追憶
素木しづ
また
秋になつて、まち
子夫婦は
去年とおなじやうに
子供の
寢てる
時の
食後などは、しみ/″\と
故郷の
追憶にふけるのであつた。
今年もとう/\
行かれなかつたと、お
互に
思ひながらも、それがさしてものなげきでなく、
二人の
心にはまた
來年こそはといふ
希望が
思浮んでゐるのであつた。
[#「あつた。」は底本では「あつた」] まち
子の
夫の
末男は、
偶然にも
彼女とおなじ
北海道に
生れた
男であつた。
彼女はそれを
不思議な
奇遇のやうに
喜んだ。そしてお
互に
東京に
出て
來たことが
殆どおなじ
位の
時で、
彼女の
方が
少し
早い
位のものであつた。しかもクリスチヤンの
彼女の
夫が、まち
子も
日曜ごとに
通つてゐた
札幌のおなじある
教會に、
熱心に
通つてたことなどがわかると、
彼女はなんだか、とりかへしのつかない
殘念なことをしたやうに
思はれて、ならなかつた。
『どうしてお
互にわからなかつたんでせうね』
と、
彼女はいつも、その
頃の
自分の
樣子やいろ/\こまかい
出來ごとまで
思浮べながら
云つた。もはや、八
年ばかり
前のことである、まち
子は、まだ
赤色のリボンをかけた
少女[#ルビの「せうぢよ」は底本では「せうちよ」]ですこやかに
自由な
身體で、いま
現在のやうな
未來の
來ることなどは、
夢にも
思ふことなくクローバーの
原や、
廣い
大道を
飛びはねてゐたのであつた。
『
私は、
小さい
時運動家だつたのよ。』
まち
子は、そんなことを
訴へるやうに
夫に
云つた。
彼女は、
自分のすこやかな、
乙女の
時の
輕やかな、
快活な
姿を
夫に
見せることが
出來ないのを、
淋しいことのやうに
一人で
考へた。そして、それがなんとなく
彼に
對して
氣の
毒な、
彼女の一
生を
通じてすまないことのやうに、
思はれるのであつた。まち
子は、もはや
不自由の
足の
惡い、
自分の
肉體についてはあきらめてゐる。
勿論、
彼女の
夫は、
彼女以上、あきらめてゐるに
違ひない。
彼は、
松葉杖にすがつた、
淋しい
乙女であつた
彼女あはれな
妻である
彼女よりも、
知らないのであつたから。
||けれども、それが
彼女には、なんとなく、
情けないやうな
氣がするのであつた。
自分の
夫は、その
頃どんな
樣子をしてゐたらう。もしもその
時から
二人が
知り
合になつてゐたならば、どうなつたらう。やはり
夫婦になつたであらうか。それとも、かつて
知つてた
人として
思出すこともなくお
互に
忘られてゐたかもしれない。そして、またもしも
電車で、お
互に
東京に
來てゐたならば、
顏を
合せるやうなこともあるかもしれない。
まち
子は、そんなことをよく
考へることがある。
考へれば
考へるほど、
二人が
夫婦になつてゐるといふ
事も、
不思議であれば、
時の
中にこうして
生活してゐるといふことも、
不思議になる。
本當に
考へて
見れば、
一寸した
機會、また一
秒間の
時の
爲めに、
未來のどんな
運命が
湧き
出ないともかぎらないのだ。
私が
病氣して
海岸に
行かなかつたならば
海岸に
行つて
宿の
窓から、
海の
方を
見てゐなかつたならば
||、
彼女は
末男と
夫婦にならずに、
見ず
知らずの
人として
終[#ルビの「をは」は底本では「をほ」]つたかもしれない。
最も
親しい
人となるといふことも、
見ず
知らずの人として
終ることも、
大した
變化がないのだ、と
思ふと、まち
子はなんとなく、すべてがつまらないやうな
氣がして
來るのであつた。
『もしも、その
頃二人が
教會に
知り
合になつてゐたらどうなつたでせうね。』
『お
前が、十四五
位の
頃だらう。』
『えゝ。』
彼女は、
眞面目な
顏をして、うなづいた。
『じや、お
互に
戀したね。きつと。』
二人は、そんな
話しをして、つまらなそうに
笑つた。
[#「笑つた。」は底本では「笑つた」]そして、なんとなく
秋らしい
空のいろと、
着物の
肌ざわりとに
氣がつくと、やはり
二人は
堪えがたいやうに
故郷の
自然を
思浮べるのであつた。そして、しばらく
物をも
云はずに
考へ
込んだやうにしてゐると、
急に
日が
短かくなつたやうに、
開けはなしてある
椽の
方からうす
暗い
影が
見え
初めるのであつた。
けれども、まち
子はそれをかへり
見やうともせずに、
『
私、
北海道に
行つても、
誰れにも
知つた
人に
逢はふとは
思ひませんわ。
私はたゞそつと
自分が
前に
殘した
足跡を、
車の
幌の
間からでも
見てくれゝばいゝんですもの。それでも、
私、どんなに
悲しいことだらうと
思ひますわ。
[#「ますわ。」は底本では「ますわ」]只ね、そう
考へるだけでも、
涙が
出そうなんですもの
[#「ですもの」は底本では「でずもの」]。
藻岩山が
紫色になつて
見えるだらうと
思ひますの、いま
頃はね、そして
落葉松の
葉が
黄色くなつて、もう
落ちかけてる
時ですわね。
私あの、
藻岩山に三
度も
登つたことがあるんですわ。』
まち
子は、
目の
前に、すべての
景色が
見えでもするかのやうに、一
心になつて
涙ぐみながら
云ふのであつた。すると、
末男も、おなじやうに、
『
俺だつて、
誰れにも
逢はふとは
思はない、
只あの
石狩原野だの、
高原の
落日、
白樺の
林なにを
考へてもいゝなあ
||それに五
月頃になるとあの
白樺の
根に、
紫色の
小さい
かたくりの花が
咲くなんていふことを
考へると、
全くたまらない。
來年こそは、どうしても
行つて
見やう。
『
本當にね、どうにかして
行つて
見ませうね。
[#「見ませうね。」は底本では「見ませうね」]私は、ステイシヨンについたらすぐに、
車でお
父樣のお
墓參りに
行かうと
思ひますわ。
創生川ぶちから
豐平橋を
渡つて
行くんですわ。あなたも、一
所に
行つて
下すつて。』
『ううむ、
行くさ。』
末男は、
無雜作[#ルビの「むざうさう」はママ]に
答えて、
『
俺も、あの
市來知にある、
野菊の
咲いてる
母親の
墓にだけは
行きたいと
思つてゐる。
本當に
市來知はいゝ
所だからなあ。』
彼は、
彼自身の
足跡をふりかへつて
靜かに
嘆息するやうに
云つた。
二人のこんな
話しは、いつまでたつてもつきなかつた、
彼女の
云ふ
山や
川や
木が、
彼の
眼にすぐに
感じられ。
彼のいふ
空や
草や
建物は、
彼女の
心にすぐ
氣づいて
思浮べることが
出來るからであつた。もしも
二人がはなればなれの
見も
知らない
土地に
生ひ
立つたとしたらどうであつたらう。まち
子は、そんな
事を、またふと
考へると、
幸福なやうな
氣がすることもあつた。
そんな
事を、あまり
熱心に、そして
感傷的に
話し
合つたのちは、
二人とも
過去の
山や
川にその
心を
吸いとられたやうに、ぽかんとしてゐた。お
互になんとなくつまらない、とりとめもない
不安と
遣瀬なさが、
空虚な
心を
包んでゐるやうであつた。
二人は
家にゐることが
淋しく、
夜になつて
寢ることがものたりなかつた。
『
外に
出てみないか。』
『えゝ、
家にゐてもつまらないわね。』
そして
彼と
彼女とは、
子供を
抱いて
家を
出るのであつた。けれども、どこと
云つてあてもないので、
二人はやはり
電車にのつて
銀座に
出てしまつた。
末男は
子供を
抱きながら、まち
子と一
所に
銀座の
明るい
飾窓の
前に
立つて、
星の
見える
蒼空に、すき
透るやうに
見える
柳の
葉を
見つめた。そして、しばらく
自分だちとはかゝはりもなく、
行來する
人の
足音を
聞いてゐた。
『どうしませうね。』
やがて、まち
子は
立ちくたびれたやうに
云ふと、
末男は
氣づいてあてもなく
歩き
出した。しかし
足の
惡いまち
子は、すぐに
疲れるので、やがて
靜かなカフエーかレストランドに
入らなければならなかつた。
二人は、
子供を
抱いて
明るい
通りから
折れて、
暗い
道を
歩いた。
暗い
所に
來ても、
銀座の
明るみを
歩く
人の
足音は
聞えた。
『
銀座はずゐぶん、いろんな
人が
歩いてゐさうだわね。』
まち
子は、
夫のあとから
歩きながら、
一人ごとのやうにきこえない
位な
聲で
云つた。そして、あのぞろ/\と
歩いてゐる
人の
一人一人の
過去や
現在、また
未來のことを
考へたらきつとお
互になにかのつながりを
持つてるに
違いないといふやうな
氣がした。
やがて
二人は、あるレストランドの二
階の一
隅に
腰をおろした。まち
子は
疲れた
身體をそつと
椅子にもたれて、
靜かな
下の
道をのぞこふと
窓をのぞくと、
窓際に
川柳の
青白い
細い
葉が
夜の
空[#ルビの「まど」はママ]に
美しくのびてた。
まち
子は、いつまでもいつまでも
誰も
何も
云はなかつたら、その
青白い
細い
葉の
川柳[#ルビの「かはやなぎ」は底本では「かはなぎ」]を
見つめてゐたかもしれない。この
川柳も
古郷に
多い。
彼女は、それをじつと
見つめてゐると、また
昔處女であつた
折に、
病の
爲めに
常に
淋しかつた
自分の
心を
思出したのであつた。
[#「あつた。」は底本では「あつた」]まち
子の
足は、十六の
終り
頃から
人なみに
座ることが
出來なかつた。なんといふ
病やらも
知らない、
度々病院に
通つたけれども、いつも、おなじやうな
漠然としたことばかり
云はれて
居る。
身體が
弱い
爲めだから
營養をよくすること、
足の
膝關節が
痛かつたら
罨法をするといふ
事であつた。
彼女は
別に
身體の
元氣はかはらなかつたので、
學校に
通つて
歸つて
來ると
一人で
罨法をした。
別に
特別痛むわけでもなく
外面からも
右足の
膝關節は、なんの
異常もなかつたのであるけれども、
自由に
曲折が
出來ない
爲めに、
學校では
作法と
體操を
休まなければならなかつた。
けれどもまち
子は
必ずしも
癒らないとは
思はなかつた。そしてどうかして
早くなほしたいといつも
考へてた。そして
自分の
部屋に
入ると、
古びた
青いビロードの
椅子に
腰をおろして、その
膝をもんだり、
痛さをこらへて
少しでも
折り
曲げやうとしたり、または
罨法してそつとのばしたり
等した。そしてまち
子は
自分が
何の
爲めに、いつとも
知れずこんな
足になつたのだらうか、といふ
事を
考へてると、いつの
間にか
涙が
浮んで
來てならなかつた。
まち
子は、ふと
昔のことを
考へると、なんとなく
自分の
身が
急にいとしいものゝやうに
思はれて、そのいとしいものをかい
抱くやうに
身をすくめた。
まち
子は、いつも
窓に
向いて
椅子に
腰をおろしてゐた。その四
角な
彼女が
向いてる
硝子窓からは、
黄色い
落葉松の
林や、
紫色の
藻岩山が
見えて、いつもまち
子が
腰をおろして
涙ぐむ
時は、
黄昏の
夕日のおちる
時で
硝子窓が
赤くそまつてゐた。まち
子は、
涙が
浮んで
來ると、そつと
瞳を
閉ぢた。そして、いつまでもじつとしてゐた。
初めは、
兄妹たちの
聲が
隣の
室から
聞えて
來た。そして
彼女は
悲しかつた。けれどもだんだん
何も
聞えなくなつていつの
間にか
彼女は、
無にゐることを
覺えるやうになつたのであつた。
まち
子は、その
時その
足の
爲めに
未來がどうなるかとも
考へなかつた。
自分がその
足の
爲めに
世の
中にどんな
心持で
生きなければならないかと、いふ
事も
考へなかつた。
只、その
時知つたのは
自分の
心の
自分の
肉體の
限りない
淋しさであつた。
自分の
病氣はその
後上京して、すぐに
結核性の
關節炎だといふ
事がわかつたのだと、まち
子は、ふと
夫の
顏を
見ながら
考へた。その
時、まち
子はもはや
起き
上ることが
出來なかつた。そして
切斷して
松葉杖をつく
身になつたのである。まだ
若い十八の
年に、
彼女は、
淋しい
昔戀しいやうな
心持になつて、もしも
自分が
松葉杖をつかない
壯健な
女であつたならば、
自分の
運命はどうなつたであらうかと
考へた。いまとおなじ
生活をしてゐるであらうか。
『
默つてゐるね。』と
末男は
退屈さうに
云つた。
『えゝ。』と、まち
子は
笑ひながら
答えたが、
彼女は
自分の
昔淋しい
少女時代のことは
話さなかつた。そして
氣がついたやうに、また
窓の
外をのぞいた。
●表記について
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- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
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