春といふと、曾て紀州にあそんだ時のことが思ひ出されて来た。あそこは潮流の関係で、春の来ることが早く、伊勢あたりはまだやつと梅の花が散つた頃なのに、そこでは山桜が咲きみだれ、夏蜜柑が黄熟し、菜の花が黄く、蛙の声が到るところに湧くやうきこえた。
それに、そこは水蒸気が多く、樹々の緑の色にも、他に見ることの出来ない艶があつて、いかにも春が濃であるといふやうな気がした。私は降りしきる雨を衝いて、時には渓流の絶壁高く白く咲いてゐる花を仰いだり、時には大きく暗い
瀑の畔に明るくあらはれてゐる花を眺めたり、山から山へと越えて行く山畠に添つた路に蛙の鳴声をなつかしんだりして、熊野から瀞八町、
玉置山、
湯峰の温泉へと歩いて行つたことを思ひ出した。それにその時分には私はまだ若く、黒いキヤラコの紋附の羽織を着て、
草鞋をはいて歩いてゐたので、到るところの雨にぬれた山桜の
花片が一面にその羽織にくつついて取れないので、それに興味を感じて歌をつくつたこともあつた。
それから、塩原の塩の湯の奥で味つた春も私には忘れられなかつた。それは最早五月で、都会では晩春とさへ言ふことが出来なかつたけれども、それでもそこにはまだ山桜が咲き、
蕨も萠え、
山独活が出て、何とも言はれない静かな春があたりに満ちわたつてゐた。それに、高い深い山で全くあたりが
劃られてゐる中に、渓流の音がしたり、
野碓の音がをりをりけたゝましく響いて来たりするのも、世離れた春といふ感じを私に誘つた。