私が
北豊島郡染井の
家に移ったのが、明治三十五年の春であった。何しろ
滅法安値い家で、立派な
門構に、庭も広し、座敷も
七間あって、それで家賃が
僅かに月三円五十銭というのだから、当時まだ
独身者の自分には、願ったり
適ったりだと喜んで、
早速その家に転居をすることに
定めたのであった。
一寸その家の模様を
談してみると、
先ず
通路から、五六階の石段を
上ると、昔の
冠木門風な表門で、それから右の方の玄関まで行く間が、
花崗石の敷石
伝い、その間の、つまり表から見ると、門の右側の方に
武者窓のような窓のついている長屋が三軒あって、それも
凡てこの家に附いているのだ、この長屋というのは、
何れもこれも、
最早長年人の住まわなかったものか、
床も壁も、ぼろぼろに
頽れて、戸をあけて内へ入ると、一種嫌な臭気がプーンと鼻をつく、それ
故以前に居た人なども、物置にでもつかったものらしい形跡がある、こんな風に、三軒が皆
行き
通しのようになっていて、その
中央の家の、
立腐れになってる畳の上に、木の
朽ちた、
如何にも怪し気な
長持が二つ置いてある、
蓋は開けたなりなので、気味
悪る
悪る
内を
覘いて見ると、別に何も入っていないが、その
辺には
真黒な
煤が、
堆く
積っていて、それに、木の
片や、
藁屑等が、乱雑に
散かっているので実に目も当てられぬところなのだ、それから玄関を入ると、
突当りが台所、そのまた隣の
間というのが
頗る怪しいものだ、何しろ四方が
凡て
釘付になって
不開の
間ともいった風なところなので、
襖戸の隙から見ると、道場にでもしたものか、十畳ばかりの板敷で、薄暗いから何となく物凄いのだ、その
傍の細い
椽側を行くと、茶席になるのだが、その
間の
矢張薄暗い
椽側の横に、奇妙にも、仏壇が一つある、その左手のところは、
南向に庭を眺めて、玄関の方からいうと、六畳に四畳半に十畳というように
列んでいる、その十畳というのが、客座敷らしい、私は初め
其処を書斎にしてみたが、少し広過ぎるので、次の四畳半に移った、六畳の方は
茶の
間に当てたのである、転居した当時は、私の弟と
老婢との三人であったが、間もなく、書生が三人ばかり来て、大分
賑かに
成った、家の内は、
先ずこんな風だが、庭は
前云った様に、かなり広いが、これも長年手を
入らぬと見えて、一面に
苔が
蒸して、草が生えたなりの
有様なのだ、それに座敷の正面のところに、一本古い桜の樹があって、
恰も
墨染桜とでもいいそうな、太い高い樹であった、
殊に茶席の横が、高い杉の木立になっていて、
其処の
破れた生垣から、隣屋敷の庭へ行けるのだ、ところが、この隣屋敷というのが
頗る妙で、屋敷といっても、
最早家はないのだが、
頽れて今にも
仆れそうな便所が一つ残っている、それにうまく
孟宗竹の太いのが、その屋根からぬっきり
突貫けて出ているので、その
為めに、それが
仆れないで立っているのだ、その
辺は、その
孟宗竹の藪のようになっているのだが、土の崩れかけた
築山や、欠けて
青苔のついた
石燈籠などは、
未だに残っていて、以前は
中々凝ったものらしく見える、が
何分にも、ここも同じく、人の手の
入った様子がないので、草や
蔓が
伸放題、入って行くのも
一寸気味が
悪るいほどであった。
移って当座は、別に変った事もなかったが、その頃私は常に夜の帰りが遅いので、よく弟や老婆の云うのは、十二時過ぎた頃になると、門から玄関へ来て敷石の上を、カラコロと下駄の音がして人でも来たかのような音がすると云うので、これは
屹度、自分に早く帰らそうとしての事だと思っていたが、
強ち、そうばかりでもなかったらしい、何をいうにもこんな陰気な家で、例の薄暗い仏壇の前などを通る時には、私にもあまり
好い気持がしなかったが、
何分安値くもあるし、
賑かでもあったので、ついつい
其処に居たのであった。
すると、秋の
或月の夜であったが、私は書生一人
伴れて、共同墓地の
傍に居る
知己の家を訪ねた、書生はすぐ私より
先きに帰してしまったが、私が
後からその家を辞したのは、かれこれ十一時近い頃であった、
何分月が
佳い晩なので、ステッキを手にしながら、ぶらぶら帰って来て、表門へ廻るのも、面倒だから、
平常皆が
出入している、前述の隣屋敷の裏門から入って、竹藪を
通抜けて、自分の家の庭へ出ようとした、
四隣は月の光で昼間のようだから、決して道を迷うはずはなかろうと、その竹薮へかかると、突然
行方でガサガサと
恰も犬でも居るような音がした、
一寸私も驚いたが、何かしらんと、
月光を透して
行手の方を見詰めると、何も見えない、多分犬か狐の
類だろう、見たらこの棒でくらわしてやろうと、注意をしながら、四五歩前に出ると、またガサガサ、
此度は
丁度私の家と隣屋敷との境の生垣のあたりなので、少し横に廻って、こっそりと様子を
窺うと、
如何も人間らしい姿が見えるのだ、こいつは、てっきり
盗賊と思ったので、
思切り大声を
張上げて「誰だ!」と
大喝一声叫んだ、すると
先方は、それでさも安心した様に、「先生ですか」というのだ、私はその声を聞いて、「
吉田君かい」というと、「はい、そうです」
答えながら
先方は
此方を向いて来て、二人が近寄ってみると、
先刻帰した書生なので、「君は、
一躰如何したのだ、僕は
盗賊だと思ったよ」と笑いながら云うと、吉田は実に不思議だといったような顔をして、「先生、僕は今実に
酷い目に会いましたよ」と云いながら語るのを聞くとこうだ。
先刻、八時頃先方の
家を出て、
矢張この隣の裏門から入ったが、何しろこんな月夜でもあるし、また
平常皆が
目表に竹の枝へ
結付けた白い
紙片を
辿って、茶席の方へ来ようとすると、
如何したのか、途中で道を失って、
何時まで
経っても出られない、
何処をどう歩いたものか、この二時間あまりというものは、草を分けたり
蔓に
絡ったりして、無我夢中で道を求めたが、
益々解らなくなるばかり、
偶然先方に座敷の
燈が見えるから、その方へ行こうとすると、それがまた飛んでもない方に見えるので、
如何しても方角が考えられない、ついぞ見た事のない、
谿谷の崖の上などへ出たりするので、自分では
確に気は付いていたようだが、
急れば
急るほど解らなくなって、
殆んど当惑していると、突然先生の声がしたので、初めて安心しました、と息をはずましながら
談して、顔の色も
最早真蒼になっていたので、二人ながら
大笑しながら、それからは無事に家に帰ったが、
如何にも、この
家というのは不思議な所で、
後に近所で聞いてみると、
怪物屋敷という評判で、人が決して
住まわないとの事だった、その
怪物の出る理由に
就ては、人々のいうところが皆
異っているので
取止めもなく、解らなかったが、その
後にも、また
他の書生がこんな事に出会ったりなどして、
如何にも気味が
悪るかったから、
安値くってよかったが、とうとう御免
蒙ったのであった。