飛行機を眺めてゐたら朝子の頬にぬらりと掌のやうな風が来て撫でた。ふと、そこには臭ひがあって、彼女の神経は窓に何か着いてゐるのではないかと探った。とどかないところにあって彼女を嘲弄してゐるのは何だらう、銀翼も今朝は一寸も気分を軽くはしてくれない。その時天井の板がピンと自然にはじける音をたてた。人気のない家にゐるのが意識されて、視るとやはりゐた。蟻がもう這ひ出す季節なのだった。季節と云ふ厭な聯想を抹殺するために朝子は掌にしてゐる雑巾で蟻を潰した。
それから不図思ひ出したやうに机の上を拭き出すと、机の
それに彼女は台所が気にかかって耐らない。使用もしないのに瓦斯メートルがふと勝手にずんずん廻り出したらどうしよう。鼠が葱を噛って、葱の根に
その青筋だよ||と見えないところで夫の冷かす声がする。
しかし、この脅迫は何処から来るのだらう。それがただ一時の不安定な感覚の所為だけかしら。······彼女はカチリと或る核心に触れて悶絶したくなる。······信じてはゐても、縋らうとはしてゐても、夫の心はあてにならぬ。薄弱な、利己的な、制限のある男心。それから彼女は夫の苦境に降り注ぐ、世間の悪意を数へる。それらを勇敢に撥かへしもしないで、とかく内攻して鬱ぐ一方のおめでたい意気地なし。これからさきどうなるのかと嘆じても、僕にもわからぬと突放す。······結婚と云ふものはこんなものだったのかしら。彼女は自分が手足を縛られて極極の谷間に投げ捨てられてゐるやうに想へる。ふと、眼をやると、白熊がゐる。何だって肉屋の呉れたカレンダーに熊がゐるのだらう。
憎い肉屋、知らないったら新聞屋、困ったわ米屋||駄洒落まじりの憤りが、ふと心の一角で擡頭すると、その癖が夫の模倣であったのに気がついて朝子は再びむっとする。
||勇ったら、勇、勇ったら、こいつ
その時近所のおかみの子供を叱る例の怒号が始まり出すと[#「始まり出すと」は底本では「殆まり出すと」]、朝子はふと一種の共鳴を覚えた。