春の休みに故郷に帰つて来てゐる大学生のNのゐる室は、母屋からはずつと離れたところにあつた。かれはそこで毎朝早く眼覚めた。野には雲雀が揚つてゐる。茫つとあたりは霞んでゐる。隣の垣の花が朝日の光のまだ当らない空に模様か何ぞのやうになつて見えてゐる。小径の草には露がしとゞに置きあまつた。
かれはいつもきまつてその小径を通つて、裏門のかき金を外して野の方へと出て行つた。草に雑つて微かに匂つてゐるすみれや、田や畔に一杯に咲いてゐるげんげや、緑の中に白くかたまつてゐる馬こやしなどがやがてかれの前に現はれ出した。
かれはをりをり立留つて大きく
かれの心は恋に満たされてゐた。しかしこれと言つてきまつた相手があるのではなかつた。かれの前にはまださうしたものはあらはれて来なかつた。かれはいろいろに想像した。いろいろに当てゝ想像した。(もし此処にさうしたものがあらはれたとする。そしてそれにこの身が引き寄せられたとする······。さうしたら何んなにこの世が楽しくなるだらう。全で[#「全で」はママ]変つたものになつて見えるだらう)こんなことが絶えず頭を往来したが、しかもさうした想像だけで、Nは何年かを過したことをくり返した。
かれは都会の町の角や、電車の中や、停車場の一隅などで出会つた美しい色彩を絵巻でも見るやうに一つ一つそこに展げて見たことを思ひ起した。中でも電車の中で見た紫の地に蝶の飛模様のついてゐるコオトを着た娘がいつまでもかれの頭にこびりついてゐた。かれはそれを紫の君と言つた。何遍も何遍もかれはそれをその日記の中に書いた。
否、その日記の中にしるしつけた色彩は決してそれに限らなかつた。時には、わが月草の君とも書けば、山桔梗の君などとも、また時にはわが太陽よとも書いた。しかも今までかれは何等の接触をさういふ娘達に持つたことはなかつた。かれはいつもさう書いた。さうした幸運から離れてゐた。
その癖、その友達の中には、眼を

ある若い
ある日Sとこんな話をした。
『君の家の人の黒い眼は油断がならないね?』
『さうかね?』
『君はさう思はないかえ?』
『別にさうも思はないがね?』
Sは平気で言つて、Nの方を見て、『あのマダムは気の毒な人だよ。まだ三十にもならないのに、世の中のいろいろな苦しみを皆な甞めつくして来たやうな人だからね?』
『だから、さういふんだよ。年にしては、あまりにいろいろなことを知りすぎてゐると思ふね?』
『それはさうだ||』
『君なんか、一緒にゐて、別に変なことはないかね?』
『変なことつて?』
Sは眼で笑つて見せた。
『変なことつて、別に何でもないけど······』Nはちよつと言葉をとめて、『あれで、いつまでも未亡人でゐるつもりかしら?』
『さうさね? 何ういふつもりかね。しかし、かういふことは言へる人だよ。何でも死んだ夫との中がかなりに深かつたので、その空気からは容易に脱け出しては来られないらしいね? あれで、時々ひとりで泣いてゐることなんかあるんだから||』
『さうかね』
『ちよつと見ると、元気で、はしやいでゐて、そんなことはないやうに見えるけれども······あれで中々恋には深い人でね?』
『さうかね······何と言つても? あの眼は働く眼だね······』
林に添つて落葉の堆積してゐる道を、こんなことを言ひながら二人並んで停車場の方へと出て来たことをNは思ひ起した。
ハイネの詩集||レクラム版の薄赤い表紙をあけると、そこに縦横に赤い青いアンダア・ラインが引いてあつて、その持主の深く
かれはそれを筑波の山の上の鎖の下つてゐるところにも持つて行けば、利根川通ひの蒸汽の船室の中にも持つて行つた。去年の初夏には、奈良の猿沢の池のほとりに持つて行つて、鹿の近寄つて来るのを相手に頻りに Nord See の詩を誦した。そしてそこで折つて来た馬酔木の強い
そこにあらはされてある恋||烈しい恋、強い恋、
Nによれば、一度思つた恋は絶対で、あくまでそれに終始しなければならなかつた。もしもその恋人が死んで、その肉体が地上からなくなつたにしても、心は決してそれから離れて来べきではなかつた。恋は二たびとせらるべきものではなかつた。世間にある多くの恋はすべて汚れた恋で、その身が考へてゐる珠のやうなものではなかつた。それなのに、その星のやうな小詩を残した詩人が、さうした世間並の恋を恋して、陋巷の中にその一生を終らうとは||?
Nは丘の上へと行つた。
ところがこの春やすみの中に於いて際立つてかれを驚かしたことがあつた。それは他ではなかつた。かれの心の底に今しも人知れずある大きな変化が起つて来つゝあることであつた。かれは二三日前からそれとなしにそれを感じてゐた。かれに取つては、もはやあたりのものが、あたりのものすべてが、草が、草の中に咲いてゐる小さな花が、夕暮ごとに屋根の上にかゞやいてゐる星が、折れ曲つて流れて行つてゐる大きな川が、重り合つて上つて行く大きな帆が、川の向うに見えてゐる町が、いつものやうにその感興を惹かなくなつた。その心の相手なしには、さうしたものはすべてかれに取つて死物のやうに見えた。何年かれはさうしていろいろなものにあくがれて来たらう。あらゆるものの上にありもしない
かれは今までとは違つた、静かな、しかしいくらか佗しい心を抱いて、三年も四年も親しんで来てゐた丘の上へとのぼつて行つた。のどかな朝がそこにあつた。沼は今しも日影を受けて、キラキラと金属のやうにかゞやいてゐるのが見え、芦や藺の新芽の遠く緑に連つてゐるのが指された。しかし、それが何だらう? 幻影の壊れて了つた今は何だらう。唯の沼ではないか。唯の日影ではないか。唯の芦荻ではないか。唯の林に添つた道ではないか。唯の花が咲いたり鳥が歌つたりしてゐただけではないか。かれはさびしい気がした。かれは丘の上から林に添つた道の方へと歩いて行つた。
川の土手の方へ下りて来やうとするところで、ふとかれは土地の医者の姉娘に逢つた。
それはいつも互ひに顔を見知つてゐる間柄であつた。せん子と呼ばれてゐた。しかもこれまでにそれを自分の相手にして想像したことなどはついぞなかつた。
『何処へ行つたんです?』
『ちよつと向うへ||』せん子はいくらか顔を赧くした。
『おばアさんの
『え······』
せん子はいよいよきまりがわるさうに小声で言つた。Nは娘の頬に、眼に、額に、何か今までに見たことのないあるものの添つて来てゐるのを、この一月の休みに来た時とは全く異つたあるもののあるのをそこに感じた。
『昨日行つたの?』
『え······』
『············?』何か言はうとしたが、Nはそれを言はずに黙つた。
その祖母の家は、こゝから一里ほど隔つたA町にあつて、それはその町でも有名な呉服屋であることをNは知つてゐた。Nは娘がいつもに似合はず模様の出たシイルの肩掛などをして、流行の耳かくしに髪を
『学校は矢張、休み?』
『え』
『いつから始まるんです?』
『もうぢきですの?』
『矢張、東京にゐるより、此方へ帰つて来る方が面白い······?』
『············』
恋の竪琴はいつ何処で弾かれるかわからなかつた。二人は