私達は
『コ、コ、ココ、コ、コ』
いかにも水に近い感じであつた。沼はまだそれと見えてはゐなかつたけれども、あたりの地形から押し、土手のさまから押して、それの近いのが私にもそれと知れた。私達はまだいくらか朝露の残つてゐる田の畔の草の中を縫ふやうにしたり、また時には田から田へと流れ落ちる小さな水を跨いだりして、漸くその大きな、夏草の一面に繁つた土手へと達した。
『ほ!』
かう私は思はず叫んだ。何故と言ふに、沼が始めて私の前にあらはれたからである。見たいと思つてわざわざやつて来た沼が、滅多に人のやつて来ない沼が、またはいかにも
しかし想像は見事に外れた。私はもつと広い感じを与へる沼を思つて来た。また、土手からすぐ水になつてゐる沼を思つて来た。もつと違つた沼を想像して来た。
『水までは随分遠いんですね?』
かう私は思はず言つた。
『渇水だでな』
かう前に立つた艫を擔いだ船頭が言つた。
私の前に立つたI君は、
『本当だね。えらく減つたね。二三日前には、こんなぢやなかつたがな』
『
『あゝ、それでだ』
沼に連接した大きな河の水の調節を
I君は訊いた。
『船は何処にあるんだえ?』
『西でさ』
『あんなところかえ、それは遠いな』
『なアに、わけやありませんや』
船頭はずんずん土手を歩いて行つたが、その閘門がそれと指さゝれるあたりまで来て、そのまゝ横に土手を下りて行つた。次第に、川楊のしげりや、
『やア、これはえらい目に逢つた!』
I君はかう言つて、足を洗つて、手拭で拭いて、そして舟の中に入つた。持つて来た茣蓙は忽ちそこに敷かれた。私もやがて舟に上つた。
船頭はかついで来た艫を舟の中へ横へたが、そのまゝ
『昨夜舟を此処に繋いだ時には、こんなぢやなかつたんだが、あれから、またこんなに減つたんでさ』
かう船頭が言つたのは、その動かない舟を漸くに押し動かして、何うやら彼うやら、此方の方まで出て来た時であつた。若い船頭の肌からは汗が流れた。
余程此方の方まで来ても、それでもまだ船頭はバシヤバシヤ水をこいで船を押した。
『随分遠浅だね?』
『えゝ、えゝ、もう浅うござんさ。何しろ、この沼は、もう年を老つてゐますからな······。もう、ぢき、田になつちまいまさア』
『さうかね。もう、そんな話が始まつてゐるのかね』
『もう、余程前から、そんなことを言つてゐまさ······。田にする方が、それは好いにきまつてゐますからな······』
『でも、沼でとれるものは、随分、いろいろなものがあるんだらう?』
『さア、大したものもねえな。まア、一番金目になるのは、鰻だんべい。鰻は、好いのが捕れらア。東京の好い鰻屋で使ふのは、皆なこゝの鰻だでな』
こんな話をしてゐる中に、船はいつか蘆荻の中を出て、ひろく沼の一目に見わたされるところへと来てゐた。好い塩梅に日影はさう強く当らなかつた。雲の間からをりをりそれがぱつと洩れて来るといふ位の空合であつた。
此処に来ると、いかにも沼らしい感じがした。さつき土手の上で見たのとは違つて||狭く、小さく、錆びた川か何ぞのやうに見えたのとは違つて、いかにも
I君は言つた。
『こゝは広沼と言つて、この沼の中で、一番ひろいところです······。まだ、この沼はずつと長く深く入り込んでゐるんですから。向うの隅は此方の方になつてゐますが······』と言つて、丸で方角の違つた方面を指し、『そこまで六七里も深く入り込んでゐるんですから』
『さうですかな······。此方の方角になりますかな、東の隅は?』
『陸を行けば、そんなに遠くはありませんけれども||』
船頭は、こゝらあたりに来て、始めて舟の中に入つた。その太い毛臑には、黒い滑らかな泥や藻や沼の
沼を取廻いた丘もさう大して高くなく、そこに生えた樹木もさう深く繁つてゐないので、割合に濶く遠く地平線が連つて眺められた。樹、丘、人家、それに連つて、ところどころ雲切れのしたさびしい夏の空が、さながらそつと持つて来て捺したやうに、静かに、錆びた沼の水の面に映つてゐるのを私は目にした。
錆び果てし
沼のおもてに
大空の
ひろくうつるが
さびしかりけり
いかにも沼と空とがぴたりと一緒になつてゐるやうな感じが||その錆びた沼が空とぴたりと一緒になつて、数千年前から、かうしてこゝに横つてゐたといふ感じが、私に堪へ難い悠久なさびしさを誘つた。私はじつと深く眺め入つた。沼のおもてに
大空の
ひろくうつるが
さびしかりけり
遠くに連つて見えてゐた蘆荻の洲から、
『矢張、古い沼だ······』
かう私は思はずにはゐられなかつた。
I君は船頭に言つた。
『今でも、夜は、その不思議な火が見えるのかね?』
『滅多に見えやしませんな』
『でも、時々は見えることがあるんだね?』
『私も、二三度見たことがありまさ』
『気味がわるいだらうね?』
『さうですな。あまり好い気持はしませんな』
『矢張、くさい臭がするかね?』
『私の見たのは、くさくはなかつた。でも、くせいのもあるさうだ。時には、随分大きなのが出るさうだ。沼がすつかり明るく見えるやうなこともあるさうだ······』
『佐倉宗吾の話の中には、ほらの火などゝ書いてあるが、さうぢやないんだらうな、燐か何かだらう?』
『さうでせうな、屹度』かう私は傍から言つた。
『何しろ、沼が古いだで、いろんなことがあらアな。人間でも、獣でも、あまりこけると、不思議なことをするだでな。沼だつて、矢張同じこんだ。随分、いろんな不思議なことがあるだな。その狐火べいぢやねえ、漁師の話をきくと、おつかなくつて、夜の漁には出られねえくれえだ······。霧の深い夜などは、何うしても、元、乗り出したところに帰つて来ることが出来ねえで、よつぴて、舟を漕いでゐたつていふやうな話もあらア』
『さうだらうな、夜は怖いだらうな』
『それに、水鳥にも、随分、おつかねえ声をして鳴く鳥があるだな······。無気味だな』
『それに、大きな蛇もゐるつていふぢやないか。醤油樽位の太さの蛇もゐるつていふぢやないか』
かうI君が訊くと、
『そんな大きいのは、ゐるかゐねえいか知らないが、さしわたし八寸位の蛇は、何うかすると、出て来るといふ話だ』
『
『さうだな。あそこらにゐるつていふ話だな。何しろ、いろ/\なものがゐるだよ、この沼には||』
さうした話に誘はれたためでもなかつたけれども、何とはなしに、私の心はその沼に似たさびしさで一杯になつた。私はあらゆるものが、あらゆるその不思議がそこにそのまゝあらはれて来るやうな気がした。私は曾て耳にしたこの古沼の畔に住む人達の生活を思はないわけに行かなかつた。一種のさびしさと暗いところとを持つたその人達の生活を······。舟は静かに動いて行つた。