モウタアの音がけたゝましくあたりにひゞいて聞えたので、

「大丈夫?」
「大丈夫とも、丸で鏡のやうぢやないか? 何でもありやしないよ」
「急に荒れて来るやうなことはありやしない?」
「保証するよ」
Sは押しつけるやうにかう笑つて言つたが、此方に近く寄つて来るやうに手をあげてその船に合図をした。カタカタとまたモウタアがあたりに響き出したと思ふと、やがてその伝馬は石垣の雁木のところにかゝつてゐる二三隻の船の向うのところまで来て徐かに留つた。
「そこまでしか来られんかねえ?」
とても入つて来られさうにもないので、仕方がなしにSは先きに雁木を下りて、一番近くにある船に自分が乗つて、そこから女の手を執つてやつた。女は辛うじてSのあとについて来た。
やつとその伝馬に乗移つた時には、女はほつと溜息をついた。
「どうしたの」
「だつて、怖いんですもの」
につと笑つて、
「大丈夫ね?」
「心配はないよ」
かれ等は三日前にこのわだ中の離れ島に来たことを繰返した。何のために? あらゆるものから離れるために。世間の噂やら評判やらから離れるために。世の常の睦まじい夫妻のやうにしてあるいても誰にも眼をつけられないために。否、昨夜も「こゝなら大丈夫ね、誰一人知つてゐるものはないんですもの。どんなにしたつて構ひはしませんわね。誰だつて変な眼で見るものはありませんからねえ」かう女が言つたことをSはくり返した。
それはさうしたことを考へる事情などは何一つなかつたけれども、それでも二人はをりをり黙つて深く考へたことを繰返した。もしも心中しなければならない身の上であつたら······? 電報で捜索される身の上であつたら······? さうしたらつらさもつらいだらうが歓楽も一層深いだらうとSは考へた。人間として生れて来た
モウタアはカタカタとあたりにひゞきわたつた。船は波をきつて進んだ。港の岸につらなつた家屋だの、石垣だの、二階屋だの、ぴつしやり閉つた障子だの、女が物を洗つてゐる雁木だのが目まぐろしくかれ等の前に動いて行つた。雲の間からをりをり
港町をはづれたところでは、二三日来の暴風雨に増水した赤ちやけた濁流が一
「一体、何があるの? そこには?」
その濁つた波をこちらに横ぎつて来た時女はきいた。
「何でも二三千年前の住民の横穴だの、その時分に書いた絵見たいなものだのがあるんださうだ||」
「そんなもの見てどうするの?」
「別に、どうするつていふこともないけどもね。さういふものを見に行くのも面白いぢやないか?」
「さう」
「三千年前に住んでゐた人間の住宅を見るのは面白いぢやないか?」
「さう||?」
「何でも五六年前に発見されたんで、今では県で保護してゐるさうだ。非常にめづらしいものださうだ」
その濁流を横ぎつた時だけで、あとは海は静かであつた。波といふほどの波もなかつた。入江になつてゐる向うは、嚢のやうにくびれて、玉
モウタアの音はあたりの丘やら海やらに反響して、カタカタとけたゝましい音を立てた。小さな車の目まぐろしく回転するのにじつと女は目をとめてゐたが、「どう、私達もかうしてこゝに来て、モウタアでも買つて暮しませうか」と言つて笑ひながらSの方を見た。それはきのふだか、頬の赤い無邪気な女中が、さういふ風にモウタアを沢山買つて、それを船頭達に貸して、つまり東京での貨車の[#「貨車の」はママ]やうなことをして、それで生活してゐるものが沢山にゐるといふことを話してゐたからであつた。
「さうだね?」Sもその目まぐろしく回転する小さな車に目を留めながら言つた。
「さうしたら好いでせうね?」
「本当だね?」
しかしそれだけだつた。それから奥には二人は入つて行かなかつた。二人とも実際さう出来たらどんなに好いだらうと思ふのであつたけれども||それこそどんなに幸福だらうと思ふのであつたけれども、しかも二人ともそれをどうすることも出来なかつた。二人はそのきめられた境涯から離れて来ることは出来なかつた。船は次第にその丘の裾の両方から靡き落ちたところへと近寄つて行つた。
そこにゐる硅藻土を採る人達はかれ等の出かけて行つたのをめづらしがつて、何年にも東京から来た方は見たことはないなどといつて、女の髪に、衣裳に、姿に、ダイヤの指輪にその眼を

すらりとした
その話を聞いてゐなかつたならば||船の中で船頭からその話を聞いてゐなかつたならば、S達はそれほどそれにその心をひかれなかつたであらうが······その話、その所長達二人が、恋のためにあらゆるものを捨て、世の中をも捨て、親をも捨て、財産をも捨て、かうしてこのあら海の中の島の一角に住んでゐるといふその話は、かれらの心に深い感動を与へずには置かなかつた。Sにしても女にしてもじつとその生活に引入れられずにはゐられないやうな気がした。
「いや、どうもありがたう||」
遠慮しては却てわるいと思つたSはかう言つてそのまゝその卓のところに行つて腰をかけた。
「どうもえらいところで||」所長は笑ひながら、「大したものでもなかつたでせう? わざわざ見にお出でになるやうなところではないでせう?」
「イヤ」
「奥さんにはことにさうでしたらう」
所長はにこにこと笑ひかけながら言つた。
「いゝえ」
「何しろかういふところですからな||」
「でも、かういふところにお住ひになつたら何も面倒がなくつておよろしいでせうね?」
「皆さんがさうおつしやるんです······」所長は少し間を置いて、「それは世の中の面倒はなさすぎるくらゐですけれども、それでも住んで見ると、退屈しますよ」
「それはさうでせうけども||」
「何しろ、さつき貴方がお出になつた時だツて大変なんですもの||。めづらしくモウタアの音がする。また県庁の役人でも来たかなと思つてゐると、どうもさうでない。
「いゝえ、もう、その御好意だけで十分です」
Sの眼にも女の眼にも、さびしい生活のさまが映つた。小さな家屋。半分ぬりかけて放つてある荒壁。炉が奥の一
所長はいろいろなことを話した。冬の寒いことを話した。雪はさう大して深く積らないけれども、その時分には誰もやつて来るものもなく硅藻土を運搬する船さへやつて来なくなつて、二人きりで暮すやうな日が多いことを話した。またこのあたりには何んな生魚でも沢山にゐて、網を打てば、いつも持て余すほど入つて来るので、必要なものだけ取つて、あとは海に戻してやるなどゝ話した。
「私も、東京に行つたこともありますし······いろいろ目論見をしたこともあつたんですけども、わけがあつてすつかり思ひ切つてしまひましてね······こんなところにおちぶれの身となつてしまひました」後にはかれはさびしさうにこんなことを言つた。
別れを告げてこちらに来たS達にも絶えず後が振返られた。一生の中にいつまたこゝに来るやうなことがあるだらう? かう思ふと、その小屋にも、窓にかけてあるカアテンにも、窓際に
さうした別離の心が伝つて行つたか、モウタアがどうしても||いくら一生懸命になつて船頭がグルグル廻しても、容易にそれが廻転し初めないので、かなりに久しい間、かれ等はその船の中にさうして後向きになつて坐つてゐなければならなかつた。小さな輪は何遍も何遍も廻された。後には、これで廻転しなかつたらどうするんだらうと心配になつて来るくらゐ何遍も廻された。普通ならば、こんなことはよくあるかえ? とか、廻らない時は困るねえ? とか何とか声をかけるのが常であるのに、それを何遍となくゝり返してゐる船頭の態度がいやに真剣なためか、それともそれにS達がじつと深く見入つてゐたゝめか、何の言葉も三人の間には洩れて来なかつた。と、だしぬけにけたゝましい音がしてモウタアの小さな輪は廻転しはじめた。皆の顔は喜悦に蘇つた。
「左様なら!」もう一度かう別れの言葉がくり返されたが、少し行つて振返つた時にも、まだそこに所長の窓に凭つた姿がはつきりと見えてゐた。モオタアの響きは入江に反響して、カタカタと絶えず動いて行つた。