自分の
京都時代にあった
咄をしよう。
元来
箏という楽器は日本の楽器中でも一番凄みのあるものだ、私がまだ幼い時に見た
草艸紙の中に
豊國だか誰だったか
一寸忘れたが、何でも美しいお姫様を一人の
悪徒が白刃で
真向から切付ける。姫は
仆れながらに、ひらりと
箏を持ってそれをうけている、
箏は斜めに切れて、
箏柱が
散々にはずれてそこらに飛び乱れ、不思議にもそのきられた十三本の
絃の先が皆
小蛇になって、
各真紅の毒舌を出しながら、
悪徒の手といい足といい首胴の差別なく巻き付いている、
髪面の
悪徒は苦しそうな顔をして
悶き苦しんでいるというような絵を見た事があるが、自分は幼な心にも物凄く覚えて、
箏というものに対して何だか一種凄い印象が
今日まで深く頭に刻み付けられているのだ、論より証拠、寺の座敷か、御殿の様な奥まった広い座敷の
床の
間へでもこれを立て
懸けておいて御覧なさい、
随分いやな
感のするものだ。
殊にこれは横にしたよりも縦にすると
一層凄く見える。それかあらぬかロセッチの
画いた絵に地中海で
漁夫を迷わす
サエレンという海魔に持たしてあるのは日本の
箏だ、しかもそれが縦にしてある、ロセッチは
或はこれを縦に弾くものと誤解したのかもしれぬが、この物凄い魔の女に
取合わした対照は実に
佳いと思った。
前置づきだが、
要するに
箏というものは何だか一種凄みのあるものだということに
過ぬ、これから
談すことも
矢張箏に関係したことなので、その
後益々自分は
箏を見ると凄い
感が
起るのである。
私が京都に
居った時分私の女門弟に
某という娘があった。
年齢はその頃十九だったが、
容貌もよし性質も至って温雅な娘でまた
箏の方にかけては
頗る
天稟的なので、師匠の自分にも
往々感心する様なことがあったくらいだ。その時分両親はまだ
健全で、親子三人暮し、家も貧しい方でもなく
先ず普通の生活をしていた、元来がこういう温和な娘だったから、親達の命令には少しぐらい無理なことがあっても自分の意を
屈げても従うと言う風であった。
容貌は
佳し性質もこんな温厚な娘だったが、玉にも
瑕の例でこの娘に一つの難というのは、肺病の血統である事だ。娘自身も既にそれと心付き、それに前にいった様に温雅な
||寧ろ陰気と言う方の
質だったから、
敢て立派な
処へ嫁に行きたいと云う様な
望もない、幸い
箏は何よりも好きの道だから、自分はこの道を
覚込んで女師匠に一生一人
生活をして行く方が、
結句気安いだろうと思ったので、遂に自分の門弟となったが、技術の上には前いう如く
天稟的だし当人も非常に好きなものだから技術は日に増し上達する。自分も特別心懸けて教えていたが、その時分は
最早自分で
大分門弟をとって立派にかんばんをかける様になった。ところが娘はそうは云うものの両親も一度はそれを許してもみましたが、
最早年頃でもあるし同じ
朋輩が
皆丸髷姿に変るのを見ると親心にもあまり
良い
心持もしない、実は
密かに心配をしていたのだ。すると突然縁談が
起ったというのは、何でも、その娘を
或男が外で見染めたとかで、是非というつまり
容貌望みで直接に先方から
懇望して来たのである。両親も大変喜んで
種々先方の男の様子も探ってみたが大した難もないし、
殊に先方からの
強っての
懇望でもあるから、至極良縁と思ってそれを娘に
談すと、一度は断ってはみたが、もとより両親の
言ではあるし、自分でも強いて淋しい生活に入るのを望むわけでもないから、
一切両親にまかすことにしたのがそもそも娘の不運の
基であった。
両親は
頗る喜んで早速この
由を
先方へ通ずる、そこで、かたの如く
月下氷人を入れて、
芽出度く三々九度も終ったというわけだ。
男というのは当時某会社に出勤していたが、何しろこんなにまで望んで
嫁った
妻のことでもあるから、若夫婦の一家は近所の者も
羨やむほど
睦じかった。しかしこれもほんの束の間、
後でだんだん知れてみると、この男というのは性質の
頗るよくない奴で、女房を変えること畳を変えるが如きほどにも思っていない、この娘が
丁度三人目だとの事、それもこれも
最早後の祭りで既に遅い、男はそろそろ
妻に秋風が吹いて来た、さあ、こうなると、こんなつまらない女房は無い
家へ帰ってもつまらないと、会社からすぐ茶屋へ
廻るという
有様で、始終
家を外の
放蕩三昧、あわれな
妻を一人残して家事の事などは
更に
頓着しない、
偶に帰宅すれば、
言語のいい
様箸の
上げ
下ろしさては
酌の仕方が
悪るいとか、琴を弾くのが気にくわぬとか、打ち
打擲はまだしもの事、
或時などは、
白魚の様な細指を引きさいて、赤い血が流れて痛いので
妻が泣くのを見て、カラカラと笑っていると云った様な実に
狂気じみた冷酷の処置であった。あまりといえばあまりの事、さりとて実家に帰ってこの苦痛を訴えて両親に心配させるのもこの女の出来ぬ事だし、
兼て自分とは普通
一片の師匠以上に親しんでおったので、
或時などは私の
許へ逃げてきて相談をした事もあった、私も
頗る同情に
堪えなかったが、別にこの縁談については中に立ったというわけでもなし、
旁々下手に間に入って口をきくと、
反て
先方から
怨まれなどした事もあったので、
恰も
向岸の火事を見る様に
傍で見ていて
如何する事も出来ず、
唯はらはらと気を
揉んでいたばかりであった。
そうこうする内に、これらの苦痛や煩悶がもとで前よりあった肺病が
一層悪くなって
終に娘はどっと床についた、
妻がこんな病気になったからとて、夫は別に医師にかけるではなし、結局それを楯に出て
行けがしのしうちをして、相変らず外遊びはやまなかった、娘の実家でも病気という事の
趣を聞いて早速実母が看病にと泊りに来た、するとあろう事かあるまい事か、夫も夫なら母も母だ[以下、二十二字分の伏字あり]
人面獣心のこの二人は、今かかる病床に苦しんでいる娘の
枕許で、[以下、十字分の伏字あり]け散らしていた。
嫁入の時に持って来た
衣服道具などはいつしかもうこの無情な夫の
遊蕩の
費となって失われておった。私も
兼て病気と聞き
見舞に
行きたいと思ったが、何をいうにも前述の如き
仕儀なので、
反て娘の
為めに
見舞にも
行けず蔭ながら心案じていたのである、
幸に心やさしい
婢女の看護に、いくらか心をなぐさめられて、おしからざる命を生きながらえていました。
左様、床には四ヶ月も居たろうか、すると驚いたのは母が現在自分の夫[以下、四字分の伏字あり]した事である。
床中に
呻吟してこの事を知った娘の心は
如何であったろう、
彼女はこれを
聞てから
病も
一きわ
重って、忘れもしない明治三十八年八月二十一日の夜というに、
終にこの薄命な女は、呪うべき浮世を去ったのである、さすがの夫もまさかこの夜は
傍に居たかと思いの外、この夕方女は
咯血をして、非常に衰えていたのを見知っていながら、夫は母と共に外出して
夜更けても帰って来ない、もう病人は昏睡状態に
陥って
婢中の
腕に
抱れていたが、しきりに枕の下を気にして口をきこうとして唇をかすかに動かせども、もう声が出ない、またもやしきりに
烈しく血を吐いたが
遂にそのまま
睡るが如くに息は絶えた。間もなく二人は帰って
吃驚したがそれ程にも悲しい様子でもない、
早速実家の父親へ
使を走らして、飛んで来た父親だけはさすが親子の情ですくなからず、悲歎の涙にくれていた、前に云うのを忘れたがこの母に比して父という人は評判の好人物であったのだ、
婢女の
談で
兎に
角気になるから
皆に
立合った
蒲団の下を見ると、はたせるかな、二通の遺言状が出た、
何時書きしものか
解らねど、ふるえた
手跡に鉛筆での走り書きで一通は、師匠の私へ宛てた
今日までの普通の礼を述べた手紙で、
尚一通のは
即ちこの父親に残したものであった、これは長いものだったが要を
摘んで
談せばまあこうである。
妾は頼みなき身をこのたより少なき無情の夫の家にながらえいる、
最早妾の
病も
到底治ることもあるまい、親たる父に
未だ孝の道も
尽さずして先だつ不孝は
幾重にも済まぬがわたしは一刻も早くこの苦しい
憂世を去りたい、
妾の死せる
後はあの夫は、あんな人
故死後の事など何も
一切関わぬ事でしょう、また葬式
一切の費用に関しても、
最早自分の衣類道具も片なくなっている
際でもあるし、
如何な事をするかも知れない、が
妾は死しての
後はあの安らかな世に
行く様せめては一本の
香烟を立ててもらいたいが、それも一度実家を
出でてこの家の妻となりしものが、死せる
後再び父なる人の御世話になるのは、しに
行く我心にとって誠に心よくないから、実は
妾にとっては何とも心もとないことだが時節なれば
致方ないと諦めて
過日は日頃
愛玩の琴二面を人手に渡して、ここに金が六十円出来た、老いたる親に思いもよらぬ
煩をかけて先だつ身さえ不幸なるに、死しての
後までかかる御手数をかけるは、何とも心苦しいが、
何卒この金を
以て、
妾の身は
貴下の手から葬式をして一本の
御回向を御頼み
申ます。
憶出せばこの琴はまだ
妾が先生の塾に
居った時分
何時ぞや
大阪に催された演奏会に、師の君につれられて行く時、
父君が
妾の初舞台の
祝にと買い
賜われたものだ、
数千人の聴客を
以て満たされた、
公開堂の壇上、華かなる電燈の下で、満場の聴衆が
喝采の内に弾きならしたはこの琴であります、またこの一
面は過ぎし日
妾が初めて、
自宅にて教授をする時に
妾の
僅かなるたくわえにて
購いしもので、二面共に
妾にとっては忘る
可らざる
紀念の品である、のみならず、この苦しく悲しき
長の月日のこの
中外を慰めたのもこの品、
仮令妾には
数万金を積むとてかえがたき
二品なれど、今の
際なれば是非も一なく、惜しけれど、
終に人手にわたす
妾胸中は
如何ばかり淋しき
思のするかは
推したまわれ、されど、たとえ人手に渡さばとて、やがてこの二面の琴は、師の君が同門の人に
由りて
購わるることを保証します。自分は今この
二品の
琴樋の裏に貼紙をなして
妾の日頃
愛玩せることを記しおきければ、やがて、その人に
由りて、これを知らるるでありましょう、これは今より
確言をしておきます
······ 他に
未だ何か記してあったが、遺書の大体の意味はこういうのであった。
談変って、私は
丁度その八月十九日に出発して、当時は京都から故郷なる
備中連島へ
帰省をしていた
薄田泣菫氏の家を
用向あって訪ねたのである、そして、同氏の家に三日ばかり滞在していた、ところが、その
廿一日の夜には、氏の親戚を初め近隣の人々を集めて、或る場所で自分の琴を聴かした、十時少し前後演奏が終りて、私は同氏の家へ帰って泣菫氏と共に、枕を並べて
寝に
就いた、
すると
恰も十二時過ぎたかそれとも十二時頃だったか、私の寝ていた
傍の
床の
間に立て懸けておいた、琴が突然音を立てて鳴り出したのである、泣菫氏は
最早よく寝ていたので、少しも知らぬ、室内には、
薄燈がついていたので、私は驚きながらも枕から
頭を
擡げて、
何れの糸が鳴るのかを、たしかめんとしたが、解らない、その間は
僅三分ぐらいであったろう、
如何にも物凄い音をしてブーンと、余韻を引いて鳴っていた、
勿論夜が
更けている
故、戸も立ててあるし、風などがそう入るわけがないが、静かな
室の内に沈んだ音をしてなったのである。自分は
未だ
空鳴という事を経験した事がなかったので、これが俗にいう、琴の
空鳴というものだろうと思ったが、それなり演奏の
疲労れで
何事もなく
寐てしまった、翌朝に目を覚まして泣菫氏にも、この
由をはなしたのである、同氏の家には
後二日ばかり
厄介になって、私が京都に帰ったのは、
即ち
廿三日の昼であった、家へ帰って、聞くとその娘は
廿一日の夜に死んだ、今日が、
恰度葬式だとの事、
段々その死んだ刻限をきき合わしてみると、自分が聴いた
箏の音の刻限とぴったり合うので、私は思わず
身震をしたのであった、それから
早速自分も
駈けつけて葬礼の式に加わって、まず無事に
万端終ったのである。
それからやがて六ヶ月ばかり
経って、翌年の二月だったが、私の塾の女門弟が
箏がほしいという、古いのでもいいというので私は
早速琴屋を呼んで、幾面も
取よせて
色々のと検定して中から一番気に入った品を
周旋してやった、ところが不思議にもその品は
曾て見た事がある様な気がする、もしやと、
箏樋の裏を見ると
吃驚した、
即ちその貼紙を発見したのだ、買った娘は、
恰も何か白羽の矢が自分にでも当ったかの如く思って、ワッとばかり自分の前に泣き伏した、自分は
色々と
慰めて、
漸く安心させたが、今もその娘が愛用している。
するとまた、四ヶ月ばかりの
後のことだ、私の講習所の支部を大阪に置いてあったがそこへ出稽古に行ったところ、一人の門弟が
古箏を持って来て、自分に見てもらいたいというのである、これも、きたいに見覚えのあるので、もしやとまた
箏樋の裏を
検捜べると、二度
喫驚、それが、
即ち、
他の一面の方である、偶然といえば偶然の事だが、何とあまりに不思議な事ではないか、ものの一年になるやならずして、しかも、死んだ女の
言の
如く、同門生の手に、この二面の
箏が渡ったとは、実にこの上ない不思議ではないか、人の思いは
恐怖しいとは
兼て聞き及ぶが、
箏の凄いものだという事と関係して、私は、よく知人に
談す物語である。