ないこと?」
「うん······」少年は生返事をしている。
「そんなら私が先へ行くわ······」
それでもと云いかねて、やはり少年は自分が先に立ってその木蔦のからんだ階段をすこし危なっかしそうな足つきで上って行った。が、その中途まで上ったかと思うと、少年は急に足を止めた。そこの壁の上に彼の顔を
「やっぱり悪いから
そうしてそのまま二人は彼等の love-scene には持ってこいに見えたその空家の庭からとうとう立ち去ったのである。
少年はその家を遠ざかるにつれ、つくづく自分に冒険心の足りないことを悲しむばかりであった。そうしてその辺の外人居留地かも知れない洋館ばかりの立ち並んだ見知らない町の中を少女と肩をならべて歩きながら、そういう弱虫の自分に対して自分自身で腹を立ててでもいるかのように、急に
「君、メリメエという人の小説を読んだことがある?」
「いいえ、ないわ」
「そうかい、僕はその人の小説がとても好きなんだがなあ······僕はその人の短篇でね、『マダム・ルクレエス街』というのを読んだことがあるんだ······その中にね、丁度、今みたいな家が出てくるんだぜ、それは
「まあ······」少女はそんな突拍子もない少年の話を聴きながら顔を真っ赤にしていた。それに気がつくと、少年も顔を真っ赤にした。||そうしてしばらく気まり悪そうに二人は黙って歩いていたが、今度は少女の方が口をきいた。
「あなたは随分空想家ね」
「そうかなあ······」どうもこれは少年の口癖のように見える。
気がついて見ると、いつの間にか二人の前には五六人の、支那人の子供たちが立ちはだかっていて冷やかすように彼等を見上げているのである。二人は一層まごまごした。いつの間にこんな支那人町へなど足を踏み入れたのかしら。······
それは