大学生のKが春の休みに帰つてからもう三日になつた。かれは昨年の矢張今頃に母と父とを三日おきに亡くしてゐるので、そのお祭をするのもその帰郷の大きな理由だが、それ以上にかれは常子の眉目に引かれてゐた。Kはせめてその休暇をかの女のゐるところで静かに送らうとしたのである。
勿論、二人の間にはまだ何事も出来てゐるのではなかつた。Kの
しかも今度の帰郷に際して、ことにKに情けなかつたことは、既に三日になつても、未だに一度もその
Kは失望したばかりではなかつた。いろ/\の不安がかれを
『だつて、それは君無理だよ。黙つてゐては何うにもなりはしないよ。それは、
三日目の朝、KはSからのはがきを受取つた。Sは今日遊びにやつて来るらしかつた。||午前の十時にはF駅に着くから、そのつもりで待つてゐて呉れ給へ||とそこには書いてあつた。かれはそのはがきを引くり返して見た。
しかし何うにもならなかつた。かれは二階から下へ下りて、そこにゐる兄にSの来る話をして、
『ぢや、ついでに、お祭につかふ山
かれの眼にはやがていつもの景色が映つた。大きな河が。その河を半ば帆を孕ませつゝ悠々として下つて行く船が。自転車や幌をした車やモスリン友禅の帯や派手なパラソルを載せて中流近く静かに動いて行く渡船が。向うのF町の銀行の二階の硝子に日のキラキラと眩ゆいほどかゞやくのが。遠くから
その日はことに霧立ちて
丘辺の松も見えざりき。
行きける妹 がふりかへり
見けんも更にわかざりき。
さばかり疎くありけれど
日数もあまた経にけれど······
いつもなら、さうした歌が若々しい声のもとに歌ひ出されて、いろいろな丘辺の松も見えざりき。
行きける
見けんも更にわかざりき。
さばかり疎くありけれど
日数もあまた経にけれど······
かれの心は亡くなつた父や母のことで満たされ、さびしい孤児になつたといふ考へで満たされ、
ふと向うからやつて来たのは、沼添ひの村に住んでゐるTといふかれより一年上の同じ大学生であつた。別に仲がわるいといふではなかつたけれど、曾てその男が常子の家へ縁談を持ち込んだといふことがあつて、その話が未だに煮え切らずになつてゐるといふ噂があるので、今ではとても問題にはならないといふことがわかつてゐても、何となく
Tは
『何うしたね?』
『いやね、今日ね、友達がやつて来るつていふんでね。それを迎へ
『誰だね?』
『Sさ||』
『あ、S君||。そいつは面白いね。来たら一緒に遊びに来たまへ||』
『難有う』
並んで一歩二歩運びながら、
『何うも、国に帰つても面白くないねえ。春休みは何処かに旅行でもする方が好いんだ······。まだ三日にしかならないけどももう飽きちやつた||』
『本当だね』
『何処を散歩したつて、心を惹くやうなところはありやしないからね。沼だつて川だつて面白くないしね······』
『本当だね』
かう合せながらも、Kはそれも矢張かの
『でも、君の方は沼があるから、いかやうにも慰められるぢやないか』
『駄目だよ。あんな
『それぢや本当にS君を
『難有う』
かう言つて二人はわかれた。林に添つた路を徐かにKの歩いて行くのが長い間見えてゐた。
街道に添つた林の中で、かれは頻りに山榊を捜した。
林の中はしんとしてゐた。やゝ
ふと向うの街道の方に当つて、軽い物の音がした。始めははつきりとわからなかつたが、次第に近く近くなつて、やがてそれは車の音であることがそれとわかつた。かれは急いで林の
果してそれはSであつた。Sは川をHの渡しでわたつて、それで此方へと来たのであつた。街道はさびしく長くつゞいてゐた。あるところは、二三日前に降つた雨で、ひどい
十間ほどの距離に来た時、Sもそれと気がついたらしかつた。帽子に手を持つて行つて莞爾した。
二人はやがて近寄つた。Sは車から下りた。
『まア、乗つて行きたまへ』
『なアに好いよ。こゝで下りるよ』Sは車夫に金をわたして、『何うも君にしては少し変だ。こんなところに来てゐるわけはないと思つたんだが、矢張、君だつた。迎へに来て呉れたのかえ?』
『さういふわけでもないが、今日が母の一周忌でね。それにあげる山榊を取りに来ながらやつて来たんだよ。早かつたね?』
それには答へずに、『さうかねえ。もう一周忌かえ? 早いもんだな』いかにも同情するやうにしんみり言つて、『さうして山榊を持つてゐる形は詩になるね||』
『今もさう思つてゐたんだ······。不仕合な青年と母と恋人と······』
『このあたりの林と草と||』
Sも合せた。
林に添つて歩きながら、
『こゝいらだね。君がかの女を思つてよく散歩するといふのは?』
『さうだ······』
『好いところだな。詩だな······』
『しかし、この春休みは徒らに過さなければならんよ』
『何うして?』
『先生、東京に行つちやつたんだ||』
『ゐないのか?』
『折角、君にまで来て貰つたのに······』
『そんなことは構はんがね······。惜しいなア······』
『その中に帰つて来るだらうけれど······』
『それは惜しい。しかし、君の苦しんだあとはちやんと残つてゐるんだから好いサ。兎に角に好いところだね?』
『田舎サ』
二人はこんなことを言ひながら歩いた。昼に近い日影は林の中を透して車や笹の藪の上に徐かに落ちた。
『つい、さつきTに逢つたつけ||』
『何処で?』
『その向うのところで。君が来たら一緒に来ないかなんて言つてゐた······』
『この近所かね?』
『この向うの丘を下りると、沼があるんだが、その傍だよ』
Sは黙つて考へるやうにして二歩三歩足を運んだが、『Tもな、もう少し本当だと好いんだけどもな』
Kは同感らしい笑を唇に漂はせたゞけであつた。それについては別に何も言はなかつた。
車を捨てたところからはまだ二町と歩いて来てゐなかつた。ふとまた車の音がした。
しかしKもSもそれを振返つて見ようともしなかつた。かれ等は互ひの話に心を奪はれたといふやうにして徐かに歩いた。
しかも後から車が来たといふ感じは、KにもSにも起つて来てゐないことはなかつた。Kはことにそれを早くから感じた。しかしSがかうして来て了つてゐる今では、さうした車の音は何の誘惑をも起させなかつた。医者か何かの車ぐらゐにしか思へなかつた。
走つて来る車はやがてかれ等を追越すまでに近寄つて来た。先きにSが振返つた。派手なパラソルが見えた。つゞいてそれを半ば傾けてゐるやうに白い美しい顔を微かに見せてゐる十七八の娘が映つた。それはSと同じ二等室に上野から乗つて来た娘だつた。その眉の美しさに長い間見とれて来た娘だつた。
Kがつゞいて振返つた。
Kははつとした。かれはその目をすら疑つた。そこにはかの女がゐるではないか。パラソルを傾けて、顔を赤くして、微かに此方に挨拶してゐるかの女がゐるではないか。その姿を見出すことが出来なかつたために、この三日といふもの、あたりのものがすべて
『今、帰つていらつしたんですか?』
『え······』
常子は顔を真赤にした。
その派手なパラソルをずつと向うにやりすごしてから、Kはうめくやうに言つた。
『君、あの人だよ?』
『ふむ······あの人かえ?』
Sもかう言つたきりだつた。二人は黙つて