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ペチヨリンとゲザ

田山録弥




 鴎外漁史の『しがらみ草紙』は、当年の文学書生であつた私達に取つては、非常に利益の多いものだつた。明治の文壇は、その大半を、この『しがらみ草紙』によつて覚醒させられたと言つても好いと私は思ふ。

 ドイツを中心にして、ロシア、フランス、スペイン、ベルジユーム、オーストリア・ハンガリイ、諾威のるうえ丁抹でんまーく、さういふ各国の文学がそこに移植せられた。鴎外氏は、医者の方でも医者の医者ださうだが、文学でも文学者の文学者といふ形があつた。

 だから、其時分、もう世に聞えた知名の作家でも、皆な内所では、さうした鴎外氏の飜訳を読んだ。そして知りもしない通などを振り廻した。柳浪、水蔭、眉山、皆なさうだ。或は紅葉あたりでもさうであつたかも知れない。それより一段年の若い人達、鏡花、風葉などゝいふ人達は無論のことである。

 クライストの『悪因縁』『地震』あれは始め『国民之友』に出た。丁度二葉亭の『あひびき』がその四五年前に同じ雑誌に出たやうに||。それからハツクレンデルの『ふた夜』は、読売新聞に出た。鴎外氏は健筆で、社からその原稿を取りに行くと、『待つてゐたまへ、今やつてやるから』かう言つて、一時間もかゝらずに飜訳してやつたといふことであつた。

 しかし、『水沫集』『かげ草』の中にある飜訳の中では、オシユツプ・シユビンの『埋木うもれぎ』と、レルモントフの『浴泉記』及『ぬけうり』とが当時最も文壇を動かした。『埋木』は殊に作家達に護符のやうにして大騒ぎをされた。それにつゞいて、アンデルセンの『即興詩人』、これも作家達は皆愛読した。

 レルモントフ||ロシアのバイロンと言はれた詩人で且つ小説家のあの名高い『現代の英雄』ペチヨリンが、小金井喜美子女史のやうなあゝした廻りくどい古文風の文章で訳せられたことを考へると不思議に堪へない。しかし雅俗折衷にしようか、言文一致にしようかと作者が小説を書くにすら皆迷つてゐた時代だから仕方がない。

『現代の英雄』は年若い作者が、そのため、その作中に使用したモデルのために、決闘を申込まれて、それで撃たれて死んだほどの作であるだけに、非常にすぐれた面白いものである。当時も非常に世間にセンセイシヨンを起した作である。この作は章を四つに分けてある。初めが『ベラ』次ぎが、『タマン』(ぬけうり)それから主人公の名の章があつて、最後に、『浴泉記』が置かれてある。『浴泉記』が作中主人公の遺稿のやうになつてゐる。

 そしてこの一つ/\がそれ/″\に短篇を成してゐて、それを第三章で、しだいに結び附けるやうになつてゐる。『ベラ』はまだ飜訳されたのを聞かないが、これも非常に面白かつたやうに覚えてゐる。しかし、全体がさういふ構図で、面白い独特の組立を成してゐるのであるから、『浴泉記』と『ぬけうり』の飜訳を見たゞけでは、作全体の空気も分らないし、作者の作に対する位置もわからない。第三章で、作者はすつかり三つの章の物語を生かしてゐる形になつてゐるから······

 ある田舎の駅舎で落合つて、一夜語り明して、『己はこれから波斯ぺるしやに行く······。もうロシアには帰つて来ない。死ぬか生きるかわからない』かう言つて、主人公はその持つてゐる『浴泉記』の原稿を友人に託する条は、殊に感慨無量で、何うしても、ロシアの文芸の産物であるといふ感を深くさせる。ドイツではない、又フランスでもない······

 あの主人公のやうな人間は、ツルゲネフの作にも大分その面影が見える。例のドミトリ・ルウジンなどもその一人である。又『親々と子供』のバザロフなどもその一人である。ロシアには、不可解のロシアには、あゝいふ懐疑的な人物が多いと見える。

 これに比して、『浴泉記』の中にあらはれて来るペチヨリンは、頗る辛辣の人間である。飽まで皮肉である。新しい世界の新しい人間である。フランスのデカダンの徒よりももつと/\深い人間の根柢に触れたデカダンである。そして、それと相対さしめたグルシユニツキといふ人間がまた面白い。何うかすると、作者の馬鹿にしたこのグルシユニツキの方に、却つて読者の同情が加はるほどペチヨリンの皮肉は鋭い。

 此間正宗君が来て、その話が出たが、『ロシアのバイロンなんて言ふけれど、バイロンとは丸で違ふ。矢張ロシアだ。イギリスなどにはあゝした人間がゐない』かう言つたが、実際さうだと私も思つた。バイロンにはペチヨリンのやうな、あんな新しい、鋭い、深い皮肉はない。

 それから、近時のロシアの文壇||アルツイバセフとか、クウプリンとか、ソログープとかいふ人達の作を見ても、ペチヨリンほどのすぐれた人物の描写を私は余り見かけない。

『タマン』(ぬけうり)の方にも、一種の暗い深いトオンが出てゐる。あの屋根の上で歌をうたつてゐる女など何とも言はれず面白い。黒海あたりのカラーもよく眼に見えるやうに出てゐる。

 これが、この不思議な作が、二十年も前に日本に移植されたのだから面白い。無論、過寛くわくわんの衣であつたに相違ない。二葉亭氏の『あひびき』以上にわからなかつたに相違ない。その癖、これがその時分の若い作家の群を動かして、風葉君などは、これをそつくり真似して、『梢の花』といふ単行の小説を書いてゐるから面白いではないか。

 このペチヨリンに比べると、『悪因縁』『地震』『ふた夜』などは、全くドイツである。それから『かげ草』の中に『あづまや』といふのがあるが、あれなども、ぐつと新しくはあるけれども、矢張ドイツの持つた新しさで、ロシアの持つた新しさではない。

 しかし『ふた夜』には、同じドイツの味でも何処かオーストリア・ハンガリーの味や匂ひが残つてゐる。イタリーなどの味もしてゐる。

 それが『埋木』になると、その価値も味も匂ひもぐつと下る。その癖、当時にあつては、丁度この位のところが文壇のテーストに適したと見えて、評判は非常に好かつた。ゲザの名は若い文学書生達の間にくり返して語られた。私などもその一人で、ペチヨリンなどよりも却つてこの『ゲザの悲劇』の方が好きで、オシツプ・シユビンの名にあくがれて、上野の図書館に行つたり、丸善に行つたりしてその作をさがして歩いたものだ。ドイツに行つた人と聞くと、ゲエテ、シルレルより先に先づオシツプ・シユビンを訊ねたものだ。

 しかし、段々その価値がわかつて来た。『帰郷』といふ作、これはかなり長い作だが、この作なども私は読んで見た。それから『影』といふ短篇集も読んだ。『春の夢』などといふ短篇があつたのを覚えてゐる。

 それから、ツルゲネフがこのオシツプ・シユビンの才を非常にほめてゐたのを何処かの雑誌か何かで見たことがある。そして風説の空しくないのを喜んだことがあつた。

 この女流作家は、ドイツでは新派と旧派との中間に出たやうな人で、パウル・ハイゼなどの後につゞいて出て来たが、新しい思潮が、輓近ばんきん派が確然首をもたげて来たので、その間に挟まれて、右にも左にも出られなくなつたやうな作者であらうと思ふ。ホルツ・シユラアフなどの作とは、作風が余程古い型にはまつてゐる。

 鴎外漁史が、かうした各国の新しい作家の作品を飜訳して、最後に、アンデルセンの『即興詩人』に行つたのは、面白い不思議な現象であつた。






底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店

   1995(平成7)年4月10日発行

底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房

   1923(大正12)年4月15日

初出:「中央文学 第一年第二号」

   1917(大正6)年1月1日

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:hitsuji

2021年9月27日作成

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