今度の大戦の印象の多い中で、私は一番真剣とか一心とか言ふものゝ力の強いことを味はつた。ドイツの強味は、真剣の強味であり、一心の強味である。あらゆるものを捨てあらゆるものを犠牲にした最後に起つて来た強味である。従つてこれに対して、人道的の非難を加へたとて、それは加へる方が間違つてゐる。行くところまで行かなければならない。やるところまでやらなければならない。いかなることを犠牲にしても······。
人道的非難に対して、ドイツが顧慮の念を少しでも生じたならば、それは既にその内部の力の衰へたことを暗々裡に意味してゐる形になる。
ドイツの態度の中ぶらりんでないのが好い。いかにも張り詰めてゐる。決して
ロシアのレニン達のやつたことも、意味のあることではあるが、いかにもロシアらしくつて面白いが、とてもあゝしたことで、ドイツの社会党の心の横断などは出来さうにも思はれない。ドイツはもつと深い。そしてもつと堅実である。もつと第一義的国民性を
ロシアの文学を見てもわかる。ロシアにはだゝつ子が多い。トルストイもその一人である。ドストイフスキイもある意味に於いて矢張その一人である。ゴルキイもさうである。チヱホフも消極的ではあるが、矢張さうである。ロシア文学の中には、原始的の魂の
フランスはそれから比べると、余程古びてゐる。衰へてゐる。デジエネレートしてゐる。ヰクトル・ユウゴオあたりの大きな魂がその国の思潮を支配すれば好いのであるが、何うも積極的方面が十分でないのを私は思はずにゐられない。若い時代が伝統主義を鼓吹しやうとしてゐるのは、実はかういふ方面に於て、非常に大きな欠陥を認めたからである。ナチユラリズム、デカダン、さうしたものゝ害が人間に尠くないのを認めたからである。フランス文学に於ては、人間の魂がいつも芸術のために玩弄視され、材料視され、甚しいのに至つては滑稽視されて来た。つまり芸術が人間を圧した。これが即ちフランスのデジエネレートした形であつて、芸術もその為めに、末期の芸術といふやうな形を帯びた。
更に言ひ換れば、ロシアとは正反対の形にあるのである。ロシアを小児に譬へることが出来れば、フランスはもう老人である。またロシアをだゝつ子に譬へることが出来れば、フランスは世間に捉へられすぎた鹿爪らしい紳士である。ロシアにあつては、魂の黎明が高調され、フランスにあつては、伝統の尊重が説かれるのもまた無理がないではないか。
思ふに、イギリスは、今度の大戦に於て、いろ/\なことを痛感したであらう。平凡なる平等思想、浅い個人主義、卑しい自己主義、乃至は大国の持つたいやな自尊心について覚醒するところがあつたに相違ない。しかし、兎に角に、イギリスがドイツと相対抗して、今日の位置を保ち得たのは、その卑しい自己主義の強味のあるためで、そのねばりの強いのは、実にそこから来てゐるのである。すぐれた芸術を持つことの出来ない、その卑しい自己主義から······。
しかし、イギリスはこの大戦の位置として、その自己主義をもつと進めなければならないといふことを痛感したに相違ない。もつと謙遜でなければならないといふことを、もつと他を認めてやらなければならないといふことを、そしてそれが一番強い境であるといふことを感じたに相違ない。従つて、この大戦の為めに芸術上、一番多くの印象を受けたものは、イギリスではなかつたかと私は思ふ。
戦後、イギリスの芸術は必ず大きな変化を見るに相違ない。
しかし、私はこの大戦の犠牲の報酬は、ドイツが一番多く受けなければならないと思ふ。またドイツにしても、