この国学院大学の前身の国学院、及び国学院大学で、私ども万葉集を習ひました。その時分ちようど、木村正辞先生といふ、近世での万葉学者がをられまして、私ども教へて頂きました。
その外に、畠山健先生が、万葉集を教へてをられました。木村先生といふのは、旧時代から名高い万葉学者で、謂はゞ正しい伝統を持つた方です。畠山先生は万葉やら、源氏やら、徒然草やら、宇治拾遺やら、いろ/\なものを教へて下さいました。だから当時の大学予科生なる私どもは、畠山先生の万葉集を教はることが残念に思はれました。高等師範部の前身の師範部の方に、木村先生の時間がありまして、師範部の方が、よい待遇を受けてゐるやうな気がして、師範部の時間を盗み聴きに行きました。けれども、年を取つてをられまして、昔の評判と、実際とは相当違ふといふやうな感じを、僣越ながら受けまして。所が、畠山健先生の万葉講義といふのは素晴らしいいい講義だつたので、大変我々万葉学の刺戟を受けまして、やはりかうして教へて下さるだけに、それだけの深い用意があつたのだといふことをば始めてつく/″\と知つたことでした。もうその先生たちも皆亡くなられて、お墓々々も冷えきつてゐます。さうして、今では亦、私の受けた印象などになかつた事のやうに、木村先生が、江戸持ち越しの万葉学の権威のやうな形に考へをさめられてゐます。其は其として、よい事なのです。かういふ話をしておくのも、それらの先生の供養にも、国学院大学の歴史の補ひにもなるかと思つて申上げてゐるわけですが、よく考へて見ますと、実際古典を専門にしてまゐりました我々の国学院でありますが、この国学院で本道に万葉を専門にしてをられた人を名ざしする段になると、容易なことではありません。木村先生に習ひましたけれども、もう先生の万葉には我々若干あき足らぬ気持を感じた位で、その外には、外の文科系統の文献の専門家は沢山いらつしやいましたが、万葉の専門家は木村先生を除けば一人もをられなかつた。だから我々は何とか万葉の本道の先生を得たい。この他に更に、さう言ふ先生を得たいといふやうな欲に燃えてをりました。その望みもとう/\達することが出来ずじまひになりました。恐らく武田君も少し遅れて這入つて来たのですから、或はその木村先生につかずにしまつたかも知れません。武田君への先生の伝統、これは、万葉学では、大事の事ですから、よく調べておきます。我々二人は万葉をば専門にして来たけれども、万葉の学者としては非常に不幸で、本筋の万葉学の伝統には、若い時代には、触れてをらないといふことにならうかと思ひます。木村正辞先生をある点まで無視したやうな話で、誠に申し訳ない事になりますが、||そんな有様なのでした。肝腎の国学院がそれですから、まあ世間の万葉学といふものも、筋を考へる段になると、大体おしはかることが出来ます。その後、明治三十年代を通つて、四十年代に入ると、世の中に、万葉学が非常に進んで参りました。
一つは正岡子規の門流の万葉ぶりの歌の方に、力が増して来まして、||万葉文学の本流と申しますか、そちらから非常に潮が満ちて来ました。それから戦争時代になりまして、やつと近頃、戦争後もう万葉一途の時代でもあるまい、源氏物語をそろ/\出して見ようではないかといふやうな考への起つて来まして、源氏学興隆の時が来ました。それで万葉と源氏の並立時代といふやうな有様になつて来ました。けれども、だがまだ/\万葉を探求しないでは、万葉の持つてゐる問題が、そのまゝ残る。今におき、我々の解決し切れない問題は、早晩貴方方にお任せしなければならないものとして、沢山残つてゐると思ひます。こんなに懸案を残して去るといふことは、それだけ、我々が無力で、不勉強であつたといふことになります。併し、源氏と申しますものゝ源氏にだつて万葉的要素が沢山ございます。我々は万葉と源氏との間、もつと平たく申しますと、奈良朝及び其前と、それから平安朝とのその間の聯絡といふことは、殆んど考へずにまゐつたので、この二つの聯絡をば何とか考へて行く者が、今後の学界に現れて、著しい、為事も残して行くことになるのだと信じて居ります。さうでなくても、古い言葉で解くことの出来ないものが、随分そのまゝになつてをります。源氏その他のものには出て来るけれども、記紀万葉の世界には出て来ない、併し、その言葉は、古代からひき続いて来たものに違ひないといふ||古代語でゐて、古代文献に現れず、まるで中世に生れたものゝやうな形で残つてゐる。||さう言ふ言葉も沢山ございますし、その他、いろ/\な事柄||民俗など||につきましても、どうしても、万葉と源氏と、きり放しておいては、聯絡も説明もつかぬといふやうな文化現象が沢山あるのです。さういふ中間時代の学問が、今後現はれて来なければ、古代と中世とは、木と竹をつぎ合せたものになりませう。
源氏物語で言ひますと、光源氏が、須磨へ流れて行きました。||流されて行つたのでは、少々問題がありますから、流れて行つたといふことにしておきます||が、小説の本体から言へば、流されたのでせうが、流されたといふことをば避けた表現法をとつてゐるのです。自ら進んで流れて行つたといふやうに書いてゐるわけですが、あの源氏と同じやうな物語が源氏以前にもあり、源氏以後にもございます。これは私等の言葉で「貴種流離譚」||貴い種の人がさすらひ歩くといふやうな点に寄せて名前をつけてをりますが、貴種流離の話といふものは、実に沢山ございます。その話の一部分で片附くことはかたづけて置かうと言ふ計画なのです。別に珍しい話をするわけではありません。
万葉集でも、万葉全盛時代と言ふべき、花の時代、天平十一年、万葉では十年であつたと思ひますが、十一年三月頃のことだつたと思ひますが、万葉作家としても残る石上乙麻呂が、土佐国に流されます。又相手の久米若売といふ女性は、下総国に流されます。「たをやめのまどひ」によりて、流されて行つたわけですが、その歌と言ふのが、誰にも知られてゐるのです。全体古い叙事詩は、作物の主人公か、作者自身か、さう言ふ点が、常にごつたになつてゐるやうな形をとり易い。さう言ふ詩を誦み馴れた習ひから、「主」と「客」どころか、詩||長歌||そのものを切半して、問者答者二人分に分けたといふ風になつてしまつてます。この乙麻呂が土佐国に流されたと言ひましても、すぐさま都に召し還されて役に就いてゐるのですから、実は大したことゝも思はれませんけれども、併しそれでも、続日本紀にはつきりと書いてある。万葉集にも凡きつぱり書いてあります。けれども、どういふわけか、文学だといふので、万葉の方は信じない癖が、日本の学者にはついてゐます。万葉と続日本紀では、どちらが正しい。さう言ふことになると、どちらが何といふことはないと思ひますけれども、日本紀でもすでにさうなので、万葉は歌謡の集成本だから信じない。これは国史だから編纂の動機が、もつと確実だ。さういふ、昔からの学問の態度は、いつまでも続いてゐるのに不思議はない。けれども大体さういふ風な考へ方で、史実の形をとつたものは眺められて来てゐるのです。万葉の方では、前にも言つた、天平十年説なのです。さういふ考へ方をする人も、続日本紀を見ると、こちらの方が本たうだと言ふことになる。併しこの事実は、事実に違ひないとしても、さう言ふ事実は、昔からある。それから其後にも起つて来た事柄なのです。即ち、類型的な事件であつたことでせう。決してなかつたことゝは言へないのです。
併しすでにその時万葉集が取扱つてをります歌を見ましても、石上朝臣と久米若売といふ形で、それを表はしてをります。さう言ふことを伝へるには、きまつて条件のやうなものがあつて、これ/\の事柄を伝へるには、一つの伝説の型によつて伝へようとする勢といふやうなものゝあることが考へられます。それを世間が受入れて、受入れる心は伝説的にものを考へ、扱ふ心であつた。だから伝説の胸に消化してしまつて、事実や事実を記録したものと思はれてゐる記録が、最平常な伝説型に直されて来る。
さてかういふ風に二つの書物に現はれてをりましても、二つについて我々が受ける印象といふものは、いづれも伝説的だといふことは言うて差支へないことだと思ひますし、恐らくその当時はつきりしたことを知つてをつた人々は、それを取巻いてゐる事件、更に遠い所にゐるといふ人達は、それと同じやうに起つた事件を伝説として取扱つてゐたに違ひないと思ひます。所がさういふことを万葉集から拾つて見ますと、いろいろな事柄が出て参りまして、それこそ枚挙にいとまもないわけですが、それで非常に似てゐることで違つた形を見せてゐること、これも名高い事実をかりて来た万葉集の初めの方にあります
因幡国の一地方で伝へてゐたのか、或は宮廷などの資料がさふ言う形で残つてをつたのか、謂はゞ、日本紀系統ではさう伝へた訣ですが、さういふやうになるともう訣りません。実際は、初めから訣らないのでせう。日本紀が正しいと言ふのは、以前の学者ならきつと、さうするでせう。ともかくさういふ伝へのあつた所が、奈良朝には、奈良朝関係の文献に三ヶ所ある。三ヶ所あるから、其中一つは正しいのだとさう簡単には行きません。どこかが真実の所で、あと二つは物語がその後から出来た。或は前からあつたものが、物語が一緒になつてしまつたといふ風に考へられゝば、学問は楽なのです。さういふ風な地名があつたのでせう。それはその地名をば歌が指定してをりますから。
「いらごの島の玉藻刈ります」と同情した歌も、「浪に濡れ、いらごの島の玉藻刈りはむ」と答へた歌も、伊勢国説を主張してゐるのです。何にしても、この地名を中心にして、三ヶ所がさういふことを言つてゐたものでせう。これは、三種類の奈良文献から起つたことでなしに、歌が元になつてゐるのです。三通りの外にまだ幾通りか、麻績王流竄の地が主張せられてゐたかも知れません。其上に麻績王ではなしに、別の王を中心として伝へたもの、さう言ふ無限の伝来が残されてゐたことが思はれます。
併し今我々はさういふことを問題にするのではなしに、貴い人が波にぬれていらご(いたこ其他)の島の玉藻を刈つて喰べてゐる。さういふ境遇に落ちてゐる。これは都から遠い田舎にさすらうて来て、苦しんで生きてゐるといふことを、行きずりの同情者が歌ひ、麻績王が答へてゐる。
さういふ事柄は、他にもいろ/\沢山ございまして、平安朝に入つてもありますし、又奈良朝以前に遡つてもありました。そのうち今日問題にしたいのは、それが男の貴い人、或は女の貴い人、どつちかゞ流されて行く。或は自分自身で、流れて行つてゐる||さすらふといふ風な形で、中でも一番均等に行つてゐるのは、允恭天皇の皇子の木梨軽皇子、それからその妹の軽大郎皇女、この二方が、一腹一生の兄妹なのに夫婦の契をしたといふことが、神意によつて現れて、それで皇女が伊予国に流された。これが日本紀の伝へです。古事記の方では、太子流されて伊予に行く。後からその皇女が跡を尾うて行かれた。これがいはゆる道行といふ、旅行のある理由なのですけれども。その途、或は以外でも出来ました歌の一部分が「
かう言ふ歌を謡ふ人、其を聴くことによつて、祖先達のあはれを知る心が育まれて来たことは事実でせう。古代と言へば、一も二もなく信じなくなつたが、さう軽蔑は出来ないものです。さういふ風に、日本紀と古事記では伝へが一寸違ふ。
ところが女性の側の伝へといふのも、又色々な風に沢山ある。
仁徳天皇の皇后の磐ノ姫といふ方は大変嫉妬の激しい方で、その嫉妬の表現といふものは或は今日古事記を見ますといふと、如何にも其自身文学だと謂つた感動を受けます。嫉妬の文学的だといふことは、今では喜ばれることではありませんけれども、あれはあゝいふ文学的になつて来なければならぬ理由があつて、あんなに力強い表現をしてをつたのでせう。つまり女の怒りを鎮めるための歌といふものが発達して、其「女怒り」の代表者としての磐姫皇后が存在することになつた訣です。それはやはり万葉集にも出て来てをります。所が万葉では一部分は、既に申しました軽皇女の歌になつてをります。軽皇女の歌か、磐姫の歌か、万葉と古事記、日本紀では、どちらへもきめてしまふ訣には行かなくなつた次第なのです。それでこの皇后が紀伊国に
ずつとさがりまして、天武天皇の時にちようど似た立ち場の皇女が二人、見えてゐます。一人は、大伯皇女。大津皇子といふ男性の兄弟が殺されたのでその墓へ行かれました。その道の叙述は、万葉では飛び/\に僅かの歌で述べるのですから道の叙述は分りませんが、恰も道の旅を考へることが出来るやうになつてをります。それと同じやうな位置の十市皇女といふ方は、自分の夫である所の弘文天皇崩御の後に、伊勢斎宮に参られる、その途で名高い「
さういふ風に、女の人は陽の目も見ないと言ひますが、本当に陽の目も見ないやうな、部屋に生活をしてをつた。尤も日本では本当のことかどうか知りませんが、ふれいざあ教授のごうるでん・ばうを見ますと、日本の天子は地上に足をつけない。顔も日にさらして外出せない。尤も地や、外光が天子の威光を吸ひ込んでしまふからだといふやうなことを書いてをりますが、併しそれも種のないことではない。さういふことを、日本に来た外国人が聞いて書いた。まさかそこまで伝説化してもゐないでせうけれども、さういふ風に、宮廷その他の神事に仕へる人たちは、禁忌を守つてゐたに違ひない。さういふ風に神事の生活をしてゐる所では、非常な謹慎の生活をしてをりますために家庭にをつてもなか/\陽にあたらない。いはゆるあめのみかげ、ひのみかげといふ言葉がそれを示してゐるのです。宮殿の屋根が天日の陰となつて、神秘な人の威力の逸出を防ぐことなのでした。さういふ家の暮しがある。だから女の人は男性の家族から、顔も知られないでゐる。さういふ女の人が沢山ゐる。そんな女性の、宗教的な聖職にある人が、長い道を旅行して行くといふやうなことは考へられないことなんですね。本当か嘘かといふ気がします。幾ら本当にありましても、怪しまなければならぬ程沢山の伝へがある。沢山あつた所でそれが真実だといふことにはならぬ。即ち一つの信仰をばずつと長い間日本の国で貫いて持つてゐるのですから、その信仰を以て旅をしないでも、信仰の旅をする女の人を考へる事は出来る訣です。そこに伝説は幾らでも出来て来ます。さういふことが伝へにありましても、恐らく遠い旅の空想が、女宗教人の上には纏綿して居たのでせう。
天子の御即位の後、新しく立つた斎宮は、伊勢まで長い道をば「群行」と言ひまして、行列を作つて······、神々の行列に
万葉集を見ますと、女の人の旅のことも沢山出て来たり、人の中に入つて旅をするといふこともあるし、一人旅をする女のこともあります。ともかくいろ/\な旅があります。それをあなた方の考へる旅とはお認めにならないかも知れませんが、女の人が家出をする話······。昔の女の旅には目的が考へられない。万葉時代の女の人の旅には目的がそんな風にはつきりきまつてはゐない。きまつてゐないと言ふと悪いのでせう。目的は恐らく死ぬるための旅でせう。家を出て行くといふことは、亡命です。女の亡命は、其女性の死を意味するものです。死ぬるための旅と言つていゝでせう。古代女性が家をさすらひ出るといふやうな種類の物語、歌を中心とした物語が相当見えてをります。場合によると、その当事者の作つた歌、死なれた後に残つた男達が作つた歌、そんな風な形で残つてをります。或はさういふ語り伝へがあつて、昔のそれを思ふと昔が恋しいといふやうな、旅行者の作物もあります。
万葉集で名高いのが、真間の手児奈、まう一つは、摂津の蘆ノ屋の海岸にをつた女ですから、蘆屋の
同じ長歌と申しましても、色々な人が、色々の工夫をして作りますと、いろ/\かはつた表現がかど/″\に出て来て興味を覚えさせます。その中でも高橋虫麻呂といふ人、||この高橋虫麻呂といふ人の歌集の取扱ひ方は、以前から私は問題を持つてゐましたし、今でもなほ問題を多く持つてゐるのですけれども、一応虫麻呂の歌として話します||虫麻呂の作つた歌を見ますと、非常に素質のいい、物語の伝承者として、極めて適した人らしい所が出てをります。文学者といふより、伝承者としての素質が十分出てゐるやうな感じがします。とにかく「死に行く処女」といふものがございまして、何のために死ぬるのか、死ぬる目的といふものが本たうは訣らない。一番出過ぎた解釈は、つまりそれは信仰の純粋を保つためとか、神以外の夫を特つことは、神の怒りに触れるからといふので、それで死んで行くのだといふ風にとつてゐるのです。だから死なゝいでいゝ場合もあるわけです。
沖縄の方に行きますと、やはり同種類の話が沢山ありまして、
さうしますと、つまりこれらの女性は、この世の中に死ぬために生れに来たといふことになります。死ぬるためにこの世に生れる、或は死ぬるために生れに来るといふことは恐らく意味のないことだと思はれるでせうが、併し死ぬるために生れに来るといふ信仰が、非常に深く保たれてをりました。我々の国にはこれが後に段々難しい理窟を持つて、真実性を備へて来ました。極く平凡な大昔の田舎では、遠い所に我々の世界とは違つた世界がある。即、他界があると信じてゐました。さうして、普通我々はその世界へ行く事は出来ない。併し時として偶然に、或は神から幸ひせられた、恵まれた人達だけが、他界へ行くことが出来ると信じてゐました。併しあちらの世界からは屡々来るものがありました。あつちの世界とこつちの世界に共通のものがあつて、それはあちらから来ることも出来、又こつちから他界に行く事も出来ました。さういふ世界のあることを信じてゐる。つまり一つの他界観念を持つてゐたのです。
日本人がとてみずむを持つてをつたか、どうかといふことは、大変な問題ですけれども、とてみずむがなかつたら、恐らくこの他界観念も出て来なかつたらうと思はれるのです。他界に生物がをつて、それが我々と共通した条件で生きてゐるから、我々とそのものとの間に生活条件の通ずるところがある。さういふものがこの世界へ来て、再び他界へ帰ると、つまり完全に神になるのだと、さういふ風に信じてをつたらしいのです。だから日本の地方の社の伝へや、由来書を集めて見ますと、その中の大きな何分の一といふ程度に、「この祭神は昔外国から船に乗つて渡つて来た神様だ」或は外国とまで言はなくても、「どこからか知らない国から渡つて来た神様だ。その船を開いて見たら、若い神が死んでをつた。それを祀つたのが、このお社だ」といふ社がなか/\沢山あります。さうかと思ひますと、それを拾ひ育てたのが、社の神主の祖先だといふ風に説いてゐる所も多い。今までの神道の研究では、そんなものではいけない。そんなことは正当な神道的の考へではない、中間に起つた蒙昧な信仰に過ぎないのだと言うてをりました。けれども、かうした神は非常に数多くあるのです。さうすると、何かその間に理由を考へなければならない。皆嘘だと言つてすましてゐることが出来ないのです。つまり、我々の持つてゐる神様のある大きな部分までは、何の説明も出来ないで、間違ひだと放置してしまふことなのです。それを我々が考へて行きますと、例へばあいぬの熊を殺して祭る熊祭りがあります。よその人間は非常に残酷だと考へますけれども、あいぬ人には熊自身の感情も訣つてゐるのです。死ねば天に昇つて神に生れ変るのだと思つてゐる。さう信じて殺すわけなんです。これは日本と比較研究すべきことなのか、日本の信仰があいぬの社会に移つて行つたのか、簡単に言ふことは出来ませんけれども、あいぬとは種族において全然違つてゐるにも拘らず、信仰の上に非常に似た所があるといふことは事実です。これは偶然の暗合なのか、それとも当然の理由があるのか考へなければなりません。
他界の生物がこの世界を訪れて来るのは、この世界に来ることによつて、再び他界に帰つたとき、立派な神になることが出来る。かぐや姫も犯しがあつて日本の地へ来たが、それが償はれたから帰へるのだといふことを言つてをりますけれども、その理由は誰も説明出来ないから、天から来るには皆何か失敗してやつて来てゐるやうなことになつてしまつてゐます。何のために失敗をしたのか、失敗はどうして償へるのかといふことの説明なしに済ましてゐる。
先に申しました万葉に出てくる、死んでゆくをとめ達の伝へにしても、本当にさうして死んだのだと思ふ人はないでせう。偶然死んだこともあるでせうけれども、あゝした歌は本当に死んだことを見て作られたものではないでせう。死んだといふ事実よりも、もつと大事な、もつと有力な、つまり昔からの伝へ、伝説といふものが力強く行はれてをつたわけです。それを伝へる土地々々によつて、桜ノ児であり、あるところでは鬘ノ児であり、真間の手児奈であり、思ひきつて天津処女になるといふ形をとつて、ところ/″\で違つて来るわけです。それが皆死んだといふことは、巫女が、神の外は、男を避けるといふ神道的の普通の解釈の上に、まう一つ古い解釈がなければならないのでせう。つまり「をぐな」とか「をとめ」とか言はれるやうな年齢の者が、生れて直ぐ死んで行く。
それでその死んで行く間に少しの旅をしてゐる。つまりそれは、他界からこの世界に来て、この世界で死んで他界に神となつて現れる。その手順が短くなつたり、長くなつたりしてゐるけれども、ともかくそんな形で現れてゐるものと私共は見てをります。このことは更に男のさすらひ物語を申上げれば、もつと話が理会し易くなるのですが、男の話はすでに度々繰返してをりますので省きませう。
女の場合は殊にあはれに死んで行つたといふことで、悲しまれてをつた人達が多いのですから、幾分若い方々の、荒だち易い心をやはらげることが出来るかと思つて話をして見ました。
この話は、歌を一つ/\解釈して行かなければ、話にならないのですけれども、平凡な皆の知つてをられる歌を、解釈して行く気にもなりませんでしたから、大変筋の立たぬ殺風景な話になつたと思ひます。