創建清眞寺碑は支那の陝西省西安府城學習巷の清眞寺内に在る。支那に於ける囘教の傳來を記した最古の石碑として、囘教徒の間には非常に珍重されて居る。碑文に據ると唐の玄宗の天寶元年(西暦七四二)の建設であるから、かの徳宗の建中二年(西暦七八一)に建てられた大秦景教流行中國碑よりも約四十年前のものである。
西暦千八百六十六年に露國の Palladius 僧正が始めてこの碑を學界に紹介したが、餘り世間一般の注意を惹くに至らなかつた。西洋の學者で實地に就いてこの碑を親覩した人もなく、且は支那の金石書類にこの碑を著録してないから、碑その物の存在に就いてすら疑惑を挾む者も尠くなかつたが、一昨年の末に出版された Broomhall 氏の『支那のイスラム教』中に初めてこの碑の照相を掲げてから、漸くこの疑惑の雲は霽れて來た。
吾輩は去る明治四十年の秋、西安に遠征を試みたる際に、この清眞寺を訪ふたが、時黄昏に迫つて、創建清眞寺碑の所在を確め得ずに歸途に就いた。併しその後幸に在西安鈴木教習の好意によつて、碑の拓本を手にすることを得た(本文は後に掲載されてある)。
一體今日支那全國に於ける囘教徒の數は甚だ多い。最近の Broomhall 氏のやや精密な調査には、その數を四百七十三萬(最少數)乃至九百八十二萬人(最多數)と算して居る(1)。支那囘教の研究の開拓者として盛名ある Thiersant 氏はこれを二千萬乃至二千百萬人と算して居る(2)。兩者の間に隨分懸隔はあるが、國民の總數すら確實に調査されて居らぬ支那では蓋し免れ難い結果である。たとひ具體の數は知り得ずとも、吾が輩の陝西直隷方面旅行の實驗によつても、支那に於ける囘教徒の數の意外に多大なることだけは保證できる。
かく多數を占むる囘教徒の政治上に於ける勢力は侮るべからざるものがある。明以前はしばらく措き、清朝に入つて乾隆帝が囘部の戡定に手を着けてから、嘉慶、道光、咸豐、同治、光緒の五代にかけて、或は雲南方面に於て、或は陝甘新疆方面に於て、囘教徒騷亂の警報殆ど絶間がなかつた。中華民國の成立した今日でも、或は陝西巡撫の升允が囘教徒と結託して保皇を唱へるとか、南路の囘教徒が新疆都督の袁鴻祐を殺害して獨立を圖るとか、著々暗中飛躍を試みて大總統袁世凱の心肝を寒からしめて居る。勿論過ぐる三百年の間に囘教徒は清朝の爲に尠からざる打撃を受けて居る。併し彼等は決して之によつて挫折せぬ。彼等には洋々たる未來がある。熱烈なる彼等は著々支那人の感化に成功し、遂に全國を擧げて囘教徒たらしめずんば止まざる概がある。彼等はこの時期の必ず到來すべきことを確信して居る(3)。
此の如く支那の過去現在將來に對して重大なる關係を有し又は有すべき囘教のことは未だ十分に研究されて居らぬ。第一に囘教が支那に傳來した時代すら甚だ明瞭を缺いて居る。支那の正史はこの問題に對しては殆ど何等の材料をも供給せぬ。支那で出來た囘教文學のうちで『囘々原來』とか『清眞釋疑補輯』とかは可なり支那に於ける囘教の歴史を説いて居るが附會假託大半に居り、毫も信頼するに足らぬ。
一般の囘教徒は支那に於ける囘教の傳來は隋唐二代の間に在りと信じて廣東の遺蹟と西安の古碑とをその證據として居る。廣東の遺蹟といふは主として廣州府城内の光塔街にある懷聖寺と、廣州府城の北郊一マイル足らずの桂華岡にある斡葛思(Wakk

西安の古碑といふのは即ち斯に紹介する創建清眞寺碑であるが、是は已に述べたるが如く廣東の遺蹟ほど廣く知られて居らぬ。碑は高さ五尺、幅二尺三寸強、その全文は次の如くである。
創建清眞寺碑記
賜進士及第戸部員外郎兼侍御史王※[#「金+共」、U+9277、427-5]撰篆
竊聞俟二百世一而不レ惑者道也。曠二百世一而相感者心也。惟聖人心一而道同。斯百世相感而不レ惑。是故四海之内皆有二聖人一出。所謂聖人者此心此道同也。西域聖人*謨默徳生二孔子之後一。居二**天方之國一。其去二中國聖人之世之地一不レ知二其幾一也。譯語矛盾而道合二符節一者何也。其心一故道同也。昔人有レ言。千聖一心。萬古一理。信矣。但世遠人亡。經書猶存。得二於傳聞者一而知西域聖人生而神靈。知二天地化生之理一。通二幽明死生之説一。如沐浴以潔レ身。如寡慾以養レ心。如齋戒以忍レ性。如去惡遷善而爲二修己之要一。如至誠不レ欺爲二感物之本一。婚姻則爲レ之相助。死喪則爲レ之相送。以至二大而綱常倫理。小而起居食息之類一。罔レ不レ立レ道。罔レ不レ立レ教。罔レ不レ畏レ天也。節目雖レ繁。約レ之以會二其全一。大率以下化二生萬物一之天上爲レ主。事レ天之道。可二以一言而盡一。不レ越二乎吾心之敬一而已矣。殆與下堯之欽若二昊天一。湯之聖敬日躋。文之昭二事上帝一。孔之獲二罪於天一無上レ所レ祷此其相同之大略也。所謂百世相感而不惑者足レ徴矣。聖道雖レ同。但行二於西域一而中國未レ聞焉。及二***隋開皇中一。其教遂入二於中華一。流二衍 散三漫於天下一。至二於我朝一。
****天寶陛下。因下西域聖人之道有レ同二於中國聖人之道一。而立教本中於正上。遂命二
工部督工官羅天爵一。董二理匠役一。創二建其寺一以處二其衆一。而主二其教一者。擺都而的也。其人頗通二經書一。蓋將統二領群衆一奉二崇聖教一。隨時禮拜以敬レ天而祝二延
聖壽一之有レ地矣。是工起二於元年三月吉日一。成二於本年八月二十日一。的等恐下其世遠
遺忘無上レ所二考證一。遂立レ碑爲レ記以載二其事一焉。時
天寶元年歳次壬午仲秋吉日立。
この碑記は一讀して疑惑を挾むべき點が尠くない。已に Dev天寶元年歳次壬午仲秋吉日立。

* 謨罕默徳
新舊の『唐書』を始め、杜佑の『通典』、賈耽の『四夷述』等すべて囘教の教祖マホメッドを稱するに一律に摩訶末の字面を用ゐる。宋の趙汝
の『諸蕃志』には麻霞勿とあるが、この勿は末と等しくメッドの音を表はすので、末と勿との通用の例は可なりに多い。唐宋時代を通じての特色はマホメッドを譯するに三漢字を用ゐ、最後の末又は勿の一字でメッドの音を表はすのである。明時代に至るとマホメッドを譯するに四漢字を用ゐ、その最後の二字でメッドの音を表はすのが多い。この區別も可なり判然して居る。『明史』『明一統志』は謨罕驀徳と稱し、明の馬沙亦黒の譯せし『天文經』の序及び『四譯館考』には穆罕默徳と書いてある。今この碑記に摩訶末と稱せずして、謨罕默徳の四字名を用ゐてあるのは、やがて碑其物の唐時代の作にあらざる一傍證を供するものといはねばならぬ。

** 天方
一體唐時代に於いて支那ではアラビアを指して大食(Taji)と呼んだ。『舊唐書』『新唐書』『通典』『唐會要』等皆この文字を用ゐて居る。稀には多氏(『大唐求法高僧傳』)、大※[#「穴かんむり/是」、U+259BD、429-3](『慧超傳』)、大石(『册府元龜』)等の字面を用ゐた場合もある。降つて宋時代に至つても亦同樣で、『宋史』を始め『諸蕃志』『嶺外代答』等いづれも大食と稱して居る。次の元時代になると、依然大食の字も使用されるが、同時にアラビアに對する天堂(『島夷志略』)又は天房(『西使記』及び『元史』郭侃傳)等の新名稱が現はれて來た。併しまだ天方といふ字面を用ゐたものはない。天方の字面は概して明以後に限るやうである。『明史』『明一統志』を始め『瀛涯勝覽』『星槎勝覽』等一概に天方と稱して、殆ど自餘の名稱を使用せぬ。この區劃は極めて判然して居る。然るに今この碑にアラビアを指すに唐代普通の大食の字面を用ゐずして、却つて天方と稱するより推せば、この碑は唐代のものにあらずして、明以後の建設に係ると斷ぜねばならぬ。
*** 隋開皇中
隋の文帝の開皇は西暦五百八十一年乃至六百年に當り、マホメッドの始めて囘教を唱へたのは西暦六百十年頃であるから、この碑の記事に據ると、マホメッドが未だ新教を唱へざる二三十年前に於て、その教が已に支那に傳來したこととなるがこは勿論不可能のことである。かかる不都合を生じたのは、やがてこの碑が後世の假託で、決して唐代の建立にあらざることを證明するのである。
支那の正史によると、大食人の始めて來朝したのは、唐の高宗の時代に在る。『舊唐書』大食傳に、
支那の正史によると、大食人の始めて來朝したのは、唐の高宗の時代に在る。『舊唐書』大食傳に、
永徽二年(西暦六五一)始遣レ使朝貢。(中略)自云有レ國已三十四年、歴二三主一矣。
とあるが、高宗本紀を驗すると、大食の使者は永徽二年の八月乙丑に朝貢して居るから、正しくは囘暦三十一年に當つて三十四年でない。これは從來東洋學者の解釋に困難せし一問題であるが、吾が輩はこの頃『册府元龜』『唐會要』等を熟讀して、元來は大食の使者が永徽二年と六年との兩度に來朝して、有國已三十四年とは永徽六年來朝の使者の言葉であるのを、『舊唐書』の作者が誤つてこれを永徽二年に繋げたことを發見した。永徽六年(西暦六五五)なれば正しく囘暦の三十四年である。次に唐の玄宗の開元七年二月に康國即ちサマルカンド國王が大食の將、異密屈底波(Emir Kutaiba)の侵略を訴へて、唐の援兵を請うた時の言に、
大食只合二一百年強盛一。今年合レ滿。如有二漢兵來一レ此。臣等必是破二得大食一(『册府元龜』卷九百九十九)。
とあるが、開元七年(西暦七一九)は正しく囘暦の一百年に當つて居る。以上の二例によつても明白なる如く、當時の實録に本づける記事であつたら、囘暦によつても、支那暦によつても、彼此の年代符節を合するが如く、斷じて不都合を生ずる筈がない。若し兩者の間に何か不都合を生ずることがあつたら、後人が囘暦と支那暦との相違を忘れて前代に逆算した結果と見るのが至當である。
元來囘教徒の普通に使用する囘暦は純太陰暦で、大(三十日)小(二十九日)の月各六、併せて十二月を一年として閏月を置かずに、ただ約三年目毎に一日の閏日を置くのである。故にその一年は普通三百五十四日、閏年でも三百五十五日に過ぎぬ。之を約三年毎に閏月を置く支那の太陰暦に比すると、三年毎に約一月、百年毎に約三年の相違を生ずる譯である。
この囘暦と支那暦との相違を忘れて、彼の年數を直に此に換算すると、必ず事實上の不都合を生ずるのである。この創建清眞寺碑記が果して唐の天寶元年の建設とすると、天寶元年は囘暦の百二十四年に當るが故にたとひ當時誤つて彼此の年數を換算しても僅かに三年乃至四年の相違を生ずるのみで、決して十年二十年といふ年代の相違を生ずる筈がない。
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明の太祖が燕京を陷れてから元の太史院(天文臺)に奉仕して居つた囘々の暦官をその儘任用して、暦日のことを掌らしめた。かの『華夷譯語』『元朝祕史』等の翻譯に特別の關係あつた翰林編修馬沙亦黒その人も實は當時太祖に任用された囘教徒である。『明史』の暦志七に次の如き記事がある。
囘囘暦法(中略)其暦元用二隋開皇己未一(十九年西暦五九九)。即其建國之年也。洪武初得二其書於元都一。十五年(西暦一三八二)秋太祖謂。西域推二測天象一最精。其五星緯度又中國所レ無。命二翰林李※[#「栩のつくり+中」、U+7FC0、432-2]、呉伯宗一同二囘囘大師馬沙亦黒等一譯二其書一。其法(中略)以二三百五十四日一爲二一周一。月有二閏日一。凡三十年月閏十一日。(下略)積年起二西域阿喇必 年一(隋開皇己未)下至二洪武甲子一(十七年西暦一三八四)七百八十六年。
これ明の太祖の時、その洪武十七年即ち囘暦の七百八十六年を起點として支那暦と囘暦との換算を試み、洪武十七年より七百八十五年に當る隋の開皇十九年を囘暦の紀元と定めた明證である。清の梅文鼎の『暦學疑問』に(5)、
囘囘暦書以二隋開皇己未一爲レ元。謂二之阿喇必年一。然以レ法求レ之。實用二洪武甲子一爲レ元。而托二之於開皇己未一耳。
とあるのは吾が輩の所見の正確なることを保證するものである。隋の開皇十九年は西暦五百九十九年で、マホメッドのメッカ出奔の年即ち西暦六百二十二年に對比すると正しく二十三年の相違がある。上已に述べたが如く囘暦は支那暦に比して百年毎に約三年の相違を生ずる故、二十三年の相違を生ずるには、少くも囘暦で七百七十年の年月を經過せねばならぬ。この道理から推しても隋の開皇十九年を囘暦の紀元元年に充てたのは、元時代にはじまらずして、囘暦の七百七十年以後に當れる明の初世に起つたものと斷定すべきである。
隋の開皇十九年を囘暦の紀元とするとマホメッドの新教創唱も亦從つて隋の開皇六年頃に繰り上がる譯である。此等の事情に加へて、『舊唐書』の大食傳に隋開皇中云々の文句がある。この文句は唐の賈耽の『四夷述』に本づき、もと隋の開皇年代に於ける大食國の有樣を敍述したもので、毫も支那と大食との交通に關係ないのであるが、之を誤解若くば牽強して、隋の開皇年間より隋と大食との交通開け、囘教も亦この時より支那に傳來したといふ説の行はるるに至つたのは明以後のことである。『明史』卷三百三十二及び『明一統志』卷九十二は、
隋の開皇十九年を囘暦の紀元とするとマホメッドの新教創唱も亦從つて隋の開皇六年頃に繰り上がる譯である。此等の事情に加へて、『舊唐書』の大食傳に隋開皇中云々の文句がある。この文句は唐の賈耽の『四夷述』に本づき、もと隋の開皇年代に於ける大食國の有樣を敍述したもので、毫も支那と大食との交通に關係ないのであるが、之を誤解若くば牽強して、隋の開皇年間より隋と大食との交通開け、囘教も亦この時より支那に傳來したといふ説の行はるるに至つたのは明以後のことである。『明史』卷三百三十二及び『明一統志』卷九十二は、
隋開皇中、其國撒哈八撒阿的斡葛思(Sahab
Saadi Wakk
s)始傳二其教一入二中國一。


と明記しある。明代以後の書で囘教の東漸を説くものは必ず隋の開皇を起源といたし、明以前の書には一も隋の開皇中の傳教を記するものがない。この間判然として鴻溝を劃して居る。今この碑文に「及二隋開皇中一其教遂入二中華一」の句があるが、是に由つても明代の假託たるを證明することが出來る。
**** 天寶陛下
『唐會要』卷一に據ると玄宗の先天二年(西暦七一三)の十一月に群臣始めて開元神武皇帝の尊號を上り、開元二十七年(西暦七三九)に尊號を加へて開元聖文神武皇帝といひ、天寶元年二月更に尊號を加へて開元天寶聖文神武皇帝というた。『新唐書』玄宗本紀に、
天寶元年二月丁亥、群臣上二尊號一、曰二開元天寶聖文神武皇帝一。
とあるのが即ち是である。故に天寶以後の碑に玄宗の尊號を稱する場合には、皆開元天寶聖文神武皇帝と稱して居る。天寶元年七月の元元靈應頌(『金石粹編』卷八十六)、天寶三載二月の嵩陽觀聖徳感應頌(『金石粹編』卷八十六)の如き皆その例である。今この碑單に天寶陛下と稱するは當時の用例に協はない。後世の假託たる一の證據と見るべきである。
尚ほこの碑に就いて疑惑を挾むべき點が隨分多い。(一)宋の宋敏求の『長安志』に唐代長安に在つたネストル教の波斯胡寺、ゾロアスター教の

陝西省西安府城學習巷の清眞寺に別に明の嘉靖五年(西暦一五二六)の勅賜重修清眞寺碑記があつて、次の如き記事を載せて居る。
考二其寺之顛末一。其初創二於唐之天寶元年三月一。工部差二督工官羅天爵一監造。
これは明かに創建清眞寺碑記に據つたもので、即ち創建清眞寺碑記は明の洪武十八年乃至嘉靖五年の間に建設されたものと斷定すべきである。吾が輩は已に主題の創建清眞寺碑記を論評し盡したから、序に之に關聯して支那に於ける囘教の傳來に就いて一言せようと思ふ。囘教の傳來に就いては囘教徒の來朝と囘教徒の布教とは區別せねばならぬ。
囘教徒の來朝は唐の高宗の永徽二年(西暦六五一)以來白衣大食(オムメヤ王家)黒衣大食(アバァス王家)の使者が屡

殊に海路の交通となると一層盛大で、當時いはゆる南海舶又は昆崙舶に搭乘して、遠くペルシア灣より嶺南に來た。廣府(アラブ人の Khanfou)は世界の一大商港で、當時の實録『支那印度物語』に據ると、唐末に廣府滯在の外國人すべて十二萬人、その多數は勿論囘教徒で、彼等は斯に寺院を構へ、自由に祈祷禮拜を行うたのである。
かく唐代に多數の囘教徒が支那に或は居留し或は歸化し、その或る者は固有の宗教を崇奉したけれども、決して之を支那人間に傳播せんと試むる者なく從つて當時の宗教界には何等の影響も及ぼさなかつた樣である。『支那印度物語』にも明かに一支那人も囘教に歸依する者がないと記載してある(6)。囘教徒はただ信仰の自由を享けたのみで、布教の自由を有せなんだか若くば之れを有せうと試みなんだ(7)。さればこそ唐の代宗の大暦四年(西暦七六九)の「唐鄂州永興縣重巖寺碑銘」に、
國朝沿二近古一而有レ加焉。亦容二雜夷而來者一。有二摩尼焉、大秦(ネストル教)焉、
神一焉。合二天下三夷寺一。不レ足レ當二吾釋寺一小邑之數一也(『全唐文』卷七百二十七)。
とあつて、摩尼、景教、



元が朔漠から起つて宇内を昆一してから、西域の囘教徒が續々支那内地に移住した。『至元辨僞録』卷三に蒙古時代に儒、道、耶、囘の四教師が各自に教勢擴張に力めた有樣を敍して、
今先生(道家)言。道門最高。秀才人(儒家)言。儒門第一。迭屑 Tersa 人(耶蘇教徒)奉二彌失訶一(Messiah)言得レ生レ天。達失蠻(Danishmand 囘教徒)叫レ空謝二天賜與一。
とある。元時代に囘教徒が廣く支那内地に散漫して居つたことは、東西の史料によつて容易に證明される。降つて明代になると囘教徒の内地移住愈

参照
(1)Broomhall ; Islam in China. p. 215.
(2)Thiersant ; Le Mahome'tisme en Chine. p. 46.
(3)Hartmann ; Der Islamische Orient. II, p. 1.
(4)Dev
ria ; Origine de L'Islamisme en Chine. p. 318.
(5)『策學備纂』天算五。
(6)Reinaud ; Relation des Voyages & C. p. 58.
(7)Renaudot ; An Inquiry into the Time when the Mohammedans first entered into China. pp. 126, 134.
(1)Broomhall ; Islam in China. p. 215.
(2)Thiersant ; Le Mahome'tisme en Chine. p. 46.
(3)Hartmann ; Der Islamische Orient. II, p. 1.
(4)Dev

(5)『策學備纂』天算五。
(6)Reinaud ; Relation des Voyages & C. p. 58.
(7)Renaudot ; An Inquiry into the Time when the Mohammedans first entered into China. pp. 126, 134.
(明治四十五年七月『藝文』第三年第七號所載)