戻る

温度

原民喜




 音楽室の壁に額があった。中年の猫背の紳士が時雨に濡れて枯芝のなかを散歩してゐる||冷え冷えする絵だ。濡れ雑巾を持った儘、どうした訳か、彼女はたった一人で掃除当番をしてゐたのだが、ガラス窓の外にはやはり絵に似た時雨雲があった。

 すると突然、先生がやって来た。はずみと云ふものは恐しく、彼女は何でもないのに真赤になってしまった。恐らくその音楽室が冷え冷えしてゐたためでもあらうか。


 彼女は身体がほてったり、冷えたりした。街で青年達を拾ったり、捨てたりした。

 一人の青年が彼女を抱いて自棄にキリキリ踊った。彼女は平気で従いて廻った。すると間もなくその男から彼女は結婚を申込まれた。


 もしも子が生れるとすれば、(ふと、彼女は女学校時代の気分に戻りつつあった。)do, si, la, sol, fa, mi, re, do ······この子の父は誰に似てゐるのだらう。

 すると突然、良人がやって来た。彼女は単純に顔をあからめた。






底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店

   1966(昭和41)年2月15日初版発行

入力:蒋龍

校正:伊藤時也

2013年1月24日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





●表記について



●図書カード