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田山録弥





 富士見からK君がやつて来て、いろいろな話をした。近年になつて、山にやつて来るものが非常に多くなつたといふこと、何でも百人位は今でもゐるといふこと、さういふ人達はあの停車場前の旅舎や、たのんで置いて貰つたしろうと屋や、その他農家の一間にまで入り込んで行つてゐるといふこと、設備がないから軽井沢のやうには急には行くまいけれど次第に、避暑地としての価値が認められて来ることを尽きずに話した。私の行つた時のことなどが、一つ一つ思ひ出されて来た。



 山の見事な草花が一番先きに私の頭に上つて来た松虫草、女郎花、われもかう、刈萱、ことに桔梗の濃い紫は何とも言はれなかつた。私はよくそれを取つて来て、正宗の空罎の中にさして、机の上に置いた。『きちかうの花のゆかりの色に出て、妹をぞ思ふ山にしをれば』かうした歌を絵葉書に書いた時のことなども思ひ出されて来た。



 私のゐた別荘の下に、小さな池があつた。それは大したものではなかつたけれども、水草だの、芦だの、だのがしげつてゐて、この山の中に、ちよつと水郷を思はせるやうな趣を示してゐた。時には森や丘の姿が静かに黒くその水の面に落ちてゐるのを見たことなどもあつた。今はそこに、此方の岸に瀟洒な二階屋が一軒出来て、そこから三味線の音がきこえて来るといふことであつた。

 K君は言つた。

『その料理屋はKさんの弟がやつてゐるんです。そら、上諏訪の芸者を細君にした、先生はあの人々に逢つたことはありませんかね』

 さう言へば、私もそのKさんの弟のロマンチツクな閲歴をかなり詳しく聞いて知つてゐた。それはアメリカからブラジル、それから大陸にわたつて、イギリス、フランスと浮浪して歩いたやうな人であつた。かれは巴里から帰国の旅費を故郷に電報で言つて来たりした。そのかれが、さうして細君と共に、その池の畔に小さな茶屋を開いてゐる形は面白いと私は思つた。



 私のゐた山荘の周囲が卯の花で白く囲まれてあつた。それをいつも思ひ出さずにはゐられなかつた。



 其処に一聚落しゆうらく、かしこに一部落と言つたやうに、人家が、処々に散点してゐる形が、いかにも山村らしい感じを私に与へた。私はよく原の茶屋に行く途中で、立つて、あたりを眺めたことを思ひ出した。釜無の谷を塞いだ鋸岳からは、いつも雲が湧き出してゐた。



 K君やS君が私のためにつくつて呉れた小さな畠、それを私は今でも思ひ出した。さゝげ、茄子、白瓜、菜、形ばかりではあつたけれども、それでも私はよくそこに食ふ物をさがしに行つた。誰も構はないので、後には、その小さな畠は全く草藪になつて了つた。しかも、私はある日そこに、美しい瑠璃色をした茄子を三つまで発見したことを思ひ出した。

 K君だつたか、N君だつたか忘れたが、誰れかが始めてそこにその小さな畠をこしらへた時のことを書いたのを私は見たことがあつた。『かうして置けば、先生が来ても、何か食ふ材料がある』こんなことを言つて、皆なして、その閉めた別荘の戸を明けて、そこで烟草をすつた。さうした心、さうした心の萠芽から私がさうしてその山の中に出かけて行つたり、いろいろなことがあつたりしたことを思ひ出して、不思議な気がした。



 今では、N君も、K君も皆々細君を持つてゐる。N君にはもう子供さへある。


『もう、朝鮮には行かないんですか?』

 かう私が訊くと、

『何うも、この上ゐると、あそこの土になつて了はなければなりませんから······。将来の希望がないことはないんです。けども、あそこの百姓になつて了ふのには早いと思ひますから』

『それもさうだね』

『また、元の杢阿弥もくあみで、暫く国でやるんです』

『それにしても、何年ゐたね、朝鮮に?』

『二年と少しゐました』

『汚ないさうぢやないか。あつちの百姓なんかなつてゐないつて言ふぢやないか······。その生活は此方で想像することの出来ないやうなもんだつて言ふぢやないか』

『まア、さうですな。ちよつと話したつて、先生なんかに想像が出来ないやうなもんですな』

『よくゐたね。それでも』

············

 K君は黙つて私の方を見た。



 いろいろな人達の変遷、さういふことも私の心を惹いた。Kさんの細君でK君の姉である人の死んだことなども私をして深い冥想に耽らせた。私が『丘の上』に書いた測候所の人達も、もうすつかり代が変つて了つたといふことであつた。警察署長もそこにはゐなかつた。時の間も移り変らずにはゐないこの人生の大きな河の流ではなかつたか。

 深い霧の中から見えるあの別荘の三角屋根||



 Kさんに呼ばれて、OさんやOさんの別荘に客になつて来てゐるTさんなどと一緒に、夕日の道をKさんの村の方へ歩いて行つた時のことなども思ひ出されて来た。私達はいろいろなことを話しながら歩いた。この山村に残つてゐる南朝の宗良親王の跡についての話なども出た。

『何うも、さうらしい······

 かうOさんは言つた。

『さうですな。さういふ考への出て来るのも自然ですな。蔦木のさきの白須の松原の歌がちやんと李花集の中にあるんですから。また御射山の歌などもあるんですから。兎に角、此処等に居を構へてゐたか何うかわからぬにしても、此処等を度々往来したことは事実ですな』

 こんなことを私は思つた。

 Kさんの家の前を流れてゐる小さな川に添つて行くと、そこにKさんやOさんの歴代の祖先の墓が一区劃をなして列つてゐるのを私は認めた。

 その静かな林の中、何百年の人生をその中に封じ込めたその静かな林の中、その中の空気は深く私の体と心に染みるやうな気がした。

 その山村で一番古い年代を示してゐるといふ石の灯籠は、この林から野に出やうとするところにあつた。私達はやつとその前に行つて立つた。午後の日影が美しく林の中にさし透つて見られた。



 Oさんの別荘の西の方に小さなちんがあつた。それは私の行つてゐる時分に出来たものだが、そこから眺めた八ヶ岳の裾野は見事なものであつた。八ヶ岳から次第に延びて、蓼科がひよつくり聳えてゐるさまも美しければ、ひろい裾野が一面に松林で撫でられたやうになつて見えてゐるのも見事だつた。この他に、何処に、さうしたひろい、美しい、世離れた眺めを得ることが出来るであらうと思はれる位であつた。しかも、そのさびしい松林の中には、ところどころに村があつて、例のサボシのゐる茶屋などがあるのであつた。退屈すると、私はよくそこに来ては眺めた。



 避暑もせずに、かうして書斎を閉切つてゐると、あちこちから来る旅の絵葉書もなつかしかつた。Y君は今年は面白い旅をしてゐるらしかつた。此間は佐渡の海府から貰つたが、今度は陸前北上川沿岸の登米とめ町から貰つた。登米町は、去年石の巻に行つた時に、余程行つて見やうかと思つたところだけに、殊になつかしさに堪へなかつた。

 一の関の先きの狐禅寺から出て来る汽船!



 不思議にも、此頃は何処にも行つて見やうとは思はない。旅に行けば、面白いにきまつてゐるけれども、何うも途中の汽車がイヤだ。長い、長い、混雑した汽車がイヤだ。飛行機か何かで、一呼吸に飛んで行くことが出来るのなら好いけれど······。こんな贅沢なことを考へて、ひとり書斎の中にぽつねんとしてゐる。



 庭の樹が深くしげつて、何の事はない、頭の延びた毛がボサボサするやうな不愉快さを感じてゐたが、二三日前から植木屋が来て、すつかりそれを刈り込んで呉れた。いかにも好い心持だ。自分の頭の延びた毛でも刈つたやうに好い心持だ。ことに、午後になつて、美しい日影が、葉と葉との間、枝と枝との間に細かくさし込んで来るさまは、何とも言はれない芸術的な心持を私に誘つた。

 植木屋の親方は言つた。『何うもやつぱり、本当に好きな方でなくつちや、いくら刈込んでも張合がありませんよ。これで矢張芸ですからな······。一人前になつて、本当に柴の刈込が出来るやうになるのは容易ではありませんからな······。何でも難かしいもんですよ』

『本当に、さうだね』

 私は私で、子供達に言つた。

『それ見ろ。あれで、中々あゝは行かないから······あの梧桐の刈つたあとを見ろ、あのヒラヒラした葉一枚でも、ちやんと意味があつて残してあるんだから、決して考へなしに刈られてゐるんではないんだから』



 その綺麗に掃除された庭に、朝雨が降つた。静かな朝雨が降つた。



『これで、この刈つた後に出て来る、新芽が美しいもんだ。何とも言へずに好い、いかにも、すぐれた芸術にでも逢つたやうな気がする······。そして、それは、内容を重んじたり、思想を重んじたり、社会への関係を重んじたり性格描写を重んじたりする芸術では、とても見ることも感ずることも出来ないやうな微妙な感じのする芸術||

『さうですかね。そんなに美しいもんですかね?』

『私は毎年、刈つたあとのその美しい芽を見るのを楽しみにしてゐる』

 私はこんなことを言つた。






底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店

   1995(平成7)年4月10日発行

底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房

   1923(大正12)年4月15日

初出:「文章世界 第十五巻第九号」博文館

   1920(大正9)年9月1日

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※初出時の表題は「狭い書斎で」です。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:hitsuji

2022年5月27日作成

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