兄が石から火が出ると云って、手斧で花崗石を叩きつけた。その瞬間、彼の膚を冷やりとさす音と、石の粉と怪しい焔が飛んだ。何を思ってか兄は手斧の刃でギリギリギリと石を小擦り出した。正三は耳を掩って逃げた。
或る夜、兄が正三に便所の手洗鉢の側にある訳のわからない植物を指差して、「あそこは怖いぞお。」と脅した。その植物の葉には水がかかってゐて、繊細い月の光を受けてゐた。その茫とした光が目球のやうに正三には想へた。その頃から正三はやたらにものを怖がり出した。獅子の笛、あんまの笛、猫の眼、老婆のおはぐろ、街をつっ走る狂女、仏壇、押入れ、到るところに正三を脅しつけるものがゐた。
||正ちゃんは昨夜どんな夢をみたの。 と姉が訊ねた。
||大根の夢、茄子の夢、瓢箪の夢。
姉は嬉しげに噴き出してしまった。
||そんな夢ってないわ、大根がどうしたの、瓢箪が何か云ったの。
||どうしたのかもう忘れた。
||今に怖い夢をみるよ。 さう云って姉は眼を凄く見ひらいた。
||厭だ、厭だ、そんな怖い夢なんか。
||よく私の云ふことを肯かないと怖い夢をみせるよ。
||厭だ、厭だ、みせてはいらない。
||ええ大丈夫よ、ほら、あそこの
近所の床屋に唖者が来てゐると云ふので、正三は兄と一緒に見に行った。唖者は生っ白い顔をして、どうも忿ってゐるやうな顔だ。へんてこな手つきで頻りに何かしてゐた。正三は怖々覗いては逃げ、逃げては覗いた。
その罰で到頭彼は怖い夢をみた。気の狂った女が形相変へて正三を追駈けて来る。正三は逸散に家にむかって逃げるのだが、家までがなかなか遠い。やっと家の附近まで来たと思ふと、そこにあった一本の樹木がにょっと枝を出して邪魔をした。その枝の下を潜って玄関に飛び込むと、ピッタリ障子を立てた。狂女は無念さうに障子を睥むと、そこへ腰を下して、ガタガタ障子を足蹴にし出した。ガタガタと障子の内側では正三が慄へてゐた。