これは狐か狸だろう、
矢張、
俳優だが、
数年以前のこと、今の
沢村宗十郎氏の門弟で
某という男が、
或夏の晩
他所からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく
馬道の通りを急いでやって来て、さて
聖天下の
今戸橋のところまで来ると、
四辺は一面の
出水で、
最早如何することも出来ない、車屋と思ったが、あたりには、人の影もない、橋の上も一尺ばかり水が出て、
濁水がゴーゴーという音を立てて、
隅田川の方へ
流込んでいる、
致方がないので、
衣服の
裾を、思うさま
絡上げて、何しろこの急流
故、流されては一大事と、犬の様に
四這になって、折詰は口に
銜えながら無我夢中、一生懸命になって、「
危険危険」と自分で叫びながら、
漸く、向うの
橋詰までくると、
其処に白い着物を着た男が、一人立っていて
盛に笑っているのだ、おかしな奴だと思って
不図見ると、
交番所の前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「
一体今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、
出水で
到底渡れないから、こうして来たのだといいながら、ふと
後を
振返って見ると、
出水どころか、道もからからに乾いて、橋の上も、
平時と少しも変りがない、おやッ、こいつは一番やられたわいと、手にした折詰を見ると、こは
如何に、底は
何時しかとれて、内はからんからん、
遂に大笑いをして、それからまた師匠の
家へ帰っても、
盛に
皆から笑われたとの事だ。