あゝ焼けたな||ある日の朝、Bは新聞を見ながら思はずかう独語した。本町と言へば、たしかにあの宿屋のあたりだが、その記事では、もつと此方の税務所や郡役所が焼けて、もう少しでその前にある大きな門と前庭とを持つた旧式な二階建の建物に火が移らうとしたのを、やつとのことで消し留めたといふことが書いてあつた。


Bはさびしい気がした。無論あの料理屋は焼けたに相違なかつた。あの通りから厨の傍やら帳場の傍やらを通つて奥深く入つて行くと、そこに入口があつて、その向うに幅の広い階段がある、それを登つて八畳の間に入ると、海が一目に見わたされるその料理屋。


それにしてもかの女も矢張何処かでこれを見てゐるだらうか。この港の賑かなところがおほかた焼けたといふ記事を見てゐるだらうか。見てゐれば、かの女とていろいろなことを思ひ出さずには置くまい。Bと同じやうなことは思はないにしても、あの料理屋の上さんを思ひ出すだらう。あの本町の宿屋の主婦と娘とを思ひ出すだらう。あのハイカラな上品な娘を。しかしかの女は恐らくはその記事に目を留めぬであらう。「そんな遠い昔のことを今更思ひ出してゐるやうなかの女ではあるまい」かう口に出して言つたBは黯然とした。
その時Bはかうかの女に言つた。
「ちよつと、そこいらを
「ぢきでせう? そんなに長くかゝるんぢやないんでせう?」
「それはすぐさ······。何と言つても不知案内だからね。本でもあれば、いろんなことがわかるんだけども、それもないんだからね。ちよつとあそこに行つて聞いて来る||」かう言つてBはその通りに面した大きな門を入つて、広々とした前庭を急いで突切つて、玄関に行つて電鈴の白い球を押した。暫くして袴をつけた男が二階から下りて来た。
Bはすぐ二階に通された。そこには庁の役人が七八人事務を取つてゐた。皆なじろじろとBの方を見た。Bはその突当りにゐる背広を着たまだ若い役人の許へとつれて行かれた。Bはそこでいろいろ話を聞いた。その地方の歴史の話、或る神社に昔から保存されてある駅鈴の話、この地方は交通が不便なので誰も滅多にはやつて来ないといふ話、冬は丸で海に囲まれて内地の文化からは全く離れて暮してゐるといふ話||話は沢山に沢山にあつて容易に尽きさうには見えなかつたけれども、また都会から来たBのやうな、さういふ旅客をめづらしがつて、役人に似合はず、頻りにいろいろと親切に言つて呉れたけれども、かの女のことが気になつたので、庁で出来た地図附きの統計表とザツとした案内風の小冊子とを貰つたまゝBはお礼を言つて急いで此方の方へと出て来た。
Bにしては余程手はやく話をすまして来たつもりであつたけれども、それでも何の彼のと三四十分ぐらゐはかゝつたらしく、町の通りを見わたしても、そこらにかの女の姿は見えなかつた。何うしたらう? 向うの方へ行つたかしら? Bはかう思ひながら、急いで町の通りを歩いて行つた。やがて角のところへ来た。そこからずつと長く町は右に折れ曲つて続いて行つてゐるのである。Bは一番先にそつちを見た。しかしその長い通りにもかの女の派手な姿を見出すことは出来なかつた。何うしたらう? あまり長いので例の通り怒つて帰つて行つて了つたのかしら? ふいと左を見ると、そこに、向うに川がある。雨に漲つて濁つてゐる川の橋のかゝつてゐるのが見える。否、そればかりではない、そこから真直に、その川を越し、その橋を越して、向うに小さな祠らしいものがあつて、そこに華表の立つてゐるのが見える。そしてその向うに


Bは華表をくゞつて祠の中へと入つて行つた。
「何してゐたの?」
かう声をかけると、かの女はちらりと此方を見たが、Bには答へずに、
「いゝかえ、それぢや、皆な同じにわけるんですよ。一番小さいこの児にも同じやうにやるのよ」
かうそこに五六人集つてゐる漁村の童達に言ひ置いて、そのまゝ
「何してゐたの?」
「いゝえ、ね、今ね、そこに五六人ゐるからお銭をやらうつて言つたら、お銭は貰つてはいけないつて先生が言つたから、いらないつて言ふのよ、それぢやね、お銭でなけりや! お菓子なら好いんでせうと言つたら、うんツて言ふから、一番大きな子供に、その子ならお菓子を買ひに行けると言ふから、五十銭やつてパンだの何かを買つてわけさせたのよ。のんきなものね、こゝいらの子供は||。とても内地では、何んな田舎に行つたつて、あんな無邪気な子供はゐませんねえ······」
「そいつは面白かつたね······」
「それで、案内の本はあつて?」
「貰つて来た」
Bは手にしてゐた本をかの女に見せた。
「好いもの?」
「そんなに好くはないけれども······これでも参考にはなるよ」
「それで、何うして? 名刺を出したの? 知れやしなくつて?」
「大丈夫だよ」
漁村の童に菓子をやつて興がつてゐるかの女に同感しながらBは徐かに橋の方へと歩いて来た。川は二三日来の風雨ですさまじく褐色に濁つて、橋やら岸やらにもう少しで溢れ漲らうとしてゐた。船は大抵浜に引上げてあつた。
二人は並んで歩きながら、「丸で世界が違ふのね。かういふところで二人きりで一生暮したらいいでせうね?」
「さア」
「そんなこと出来ないの?」
「さびしいだらうね。それに退屈だらうな。お前にしてはとてもそれは出来ないよ」
「私はさうでないと思ふわ。出来ると思ふわ。現に、今日から、さういふ気持に貴方がなれゝば、私だつて、さうなれないことはないわ」
「むづかしいね······」
「貴方が難かしいでせう? とても出来ないでせう。それ、御覧なさい」
「人間といふものは、さう簡単には出来ないものだよ。お前にだつて、母さんもゐるし、父さんもゐるし||」
「でも、私、貴方がさうなれば、私、きつとさうするわ。親は何うにだつて出来ますもの······。私の考では、男つていふものは中途半端なものなのね。ことに、貴方がさうね。ふんぎりがつかないのね?」
「まア好いよ、そんなこと······」
「男ツて、女を玩弄具にさへすれば好いのね?」
「そんなことはないよ」
Bは此処までやつて来ても、女は男の心を本当に理解することの出来ないものであることを思はないわけに行かなかつた。かれ等は黙つてその濁流の橋の上を歩いた。
狭い通にその宿屋はあつた。此方側に入口があり、帳場があり、風呂場があつたが、好い客間は大抵その向う側になつてゐる別な建物の方にあつた。通りに面した室の高窓からは、その宿屋の上みさんや娘のゐるところがすぐ下に見えた。
B達は雨の降る日の薄暮にその埠頭に着いた。ボオといふ汽笛の音、それも雨にぬれていかにもさびしさうにあたりに響いた。雨が強く降つて、上を張つたヅツクの下にもゐられないので遠くからあくがれてやつて来たSの港をすぐ前にしながら、かれ等は唯雨の縞を成して降つてゐる中に屋根やら白壁やら二階の窓やらヴエランダやらをぼんやりと眼にしたばかりであつた。
ボウ||汽笛はまたさびしく夕暮の空に鳴り渡つた。
かれ等は既に半ば灯に照されてゐる埠頭を見た。大勢人の集つてゐる埠頭を、屋号の大きく書いてある番傘を翳してメリンスの帯をしめた娘達の五人も六人も迎へに出てゐる埠頭をその前に見た。しかしかれ等は容易に外に出られなかつた。横づけにされた汽船から三等の客の半分以上も下りた頃になつて、やつと名ざゝれて来た宿屋の男と女中とを此方に呼び近づけることが出来た。かの女は着物の裾を捲つて、派手な長襦袢を薄暮の空気の中に際立せながら、やはり派手な、雨にぬらすのには惜しいパラソルを、それでも気前よくぱつとひろげながら、階子をつたつて一歩々々下りて行つたが、そこに丁度よくその宿屋の女中がゐたので、いち早く番傘をさしかけて、それを土砂降の雨に濡らすことから救つて呉れた。「まア、何んてひどい降でせう!」かの女は始めて安心したといふやうに言つて、Bの船から下りて来るのを眺めた。
荷物はそこに残つた宿屋の番頭に頼んで、かれ等は埠頭から運漕店の中のやうなところを抜けて、狭いその通りを宿屋の方へと出て来た。
「ひどい雨ね?」
「本当だね。でも、こゝに着いてからで好かつた||」
「さうね」
最初に二人の案内されたのは、その宿屋の帳場の上のところであつたが、上さんが出て来たり、宿帳をつけたりしてから、向うの室の方がお静かで好いでせうからと言つて、上さんが先に立つて、その通りの向う側になつてゐる室の方へとかれ等は案内された。狭い通を向う側に行く間にも、二人の番傘に雨は横しぶきに強く当つた。
「あゝ此方の方が好い······」
階子をのぼつて、とつつきの室に入つた時にかうかの女は言つた。かれ等は二階中にある室をあちこちと見て廻つた。
「誰もゐないのね。ガラ空ね。これなら好いわね」かの女は此方に来て言つた。昨夜は隣が襖一重で、しかも客が若い芸者を伴れて来てゐて、終夜喧しくつて為方がなかつたことをかれ等は思ひ出してゐた。
階段を下りて、下の廊下の突当りのところにある厠からもどつて来た時には、「でも、下にはひとり客がゐるのね。女中と何か話してゐる声がした······」かの女は小声でこんなことを言つて笑つた。
あたりのさびしさ||何処も彼処も雨戸がぴつしやり閉つて、室の隅々までその光線を遍ねからしめることは出来ないといふやうな暗くどんよりと点いてゐる十燭の電気の下で、烏賊の
膳を片附けに女中が来た時、かの女は訊いた。
「こゝに娘さんがゐるのね?」
「え························」
「さうでせう。さつき、あそこにゐたのは?」
「えゝさうです||」
「別品さんですね。もう旦那さんはきまつてゐるんでせう?」
「まだ、祝儀はしませんけども······」この近所の娘からいくらも変つてゐないその無邪気な女中は、かう言つて、膳を抱えるやうにして、ぢつと此処等に見馴れないかの女の方を見た。
「さう、それはお目出度いワね。いくつなの」
「お嬢さん? あれで二十······」
「若いのね。十八九にしか見えないのね······」
女中が下りて行つたあとで、
「それは綺麗よ」
「そんなのがゐたのかえ?」
「私がね、さつき湯殿から着物を着て出て来たら、ちやんとその娘が見てゐるのよ。鳩のやうな眼をして······。無邪気で好いわね?」
「それぢや此処は、あの上さんとその娘とやつてゐるんだね。その娘に婿がねが来るといふわけだね?」
「さうらしいわね······」かの女はかう言つたが、「明日行つて見ませうか。あのUのお爺さんのお妾さんのところへ?」
「矢張、あの爺さんの言つたことは本当だつたね。ちやんとさういふ人がゐるんだね?」
「さうね。あの話をしてからよ。こゝのお上さんが私達を此方に案内するやうになつたのは||」
「さうらしいね」
「あのお爺さんの言ふ通り、そのお妾さんには、こゝのお上さん、姉妹のやうにしてゐるのね? 面白いわね」
「本当に面白いな。小林ツて言つたけかね?」
「さう||小林秀」
B達は今から三日ほど前に、Uといふ海岸の温泉宿で、そこの老主人と此の港の話をした時のことを思ひ起した。その時今年七十三になるといふその老主人が俄かに膝を乗り出して、「耻を言はなければわかりませぬが||」と言つて、その昔の話をし出した。それは船乗で、日本国中何処の港でも行つて見ないところはないと言ふぐらゐの人であつたが、そのB達の行かうとする港に、曾て世話をしてやつた妾が小林秀と言つて、置屋をしてゐる。そしてその女は、そこで一番好いと言はれてゐるTといふ宿屋の上さんと懇意で、姉妹のやうにしてゐるからそこに行つたら、何でもそれに頼りなされと言つて名まで紙片に書いて呉れたことを思ひ起した。そしてその老主人は、「もうかう年を取つては、とてもいくら恋ひしく思つても行かれはしませんから、もしそちらに行つてお逢ひになるやうなことがあつたら、よろしくUの爺が言つてゐたと伝へて下さい」と言つたことを思ひ起した。
かの女はその話をさつきこの宿屋の上さんのところで持ち出したのであつた。Bは黙つてゐたけれども、その老主人の恋といふことについて深く深く考へさせられずにはゐなかつたのである。で、そんな話をしてゐる中に、さつきの女中は早くも寝道具を運んで来たらしく、蚊帳のカンの鳴るのがチヤラチヤラ
外では雨が凄しく降り頻つてゐた。
暁方に目覚めて、こんな話をB達はした。
「えらい
「さア」
「それとも行つたでせうか?」
「G港の手前で、このしけに逢へば、無論そこに碇を下したらうけれども、かういふひどいしけになつたのは、夜半過ぎからだから、G港からずつと向うに行つてから打突つたんではないかな?」
「さうすると随分大変ね」
かの女は半ば身を起して、床の上に坐つて、じつと耳を立てるやうにした。波の音と風の音とが一緒になつて、絡れて、こんがらがつて、それが屋根の角やら鬼瓦やらヴエランダやらに当る気勢がした。ザツと打撒くやうに降そゝぐ雨の音がした。
「このしけに逢つたら、何んなでせうね? 海の中で?」かの女はまた耳を立てるやうにして、「さう言へば、下りる時にまだ乗つてゐた学生さんがゐましたね? あの人はSまで行くツて言つてゐましたね? 何んなでせうね?」
「本当だね?」
「ひつくり返りはしないでせうね?」
「さア」
「だから、海はきらひよ。こんなところに来るのは命がけですわね」
厠に行かないかといふので、Bはそのまゝ起きて、そこにあつた蝋燭にマツチを摩つて、それを持つて一緒に下へと下りて行つたが、其処からも此処からも風雨は降込んで来ると見えて、廊下のところどころがびしよびしよにぬれそぼちてところに由つては、蝋燭の灯すらチラチラと映るぐらゐになつてゐた。
「ひどい雨ね」
「これはひどい! すつかり吹込んで来てゐる!」
何うやらかうやら用をすまして此方へと出て来たが、起きるには早し、再び床に入つて寝るより他に何うすることも出来なかつた。かの女は、「もう一寝入出来るわね」などと言つて、枕を移して、やゝ乱れ勝ちになつた髪を此方へと見せるやうにした。
Bはそれにじつと見入つた。その髷に、そのタボに、その白い襟首に······。で、暫くそのまゝでじつとしてゐたが、女の心持好ささうに労れてスヤスヤ眠るのを見てゐたが、今度は何うしても眠られなくなつたので、Bは起きて、寝衣のまゝで、隣の部屋へ行つて、その南に面した戸を一枚静かに繰つた。夜はもはや全く明け離れてゐた。雨もさつき下に下りた時とは余程小降りになつて、まだ落ちてはゐても、外に出られないほどでもないので、Bはそのまゝ明るい朝の空気の中へとその姿をあらはして行つた。Bはそこに美しい港の洗はれたやうになつて静かに展げられてゐるのを見た。碇泊してゐる船の或るものは苫を葺き、あるものはぬれそぼちて、岸に風雨に吹き寄せられてゐるのを見た。かれの立つてゐるところは、丁度和製のヴエランダのやうになつてゐて、一面にトタンが張り詰められてあつたが、そこに、屋根板や瓦の破片や何処からともなく吹飛されて来た靴下の片方などが乱雑にそこらに散つてゐるのをかれは眼にした。港口を扼したやうに両方から出張つてゐる徙崖の向うには、すさまじい激浪が鼎の沸くやうに一面に白く浪立つてゐるのが見られた。
「さやうで御座いますか。それは何うも······」かう言つてUの温泉場の旅舎の老主人の囲はれものであつたといふその女は気まりわるさうにして笑つた。それは四十五六で、若い時もさう大して美しいといふ方の女ではなかつたであらうけれども、新潟の生れだといふだけあつて、何処かにやさしい艶々したところが残つてゐるのをB達は見た。そしてその女はそのUの老主人にさういふ風に言はれても決して厭とも何とも思つてゐないらしかつた。その家の小じんまりしてゐるやうに、またその家具や身じまひの小ざつぱりしてゐるやうに、すべてが感じが好かつた。すべてがその人の真実なのを語つてゐた。そこに、こんな田舎にこんな美しい若いお酌がゐるかと思はれるやうな若い妓子が二階から下りて来て、丁寧に、上品に、いくらか顔を染め加減にして挨拶した。
「まア」
かの女は驚いたやうに眼を

「いゝえ、田舎もので||」
「こちらに、こんな綺麗なお子さんが沢山をるのですか?」
「いゝえ、いけませんの||」その女は謙遜するやうに言つて、「国から去年伴れて参つたので御座います||」
「あ、新潟から······。道理で、美しいと思ひました。私はまたこちらにあゝいふお子が沢山おゐでなのかと思つて······?」
「何も出来は致しません」
こんなことを言つて、立つて、そのお酌に吩附けて、近所から菓子を取つて来させたりなどした。
Uの温泉場の旅舎の主人の話になると、その女はいつまで経つても、きまりがわるいといふやうにして小声で話した。「もとはSにをりましたので御座います。新潟を出ましてから、もう二十五六年になります。その間に二度帰りましたけれど、矢張こちらが好いと見えまして、ぢきもどつて参りました。お爺さんももう年を取りましたから、さぞさみしがつてゐるだらうといつでも思はないことはないので御座いますけれど、何しろ、海をわたつて参らなければなりませんので······。此間もTまで参りましたから、余程あちらまで廻つてあげませうかと存じましたのですけれども||」こんな風に染々と話した。Bも深く打たれずにはゐられなかつた。難かしい男女の間柄を、嫉妬や、争闘や、さういふもののみがいつも
「本当に、よくさういふお心になりましたねえ。なかなかさうはなれないものです。大抵は壊れて行つて了ふものですのに||」かの女もそれに深く動かされたやうにして言つた。
「いゝえ、何う致しまして······」
その女は何処までも謙遜だつた。で、その地方でのみ聞く事の出来る唄を聞くために一番
並んで歩きながら
「矢張、あのUの爺さんもえらいのね······」
「それはさうだ······」
「それにあの人だツて感じのいゝ人ぢやありませんか。矢張、終ひにはあゝなるんでせうね? それを思ふと心細い······」
「············」
Bは言はうとしたことを言はずに、そのまゝ静かに歩みを運んだ。
あの料理屋、通りから厨の傍や帳場の傍を通つてずつと奥深く入つて行くあの料理屋。あれはたしかにやけた。あの室はもうない。あのなつかしい、港の入り込んだ海が三角形に見えてゐて、深く青い波の上を帆が一つ通つて行くあの静かな湖水のやうな海の見える室はもうない。それはいづれは復興するだらう。同じ室も出来るだらう。あゝした眺望の好い一間も拵へるだらう。しかし古い木口の好い、静かな空気の絶えず巴渦を巻いてゐるやうなあの室はない。Bは今でもはつきりとその時のことを思ひ出すことが出来た。古い三味線||すくひばちで、ごぜの弾くやうな単調なものではあつたけれども、原始時代からそのまゝそこに残されてゐると思はれる不思議な音律の連続。何処までが唄で何処までが合の手であるかわからないやうな、何方かと言へば、のべたらでだらしのない調子でゐて、それで聞くもののペイソスを誘はずには置かないやうな節廻し、成ほどこれではたまさかにやつて来た旅人が此地方から他に持つて行きたいと思つても容易に移すことが出来ないだらうと思はれた。
叶うた。
かなうた。
思ふこと叶うた。
鶴が御門に
巣をかけた。
恋は叶うと
巣をかけた。
かれの経て来た恋の絵巻の中には、いろいろなものがあつたであらうけれども、或は平野の川に添つてそのせゝらぐ水の音を終夜枕に聞くといふやうな、或は山と山との深い谷の中の旅舎に静かに世離れて二人を見出すといふやうなさうした場面はいくらもあつたであらうけれども、しかしかうした古風な、静かな、海に面した一室で、思ひもかけない原始的なペイソスを誘はれるやうなシインは、ついぞ今までに一度もなかつたことをBは繰返した。かれはその恋の消えて灰となつたと同じやうに、その場面もまた火に焼けて全くこの世からなくなつて了つたことを考へて、何んとも言はれないさびしさを感じた。Bはそのイリユウジヨンが今は全くその頭の中にしか残つてゐなくなつたことを思つた。帆が大きなスワンのやうに一つ白く漂つてゐる夕暮の静かな海。あとからあとへと湧くが如くに連続して来るその三味線の音||。かなうた。
思ふこと叶うた。
鶴が御門に
巣をかけた。
恋は叶うと
巣をかけた。
そこにB達は尠くとも十日はゐた。思ひ出せば思ひ出すほど、いろいろな場面がある。さまざまの光景がある。それを一々書き出したら際限がない。それに、今はつらい。恋も何も亡びて了つた今はつらい。唯、もうひとつだけ書いて、それでおしまひにしたいと思ふ。
B達の前には、一条の小川が折れたり曲つたりして流れて来てゐる。時には小さやかな瀬をつくつて落ちてゐるかと思ふと、時には平らに鏡を置いたかと思はれるやうに、静かに淀んで流れてゐる。そしてこれに添つて、川が曲れば曲り、真直になれば真直に、横になれば横になるといふやうにして、割合に幅の広い道路が長く長く通つてゐる。そしてこれがこの地方での唯一の国道で、ずつと向うの方の海まで突きぬけて行つてゐる。平生はこの間を五里ほど自動車が通つた。
ところが、連日の雨で、路がところどころ壊れて、治してはゐるが、いつ自動車が通れるやうになるかわからないと言ふので、仕方なしにB達は一里半ばかりあるところを徒歩で行くことにした。かの女は端折つて歩いた。白足袋が泥に塗れるのをも、着物のお召の裾の切れるのをも、頓着なしに······。否、髷やら中指やら簪やらが目に立つと言つて、宿屋の新しい手拭で姉さんかぶりをしてそして土地のものであるかのやうにしてサツサツと歩いた。「何うです? よく似合うでせう!」などと言つた。しかし、いくら隠したつて、何うしたつて、それがその地方の女とは見えなかつた。色白な頬。輝いた眼。「さうですかね、何うしても田舎の女にはなれませんかね。それでは落第ですかね||」こんなことを言ひながらかの女は歩いた。
一里ほど行つた頃、かの女はその小さな川に丸木や木材の沢山に沢山に流れて来るのに目をとめて、
「これは何うしたんです? 持主があるんでせうね?」
「それはさうサ||」
「よく盗むものがありませんね」
「それは田舎だからね||」
「東京では、とてもこんなことは出来ませんね。一つでも流れて来れば、これは好いものだなんて、すぐ持つて行つて了ひませうね?」
「それはさうだ||」
木材や丸木は流れにつれて、時には早く、時には遅く、また時には、運わるく支えた丸木に再び支えられて、小さい瀬をつくつたまゝ流れずに留つてゐるものなどもあつた。中には流れの真中を勢よく流れて下るものもあつた。
「面白いわね。見てゐると、棒杭が頭を振り振りやつて来るわね」
「さうだね」
いくらか疲れたらしいかの女は、流れ木を見るのを口実にしてはよく立留つた。
「一体何処から流して来るんでせうね。遠いんでせうか?」
「さア」
かう言つてBは向うの方を見た。樹木の多いさう大して高くない山巒が雨あがりの眩ゆい午前の日影を受けて美しくかゞやきわたつてゐるのが眼に入つた。襞が深く込み合つてゐるあたりには、黒いといふよりもむしろ緑に近い影が深く蔽ひかぶさるやうになつて見えてゐた。
「それで、かうして支えたのは何うするんでせう。そのまゝにして置くんぢやないでせうね?」
「それはさうぢやないだらうね? いづれ何うかするんだらうね?」
「のんきね、田舎は||。一生此処にゐたくなつた······」
「ゐるサ」
「ゐませうか。もう東京に帰るのは止しませうか?」
あなたに奥さんがなくて、一人と一人なら、何んな苦労でもするといふ女の調子がBを悲しくさせた。とても出来ないものにまたしても二人は深く触れて行つてゐるのである。一歩進めば破壊か死かといふ心の境涯に||? B達はすぐそれを外すやうにして、
「疲びれたね、もう」
「いゝえ」
かの女は笑つた。
「いや、くたびれたらしいな」
「まだそんなにくたびれはしませんよ。一里ぐらゐしきやまだ来はしないでせう?」
「もう、もつと来たよ」
「さうですかね」
ふと、向うに熊笹の竹藪があつて、路の上に人足が五六人頻りに何かやつて動いてゐるのに眼をとめて、
「あ、あそこが壊れてゐるのね」
「あ、さうだ||」
人足の働いてゐる傍を通つた時には、姉さんかぶりをして、端折をして、わざと田舎ものに見せかけてゐても、しかも、此処等には見かけない女だといふことはすぐ目についたらしく、頻りに手をやめて此方を見てゐるのをB達は眼にした。
少し此方に来てから、
「しかし、こゝいらの人足は人が好いのね。東京近くの田舎なら、とてもこんなに無事に通しはしない||」
「本当だね」
「あの位、人数がゐれは[#「ゐれは」はママ]、屹度何か言ふにきまつてゐますよ」
「それはさうだね」
「人気の好いところなのね。本当に此処に落附いて了ひませうか?」
かの女は真面目にかう言つてBの方を見た。
川の折れ曲つたところには、瀬が早く、流し木が先を争つて流れて来るのが面白いので、かれ等は長い間立留つてそれを見てゐたりしてゐた。あるところに来た時には、「あゝわかつた! そら、あゝやつて、支えた木を向うから流し流しやつて来るのね」かう大発見でもしたやうにかの女が言ふので、それとなく向ふを見たBは、山から来たらしい筏師のやうな男が、三人も四人も皆なカギをつけた長い竿のやうなものを持つて、あるものは川の中まで入つて、支えたものを代る代る流してやつて来るのを見た。
「あ、さうだ。さうでもしなければ駄目だからね」
「つまり、東京なら、車で運ぶところを、此処では、かうして町に出すのね。便利なものね······」かの女にはそれもめづらしいもののひとつであつた。
そこをも通過すると、話はいつかかれ等の訪ねて行く遺蹟のことになつた。「もうぢきね。もう五六町ね。それにしても、こんなところに本当に来て住んでゐられたのですかね? 天子様が||」かう彼女はかの女なりに昔を考へるやうにして言つた。やがて橋に来た。そこに茶屋が一軒あつた。かれ等は縁台に腰を下してほつと呼吸をついた。
かれ等が訪ねやうとする址はもはやそこからいくらもなかつた。